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怪物スイング・レトロシティ  作者: 稲村十久
プレイボール
1/8

1話

北陸の天気は猫の気分のように、すぐに変化する。


 東京から金沢の街に引っ越してきて数ヶ月。この街は晴れたと思えば数時間と経たずに大雨になることもあれば、降り続いた雨がさっと止んで青空を見せることもある。

 今もちょうど、昨日から降り続いていた雨が止んだところで、雲の切れ間に紛れながら、朱色の夕陽が日本海の方向へ沈もうとしている。

 そんなさっきまで変わらない日常そのものだったはずの、高校の正面玄関前。少年の目の前には、この世のものとは思えない巨大な影が立っていた。


「それで、何だよ、あれは……」


 雨傘を取りに戻っただけのことなのに、なんでこんな目に会うのだろうと、池山月博はそれを見上げ、途方に暮れた。

 これから夜を迎える時間帯の学校でも、普段ならちらほらと人の姿があるはずだ。それなのに、今のところ彼が立っているこの空間には、前に立つそいつ以外、廃墟のように誰もいない。

 この時間ならいつもいるはずの、吹奏楽部のトランペット奏者たちも、運動場から聞こえてくるはずの運動部員達の声もなければ、教師だって一人も見当たらない。


 いるのはただ、自分とその影だけ。


 ひゅうと寒い風ばかりが、彼に吹き付けてくる。

 影の背丈は、彼の後ろに聳える校舎の二階と同じ位はあるようだから、五メートルは下らない。当然人間ではあり得ないサイズだ。

 いつか少年漫画で読んだ敵が、こんな感じの大きさをした化け物だっただろうか。

 その姿も、どこかの現代芸術家がわざわざ21世紀美術館から学校に運び込んできた、趣味と気味の悪いオブジェのようである。

 見上げる目線の先にある頭部と思わしきものは、人間のそれよりも小さく、のっぺりとしている。

 何一つ表情を窺えないというより、口や鼻という人間のような顔のパーツがあるかどうかさえも怪しそうだ。

 その頭部には、太い枯れ枝じみた角らしきものが何本も生えていて、遠目には逆立てた髪型にも見えなくもない。

 小さな胴体に比べて手足は人間のそれよりもひょろりと長く、腕は膝にまで届きそうなほどだ。逆に手のひらや足は非現実的に大きい。

 そして極めつけに異様な印象を帯びているのは、濃い墨で塗りたくったような深い黒色をした身体。暮れかかった空が生み出す色のグラデーションと、何一つ調和する気すらなさそうな、さながら落ちた夕陽のせいで長く伸びた影法師を思わせるその姿。

 眺める角度によって平面的でもあれば、周囲から浮き上がっているようにも見える。その畏怖さえ与える非現実的な感じが、巨大な影の不気味さをさらに際立たせていた。


 自分が目にしている光景を本当だと思えなくなって、池山は頬を抓る。

 確かな痛み。

 もう一度抓っても、やはりそれは変わらない。


 認めたくないことだが、これは小説やアニメどころか、悪い夢ですらないらしい。

 悪趣味な現代アート、と思えなくもない化け物じみた何かを前に立ち尽くしていると、その影が動いた気がした。

 目の錯覚かと思いながらじっと見ていると、そいつは人間を模したような緩慢かつ滑らかな動作で、はっきりと首をこちらに向けた。目も耳もないのっぺりとした顔だが、闇の中で見た空のようなほの暗い光が人間で言うなら鼻のあたりで光っている。

 想像もしたくなかったが、どうやらこの巨大な影の塊は「動く」らしい。

 池山は驚愕と恐怖にかられるのを堪えて、目と鼻の先に立つ巨人に気付かれないよう息を潜めて後ずさる。


 けれども、その時には全てが遅すぎた。


 ドラム缶を力任せに叩いたような、耳にこびりついて頭蓋を揺らす轟音がした。それはあの小さな頭部から、巨人が勢い良く吼える声。

 その強烈かつ耳障りな音に、思わず身を竦めたくなる。

それから、外に植わっている街路樹の幹ほどの太さがありそうな、人間のそれよりもずっと長い腕をぐいっと突き出す。

 小さく見積もっても自分の背丈ほどはありそうな真っ黒い掌が、眼前に迫って来る。

 この掌の大きさだったら、自分の身体なんて骨ごと果物どころか紙の束のようにぐしゃっと握り潰されてしまうだろう。それが簡単に想像できてしまったことに、背筋が冷たくなる。

「やばいって!」

 思わず声が出ていたが、もう関係ない。考えるスピードよりも早く、身体が先に動く。

 即座に、池山は持てる力の全てを振り絞り一目散に駆け出した。


 あれは何なのか。どうしてそこに立っていたのか。何であんな奇妙なのか。何を食って生きるのか。そんな細かいことをうだうだ考えている余裕は一秒たりともない。生きた心地もしない事態に立ち竦んで怯える暇もない。

