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頬にひやりとしたやわらかいものが触れて、蓮希の意識は浮上した。夢と現が混ざったまどろみのなかで思考を回転させる。
(おばあちゃんがお医者さん呼んでくれて……痛み止め飲んで……あれ、そのあとは?)
火傷の手当てを受けたことは覚えているが、記憶はそこで止まっていた。いつの間にか寝ていたようだ。
(そうだ、狐……の、怪我は)
蓮希はそこで、ようやくまぶたを持ち上げた。
夜が視界を覆っていた。
違う、黒々とした長い髪だ。カーテンのように蓮希の頭を囲って、畳の上にわだかまっている。
黒ずくめの青年だった。
蓮希に覆いかぶさって、その頬を指で撫でながら、じっと彼女を見つめていた。
濃い褐色の瞳に蓮希の顔が映った。
天女のような顔が目前に迫っている。
吐息がかかる距離だった。
ぎゃっと叫んで、蓮希は飛び起きた。がつん、と青年の額がぶつかる。青年がのけぞり、蓮希は頭を抱えて転げまわった。
「騒がしい娘ですね……おまけにお転婆ときた」
蓮希が「石頭!」と噛みつくのも聞き流して、青年は額をおさえた。軽く眉をひそめるその顔は、とても痛がっているようには見えない。蓮希だけが痛い目に遭っている。不公平である。
蓮希は畳に突っ伏したまま震えた声を出した。
「いったい、なにを、してたの」
「おとなしく見せなさい」
それを綺麗に無視して、青年はまた顔を近づけた。蓮希の顎を持ち上げて、上を向かせる。蓮希はとっさに両手を突っ張って、彼を遠ざけた。それで気づいた。
医者に巻いてもらった包帯が解かれている。どころか、火傷の跡すら残っていない。
「……うそ」
青年の手を払うのも忘れ、蓮希はまじまじと自分の腕を見る。
「こっちも、跡は残っていませんね」
青年が満足そうに頷いた。
そういえば蓮希は、頬にも怪我をしていたはずだ。どれだけ撫でられても痛みはない。
「あなたが治してくれたの?」
「借りを返したまでです。不本意ながら、貴女に助けられてしまったので」
蓮希の頬をきゅっとつまんで、青年は心底いやそうに顔を歪めた。
素直に礼くらい言えないものか。
いま度こそ、蓮希は彼の手を叩き落とした。
「そっちの怪我は大丈夫なの?」
「ひと眠りしたら治りました」
「けっこう重傷だったような気がするんだけど」
「ニンゲンと違って丈夫なので」
人間がもろすぎるとでも言いたげである。あのねぇ、と反論しようとしたときだった。
「はーちゃん、起きたのかい? ずいぶん元気な声がしたけど」
お皿をふたつ持った祖母が、居間に現れた。
蓮希はきゃーっと盛大な悲鳴を上げた。目の前には正体不明の青年が座っている。
蓮希が助けたのは狐だ。祖母が見たのも狐だ。その狐が姿を消して、代わりに見知らぬ男が座している理由を説明できる十分なシナリオなんて用意できていなかった。アドリブでどうにかできる自信もない。
(いまから狐に変身してもらう!?)
蓮希は跳びあがって、祖母の視界から青年を隠すようにふたりの間に立った。
明らかに手遅れである。
しかし、動揺したのは蓮希だけだった。青年――有り体に言えば不審者――が目の前にいるというのに、祖母はまったく動じていない。テーブルに皿を置いた皺の多い手は、いつもと同じ落ち着きを保っている。
「もう夕方だよ。お昼も食べていないから、お腹すいたろう。ほら、お稲荷さん」
蓮希が愛用している箸も添える。なにも知らない祖母はさらに、油揚げが積まれたもう一方のお皿を、畳の上に直置きした。
「クロちゃんにはこっちね」
クロというのは、まさか青年のことだろうか。
「寝床も用意してあげた方がいいかねぇ」
蓮希は慌てて口を結んだ。危うく噴き出すところだった。
「段ボールに毛布でも敷いたらいいかねぇ」
蓮希は、青年と油揚げと祖母を見比べた。んぐっ、と変な声が喉を通る。深呼吸を二回。痙攣しそうになる横隔膜をなだめて、ゆっくりと青年の隣に腰を下ろした。
「押し入れに使っていない毛布が……」と呟きながら居間を出ていく祖母を見送る。彼女の姿が完全に見えなくなったのを見計らって、蓮希は隣にささやきかけた。
「もしかして、おばあちゃんには狐に見えてる?」
「狐だから油揚げとは、また安直な……」
青年は油揚げを睨みつけている。話を聞いているのかいないのか……おそらく、聞いていない。
蓮希はそっと油揚げの皿を持ち上げた。
「いらないなら、私が食べるけど」
「いらないとは言っていません」
すかさず、青年に皿を奪われた。彼は当然のように蓮希の箸を使って、油揚げを口へ運ぶ。口の端からじゅわ、と汁があふれて、皿の上に落ちた。見ている蓮希の口のなかにも、甘い油揚げの味が広がっていく気がする。
同時に、肩が震えて仕方なかった。
皿が空になるのを、蓮希は黙って見守っていた。
笑いをこらえるのに必死で、油揚げの皿を置いた青年がいなり寿司に手を出しはじめるのも止められない。
「……私の名前は、クロなんかではありませんからね」
いなり寿司を頬張った青年が、ふと思いだしたように訂正を入れる。
それがトドメだった。
