14
波槙神社のようで、波槙神社ではない場所だった。
冥月の祠をくぐって現れた光景に、蓮希は初め、首を傾げた。今しがた出てきたばかりの波槙神社の境内とそっくりな景色が広がっていたからである。
しかし、違った。
そこに存在しているのは、入り口の鳥居と、そこから伸びた参道、奥に建てられた本殿だけ。手水舎もなければ、授与所が併設された社務所もない。もっといえば、入り口で参拝客を出迎える狛狐の像もいなかった。
「主さまはなかにいるわけ?」
参道の半ばまで行った冥月が、頷いた。本殿に背を向けて、蓮希を連れた昇晴と向かい合う。微塵の動揺も窺わせない、落ち着いた瞳をしていた。
「もういいでしょう。蓮希を解放しなさい」
「そうだねえ」
そっとつないだ手を持ちあげられて、蓮希は身を固くした。放してもらえたら、真っ先に冥月のところへ走ろう。それか隅の方に逃げて、邪魔にならないように――。
蓮希の肘の内側に、つん、と昇晴が爪を立てた。
「どうしようかなぁ」
ぶつりと皮を破って沈んだ爪が、手首まで一気に引き下ろされる。
激痛だった。叫ぶことすらできない。叩きつけられた許容外の痛みに一瞬意識が飛びかけて、蓮希の膝から力が抜けた。鮮血が次から次へとあふれて、ばたばたと石畳を濡らす。
「蓮希!」
冥月が下駄を鳴らして足を踏み出した。
「動かないで」
裂けた腕を思いきり握られて、蓮希は今度こそ絶叫する。意識も視界も朦朧としていた。もう痛いのか熱いのか、逆に冷たいのかもわからない。腕がなくなったような気さえした。
崩れ落ちたまま引きずられて、膝下が石畳を擦る。足元に、わだちのような血の線が出来上がった。
昇晴は冥月の目の前で立ち止まったようだ。蓮希のぼやけた視界に、冥月の黒い着物の裾が映りこんだ。
冥月の声はひどく震えていた。
「主のもとまで連れてきたんです。十分でしょう。蓮希を傷つける必要がどこに……」
「あるよ。まず、君が僕を邪魔しないようにしなきゃいけない」
蓮希の脚に、ぽたり、と血ではない雫が落ちた。なまあたたかい透明な雫は、太ももをすべり落ちて、血だまりと混ざり合う。泣き声とも、うめき声ともとれる音を喉で嚙み潰しながら、蓮希は掴まれていない方の手を持ちあげる。
蓮希が捕まったままでは、冥月がなにもできない。
傷を握りこむ昇晴の手首に指を這わせた。
「もういいよ」
蓮希は放り捨てられた。脱力した脚ではからだを支えきれず、自らの流した血の上に倒れこむ。
「はず――」
どすり、と。
蓮希のもとへ駆け寄ろうとした声は、なにかを貫く鈍い音にかき消された。
溜まった涙を振り落として、蓮希は緩慢な動きで顔を上げた。ぴったりと重なった黒と白。冥月と昇晴のからだが密着している。先ほどまで蓮希の腕を握っていた昇晴の手が、あらぬ場所へと突き入れられていた。
すなわち、冥月の胸へと。
昇晴の着物の袖が、じわじわとどす黒い色に染まり始めていた。
「……あ」
冥月と目が合った。彼の薄い唇の端から、こぷりと血の雫があふれる。
「ほんとに、甘いよね。冥月は」
「あき、はる……」
昇晴が腕を引き抜いた瞬間、蓮希の腕とは比べ物にならないほど、大量の血が滝のように流れ落ちた。びちゃびちゃといやな音を立てながら、石畳を赤黒く染めていく。
冥月が腰を折って、その上に沈んだ。倒れた彼の黒髪が蓮希に降りかかる。もともと黒かった着物が血を吸って、さらに黒く、重く――。
蓮希はそこで、二度目の絶叫をした。
「冥月さん! 冥月さんっ、冥月さ……あああああああああ!」
自分の傷だとか、昇晴がまだそこにいるだとか、そんなことは頭から消し飛んでいた。動かない腕をぶら下げて、からだを引きずって、全体重をかけて冥月を抱き起こす。
血を吸った黒髪が、蓮希の腕に絡みついた。蓮希のシャツもまた冥月の血を含んで、じっとりと重くなる。あたりにむせ返るような鉄の匂いが満ちた。頭の芯が痺れて、腹からなにかがせり上がってくる。
指先が、彼の胸に空いた風穴をかすめた。
ひ、と喉が引き連れた。冥月を抱く手に、それ以上力がこめられない。
「どうして」
驚くほど弱々しい、途方に暮れたような声がこぼれた。
なにに対する問いなのかもわからない。誰に答えを求めたわけでもない。
答える人は、ひとりしかいない。
「冥月が五体満足だったら、結局主さまを殺すのに邪魔になるんだよ。まさか蓮希にちょっと傷をつけただけで、本当におとなしくやられてくれるとは思わなかったけど……おかげで君はそれ以上痛い思いをしなくて済んだわけだ。冥月がお人好しでよかったね?」
「いいわけないじゃない!」
昇晴が声を立てて笑った。からだを折って、腹を抱えながら涙を拭う。おもしろいものを見たときの笑い方だった。
「僕だけを悪者にしたいようだけど、蓮希も共犯だよ?」
昇晴と夏祭りを共にすごして。
冥月の言いつけを破ってひとりで外に出て。
人質として、冥月の動きを封じる。
「そんなわけ――」
共犯だなんて馬鹿げている。蓮希は利用されただけだ。悪いのは間違いなく昇晴なのに。
(ほんとうに?)
昇晴とひと時でもなれ合って、ほんのわずかでも冥月を疑った。その罪悪感が、喉まで出かかった否定の言葉を押しとどめてしまう。
「思ったより役に立ってくれたね。ありがとう。お礼に、いまは見逃してあげるよ」
どうせ冥月の傍を離れられないだろうけど。
真っ白な歯を見せて笑った昇晴は、それを最後に背を向けて、本殿へと意識を向ける。
遠ざかっていく足音に、蓮希は、止めることも、責めることもできなかった。