17
「痛ったいなぁ……冥月ってば、結構野蛮だよね」
「あなたには言われたくないですね」
立ちあがったときには、ふたりとも狐の姿になっていた。二匹とも、狼と言われた方が納得できるような、威圧感のある体長である。
「面倒だなぁ。やっぱり蓮希は殺しておけばよかった」
呟いて蓮希を見上げた昇晴に、冥月が飛びかかる。下から喉仏を狙って牙を剥きだしたが、避けられた。空を噛んだ冥月は、石畳を転がるようにして着地する。
彼が鼻先を持ちあげたときには、地面を蹴った昇晴が迫っていた。
黒と白の獣がぶつかり、からみ合う。どちらかが爪で掻けば、もう片方が噛みついた。目まぐるしくからだを入れ替えながら地面をすべって宙を舞う様子は、天と地が曖昧になるほどだった。上下の位置が、あるいは左右の位置がかわるたびに、どちらかの鮮血が散る。
冥月が着地のたびに転ぶようになった。消耗が激しい。どう考えても、傷を負いすぎだ。
しかし、昇晴だって無傷ではない。白い狐もまた、放り投げられるように石畳に背を打ちつけたところだった。真っ白だった毛が、赤いまだら模様になっている。
束の間の、凪。
石畳に伏せた二匹がのろのろとからだを起こす。冥月は鳥居側に、昇晴は本殿側に。ちょうど一直線に、向き合って――。
昇晴が振り向いた。
しっかりと目が合って、蓮希は得体の知れない不安に襲われた。
「蓮希、下がって」
主に腕を引かれて、気づく。
昇晴の目的は、主を弑して神の座を奪い取ること。冥月に牙を剥いたのは、邪魔されたからにすぎないのだ。
だから。
昇晴が石畳を蹴った。本殿に――主に向かって。
冥月が吼えたが、あとを追うことは叶わなかった。駆けだそうとして、その場に倒れてしまったのである。
(止めなきゃ――)
主に襲いかかられてしまったら、蓮希になす術はない。
階段に足をかけ、一気に跳んだ昇晴に、蓮希は迷わなかった。
飛びこんできた昇晴に、思いきり体当たりをする。先ほどの冥月よろしく、自分もろとも、昇晴を本殿の外へと落とした。受け身なんて取る余裕はない。肩をしたたかに打ちつけて、視界がにじんだ。
しかし蓮希は、浮かんだ涙を瞬きひとつで黙らせ、昇晴の毛を両手で強く握りこんだ。ひとりと一匹が、くっついたままごろごろと参道を転がる。砂利が蓮希の腕を擦り、頬を擦り、膝を擦った。皮がめくれた気がする。しかし、傷の確認はおろか、痛みを感じる暇もなかった。
「このっ……放せ!」
「絶対にいや!」
冥月さん、と叫んだ。このまま動きを封じていれば、封印の札を貼ることだって。
「ニンゲンのくせに、僕の、邪魔を、するな!」
灼熱が蓮希の脳天を突き抜けた。
肩に、昇晴の牙が食いこんでいる。骨まで砕きそうな深さだった。
喉がねじ切られる感覚がした。違う。叫んでいる。あまりの痛みに、蓮希は知らず知らずのうちに喉を絞って悲鳴を上げていた。
昇晴の鼻づらが、真っ赤に染まっている。
「痛いだろ!? 離さないと噛み切るぞ!」
ふたたび、蓮希の肩に牙が沈んだ。もはや、痛みというよりも衝撃だった。
「蓮希!」
からだを引きずりながらこちらへ来る冥月が見えた。
いつの間にやら人の姿に戻った彼の手に、封印の札が握られていた。
朦朧としていた蓮希の意識が、はっきりとかたちを取り戻す。
蓮希は脚を回して、白い狐を拘束する。噛みちぎれるものならやってみろと言わんばかりに、食いついたままの昇晴のからだを、自分から押しつけた。
「冥月さん! お札!」
昇晴がはっとして頭を上げた。背後には、封印の札ごと腕を伸ばした冥月が迫っている。意図に気づいたらしい昇晴が、蓮希に噛みつくのをやめて、暴れはじめた。
「はなせ! 放せよ!」
下敷きにした蓮希を踏みつけて、からだを逸らした。鋭い爪が、傷口に入りこむ。
一瞬意識が遠のいた。それでも、蓮希は放さなかった。
「終わりです」
すぐ傍で、冥月の声がした。
札の封の文字が、蓮希にもはっきりと見えた。
首を巡らせた昇晴が、冥月の腕に噛みつく。しかし、遅い。
白い狐の額に、封印の札が押しつけられた。
昇晴のからだが痙攣した。
「がっ……ア……!」
まず最初に、札が色を失った。浸食されるように、白い毛も石のような灰色に変わる。びしり、と亀裂が走った。
そこからはあっという間だった。
蓮希が目を逸らす隙も与えず、昇晴のからだは瞬く間に石へと変じた。あちこちにヒビが入って、欠片をこぼす。
ぱぁん、と派手な破裂音。
