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夏祭りへと向かう人の群れを遡って、蓮希と冥月は帰路についていた。
波槙神社の鳥居から遠ざかりながら、半ば引きずられるように冥月の背中を追う。蓮希の手は彼にしっかり掴まれたままだった。強く握られているので、少しだけ痛い。傍から見れば、親を怒らせた子供が無理矢理帰らされているようである。
「……昇晴に、なにか言われましたか」
冥月が口を開いたのは、ほとんど誰ともすれ違わなくなってからだった。日は半分沈んで、東の空から藍色に染まろうとしている。
「だいたい予想はつきます。昇晴ではなく私こそが裏切り者だとかなんとか……」
ちらりと振り返って、冥月は蓮希の顔を見た。よほどわかりやすい表情だったらしい。「そんなことだろうと思いましたよ」と眉をひそめた。
「主さまを騙して力を奪って、自分のものにしちゃったって言ってたけど」
主語はつけなかった。冥月が、昇晴が。どちらかの名前を口にできるほど、いまの蓮希は自分の言葉に責任を持てなかった。
「そこまで話したんですか、あれは」
「主さまとの繋がりを切ったってことは、もう眷属じゃないってことだよね。本当なの?」
「ええ、そうですね」
冥月が足を止めた。つられて蓮希も止まった。からんころんと続いていたふたりぶんの足音が、同時に消える。立ち止まると、夏の湿気がまとわりつくような気がした。
「主から力を借り受けたあと、自身の祠に戻ると見せかけて、山に巣くう妖魔を集めて波槙神社の周囲に潜ませていたようでした。それから主の目の前で縁を切って、動揺しているところを襲わせた」
あまりにも鮮やかな手際だったため、以前から妖魔の協力を取りつけていた可能性が高いようである。妖に成り下がるにしろ、神に近い存在になるにしろ、独立した存在になれば自分の力を分け与えるのは造作もない。主から奪った力を餌にして、あらかじめ一声で妖魔が集まるようにしていたのだろう、と冥月は考えているようだった。
つないだ冥月の手が冷えているのがわかった。掴まれるがままだった蓮希は、握り返したが……瞬間、放されてしまった。拒絶された。宙ぶらりんのまま、蓮希は指先をさまよわせる。
「無論、やったのは私ではなく、昇晴ですが」
蓮希の脳裏に、太陽のような、眩しくて可愛らしい昇晴の笑顔がよぎった。
冥月の広い背中を長い髪が打つ。一瞬だけ振り返ろうとしたような、その動き。しかし、冥月は振り向かなかった。
「私が信用できないですか?」
蓮希は咄嗟に答えることができなかった。
冥月が嘘をついているとは思えない。冥月が裏切り者だとも思えない。
しかし同時に、今ではもう、昇晴が裏切り者なのだと妄信することもできなかった。
互いの主張が逆を行っている以上、どちらも本当のことを言っているなんてことは、絶対にあり得ない。それなのに、どちらも嘘つきだとは思えないとは、矛盾にもほどがある。
蓮希は自分の気持ちがわからなかった。
なにを信じればいいのかも、わからなかった。
疑うという点でいえば、昇晴の態度……たとえば、蓮希に触れていたときの動作の端々の違和感や、裏切り者扱いされて落ちこんでいたわりには、ころっと笑顔で祭りを楽しんでいたこと、去り際に躊躇がなかったこと。
冥月なら、普段のとげとげしい態度や、蓮希との過去の出会いを隠していたこと、昇晴のことを頑なに話そうとしなかったこと。
思いあたる節がないではないが、どれもこれも、重箱の隅を楊枝で洗うような、粗探しに近いものだ。波槙神社の主神と話す機会でもあれば、白も黒もはっきりしただろうに、と思う。でも、蓮希は主に会ったことがない。
「そんなことは、ない、けど」
