二
狭い領地である上に、険しい山と谷しかない。
よそ者が入り込める場所は限られる。
丙姫の指摘に間違いはない。
丙姫は、怒濤のように駆け抜けて、思い当たる場所に行ってみた。
だが、 人影はない。
特技を生かし、さらに野性に戻って気配を探っても、何も感じられない。
「手間のかかる凶悪犯じゃ。さっさと捕まりに来ぬか」
凶悪犯は意外にも険しい山に慣れた人間なのかも、とは考えない。
まだたどり着けないだけに違いない。
いわゆる、女の勘である。
他の土地から九十谷に出入りする場所も、ほぼ決まっている。
地形に慣れた領民でさえ、めったに他からは出入りしない。
まずは、そこを目指してひた走る丙姫なのであった。
「居た!」
間もなく、地獄耳が凶悪犯の居どころを突き止めた。
「見つけた!
わざわざ身動きもままならぬ場所に入りこんで身を隠すとは、裏をかいたつもりか。猪口才な凶悪犯め」
進むも退くも出来ない場所でもがいていた男は、ギョッとしたように身をこわばらせた。
しばらく息を整えると、やっと返事を返した。
「凶悪犯とか、裏をかくとか、何のことでございましょう。
土地の方ですか。わたくしめは山田屋太郎と申すしがない商人でございます。
初めてこちらにご挨拶に立ち寄りましたところ、難儀な場所に往生しておりました。どうかお助け下さい」
慣れない愛想笑いをしながらも、必死の形相を隠せない。
「偽名臭い名前だ。
しかも、商人が何故こんな辺鄙な場所をうろついている」
「考える暇が無くて……、いえ、本名です。販路拡張です。
何でもいいから早く助けて」
丙姫は、少し離れた場所から、ひょいひょいと男の上に出て、手を伸ばした。
「左手を放して、斜め上の出っ張りをつかめ。
右足の少し上に足がかりになるところがある」
指示をしながら、男を引っ張り上げた。
「ありがとうございます。ったく、なんて場所だ」
男は振り向いて、自分がはまり込んでいた場所を、忌々しげに睨んだ。
取って付けたような愛想笑いを取り戻し、丙姫をじろりと見る。
「ついでと言っちゃあ何ですが、人家のあるところまで行きたいので、道を教えてもらいたいんですが」
「販路拡張だったっけ。無理だぞ」
凶悪犯に、営業地域を拡張させるわけにはいかない。
丙姫は、そっけなく応じた。
「まずは、調査をしてみなくちゃね。出来るかできないかはこっちの判断。
けちけちしないで、道を教えてくださいよ」
窮地を脱して安心したのか、男の態度が少し大きくなった。
「……道か。おまえが進んで行けるところが道だ」
丙姫は、きっぱりと言ってのけた。
「ちっ、思想的な意味とか哲学的な意味を聞いているんじゃない。
そういうのは嫌いなんだ。
具体的かつ役に立つ答えが欲しいんで。
さっさと教えてくれないかなあ」
人を食ったような答えに業を煮やしたのか、男は、隠したつもりの正体をさらけ出す。
目つきを鋭くして、居丈高な態度に出た。
「これ以上ないほど具体的な答えなのじゃがのう。
城に連れて行ってやる。ついて参れ」
男は、改めて丙姫を眺め、勝手に納得してにやりと笑った。
城に連れていくと言ったな。
山の娘に見えないのは、城勤めの人間なのだろう。
まるで姫君のように良い物を着ている。
良い物を着てはいるが、本物の姫君ということはなさそうだ。
眉毛が凛々しすぎる。
端午の節句に飾る 金太郎人形のようだ。
金太郎眉毛の姫君は いない。
いや、いて欲しくない。
城勤めの娘が良い身なりをしているということは、こんなド田舎でも案外豊かな領主なのかもしれない。上手くいけば、お宝の一つや二つは手に入れられるかもしれない。
