1 始まりは噂
ねえ、知ってる?
魔法の言葉があるんだよ。
これを言うと、願いが叶うんだって。
その言葉はね―
頭に何かが当たったのを感じて、目を開けた。
机に伏せっていると、いつの間にか寝てしまっていた。何をしていたんだっけ。そうだ、二人を待っている間に本を読んでいたんだ。目が疲れたから休むために机に伏せたんだった。
読んでいた本を下敷きにしてないかな。
「ない……」
机の上には何もなかった。机から落ちたのかな。
机の下を覗き込もうとしたとき。
「おはよう」
女子の声が上から聞こえた。
ああ、彼女たちの仕業か。四歳からの付き合いで、彼女たちがこういう悪戯をするのはよくあることだった。
「おはようって時間じゃないけどね」
七年の付き合いになる来栖有紗は、くすくすと楽しそうに笑った。
顔を上げて有紗を見た。顔が近い。前の席の椅子に座って背凭れに手を置いて顎を載せている。可愛い顔を近付けられても何も思わないけど。
手には何も持ってない。
「秀一か」
有紗と同じく幼馴染の瀬尾秀一が片手に本を持って腰に手を当てて立っていた。
頭に当たったのはこれか。痛くはなかったけど、なんて起こし方をするんだ。まあ、秀一らしいけど。有紗はそれを止めずに見ていたわけだけど。
二人は有名人だった。有紗は可愛いと評判で、昔から劇をするときは姫役だった。今まで周りからチヤホヤされてきていたみたいだけど、いつも一緒にいる僕と秀一は特別扱いしなかった。可愛いから友達になったわけじゃないし。それもあってか、有紗は自分が特別だと勘違いしたり偉そうになったりはしなかった。
秀一は、容姿は整っている方だけど、特別目立つほどではない。容姿では目立たないけど、頭の良さで目立っていた。四歳のころから塾や習い事をしていて、保育園の自由時間にはいつも一人で勉強していた。その時、僕が塾の教材に興味を持って話したことから友達になった。秀一はその頃から私立の小学校に行くと決まっていたけど、秀一が急に私立は中学校からで良いと言ったため、同じ公立の小学校に通うことになった。どうやって六歳が両親を説得したのか気になるところだけど。
そんな幼馴染の中で、僕だけが普通だった。家族は美形家族と言われるくらい両親は美男美女で、弟も可愛い。その中で、僕だけはどこにでもいそうな特徴のない顔で、目を引くところはなかった。勉強は秀一に付き合ってきたから嫌いじゃないし、運動は柔道をやっていて今も格闘技は習っているし、体を動かすことは好きだから学力や運動神経は良い方だったりする。
でも、そういうことは言わないとわからないことだ。自慢するのは得意じゃない。だから、周りの評価は『普通』だった。
だけど、三人でずっと一緒にいた。
それはともかく、二人は今まで何をしていたのか。結構待ち時間が長かったんだけど。だから寝てしまったわけだけど。
「で、何で待たされたのかな」
「秀一、説明よろしく」
「有紗がしろ」
二人は説明役を押し付けていた。言い辛いことなのか、説明しにくいことなのか。とにかく、どっちでも良いから話してほしい。
秀一から本を受け取り、変な折り目が付いてないか確認した。図書室で借りた本だから、大切にしないと。
「話したくないなら良いけど」
「最近、ある噂が流行っているのは知ってる?」
有紗は笑顔を真面目な表情に変えた。その問いに、首を横に振って否定した。
噂話は興味がなかった。皆が知っているというレベルになると嫌でも耳に入るけど、まだ少数にしか知れ渡っていないものは知らないことが多かった。そういうのは、収集しないと知らないままで終わることが多い。
秀一は黙って聞いていた。
「願いが叶う魔法の言葉」
「魔法の言葉?」
「そう。あと、おまじないもね」
