2話
日が沈んでいくとともに、藍色の空は夜の色へと染まろうとしていた。
いつもならこの時間にも人がいるはずだというのに、学校には不思議なくらい誰もいない。それどころか学校の外に広がる金沢の街もまた、人の声や自動車のエンジン音すらしない。深山幽谷の中にあるような静けさを保っている。耳を澄ませば、濃い青紫色に縁取られた雲が空を流れる音が聞こえそうなほどだ。
高津雫はそんな無人の町を飛ぶように走り、ようやく学校の近くに到着した。
「まさか、自分の通っている学校に祟り神が現れるなんてね」
そう一人で呟きながら、我ながら他人事みたいな感想だと思う。
いや、そうではない。
その感想を、彼女は否定する。
心の中で、自分ははっきり他人事だと自覚しているのだ。
ここにいるのは、女子高生としての高津雫ではない。今の自分は、歴史と伝統ある町の守り手、紅梅衆金沢本部の一員、高津雫だから。
時間はあまりない。敷地を隔てるフェンスを足取り軽く飛び越えて、誰もいない校内へと、密やかに足を踏み入れる。
いつもの登下校の時間ならば通学する生徒で溢れかえっている、学校の前庭。祟り神が現れた今は、まるで竜巻でもやって来たかのような無残な状態に陥っていた。木々は折られ、張り詰められたタイルはあちこちで足の形をした平たく広いクレーターを作っており、ひび割れたタイルの下に隠れていた地面を曝け出している。
破壊の跡に目を見開きながら、彼女はその足跡の先を追う。
その破壊を引き起こした主は、校庭に立つ宵闇の色をした影だ。
あらゆる光を吸収するような独特の色は夕闇の中で保護色になっているが、大きいのですぐにそれだと分かる。
影の正体は、彼女の知っている限り討伐対象の祟り神ただ一つしかない。その人状の影を仰ぎ見て、高津は驚きに満ちた声を上げる。
これが人と同じサイズであったとしても奇妙な姿だが、三階建ての校舎の二階ほどもという大きさを前にすると恐怖心が先に立つ。
「……思ってたよりは、大きいね」
それ以外に、言葉が見つからない。
祟り神の力は、その大きさに比例する。目の前に立つそれは、人間の力を凌駕し、周囲に被害をもたらす可能性のある乙等級の人型。
これまで、そのレベルの祟り神が現れるのは、一年に一回来れば不幸な方だった。
しかし、今年に入ってからはこのカテゴリーに属する祟り神が十体以上も目撃、討伐されている。明らかに異常だと言っていい。
「この街の龍脈は、予想以上に乱れているみたいだね」
高津は歯噛みしたくなる。
それでも、これくらいのことで彼女は踏み止まる理由になると思わなかった。
今の自分は、祟り神を討伐する紅梅衆の一員。覚悟はとうの昔に織り込み済みだ。
一呼吸。息と共に、白い煙が漏れて出た。
それに、これくらいなら倒せる。
念のため、彼女は友達と談笑する時と同じようにスマホを取り出し、現れた祟り神の情報をSNSですぐさま当主代行に報告する。
これで十分以内に、紅梅衆の応援が学校に到着するだろう。だからもし自分に何が起きても問題はない。
「さて、問題はここから」
紅梅衆一番の祓い手の名にかけて、あと数分の間に一人でどうにか祟り神を討伐する。
腰に差した刀に手をやって、テストを受ける直前みたいに一つ大きく呼吸。
そして、彼女はまた勢い良く跳ねた。
敷地を区切る柵から、一分もしない内に校門前へと難なく到着。いつもならば一人くらい生徒がいるはずのこの場所も、今日はまるで朝早い時間帯のように静かだ。
彼女の気配を察知したのか、校舎近くにいた祟り神が高津の方に小さな頭部を向けた。
その小さな頭部の一箇所が、闇よりもなお黒い中で、そこだけ目のようにほの暗く青い光を放っている。
あの場所にあるのが、巨人の「心臓」だ。
祟り神がその身体を維持させる核であり、逆にこの場所を斬られれば、祟り神は形を保てなくなる。元が不定形な「負の霊力」によって象られた祟り神にとって、唯一にして最大の弱点だ。
飛び回る蝿を払うようにして、巨人は彼女に向けて近づき、右手を伸ばす。
石畳をドタドタとうるさく踏み鳴らし、周囲の空間ごと彼女を薙ぎ払うような圧倒的な暴力。
