いつも控えめで大人しい読書女子に朗読をお願いしたらとんでもない事になった。
その子の存在が気になったのは、忘れ物を取りに図書室へ行った時のこと──。
(あんな子、居たっけ?)
窓際の席に座り、本を読む一人の女子。
静かに、夢中になっているのか、僕がずっと眺めていても気が付く様子は無い。
テーブルには小さな眼鏡が置かれていた。本を読むときは眼鏡を外すタイプらしい。じっと本を手に取り、時折ページをめくる仕草だけが繰り返された。
どんな本を読んでいるのか気になって少し近付いたが、何故かブックカバーがしてあったので分からなかった。
「睦月、早く帰ろうぜ」
「お、おう……」
友達が待ちきれずに図書室まで来た所で、僕は彼女から目を逸らし、図書室を後にした──。
「睦月、夜宵さんが気になるのか?」
「やよい? 夜宵っていうのか、あの子」
「三組の女子だ。いつも本ばかり読んでるが、声が良いから朗読や合唱の時は人気なんだぞ?」
「……ふぅん。なぁ、それより今週の──」
適当な相槌を打ち、僕はその話題を打ち切った。
「…………」
放課後の図書室は、扉の開け閉めの音ですら結構大きく聞こえる事に、僕は驚いた。
(あ、いた……!)
彼女はまたも窓際の席に座って本を読んでいる。
少し近付いてみるも、やはりブックカバーで本までは特定出来なかった。
暫く棚の奥からこっそりと彼女の様子を見つめていたが、十分ほどで本を閉じてバッグへとしまい、そのまま帰ってしまった。
(これじゃあストーカーじゃないか……)
そう思った僕は次の日、正面の席に座り声を掛けてみた。
「あ、あの……」
彼女の目だけが僕の方を向いた。
「何を……読んでるの?」
「…………」
カタン、と本が倒された。目をこらして内容を読み取るが、難しい漢字ばかりで読むに読めない。
「な、なんて書いてあるの?」
本を起こし、目を落とす彼女。暫し無言の時が訪れた。
「…………」
「…………」
「…………」
「……都会の喧騒から隠遁する事早幾許、霜月の催事の仕度も滞りなく収束し──」
「──!!」
「──は陽炎となりて、牧歌的先人の夢を追う日々に幕を下ろした……」
「……あ、ありがとう……ございます」
「……いえ」
まさか読んで貰えるとは思わなかった。
しかも想像以上に声が綺麗だった。
だが……内容はさっぱりだった。訳分からん。
「ごめん、結局何の本なの、それ?」
「都会暮らしに嫌気が差した中年が山に籠もる話」
「あ、そう……」
それの何が面白いのか、僕にはさっぱりだ。
「その本いつ終わりそう?」
「……明日、かな」
「じゃあさ、明後日は別な本?」
「うん、多分」
ほほう。と、僕は顎に手を当てた。
「じゃあさ、明後日また来てもいい?」
「えっ、ええ……別に」
「じゃ、また明後日ね」
「……?」
僕は彼女に手を振り、図書室を後にした。
明後日、彼女にまた読んで貰おう。少し図々しいが、彼女に少し興味が沸いてきた。
「……や、やあ」
「…………」
目だけで挨拶をされた。
放課後の図書室には、僕と彼女だけ。
相変わらずのブックカバー。何の本かは分からない。
「今日は何の本?」
彼女の正面に座り、頬杖をつく。
努めて笑顔で話し掛けたが、内心滅茶苦茶緊張している。
「推理小説……」
「へー……」
「…………」
目線が本へと移ってしまった。
何も無い時間が、やりにくい。
「…………」
「…………」
「ど、どんな推理小説なの?」
「…………」
本を倒し、此方へ向けてくれた。
しかし、相変わらずの活字オンリーに、思わず拒否反応が出てしまう。
「良く分からないから、その……良かったら少し読んで貰えないかな?」
「…………いいよ」
本を立て、息を吸う彼女。
まじまじとその様子を見続けた。
「──タイムマシンで西暦2068年に降りるも、目的の家は見付からなかった」
「うん、いいかな?」
思わず顔に右手を当て、左手を伸ばし朗読を止めてしまった。
静かに彼女がこっちに顔を向けた。とても不思議そうな顔だった。
「推理小説なの?」
「うん。タイムマシンで過去に来て、未解決の殺人事件を現行犯で逮捕する探偵の話」
なんちゅうやり口だ。探偵のすることなのか?
