表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歌姫の樊籠

作者: 橘颯

「改革しませう。変革しませう。最早翰藻の鳥は死に絶え、書の果は朽ち落つばかり。ならば、革命しませう。諸共に」

 血塗れた羽筆の墓標を肩に担ぎ上げ、炯々と光る眼で天を突いた少女が聲を張る。

 かくして、現在此處より粛々と活写革命は起こったのだ。

 密やかに。

 鮮やかに。


 全ては結晶構造を成すべきだと貴女は言う。

 或いは回廊を作り上げるべきだとも。

「其れでいて真新しくなければならないのです。其処が最も肝要で」

 多くが余白で占められたメモを積み、吊るし、貼り付け、切り裂き、撒きながら、黒髪は靡く。

 足は只管に前へと。

 円運動を繰り返しつつ。


「違う」

 其の声は直截に言った。

「怪なる物。異なる物。

 妖なる物。いや、其れ等以外でも其れがそう言う物であると定義された時、其れに成る。個体名称を与えなければ何と言う事も無いさ」

 帽子の奥から届く篭もった声に冷たく痺れた脳髄がそうか、と思う。

 だが悔恨は遅いのだ。

 既に。


「其れにしても君、活写革命とは全く素晴らしい響きですね。活写革命ですよ!眩々するじゃないですか」

 青白い頬に紅玉の色を透かせて、彼女は私を融けた炉にも似た熱い眸で見た。

「此れ以上の名前なぞ御座いません。否、在ってはならない。其れを良くぞ見出して下さいましたね、君」


 革命とは何ぞや。

 疑念は当初から存在していた。

「ねえ君、何だと思う」

 歩き廻る事を止めた彼女が俯向いたまま疑問形を成す。

 其の間にも蝋石めいた指に囚われた茶褐色の羽はごりごりと厭な鳴き声を上げ続けていた。

「君の見解を聞かせてよ」

 堆積する紙によって床は高くなるばかりだ。


 歩を進める都度、足元でさかさかと乾いた音色が立ち上る。

「適度な湿度などと言う物は無いよ」

 冷たく乾燥した部屋に咳嗽の気配を宿した声が零れた。

「紙に湿度は禁物だからさ」

 紅色が点々と滲む紙片に埋もれるような痩身に又一歩近付く。

「厭なら」

 其の先は聞かず、ただ抱き締めた。


 切り刻まれた言葉達の山を稚い手付きで撫でながら、彼女はあらゆる色を削ぎ落とした顔で笑う。

「君には本当に感謝しているんだ」

 望んでいた筈だった、硬質さを欠く気安い口調。

 変わったのは、どの瞬間からだったろうか。

「だから、君には此れをあげよう」

 渡された紙は酷く重かった。


 いよいよ駄目だ。

 そう思う。

 密やかに膨張して飲み込もうとする影の様に。

 振り返った瞬間、胸元にまで迫る潮の様に。

 又は皿の上で芳香を撒き散らしながら腐敗する果実の様に。

『私 持ち   の ては君 捧げ す』

 終わろうとする気配が、した。

 ただ静かに、其れは迫って来ていた。


 彼等は其処に居た。

 隘路の行き止まり、微温い蒸気の淀む黒い壁面を背にして。

「久し振り」

 壁から生えて居る方が柔和に笑う。

「如何したよ」

 其の前に立つ偉丈夫が肩を竦める。

 街の申し子たる言霊師[ワドナ]の双児を前に

「如何しよう」

 と間抜けた言葉を吐き出す他知らない僕が居た。


 促される侭に僕は語る。

 騙る事無く語る。

 かの部屋の事。

 彼女の事。

 そして、革命の事を。

「で、あんたはどうしたい」

 一通り拙い語りに耳を傾けた後、人懐っこい白皙の顔が笑みを消した。

 其れだけで膚の表面に薄らと霜が降りたような感触がする。

 背を冷たい物が一筋伝い落ちていった。


「そんなに苛めるんじゃない」

 取り成す様な柔らかい声が、頭上から降り注ぐ。

「何なら紹介するよ。

 今の君にぴったりの場所を」

 其の言葉に赤褐色の眸が眇められるのを尻目に、壁面から伸びた褐色の指が黒い札を一枚差し出す。

 其処には、ただ地図らしき物だけが銀の墨で記されていた。


 其処此処からぼろぼろと褐色の破片を零す筆は、紙にささくれを作り易くなっていた。

『私が持ち得る讃美の全ては君に捧げます』

 其れだけの事が上手く書けずに所々空白が出来てしまう。

 だが、其の間隙、余白が愛しくて私はにんまりと口唇を吊り上げた。

 余白の存在しない物に用は無い。


 人間の脳にも余白は必要だ。

 何も彼もをみっちり詰め込んでしまったなら其処で進化も革命も終焉を迎えてしまうだろう。

 だから常に余白を造らなくてはいけない。

 余白を構築する為に削除し其処に新たな物を書き加える。

 削除構築削除。

 二極で世界は循環する。

 さて、消したのは何だった?