 格好良く立ち向かうなんて以ての外だ。

 逃げろ、逃げなければあの訳の分からない巨大な影に一呑みされる。

 ついさっき教室から持ち帰ったばかりの傘を、忘れずに持っている重い鞄を、走るのに邪魔だからと放り捨てた。傘なんて後で買えばいい。鞄だって誰かが拾ってくれる。

 今はどんなものよりも、命のほうが何倍も大事だ。

 校門まで、視界は綺麗に開けている。遮る物は何一つ無い。

 だから、巨人との鬼ごっこで物を言うのは純粋な体力の差、運動能力の差が全てに作用する。

 いくら動くとはいえ、相手は鈍重な巨人だから平気だろう。

 けれど地鳴りのような足音と、さっきよりもずっと近くで聞こえた虚ろな声を聞いて、池山はすぐにその誤った考えを改めた。


 こちらは必死で走っているはずなのに、そいつとの距離は少しずつ、少しずつではあるが、着実に詰められている。

 どうしてかと思えば、それはごく当然のことだ。

 人間より少々鈍重とはいえ、巨人の足は少年の足よりも随分と長い。一歩あたりの歩幅が途轍もなく広いから、巨人が走る速さが遅かろうとも、池山がそのまま全力疾走した速さくらいはある。

 校門がいつも下校する時より、ずっと遠くに見えた。いつもならもう下校してもおかしくないと思うのだが、今日はまるで何キロも離れているかのように遠い。

 別に学校を出たからといって、事態が好転するようなことは今のところ有りそうにない。


 それでも、池山は諦めて死にたくはなかった。


 障害物一つない前庭と違って、住宅街なら、逃げる場所も隠れる場所もあれば、あの巨人には通れない狭さの路地もある。

 ここには誰一人居ないが、当然ながら街には自分以外にも人がいる。車だって、流石に大通りまで行けば動いているだろう。

 校門まで無事にたどり着くのが、藁にも縋るくらいの僅かで力ない可能性だったとしても、寄り集まればしっかりした希望になる。

 それならば、走る理由には、生きる理由には充分過ぎる。

 けれど、巨人は必死で逃げる池山を嘲笑うかのように残酷だった。

 巨人は次第に自分との距離をゼロに近づけてきて、遂に目の前で大樹の根の如き頑強でどっしりとした足を踏み降ろした。

 地面そのものが爆裂したかのような信じ難い大きさの音とともに、舗装が黒い影を中心にひび割れる。その衝撃で砂埃が舞い上がった。砕かれた細かい石畳が、舗装の下に隠れていた砂と礫と一緒になって水滴のように弾けた。

 来るべき時が来たんだな、と池山には理解した。今の自分は、黒い影の股の間にいる。遂に追いつかれたのだ。


 巨人の手が、容赦なく近づいて来た。


 池山は浅い息をして肩を上下させ、こちらに向けて飛んで来る石や砂を払うこともせず、巨人の股の間から這い出るために無我夢中で走り続けた。

 まだ、終わったわけではない。

 走る体力が尽きたわけでもなければ、どれだけ手を伸ばしても届かない場所にいるわけでもでもない。後もう少しで、ここから脱出できる。

 それなら走り続けている限り、生きている限り、諦めていないなら勝ち目は充分すぎるほどに残っている。七回裏だろうが九回裏からでも、自分の役目を果たせば逆転可能だ。


「スポーツの舞台で勝つものは、能力で上回る者ではない。いつだって、最後まで諦めなかった者だ」


 中学生の頃にお世話になった、少年野球チームの監督の言葉を思い出し、折れかけた心をいくらか奮い立たせて走る。だが、後もう少しで学校の敷地から抜け出せるという、その緊張と焦りが頭の中を占めていたせいで大事なことを失念していた。

 普段なら意識せずとも気付くであろう、地面のコンディション。今日の昼頃まで降っていた雨でびっしょりと濡れた石畳。

 雨が止んでから時間が経ったが、まだ地面は完全には乾ききっていない。

そこに、疲れで踏ん張りの効かなくなった足を踏み出せば、どうなるのか。

 瞬間、視界が横にぐるりと回転する。

 それから一瞬遅れで、鈍い痛みがサインとなって体中を駆け巡った。その時になってようやく、まだ濡れていた石畳に足を滑らせて豪快にすっ転んだのだと悟った。

 予想外のことに、総身から力が一気に抜ける。漲っていた高揚感が取り払われる。果てのない絶望と痛みが、池山の身体に重くのしかかる。肺や喉、脇腹を始めとした、頭から足先までのありとあらゆる場所が悲鳴を上げる。


手の形をした板みたいな影の塊が、待ってましたとばかりに目前に突き出される。


 このままじゃないけないというのに、窮地だというのに、彼はもう立ち上がる勇気どころか、声を上げる力すら失っていた。諦めだけが、体を鉛のように重くさせる。

 ゲームで勝つものは、常に最後まで諦めなかった者の方だ。


 少年はこの瞬間、自分に惨敗した。


 巨人の手に思い切り掴まれて、圧し潰された肋骨が、背骨が、軋むように悲鳴を上げる。体中を、万力で締め付けられたかのような痛みが走る。

 涙で滲む視界に、夕景色が広がっていた。

 茜色の空の色に染められた金沢の町並みなのに、まるで宗教画そのものの神々しさだ。

 これまで漫然と過ごしていたこの風景は、これで見納めなのだ。

 そう思うと、訳もなく悲しかった。

 だから今になって止めどなく流れる涙の理由は、烈しい痛みや死に近づく恐怖といったものではない。


 それは、この夕景が美しいせいだ。


 混濁し始めていた意識が途切れる。

 何処までも深い闇の中へと急速に落ちていく。


「異世界転生で大事なことは、まず最初に主人公が死ぬことだ。出来るなら、無様に死んだほうがいい」

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