行きがけの駄賃に頂くというのも良いだろう。
なあんて事を考えていた。
凶悪犯に決定である。
険しい斜面をなんなく進む丙姫であったが、
「おい、ちょっと待て、ここは道じゃないだろ。ついて行けるか」
山田屋太郎(偽名)は、置いてきぼりを食って吠えた。
丙姫は振り向いて、ため息をつく。
「一番進みやすい経路を選んでやっておる。
存外になさけない奴じゃ」
「この先には、ちゃんとした道に出るんだろうな」
「ここでは進めるところが道じゃ。人の話はよく聞くよーに。
そんな事だから、人の道にも外れるのじゃ」
山田屋太郎(偽名)は、言い返すほどの余裕もない。
「そこは滑りやすい。もそっと右じゃ。
ゆっくり進んでやるほどに、しっかりとついて参れよ」
丙姫は、的確な指示で男を導いてやる。
必死に後をついて行きながら、山田屋太郎(偽名)は、心中で悪態をつきまくっていた。
(くそ生意気な小娘だ。城に着いたら、どうせ御用済みだ。覚えてやがれ)
まったく、どこからどう見ても間違いなく兇悪犯である。
そんなこんなで、険しい斜面を登ったり降りたりしながら、進んでいく二人であった。
凶悪犯も、山地に慣れない人間にしては、よくやったと言うべきであろう。
ゆっくりではあったが、着実に城に近づいて行ったのであった。
しかし丙姫は、男の頑張りを認めない。
丙姫にも都合がある。
「もう少しちゃっちゃと進めぬものか。
発声練習をしなくてはならぬのじゃ」
苦情を言いながら振り向いた時であった。
ぐーっ、という音が高らかになった。
山田屋太郎(偽名)の腹の虫である。
「おお、空腹なのか。遠慮せずに、そこいらの草も食べておけ。
まだ多少の道のりがあるぞ」
丙姫は言いながら、手近なところにあった草をひとつかみ引きちぎって、差し出した。
山田屋太郎(偽名)は、無視するように睨み返した。
(くそっ、馬鹿にしやがって。城に着いたら、思う存分にぶちのめしてやる)
「なあんだ、要らぬのか。
なかなかに乙な味なのだがな。好き嫌いは良くないぞ。
権助が、里ではめったに味わえぬ珍味だから、高値で売れると申していたのに。うん、 美味い」
丙姫は、自分でむしゃむしゃと食べた。
山田屋太郎(偽名)…… うっとおしいので、以後(偽名)を省略します。
山田屋は、えっ? と辺りを見回したが、どんな草だったのか、自分では見分けられない。
満足そうに噛みしめて味わっている丙姫を、忌々しそうに見たが、いまさら欲しいとは言えなかった。
城に着いたら、お宝の前に腹ごしらえもしておこうと心に決めたのであった。
そうこうして進むうちに、いくらか地形がなだらかになってきた。
「お城までは、あとどれくらい?」
ちらりと周囲に目を走らせて、山田屋が尋ねた。
目の端に、掘立小屋のようにちっぽけな家がある。
先のことを思案する余裕が出てきた。
「すぐ先じゃ」
金太郎眉毛が、無造作に答えて進もうとするのに、頼み事を投げかけた。
「喉が乾いちまった。水が飲みたい」
さも耐えられないという様子で、へたり込んで見せる。
立ち止った丙姫は、近くに生えていた草の太い茎を、ぽきりと折って差し出した。
「そうか。喉の渇きはつらい。
ほれ、遠慮せずに齧るがよい。水気たっぷりじゃ」
山田屋は、また草か、と思わないでもなかったが、今度は素直に従った。
周囲の状況を観察しておいた方が良さそうだ、という判断である。
「す、す、す、酸っぱ――っ!!!」
酸っぱい物が、とことん苦手だった。
もんどりうって転がる。
泣く子も黙り、寝たきり老人も走って逃げる、 と恐れられた男だが、恥も外聞もなくなるほど 苦手だ。
理由を話せば、長くなる。
しかも面白くない。