青の女
俺は、少女を連れて森を歩いていた。
彼女はずっと黙ったままだったので、俺も自然と無言になった。
「…そこ、樹の根が盛り上がっている。転ぶなよ」
声をかける時といえば、こんな時くらいだ。けれど、少女はそれを聞いているのかいないのか。上手く避けてくれることもあれば、平然と進んでいくこともある(当然、そうなると転ぶ)。どうやら、彼女の認識能力にはムラがあるようだ。同時に、感情に関しても。
普段は人形のように無口無表情なのに、突然、何かに反応して感情を見せる。その切っ掛けは今のところよく分からない。
それはともかく、この雰囲気ははっきり言って暗い。
ただでさえ陰鬱とした森の中にいるというのに、無表情な少女と、暗い顔をした少年が二人して無言で歩いている光景はある意味ホラーだ。そう思うとますます気が滅入る。
少女の手を引きつつ、俺はちらりと彼女の顔を見た。そこにあったのはもう慣れてしまった無表情。しかもそれを見て残念に思うどころか、俺は少しホッとしていた。
もしもそこにあったのが、嫌悪の表情だったら。俺がしたことを思えば当然だが、そう考えるだけで恐ろしい。
けれど、例えそんな表情をしていても、俺はこの少女を手放すつもりはないのだろう。自分のことながら、何故こんなにもこの少女に執着するのか分からない。
――……一目惚れというやつなのだろうか。
そう思ってすぐに俺はその考えを否定した。
俺は一目惚れというものを全く信じていない。一目見ただけで誰かを好きになるなんて、そんなもの、勘違いの思い込みに決まっている。
「――?」
何かの気配を感じる。じっと見られているようだが、危険なものではないだろう。殺気が感じられない。けれど、姿が見えないのが気にかかった。試しに声を上げようとしたその時、上の方から声が聞こえた。
『…この森で人を見るなんて何年ぶりかしら。“我が君”の威光もとうとう衰えたのね』
ばさばさという羽ばたきのような音も聞こえる。
音のした方向に目をやると、木の枝に青色の小さな鳥がとまっているのが見えた。
「…小鳥か」
呟くと、小鳥は嬉しげにチチチッとさえずった。
『こんにちは人間さん』
「……」
返事をするべきか迷った。今までの経験から考えて、この小鳥がいきなり襲いかかって来てもおかしくない。それに、なんだろう、この違和感は。小鳥がしゃべり始めてから、妙な違和感があった。
『……もしかして、私の“声”聞こえてないのかしら。もしもし?』
なかなか返事をしないので、小鳥は困っているようだ。表情は鳥なのでよく分からないが、何故かそんな気がした。
「…聞こえている」
『あら、そう。良かった』
チチチッと小鳥が鳴く。
――まただ。この鳥の言葉には何か変な感覚がする。
そう思った時、俺は少し前にもこの感覚を感じたことに気が付いた。
――先ほど襲ってきた、黒い犬がしゃべった時。
あの時も、今感じているような違和感を覚えた。その時はそれどころじゃない気持ちだったので、気に留めることはなかった。
『貴方もしかして、私達の“声”を聴くのは初めてかしら?』
小鳥は俺を見つめて、突然そんなことを言った。
「何?」
『違うの?』
小鳥が首を傾げるような仕草をする。
「……どうかな」
小鳥の言葉に適当に答えつつ、俺は違和感の正体が気になっていた。俺が違和感を覚えたのは、この小鳥と、黒い犬がしゃべった時だ。
“動物が人の言葉を話している”、という驚くべき事実はいまさらだ。違和感の理由はそれじゃないと思う。というより、俺は“こっち”に来てから、人の言葉を話さない動物に出会ったことがない。“こっち”ではそれが普通なのかと思ったくらいだ。
――例えば、社に近づいた時に襲ってきた三匹の蛇。
初めに相対した時は、大きさ以外はごく普通の蛇なのかと思ったが、彼らは俺に『人の一族が、どうやってこの地に入った?』と訊いてきた。
蛇がしゃべったことにただ驚いていた俺は、その問いに返事ができなかった。
そんな俺に向かって、彼らは突然襲いかかってきたのである。そのあとは、蛇たちが話しかけてくることはなかった。俺に殺されるその時まで。
だから次に動物がしゃべるのを聞いたのは、黒い犬に囲まれたあの時だ。
まともな会話こそしなかったが、あの犬も人の言葉を口にしていたはずだ。
しかしそこで、変な疑問が浮かんだ。
――……本当にそうだったか…?
