3話
ゆっくりと、目を開ける。
薄い朝雲と窓ガラス越しの柔らかな朝の光が、自分の今いる場所を鮮明にさせる。
どうやら死んではいなかったらしい、と池山は心の底から安堵した。
目を覚ました場所は、学校でも病院でもない見知らぬ場所だった。薄暗い天井は木目調をしていて、田舎にある祖父母が住む古い家に泊まった時のことを思い出させた。
毛布にくるまれた上体を起こす。
身体に感覚があることが、ここまで嬉しいとは思わなかった。
寝ていた時に誰かが着替えさせたのか、着ているのは意識を失うまで着ていた学校の制服ではなく、柿渋色をした古臭そうな浴衣だった。
それから、首を左右に動かして部屋の中を見分する。それからやっと、ここは何処なのだろうという不安が湧き上がって来た。
調度品が全くない、がらんとした和室。
こんな場所は一度も訪れたことはないはずだが、淡い黄色になった畳や褪せた色をした襖に、 どこか馴染み深いような懐かしさがある。
誰かここに住んでいる人はいないのだろうか。
そう思っていると、間もなく磨り硝子がはめられた格子戸を開けて、眼鏡を掛けた線の細い青年が現れる。
ひょろりとした背丈に、大人びた面持ちと振る舞い。
大学生くらいだろうか、と池山は彼を観察して思う。青年は池山を見た途端に、驚きと喜びを顔に出して語りかけた。
「良かった、目を覚ましてくれましたか」
「あの……ここはどこ、ですか」
まだぼんやりした頭で、そう言って起きようとする池山を、青年は制止する。
「まだ安静になさって下さい。まだ完全に治ったわけではないですから」
「あなたは、誰ですか」
遠慮がちに質問すると、青年はにこやかに答えた。
「ここのお屋敷でアルバイトをしている、古田と言います」
「古田さん、俺に何があったんですか。どうして俺はここにいるんですか。というか、俺学生なんで学校とか行かなくちゃいけないんですけど、今何時ですか」
「そんなに一遍に言われても、僕には口が一つしか無いんですから」
しかしそんな矢継ぎ早の質問に、青年は一言も答えようとしなかった。代わりに、彼はまだ起きたばかりで混乱している池山に、ゆっくりと告げた。
「……気持ちは分かりますが、そう焦らないで。今は、私の話を聞いて下さい」
「いや、そんな悠長なことを言っている暇はないんですって」
「落ち着いて」
「でも」
「だから、落ち着いて。まずは私の話を聞いてください」
「……分かりました」
本当はほとんど納得していないが、渋々彼の言うことに従う。
古田青年は畳の上に丁寧に正座すると、説明を始めた。
「まあ少しくらい理解できないこともあるかも知れませんが、良く聞いて下さい」
「はい」
「そもそも君がここにやって来たのは、丁度七日も前のことでした」
「はい?」
何を言われても驚かないぞ、と覚悟を決めていた。そのはずだったのに、一言目から驚くようなことが山積し過ぎて耐え切れなかった。
「待ってください。いきなり理解の及ばない事態が発生したんですが」
「そうでした。どうやって来たのか、ということの説明が不足していましたね」
全くピントのずれたことをにこやかに言う彼を見て、池山は説明不足を痛感して頭を抱えた。
確かに、どうやって来たのかというのも疑問だ。しかしそれ以前に、古田の説明はもっと重要な所がすっぽり抜け落ちている。
「違います。どうして俺がここに来ることになったのか、ということです」
「それを聞いてきますか」
古田は穏やかな笑みを消し、途端に難しい顔をした。不可解なことに、答えることを渋っている。その表情が雄弁に物語っている。
私も詳しいことを知りませんが、と前置きしてから彼は言う。
「それについては、ちょっとした事故で大怪我を負ったからだと伺っています。倒れているあなたを発見した人がここに連れて来たので、あなたの親御さんに連絡して、この屋敷で手当させてもらいました」
全部聞き終わった所で、池山は感想を一言。
「それ、全部嘘ですよね?」
「酷いなあ。私が嘘を吐く理由なんてありませんよ」
青年はわざとらしい程に微笑む。
だが、ただの「ちょっとした事故」で七日間も寝ているなんて到底あり得ない。それに大怪我をしたなら、目を覚ます場所は普通に考えて屋敷ではなく病院だ。
そもそも、ちょっとした事故なら、大怪我は負わない。
「信じろ、って言われて簡単に信じられる話じゃないですよ」
