5
金縛りに遭う夢を見た。
間違いなく夢だ。なにしろ、蓮希が寝ているのはなにもない空間だった。ただ腹のあたりがずっしりと重くて、身動きがまったく取れない。
蓮希を起こしたのは祖母だった。
「はーちゃん? 朝ごはんできてるよ、起きておいで」
襖の向こうで呼ぶ声に、蓮希の意識が浮上する。じっとりと汗をかいていた。かけ布団を捨てたのに結局これだ。おまけに背中が痛い。当然である。蓮希の布団は昨晩、冥月に明け渡してしまった。
うめきながらからだを起こすと、腹から腰の方に向かって、なにかがずり落ちた。
黒い毛玉だった。
横を見れば、蓮希が泣く泣く譲った敷布団は空っぽ。寝床を奪ったはずの狐は、蓮希の上で気持ちよさそうに眠っている。
いまわかった。ぜんぶこの毛玉のせいだ。
「……冥月さん?」
指でつつく。反応がない。
「冥月さーん?」
携帯ゲーム機のAボタンを連打するかのように、ふわふわの毛をまとったからだに何度も指先を沈ませる。
「おーいくろいぬ――あいたっ」
噛まれた。
「狐です。朝から鬱陶しいですね」
「文句を言いたいのはこっちなんだけど。痛い。人のからだの上で伸びしないで、爪を立てるな――ぐえっ」
冥月は蓮希の腹の一番やわらかいところを思いきり踏み台にして、ひょいと畳に降り立った。
「ほら、さっさと開けてください」
踏みつけにされた腹を抱えて転がる蓮希をものともせずに、その肉球で襖を叩く。人に戻って自分で開ければいいだろうに、と蓮希は涙目で冥月を睨みつけた。
居間に出ていくと、用意されていたのはだし茶漬けだった。振りかけられた海苔がちょっと湿気ている。蓮希が起きだすのが遅かったからである。
そしてどういうわけか、同じ茶漬けがもうひとつ用意されていた。
こちらは茶碗ではなく、もっと底が浅くて大きい皿に盛られている。
(おばあちゃん、狐にお茶漬けって……)
自分の茶漬けにだしを注ぎながら、蓮希はじっとりと半目になった。当の祖母は見当たらない。たぶん、裏の家庭菜園の様子を見にいっているのだろう。
蓮希は皿に盛られた茶漬けにも慎重にだしをかけると、そっと畳に下ろした。
「よい香りですね」
ふんふん、と鼻を鳴らした冥月が、すかさず口をつける。
昨日の食事風景から、彼は狐の姿で食事をするのがいやなのだとばかり思っていたのだが、そうでもないらしい。むっちゃむっちゃと茶漬けを食べる様子は、動画サイトで見るペットの犬の食事の様子とそう変わりがなかった。
本狐に言ったらたぶん血が噴き出すくらい深く噛みつかれるだろうから、口には出さないが。
蓮希と冥月が遅めの朝食を食べ終わる頃、祖母が戻ってきた。
「お買い物に行こうと思うんだけど、なにかほしいものはあるかい?」
食器をまとめて台所のシンクに下ろしながら、蓮希は首をひねった。
ちらりと冥月を見る。彼は祖母を見上げていた。
蓮希が外に出るのが危険だというのなら、たぶん祖母も同じなのだ。
「じゃあ私も行く!」
冥月からしたら、ふたりができるだけ同じ場所にいてくれる方がありがたいかもしれない。いや、蓮希ひとりで家に残った方が、面倒があったときに守る対象が少なくて済むのかもしれないが。
「はいよ。じゃあ出かける準備をしておいでね」
「はーい!」
冥月から文句は出なかった。ただ黙って、自室に戻る蓮希のあとをついてきただけである。
「覗かないでねっ」
「ちんちくりんの着替えなんて、見てくれと頼まれたって断りますよ」
「なにをう!?」