――あの犬達は本当に人の言葉をしゃべっていただろうか…?
何かに気が付きそうだった。しかしその時、
『ねぇ、どうしたの?大丈夫?』
小鳥の言葉ではっとした。思案に耽り過ぎた。
「ああ、大丈夫だ」
『そう?ならいいのだけど。それはそうと、見たところまだ若いみたいだし、この森へ来たのは初めてよね。みんなが積極的に話しかけることは少ないと思うし、貴方に“声”をかけたのは私が初めてかと思ったんだけどね』
小鳥がチチチッと鳴いて、羽をばたつかせた。
その様子を見て、俺はようやく違和感の正体に気が付いた。
――ああ、そうか。この鳥はさっきからチチチッとしか言っていない。人の言葉なんて一言もしゃべってないじゃないか。
「テレパシー…みたいなものか」
ぼそっと呟くと、小鳥が目を瞬いた。(今気が付いたが、小鳥は緑色の眼をしていた)
『何か言った?』
「いや、なんでもない」
――多分、間違ってない。小鳥の“声”は、脳に直接響いているような感じがする。これが違和感の正体だ。彼らは口ではなく、テレパシーのようなもので声を出している。
蛇の時は驚きが勝っていて気が付かなかったが、犬に感じていた違和感の正体もこれだろう。
『…ところで気になっていたのだけど、その女の子…』
その言葉に俺は内心で警戒する。少女の手を強く握った。
彼女は俺がしゃべっている間もずっと無言だった。小鳥と話している間もちらちらと気にかけていたのだが、特に何の反応もなく、おとなしくしていた。
それはともかく、小鳥は急に少女に話を振ってきた。気のないそぶりを見せていたのに、やはりこの小鳥も少女を奪いにきたのかと身構える。
『貴方さっきからその娘の事ばかり見ているんだもの。何か心配事でもあるのかと思ったら、それって包帯よね?怪我しているんじゃない?』
「あ、ああ…そうみたいだ」
『そうみたいって、分からないの?』
「彼女とは昨日会ったばかりだ。包帯はその時からしていた」
『そうなの?てっきり旅の連れかと思っちゃった。じゃあ、包帯も全然換えてないのね』
「ああ、持ち合わせがない」
『それは困ったわね。怪我の程度がどのくらいかも気になるし、包帯を換えないと良くないわ』
「…そうだな」
――杞憂、だったのだろうか。この鳥は少女を奪いに来たわけではなく、偶然俺達と出くわしただけなんだろうか。
『私が換えてあげてもいいかしら?』
「え?」
『包帯なら、多分私が持ってるから。巻き方も知ってるし、大丈夫だと思うの』
「あんたが?包帯を?」
あからさまに不審そうに疑問符を浮かべてやる。
小鳥が包帯を持っているなんて、変だろう。自分で使うとも思えないし、そもそもどうやって包帯を巻く気だ?翼はもとより、あの小さな足で包帯を巻けるわけがない。
表情から俺の心情を悟ったのか、小鳥はふふんっと自慢げに羽を広げて見せた。
『もちろん私には無用なものよ。だけど、私は以前から人間の文化に興味があってね。いろいろ集めるのが趣味なのよ』
それは分かったが、包帯を巻くのは無理だろう。人間のような手を持っていない小鳥には。
『私の住処に招待してあげるわ。ついてきなさい』
小鳥はそのことに気が付かないのか、平然と話を続けている。俺がいるのだから、包帯さえ手に入れば問題ないけれど。
『じゃあ、行きましょうか』
そう言うと、小鳥は枝から飛び立った。そのままどこかへ飛んでいくのかと思いきや、小鳥はふわっと地面に降り立った。
――人間の姿で。
「…なっ!」
『ふふふ、私だって“転変”くらいできるのよ』
そこにいたのは、青い髪に緑眼の、青白い肌の妖艶な女性だった。
少女の影が薄い。
しかし彼女はそこにいます。