女子が好きそうな話題だ。でも、秀一も知っているようだから、女子に限らないのか。確かに、『願いが叶う』なら誰にでも魅力的なものだろう。『魔法の言葉』というのも響きが良い。
どこかで聞いた気がする。願いが叶う魔法の言葉。はっきりとは聞いていないから、通りすがりに聞いたか、偶然耳に入ったか。噂話も、聞こうと思わなければ記憶に残らなかった。
魔法の言葉と一緒におまじないも流行っているのか。どちらも女子が好きなイメージがある。そして、女子の噂話は知れ渡るのが速い。
「それで?」
「願いが叶うって、どういうことなのか気になるじゃない。だから、調べてみようって秀一と話していたの」
つまり、先に秀一と話して決まったことを報告しているわけだ。僕が噂話に疎いとわかっているからそうしたんだろう。
それでも、二人だけで調べるんじゃなくて僕も一緒に調べようと言っている。それが、僕たちの関係だった。三人寄れば文殊の知恵。単純な頭の良さではなく、それぞれが足りないところを補う。二人いれば違う視点で考えたりできるし、有紗は情報収集が得意だ。
「なるほど。で、秀一の感想は」
「興味深い」
秀一はおまじないを信じていない。簡単に願いが叶うことなんてないと思っている。
僕もそうだ。願うくらいなら、自分の力で何とかする。他力本願で待っていられない。今までそうやってきた。願わないと叶えられないものは、初めから自分には無理なことなんだ。
普段よりも表情が柔らかい二人に、もう一度溜息を吐いた。向けられる表情は、期待に満ちている。誘いを断らないとわかっているからだろう。
「じゃあ、おまじないって何?」
「由宇、コレ知ってる?」
有紗が目の前に突き出した右手を見た。
親指と人差し指で挟まれたものは。
普通の絆創膏だった。
軽い切り傷で何度か使ったことがあるし。そういえば、今クラスでは女子が可愛い柄の絆創膏を貼っているのをよく見かける。
絆創膏。軽い怪我の時に使うもの。
「ただの絆創膏、じゃないってこと?」
「いや、ただの絆創膏だ」
がっくりと肩を落とした。勘繰っても無駄だった。絆創膏は絆創膏か。
ただ、それはおまじないに必要なアイテムというわけだ。おまじないにしては変なアイテムだと思うけど、でも結構そういうものかもしれない。おまじないにはよく分からないものが多いし。
有紗は、側に置いてあったランドセルを手に取った。
「さ、帰りましょ」
有紗はさっさと教室を出て行った。
秀一はランドセルを背負い、ふっと口の端を上げてポケットから絆創膏を差し出した。秀一は救急セットを持ち歩いているから普通のことなんだけど。こんなときに渡されると流行に乗っているように見えて嫌なんだけど。とりあえずポケットの中に入れた。
秀一は口元だけに笑みを浮かべ、有紗を追いかけるように廊下を進んで行く。それに遅れないように早足でついて行った。
前を歩く二人に声をかけようと口を開いたと同時に、廊下に叫び声が響いた。
「トイレだ!」
有紗は僕と秀一の間を通り過ぎ、玄関とは反対方向に走って行った。それに間髪入れずに続いた。
確かに、あの声はトイレの方から聞こえた。水の流れる音もしたし、水が近くにある場所で間違いない。
何が起こったのか。高い声は廊下に響いて耳に残った。前を走る有紗は迷うことなくトイレに向かっていた。
角を曲がったところで、それは視界に入った。
女子トイレの前で、ずぶ濡れになっている女子が立っていた。その子の前にはガタガタと震える女子が座り込んでいる。よく見ると、どちらもクラスメイトだった。足元にバケツが転がっている。
人が集まり始め、辺りは騒然とした。まずここで優先するべきことは、二人を保健室に運ぶことだ。騒ぎが大きくならないうちに、避難しないと。
