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入籍した夜に

作者: ハクノチチ
掲載日:2013/12/06

 入籍した夜に



 恋人同士であればどこにでもあるような、極めて危機的な大きな波を二つほどやり過ごした六年間の交際の機運が、今まさにその高まりのピークにあることを二人は互いに感じていた。だから彼らは臆せずまた遠慮することもなく最近はよく口にしていた。


そんな折に彼の実家から裏の竹藪がいっせいに花を咲かせすべて枯れたという話が、今年も帰郷するのだろうという、半ば催促のような連絡と共に入った。十二月の初めのことだった。

連絡を寄こした母親は不吉に思っていたが、父親はそれを一族の代が大きく変わる時が来た吉兆だと喜んでいるらしい。三兄弟の末っ子たる彼は、父親のいう吉兆によせる思いを両親と同居する長兄へ丸投げするしかないのだが、自分もどちらかといえば母親の不安よりは父親の喜びに共感できた。そこで彼女にその話をすると、それならいっそのことあやかりましょうよと、壁に掛けてあるカレンダーを台所の机に広げ、具体的な日にちを決めにかかった。

小さな運送会社だが、責任感をもち少なからず頼られてもいる職場に勤める彼は、大きな展望こそなかったが身の丈に合う人生を送ってはいける自負があり、少なくとも仕事に対する不安はなく…つまり異存はなかった。挙式については互いの親族が加わるので今後モメるのは必至だが、とりあえずは籍を入れることにした。


そんな二人にささやかな憧れがあるとすれば、それはドンパチすることのない静かな映画の主人公のように、ひっそりと役所の夜間窓口へ人生の<前と後>を隔てる事務的な書類を提出するという滲むワン・シーンの実践だった。

大安と友引と互いの仕事の都合を考慮した結果、いくつかあるそんな日のうちの一つはクリスマス・イブだった。

そんな日に籍を入れるなんて恥ずかしいと彼は意見したが、合致する日を捜しているときに彼女が思わず声を上げたのは24日だけだった。彼はそんな彼女のことを可愛いな、と思うよりも意外な気がした。彼女はそもそもピカピカなブランドの類とは何光年も隔たっているのだ。

でもやはり女は女の子ではなくなっても、どこかは女の子なのかもしれない、そう思った。


「二十代の最後のクリスマス・イブに入籍か……」

彼女は少し涙ぐんでいた。

そんな瞼にへばりつく彼女の塩水を彼は茶化した。

「じゃあ、今年のプレゼントは指輪だね」

いくら位のを買うべきなのか、彼は正直不安だ。


一週間前から、今朝見た夢は正夢になると豪語していた彼女だったが雪の降ることはなかった。

ただカスカスに点在する星々が祝祭的な銀色には思えた。彼は緑のニット帽をかぶり、彼女は赤い皮の手袋をはめ、電飾だらけの家並みを抜け便乗して浮かれる街を横切ると、午後九時に揃って役所の夜間窓口へ書類を提出した。

慣れた様子で受け取る警備のおじさんから微笑まれた。


「寒いから風邪を引かないよう気をつけて帰りなよ、新婚さん」

警備のおじさんはわざわざ警備室のドアを開けて外に出ると制服の帽子まで振ってくれた。二人は、一番最初に自分たちを祝福してくれた、白髪頭を四角く刈った人の姿をずっと覚えておこうと話しあった。駅前のケーキ屋の列に並びながら……。


「しかしこんなんで本当に子供なんて出来んのかね?」


今夜から解禁した直接の射精後、彼はつぶやき首を捻った。

これまでは<うっかり>がただならぬほど極めて大きな<うっかり>になりうると散々恐れていたのに、実際意図して試みるとまるで実感はない。しかしそれは男だからだ。

恥ずかしがることなく歩きながらリコーダーなどを吹いていられた、少女時代から月に一度体の中で準備してきた女とは違う。相変わらずパッとしない体の余韻を無視し、神様や宇宙の領域にあるような余韻を思い描いた彼女は、お腹をさすったり左手の新しい指輪をいじったりしていた。

実は昨日まではなかった何か、とてもちいさな不自由さ(しかしそれは同時に新鮮さも兼ねていた)をどこかに感じていた彼は、その時このある種の違和感は自分の左手からきていたことに気がついた。


「ねぇ、今年のプレゼントは指輪だけよね」

彼女は不意にそんなことを言う。

「まぁそうだろうね、正直奮発したからね」

彼女は「奮発」という言葉に申し訳なさそうに噴き出し、ベッドから起き上がった。


貧相な乳房も笑いながら謝っているようだった。そのうちあれを子供が吸うようになったら、きっと俺は吸うことをしなくなるのだろうなと彼は思った。もちろんだからと言ってほかの男に吸われてもこまるのだが……。


彼女は明らかに何かを考えている。目の視点を遠くにしたまま口で呼吸していたので、彼はこれまでの経験から彼女が何かに想いを巡らしているのがわかる。逡巡の呼吸法と彼は密かに呼んでいた。


「ねぇ、それならこういうのはどう?」布団の中でモソモソと下着を履く彼女は言った。

「うん?」

なんだろう? 俺のパンツはどこだ?