 紙の褥に半ば埋まって思う。

 回帰する。

 だが余白には既に別の言葉が刻まれていて思い出す事が出来ない。

 ならば仕方が無いと区切りを付け、仰向けに寝直した。

 革命に犠牲は付き物。

 嗚呼、其れにしても天井に描かれた前衛芸術はいただけない。

 彼が来たら消してくれる様に頼んでみよう。


 人々の生活が高度に進化を果たそうとも死は未だ不条理で決別する事は出来ない。

 必ずや去り行く者と物とに決別を果たそうとする心にも又、変化は乏しい。

 一部、感情的には悼みより乖離した者が居たとしても大多数は内在的に区切りを欲して止まない。

 だから今日も葬儀屋は門戸を開く。


 煉瓦とタイルにて作られた人二人がやっとの幅しかない道。

 其の壁面に張り付くように一つ淡い橙灯が浮かんでいる。

 其れに照らされるのは青々と緑青を噴いた看板が一つ。

 透かし彫りの文様は幽かに何かの文字を形作っているようにも見えはする。

 だが読み解けないまま傍らの戸を叩いた。


「どなた」

 鈴振る声と称しても過剰で無い澄んだ声が一つ。

「連理の言霊師[ワドナ]の紹介で」

 擦り硝子越しに届いた幼げな声音に、やや驚きながらそう答えると、微かに錠が外される音がした。

 招かれている。

 小さく息を飲み込むと、路地に渦巻いている霧を連れて室内へと踏み込んだ。


 扉の内側は、玄闇だった。

 店と思しき設えの一室、其の其処彼処へと積み上げられている漆黒に小さく息を呑む。

 大も小も等しく同色に塗り込められた匣の群れ。

 唖然とする僕を一人の少女が匣の狭間に置かれた長椅子へと導く。

「ようこそ」

 其処で待って居たのは匣と同じく黒い男だった。


 窓すら匣郡で塞がれた室内で白結炭の洋燈が齎す青白い光輝が部屋の主人達に深い陰影を与えている。

 促されるまま男の対面に置かれた長椅子へ腰を下ろすと、少女は当然とばかりに僕の隣へと腰掛けた。

 男が眸を眇めるが、じき諦めたようだ。

「話を」

 差し伸べられた掌も、ただただ黒い。


 僕は再び語る。

 違う事無く語る。

 かの部屋の事。

 彼女の事。

 そして革命の事を。

 小指程の、掌程の、腕程の、頭程の、胴程の、大腿部程の、足首程の、そして其れ等がそっくり収まってしまう程、の匣に囲まれながら。

 無造作に詰まれた漆黒の矩形達、其の只中に陰々と声は流れ、浸透する。


「埋葬したとしても」

 白い声が言う。

「其れは無くした事にはならない」

 黒い声が言う。

「ただ記録するだけ」

「記録?」

「其れが在った事を記憶に留める。

 墓は其れを思い出す為の鍵」

「其れでも宜しいですか」

「……ええ」

 巫覡の様だ、と漠然に浮かんだ思考。

 一寸思い返して苦笑した。


「其れで、貴方は何方を埋葬したいと」

 隻眼の少女は小さな鼻に皺を寄せて桜桃の口唇を開いた。

「其れが分からなければ許可も取れない」

 黒衣の男はただ静かにテナーを紡ぐ。

 其の面は凝ったまま何の感情も浮かべはしなかった。

 彼が背に負う黒塗りの棺、其の深閑たる表面の静寂に似て。


 玄闇の眼差しに射竦められて口唇が戦慄く。

 終らせろと叫ぶ脳髄。

 終らせるなと暴れる心臟。

