2
「腕のものを渡せ。そうすれば見逃してやる」
目の前に立つ祖母から、祖母ではない声がする。祖母の口から発せられる知らない男の声は、黒い狐を渡せと繰り返した。
「戻れ! それは貴女の祖母君などではない!」
黒い狐の言うとおりだった。冷たいものが背中をすべり落ちる。
逃げなければ、と頭のなかで自分の声がこだまする。黒い狐に指示されたとおり、祖母であって祖母ではないなにかから距離を取らなければいけない。
それなのに、足が縫いつけられてしまったようで蓮希は一歩も動けなかった。
笑い皺の深いくしゃくしゃの顔と、ちょっとだけ曲がった背中、蓮希より少し低い位置にある頭。ひっつめてお団子にした真っ白な髪。
目に映る光景は、これは祖母だと脳に訴えてくる。違うのだと頭でわかっていても、心が認めてくれない。
それがいっそう恐ろしい。
祖母はこんな醜悪な笑みを浮かべたりしない。
祖母の瞳は金色なんかじゃない。
必死に自分に言い聞かせて、ようやく蓮希のかかとがわずかに浮いた。
偽物の祖母が手を伸ばしてきた。
火花が散る。まるでニセ祖母の侵入を、鳥居が阻止したようだった。
同時に、黒い狐が吼える。
「結界も長くは保ちません! 早く――」
「そこのは、主さまをかどわかした」
それを遮って、ニセ祖母の声が耳を撫でた。
蓮希の手の中でぼっと箒が燃え上がり、蓮希の腕を呑みこむ。
「きゃっ!」
「まったく、本当に!」
腰を抜かしてひっくり返った蓮希に、黒い狐が苛立ったように吐き捨てた。蓮希の腕の中から、毛玉が転がりでる。
はっと蓮希が目を見張ったときには、真っ黒な着物姿の青年が目の前に座していた。
長い黒髪が、はらはらと宙を舞う。
蓮希が見上げる位置に、宵闇のように深い褐色の瞳があった。かたちのいい額に玉のような汗を浮かべている。真ん中で分けた前髪が幾筋か貼りついていた。
黒い狐は跡形もない。
「手間のかかる娘ですね」
しかし、声はした。青年の薄い唇から聴こえる、黒い狐の声。
「え――え、狐、は」
呆気にとられた蓮希に断りも入れず、青年は彼女を横抱きにした。まるで空気でも抱えているかのように軽々と持ちあげて、迷わず祠へと走りだしたので、蓮希は慌てて彼の白い首筋にしがみつく。
青年の髪がひらりと舞って、ニセ祖母が伸ばした指をかわすのが見えた。
「ちょっと、なに、どういうこと!」
蓮希の悲鳴に、青年は答えない。祠の前に膝をついて、蓮希を睨んだ。
「扉に触れなさい」
「は、なん――」
「はやく!」
その剣幕に圧されて、蓮希はわけもわからぬまま、傾いだ格子扉に手を伸ばす。
初めて気づいた。
扉の隙間から、光が漏れている。
蓮希が触れるまでもなかった。
待ちかねたように、祠はその扉を自ら開いたのである。
中から風が吹きつけてくる。祖母の家の縁側で浴びていたような、厚く湿気を含んだ夏の風だった。蓮希の前髪がふわりと浮いて、舞い散った。
「……どこかに繋がってる、の?」
「口を閉じないと、舌を噛みますよ」
言葉の意味を尋ねる暇はなかった。言うや否や、青年が蓮希ごと祠に飛びこむ。
普通であれば、祠の壁に頭をぶつけて終わりだ。そもそも格子扉には、青年や、抱かれた状態の蓮希が通れるほどの幅もない。
しかし、人間に変身する狐と、祖母の姿を騙った通り魔がいるこの状況で起こることが、普通であるはずがない。
蓮希を襲ったのは頭をぶつける衝撃などではなく、内臓がぶわりと持ちあがる浮遊感だった。
目を瞑ってしまったので、視界は真っ暗だ。でも、わかる。高いところから落ちている。ばらばらと荒れ狂う青年の髪が、蓮希の頬を叩く感触がする。
「あああああああ!?」
