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はしゃぐ子供たちの声が聞こえてくる。
神社から響く太鼓の音が、微かに祖母の家まで届いていた。祭囃子はさすがに聴こえないが、家を出て、もう少し神社の方へ行けばきっと響いてくるのだろう。
祭りの日だった。
(毎年行ってたのになぁ)
今年なんて、お小遣いをはたいて浴衣を新調したのだ。濃紺の生地に白い波が走り、その上に青や薄紫の大輪の牡丹が散っているものだった。
今まで祖母に借りていた麻の葉柄よりもずっと可愛い。着るのを楽しみにしていた。
居間の畳に寝っ転がって、蓮希は西に向かって鮮やかなグラデーションを描く茜色の空を眺めていた。「早く行こう」と親を急かしているらしい子供の声が、庭の向こうから聞こえてくる。
危険だという冥月の主張はわかる。
なにしろ、神様が己の住まいである神社から逃げ出すほどの事態だ。その逃げ出してきた場所に自ら、特に当事者である冥月を連れて入るなんて正気の沙汰ではないというのも、わかっている。
(でも、一緒に外に出るのは大丈夫だったし……冥月さん、たまにいなくなるし)
彼はときどきどこにいるのかわからないときがある。大抵一時間もすれば戻ってくるし、蓮希も特に気にしていないので、それは構わないのだが。
(浴衣着てちょっとお散歩するだけでも……いや、かえって虚しくなるだけか)
やめた。きっぱり諦めよう。今年は運がなかった。
せっかくの新しい浴衣も旅行鞄から出さずに終わりそうだが、また来年の楽しみとして取っておけばいい。
寝返りをうって、外から視線を引っぺがす。
足袋を履いた足が見えた。
「冥月さん? ……わぶっ」
顔に思いきり、なにか布のかたまりを落とされた。
「着替えなさい。出ますよ」
「なに……あれ? 私の浴衣」
出番はあるまいと思っていたのに、いつの間に持ってきたのだろう。ばさっと浴衣を広げた蓮希は、ただ首を傾げて冥月を見上げた。
「ちょうど混んでくる時間だから、クロちゃんとはぐれないように気をつけるんだよ」
奥の台所から、手を拭き拭き出てきたのは、祖母である。蓮希は祖母と冥月の間で視線をさまよわせた。
「……お祭り、行っていいの?」
「絶対に、ぜったいに、なにがあっても、私から離れないでくださいよ」
冥月の頬の筋肉は本当に嫌そうにこわばっていたが、このときばかりは、蓮希もまったく気にならなかった。浴衣を抱えてうさぎのように飛び跳ねていたからだ。
「ありがとう! 気をつける! 絶対! おばあちゃん、浴衣着付けて!」
「はいはい」
蓮希は浴衣を抱えてばたばたと自室に走った。途中で落とした腰紐を拾って、祖母がそのうしろを追いかける。
冥月はわざわざ主のもとまで足を運んで、祭りに行くのは大丈夫なのかどうか……もっといえば、「蓮希が行きたがっているから、どうか許可をいただけませんか」と頼みこんだらしい。蓮希がそれを知ったのは、腹回りにこれでもかとタオルを詰めこまれていたときだった。
「言わないでって言われているから、クロちゃんには内緒ね」
いつの間にか祖母も、冥月と普通に会話するようになっている。
蓮希が、冥月の正体も、あーちゃんの正体も知ったからだ。この間蓮希が包み隠さず今までのことを祖母に話したので、隠す気がなくなったのだろう。
「私が夏祭りって言ったときには、すっごい機嫌悪くなったのに」
蓮希が口を尖らせると、祖母がくすくすと笑った。
「はい、できたよ」と背中を叩かれて、蓮希は部屋の隅にある鏡台の前に膝をつく。どうにかからだを捻ってうしろを見ると、ふわふわの帯が、大きなリボンのように結ばれていた。
「すごーい、かわいい! ありがとう、おばあちゃん」
「どういたしまして」
足回りがちょこちょことしか動かせないのがもどかしい。蓮希は着崩れないように最小限の歩幅で、できるだけ足を速く動かして、冥月のもとに向かった。
彼はすでに、玄関先で待っていた。しっかり下駄も履いて、三和土の端に陣取った靴箱に寄りかかっている。
「冥月さん! どう!?」
「馬子にも衣裳と返せばいいですか?」
「言い方!」
しかも即答したわりには、ほとんどこちらを見ていない。この性悪狐に感想を求めたのが間違いだった。これは自分が悪い。蓮希は反省した。
お返しと言わんばかりに、蓮希は冥月の格好を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。
「冥月さんは、着物だし羽織りまで羽織ってるけど、暑くないの?」
というか、見ていて暑い。
「まったく」
冥月は涼しい顔で首を振った。涼しそうに見えたのは蓮希の主観かもしれない。すっきりとした輪郭に、切れ長の目。通った鼻筋に薄い唇。光沢を放ちながら真っすぐ背中に落ちる長い黒髪。
冥月の容姿は、見た者が暑さを忘れるような綺麗さである。
(でも女の子には見えないんだよな)
厚みのあるからだと背の高さが原因だ。暑さを基準にすると、この二点はマイナスポイントだった。
結論、やっぱり見ていて暑苦しい。
ぼうっとしている蓮希が己に見惚れていることを知ってか知らずか、冥月は彼女を急かした。
「それよりも準備は?」
「……あ、まだなにも持ってない」