 幾度と無く刎ねようとした首を押さえて喘ぎながら言葉を搾り出す。

 搾り出そうとする。

 回る視界。

「彼女、を」

 擦れた音が一つ零れ、少女が哀れみの眼差しで僕を見た。

 男は一つ頷くだけだった。


 外に出ると霧は熄んでいた。

 背後で扉が閉まる音色に被せて

「どちらにしても其の人は助からないかも知れないわ」

 と、賢しら口で少女が言ったような気が、する。

 だが曖昧な物は躰から切り落として、がつがつと靴底を煉瓦に叩き付けた。

 革命の終焉。

 彼女の献身は反革命によって潰える。


「革命しませう」

 遥かに遠い場より届く歌声を聴きながら少年は呟いた。

「其れで活写革命ねえ。逃走に名を与えるなって云っただろっての」

 僅かにセンタークリースの鍔を擡げ、金眼が皮肉げな笑みを刷く。

「で、今度は匣葬革命とでもする気かよっと。莫迦らしー」

 微かに愁う声だった。


 回廊が回廊たる所以を失い、結晶構造が瓦解するまま放置し、崩落し行く一節を横目で眺めたまま散文が飛散する事に頓着しなくなった時、革命は終わらねばならなかった。

 そして又、偽物は決して真物足り得ない。

 終に余白のみを宿して閉塞した紙面は即ち匣である。

 漂白された棺である。


 少し昔の事。

 とても綺麗に歌う鳥が居た。

 絹モスリンの翼を揺らして天に向かい、白い咽喉を反らす様に見蕩れた物だ。

 どんな歌だったかは知れない。

 けれども確かに美しい歌いだった。

「許可を」

 旧知の男が求める言葉に一つ頷き、彼女は面紗の奥で双眸を閉ざした。

 鳥はもう居ないのだ。


 左様なら。

 然様なら。

 さようなら。

 谺すのは硝子杯を打ち合わせたかの様な涼しい響きでは無く、錆びれた歯車の軋み。

 赤錆の粉塵を撒き散らしながら磨耗し行く機関に押し潰されて、其れは砕けてしまった。

 窓辺から射し込む光を受け、紅い残骸はてらてらと粘度を帯びた光沢を浮かべる。


 覚醒。

 余白が足りないので新しい鉤を埋めようと思う。

 散逸した文なぞ無造作に踏み付け、無様な壁に黒鉤を。

 鉤括弧は始まりであり終わりである。

 行線たる紐を掛ければ其の間に高潔な空白が宿るだろう。

 そして空白の為の空白に空白を飾する。

「此れこそ尤も尊い」

 双眸は恍惚に潤む。


 金管楽器に似た通信機を鉤へ掛け戻す腕に細い指が絡む。

 大丈夫なのと問うか細い声に男は巌の様な静謐で応えた。

 黒瑪瑙の眸がゆらり揺れる。

 だが其れは不安からでは無い。

 沈黙の内に漂う思惟を少女は最早識っている。

「付いて行く」

「当然だ」

 交わす言葉も予定調和。

 仕事の始まりだ。


 紙を巻き上げ、軍靴の歩みで足は行く。

 終焉を終着を。

 最早此れまでと影が哂う。

「止めるんだ」

 制す声は未だ甘い。

「止めて」

 一片、又一片と裂かれては舞う紙葉に懇願が混じり出す。

「止めろ!」

 怒号と共に手を掴まれたとて最早止まれぬ。

 腕を払うと人形じみた白い面が飛び去った。


 壁際に崩れ折れた人を見る事無く、口内に苦い物を含んで探掘する。

「革命を起せと言ったのは君だ。其れだのに」

 萌芽せし反逆は成長を果し、実は生った。