しかし、その動きは身体の大きさに任せた大振りなものだ。単純で隙だらけなら、何も恐れることはない。
「いざ、尋常に勝負」
高津は迷うことなく鞘から中身を抜き放つ。
煌めいたのは紛うこともなき白刃。それも江戸時代の加賀を代表する刀工、辻村兼若の三代目、四郎右衛門兼若の鍛えた打刀。
それを構わずに抜き払い、祟り神の手を払うように斬りつける。さらに勢いで胴へと近づく。そしてそのまま、一撃を叩き込む。
人型程度の祟り神なら、普通は一振りするだけで腕くらい軽く二つ三つは斬り落とせる。そのはずだというのに、こいつの腕は鋼鉄の鎧を着込んでいるように分厚く、硬い。
斬った感触こそあるものの、刃は恐らく二つに切り離すまでには至っていない。
巨人は一吼えして、斬りつけられた手を引っ込めた。だが、その黒い体のおかげで、傷を負っているかどうかさえ分からせない。
「チッ、流石は乙等級の祟り神。想像の上をいく手強さだね……でも、私のほうが、強い」
強さに裏打ちされた矜持が、負けず嫌いの意地と根性がその言葉を吐かせる。
そもそも、人形の祟り神における一番危険な武器はその手足だ。巨大な足と手に潰されないように、離れた位置を取り続けていれば怖くない。
高津は巨人と距離を置きつつ、校舎の方向へと移動する。
狭い校舎なら、リーチの優位はあまり役に立たない。迂闊には手を出せないだろう。だからこそ、彼女は校舎の中へと逃げる。
目的は二階の教室。巨人の頭に届く位置を目指す。
二段飛ばしで階段を登って到着したのは、自分が一番良く知っている自分の教室だった。
窓の外からは、巨人の姿がしっかりと見える。一方の巨人はこちらに手を伸ばそうとするが、窓ガラスに阻まれてこちらを捕まえることは出来ない。
「ここで応援が来るまで時間を待つ、っていうのもありだけれど……」
窓ガラスなんて巨人の拳に比べれば皮膜も同然の薄さだ。巨人型の祟り神相手にどれだけ保つか、と言われれば心許ない。応援部隊が来るまで籠城するのは物理的にまず不可能。
だから、高津はここで祟り神を討つことに決めた。
しばらくしないうちに、近くにいるはずの彼女に手が届かない状況に業を煮やしたのか、祟り神が一歩踏み出して手を伸ばした。
大地を砕くように踏みしめ、ぐい、と巨人の拳がこちらに迫ってくる。何の変哲もないストレートのパンチだが、その拳の大きさはまるで大砲の弾のようだ。
一撃を喰らった壁と窓にヒビが入り、耐え切れずに大穴が生まれる。窓ガラスが飛び散り、窓の桟が圧し折れ、真っ黒い手がこちらに襲いかかる。
けれども、高津はその手から逃げはしない。むしろ、彼女はこの瞬間を待っていた。
「今しかないっ!」
手が近づいてくると同時に、彼女は息を吐き、奔獣のような力強さで教室の床を蹴る。
助走をつけて窓から飛び出すと、彼女は巨大な祟り神の間合いに潜り込む。
祟り神の巨大過ぎる手足は、その鈍重さのせいで容易に引っ込められない。こうなっては、その「心臓」は一撃を叩き込むには絶好の的だ。
巨人の腕をジャンプ台にして空中で一つ跳ねる。防御されていないがら空きの顔にギリギリまで近づいた瞬間。
高津は兼若の刀を横一文字に薙いだ。
一閃と共に「心臓」は半分に切られ、その輝きを一挙に減じていく。
顔を両断された祟り神が吼えながら、その身体を力まかせに動かす。
しかし、「心臓」の活動が停止した祟り神は、暴れ回る身体を急速に黒い砂へと変えていく。もがくように机を吹き飛ばし、黒板をその指で半裂きにしつつ、その黒い砂は風に流されて散っていく。一分もしない内に、あれほど暴れていた祟り神は、嘘のように塵ひとつすら残さず消えてしまった。
無事に着地した高津は、すっかり静かになってしまった周囲を見る。半壊した校舎のことは気にしていない。この結界の中で彷徨っている人がいないか、調べるためだ。
結界は時間軸と空間軸のずれた場所にある。この内部に普通の人間が入ってくることは滅多にないが、それでも皆無とは言い切れない。
ふと彼女の目に、誰かが倒れている様子が見えた。
「ん、あれは……?」
気になって身動き一つしないそれに近づいてから、高津はその酷い有様に思わず目を背けたくなった。