「今まで誰にもしゃべったことのない話をお互いにプレゼントしあわない?」

無意識に噛んでいる下唇に彼女の思いが伝わる。

おそらくは前々から決めていたのだろう。

「誰にもしゃべったことのない話って、つまり君にもってことで、ようするに秘密ってことだよな?」

「Yes」


誰にも話したことのない秘密。真っ先に思い浮かんだ彼の秘密は三つあった。忘れているだけでもっとちゃんと考えればほかにもあるのかもしれないが、首筋にわずかな硬直を感じ、思い浮かんだその三つはやはり格が違う。

一つは男三兄弟揃って、親にも誰にも他言しないことをご先祖さんへ誓っていたモノで、もう一つは彼女との二度目の危機的な波をやり過ごすためについた決定的な嘘だった。その二つはどうしたって語れない。こんな日になんかどうしたって無理だ。しかし残りの一つも、籍を入れた、しかもクリスマス・イブに語るようなモノでは決してなかった。

でも彼女が<こんな夜だからこそ本物の秘密>をプレゼント交換しようと本気で思っているのはよくわかっていた。それを鑑みると打ち明けられる話しはおのずと決まってしまう。


「……お前、マジでどん引くぞ」

台所の換気扇の下で煙草を一本吸い終わりベッドに戻った彼は、ただ天井を見つめながら新しい指輪をいじっている彼女に言った。

「すごぉい!」

振り向いた彼女は手を叩いて彼の勇気にゲラゲラ笑い、ドキドキした。

「……小学六年生の秋ごろだったかな、十月の終わりとか十一月の始めとかそんなとき、授業中にトイレへ行ったことがあったんだ」

彼が話し始めるとベッドの中で二人は一瞬目を合わせ、順次また天井を見上げた。彼女は彼の手を握った。


三、四時間目のあいだの10分の休み時間、彼はめんこ遊びの負けが込んでいた。なんとなく小便をしたく思ってはいたが、あまりに裏返らない自らの投てきに納得できず膀胱からの警告は薄れていた。でも授業が始まるとまるで狭い交差点の飛び出しのように、膀胱の限界が(ある意味で)突然目の前に現れた。それでも限界は現れては消えを何度か繰り返した。もうダメだと思ったとき、それは本当か? という声が聞こえたりもしたが、結局手を挙げると腰から下を震えさせ立ち上がった。ありがたいことに嫌味を含まぬ小言を言うだけで教師は笑い、クラスメートはもっと笑った。トイレは教室にして3つ分先にあった。しかしそのわずかな距離は、彼の人生の全学生生活のなかで一番耐えた時間だったかもしれない。誰もいない廊下は静かでとても寒かった。閉切られたドア越しに他のクラスから漏れ聞こえる授業中の教師の声や、誰かが音読する声を耳にするとなぜか少し心さびしかった……。


「間に合った、じゃなくて、勝ったって思った瞬間、他のクラスの松井奈々っていう奴が飛び出して来たんだ。そんとき俺たちはしっかり目を合わせた。相手は驚きでだろうな一瞬で真っ青な顔になったし、俺は小便を我慢していたからたぶん真っ青だったと思う。もちろん俺は隣に並ぶ女子トイレと間違えたかと思った。でも鉢合わせした入口は男子トイレに間違いなかった。松井奈々は教室へは戻らずに早足で階段を下りて行ったんだ。あとで知ったことだけど、前の時間から保健室にいたらしい。俺はかなり混乱したまま、それでも膀胱の叫びに呼び戻された。あれだけ我慢していたら逆になかなか出なかったんだ。それがちょっと面白くてな。で、勢いよく始まると開放感よりやはりどうしてか勝利感に近かったかな。でもなんだか臭いんだよ。……今更だけどこんな話しだぜ、クリスマスに」