「てか、現行犯じゃなくて未然に防げないの?」
「……多分、その理由も後で出て来るはず」
「あ、ごめん。先を続けて」
まだ読み始めたばかりだから、分かるわけないよな。せっかちだな俺は……。
「──少しずつ時を遡り、西暦2067年の五月。それらしき時に降りた。ついでに私用を済ませる事としよう」
彼女の美しい声に耳を傾ける。冒頭からいきなりの衝撃的設定。しかしもうこれ以上の事はないだろう。
頬杖をつき、重力に身を任せる。
「──日本ダービー。三連単。馬券を買った」
「待てぃ!!」
「図書室では静かに」
「あ、すみません……」
図書委員に頭を下げ、上げた腰を落ち着かせる。
とりあえず興奮しすぎた事を彼女に謝る。
「ごめん」
「いえ。どうしましたか?」
「何故競馬?」
「未来から来たということは、結果を知っているんですね」
「あ、なるほど──って探偵がそれをやっていいの!?」
「私用ってなってるから、どうだろ? 後で分かるかも」
「あ、うん」
再度頬杖をつく。
自分でも微妙な顔をしているのだと思うが、流石にこれ以上の事はなかろう。うん、多分……。
「──ロン! 対々三暗ドラ2! 殺人事件発生まで、麻雀をやった」
「うぉぉぉぉ!!!!」
「静かに!!」
「あ、すみません…………」
ついにキレてしまった。
なんなんだこの推理小説は……!
「す、すまん。どうにもこうにも、その推理小説はアレだ……僕の健康に良くない」
「ふふ、私もそう思う」
彼女が口元を押さえ、くすすと笑った。滅茶苦茶可愛い仕草だ。
「ふふふ、ふふふふふ!」
ツボに入ったのか、彼女の笑いが止まらない。
「ごめんごめん、ここまで反応してくれるなんて、きっとこの作者さんも喜んでくれると思うよ!」
「……どっちかと言うと、作者に遊ばれてる気がする」
「ふふ、そうかもね」
なんだか変な推理小説のお陰で、彼女との距離が近付いた気がする。不本意だけど。
「あ、そろそろ帰らないと」
「ごめん、ありがとう……」
本をバックにしまい、彼女は図書室を出て行った。帰り際、彼女が「バイバイ」と手を振ってくれた。
俺も咄嗟に手を振った。小さくだけど。
翌日、俺は放課後すぐに図書室へと向かった。
なんだかんだあのアホ臭い推理小説の続きが気になっているのだろう。不本意だけど。
「昨日の続きを──」
「──あ」
彼女が口を開けて呆けた。
そして、目を逸らした。指で頬を掻いて、申し訳ないと言う様な、そんな顔だ。
「ごめん、今日は違う本」
「き、昨日のは!?」
「あはは……昨日帰ってから全部読んじゃって、さ」
「続きは!?」
「──気になる?」
「お、おおおう」
ふと、彼女の笑みに不思議な物が含まれたような気がした。
「ふふ、教えない」
「えーっ!?」
本で口元を隠し、不敵に笑う彼女。
殺人事件は!?
競馬は!?
麻雀は!?
結局どうなるんだ!!
「ふふ、気になる?」
「き、気になる……なぁ」
口元を押さえ隠しつつ、音もなく笑う彼女。
「ないしょ♪」
「ぉふ」
しょんぼりと座り、頬杖をつく。
今日の本は何だろな、と目を向ける。茶色のブックカバーと、押し花をラミネートしたお手製のしおりが目についた。
「今日のも、読んで貰えない?」
「…………うん」
快い返事を貰えて、ちょっと嬉しい。
じっと彼女の顔を見る。
「──ウ〇チ爆弾五秒前」
「いけません!!!!」
図書委員が「お静かに!!」と叫んだ。
お前が黙れといつか返してやりたい。
「何故ウ〇チ!?」
彼女が本を倒した。
何処からどう見ても、それはギャグ漫画だった。
「ま、漫画!?」
「活字は嫌そうだったから……たまには」
「け、けどウ〇チは……!」
「ウ〇チ嫌い?」
「か、可も無く不可も無く……」
引きつった笑顔で続きを促した。
彼女の朗読は続く。
「──マシンガンを専務の尻に隠してある。しくじるなよ?」
「ちょいちょいちょいちょい!!!!」
図書委員が本を両手で引き裂きながら「お静かに!!」と、吼えている。本を大切にしろ。
「もう何が出ても驚かないと思ったけど、ウ〇チの次は尻なのね」
「ギャグ漫画ですから。それに、専務の尻は凄いんですよ?」
「待て待て! 女の子が無闇に尻とかシリとか匹夫の勇とか言ってはいけません!」
「ふふ、ふふふ」
またツボに入ったのか、彼女が本で口元を押さえながら、笑っている。
「ごめんごめん。本の内容でここまで人と話した事ないから、面白くて、ふふふ」
「…………」
そうか。彼女は朗読で声を聞いて貰える事はあっても、その内容まで話した事は無かったのか。
そうだよな。綺麗な声だから、そっちばかりに気が行くよな。
「ちなみに……専務の尻はどう凄いんだ?」
「……ないしょ♬」
彼女は大きな口を開いて、僕に笑いかけた。