 熟したからには結末は限られる。

 即ち、刈るか腐り落ちるか。

 或いは、根ごと掘り起こすか。

「何故、」

 囁きは涙雨の湿地に沈んだ。


 慟哭を置き去りにして掘り進む腕は、刃と化した薄い紙片によって裂かれる。

 膚を嘗める紅。

 熱を帯びた痛痒感を振り払い只管に下層を求める。

 紙樹は圧し折れ、唸りと共に紙鳥が舞う。

 狂乱は歔欷を耳にして尚止まない。

 が、唐突に響いた劈くような音に腕が止まる。

 そして扉が開かれた。


 空調の限界値まで下げられた室温が外気温と衝突。

 結合を果した分子が可視化されて白煙を上げる。

 其の白帳に人型の闇が浮かんだ。

 一つ、二つ。

 大小の影は怯む事無く前進する。

 煙壁を二つに別って顕現した少女が言う。

「今日和」

 続いて長躯が一礼すると豊かな音律を紡ぐ。

「葬儀屋だ」


 宵蒼に涙紫を融かした眸で彼女は闖入者を見る。

 二人きりで終幕を迎える筈だった物語へと付け加えられた登場人物。

 作者気取りだった少女の脳髄は混乱を来たす。

 精緻に組み上げた粗筋の煌びやかな幻想が容易に瓦解融解し、現実の前に蜷色の汚泥と化した。

 眸が堆積する紙の狭間を指す。


「成る程」

 葬儀屋は呟く。

 背負う棺を下ろし、内から円匙を取り出すと大きく振り翳した。

「早速ながら拝見させて頂く」

 黒鋼が翻る度、紙が舞う。

 最下に到達して、乱舞は漸く止んだ。

 其処から顕現したのは一塊の遺骸。

「怖いのは、見たくなかったのは、此れかね」

 萎びた肉塊が哂った。


 ごく最近の事。

 美しい歌姫が一人居りました。

 歌姫はある日、いかれた男に見初められて真っ赤な花に変えられました。

 男は他者に歌姫を渡したく無かったのです。

 けれど花には歌う咽喉が有りません。

 歌姫だった花は歌を無くした悲しみに自ら茎を切ると、其の侭枯れてしまいましたとさ。


 其れ、が君の姉だ。

 喉元に穿たれた二つ目の口を虚に開いて哄笑し続けている遺骸を指差し、言う。

 余白など見るな。

 余白に彼女を見出すな。

 彼女は此処に居る。

 此処に在り続けた。

 眼孔で小刻みに震え続ける眼球を、葬儀屋は真っ直ぐに見詰める。

 途端、狂乱する虹彩がぴたり静止した。


 そして、眼底に閃光が熾る。

 華奢な躯が跳ね上がると、紙片を巻き上げて遺骸の元へと奔った。

 少女は焼け爛れ捩れた膚に面影を探す様、掌を這わせる。

「嗚呼。消したのは姉さんだったのか」

 振動し、言葉を形作る蒼褪めた口唇。

 静かに降下して変わり果てた遺骸の其れと重なろうとした。


 だが、其の鼻先を影が遮る。

 突き付けられるは虚ろな白闇。

「署名を」

 隻眼が白紙の裏より覗く。

「埋葬し、死を記録する為に」

 小さな手が、震える少女に羽筆を握らせた。

 拒む事など赦さないとばかりに押さえ付けられる。

「其れが後に残る者の為すべき事」

 囁きには哀惜が混ざっていた。


「彼が私を肯定したんだ」

 乾いた声は凍えた空気に皹を入れる様だった。

 否、其れとも損傷を受けたのは彼女の心か。

 何処からか軋む音が聞こえる。

