白の化物
読みやすさを考慮して、今回から台詞の前後を改行して表示することにしました。
『――さて、お前は“我が君”なのか?』
不気味な赤い眼で見下しながら、そう訊いてきた化物。
問い意味が俺には分からない。だが、その場の様子からして、とてもそう言える状況ではない。
どう答えるべきか悩んでいると、化物は馬鹿にするような哄笑を上げた。
『…愚問だったな。お前が“我が君”のはずがない。どこからどう見ても、お前は人間だ』
ギチギチという不快な音が辺りに響く。これがあの化物の鳴き声なのだろう。
――どこからどう見ても、俺が人間だと…?
俺は、化物の言葉に疑問を感じた。
外見のことなら、緑新の姿だってどう見ても人間だ。もし彼女が最初からあの姿だったなら、俺は彼女を人間だと思っただろう。
“マヤカシ”には本当の姿などないと言っていた。ならば、彼らはどうやって同族を見分けているのだろう。
化物はひとしきり笑うと、鋭く尖った前足を近づけて、こう言った。
『人族の子よ、その娘を渡せ。今渡せば、今回だけは見逃してやってもいいぞ』
その言葉を聞いて、俺は瞬時に気持ちを切り替えた。最初から確信していたが、こいつは緑新と違って、明らかに少女を狙っている。あの黒い犬達と同じく、俺から少女を奪いに来たのだ。俺は化物に向ける視線に殺気を含ませる。さらに、少女を抱えた手に力を込めた。
それを見た化物はスッと目を細めて口元を歪めた。おそらく笑っている。
その時、とんっと軽い音がして、目の前に緑新が落ちてきた。そして、俺達を庇うように両手を広げる。
『……一応聞いておくが、上月達を殺したのはお前か?』
『いいえ、違うわね』
何の話をしているのか分からないが、緑新がそう言うと、化物は驚いたような声を上げた。
『 では、その人間が殺したのか?』
『…私は何も見てない』
緑新がそう答えると、再び化物がギチギチと笑う。
『それはそうだ。あそこはリオ様の縄張りだ。お前が入れるわけがない。…そうか。その人間が上月達を、ね。これは楽しめそうだ』
『彼らに手出しはさせない』
緑新は強い意思の籠った“声”を発した。
化物はその言葉を予想していたらしく、まったく動じなかったが、俺は驚いた。
――何故、彼女が俺達を庇う?
理由が分からない。
彼女の言葉を信じるなら、“マヤカシ” は個々に縄張りを作って生きる種族のはずだ。となると“マヤカシ”同士で仲が良いとは限らない。縄張り争いでいがみ合うことの方が多いのかもしれない。
だから、彼女がこの化物のマヤカシに対して敵意を向けるのは理解できる。だが、何故俺達を庇うのか、その必要性が感じられない。
――人間に興味があるからか? 人と仲良くしたいと言っていたが、それが理由か?