思わず耳を押さえた蓮希の横で、ごとりと重いものが落ちた。
お札がへばりついた、小さな狐像だった。昇晴である。
封印は、成されたようだった。
「はぁ、はぁ……は……」
静かになった境内に響く荒い息は、蓮希のものか、冥月のものか。
「蓮希……怪我、は」
隣に伏せた冥月が、手を伸ばしてくる。
返事をするのもままならなかった。激痛がよみがえってきて、声が出せない。喉が詰まってしまったようだ。だから代わりに、無事な方の腕を石畳に這わせた。
大丈夫だ、と冥月の手を握り返したくて。
蓮希の指は空を切った。
掴もうとしたはずの冥月の指先は、獣の前足になっている。彼は黒い狐になっていた。初めて会ったときと同じ、手のひらに乗る大きさだった。
すなわち、弱っているときの。
すっと胸のあたりが冷える感覚がして、蓮希は一瞬、肩の痛みを忘れた。慌てて起き上がり、その黒い毛に触れる。
あたたかい。微かに動く。息をしている。
まだ、生きている。蓮希は深く息をついた。
(そうだ、主さまに……)
昇晴は封印した。もう主さまに危険が及ぶことはない。力も戻ったはずだ。冥月の傷をどうにかできないか聞いて、手当てをして――。
そこまで考えて、景色がぐにゃりと歪んだ。
空と地面が、本殿が、めちゃくちゃに混ざり合う。
蓮希はひどいめまいを覚えて、冥月に覆いかぶさるようにして、ずるずると倒れこんだ。もしかしたら、自分の体重で彼を押しつぶしてしまったかもしれない。そもそも蓮希は本当に倒れたのか、それも定かではない。逆に、ふわりと浮いたような気もする。天地が曖昧だった。
はっきりしているのは、ぐちゃぐちゃに混ざった景色のなか、本殿だったものから溢れた白い光と、近づいてくる衣擦れの音。
「もう大丈夫だよ」
優しく肩に触れた指先が、痛みを吸い取ってくれたようだった。ふっとからだが楽になって、ひどく安堵した。張り詰めていた緊張の糸もほつれて、空気に溶けていく。
蓮希は意識を手放した。
◆ ■ ◆
蓮希はひとりで倒れていた。波槙神社の……本物の波槙神社の、境内である。
呆けたように、橙から藍へと変わろうとする空を見上げた。ずいぶん長いこと、気を失っていたようである。
(昇晴さんの封印、できたんだよね……それで、冥月さんが)
蓮希はそこで、飛び起きた。
「いな、い」
黒い狐だ。冥月が、どこにもいない。
意識を手放す前は、きちんと抱きしめていたはずだった。しかし、腕の中にはもちろん、近いところにも、その姿はない。
しつこいくらいにあたりを見回して、代わりに気づいたのは、人だかりだった。神社の入り口の、鳥居のあたりに人が集まっている。町の人たちだ。蓮希の知った顔も、ちらほらと混ざっている。
彼らはこぞって何かを囲んでいた。
狛狐の像だ。
蓮希は吸い寄せられるように立ちあがって、足を向けた。動作によどみがない。肩の傷も、あちこち擦りむいた手足も、すべて綺麗に治っていた。どこもかしこも、健康そのものである。しかし意識を割く余裕はなかった。
人々のうしろから、そっと像を覗く。
「こりゃ酷い」
「雷でも落ちたか?」
「誰かのいたずらかねぇ」
地面に散った石の破片が見えた。だれかが力任せに砕いたように、狐像の胸の部分が真っ二つに割れている。ひび割れた頭が、鳥居のつけ根に転がっていた。
(昇晴さん……)
封印されてしまうとこうなるのか、と何気なく振り返る。
封印の札が貼られた狛狐の像が、立っていた。
ひゅ、と蓮希の喉が鳴る。
こちらが昇晴だ。札は貼りついているが、どこも壊れた様子はない。
蓮希は素早く壊れた像に目を戻した。
全身から、血の気が引いた。呼吸が荒くなる。口々にささやく人々の声が遠い。視界が狭まり、蓮希の目に映るのは崩れた狐像だけになった。
この、粉々に壊れてしまった狛狐は。
「め……」
冥月だ。
胸の部分から壊れているのは、昇晴に腕を突きいれられたからだ。目に見えている像の状態は、そのまま、冥月が受けた傷の程度を表している。
蓮希は人々を押し退けて、狐像にすがりついた。膝をついて、欠片を拾い集める。意味があるとは思わなかった。それでも、手が勝手に動いていた。
「冥月、さん」
冥月さん、冥月さん、冥月さん。
蓮希が触れると、ヒビの入った狐像の頭が崩れた。残ったのは、狐のかたちも残さない石ころの破片だけだ。
もう二度と、会うことはできないのだと。
蓮希が理解するには、十分だった。