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 石畳の上に、ぽつりぽつりと赤い足跡が刻まれる。

 思いだしたようにセミが鳴き始めた。たぶん、気づかなかっただけでずっと鳴いていた。冥月の一言一句を聞き洩らさぬようにと、蓮希がそれ以外の音を追いだしていただけだ。


 からだは動く。大丈夫だ。


 本殿の階段の下で立ち止まった蓮希は、扉を開け放ち、なかに向かって話しかけている昇晴の背中を見上げた。

 空気を胸いっぱいに吸って、声を張り上げる。


「待って!」


 昇晴が首だけで振り返った。


「なんだ、逃げてなかったの? せっかく生かしてあげたのに」


 つまらなそうに蓮希を見る金の瞳が恐ろしい。胸を貫かれる冥月の姿が脳裏によみがえるようだった。蓮希は頭を振って、浮かびかけた映像を振り払う。


 たとえば昇晴を封印して、奪われていた力が主に戻ったら。

 主なら、冥月の大怪我も治せるのではないか。


「そのためには、あなたをどうにかしなきゃいけないから」


 昇晴の封印は、絶対条件だ。不安要素しかなくても、できないなんて選択肢は端から用意されていない。

 昇晴は真っ白な睫毛をぱちぱちと揺らして、一瞬だけ唖然とした。


「……ぷっ」


 境内に、あはははは、と笑い声が響く。昇晴が今度こそ、からだごと蓮希を振り向いた。よほど気が乗ったのか、目尻の涙を拭いながら、階段を下りてまで蓮希の前にやってくる。


「君が、僕に、なにができるって?」


(私じゃない……けど)


 蓮希に課された使命は時間稼ぎだ。


 冥月が、少し休めばある程度は動けるようになるというから。胸に大穴が空いた状態で休憩もなにもあったものではないが、昇晴の封印に関して、蓮希にできることはなにもない。それなら、蓮希ができる範囲で……昇晴に、なるべく多くの時間を割かせて、冥月が心置きなく回復に専念できるようにするだけだ。

 もちろん、ここで口に出すことはできない。


「千代子の、孫娘か……?」


 割って入った弱々しい声に、蓮希も昇晴も、同時に顔を上げた。


 本殿の扉に手をかけて、からだを引きずりながら姿を現した人物がいた。

 背中を流れてばさりと床板を叩いたのは、くすんだ撫子色の髪だ。複雑に編みこまれた長髪は、遠目でもわかるほどに艶を失っている。


 げっそりとやつれた、壮年の男だった。


 本殿のなかにいるのは、そこに匿われているのは、ひとりだけだ。


(あれが、主さま……?)


 信じられなかった。


 頬はこけ、眼窩も落ちくぼんでしまっている。伏せられたまぶたの奥に押しこめられた瞳が、きちんと目の前の景色を映しているのかも怪しい。扉に沿えてからだを支えた手も、干からびたミミズのように細い。ほとんど骨と皮だけだ。幾重にも合わせた十二単のような衣装までもが、ほつれてくたびれている。


 神とも思えない、亡者と言われた方が納得できるような衰弱ぶりである。

 上背があるので、それが余計に際立ってしまっているのがいたたまれない。見ていられないとは、このことである。


 蓮希が思わず目を伏せたとき、派手な音が床板を叩いた。

 裾でも踏んだのか、主が倒れている。考えるよりも先に足が動いて、蓮希は気づけば、昇晴を追い越して本殿へと踏み入っていた。


「大丈夫ですか!?」


 肩に触れた瞬間にわかる。主を抱え起こして、蓮希はぞっとした。

 軽すぎる。下手をしたら、蓮希よりも。こうして座っていても、蓮希とは頭ひとつぶん以上の身長差があることが明らかなのに、異常である。


 からだを支えた手を拒否するように、骨ばった指が蓮希の手の甲を撫でた。濁った瞳と目が合う。


「堕ちたものだよねぇ。ちょっと眷属に力を吸われちゃったくらいでさ」


 みしりみしりと階段をきしませて上がってくる昇晴が、信じられない。呆れたように眉尻を下げて主を見る目には、嘲笑が含まれていた。かつての自分の主を、見下している。哀れな姿を見ても、なんとも思わない。その手で主をここまで堕としたのに、罪悪感の欠片もない。


 蓮希の腹の底が、氷を落としたように冷えた。


「……最っ低」


 蓮希が吐き捨てた言葉は、まっすぐ昇晴に叩きつけられた。初めて心から誰かを軽蔑した気がした。気持ちのいいものではない。でも、止まらなかった。


「あなたは神になんかなれないよ、絶対に」


 たとえ、主を排除しても、冥月を消滅させても。


「……生意気」


 昇晴の顔が、醜悪に歪んだ。とうとう化けの皮が剥がれたらしい。

 しかし、それが本性かと問う余裕はなかった。


 昇晴の指が、蓮希の細い首を掴んだのである。


「……っか、ぁ」

「やめろ、昇晴! その子を殺す必要はないだろう!」


 いとも簡単に持ちあげられて、蓮希のつま先が床から離れた。


「必要ならあるよ。ここで殺せば、今晩気持ちよく眠れる」


 窒息死するのと、首の骨が折れるのは、どちらが早いだろうか。


(時間稼ぎしろって言われたのに……)


 言われたことも満足にできない。これでは蓮希がただ身投げしたのと同じだ。

 心臓の音が耳の奥でこだましている。頭が痺れてきた。


(あ、だめだ)


 目を閉じる。


「……本っ当に、手間のかかる娘ですね」


 ほとんど手放しかけた意識のなかで、その声は、いやにはっきり響いた。

 昇晴の悲鳴。からだが揺さぶられる。首を絞めていた指が緩んで、蓮希は我に返った。無我夢中で足をばたつかせて、床をとらえる。


「げっほ、げほげほげほっ……」


 半ば落ちるようにして座りこんだ蓮希の視界が最初に映したのは、昇晴から剥がれて着地する黒いかたまりだった。


「死にに行けなんて言った覚えはないのですが」


 冥月である。


「ご、ごめんなさい」


 蓮希の謝罪は宙に浮いた。


 黒い狐のシルエットが膨らんで、あっという間に青年の姿をとる。

 胸に空いた風穴はちっとも塞がっていない。額には玉のような汗がびっしりと浮いて、咳きこむたびに血を吐きだす。砂がこびりついた羽織の上に、濡れて重くなった髪がまとわりついて、着物の裾からは赤い雫が滴っていた。あたりに鉄の匂いが充満する。


「死に損ないが……」


 昇晴の低い唸り声に、冥月が褐色の瞳を細めた。先ほど蓮希に向けたものよりもずっと、綺麗な笑顔である。


「生き汚い狐なものですから」


 ふたりの姿が、消えた。


 冥月が昇晴の襟元を引っ掴んで、全体重をかけて外へと倒れこんだのである。階段を転がり落ちる、ふたりぶんの派手な音が響いた。


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