暗黒卿アルフレッド
カーミラの住む村には、とある噂が流れていました。
「人喰い鬼の住む館がある」
その館は、村から少し離れた山の麓にあり、黒塗りの異様な館だと語られていました。
目の前にそびえ立つ建物を見上げたカーミラは、思わず息を呑みます。
きっと、この館が噂の「人喰い鬼の館」なのだ、と思いました。
噂通り、外壁は一面、漆黒。
あちこちに施された禍々しい金の装飾が、妖しく輝いています。
まるで、この世のものではない。
見る者すべてを圧倒するような、威圧感を放っておりました。
戸惑いを隠せないまま、カーミラは雪道で出会った青年に導かれ、館の敷地へと足を踏み入れます。
やがて館の正面へ辿り着くと、青年は重々しい扉に手をかけ、ゆっくりと押し開けました。
その先に広がっていたのは、底知れぬ闇。
強張りながらも、闇へ吸い込まれるように館の中に入ると、館の中は、外観にも劣らぬほど不気味なものでした。
黒い。
何もかもが黒い。
天井も、壁も、大理石の床も、絨毯も。
館のすべてが、漆黒に染め上げられていたのです。
人の気配はありません。
ただ、どこからともなく時計の針が時を刻む音だけが、静まり返った館に響いていました。
玄関ホールの奥には、二階の闇へと続く大階段がありました。
青年に導かれ、カーミラは黒い絨毯の敷かれたその階段を、一段、また一段と踏みしめながら上っていきます。
コツン、コツン…。
やがて階段を上りきると、正面の壁一面に掲げられた、一枚の巨大な肖像画が目に飛び込んできます。
そこに描かれていたのは、一人の初老の男性。
青白い肌。
真っ白な長髪。
そして、深い緋色の瞳。
厳格な面持ちのまま、こちらをじっと見つめています。
あまりにも現実離れした光景に、カーミラの胸は強く締めつけられました。
まるで異世界へ迷い込んでしまったようでした。
──今すぐ、この場所から逃げ出したい。
ただ、その思いだけが胸いっぱいに広がっていきます。
その時でした。
「ようこそ。我が館へ」
低く響く声が、静寂を切り裂きました。
「きゃあああっ!」
なんと、声の主は、正面の肖像画でした。
絵の中の男性がゆっくりと口を開き、カーミラへ語りかけていたのです。
絵が動くなど、聞いたこともありません。
ましてや、人のように言葉を話すなんて。
錯乱したカーミラは踵を返し、逃げ出そうとします。
しかし、青年は素早く彼女の腕を掴みました。
「落ち着いて。ちゃんと説明するから」
「お、落ち着ける訳ないでしょう!?絵が喋ったのよ!」
悲鳴のように叫ぶカーミラを前にしても、青年は少しも動じる様子を見せません。
「これは現実なの!? それとも夢…?!」
涙を滲ませて問いかける彼女とは対照的に、青年は穏やかな笑みを浮かべ、諭すような口調で静かに答えます。
「現実だよ」
青年は一呼吸置いて、ゆっくりと言葉を続けました。
「それに、ここは僕の家だ。でも、ただの家じゃない」
わずかに表情を引き締めると、青年は穏やかな声で告げました。
「──魔法使いの家なんだ」
⸻
暗黒卿アルフレッド。
その名は、この地に生きる者ならば、誰もが一度は耳にするものです。
かつて、とある弱小国が大国との戦争に敗北し、多額の賠償金を背負わされました。
国民は飢えと貧困に喘ぎ、街路には肋骨が浮き出るほど瘦せ細った人々が倒れ伏し、内戦の炎が至るところで燃え上がりました。
国は崩壊の一途を辿り、希望の欠片すら見えない暗黒の時代でした。
そんな折、国内に怪しげなカルト教団が生まれました。
彼らは救世主の降臨を信じ、毎夜のように召喚の儀式を執り行っておりました。
儀式の祭壇には生贄が捧げられ、若い娘たちの血が石畳を赤く染めましたが、もはや、倫理や慈悲を語る者など、どこにもおりませんでした。
ある夜、いつものように儀式を行っていた教団員たちが呪文を唱え、祭壇に縛られた娘の胸元に刃を当てた瞬間──。
突然、一人、また一人と教団員たちがもがき苦しみ始めました。
腹を押さえ、口から大量の鮮血を吐き出し、体を激しく痙攣させます。
目玉が飛び出し、苦悶の表情を浮かべて絶命する教団員たち。
床には赤黒い血溜まりが広がり、吐瀉物と血の混じった悪臭が地下室に充満いたしました。
「…儀式を中止せよ!」
