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前書き

私の名前は田中宏。42歳。三藤商事総務部勤務。役職なし。年収380万円。


社会的地位は、ほぼ透明人間だ。




これは自虐ではない。これは、私という人間の人生に対する 告発状 だ。




朝5時。私は今日も、決まった時間に目を覚ました。


布団から抜け出し、洗面所で顔を洗い、台所に立つ。




冷蔵庫を開ける。卵、牛乳、昨日の残りご飯。


私は黙ってフライパンを火にかけ、玉子焼きを焼き、味噌汁を温め、弁当箱に鮭のおにぎりを詰めた。


これが、この家での私の役割だ。誰からも頼まれていないが、誰もやらないから、私がやる。




妻の明子(38歳・大手銀行支店長補佐)は、まだ寝室にいる。


息子の雄輝(15歳・有名進学校受験生)は、リビングでスマホをいじっている。




私は食卓に朝食を並べた。


誰も「おはよう」と言わなかった。




雄輝が自分の前に置かれた弁当箱を一瞥した。蓋を開け、中を確認し、無言で押し戻す。




「また鮭のおにぎりかよ。飽きた。友達はみんなコンビニの弁当なのに」




「ごめん、雄輝。今月末には父さんも――」




「いいよ。もう食いたくない」




彼は立ち上がり、鞄を掴み、振り返らずに玄関へ向かった。


ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。




弁当箱は、手つかずのまま机の上に置き去りにされた。




明子が階段を下りてくる。


パリッとしたスーツ、完璧なメイク、シャネルの香水――去年、私が誕生日に贈ったものだ。


買うために、会社の経費を少しだけ借りたことは、彼女は知らない。




彼女は私を一瞥した。そして、弁当箱を見た。




「また、あの子を不機嫌にさせたの?」




「いや、俺はただ――」




「もういいわ。今夜は遅くなる。顧客とのパーティーがあるの。あなたたちで適当に済ませて」




「私たち」――そう言った。


まるで、私と雄輝が彼女の重荷であるかのように。




彼女はそれだけ言い残し、ドアを閉めた。


その音は、さっきよりもさらに重かった。




私は一人、静まり返った台所に立っていた。


雄輝が残したおにぎりを手に取り、ひとりで食べた。


噛めば噛むほど、味がしなくなった。




会社に着いたのは7時30分。


私は誰よりも早くオフィスのドアを開け、電気をつけ、コーヒーメーカーを動かす。


これは私の仕事ではない。だが、20年間そうしてきた。


新人の頃から、先輩たちにこき使われながら、ずっと。




「田中さん! 今朝の会議資料、まだですか?」




「田中! 先月の経費報告、チェック済み?」




「田中さん、コーヒー薄いよ!」




私は全てに笑顔で答えた。


笑顔は、もはや条件反射だった。


拒否することを忘れた人間の、形だけの笑顔。




昼休み。食堂の隅で、ひとり弁当を食べる。


周りは笑い声で溢れているが、誰も私の隣に座らない。


誰も話しかけてこない。




彼らを責める気はない。


私はつまらない男だ。面白い話もできないし、誇れる実績もない。


ただ、そこにいるだけの中年だ。