喉から絞りだした色気のない悲鳴に、蓮希は自分で自分が情けなくなった。
ほんの数秒の落下ののち、強い光がまぶたの裏を焼く。
「まぶし……うっわ!」
一拍空けて、背中から地面に放り出された。ろくな受け身も取れず、全身をしたたかに打ちつける。「あぁ」とも「うっ」ともとれないうめき声が、蓮希の喉からもれた。
埃っぽい砂が口に入って、周囲を確認するのもそっちのけで、蓮希はぺっぺっと何度も舌を突きだした。口のなかがざらざらする。
眉間に皺を寄せ、ようやくまぶたを開く。
抜けるような青空だった。頭上を覆っていた山の木々は跡形もない。
蓮希が転がっているのは、祖母の家の玄関先だった。
(ゆ、夢……なわけ、ないか)
夢だと錯覚するには、腕の痛みが酷すぎた。庭の砂がちくちくと刺さるのすら、尋常じゃない痛みを呼び起こしている。
それも当然だろう。ひどい日焼けと見紛うくらいに真っ赤になった腕は、ところどころに水ぶくれができている。
立派な火傷だった。
(そういえば、あの人は)
首を巡らせると、黒い狐……もとい、全身黒ずくめの青年はすぐに見つかった。蓮希のすぐ傍に倒れている。
地面に散って砂まみれになった髪は、黒いリボンでハーフアップにまとめられていた。流麗な眉毛は苦しげに寄せられ、深い褐色の瞳は、ぴたりと閉じたまぶたと、重たそうな睫毛の奥に隠されている。
そのあまりの美しさに、「大丈夫?」と問いかけようとした蓮希の声が、空気に溶ける。
喉はただ、ひゅう、と音をたてるだけだ。
なにも言えずに口をはくはくとさせていたとき、「娘」と低い声に呼ばれて、飛び上がる。蓮希は膝を揃えて、青年に向き直った。
「は、はいっ!」
「これを」
青年は目を瞑ったまま、手を差しだした。何か紙を握っている。たっぷり三秒は考えてから、蓮希は気づいた。「っわ、私にか!」
慌てて火傷していない方の手を突きだす。
細長い紙には、黒い文字で何かが書きつけてあった。その頭と末尾に、花のような記号が赤文字で小さく記されている。
とにかく、何かのお札のようである。
「入り口に、貼りなさい……昇晴が、追ってこないように」
青年の手が、静かに地面に落ちる。
そのからだがみるみる縮んで、小さな黒い狐の姿になった。
かすかに、寝息のようなものが聞こえてくる。
昇晴とは誰なのか、と聞く間すらなかった。
ニセ祖母が言っていた「主さま」についても。
蓮希はお札を握ったまま、そっと狐に触れた。あたたかい。
触れて気づいたが、固まった血が腹の毛にこびりついている。タオルをあんなにぐっしょり濡らすほどの流血が、なんの処置もなしに止まったらしい。
「……なんなの、もう」
一気にからだの力が抜けた。どっとからだが重くなった気がする。蓮希は緩慢な動きで視線を巡らせて、よろめきながら立ち上がった。
玄関横の柱にお札を押しつける。不思議なことに、お札はぴたりと柱に貼りついた。
のりもないのに、である。
がらがらがら、と蓮希の傍らで玄関の引き戸が開いた。
「はーちゃん?」
祖母だった。
蓮希は黒い狐のもとへと駆け戻り、慌てて小さなからだを拾った。わずかな警戒をこめて、及び腰になりながら祖母を見つめる。
口から漏れた声は、猜疑心に満ちていた。
「……おばあちゃん?」
「どうしたの、そんな……その腕!」
祖母が、笑い皺が引っ張られて消えてしまうほど、ぱっちりと目を見開いている。
今度こそ本物の祖母だ、と。
その顔を見て、蓮希はなぜか確信した。安堵が胸に広がる。
「はやくお入り。冷やさないといけないね……」
祖母が、慌ただしく家の中へ戻っていく。蓮希は黒い狐をしっかりと抱えたまま、サンダルを脱いでその後を追った。