 確かに、現実から目を背けさせたのは僕だった。

「済まない」

 謝罪と共に拳を握る。

「私の姉は、死んだ」

 少女は面を上げると静かに笑った。


 美しい物が無残に崩される様など見たくは無かった。

 日長一日泥が沸き立つような音を立てて暴れ回る物が姉であると思いたくは無かった。

 あの柔らかな旋律は何処に行ってしまったのだろう。

 あの壮大な物語は何処に行ってしまったのだろう。

 あの微笑みは何処に行ってしまったのだろう。


 あの日も部屋の隅で蹲り、姉の叫びが消えるのを待っていた。

 一頻暴れた後、姉は僅かの時間、以前の意識を取り戻す。

 最早壊れた咽喉を震わせて謝罪し、悪夢の様に白いまま残された手で少女を撫でるのだ。

 其の時を必死に待ち侘びる。

 二度と新しい歌を聞く事が出来ないと知っていても。


 姉は何時、此方に来るのだろう。

 深閑だけが時を埋めた。

 日は巡り、夜が来ても跫は響かない。

 姉さん。

 乾いた声で呼ぶ。

 どうしたの。

 痛いの。

 引き攣れる膚は酷く痛むらしく、啜り泣きながら蹲っている時もある。

 御免ね。

 一人にして。

 蹣きながら少女は歩く。

 開いた扉の内側は紅かった。


 此処は窓から夕日が見えるの。

 姉が嬉しそうに新居を紹介した時を今も瞭然と覚えている。

 浮草が根付く事を決めたなら、陽の下で。

 願いの通り、射し込む茜色を受けて部屋は燃える様に赤い。

 床の中央で横たわる姉も、赤黒い。

 明度の違う赤が陰影を描く。

 何処かで獣が喘ぐ様な音がした。


 響く濁音。

 喘鳴が自分の咽喉より発せられているのだと、遅まきに知覚する。

 鼻腔に雪崩込む鉄臭。

 斑文様を描かれた壁、天井。

 眼孔内で忙しなく眼球が回る感触。

 撒き散らされた紙の幾枚かは紅が滲み、書かれていた筈の文字を滲ませる。

 穢された鳥の翼。

 鈍色の先端がぎらりと笑った。


 そぼ濡れたペンを拾い上げ、笑う。

 嗚呼、どうしてこんなにも部屋が散らかっているのだろう。

 何処も彼処も酷い有様。

 折角の詩も読めなくなってるじゃないか。

 汚れた紙を掻き集め、部屋の中心に纏める。

 もう一度、書き直そう。

 廃棄すべき紙が増える。

 横たわる肉塊を紅が覆っていった。


 壁の汚れが気になったので、壁にもメモを貼り付ける。

 コラージュの様で楽しくなり、次々と本を解体しては美しい挿絵等を交えて張る。

 不要な残骸は部屋の中央へ。

 鱗の様な紙面には文字を。

 記憶に刻まれた詩を。

 一言一句違える事無く残さなくては。

 瞬く間に、壁は文字で埋められた。


 こうして部屋は鎖される事となる。

 結晶構造も回廊も外界を遮断するに等しい。

 アタラクシアを求め、停滞を望む部屋で幾ら声を上げようと、外界には届かない。

 革命とは己の主義主張を他者に通す事である。

 其れが為されない閉鎖空間ならば、上げる言葉は唯の狂言。

 痴れ言。

 ファルスだ。


 悲劇は喜劇へと置換され、舞台上でパガドは立ち竦む。

 いっそ狂気を昇華しきれたのならば樊籠は形を変え得ただろう。

 だが、彼女は狂気に徹し得なかった。

 男は狂気を支え切れず怖じた。