午後、後輩の斉藤健二が私の机に駆け寄ってきた。


32歳。ハンサムで有能。出世コースをまっすぐに歩んでいる。




「田中先輩! 助けてください!」




「どうした」




「朝川グループとの契約で…積算データにミスを見つけたんです。このまま部長に提出したら、僕、終わります…」




彼は両手を合わせ、今にも泣きそうな顔で懇願した。




「先輩、あなたしか頼れる人がいないんです。今夜だけでいいので、見直してもらえませんか?」




私はため息をついた。


そして、言った。




「わかった。資料をくれ」




「ありがとうございます! あなたは命の恩人です!」




彼はそう言って、私の肩を強く抱いた。


私は彼の背中を軽く叩き、笑った。




そのときはまだ、知らなかった。


これが、私の人生を終わらせる始まりだということを。




夜11時。オフィスには私一人だけが残っていた。


健二の資料は思ったより膨大で、私は一つひとつの数字を丹念に確認した。


誤りは見当たらなかった。正常だ。だから私は、最終確認者として署名し、部長に提出する準備を整えた。




そのとき、スマホが震えた。




明子からだ。




「今夜は帰らない。友達の家に泊まる。明日は早く帰る」




私は長い間、その画面を見つめていた。


何も返さず、電源を切った。




「友達」が誰なのか、問いただす勇気はなかった。


いや、もうずっと前から知っていたのに、見て見ぬふりをしていただけだ。




私は報告書にハンコを押した。


そして机に突っ伏し、真っ暗なオフィスで眠りに落ちた。




翌朝、私は怒号で目を覚ました。




「田中――――――!!!」




部長の中村が、私の目の前に立っていた。


顔は真っ赤で、書類の束を握りしめている。周りには総務部の全員が集まっていた。




「あ…なにかありましたか」




「よくも平然と言えるな! この書類を見ろ!」




彼は書類を私の顔面に叩きつけた。


それは、昨夜私が確認した朝川グループの積算報告書だった。




「この報告書は取締役会に直送されたんだ! 今朝、朝川グループから契約解除の通知が来た! 積算データを改ざんしたと! 被害額は5億円だ!」




全身の血が凍った。




「そ…そんなはずは…ちゃんと確認しました…」




「確認した?!」中村は嘲るように笑った。「ついさっき、斉藤からメールが来た。お前が故意にデータを書き換えたと。彼は警告したが、お前は聞かなかったと。証拠もあるそうだ!」




私は、その場に釘付けになった。




「違う…斉藤くんが…そんなことを…私はただ手伝っただけで…」




「斉藤はどこだ!」




人垣が割れ、斉藤健二が前に出てきた。


顔は青ざめ、目は潤んでいる。彼は震えながら私を指さした。




「田中先輩…僕は言いました。あのデータは修正できないって。でも先輩は『自分のやり方がある』って…僕は先輩を信じたのに…」




「何を言ってるんだ!」私は叫んだ。「頼んできたのはお前だ! 資料を渡したのもお前だ!」




「僕は渡してません!」健二が首を振る。「僕は先週、正式にシステムにアップロードしました! あなたが僕のPCに侵入して改ざんしたんです! ログイン履歴があります!」