「そう言われましても」
余りにもツッコミどころが多すぎる。見え透いた嘘なのは明らかだった。
「ただ、伝えづらいことがあるっていうのは、何となくだけど理解できます。だけど、本当のことを教えてくれないと、俺としても引き下がれません」
確かに本人の言った通り、彼には嘘を吐く理由はない。
けれども、彼がそこまでして隠したいものが後ろにあるなら、それは嘘をつく理由になる。池山は、彼が一体何を隠しているのかを知りたかった。
「そうですか」
そこで一度言葉を区切って、古田は再度問い直す。
「たとえ、それがもっと信じるに値しない話だったとしても、ですか」
「はい。俺が知りたいのは、本当のことですから」
「知ったら、後戻りは出来ませんよ」
そう前置きして、彼は話を始めた。
「七日前、あなたは祟り神に襲われ、大怪我を負っている状態でここに運ばれました」
祟り神、という聞き慣れないワード。だが、池山には覚えがあった。
「あの、真っ黒い鬼のことですか」
「それです」
「あれは、一体何なんですか」
「端的に言えば、祟り神とは、この世界に存在する負の霊力エネルギーが、凝固して実体を伴ったもの……生霊や怨霊と言った物の怪や幽霊、或いは精霊の一種である悪霊と言えば、理解してもらえるでしょうか」
彼が言っていることの半分も理解できなかったが、まあそういうことに一々考えても埒が明かない。とりあえず分かったふりをして、池山は頷く。
「怪我の状態は酷いもので、運びこまれた時は生死を彷徨う状態でした」
「どうして、病院じゃなくここに運ばれたんですか」
「あなたを治すために必要だったのが、医学ではなく呪術の領域でしたから」
確かに骨折したなら整形外科へ、虫歯になったら歯科に行くように、物の怪や幽霊に襲われたのなら、医学より呪術という考え方は分からなくもない、ような気がする。
「それで、その呪術が上手く行ったからこうやって目覚めたんだ、と」
「ええ。この屋敷の主がどうにか手を尽くし、そしてあなたの生命力が何とか上回ってくれた。おかげで、今に至っています」
「要するに、あの大きな化物に大怪我を負わされたんで、それを呪術で治療するためにここに運ばれたんですか」
「まあ、大雑把に説明するとそういうことです。信じられませんか?」
「半信半疑です」
普通なら、まず一笑に付せるくらい馬鹿げている。
信じる信じないどころの話ではない。
それでも、彼がここまで流れるように嘘を言えるような人間だとも、池山には到底思えなかった。彼はなんというか、嘘を吐くには真面目過ぎている。
それに、自分が目にしたあの黒い巨人についても符合する。だから、彼が語ったことは真実であることもあるかもしれない、という可能性は捨てきれない。
一方で何も言わない池山の様子を察したのか、古田は言った。
「少し待って下さい」
そうして、彼は部屋から立ち去る。
一体何があるのだろうと訝っていると、しばらくして彼が部屋に戻って来た。
「これ、何か分かりますか」
そこで池山に手渡されたのは、ボロボロになった衣服だ。あちこちが燃え落ちたように焼け焦げており、他にも擦り切れや破れがあったりして原型を留めていない。残った部分のあちこちには、赤黒く固まった血の染みがはっきりと浮かんでいる。
池山は、その服に見覚えがあった。
「……これ、もしかして俺の学校の制服ですか?」
「そうです。それで、ポケットの中にこれがありました」
それと共に出されたのは、液晶にヒビが入ったスマホだった。試しに電源を押してみると、強靭なもので予想に反して電源が付き、見知った待ち受け画面が現れる。
そしてもう一つは、グシャグシャの紙くず同然となった生徒手帳だった。
ただの事故なら、ここまで酷くやられることはない。それは、彼の身に起こった惨劇を雄弁に物語っていた。
池山は震える手つきで、生徒手帳を開く。
見たくはなかったし、信じたくもなかった。
けれど、それを見なければいけないような気がした。
まだ辛うじて残っていた証明写真の欄。
そこには、写真写りが悪いせいでひどい仏頂面をした、数ヶ月前の自分がいた。
思わず、胃の中がむかつくのを息ごと呑みこむ。
「何の悪戯ですか、これ」
「冗談でも、質の悪い悪戯でもありません。あなたが七日前、祟り神に襲われた時に残った、数少ない遺品です」