「ンっ……」
「……いま、笑いましたか」
「いやまさかそんな――アッ、待って食べ尽くさないで!」
結局、蓮希に残された温情はたったのひとつだけだった。
ひとつ残っただけよしと考えるべきだろうか。
ふたつの皿をほぼひとりで空にした青年は、すまし顔で蓮希に向き直った。油揚げもいなり寿司も最初から彼のものだったと言わんばかりである。油揚げはともかく、いなり寿司は蓮希のために用意されたものだ。これだけは譲れない。
ついでにいえば、彼がいま手にしているお茶だって、祖母が蓮希の食後に出してくれたものである。
蓮希お気にいりの湯呑は、端正な青年の顔立ちにはあまりにも不似合いだった。なにしろ湯呑には、ぶさいくな猫がガタガタの線で大胆に描かれている。
青年は興味深げにぶさいくな猫の絵を眺めてから、お茶をひとくちすすった。
いなり寿司もお茶も奪われた果てに、蓮希はようやく青年の名前を知ることになる。
「私は冥月。波槙神社の主神を守護する狐です」
「きつね」
蓮希はお茶を飲み干す青年――冥月の顔を見つめた。厚い睫毛の奥に潜んだ褐色の瞳は、蓮希……ではなく、相変わらず湯呑のぶさいくな猫に向いている。一応、蓮希の声はきちんと聞いているようで、青年は薄い唇を開いて繰り返した。
「そう、狐です」
この綺麗な顔で大真面目に狐だと言われても現実味に欠ける。とはいえ、狐が冥月に、冥月が狐に変身するところを目撃しているのも事実なので、蓮希はどうにか己を納得させた。
「主神っていうのは、波槙神社の神様のこと?」
ええ、と冥月は頷いた。
「狛犬ならぬ狛狐、とでもいいましょうか」
蓮希は、夏祭りで訪れた神社を思いだす。たしかに、入り口の両脇にあったのは犬ではなくて狐の石像だった。あれのどちらかが冥月なのだ。
(だから石頭なのか……)
妙な解釈をした蓮希は、まだ自分が彼に名乗っていなかったことを思いだした。
「あの、私は」
「蓮希でしょう。知っていますよ、それくらい」
「え、なんで?」
ひらりと手を振った冥月に、蓮希は素っとん狂な声を上げた。
祠で冥月を拾ってからここまで、冥月が蓮希の名前を知るタイミングなんてなかった。唯一といえば、祖母が蓮希を呼ぶ「はーちゃん」の愛称くらいだろうか。しかし、それだって愛称だ。
「なんで知ってるの?」
聞いても、冥月は答えてくれなかった。
だから蓮希は、彼の顔を睨みつけながら、思考を巡らせる。
以前どこかで会ったことがあるのだろうか、という結論に至るのは簡単だった。
それで閃いた。
「私が小さいときに、庭で会った? あのときの狐もしゃべってたし……ずっと夢だと思ってたけど」
こうして目の前に人語を解する狐、どころか、人の姿にまで化ける狐がいる。
口に出してみると正解のように思えてきて、蓮希は身を乗りだして冥月に詰め寄った。
「どうなの? あのとき会ったの、あなただった?」
冥月はわずかに眉を寄せて、口を開き――目を逸らした。
「知りませんよ。他所の狐でしょう」
「そんな野生の狐はみんなしゃべるみたいに」
「記憶を捏造しているだけじゃないんです? 幼いヒトの子ならあらゆるものと会話をしたがるでしょう。釘で打ちつけられた藁人形に一生懸命話しかける赤子だっていますし」
「それはなんか違くない……?」
ただのホラーである。ちょっと想像して、蓮希は身を震わせた。
「ちがう、話を逸らさないでよ。あの狐は絶対冥月さんだった! だって、黒かったし、目の色だって同じだったし、たぶん声も……」
「たぶんってなんですか」
ため息をついた冥月は、袖を引いて立ちあがった。ちょっと、と裾を掴もうとした蓮希の指が空をかく。煽るように、狐の黒い尾が目の前で揺れた。
瞬きの間に狐の姿へと転じた冥月は、縁側から庭に飛び降りた。
「いま日の出来事は忘れなさい。あなたの祖母君には、いなり寿司の礼を」
「ちょっとちょっと、待ってってば!」
冥月の足は飛ぶように庭を横切って、門を乗り越え、その向こうに消えてしまった。慌ててサンダルを突っかけて追ったものの、彼の姿は跡形もない。
「忘れろったって、無茶でしょ……あといなり寿司は私のだし。お礼を言うならいなり寿司を譲った私に……じゃなくて」
いなり寿司はさておき、気になることがあまりにも多すぎる。
わざわざ祖母の姿になって蓮希を惑わした謎の男。冥月の口ぶりからすると、あれが「昇晴」とやらだと思うのだが、その正体はわからないままだ。そもそも、どうして昇晴は蓮希の祖母を知っていたのだろう。
冥月が負っていた怪我も、昇晴によってやられたものだったのだろうか。
だとしたら、冥月はひとりでここを飛びだしていっても大丈夫なのだろうか。どういうわけかこの家には追手がかからなかったようで、蓮希は夕方まで呑気に昼寝をすることができたわけだが……。
危険なことはごめんだった。
痛いのもいやだ。腕を丸焼きにされるのなんて、間違いなくいままでで最悪だった。
「でも、放っておけないじゃんか」
庭の門扉に寄りかかって、眼下に広がる田舎町の景色を眺めながら、蓮希はひそかにため息をつく。
しかし、蓮希が冥月と再会するまで、そう長くはかからなかった。