魔王の右腕の実力(家事)
「たっだいまーっ!」
「おかえりなさいませ、紅葉様」
「きゃーっ! メイドさん! メイドさんがいる!」
「……ふぉふぁぇふぃ」
高校一年目の春休み。
お母さんは帰ってくるなり私をその大きな胸の中に抱き込みながら、私の斜め後ろに控えていたレイネに気が付いて大興奮な様子で声をあげた。
ウチは玄関先とは言っても私有地としてのスペースが広い。
無駄にハリウッドスターみたいな気分を味わいたかったというお母さんの趣味によって扉の正面に噴水があって、左回りにぐるりとロータリーがあったりするから、通りすがりの誰かに見られる事はないんだけど……マネさんがお母さんの後ろに控えているのでやめてほしい。
あと、息が苦しい。
普通に窒息しそう。
「ぶはっ。お母さん、彼女がレイネ」
「レイネちゃん、ね? よろしくね、レイネちゃん」
「よろしくお願いします。凛音お嬢様の御母堂様でいらっしゃるのですから、どうぞ呼び捨てで構いません」
「あら、凛音ちゃん大事にされてるわね~。でも、そんな凛音ちゃんのママの私からの『ちゃん付けで呼ばせてほしい』っていう要望は聞いてくれないのかしら?」
「……いえ、そういう訳では」
「そう、ならレイネちゃんねっ」
「……はい」
レイネ、どんまい。
お母さんは見た目ふわふわだけど、こうって決めたら貫くタイプだから諦めて。
ふわふわとして微笑んでいる姿がデフォルトなお母さんだから勘違いされやすいんだけど、お母さんってこう見えて意志を貫き通すという芯の強さは凄まじいんだよね。
そのくせ、お母さんは自由人というか、あまり堅苦しいのを好まない性質の人だから、どうしても他人からは御しやすいと勘違いされやすかったりする。
お母さんをコントロール?
あはは、むりむり。
「……えっと、凛音ちゃん、だよね?」
「はい。お久しぶりです、風見さん。いつも母がお世話になってます」
「……ほわぁ……」
ほわぁ……?
なんだか謎の声を漏らしながら目を丸くしてまじまじと私を見つめてくる、お母さんのマネさんこと風見さん。
お母さんよりも若いし童顔という事もあって、ぱっと見ると私と同い年ぐらいに見えちゃうこの人は、ユズ姉さんがお母さんのマネージャー業務を離れる際に引き継いで、それ以来ずっと支えてくれてる女性だ。
私も何度か顔を合わせた事はある。
「く、紅葉さんっ! 凛音ちゃんをウチの事務所で――!」
「――ダーメ。凛音ちゃんが自分からやりたいって言わない限り、芸能界入りは反対でーす」
「早いですっ!?」
「だってー。ねぇ、凛音ちゃん。芸能界入りたいって思う~?」
「え? 嫌だけど?」
「嫌っ!?」
「ほら~、やっぱり~」
何事かと思ったけど、どうも私を芸能界に入れたいと考えたらしい風見さんがお母さんに出鼻を挫かれたみたいだった。
「り、凛音ちゃん、一応理由を教えてもらっても……?」
「理由、ですか? んー、強いて言うなら……」
「言うなら……?」
「めんどい」
「めんどいっ!?」
うん、その一言に尽きるんだよね。
芸能人、って言っても活躍の方向性は多岐に亘るとは思うけど、そもそも私、上下関係とかそういうのが苦手だもの。
先輩がどうとか大御所だからどうとか、そんなのにいちいち気を遣いたくない。
それにお母さんを見ていて常々思うんだけど、映画やドラマに出るなら演技の勉強とかもしなきゃいけないし、何かと大変だもんね。
ロケがどうとかでお母さんが数カ月間拘束されてたり、夜のシーンを撮影したいからって夜にやったり、天気の都合で長時間撮影してたりで生活リズムなんてものも崩れちゃってるし、たまに寝不足で辛そうだったりもするから、あんな風になりたいとは思わないんだよね。