「鈴木さん、山田さん、保健室に行きましょう」
有紗は野次馬が騒ぐ中、よく通る声で言った。
有紗は山田さんの脇に手を回し、体を支えるようにして立ち上がった。鈴木さんは髪の毛から水が滴っていたけど、気にしていないようで保健室に向かっていった。
通り過ぎる際に女子トイレを見ると、他のクラスの女子が二人、呆然と立っていた。
保健室の先生には、掃除している時に山田さんが誤って鈴木さんに水かけてしまったと説明した。
山田さんは悪いことをしてしまった罪悪感で怯えているということにして、鈴木さんは軽くタオルで水を拭って奥の部屋で体操服に着替えてきた。
「山田さんには親御さんに迎えにきてもらうからね。気を付けて帰ってね」
山田さんを残し、鈴木さんと一緒に靴箱に向かった。
鈴木さんって不良のお兄さんがいるとか、隣の小学校の不良グループと仲が良いという噂があった。悪い噂って広がるのが早い。噂に疎い僕でも知っていた。
だから、そんな鈴木さんに水をかけてしまった山田さんは怯えていたのかも。女子トイレにいた二人も気になるけど。
「何があったか教えてもらえる?」
有紗は気軽に聞いた。態度はいつもと変わらない。有紗は人によって態度を変えない。悪い噂があっても、自分がそれを見ていないのなら信じない。自分に悪影響がなければ差別はしない。
僕も秀一も同じだった。そういうところが似ているから、一緒にいるのが楽なんだ。
鈴木さんは、そんな有紗の態度を見て口の端を上げた。
「バケツで水をかけられたんだ。トイレを出る時に」
「トイレを出る時か。故意ってわけだ」
秀一は制服のポケットからタオル地のハンカチを出して鈴木さんに渡した。
お、優しい。まだ髪が濡れているのは気になっていたけど、貸せるハンカチは持っていなかった。使ったのを貸すのは親切じゃないだろう。秀一はハンカチを使い分けていて、タオル地の方は未使用だったみたいだ。
鈴木さんはハンカチを受け取り、髪を拭いた。
「ありがとう。トイレに他に二人いたんだけど、その子たちが山田さんに何か言ったみたいで。私が悪口言ったとかそんなところじゃないかな」
「悪口を言われて水をかける、ね」
やりすぎじゃないかな。何を言われたのか知らないけど。しかも鈴木さんは悪口なんて言っていない。とばっちりを食ったわけだ。
それにしても、鈴木さんは不機嫌そうだけど怒っていないみたいだ。
「怒ってないの?」
「あの子は噂の犠牲者だからね。水をかけられたくらい、気にしてない。綺麗な水だったし」
「……掃除に使った水じゃなくて良かったね」
汚れた水だったら許せなかっただろう。それで風邪を引いたら最悪だ。
靴箱に着き、靴を履き替えた。上履きも濡れているから、今日は持って帰るみたいだ。じめっとした上履きを履きたくない気持ちはよくわかる。
校門を出て、鈴木さんは「こっちだから」と帰り道の反対方向を指差した。
「じゃあ、また明日。風邪には気を付けてね」
「ハンカチは返してもらう」
「ああ。今日はありがとう」
秀一が手を差し出すと、濡れたハンカチが載せられた。髪の水分は大分拭き取れたかな。でも乾いてはいないから風邪には注意しないと。
有紗が手を振ると、鈴木さんは片手を挙げて応えた。あっさりした二人だ。
これでいつもの三人になった。
「鈴木さんの言ってた『噂の犠牲者』ってどういうこと?」
「『魔法の言葉』が失敗したってこと」
魔法の言葉は願いを叶えるだけじゃなくて、失敗することもあるのか。しかも、失敗すると『犠牲』として何かを負う。
やっぱり簡単に願いが叶うことなんてないんだ。
『魔法の言葉』が願いを叶えるという噂がある限り、犠牲者はこれからも出るんだろう。