木村さん
男は待ち合わせに間に合うように、人込みを急ぎ足で進んでいた。
昭和の時代に流行った5分前集合を実践しているわけではない。
幸い、待ち合わせには、間に合い安堵した。
男は、昔は時間に多少ルーズだった。
2、3分遅れても、そのぐらいのことで気にする奴は大した奴じゃない と
思っていた。
そのくせ、自分が待たされると明らかに苛立った。
なんとも自分勝手な奴だ。
男が、約束の時間を守るようになったのは、ある人の言葉によるものだった。
言葉というより、その言葉を話した人物のすべてから、影響を受けた。
その人物は、木村さんという男が勤める会社の仕入れ先だった。
ある時、木村さんに、当時会社の社長をしていた男の父親が頼みごとをした。
内容は、あるものを作りたいので、それを作れる機械を製造する会社を
紹介してほしい というものだった。
木村さんは、男の父親とは長い付き合いだったので、紹介するから
後は直接 と言ってくれた。
男の父親はそこで息子に説明し、待ち合わせ場所に向かわせた。
男は、ちょっと面倒臭そうな表情だったが、素直に従った。
男が、事務所を出る際に、電話が鳴った。
男が担当する会社の営業だった。すぐに切るつもりが、
少し長い電話になってしまった。男は慌てて、待ち合わせ場所に向かった。
かなり急いだつもりだったが、5分ほど遅れてしまった。
木村さんは待っていてくれた。
ただ、自分の顔を見て、一言つぶやいた。
他人の時間を泥棒しちゃいけませんよ、若社長 と
男は驚いた。
自分の周りの人間で、こんなことをいう人間はいなかった。
しかも仕入れ先だ。木村さんにとっては、男の勤める会社は
お客様でもあるのだから。
だが、それ以上は何も言われることもなく、紹介先に向かった。
男は、道すがら木村さんに何度も謝った。
結局、その紹介先も男の父親が希望する機械を製造することはできないと
断ってきた。
新しい機械を作るのは、時間も手間もお金もかかることだからだ。
男はもう一つ気になっていることがあった。
木村さんが最後に言った 若社長である。
若社長と言われたのは初めてだった。
会社の忘年会で引っ張り出されて、下手な歌を披露すると、
従業員から、よ! 未来の社長など と言われることはあったが
若社長は初めてだった。
そして何よりも、その言葉を口にした、木村さんが格好いいと思った。
江戸っ子の粋を垣間見た気がした。
そして、自分も木村さんのような格好のいい男になりたいと願った。
それ以来、待ち合わせに遅れることがないように、気を付けるようになった。
最も、木村さんが江戸っ子なのかどうか 男は知らない。