16
石畳の上に、ぽつりぽつりと赤い足跡が刻まれる。
思いだしたようにセミが鳴き始めた。たぶん、気づかなかっただけでずっと鳴いていた。冥月の一言一句を聞き洩らさぬようにと、蓮希がそれ以外の音を追いだしていただけだ。
からだは動く。大丈夫だ。
本殿の階段の下で立ち止まった蓮希は、扉を開け放ち、なかに向かって話しかけている昇晴の背中を見上げた。
空気を胸いっぱいに吸って、声を張り上げる。
「待って!」
昇晴が首だけで振り返った。
「なんだ、逃げてなかったの? せっかく生かしてあげたのに」
つまらなそうに蓮希を見る金の瞳が恐ろしい。胸を貫かれる冥月の姿が脳裏によみがえるようだった。蓮希は頭を振って、浮かびかけた映像を振り払う。
たとえば昇晴を封印して、奪われていた力が主に戻ったら。
主なら、冥月の大怪我も治せるのではないか。
「そのためには、あなたをどうにかしなきゃいけないから」
昇晴の封印は、絶対条件だ。不安要素しかなくても、できないなんて選択肢は端から用意されていない。
昇晴は真っ白な睫毛をぱちぱちと揺らして、一瞬だけ唖然とした。
「……ぷっ」
境内に、あはははは、と笑い声が響く。昇晴が今度こそ、からだごと蓮希を振り向いた。よほど気が乗ったのか、目尻の涙を拭いながら、階段を下りてまで蓮希の前にやってくる。
「君が、僕に、なにができるって?」
(私じゃない……けど)
蓮希に課された使命は時間稼ぎだ。
冥月が、少し休めばある程度は動けるようになるというから。胸に大穴が空いた状態で休憩もなにもあったものではないが、昇晴の封印に関して、蓮希にできることはなにもない。それなら、蓮希ができる範囲で……昇晴に、なるべく多くの時間を割かせて、冥月が心置きなく回復に専念できるようにするだけだ。
もちろん、ここで口に出すことはできない。
「千代子の、孫娘か……?」
割って入った弱々しい声に、蓮希も昇晴も、同時に顔を上げた。
本殿の扉に手をかけて、からだを引きずりながら姿を現した人物がいた。
背中を流れてばさりと床板を叩いたのは、くすんだ撫子色の髪だ。複雑に編みこまれた長髪は、遠目でもわかるほどに艶を失っている。
げっそりとやつれた、壮年の男だった。
本殿のなかにいるのは、そこに匿われているのは、ひとりだけだ。
(あれが、主さま……?)
信じられなかった。
頬はこけ、眼窩も落ちくぼんでしまっている。伏せられたまぶたの奥に押しこめられた瞳が、きちんと目の前の景色を映しているのかも怪しい。扉に沿えてからだを支えた手も、干からびたミミズのように細い。ほとんど骨と皮だけだ。幾重にも合わせた十二単のような衣装までもが、ほつれてくたびれている。
神とも思えない、亡者と言われた方が納得できるような衰弱ぶりである。
上背があるので、それが余計に際立ってしまっているのがいたたまれない。見ていられないとは、このことである。
蓮希が思わず目を伏せたとき、派手な音が床板を叩いた。
裾でも踏んだのか、主が倒れている。考えるよりも先に足が動いて、蓮希は気づけば、昇晴を追い越して本殿へと踏み入っていた。
「大丈夫ですか!?」
肩に触れた瞬間にわかる。主を抱え起こして、蓮希はぞっとした。
軽すぎる。下手をしたら、蓮希よりも。こうして座っていても、蓮希とは頭ひとつぶん以上の身長差があることが明らかなのに、異常である。
からだを支えた手を拒否するように、骨ばった指が蓮希の手の甲を撫でた。濁った瞳と目が合う。
「堕ちたものだよねぇ。ちょっと眷属に力を吸われちゃったくらいでさ」
みしりみしりと階段をきしませて上がってくる昇晴が、信じられない。呆れたように眉尻を下げて主を見る目には、嘲笑が含まれていた。かつての自分の主を、見下している。哀れな姿を見ても、なんとも思わない。その手で主をここまで堕としたのに、罪悪感の欠片もない。
蓮希の腹の底が、氷を落としたように冷えた。
「……最っ低」
蓮希が吐き捨てた言葉は、まっすぐ昇晴に叩きつけられた。初めて心から誰かを軽蔑した気がした。気持ちのいいものではない。でも、止まらなかった。
「あなたは神になんかなれないよ、絶対に」
たとえ、主を排除しても、冥月を消滅させても。
「……生意気」
昇晴の顔が、醜悪に歪んだ。とうとう化けの皮が剥がれたらしい。
しかし、それが本性かと問う余裕はなかった。
昇晴の指が、蓮希の細い首を掴んだのである。
「……っか、ぁ」
「やめろ、昇晴! その子を殺す必要はないだろう!」
いとも簡単に持ちあげられて、蓮希のつま先が床から離れた。
「必要ならあるよ。ここで殺せば、今晩気持ちよく眠れる」
窒息死するのと、首の骨が折れるのは、どちらが早いだろうか。
(時間稼ぎしろって言われたのに……)
言われたことも満足にできない。これでは蓮希がただ身投げしたのと同じだ。
心臓の音が耳の奥でこだましている。頭が痺れてきた。
(あ、だめだ)
目を閉じる。
「……本っ当に、手間のかかる娘ですね」
ほとんど手放しかけた意識のなかで、その声は、いやにはっきり響いた。
昇晴の悲鳴。からだが揺さぶられる。首を絞めていた指が緩んで、蓮希は我に返った。無我夢中で足をばたつかせて、床をとらえる。
「げっほ、げほげほげほっ……」
半ば落ちるようにして座りこんだ蓮希の視界が最初に映したのは、昇晴から剥がれて着地する黒いかたまりだった。
「死にに行けなんて言った覚えはないのですが」
冥月である。
「ご、ごめんなさい」
蓮希の謝罪は宙に浮いた。
黒い狐のシルエットが膨らんで、あっという間に青年の姿をとる。
胸に空いた風穴はちっとも塞がっていない。額には玉のような汗がびっしりと浮いて、咳きこむたびに血を吐きだす。砂がこびりついた羽織の上に、濡れて重くなった髪がまとわりついて、着物の裾からは赤い雫が滴っていた。あたりに鉄の匂いが充満する。
「死に損ないが……」
昇晴の低い唸り声に、冥月が褐色の瞳を細めた。先ほど蓮希に向けたものよりもずっと、綺麗な笑顔である。
「生き汚い狐なものですから」
ふたりの姿が、消えた。
冥月が昇晴の襟元を引っ掴んで、全体重をかけて外へと倒れこんだのである。階段を転がり落ちる、ふたりぶんの派手な音が響いた。