通用するとか才能があるなんて言ってくれるのだとしても、根本的に私には向いてないんだろうな、というのが本音。
それなのにやるとなると、そういった諸々を含めた結果、総じてめんどい、となっちゃう。
「うふふ~、そうねぇ~。確かに凛音ちゃんの言う通りね~。私も引退しちゃおうかしら~」
「んなぁっ!? 紅葉さん!?」
「いやねぇ、冗談よ~……まだ」
「まだ……っ!?」
相変わらずお母さんにいじられて……可愛がられてるって言うのかな、これ。
まあどっちにしても、相変わらず風見さんはお母さんに気に入られてるんだね、風見さん。
「まあ立ち話もアレだし、早く入ろうよ。風見さんも良かったらどうぞ」
「あっ、はいっ! お邪魔します!」
「お母さん、お昼は?」
「まだなのよねぇ~。何か出前でも取ろうかしら」
時間はもう14時だからね。
私も色々作業していてお昼を少しずらしてもらっていたんだけど、そういう事なら私も一緒に食べれそうだね。
「レイネ」
「はい、お嬢様のお食事もありますので、増やす事は簡単です。宜しければ風見様もどうぞ」
「あら、凛音ちゃん、ご飯食べてなかったの?」
「うん、ちょっと作業があったから」
「そうなのね。でも、レイネちゃん。準備してくれるって言っても、急に増えちゃうと大変でしょう?」
「問題ございません。下準備は常に余裕を持っております」
「あらあら……。すごいわねぇ……」
「ほわぁ……はっ!? えっと、いただきますっ!」
「かしこまりました。では、お荷物はこちらでお預かり致します」
レイネの対応の完璧具合はさすがのお母さんであっても驚いたらしい。
風見さんもだけど、二人揃って目がまんまるだ。
まあ、下準備してあるっていうのは多分嘘だと思うけどね。
お母さん、何時に帰ってくるとか言ってくれなかったし。
ただ、レイネなら魔法を上手く活用してすぐに準備できるし、料理工程で時間がかかる解凍や沸騰、熱するとかって作業を魔法であっさりとスキップできるから、人間で言うところの下準備してある状態にはすぐにできちゃうんだよね。
それに、同時並行で料理を行ってる手際とかも凄いからね、レイネ。
食材は魔法で切り刻むし、洗い物も魔法。ついでに盛り付けも魔法でぱぱっとやっちゃうから、まあ作業速度は人間の時短というものを遥かに超えてる。
くくく、魔王の右腕の力、存分に思い知るがいい。
「……えぇと、凛音ちゃん? なんだか、新築みたいに綺麗というか……」
「……ほわぁ……」
「レイネが徹底的に掃除してくれたからね。これぐらい、レイネならできるよ」
荷物を任せて先にリビングへ向かう最中、お母さんと風見さんの反応は似たようなものだった。
そういえばユズ姉さんも似たような反応だったね。
確かにこっちの世界は便利な家電なんかも溢れているけれど、それでも目に見えないところ、届かないところというものは当然出てきたりもするし、布なんかには色々な匂いも染み付いたりする。
けれど、レイネはそんな見えない部分はもちろん、布に至っても全て魔法で綺麗にしてしまうし、しっかりとその後で天日干しやら何やらもしてくれる。クッションどころかソファーだって魔法で運び出すし。
そんな事までしてしまうものだから、家特有の染み付いた匂い、みたいなものが元々あまり多くなかった我が家はアロマ加湿器のいい匂いだけがふわりと漂っている。
我が家の匂いは落ち着くって言ったりするけど、それって単純に嗅ぎ慣れてるからってだけだしね。
ほら、他人の家ってたまに独特な変な匂いしたりするし、ない方がいいんだよ、多分。知らないけど。