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己の影を長く長く引きずりながら、黒い狐はあぜ道を駆ける。
前足が正面から伸びた暗がりを踏んだ。冥月と同じ長さの影が、行く手を塞いでいる。
道のど真ん中に鎮座していたのは、冥月とぴったり同じ背丈の狐だった。
真っ黒い冥月とは対照的に、こちらは鼻の先から足の先まで真っ白である。山向こうに沈もうとしている日の光を浴びて、体毛がきらきらと輝いている。
「……昇晴」
冥月が低く唸った。
白い狐――昇晴が、くあっと口を開ける。笑ったようにも見えた。
「やだなぁ、冥月ったら。そんな怖い顔しないでよ。あの女の子はどこ? たしか蓮希とかいったっけ」
「教えるわけがないだろう」
「残念だなぁ。ちょっとお話してみたかったのに」
朗らかな昇晴の声は、さして残念そうでもない。
「あの娘は関係ない。おまえの目的は私だろうに」
「それだよ、冥月」
昇晴が弾んだ。文字どおり、声音と一緒にぴょん、と楽しげに。いいことに気づいた、といった様子だ。
そのいいこととは、冥月にとっては間違いなく悪いことだ。自分はなにか余計なことを言ったらしい。舌打ちをした。
「関係ないならさ、どうして見捨てて逃げなかったの? 祠に飛びこんで他所へ逃げるだけの余力があったなら、僕があのニンゲンに気を取られている隙に逃げだせたでしょ」
冥月は押し黙った。いま、彼が人の姿だったら……間違いなく、背中を冷や汗が伝っている。
いやな予感がした。
「ねぇ、どこにいるの? 逃げるのは見えたのに、肝心のどこに逃げこんだのかがわからなくて困ってるんだ。大方、あの老婆の家だろ? 昔は僕も出入りしてたのに、全然思いだせないんだよ、場所」
昇晴がふたたび、ぴょんと跳ねた。
「教えてよ冥月」
ここで引き返せば、蓮希の存在をより強く示すことになる。冥月の弱点はそこだ、とさらけ出すようなものだ。昇晴の興味をさらに引くことになるだろう。
そこまで考えて冥月は――。
「ありゃ、行っちゃうの?」
冥月は迷わず踵を返した。
「ねえ、教えてってばあ」「もー、逃げ足だけは早いんだから」背中に届く昇晴の声を振りきるように、来たばかりの道を駆け戻る。蓮希の祖母の家を飛びだしたときとは比にならないくらいの速足だった。
これ以上蓮希をこちらに巻きこまないようにと思ったからこそ、あの家を出てきた。
いまわかった。
実際は逆だ。
冥月が、傍にいなくてはならない。
彼の頭に、地面にべったりと伏せて泣きわめく少女の姿がよぎった。
何年経っても、成長した蓮希をその目で見ても、冥月のなかの蓮希は変わらない。ぷっくりした小さな手足でびたんびたん暴れながら号泣して、冥月が声をかけただけで面白いくらいに泣き止んだ、小さくて無力な幼子のままなのだ。
◆ ■ ◆
かりかりかり、暗い部屋に不審な音が響く。なにかを爪でかいているような。
かけ布団を蹴り飛ばして仰向けになっていた蓮希は、閉じていたまぶたを持ちあげた。目覚めたわけではない。暑すぎて寝つけなかったところである。
ほとんどかかっていない布団をさらに足で押しのけて起き上がると、音がする方向が判明した。蓮希の部屋から廊下へと続く襖である。
四つん這いになってごそごそと近寄り、襖にぴたりと耳をあてた。かりかりかり、がダイレクトに頭へ響く。そして止んだ。しばらく待ってみても、かりかり音はもう聞こえない。
なんだったんだ、と蓮希が耳を離そうとしたときである。
「起きているならさっさと開けなさい」
蓮希は飛びあがった。
冥月の声だった。
襖を開け放てば、暗闇に溶けるようにして、黒い狐が座していた。蓮希の顔を見るなり舌打ちしたような気がしたが、気のせいだろうか。
「戻ってくるの、早かったねぇ」
「うるさいですよ」
するりと部屋に入りこんだ冥月は、蓮希の布団のど真ん中で丸くなった。完全に寝る体勢である。
「せめて端に寄ってくれない? あ、居間におばあちゃんが用意した寝床あるし、それ持ってこようか?」
しーん。艶やかな黒い毛並みが膨らんで、縮む。それが答えだった。寝るのが早すぎる。仕方がないので、蓮希は冥月の横に寝ころんだ。ほとんど畳の上である。固い。
先ほどよりも、よっぽど寝つけなかった。
だから狐に話しかけた。
「ねぇ、どうして戻ってきたの?」
返ってきたのは沈黙である。
「やっぱり昔会った狐って、冥月さんだよね?」
ぴるる、という可愛い鼻息が答えた。
「あんな怪我をして、祠で倒れてたのはなんで?」
「知りたいんですか?」
「起きてるんじゃん」
