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 目の前に黒いかたまりが鎮座していた。


「ぎゃーっ!?」


 トイレの扉を開けた格好のまま絶叫して、蓮希はその場に尻もちをついた。長い悲鳴が途切れた次に聞こえたのは、ばしんばしんと床板を叩く尻尾の音である。


「冥月さん……?」

「ほかに誰がいるんです」

「そうだけどさ」


 悲鳴がよほどうるさかったようで、冥月は耳を倒して塞いでいた。床を叩く尻尾の動きも、いっそう激しくなっている。しかし、蓮希はまだ足が震えていて気にするどころではなかった。


「どうしたの?」

「布団にいなかったので」

「わざわざ探しにきたの?」


 答えはなかった。しかし、これはもう半分肯定したようなものである。


「心配してくれた?」

「うるさいですよ」


 蓮希は、頬の筋肉が緩むのを感じた。


 祭りのあとから、ずっと気まずいままだった。寝るまで冥月が一言も口をきかないので、嫌われたかと思ったのである。


 冥月を信じているのか、疑っているのか。わからない状態でも「冥月さんを信じるよ」と言い切るべきだったのか。そうしたところで、彼はきっと見破っただろう。蓮希は嘘も隠しごとも下手くそだ。蓮希が嘘をついてその場をやり過ごそうとしたなんて思われたら、それこそ冥月に嫌われた。


 悩んで悩んで結局、冥月の寝息が聞こえてきても眠れなくて、行きたくもないトイレに立ったのが少し前のことだ。


 根本的なことはなにも解決していないが、少なくとも、蓮希を心配して寝床を抜けだしてくるくらいには、蓮希はまだ嫌われていない。それがわかったので、ちょっとだけ安心した。


 蓮希はなんとか腰を持ちあげると、洗面所に向かって歩きだす。軽やかな足音があとを追ってきた。蓮希が布団に戻るまで見届ける気のようである。


「ねえ冥月さん」

「なんです?」

「主さまに会わせてくれないかな」

「それはまた、どうして?」

「主さまに会って話を聞けば、私は誰を信じればいいのか、わかると思ったんだ」


 何度考えても、いまのままでは結論が出なかった。

 蓮希は主に会ったことがない。だから真実がわからない。それなら会ってみればいいと、そういうわけである。昇晴が裏切り者なら主はそう言うだろうし、冥月が裏切り者なら……あまり考えたくはないが、そうなのだとしたら、明言はしなくとも、なにかしらリアクションをするはずだ。すべてが明らかになる。


「でしょ? 冥月さんも、信じてもらえないかもしれないなんて、考える必要がなくなるわけだし。私も、昇晴さんは本当に悪い人なのかなって、悩まなくて済む」


 背後の足音が止まった。振り返れば、暗闇に溶けるようにして冥月が立ち止まっている。


「……そう、ですね。たしかに。考えてみれば、簡単なことです」

「決まりだね」

「主に確認を取ってみます。蓮希が神域に入っても大丈夫かどうか。身を隠しているわけですから……万が一にも、昇晴に悟られる可能性があってはいけません」


 懸念がひとつ増えた、と言いたげではあったが、蓮希は聞き逃さなかった。

 先ほどよりもほんの少しだけ、その声色が明るくなっていたことを。


 ◆ ■ ◆


「――き、蓮希! いつまで寝ているんです、いい加減に起きなさい」


 耳元で響く美声が鬱陶しい。蓮希はもふもふの枕に顔を突っこんだまま、おざなりに手で払った。声は手で払えない、なんてことには気づかない。


 顔を背けると、今度は湿った感触がべったりと頬を撫でた。

 悲鳴を上げて、蓮希は飛び起きた。


 ひとかかえもある黒い狐が、蓮希の枕元で優雅に寝そべっていた。肝心の枕は、部屋の隅に追いやられている。

 もふもふ枕の正体は、冥月の腹だったらしい。


 ああそういえば、と蓮希は思いだした。

 昨晩、蓮希が起きだしたことがわからないのは困るからと、冥月が布団にどっかり陣取ったのだ。それが頭の位置だったので、ええいままよとそのまま枕にしてしまったのである。


「いま舐めた? 舐めたよね?」

「あなたがあんまりにも起きないからですよ」


 蓮希は顔をしかめた。「犬みたい」と思っても口には出さない。

 蓮希が布団から這い出ると、冥月はいつの間にか人の姿になっていた。


「緩みきった間抜け面で寝ているかと思ったら、怒ったり青くなったり。ころころ変わって鬱陶しいですね」


 蓮希の顔をまじまじと見つめてそれだけ言うと、彼はそそくさと部屋を出ていってしまった。「見なきゃいいじゃん!」とその背に向かってうめいたが、届いたかどうかは怪しかった。


 日はすでに高く昇っていた。お昼時である。そういえば祖母は起こしにこなかったが……まさか、蓮希と冥月の様子を見て気でも遣ったのだろうか。むしろ叩き起こしてほしかったのだが。枕が変わっていつもより頭の位置が高かったので、少しだけ首が痛い。


 蓮希が居間に顔を出すと、冥月は既に食卓について、梅おにぎりを食べていた。おかずに卵焼きと、なすの漬物。起き抜けの蓮希に優しい献立だった。


 蓮希は冥月の向かいに腰を下ろした。たぶん冥月が注いでくれたのだろう、お茶に口をつけながら、冥月がわずかに眉を寄せるのを眺める。


(酸っぱい顔してる……)


 考えてから、それがわかった自分に驚いた。

 冥月は、これでいて結構表情豊かなのである。ほとんど顔をしかめるだけなのに、そのしかめ方が百通りくらいはあるのだ。


「一度主のところへ行ってきますから、その間に出かける準備をしておきなさい」

「私が来ちゃ駄目って言われる可能性は?」

「まずないと思いますよ」

「昨日は渋ってたのに」

「昇晴の気配があなたにべったりついていたから、追跡されると思ったんです」


 思わず自分のからだを見下ろした。匂いを嗅いだりしてみたが、まったくわからない。


「……今は?」

「私の気配がべったりと」


 それはそれで気になる。


 パジャマの袖に鼻を寄せる蓮希を横目に、冥月が立ちあがった。いつの間にか、皿に山と盛られた梅おにぎりが、三分の一まで減っていた。漬物も半分なくなっていて、卵焼きだけが手つかずのままだ。


「祖母君の卵焼き、好きでしょう」


 なんで知ってるの? と蓮希が聞いたときには、冥月はすでに狐に転じて庭へ降りていた。駆けていく黒い狐を見送って、蓮希は卵焼きに視線を戻す。


「くれるってことで、いいのかな」


 たぶん、いいのだろう。まったく、わかりにくい狐である。

 でもそのわかりにくさが冥月らしい、とも思った。優しいわりには、その優しさを表すのが下手なのだ。


(やっぱり、冥月さんが裏切り者だとは考えにくいんだよな……)


 蓮希は、残された卵焼きをひと切れつまんだ。結論が出るのももうすぐだ。蓮希はただ、冥月が戻ってきて、主のところまで連れていってもらうのを待てばいい。


 しかしその日、冥月が帰ってくることはなかった。

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