彼が差し出したスマホの画面には、私のIDでログインした記録が映っていた。


時間は、昨夜の9時47分。




私は、すべてを理解した。




罠だ。


健二は最初から、私を嵌めるためにこの計画を立てていたのだ。




私は彼の目を見た。


そこに、後悔の欠片も、良心のひとかけらも見つからなかった。




「田中」




中村の声が、低くなった。




「お前を即刻解雇する。そして会社はお前を告訴する。警察はもう来ている」




私は、20年間毎日通ったオフィスで、同僚たちに囲まれながら、何も言えずに立っていた。


誰も、私をかばわなかった。誰も、私の目を見ようとしなかった。




わかっている。


彼らは怖いのだ。私のように、巻き込まれるのが。




私は警察が来るのを待たなかった。


静かに荷物をまとめ、マグカップと、黄ばんだ家族写真と、数枚の書類だけを鞄に詰めた。


そして、三藤ビルを出た。


かつて、私の人生のすべてだった場所を。




午後2時。家に着いた。


20年ぶりの早い帰宅だった。




しかし、鍵が開かない。


鍵穴が交換されていた。




私は玄関の前に立ち尽くした。


ベルを鳴らし、ドアを叩く。


やがて、明子が現れた。


スーツではなく、見慣れない部屋着。その後ろに、男物の革靴が見えた。




「…あなた、帰ってきたのね」




彼女の声は、冷淡そのものだった。




「明子…中に誰がいる」




彼女は答えなかった。代わりに、ポケットから書類を取り出した。


離婚届。すでに記入済みで、私の署名だけが空いていた。




「ずっと言おうと思ってたの。私と雄輝は、今からあちらの家に移るわ。この家は私名義よ。あなたは今日中に出て行って」




私は彼女を見つめた。


18年の結婚生活の記憶を、その目の中に探して。




しかし、何も見つからなかった。




「雄輝は…知ってるのか」




「知ってるわ。あの子は…もうあなたに会いたくないって」




胸を、刃物でえぐられたような痛みが走った。




私は15年間、あの子を育ててきた。


自転車の乗り方を教え、毎朝起こし、熱を出せば一晩中看病した。


そして今、その子は「会いたくない」と言う。




どれだけ立っていたか、わからなかった。


気づけば、明子はドアを閉めていた。




私は、かつて自分の家だった場所の前に、小さな鞄一つと、粉々になった心だけを持って、取り残されていた。




その日、私はどこを歩いていたのかも覚えていない。


気づけば、駅前の公園のベンチに座っていた。




雨が降り出した。


東京の秋雨は、骨の髄まで冷たかった。




傘を持っていなかった。


それでも、雨宿りをしようとは思わなかった。




スマホを取り出し、母に電話をかけた。


たぶん、この世界で唯一、まだ私を愛していてくれる女性に。




「もしもし? 宏?」




「母さん…」




「あなた、クビになったって本当?」




――情報は早い。




「ああ…俺は…」




「それで、次の仕事はいつ決めるの? 妹が家を買うって言っててね、あなたも少し出せるでしょ?」




私は、言葉を失った。




「母さん…俺は今、家も職も失って…」




「なに言ってるの! 明子が離婚するって? だったらなおさら早く立ち直りなさいよ! いつまでも落ち込んでる場合じゃない! 私が一人前に育てたんだから!」




電話を切った。




雨は、ますます強くなる。


私はそこに座っていた。全身ずぶ濡れで。




周りでは、東京の街がいつも通りに輝いている。


何百万人もの人々が、それぞれの人生を生きている。


そして私は、42年間生きてきた男が、たった一日で全てを失った。




自分に問いかけた。




――俺は、何を間違えたんだ?




誰よりも真面目に働いた。


家族のために尽くした。


他人を助け、決して拒まなかった。




なのに、最後に手に入れたものは、


裏切りと、蔑みと、見捨てられた事実だけだった。




私は目を閉じた。


涙は、もう出なかった。


ずっと前に、枯れ果てていたのだ。




クラクション。


私は目を開けた。




一台の大型トラックが、道路の上を滑るように突っ込んできた。


ヘッドライトがまぶしい。


ブレーキ音。しかし、路面は濡れている。




そして、そのトラックの正面、横断歩道の真ん中に、小学生の少年が立ち尽くしていた。




何も考えなかった。




体が動いた。




跳んだ。


少年を抱きかかえ、歩道へ押し出す。


少年は転んだが、無事だ。




私は、微笑んだ。




――その瞬間、ヘッドライトが私を飲み込んだ。




衝撃。


体が宙に舞う。痛みはなかった。


ただ、浮いているような感覚だけがあった。




地面に叩きつけられ、私は東京の夜空を見上げた。


雨が顔を打つ。けれど、もう寒さは感じなかった。




明子の顔が浮かんだ。


雄輝の顔。


健二の顔。


母の顔。




私の人生を通過していった、すべての人々の顔。




そして、悟った。




私はずっと、他人のために生きてきた。


「善人」でいれば、いつか報われると信じて。




しかし、それは間違いだった。




この世界は、そういうふうにはできていない。


善人は守られない。犠牲は報われない。




私は、ただ燃え尽きたのだ。




最後の一滴が、こぼれ落ちた。




その瞬間――魂の底から、何かが噴き上がった。




怒り。


あまりにも激しい、原初的な怒り。




「なぜだ」




「なぜ、俺がこんな目に遭わなければならない」




「なぜ、あいつらは生きていて、俺だけが死ぬんだ」




「俺は何を間違えた」




「俺はただ……善く生きようとしただけだ」




「それなのに――」




私は、心の底から叫んだ。




「もし、来世があるなら――」




「二度と、誰かのために生きない」




「俺は、自分のために生きる」




「そのために、何を犠牲にしても――」



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