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「裏切ったのは僕じゃない。冥月なんだ」
金の瞳が、涙で揺らいでいた。
「冥月のやつ、主さまから御力を分けてもらったんだ。自分の祠の結界がほころんで、直したいからって。でも、あいつ、主さまから御力を借りたまま、自分と主さまの繋がりを強引に切っちゃったんだよ!」
主神との縁を断ち切った眷属は、ただの妖に成り下がる。同時に、眷属を失った主神も一時的に弱ってしまうという。本来であれば、時間をかければもとに戻る現象だ。
ただ、こと波槙神社の主神については、今回は事情が違った。
普通の眷属では手にしない多くの力を分け与えたまま、縁が切れてしまったことが、それである。
「冥月はただの妖にはならなかった。主さまから借りた力が、そのまま冥月のものになっちゃったんだ。それで主さまは、眷属がただ単にいなくなるときよりも、ずっと弱って……動けなくなった。だから、冥月に抵抗することもできなくて」
さらわれてしまったのだ、と。
昇晴は、蓮希に口を挟む隙を与えなかった。やはり冥月に似ている。彼と違うのは、蓮希の目をまっすぐ見つめて話すところだ。
「僕、冥月を止められなかった……主さまを助けられるのは、僕しかいなかったのに」
ぽたり。雫が地面に落ちた。ひとつ、ふたつ。年季の入った石畳に小さな染みができる。
「主さまはまだ生きてる。僕にもわかる。冥月が主殺しにまだ手を出していないのは、万が一にも、僕に邪魔されるのがいやだからだ。先に僕を始末するつもりなんだよ」
「だからこの間は、冥月を追い詰める最初で最後のチャンスだった。でも、蓮希が来て失敗したんだ。僕は冥月を取り逃がして、おまけに千代ちゃんや、蓮希の傍に潜ませることになっちゃった」
「冥月は目的のためならなんだってするよ。信用させるために、懐に入りこんで優しくするのだってそうだ。普段は口が悪いのだって、そのための演出なんだから。僕があいつに対抗できるようになったらきっと、千代ちゃんと蓮希を人質に取るに決まってる」
「すぐに信じてもらえるなんて思ってない。蓮希にとっては、僕は酷い怪我をさせた張本人だし、突然こんな風に、外と遮断して捕まえちゃったし……不審に思うのも当たり前だから」
「だからもう少しだけ、僕に時間をくれないかな」
始まったときと同じように、誰もいない祭りは突然終わりを迎えた。
すべての音が戻ってくる。楽しそうにはしゃぐ人々、太鼓の音、セミの鳴き声。ほとんど元どおりだ。
違うのは、そこに昇晴がいること。
彼は指を解いて、あらためて片手で蓮希の手を握った。今度は手を繋ぐように。そして空いた手で、屋台の立ち並ぶ参道脇を指した。
「僕、お祭りに自分が参加するの、初めてなんだ! 興味はあったんだけど、なかなか勇気が出なくて。蓮希、一緒に見て回ろうよ。こんなにたくさんニンゲンがいれば、冥月が君を見つけるまでに、ちょっとくらい時間あるだろ? あれはなに?」
ぐいぐいと引っ張って、金魚すくいの屋台に向かおうとする。蓮希は引かれるがまま、ただ昇晴についていくことしかできなかった。
周囲に目を走らせるが、すぐにわかるところに冥月の姿はない。
喉が凍りついてしまったように、言葉が詰まった。なにを言えばいいのか、蓮希はいまなにを思っているのか、昇晴にどんな態度で接するべきか。彼を振り切って冥月を探しにいくべきなのか。
それとも、冥月からこそ逃げるべきなのか。
なにもかもがわからなかった。
「あれは……金魚すくいだよ。やってみる?」
やっと口をついて出たのは、近所の子供に接するような、当たり障りのない台詞だった。
◆ ◆ ■
さながら、祭りを楽しむ姉弟のような様相だった。
蓮希を連れて人混みを縫う昇晴は、金魚袋を手首から下げ、小さな手でわたあめとりんご飴をまとめて握っていた。反対の手首には光る腕輪をつけ、純白の髪は赤い狐面に覆われている。
(狐が狐面をつけるんだ……)
自分で違和感は抱かないのだろうか。見ている蓮希はずっと胸のあたりがむずむずして仕方がない。だいたい、屋台にはもっといろいろな……動物に絞ったとしても多種多様なお面があったのに、よりによって狐。
とにかく、昇晴はすっかり祭りに馴染んでいた。
「冥月こそが裏切り者だ」という先ほどの話なんてなかったかのように、全身で祭りに染まる昇晴は、見ていて微笑ましい。いつの間にか、蓮希の緊張は解けていた。
それでもやっぱり、時折頭をよぎる。
(ふたりとも、お互いの主張は真逆をいってる)
真っ向から対立している以上、昇晴か冥月か、どちらかが嘘をついていることになる。
でも、それは――。
「蓮希、次はどこに行く? 僕、あの射的っていうのも気になる」
ぐい、とひときわ強く手を引かれて、蓮希の意識は引き戻された。
蓮希を振り返った昇晴の表情が、笑顔のまま不自然に固まっている。その視線は、蓮希の顔よりやや高く、蓮希の背後に向いていた。
そこで初めて、引っ張られたのが昇晴に握られていない方の手だと気づいた。
「……蓮希」
聞きなれた、腹に響く魅惑的な声。振り返ると、冥月が立っていた。
走り回りでもしたあとなのか、肩で息をしている。いつもは風に流れて涼やかな黒髪も今ばかりは、頬や首筋にべったりと貼りついていた。
そして何より。
「昇晴……」
褐色の瞳が、業火のような怒りをはらんでいる。
「見つかっちゃった」
昇晴の立ち直りは早かった。愛らしい顔に表情が戻り、ぺろりと舌を出す。
彼は即座に蓮希の手を放した。捨てるような、やや乱暴な動作だったのは気のせいだろうか。しかし、その顔に焦りはなかった。冥月の登場に驚いたのは、本当に最初の一瞬だけだったらしい。
「楽しかったよ、蓮希。また会おうね」
昇晴は人混みに溶けるように姿を消した。躊躇いも未練もない、まるで最初からこうなるのがわかっていたかのような鮮やかな引き際である。
「彼になにかされましたか」
言葉は蓮希を心配していたが、声音は恐ろしいほど冷たかった。
だから蓮希は質問に答えられなかった。答えを求められているようには思えなかった。立ちつくしたまま、冥月を見上げる。
昇晴になにかされたか……答えを聞くまでもなく冥月は、昇晴が蓮希に細工をしたと思っているようだった。彼の目は、昇晴がいなくなった場所に向けられたままだ。
昇晴が本当に立ち去ったのか警戒して――。
いや、違う。
目を逸らしているのだ。
冥月は、蓮希を見ないようにしているようだった。