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 冥月が地面にひっくり返っていた。

 具体的には、地面に背中を預け、無防備な腹を天に向けて、やわらかな腹の毛をされるがままにかき回されていた。


 黒い狐の周りに集まっているのは、町の子供たちである。この暑いなか、あぜ道にしゃがみこんで、代わる代わるに冥月を撫でまわしていた。「ぐるぐるいってる! 猫ちゃんみたいだね」「わんちゃんなのに」「へんなの」「でもかわいー」……子供たちはご満悦で、口々にはしゃいだ声を上げている。


(それ絶対威嚇のうなり声だよ)


 いますぐ取って返したい衝動に駆られた。実際、蓮希の足は回れ右をして、来た道を戻ろうとした。


(いやいやいや、だめだめ。これ届けないと)


 すんでのところで、右手に握った財布の存在を思いだす。買いものに行くと出かけた祖母が、家に忘れたものだ。ないと困る。そして肝心の祖母は、好き勝手に撫でられている冥月の傍らで、日傘を差して立っている。


 つまり、蓮希は逃げることを許されていない。

 意を決して足を踏みだした。


「おばあちゃん、お財布忘れてる!」


 真っ先に反応したのは冥月だった。ものすごい速さで鼻を持ち上げ、からだを回転させ、何事もなかったかのようにお座りをする。しかし鼻先に皺が寄っているし、鋭い牙が丸見えだった。


 蓮希は冥月からそっと目を逸らし、黙って祖母に財布を渡した。

 それから冥月のことには一切触れないまま、可及的速やかに家に戻ったのは言うまでもない。


「買いものから帰ってたら、私も行きたいところがあるんだけど」と事前にお願いをしていたのだが、これでは叶えてもらえそうにない。


 予想は当然のように当たった。

 祖母と冥月が帰ってきたのち、灼熱の日差しを腰元に浴びながら、蓮希は居間のテーブルに頭を突っこんでいた。片手には黒い狐の尻尾をしっかと握っている。


「ちょっと出かけたいのー! ついてきてよ。出かける前は『いいよ』って言ってくれたじゃん」

「いま帰ってきたばかりじゃないですか」

「それでもいいよって言ってたじゃん!」


 ずるずるとテーブルの下から引きずり出されながら、冥月が唸る。「わかりましたから、手を離しなさい」

 言われたとおりに蓮希が解放すると、冥月は渋々ながらからだを起こした。縁側から出ていって、焼けるような庭の地面に降り立つ。


「ほら、早く」


 門に向かってたったか駆けていってしまった。せっかちというか気まぐれというか、ほんの数秒前まで微塵も出かける気もなかったのに、本当に好き勝手やる狐である。


(犬というか、猫……)