 其の報いは如何なる形であれ受けねばならないが、今すべき事は唯一つ。

 眼前に彼女は手を伸ばした。


 幻想だけが蟠る白棺を抉じ開け、黒棺に埋葬し直す事が唯一現実へ帰還する為の路。

 少女は紅い羽筆を固く握り締める。

 名前を、書かなくては。

 埋葬する者と見送る者の名前。

 たった二行。

 歌にもならない其れを記そうとして、指が凝る。

 姉の名は何だった。

 己の名は何と記せばいい。


 男が低声で不可思議な言葉を紡ぐ。

 少女では無く羽筆に向けられたは識音[ワズ]。

 この世の理へと直裁に働き掛ける言葉を受け、羽筆が微かに震えるかにも見えたと同時、男は一つ頷いて折っていた膝を伸ばした。

「成る程。貴女は」

 いっそ怜悧な光を帯びた双眸が少女を射竦める。


 だが、言葉の前は鈍い打撃音に遮られた。

「止めろ!」

 続く怒号に、びくりと隻眼の少女の肩が震える。

「僕は『姉』の埋葬を頼んだんだ。其れ以上の事は必要が無い」

 壁へと拳を当てたまま、男が僧服を睨め付ける。

「彼女まで失う訳には行かないんだ」

 続く声は、口内で噛み砕かれた。


「其れは貴方の理」

 躰に走った震えを払い、毅然と隻眼が断言する。

 瞬時、朱を上らせた男が黒衣に掴み掛ろうとする寸前、庇う様に僧服が壁となった。

「生者を埋葬する事は不可」

 睥睨する黒眼は矢張り感情の漣一つ浮かべ無い。

 淡々と告げられる言葉に、少女の蒼冷めた口唇が開かれた。


 お止め。

 脳裏で誰かが囁く。

 紅い部屋。

 回廊の影から人影が覗く。

「私の、名は」

 結晶の切子面に浮かぶ後背。

 紅い女。

「わたしの、なまえは」

 鳥が啼く。

 否、其れは頗割れが奏でる音。

「私の、名前は……!」

 少女が姉の名を叫ぶと同時、砕け散った幾百の欠片に浮かぶ女の顔が笑った。


 歌を歌うのは姉だった。

 歌を作るのは妹だった。

 ただ二人で歌を、世界を作る事が楽しかった日々。

 やがて二人の作る世界は次第に人の中に浸透し、請われて歌う事も多くなっていった。

 求められるのは嬉しい事。

 二人は無邪気に喜んでいたが、其の中にあの男が居た。

 仄昏い目の男が。


 二人で、会いたい。

 長らく見詰るばかりだった男が声を掛けて来たあの日。

 手首に絡む汗ばんだ膚に慄きながら部屋へと逃げ帰って来た姉に妹が言う。

 明日は私が代わりに歌うわ。

 大丈夫、双子だもの。

 分かりっこ無い。

 優しそうだから付け上がるのよ。

 勝気な眸が夕日を受けて輝いていた。


 だが、現実は残酷な結果を齎す。

 身代わりとなって出向いた先で男に顔を焼かれ、咽喉を潰された妹は姉を憎んだ。

 男には復讐を求める以前に恐怖しか抱けず、さりとて心身の慰めを求めるならば姉を罵倒する以外に無い。

 貴方が居なければ。

 そして歪みは容易く伝染する。

 私が居なければ。


 其の瞬間、『姉』は消えた。

 部屋に取り残されたのは、何方も哀れな『妹』。

 狂気は合せ鏡の回廊で増幅されてゆく。

 怯懦で構成された迷宮は昏く淀み、闇の跋扈を許して脳髄まで盲しさせ、暗愚の楽園が顕現する。

 筈だった。

 だが、人はそう容易く狂い切れぬ物。