蓮希はおとなしく廊下でお座りをした冥月の目の前で、精いっぱいの怒りをこめて襖を閉めた。
◆ ◆ ■
まだ日が昇りきっていない時間とはいえ、そこは夏。
さすがに暑い。肩までむき出しのシャツを着て出てきたが、ほとんど効果を発揮していない。どころか、ただ直射日光があたる面積を増やしただけのように感じる。
祖母は暑さなんか微塵も感じさせない様子で、蓮希の前を歩いている。この違いはなんだろう。やはり日傘か。日陰になっているだけで、祖母はずいぶん涼しそうだ。蓮希の麦わら帽子とは大違いである。
胸のあたりから不満の声が上がった。
「汗でべたべたしてるんですが、どうにかできませんかね」
「いやなら降りてよ。半分は冥月さんのせいなんだから」
蓮希は両腕で冥月を抱えて歩いていた。もふもふで熱を溜めこみそうで、真っ黒で太陽の光を吸収しそうな冥月を、である。
地面は暑いからいやだ、と蓮希のからだをよじ登ってきたのだが、これでは意味がない気がしてならない。湯たんぽでも抱えて歩いている気分だった。
祖母が足を向けたのは、町中にある個人経営のスーパーだ。このあたりで食材の調達をする手段というと、このスーパーと、あとはそこかしこの畑の傍に点在する無人販売所、あるいはご近所さんのおすそ分けくらいしかない。
お菓子の類に絞るともうスーパー一択である。
日用品なんかはまた別の小ぢんまりした商店が担っていた。今日はどちらも寄るつもりらしい。
スーパーに着いたら絶対にアイスを買ってもらおう、と蓮希は心に誓った。
「あらぁ、チヨさん、今日はお孫さんと一緒?」
「アサちゃん、こんにちは」
チヨさんというのは、祖母の千代子という名前をもじった愛称である。
祖母に声をかけたのは、蓮希もよく見るご近所さんの老婦人だった。彼女は夫とふたりで散歩している姿をよく見かけるが、今日はひとりらしい。
「蓮希ちゃんもこんにちは」
「こんにちは!」
暑さを吹き飛ばす勢いで笑顔を浮かべて、蓮希も挨拶をした。額から垂れてきた汗が目に入った。しみる。痛い。
「可愛いワンちゃんねぇ。チヨさんのおうちで飼い始めたの?」
冥月の鼻がピクリと動いた。蓮希からはよく見える。鼻面にものすごい皺が寄っている。まさかこの狐、アサちゃんさんに牙を剝いたりしていないだろうな。
「昨日からね、はーちゃんが拾ってきたのよ。怪我をしていたみたいで」
「あらぁ、助けてもらったのね? よかったわねぇ」
アサちゃんさんの手が伸びてくる。蓮希はちょっとだけどきりとしたが、杞憂だった。アサちゃんさんが頭をひと撫でする間、冥月はその恐ろしい形相に似合わぬおとなしさで、唸りもせずにされるがままになっていたのである。
その後も何度か祖母の知り合いとすれ違ったが、皆ほとんど似たようなものだった。
まず祖母に挨拶をし、蓮希に笑いかけ、その腕のなかの冥月に目をやる。そして誰もが例外なく、彼を犬だと思って接した。
季節は、夏。間違いなく暑いはずなのに、冥月の機嫌が面白いくらいに――実際はまったく笑えないのだが――転がり落ちていくので、蓮希は冷凍庫のなかに放りこまれた気分だった。別の意味で汗がだらだら垂れてくる。
(うーん、やっぱり、一緒に出かけるのはいやかも……)
明日からは留守番しよう。絶対に。
ようやく見えてきたスーパーの看板を眺めながら、蓮希は誓った。固結びをしてほどけなくなった靴紐くらい固い誓いだった。
それなのに、翌日には破られた。
祖母が財布を忘れて家を出てしまったのである。
そして蓮希は、信じられないものを目撃することになる。