 不意に、冥月の腹を撫でていた子供たちの声が蘇った。とはいえ、うっかりでも冥月の前で漏らすわけにはいかない。なにをされるかわかったもんじゃない。

 蓮希は慌てて玄関に走った。


 ■ ◆ ◆


 襟巻きよろしく蓮希の首元に陣取っていた冥月が、突然前足で頬を叩いてきた。いささか硬い肉球が頬骨にめり込む。


 日陰もない道のど真ん中で、蓮希は立ち止まった。


「なあに」

「まさか波槙(なみまき)神社へ向かっています?」

「そうだよ」

「馬鹿ですか、あなた」


 馬鹿とはなんだ、と言い返す口をさらに前足で叩いて、冥月は蓮希の肩から降りた。


「私と(あるじ)がどこから逃げてきたのか忘れたんですか。敵地に飛びこんでどうするんです」

「でも、主さまはもう波槙神社にいないんだよね? だったら、その……昇晴、さん? とかも、もういないんじゃないの?」

「昇晴……()()?」


 その声の鋭さに、蓮希はぎくりとした。妙なところに突っかかる狐である。

 なにか言われるかと思ったが、冥月はただ深く息を吐いて首を振っただけだった。


「……神社は主が戻ってきたときのために、すぐに捕らえられるように固めている可能性の方が高いでしょう。だいたい、どうして波槙神社なんかに?」

「おばあちゃんの友達が音信不通みたいで、安否確認に?」

「なんで疑問形なんですか」

「だって私も知らないんだもん、その人」


 冥月がくわっと口を開けた。狐の頭でもすごくよくわかる。理解できない、という顔をしている。


「誰かもわからないのに安否の確認ができるんです? だいたい、どうして訪ねるのが家ではなくて神社なんですか」

「家を知らないとか……神社の方が遭遇率が高いとか……?」


 自分で言っていて、なんだか変に思えてきた。そもそも、祖母の説明が少なすぎる。蓮希は名前しか……それも愛称しか聞かされていない。


「言われてみれば、何者なんだろう、あーちゃん……」

「あーちゃん?」

「うん、その人の名前。名前?」


 名前ともいえない。蓮希が首を傾げると、足元でものすごいため息をつかれた。


「それなら、なおのこと無駄足ですよ。帰りましょう」

「えっ、冥月さん、知ってるの?」

「知ってるもなにも、我が主のことですよ、それ」

「は?」


 あーちゃんは祖母の茶飲み友達で……最近姿を見なくなって、祖母が心配していて。頭がぐらぐらするのは、暑さのせいか、それとも混乱のせいか。


「……まさか」

「我々眷属が主さまと呼んでいるので、そこから取った名前だそうです」

「おばあちゃんの茶飲み友達、神様だったの!?」


 道のど真ん中で叫んでしまった。往来がなかったのはありがたい。


「うるさいですよ」

「うるさくもなるよ! だって、えぇ?」


 来た道を戻りはじめた冥月におとなしくついていきながら、蓮希は「いやいやいや」「そんなことある?」と自問自答していた。


 しかしちょっと冷静になってみれば、納得できる部分もある。最近姿を見ないというところがその最たる例だ。波槙神社の主神が祖母の友人なら、当然、いまは身を隠している真っ最中である。お茶なんか飲みに来れるわけがない。

 それに、祖母があーちゃんは神社にいる、ということしか言わなかったのも。


「え、まさかおばあちゃん、私にも当たり前みたいに神様が見えると思って……?」


 その謎の自信はどこから湧いてくるのだろう。

 蓮希は尻尾を振り振り歩く冥月を見つめた。つんけんした歩き方をしている。どうも機嫌が悪いようだった。


「……ということは、冥月さんは前からおばあちゃんのこと知ってたの? 主さまに仕えてる……眷属? なんだよね」

「ええ、まぁ」

「私のことも?」

「そうですね」

「じゃあやっぱり、昔会った狐って冥月さんのことじゃん!」


 今度こそ確信した。もう間違いない。


「あのときなんで私に話しかけたの? 転んだから助けてくれようとした? それにしてはただ罵倒されただけの気もするし、さっさといなくなっちゃった気もするけど」

「……だから嫌だったんですよ。絶対騒がしくなるじゃないですか」

「そりゃそうだよ! 決まってるじゃん!」


 ずっと夢だと思っていた幼い頃の思い出の、答え合わせだ。黙っていられるわけがない。


 祠で冥月を拾ったのも、ただの偶然ではない気がしてきた。

 運命だなんて大仰なことを言うつもりはないが、これもきっと、ある種の縁だ。


 怖いのも痛いのも嫌だが、危ないことには関わりたくないというのは、ここで捨てるべきかもしれない。蓮希が祖母の家に滞在するのは、ほんの一週間と少しである。ただ時間を過ごすだけで終わらせて、その後の冥月や主さまがどうなるのか知らないまま自宅に帰ることになるのはいやだと、蓮希はようやく、はっきり思った。


 だからせめて、知ることだけでも。


「……主さまに成り代わろうとしてるっていうけど、昇晴さんっていうのは何者なの? 主さまや冥月さんにとってどういう存在? 突然襲われたの?」


 しかし、冥月の答えは冷たいものだった。


「それを知ってどうするんです」

「どうするっていうか、私も一回危なかったわけだし……知っておいて損はないと思って」

「あなたが危険にさらされることはもうありません。蓮希には関係のないことです。この町から出て、あなたの家に帰れば、彼だってそこまで追ってはいきません」

「でも、乗りかかった船だよ」


 どちらかというと、足を突っこみかけた泥沼だが。


「話したくない?」

「わかっているなら聞かない」

「でも……知らない方が怖いよ? 気持ち的には。ほら、見た目の特徴だけでもさ……ひと目でこの人危ないってわかった方が」


 足を止めた冥月がひと睨みで蓮希を黙らせる。彼がふたたび歩き始めたとき、その機嫌がさらに悪くなったのを、肌で感じた。


 大切な主を害そうとした相手だ。忌避するのも当然だと話を聞いた最初は思ったが、少々過剰反応な気がする。蓮希は違和感を抱いた。

 しかし、これ以上追及する気にもなれない。空気が重かった。からだにまとわりついてくる。それは湿気を含んでいるからかもしれないが。


「……ねえ、今年の夏は波槙神社に絶対行っちゃ駄目?」

「だめです。危険すぎる。さっきも言ったでしょう。行っても主には会えませんから、無駄ですよ」

「いや、主さまじゃなくて」

「ほかになにがあるんですか」


 波槙神社の夏祭り。

 一拍空けて、それは深いため息が返ってくる。


「……くだらない」


 冥月の機嫌が先ほどに増してどん底まで落ちた。

 どうやら蓮希は、雰囲気を和らげる話題選びが下手くそらしい。

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