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国境線《ボーダーライン》

作者: 吾妻栄子

一九八八年、昭和六十三年を想定しています。

「おばちゃん、ありがとう!」

 六歳の淳子じゅんこは笑顔で受け取った小さなケースのガラスを嵌め込んだ蓋を開く。

 白檀の香りが広がった。

「うわあ」

 浅葱あさぎ色の房飾りの付いた扇子を取り出した少女はそっと開く。

 透かし彫りの扇子はテーブルの向こうに座る母親とその友人の笑顔を靄を掛けたように見せている。

「かぐや姫の扇子みたい」

「そう?」

 艷やかな黒髪のパーマ頭に淑子おばさんは真っ赤なルージュを引いた唇で微笑む。

 お母さんのお友達のこの人は普段は「ホンコン」という外国の街に住んでいて、テレビに出てくる女優さんのような素敵なお洋服とお化粧をして時々うちに遊びに来るのだ。

 少女は扇子で口元を隠すと、裏声で語った。

“おじいさんおばあさん、私はもうすぐ月に帰るのです”

 母親たちは大笑いする。

「ほら、このかぐや姫みたいでしょ」

 テーブルの下からアニメ絵本を取り出して、扇を開いて微笑むかぐや姫を指差す。

「可愛いねえ」

 淑子おばさんは夜空に浮かぶ満月を背にした和服の美少女の表紙をどこか寂しげに見詰める。

「この子、こういうアニメ絵本ばっかり欲しがるの」

 母親はどこか苦いものを混ざった笑いを浮かべて続けた。

「本当はいわさきちひろの童話絵本の方を読んで欲しくて買ったけど、アニメみたいな絵の本の方がいいって」

 一人娘のために買った真新しいピアノの脇に掛けられたカレンダーもこの画家の水彩画入りである。

「いわさきちひろは大人の目にはいいけど、小さな子にはアニメの方が親しみやすいかも」

 淑子おばさんはそれだけ語ると、カップの紅茶に口をつけた。

 母親はやや気が削がれた調子で息を吐く。

「淳子が小学生くらいになったら読ませようと思って『わたしがちいさかったときに』とか原爆の本も買ったけど、いわさきちひろは共産党きょうさんとうだしね」

 共産党、とまるで聞きつけられるのを恐れる風に声を潜めて続けた。

「まあ、中国の共産党とは違うけど」

 淑子おばさんは固い面持ちになる。

「香港でも本土ほんどから来た人たちと話すこともあるけど、文革ぶんかくで家族を殺されたとか本当に中共ちゅうきょうはろくな話を聞かない」

 耳にしたお母さんの顔も沈痛になった。

「マークとはね、カナダに移る話も出てるの」

 マーク、と口にする淑子おばさんは幾分綻んだ表情になる。

 これはおばさんの旦那さんの名前だ。

 前に送られてきた写真だと、おばさんと並んで映るそのマークさんは日本人にしか見えない。

 けれど、ホンコンの人は顔は日本人にそっくりでも“ブルース”とか“ジャッキー”とかアメリカ人みたいな名前を使うのだとお母さんは教えてくれた。

 ホンコンの人はカントン語という中国語の仲間の言葉と英語の両方を話すのだそうだ。

「後十年足らずで返還へんかんだしね」

「そう」

 “ヘンカン”って何だろう?

 頭の片隅で思いつつ淳子はテーブルの真ん中の皿から色とりどりのビニールに包まれたチョコレートに手を伸ばす。

 赤、青、黄色……。

「三個までだよ」

 お母さんの声が飛ぶ。

「はい」

 やっぱりお客さんが来てもいつも通りチョコレートは三個までなんだ。

 これはお客さんが来た時に特別出す高いチョコレートだから、いつも食べるマーブルチョコみたいなのより一つがずっと大きいけど。

「これって英語?」

“Ritter SPORT”

 色は異なるがどの包装紙にもそう刷られている。

「これはドイツ語だよ」

 淑子おばさんは即座に答えた。

「リッターチョコは西ドイツのお菓子だから」

 お母さんも言い添える。

「そうなんだ」

 赤い包装紙を裂いて出てきたチョコレートの中程に歯を立てると、バキッと口の中で濃く甘い味が広がった。

 この一口分で普段食べているマーブルチョコの三個分くらいありそうだ。

「ねえ、おかあさん」

 淳子はふと思い出した風に尋ねる。

「どうしてドイツには西とか東とかつけるの?」

 テレビでも大人たちの話でも“西ドイツ”“東ドイツ”とまるでお相撲すもうのように二つのドイツが出てくるのだ。

「今のドイツは西と東で別の国だから」

 お母さんはさっきアニメ絵本の「かぐや姫」を目にした後と同じ苦いものの混ざった笑いを浮かべて答える。

「同じドイツなのに西と東で別なの?」

 それならば、なぜ“ドイツ”と同じ名前を使うのだろう。

「戦争で二つに分かれてしまったの」

 淑子おばさんが代わりに答えて続けた。

「お隣の朝鮮も今は北朝鮮と南の韓国に分かれてるし、中国は大きな本土と香港ホンコンとマカオと台湾に分かれてる」

「ずいぶんたくさんわかれてるんだね」

 六歳の頭にはただ世界には沢山の国があるのだとしか分からない。

「みんななかよくいっしょにいればいいのに」

 お母さんと淑子おばさんの話すのを見れば、国が分かれてしまうのは何だか寂しいことなのだと感じる。

「そう出来ればいいんだけどね」

 お母さんは頷いて答えつつテーブルの下から出したティッシュで娘の唇に着いたチョコレートを拭った。

 淑子おばさんは紅茶のまだ半分以上残ったカップを見下して呟く。

「でも、一度バラバラに分かれて長い時間が経ってしまうと、また仲良く一緒になるのはとても難しいんだよ」

(了) 


 



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― 新着の感想 ―
[良い点] 淑子さんと聞いて女優のあの方想像してしまいました。
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