「遺品って……俺は大怪我どころか、死んだみたいな言い方じゃないですか」
ただの軽口だったはずなのに、その瞬間に古田の顔が強張った。勢い、追及する口調が厳しく、怒りを含んだものになる。
「もしかして、俺が死んだとか、そういうことじゃないですよね?」
古田は慌てて目を伏せる。
けれどこのまま誤魔化しきれないと悟ったのか、それとも予想外の追及で何も言い返せなくなったのか、眉根を寄せた険しい表情で彼は白状した。
「……騙すつもりは、なかったのですが」
それは自分が祟り神に襲われた時よりも、なお上回る衝撃だった。
西から太陽が昇ったのを観測したような、朝起きたら極寒の南極にいたような、とにかく常識から外れてしまった、言いようのない驚きが脳裏を猛然とダッシュする。
「でも俺、今は一応生きてるんですよね?」
恐る恐る尋ねると、彼はゆっくりと頷いた。
しかし、その後で付け加える。
「とは言え元の身体のみでは、生命機能を維持できない状態でもあります。魂魄エンジン……簡単に言えば特殊な機械を埋め込み、その機械の力を借りていないと、経絡を通じて身体に流れている霊気を動かせないような感じです」
「つまり、ゾンビみたいなもんですか」
「ゾンビというよりは、サイボーグに近いと思います」
「はあ」
何を聞いても難しい数学の問題みたいで、言葉だけが頭の上辺をすっと通って過ぎていく。多分こんなことを詳しく説明されても、自分には理解できないだろうと諦める。
一方の古田は溜息を吐いて言った。
「もし少しでも助けるのが遅ければ、ここまで手を尽くしても間に合わなかったでしょう。高津さんの好判断に感謝するところですね」
「高津……ですか」
高津という名前に、池山は一人だけ心あたりがあった。
念を押すように、もう一度古田に尋ねる。
「その高津って、もしかして俺と同じ学校に通ってる奴ですか?」
「そうですよ。あなたの同級生の、高津雫さんです。彼女は私達の中では最高の技量を持つ祓い手ですよ」
やはりそうだったか、と思った。
彼女とは、二学期が始まった今に至るまで、碌に話したことさえない。
けれど、クラスの脇のほうでずっと本を読んでいる、周りから浮いた少女であることだけは知っている、ような気もする。
どこか超然とした雰囲気で人を寄せ付けない所のある彼女が、まさか自分を救ってくれたとは。
そのことに内心で驚くと共に、池山はすぐに古田に尋ねた。
「高津は今、何処にいるんですか?」
「そりゃあ、学校でしょう。今日は平日ですから。私は全休ですからここにいますが」
古田は即答する。
よく考えれば当然のことだった、と池山は答えを聞いてから後悔した。
「今すぐに、学校とか行けますか」
「いいえ。今の健康状態では、まだ少し無茶が過ぎると思います」
それでもなお、池山は必死に食い下がる。
「でもこのまま休んだりとかすると、学校の授業にもついて行けなくなりそうですし」
「その気持ちも分かりますが、今は休むことが先です。まだ魂魄エンジンは身体に馴染んでいません。完全に霊気のコントロールが出来ているわけではない状態で、それを無理を押して活動すれば、逆に命に関わる事態になるかもしれません」
訴えは、にべもなく拒絶される。
「それでも……でも……」
そこまで喋ろうとしたところで、まるで二、三日寝ていない時のような強い眠気が不意に襲ってきた。ひどい乗り物酔いのように視界がぼんやりする。こめかみの辺りがずきずきと痛み、軽い吐き気がする。
「やっぱり、まだエンジンと身体の癒着が万全ではないようですね」
池山の様子を察した古田が、心配そうに伺う。
その瞳の奥に、頬の少し痩せた自分の顔が見えた。
「長話に付きあわせてしまったのはこちらの方です。焦る気持ちも理解できますが、今くらいはゆっくりと休んで下さい」
「だ、大丈夫です。これくらいどうにか……」
「そんなことを言って無理してはダメですよ。今は気が逸っているかもしれませんが、数日経てば元の生活に戻れますから、それまでの辛抱だと思ってください」
古田はそう言い残し、そのまま出て行ってしまった。格子戸が閉まる音とともに、また何もない部屋に一人取り残される。
最初のチェックポイント。いよいよここから物語が始まります。
こういう所の巧拙って、割と作家の巧拙に一番影響する気が年取ってからじわじわしてきた。