◇23◇ ファゴット侯爵の過去
◇ ◇ ◇
(よし、出ていこう)
そう私は決めた。
(いつまでもここにいて、ずるずると替え玉やって。それじゃいつまでたっても私が邪魔で、マレーナ様が結論を出せなくなる)
荷物をまとめて、夜明け前にそっと起きた。
奥様やシンシアさんからいろんなものをもらって、来たときより重くなったトランクを抱える。
邸の裏口は、朝早い使用人が起きてるかもしれない。
表玄関の方から、抜き足、差し足で、そうっ……と……。
「どこへいくんだ!?」
暗い邸のなかで、怯えたような男性の悲鳴じみた声が上がって、思わず振り向いた。
蒼白な顔の、ファゴット侯爵がそこにいた。
しまった。
この間マレーナ様の家出に心を痛めたばかりだったんだこの人。
「あ、あの、私、リリスです!
マレーナ様じゃないです!!」
「どうしたんだ、邸で何かあったのか!?」
「…………??」
「何か嫌なことがあるなら聞く、どうにかする!
だから、黙って出ていかないでくれ!!
頼む!!」
必死のファゴット侯爵。
いったい? 私がリリスだとわかってないの?
ばたばたばたばた、と廊下を走ってくる足音。
やっぱり寝間着姿のマクスウェル様がきて、ファゴット侯爵を制止する。
ほかにも人が起きてくる気配がする。
そっと出ていくつもりが、大事にしてしまった。
「父上……落ち着いてください。
すまない、リリス……だな? 悪いが部屋に戻ってくれ。あとで話をする」
マクスウェル様に止められるファゴット侯爵が、涙をにじませていたのが印象的だった。
◇ ◇ ◇
「………………父は、人に黙って出ていかれるのがトラウマなんだ。昔出ていった弟が、2度と邸に帰ってこなかったと」
マクスウェル様と、やはり起きてきた奥様が、ファゴット侯爵の過去のお話を始めた。
温かいレモネードを渡された私は、なんと言って良いのかわからなくなる。
「母が嫁いでくるよりも前のことだ。長男として厳しく育てられた父は、いまとは全然ちがう性格で……ファゴット家を背負って立つ人間としてかなり厳格だったそうだ。それこそ、祖父をそのまま写し取ったような」
「だから……当時13歳だったかしら、悪い友達に誘われて素行が悪くなった弟のことも、更生させないと、と思って、厳しく叱っていたそうよ」
「ある日、叱ったあとに弟は出ていって、2度と帰ってこなかった。
父は一生懸命探そうとした。名前を聞いていた友人たちを訪ね歩いて、帰宅するたびに祖父に折檻されても……でも見つからなかった」
…………マレーナ様が家出をしたときの取り乱しようは、そういうことだったのか。
「それから、父は恐れるようになった。厳しく叱ったら出ていってしまうんじゃないか、と。私も父に厳しく叱られたことはない。マレーナもだろう。……その分祖父は、まぁ恐ろしかったが」
「私、侯爵の心の傷をえぐってしまったんですね」
確かに、存在していた人に何も言わずいきなり姿を消されたら、残された人がどう思うか……。
私は考えが欠けていた。
「そうだな。それ以上に、何も言わずいなくなられたら、本当に自分の意思なのか、連れ去られたのかわからないだろう?」
「リリス。いろいろな思いはあると思うけれど、私たちはもう関わってしまったの。お願いだから、話をして解決させて。
マレーナがあなたに何かしたの?」
「そういう……わけではないんです」
マレーナ様が別の男性との結婚を狙っていると、私は告げるべきだろうか。
婚約は家同士のことだ。
だけど、誰かを思っていることはマレーナ様の心の中の秘密だ。
でも、マレーナ様がその誰か(おそらく王太子殿下)を狙ってすでに行動しているなら、それがファゴット家の評判にかかわってくることもありうるのか。
「…………リリス?」
「いえ、その……なんでもありません。
お二人は、いまのマレーナ様がギアン様と結婚することが最良の結末だと思いますか?」
「……………………」
奥様とマクスウェル様は、しばらく考えた様子だった。
「改心……してくれれば、それが一番良いが……そうならないなら正直、婚約を解消することも考えるべきだと私は思う」
「マクスウェル?」奥様がマクスウェル様を見る。
「ファゴット家のことだけを考えると、それはマレーナが嫁いでくれなければ困るということになるが……。
今のマレーナは、ベネディクトとレイエス、2つの国をつなぐ存在だ。だから、マレーナがいかに素っ気なくてもギアン様はマレーナを大切にしてくださった。
だけどマレーナは……大公妃か大公子妃かという、自分の地位に固執している。自分の地位がすなわち家の利益なのだからと。
そんなのは家のためを言い訳にした私利私欲だ……いや、本人も区別がついていない可能性はあるが」
……そういう言い方をすると、なんだかマレーナ様が短絡的で、ギアン様が大局的な視点で物事を見ているようにも聴こえるけど。
「逆に言えば、ギアン様は、国を守るために犠牲になっていると……?」
「…………そういう言い方をされると、身も蓋もないな。
まぁ、大人たちが押し付けてきた大任に対して、マレーナは自分が納得するだけの対価を求めているだけかもしれない。
ただ、いずれにしろ、マレーナのそういう自分の立場への自覚の薄さは否めない。
国のためだけを考えるなら、もっとふさわしい令嬢に代わるべきなのかもな」
「…………ありがとうございます」
率直なマクスウェル様の意見を聞けて、良かった。
同時に、ギアン様の思いを考えてしまう。
ギアン様は、義務でマレーナ様を大切にしているというだけじゃない。
マレーナ様と、マレーナ様に扮した私のことが、好きなのだと思う。
(……私だったら)
考えても仕方がないことを考えてしまう。
(私がマレーナ様だったら、ギアン様が少しでも幸せでいられるよう、がんばるのに)
でもギアン様が求めている相手は、私じゃない。
「……マレーナ様には、そういうお話は?」
「しようとしては逃げられているな」
「なるほど」
そのとき
「すまなかった、リリス」
と声をかけて、ファゴット侯爵が部屋に入ってきた。
ふくよかでいつも血色がいい侯爵が、心なしかやつれた様子で、椅子に座る。
……不意にその横顔に既視感が一瞬浮かんで、消えた。