「そんなに知りたいのでしたら、話してあげるのもやぶさかではないですが。本当に知りたいんですか? まあ、あなたがそう言うのであれば仕方ありませんね」
「急に流暢にならないでよ」
詰め方が不穏すぎる。これ以上踏み入ったら、取り返しのつかないことになりそうだった。
危ない目に遭っているのであれば、かくまってあげたいとは思う。でもやっぱり、危ないのも怖いのも痛いのもいやだ。
それに、ここで蓮希が巻きこまれたら、祖母にまで危険が及ぶ可能性がある。昼間のニセ祖母の姿を思いだすと、どうしても胸がざわついた。
「別に詳しい事情を聞きたいわけじゃないの。ただ、誰かにやられたのかとか、その、これからも同じようなことがあるのかとか、そういうのが気になっただけで」
「私の主を弑して神になろうとしている者がいるのです」
「アッ!?」
いやだと言ったのに。
「私はなにも聞こえてないからね」
「波槙神社の主神を弑して神に成り代わろうとしている者がいます」
「あアッ!?」
言い直されてしまった。それも恐ろしく簡潔に、聞き捨てならない言葉選びで。
実際に、その内容は聞き捨てならないものだった。
「彼がいつから企んでいたのかはわかりません。しかし、主を襲った手勢はあまりにも手際が良すぎました。主はあっという間に力を失ってしまった。私たちは、いとも簡単に、裏切り者に追い落とされたのです」
蓮希が呆気に取られて黙ったのをいいことに、冥月は立て板に水のごとく語り始めた。やめてくれと口を挟む隙もない。
「主は何百年もこの地を護ってきた。この土地を愛していなければ成せぬことです。それを、ただ神の力がほしいばかりに、成り代わろうだなんて。愚かにもほどがあります。許せるわけがない。なんとしてでも、彼を止めなければならなかったのに……私は無力だった」
冥月は始終、丸くなって布団に伏せたままだった。途中から、実は寝言なのかと蓮希が訝しんだほどである。
「私にできたのは、弱った主とともに逃げることだけでした。主神を守る立場として、裏切り者を退かせることくらいはやってのけねばならなかったのに。主に助けられたのは私の方です。波槙神社を飛びだしたとき、主は深手を負った私を抱えて運びだしてくれました」
冥月の語り口調は、蓮希に聞かせるというより、独白のようだった。あるいは自白だろうか。主を護ることができなかった己を責めているように聞こえた。
「しかし、主が追われていては……態勢を整えるにしても、主は一番安全な場所にいてもらわねばなりません。彼の狙いは主ですから、主が斃れては意味がない。私を抱えていては主も足が鈍る。私が囮になって彼を誘導したところまではよかったのですが、さすがに傷が深すぎました。どうにか摂社の祠までたどり着いたところで動けなくなって……あなたが来た」
そこでようやく、冥月が頭を持ちあげた。闇に紛れてほとんどわからないが、たぶん、蓮希を見ている。
「私に関わったことで、あなたも彼に目をつけられています。祖母君の姿に化けて出てきたのがよい例でしょう。私はここを離れるわけにはいかなくなりました」
「……あ、そういう」
合点がいった。いまのは、「どうして戻ってきたの?」という最初の質問への答えでもあったらしい。そして三つ目の「祠で倒れていたのはなんで?」の答えにもなっている。ずいぶん回りくどい回答をする狐である。
「あなたに渡した札はこの家ごと、私たちの姿を隠してくれます。絶対に剥がしたりしないように」
「わかった」
どうやら、ふらふらになりながらも、その場ですぐに貼ったのは正解だったらしい。でなければ、いまごろ冥月の言う彼とやらに居場所がバレていた。
「私はともかく、貴女が見つかると人質にされる恐れがある。そうなると、まさか見捨てるわけにもいきません。外出をするなとは言いませんが、外に出るならかならず私を連れていきなさい」
明かりもないのに、冥月の瞳がきらりと光った。気圧された蓮希は、ほとんど操られるようにして頷く。
そして冥月がふたたびその鼻面を黒い毛皮に埋めてしまう前に、口を開いた。
「ねぇ、さっきから気になってるんだけど。冥月さんが言ってる彼って、昇晴って人のことだよね?」
既に一度、蓮希の前でその名を口にしている。いまさらぼかす必要はないだろう。それとも、冥月の主を狙っている人物とニセ祖母の正体イコール昇晴という判断は、蓮希の早とちりだったのか。
冥月の返答までに間があった。
ややあって聞こえてきたのは、低い唸り声である。
おそらく、肯定。
しかし、確信には至らなかった。冥月が尻尾で頭を覆って、すっかり毛玉と化してしまったのである。
「もう夜も遅い。早く寝た方が身のためですよ」
それきり蓮希がいくら声をかけても、ぴくりとも動かなくなった。