教主が狼狽しながら叫んだその時、祭壇の中央に不気味なほど青白い肌の男性が現れました。
長い白髪と深紅の瞳が輝き、薄気味悪い笑みを浮かべておりました。
自らをアルフレッドと名乗るその男性は、低く響く声で語りました。
「この小国を救済してやろう。その代償として、若い女の血を要求する。甘美なる処女の血を、毎夜、私に捧げよ。」
教主は震えながらも跪き、受け入れました。
その後、教団はアルフレッドの手足となり、街から街へと若い娘たちを誘拐しては、地下の祭壇へ運び込むようになりました。
娘たちは祭壇に裸に剥かれ、冷たい鎖で手足を固く拘束されました。
アルフレッドは優雅に近づき、たわわに実った乳房を堪能しつつ、細い指で彼女たちの柔らかな肌を這わせ、首筋に牙を立てます。
鮮血が噴き出し、娘の体は弓なりに反り、苦痛と恐怖に歪んだ喘ぎ声が地下室に響きました。
血を啜られる間、彼女たちの白い肢体は痙攣し、乳房が激しく上下し、最後には青ざめた肌を残して絶命するのでした。
残された死体は、時に内臓を抉り出され、剥製のように壁に掛けられ、次の儀式の飾りとされました。
血と肉片、腐敗の匂いが、教団の空気を常に満たしておりました。
そんな残虐なる日々が一年続きました。
ある日、教主は衝撃の報せを受け取りました。
小国に賠償金を負わせた大国らの連合軍が、突如として壊滅したというのです。
報告によれば、直視するのも憚られる醜悪な魔物の群れが国内に大量発生し、兵士たちを貪り喰らったとのこと。
兵士の体は四肢を引き裂かれ、腸が地面に引きずり出され、頭部を砕かれて脳漿を撒き散らし、魔物たちの餌食となったのです。
教主は膝を折り、アルフレッドへの心酔を深めました。
「我が主よ。あなたこそ、真の救世主にございます!」
教主は処されかけていた小国の王族を懐柔し、アルフレッドを新たな国王へと据えました。
その後、アルフレッドは大国連合軍の弱体化を好機と見て、電撃的な侵攻を開始しました。
魔物の群れを先鋒に据え、敵陣を蹂躙。
血の海と肉塊の山を築き上げ、瞬く間に勝利を収め、領土を奪取しました。
かつての小国は、戦争を経て領土を拡大し、白の王国、赤の王国に続く第三の超大国へと成長しました。
そして、自らを第三の栄華を極める国「第三帝国」と称するようになります。
第三帝国は白の王国と対峙するまでに至り、やがて両国による大戦争が勃発しました。
戦争開始当初、アルフレッドの帝国軍は白の王国を圧倒しました。
魔物の群れが敵兵を次々と引き裂き、戦場は惨叫と血飛沫に包まれました。
若い娘や子供の捕虜たちは、戦勝の褒美としてアルフレッドの住む宮殿へ送られました。
戦場で断末魔の叫びが響く中、アルフレッドは玉座で優雅に血の杯を傾けておりました。
しかし、ある時から戦況は一変します。
白の王国が聖なる光の力を発動させたのです。
輝く光が魔物の群れを焼き尽くし、醜悪な肉体が溶け崩れ、黒煙を上げて消滅していきます。
主力の魔物を失った帝国軍は、徐々に押され始め、帝都までの侵攻を許してしまいます。
魔物たちがほとんど姿を消し、経験の浅い人間兵士だけで戦っていた頃、教主はアルフレッドが国から忽然と姿を消したことに気づきました。
絶望に暮れる教主。
白の王国軍は既に宮殿の目と鼻の先まで迫っておりました。
帝国で二番目の権力者となっていた教主は一人、帝都の広場で兵士たちに降伏を呼びかけました。
教主は宮殿へと一人戻り、アルフレッドが残した芸術品をひとしきり愛でた後、静かに青酸カリを飲み干し、息絶えるのでした。
⸻
後日、白の王国軍が宮殿内に押し入ると、想像を絶する光景を目の当たりにしました。
宮殿内部は一面、漆黒に染め上げられ、至る所に女子供の裸の死体が、まるで芸術品のように飾り付けられておりました。
さらには、血まみれの大きな鉢があちこちに置かれており、その中には死んでバラバラに切断された人間が、何人も入っておりました。
腐敗した死臭が濃密に立ち込める空間で、兵士たちは必死に吐き気を堪えておりました。
しかし、今まさに足で踏みしめている絨毯が、何らかの動物の皮を縫い合わせて作られたもので、その皮の正体に気づいた時。
兵士たちは全員、その場で胃の中身を吐き出したのでした。