着ているのは男子学生の制服。ボロボロの制服についていた校章の色が高津と同じ赤色だったから、かろうじて自分の同級生なのだと判別できる。けれども大柄な身体のあちこちに負った傷のせいで、もはや個人を特定できない状態だ。
本当に、まだ息をしているのが奇跡としか言いようがない。
このまま放っておけば、間違いなく死ぬだろう。だが、自分が大急ぎで運んだならもしかすれば助かるかもしれない。
高津はスマートフォンで本部に連絡をとる。
「討伐、完了しました、それで__」
それ以降は、当主代行の声に遮られた。
「怪我はないか」
「はい、ありません」
焦りと恐怖で震える声を必死で押し隠して返事をする。
電話口の向こうで、硬い声が漏れる。
「無鉄砲なことをするなと言ったはずだ。それで、何かあったか?」
「私の同級生が、倒れていて……血塗れで、このままだと、危険です」
「落ち着け。いいか、心して良く聞け」
当主代行なら、何かきっといいアドバイスをくれる。そう信じていた。
しかし、返ってきた答えはあまりにも非情なものだった。
「その子は、後から来る応援に回収させる。だがそれほどの重症なら、再び目覚めるかどうかは覚悟した方がいい。もしかすると、もう既に手遅れかもしれない」
「そんな、まだ、今なら間に合います!」
「……それよりも、他の祟り神の討伐へ赴くべきだ。乙級の祟り神の近辺には丙級も必ずいる。救えるかどうか分からない一の命よりも、確実に救える百の命を救え」
いつもなら圧倒されてしまうばかりの当主代行の言葉に、逆に高津の心は冷静になっていた。
ともかく、電話の向こうにいる当主代行を説得しなければ、彼の命は文字通り風前の灯火だ。心変わりをしてくれるように念じてから、彼女は口を開いた。
「だからと言って、今この瞬間に生きている彼を見捨てる気ですか」
「お前の言っていることも分からんではない。私とて、救えるなら絶対に助けたい。だが時には、この手では救いきれず、零れ落ちるものだってある」
頭の固い奴、と通話先の向こうにいる当主代行に心の中で文句を言う。
確かに今のこの少年は、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる。恐らく当主代行の言う通り、手を尽くしたとしても、無事に回復する可能性は高いとはいえないだろう。
けれどそれを理由にして、救える命一つを置き去りにして、諦めるのは正しいことだろうか。
正しくない、と高津は結論付ける。
あまり時間は残されていない。
高津は覚悟を決めた。それまでの丁寧な姿勢を取り払い、電話先に向かって吼える。
「彼は今、生きてます。紅梅衆に、生きている人間を見殺しにしていい、という規則がありましたか! 私は今すぐ彼を回収して帰ります。応援こそ、他の祟り神の討伐に当たらせて下さい」
「……お前がそこまで執着するのは初めて見た」
彼女は何も言わない。
その沈黙で彼女の意思を悟ったのか、男は諦観のこもった声で言った。
「分かった。一度、御当主と話をさせてくれないか。もしかしたら、救える可能性はゼロでないかもしれない」
暫しの沈黙の後、彼女の手のつけようがない剣幕に押されたのか、当主代行は遂に折れた。
高津は心の中でガッツポーズする。
「ありがとうございます」
「ただ、後である程度の叱責は覚悟しておきなさい。お前のやったことは紅梅衆のあり方として正しいが、しかし命令違反は違反だ」
「分かっています」
当主代行は、高津に釘を差すことも忘れなかった。苦い顔で電話を切る。
それから、高津は傷だらけの少年を見た。悩んでいる時間はない。
自分より一回りも大きな少年だというのに、背負うと不思議なくらい軽かった。まるで魂が既に抜け出てしまったかのように。
いや、そんなことはない。
彼女は頭の中に浮かんだその考えを否定する。まだ彼には霊気が残っている。心臓が動いている。それなら、怖がることはない。
高津は自分を鼓舞し、元来た道を再び飛ぶように走りだす。
「異世界転生の大事な所は、良い女神様がちゃんと主人公を拾ってくれることである」
次回の投稿は来週を予定。