俺が思考を巡らせていると、化物が“声”を発した。
『なら、お前は俺と戦ってみせるのか?』
挑発的な言葉。それと同時に、化物は鉤爪状の前足を緑新に向けて振り下ろした。緑新は避けることもなく、それを見ている。
どんっと空気が震えた。
『…さぞかしいい気分だろうなぁ、自分を人間だと思い込むことは。出来ることなら人間に生まれたかったと思いながら、毎日震えて生きているのだろう?』
ギチギチという不愉快な笑い声と、侮蔑を含んだ声が響く。
『……』
振り下ろされた化物の前足は、緑新が無言で受け止めていた。
彼女は身の丈ほどの前足を両手で押し留めている。その表情は背を向けているため、こちらからは見えない。
『我らの誇りを亡くした、哀れな同胞よ。そうまでして、生き延びたかったのか?』
化物の声からは侮蔑と皮肉の意が感じられた。
『――それは違うわ』
『…ほう?何が違う?』
『私は、自分を人間だと思ったことなんて、一度もない』
『へぇ?』
『人間になりたいと思ったこともない』
緑新の声には迷いがない。思ったことをそのまま伝えようとしている。
『ならば何故、そんな姿をしている?それは人間の姿だ。お前の噂も聞いている。かつてお前は人間と交流を深め、人間の文化を学ぼうとしたそうだな。人間になるためのお勉強というやつだろう?』
『違う。私が、――人を好きだからよ』
凛とした響きが届く。緑新は化物に向かって言い続ける。
『私は人が好き。私達に匹敵する知能がありながら、私達とは違う価値観や文化を持っている彼らがとても興味深くて、面白くて、愛おしくて――大好きよ。そう思えるのは、私が人じゃないから。私が人だったなら、私はきっと今のように人を好きになることはなかったわ』
『私は、マヤカシである自分を否定したりしない。マヤカシとして生まれたことは、私の誇りよ』
相変わらず、彼らが何の話をしているのかよく分からない。けれど、自分を肯定してみせる緑新を見て、俺はまた、言いようのない不快感を覚えた。
彼女の言葉は眩しくて――とても憎らしい。
『…ならば、お前は我らの誇りを亡くしていないのだな?』
『ええ』
『だったら、お前は我らの側なのか?』
『――違うわ』
言うより早く、緑新は押さえていた化物の前足を放り投げた。そして、流れるような動作で跳び上がり、化物に蹴りを叩き込む。
象ほどの大きさのある化物が、その蹴りを喰らって吹っ飛ぶ姿はなんとも凄まじい光景だった。
蹴り飛ばされた化物は、ばしゃんという大きな水音を立てて、泉の中に落ちる。
『私はマヤカシである自分が好き。だけど、貴方達のことは大嫌い』
緑新は化物が落ちた泉を見つめながら、吐き捨てた。
外見こそ恐ろしげな化物だったが、人間の姿をした緑新の蹴りをたった一撃受けただけで、こうも簡単に吹き飛ぶとは。
あの化物からは、かなりの気迫と強さがあると感じられたのだが、緑新の力はその上を行っていたということだろうか。
――だが、あまりにもあっけない。
緑新もそう感じているのか、彼女はこちらに背を向けたまま微動だにしない。
『…貴方がそんな簡単にやられるわけないでしょう。いつまでそうして隠れているつもりなの?』
そう言って緑新は泉を睨む。
温泉である泉の水(お湯だが)は元から白っぽく濁っているので、上から覗いただけでは化物の姿が見えない。
だが、化物の身体がすっぽり隠れてしまうほどの深い泉ではないはずだ。意図的に隠れているにしても、無理がある。
緑新も、それには気が付いているはずだ。彼女は警戒しながらも、泉に一歩近づいた。
しかし、突然こちらを振り返って叫んだ。
『…――っ、下がりなさい!!』
それとほぼ同時に、足元の地面から白い棒のようなものが飛び出した。
「!?」
それが何なのか分からなかったが、反射的に退こうとした。けれど、何故か足が動かず、バランスを崩してつんのめった。
その時、抱えていた少女の手を離してしまった。慌てて抱え直そうとしたが、今度は両手が動かなくなり、そのまま少女を地面に落してしまう。
「……!!」
俺はその時、少女の名前を叫びたかった。
けれど、俺は彼女の名前を知らない。だから――、叫びようがない。
地面に投げ出された少女は起き上ろうとしない。
本当ならすぐにでも少女を抱え起こしたかったが、両手両足が動かない。
「…っ、なんだこれ」
俺はようやく気が付いた。
自分の身体に巻きついている白いモノの存在に。
ギチギチという不快音が、間近で響く。
『うかつだった、貴方がそんな姿を持っているなんてね』
緑新が動揺した様子で、こちらを見ていた。
そして、気が付く。自分に巻きついている白いモノの正体が何なのか。
『さて、人間。上月達を殺した時のように、俺の相手をしてくれるかな?』
耳元で囁かれた声は、実に不愉快な、化物の声だった。
バトルシーンを読むのは好きだが、書くのは難しいと判明。
この辺りから長い説明パートに入るので、話をまとめるためにしばらく更新停滞します。
それでも気長に待ってくれると嬉しいです。