浴衣を見せつけるためだけに走ってきてしまった。祖母からもらったお小遣いが入ったお財布は、まだ部屋のなかである。
冥月がおざなりに手を振った。
さっさと取ってこいということなのだろうが、追い払う仕草にしか見えなかった。
◆ ■ ◆
夕方の波槙神社は、人でごった返していた。
都会の夏祭りに比べたらいくらかマシだが、気を抜いたらあっという間に人混みに流されて、自分の所在もあやふやになってしまうだろう。実際、鳥居の傍で電話をかけている人や、きょろきょろとあたりを見回しながら入り口付近を彷徨う人など、連れとはぐれてしまったらしい者たちの姿が見受けられた。
それとは関係なく、気になることがひとつ。
色違いの浴衣を身につけた地元の女子高生らしき二人組が、蓮希たちの方をちらちらと見ながら、顔を寄せ合っていた。朱色に染まった頬を見れば一目瞭然だ。あれは、見目麗しい異性を見つけてはしゃぐときの顔である。
彼女たちだけじゃない。老若男女問わず、傍を通った人は必ず冥月を振り返り、その顔に魅入っていた。
(綺麗だもんねぇ……)
枕詞には「顔だけは」とつく。悲しいかな、冥月はその顔に反してあまりにも口が悪い。出会って数日、蓮希はもう何度罵倒されたかわからないほどである。初対面の幼少期だって、転んで泣いたことを「鬱陶しい」と言われた。
「ナンパされちゃうかもね、冥月さん」
そしておそらく、ナンパした女性は悪い意味で悲鳴を上げて逃げていくことになる。
冥月の眉間に、ギチィ……と音がしそうなほどの皺が寄った。怖い。そういうところだ。流麗な眉も、ばさばさの睫毛も、綺麗な褐色の瞳も、毛穴ひとつ見つけられないなめらかな白い肌までもが台無しである。
「さっさと終わらせて帰りますよ……ほら」
「お祭りってそういうんじゃないんだけどな……」
終わらせるとは、まるで夕飯の買い出しである。
冥月に手を引かれて、蓮希は神社の鳥居をくぐった。熱気がすごい。夏の空気とは違う、酸素が薄いような、こもった空気だった。
「お腹空いたから、とりあえず焼きそば食べたい」
「奥の方ですね」
「見えるの?」
たしかに、冥月は人混みから頭ひとつ抜け出ている。それだけ背が高いのだ。なおのこと目立つ。ぶつからないように周りの人が自ら避けていってくれるのは、ありがたいことこの上ないが。
焼きそばの屋台は、それなりの行列ができていた。屋台に沿うようにして行列を作る人々を見て、冥月がまたげんなりとする。
「りんご飴も食べたいし、わたあめも食べたいし、金魚すくいもやりたいし……あとイカも食べたい。イカの屋台あるかな」
「もう少し絞ってくれませんか」
えー、と蓮希は口を尖らせた。しかし、今回に限っては妥協も必要だ。ここはいわば、敵の巣のなかである。
「じゃあ、金魚すくいは諦める。取ってもおばあちゃん家に置いてくしかないし」
「ひとつしか減っていませんが?」
蓮希は明後日の方向を向いて、聞こえていないフリをした。
そうこうしているうちに並んでいた人の列がずいぶん減ってきた。蓮希は慌てて、祖母に持たされた巾着袋のなかから、がま口の小銭入れを取り出す。
「おじさん、焼きそば二個ください!」
蓮希が告げた数に、冥月が片眉を上げた。
「いえ、私は……」
ため息混じりに呟いたところで、じゅうじゅうと焼ける鉄板と祭りの喧騒のなかでは届かない。焼きそばの屋台の男の「あいよ!」という威勢のいい返事にかき消されてしまった。
「一四〇〇円……って言いたいところだけど、兄ちゃんえらい別嬪さんだなあ。一〇〇〇円でいいよ」
「だって! やったね」
べらぼうに高い屋台の焼きそばとしては破格の値段だ。くるりと蓮希が振り返ると、冥月は諦めたようだった。わずかに表情を和らげて、屋台の男に礼を言う。
縦に積んでひとつの袋に入れられた焼きそばは、冥月が受け取った。
「どこで食べる?」
もともと大きな神社ではない。申し訳程度に設置された椅子とテーブルは、とっくに満席だった。
「本殿の裏手の方なら空いているでしょう。座ることはできませんが」
さすが狛狐というべきか、冥月は勝手を知っていた。蓮希も二つ返事で賛成する。表の人混みのなかで、ぶつからないように気をつけながら食べるよりはマシだろう。
あっちこっちと好きな方向へ進もうとする人の間を抜けようとしたときだった。
缶ビールを手にしたカップルが、どん、と蓮希にぶつかる。
あ、と思ったときには遅かった。絡んでいた蓮希と冥月の指がほどける。
「ってーな、気ぃつけろ!」
「やだーレンちゃんこわーい」
「どこがだよぉ」
冥月に向かって伸ばした蓮希の手を跳ね飛ばして、酒飲みカップルが通り抜けていった。ほろ酔いでよほど上機嫌なのだろう、参道のド真ん中でキスを交わす。呆気に取られたのは一瞬。しかしあれよあれよという間に人の流れに押し負けて、はっと意識を戻したときには、すでに冥月の姿はなくなっていた。
さすがに血の気が引いた。
「絶対にはぐれるなって言われたのに……」
当たり前だが、冥月は携帯を持っていない。連絡は取れない。探し回るか入り口まで戻るかと迷った蓮希は、ぐるりと視線を巡らせる。
ぐい、と袖を引かれた。
「こんばんは、蓮希」
あどけない子供の声。
金の瞳が、まっすぐに蓮希を見上げていた。