曖昧な返事をするのが精いっぱいだった。それがよくなかったらしい。
「わかっています。私と昇晴を並べてどちらを信じるかと問われたら……私が選ばれることはまずありませんから」
帰りましょうか、と冥月は歩きだした。蓮希の手は放されたままだ。
太陽はとっくに、山の向こうに沈んでいた。
■ ◆ ◆
主にそれを言われたのは、いつの頃だったか。
「冥月、あまり卑屈になるものじゃない」
子供たちと一緒になって境内を駆けまわる昇晴を眺めながら、頭を撫でられたことを覚えている。
「たしかに昇晴は人の子から好かれる質だよ。冥月にはない、あの子のいいところかもしれないね。でもね、比べるものじゃない。冥月には冥月のいいところがある」
たとえば、と主が言ったとき、子供の泣き声が響いた。子供たちが輪になって誰かを囲んでいる。泣いているのは、その中心で尻をつけて座りこんでいる、ひときわ幼い子供だった。
即座に主の傍から飛びだした冥月は、昇晴が子供の傍らでぱたぱたと尻尾を振っているのを見た。
「なにしてるんです?」
「うーん、僕は甘噛みのつもりだったんだけど」
見れば、子供のふくらはぎのあたりに、くっきりと歯形がついていた。これでは幼い人の子が泣くのも当然である。
冥月はわんわん泣き続ける子供の頬を舐めあげた。
「ほら、泣かない。すぐに治りますから」
冥月の言うとおり、彼が肉球で歯形を軽く叩けば、子供のふくらはぎはもとの傷ひとつないつるんとした肌に戻る。「すごい!」「どうやったの?」「なあに、今の!」「妖術?」子供たちを振り払って、主のもとに戻ったとき、冥月の毛は好き勝手にかき回されてめちゃくちゃになっていた。唸りながら毛づくろいをする冥月に、主は声を立てて笑った。
「主さま……」
「すまない。そういうところだよ、冥月」
「は?」
主は、せっかく整えた冥月の毛並みをふたたびめちゃくちゃにした。
「冥月は、己の牙や爪が人の子を傷つけることを知っている。だからむやみに近寄ろうとしないんだろう? しかし、いざというときには躊躇わずに助けにいく優しさもある。昇晴は物事を人の子のものさしで考えるのが苦手だから、そういうことはできないんだよ」
(私と昇晴は別の狐だから、比べることはできないし、比べる必要もない……でしたか)
まぶたを持ちあげた冥月は、蓮希の祖母お手製の寝床のなかで、ぐっと伸びをした。
懐かしい夢だ。あれはたしか、まだ冥月や昇晴が主の眷属になって間もない頃のことだった。どうしてあんな夢を見たのか……考えるまでもないだろう。
私が信用できないか、などと。
(我ながらあんまりでしたね……)
蓮希の戸惑う顔が、鮮明に思いだされるようだった。冥月はあの瞬間、彼女の顔を見ていない。それでも、困らせたのはわかりすぎるくらいにわかった。瞳に浮かぶ困惑の色まで、簡単に想像できてしまうくらいには。
昇晴には愛嬌がある。冥月にはない。それは明白だ。あの頃から何度悩んだかわからない。蓮希は素直な性格をしているから、昇晴の無邪気な姿を見て、冥月に不信感を抱くのではないかと、焦ってしまった。
彼女に投げたあの問いは、下策中の下策だった。
自分の言を信じてほしかったのなら、言葉を尽くして説明すればよかったのだ。昇晴が持つほの暗い部分というのは、実際に目にした者にしかわからない。それでも、端から説明を諦めるのは違った。
冥月は段ボールの縁に前足をかけて、顔を出した。
蓮希の布団は、空っぽだった。
さっとからだが冷たくなる。まだ寝ついてからさして時間が経っていないはずだ。真夜中である。
(まさか勝手に、家の外に出たりなど……)
祭りでの出来事と、自分の態度と、蓮希の反応。それを合わせれば、あり得ない話でもない。
冥月は寝床をひっくり返して飛びだした。