12
冥月が帰ってこない。
西日が差しこみ始めたあたりまでは、蓮希もまだのんびり待っていた。縁側から足をぶら下げながら「主さまに反対されちゃったのかなあ」なんて呑気に考えていたのだ。
雲行きが怪しくなってきたのは、祖母が夕飯をテーブルに並べ始めたあたりからだった。
「クロちゃん帰ってこないねぇ」
大根おろしをたっぷり乗せた和風ハンバーグをつつきながら、祖母が庭へと顔を向けた。
外はすっかり暗くなっていた。いくら目を凝らしても、動く動物の気配はない。黒い狐の毛の一本すら見かけなかった。
蓮希の胸には、不安が山と降り積もっていた。
こんなに遅くなるのは、いくらなんでもおかしい。今までだって冥月は何度も主のもとへ行っているようだったが、一時間やそこらで帰ってきていた。往復にかかる時間がそんなに多くないのを、蓮希は知っている。
「なにかあったのかな……」
それとも、自らの意志で――?
疑う気持ちを拭いきれない自分に嫌気がさした。口に入れたハンバーグの味もほとんどわからない。というか、ほとんど喉を通らない。
とうとう蓮希は箸を置いた。
「おばあちゃん、私ちょっと探してくる」
「クロちゃん?」
「うん。たぶん、裏の祠に行けばわかると思うんだけど」
うぅん、と曖昧な返事が戻ってきた。祖母が困ったように眉を寄せている。あまり良い顔ではない。
「クロちゃんがいないのに外に出るのは……」
「大丈夫だよ、そのクロちゃんのところに行くんだもん」
それに、冥月が懸念していた脅威というのは昇晴のことだ。
夏祭りで会ったときの様子からすると、彼が蓮希に危害を加えるとは思えない。昇晴は「また会おう」と言っていた。それはまたお話しようねと同義だ。
「行ってくる」
もともと出かける準備はできていた。懐中電灯と携帯電話だけを引っ掴んで、玄関に向かう。
「なにかあったらすぐに連絡するんだよ」
まだ心配そうな祖母を軽く流して、蓮希は家を出た。
◆ ◆ ■
蓮希の予想は外れた。
祖母の家の裏、山を登った小さな祠の前で屈んで、肩を落とす。祠の格子扉は、何度開けても閉めても、まったく反応を示さなかった。黒い狐がなかに入っているわけでもない。
冥月のことならこの祠が鍵になると思ったのだが、間違いだったらしい。
ほかに思いあたるのは波槙神社くらいだが、違うだろう。敵地だと言って、冥月は近づきたがらなかった。となると、お手上げだ。蓮希にはもうわからない。
今日は帰った方がいいかもしれない。軽く腰を折って小さな鳥居をくぐる。
人が立っていた。
蓮希から見えたのは、着物の裾だ。もしや、と思って顔を上げる。
背の高いシルエットにほっと安心しかけた蓮希の心は、あっという間にしぼんだ。
冥月ではない。
「こんばんは。珍しいね、ひとりなの?」
蓮希が知らない、男にしては高い声だった。
違う。聞き覚えがある。冥月を拾ったときに襲ってきた、ニセ祖母の――。
さっと懐中電灯を向けた。
ふわふわした白髪が、光を反射してきらきらと輝く。綺麗な顔は大人びて、もう天使のようなと形容することは難しそうだった。蓮希が見上げるほどに背も伸びて、ひょろりと縦に長くなっている。
しかし、頭のてっぺんからつま先まで真っ白な容姿と、明るい笑みは、間違いようがない。
「昇晴さん」
「冥月は一緒じゃないんだね」
祭りで聞いたときよりも少しだけ低くなった声が、蓮希の耳を撫でる。気遣うような言葉に、蓮希もぽろりと漏らした。
「冥月さんが帰ってこなくて」
「帰ってこない? それで捜しにきたの?」
「うん、主さまのところにいると思うんだけど」
「そっかぁ」
昇晴が笑みを深めた。祭りのときに見た人懐っこいものとは違う。いいことを聞いた、と言わんばかりだった。
笑っているのも不自然だったが、続いた台詞はさらに不穏だった。
「よかった、うまくいったみたいだね」
「うまくいった?」
「主さまのところ、行き方はわからないけど、出入り口がそこの祠なのはわかってる。それを塞ぐだけなら簡単だよ。そんなことしても意味ないから、やらなかったけど……いまは、蓮希がいるだろ? 冥月の帰りが遅れたら、蓮希が捜しに出ると思って」
大当たり。昇晴の金の瞳が、三日月を描く。
蓮希はやっと、事態を呑みこんだ。
考えるよりも先に、足が動く。咄嗟に鳥居の内側に飛びこもうとして――。
「こら、逃げない」
腕を掴まれた。蓮希の手から懐中電灯が落ちる。あらぬ方向を向いた明かりは、森の奥を無意味に照らした。
引き寄せられて、甘い香りが鼻をくすぐる。頭がくらくらするような、人を惑わせる香りだった。
「離して!」
「やだ」
子供っぽい口調とは裏腹に、蓮希を引き留める力はすさまじかった。どれだけ引いてもびくともしない。指先が痺れるまで、きつく握られるだけだった。
鳥居の、結界の内側の、あと一歩が遠い。
「お、お祭りのときから考えてたの? その……私、を」
「当たり前じゃない。じゃなきゃ君に近づいたりなんかしないよ。いい子すぎておもしろくないもん……だからうまく騙せたんだけど」
「どこからどこまでが嘘だったの?」
「バカ騒ぎはとっくに飽きたよ。夏祭りなんて浮かれたニンゲンだらけでうるさいだけだ」
つまり、祭りを楽しんでいた姿の、ぜんぶが嘘だ。蓮希は唇を噛んだ。自分が恥ずかしい。
冥月を助けたときの、蓮希の最初の判断を信じればよかった。
冥月が傷つけられた、昇晴が傷つけた。それで十分だったのだ。
いまさら後悔しても遅い。
掴まれた部分から冷たいものが上ってくるようだった。
「……私を捕まえてどうする気?」
「そうだねえ、どうしようか」
顎を掴まれる。月明かりもほとんど遮られた木々の下で、昇晴の瞳だけが異様に光っていた。
「とりあえず主さまを引っ張りだす餌にして……ほかはあとで考えるよ」
意識が暗転した。