◇30◇ ギアン様からの招待
「…………本当に、大嫌いな人だったのです。
支えてくれる他の方がいなければ、わたくしはここに存在していなかったでしょう。
だけど……」
母は、行き倒れての死亡だったという。
劇団長とペラギアさんが、憲兵のところにいって遺体の確認をし、そして引き取り、埋葬まで済ませてくれていた。
死んだときの所持金はなく、細く短い髪の束を、大切に持っていたそうだ。
心当りがある。
産まれたばかりの私が衰弱して死にそうになったときにこれが最後ではと髪を切った。
それを母はお守り代わりにしていたのだ。
亡くなったときの彼女の服や所持品も団長たちが預かってくれていた。
だけど、私は受け取る勇気がなかった。
母の死に、ホッとする感情がないわけではない。
詳しくはわからないが、たぶん父も母も前科がある(そして私のお金を盗っていた)。
私がファゴット家に世話になっていることをもし両親に知られたら、それを利用しようとやってくる可能性はあった。
それぐらい疑ってるし、欠片も信じていない相手だったけど、私を愛していなかった、とは言えなかった。
むしろ執着していた。
私を産んだときの話を繰り返し、していた。
『それは秋の、寒い寒い夜でね。
古びた教会で、雨つゆを凌ぎながら何時間も何時間も苦しんで産んだのよ』
『産んですぐのあなたは、とても衰弱していて、すぐにでも死にそうで、でも私もお産の直後で目がかすんで、動けなくて……。すぐに死んでしまうと思ったわ』
『お父さんがお医者さんに連れていってくれたのだけど、帰ってきてからは、よくお乳を飲むようになって……あなたは健康にすくすくと育ってくれた。
お父さんがあなたの命を救ってくれたのよ』
『あなたを産んだことだけが、私の誇りだわ』
ああ、駄目だ。
すべてが、マレーナ様がいる環境と違いすぎる。
話すほど、“マレーナ・ファゴット”役からは遠ざかる。
「……申し訳ございません。
わたくし、自分の感情を話すのもうまくありませんわね。
よろしければ、ここでお許しください」
「無理をさせたなら、すまぬ」
ギアン様は立ち上がり、私をぎゅっ、と抱き締めた。
びっくりした。ギアン様のにおいに包まれ、私は思わずそのまま完全に私に還ってしまいそうだった。
「悪かった」
「…………?」
「その人というのは、貴女よりもだいぶ歳上の人間なのだな?」
「? …………はい」
「そうか」
ぎゅっ、と、再びギアン様の手に力が入る。
「支えになりたいが、悲しみは貴女だけのものだ。
人間の感情は一面的ではない。憎しみと愛情が混ざっていることもある。
離れられれば良いのにと思いながら離れられず、諦められれば良いのにと思いながら諦められず、小さな喜びで満たされてはどうしようもなく想い続けてしまったりするのだ」
……びっくりした。
シンプルな行動原理で動いていそうなギアン様の口から、そんな言葉が出たことに。
そしてその言葉は、私の母に対する感情と同じだった。
恋をしたことがなかった私が、愛に狂う女を演じられたのは、その感情を知っていたから。
「…………すまなかった」
ギアン様がゆっくりと私から離れる。
好きな人に抱き締められるというのは何とも言えないものだ。
だけど、いまの私はマレーナ様の身代わり。
『完璧なわたくしを演じてきて』
それがマレーナ様の望みだ。
「こちらの話ばかりで申し訳ないことでしたわね。
ギアン様は、夏休みにはレイエスに戻られるのでしたわね」
「ああ……もし、かなうならば」
ギアン様の手が、私の手を取った。
普段よりも、ギアン様が積極的な気がする……。
「マレーナも来てくれないだろうか。
ファゴット家をレイエスに招待したいのだ」
「ファゴット家の皆をですか?」
「うむ。身体の具合にもよるかもしれぬが、気晴らしになるだろう? ぜひ、来てほしいのだ」
「この場ではお返事できかねますが、父に話をさせていただきますわ」
……マレーナ様行けるだろうか?という心配と、でもマレーナ様にとってそういう時間があってもいいのじゃないかという気持ち。
それから、…………なぜ、他の男性に目移りしていたマレーナ様が、というドロドロとした気持ちがないまぜになるのを押さえつけた。
「貴女も、あまり無理をするな。心と身体を休めてくれ」
「……はい」
私はうなずき、ファゴット侯爵やマレーナ様にどう言ったら良いだろうかと思いながら、ギアン様の琥珀色の瞳を見つめた。
◇ ◇ ◇
通院のため11月13日の更新は遅れます。