 闇に仄かな灯火が、燈る。


 自らを損なう事無く安楽へと逃走を果した者を前に、爛れた皮膚下へと熾った焔。

 其れはか細く、だが鮮やか過ぎる諦念の焔。

 ただ酷く疲れた。

 痛みも、憎しみも、哀れみも、損なわれた肉の内へ抱く事に。

 どうせ何も彼も元通りになりはしない。

 もう、いいや。

 頗割れた口唇が呟く。


 狂熱はもう冷めている。

『姉』が消えてしまった時点で、本当はもうどうでも良くなった。

 苦しもうが哀しもうが、後は勝手にすればいい。

『ただ自分は』

 妹は鋭い筆先を咽喉に添えて笑う。

 痛んだ躯を抱えて生きて行くのは辛い。

『もう、楽になりたい』

 最後の焔は斯くして吹き消された。


 双生児の片割れを失った事で、妄執は加速する。

 日常の狭間に生まれる非現実。

 それは非道く甘く優しい楽園。

 だが矢張り、乖離が齎す違和が完全に滅する事など無かったのだ。

 後に遺された愚かな『妹』が『姉』としての名を取り戻した以上、楽園は遠ざかる。

 其の先に待ち受けるは黒棺。


 数学的な頭脳を持たない詩人は詩人では無い。

 新たな世界の構築を為せない頭脳では何にもならない。

 ロジカルにあろうとしてもフィジカルでしかない脳ならば、回廊構造を成す世界は崩壊して行く。

 革命の言葉に幻惑されはしたが、『姉』は如何足掻こうとも結果歌う事しか出来なかった。


 過去が現実の背を掴む。

「如何、すれば」

 最早逃避能わぬ其の拘束に身を捩りながら、姉は乾く口唇を開いた。

「此れから、如何すれば」

 縋る眼差しは虚ろ闇。

 明りを失った紺青は昏く淀む。

「先ずは署名を。其の後は貴女が決める事」

 返る声は冷厳。

 幾度も紡がれた言葉に羽筆が漸く動く。


 震える腕を少女は支える。

 滂沱の涙が滲む紙片に記される名前。

 たった二つきりの歪な綴り。

 書き終えて項垂れる姉を顧みる事無く、少女は僧服の元へ軽やかに駆け寄る。

 契約が成されたのならば後の手順は何時も通り。

 棺に納められる遺体。

 担がれる棺。

 翻る喪服。

 後は墓地まで行くだけ。


 部屋の扉が再び開く。

 矩形の光に浮かぶは十字架の影絵。

 棺を、妹を担いだ葬儀屋が遠ざかって行く。

「望むのならば来たまえ」

 白く翳む影法師が一度きり手を伸べる。

 喪服が描くピルエットの軌跡は光に融け、導きの残光が姉の眼底を射した。

 停滞か、進行か。

 選択は常に委ねられていた。


「あの人、来るかしら」

 少女が囁く。

「来る」

 僧服は断じる。

 其れは願望だったかも知れない。

 だが、其の背後で確かに蹣く足が立ち上がる気配がした。

 縺れる四肢を支える腕は此処に在る。

 男の腕に縋りながら姉は一歩を踏み出す。

 朽ちた回廊を振り返る事無く、砕けた結晶を踏み締めて。


 後に残ったは、紅く凍えた部屋一つ。

 葬送の後、どの様な道を辿るかは彼ら次第。

 又、別のお話。

 葬儀屋は嘗て在った物の標を立てるのみ。

 かくして、歌姫の樊籠は開かれ、閉ざされた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