「そうね、でも続けてよ。それで終わりじゃないんでしょ?」

横になったまま彼女は彼に振り向き、彼は視線を合わせなかった。

「……でも大体予想つくだろ?」

「……たしかに私の学校でも何度かあったからね」


ぶるっと体を震わせ、ようやくいっさいを出し切った彼は、なんであいつなの? と口にした。

そして内側へ開かれる三つの扉の中を順次確認すると、一番奥の扉の中にそれを発見した。

しかも便器を外し、まだ湯気も上がっている。

ここ最近これまでにも何度か同じような事件があった。しかし誰もその犯人を見つけたことはなく見当もつかなかった。

松井奈々だけに彼はかなり混乱していたがこのままにしておくと典型的な冤罪者になると思い、デッキブラシまで使って最後には手洗い石鹸を跡地へこすりつけ処理をすませた。トイレットペーパーをグルグル、グルグル巻き取るとき、どうあれ固形体だったのは救いだと心から思った。トイレットペーパー越しにつかみあげたその異様と感じた重さを、彼はときどき夢の中で思い出すことがある。夢の中で何かの重さを比較する場面があると、夢の中の彼はあのときの重さを基準に用いることがあったのだ。


ところで松井奈々という生徒はたいがい学校には一人か二人いる、半ば秀でた優秀な女の子だった。勉強も体育も容姿も家柄も何もかもが(と他人はそう思う)抜きん出ていて、彼の小学校で女子が生徒会長を務めたのは、学校創立70年の当時、松井奈々はそれまで二人しかいなかった歴史的な生徒の一人だった。髪が短く色白で背も高く聡明であり、明るい笑顔は、何はともあれまわりの空気を一変させた。小学生の彼女に不釣合いなモノがあったとしたら、それは背負っているランドセルだけだった。


「……その話が本当に今まで誰にも話したことがないのなら、あなたは誰にも、その松井さんって子のことを話していないのよね?」

「誰も信じないって思ったからな。だってよりによって松井奈々が、しかも男便所にだぜ」

「……ねぇ、秘密の話しを打ち明けてくれるんだからなるべく質問はしないようにって思っていたんだけど、一つだけ聞いていい? でも答えたくなかったら答えないでいいからね」

「なに?」

「本当はどうして誰にも言わなかったの?」彼女は微笑んだ。

「なるほどな……」

彼も彼女に微笑んだ。

「……」

俺たちは本当の夫婦みたいだと彼は思ったが、実際に二人は今夜から本当の夫婦になっていたことを思い出した。


彼女は彼の頭をさすると頬にキスした。


「どうもありがとう素敵なプレゼントだったわ。次は私からあなたへ」

「うん」

「……私ね、本当のサンタクロースを見たことがあるの。しかも殺しちゃったのよ」

彼女は目を細め布団の中の足を彼の足に絡めた。

「はぁ?」

もちろん彼は噴き出した。

彼女はつかの間、目をつぶり胸の前で両手を組んだ。どうやら簡易的なお祈りをしたみたいだった。

「……ちょっとあなた笑うけど本当よ。鏡の中にちゃんといたんだから。私がまだ五歳のときだったわ。クリスマスが近づいてくると、通っていた幼稚園がクリスチャン系だったもんだから、わき立つっていうのかな、とにかく子供心にも煽られる感じがあったわ。みんなでサンタに手紙を書いたり、朝のお祈りが少し長くなって、わざと不味くしているとしか思えないパンをわけ合ったりする日が続いて、先生や父兄はチャリティーバザーの準備を徐々に始めたりしてさ。子供たちは当然プレゼントのことを口にしだすわけよ。

今年はサンタさんに何をお願いしたとか、吊るす靴下は何色だとおまけを入れといてくれる、トナカイの餌を用意しているとお礼に鈴を置いていってくれる云々で盛り上がるの。

でも中にはサンタクロースなんか本当はいなくて、あれはお父さんとお母さんなんだと主張する子も、さすがに五歳ともなれば現れだして、そういう子はみんなに糾弾されるんだけど、園長先生は何も言わないから余計に紛糾しちゃってね。よく周りの大人たちが笑ってた。

でも私は信じていたわ。

コカ・コーラの瓶を持つ、あのそっくりそのままの年取る太った外人そのものが、絶対にいると信じていた。煙突も暖炉もない団地だったけれど、トナカイが曳く橇を駐車場の片隅に停めてその老人が子供たちに配り歩いてくれる姿をブレることなく思い描けていた。少しだけ汗をかいて白い息を吐きながら私の家にくると父と母へ挨拶してから布団で寝ている私の枕元に、お願いしていたプレゼントを置いていってくれるの。一人で世界中の子供たちへ配り歩けるか否かではなく、私は世界中の子供の一人だから、私の所にきてくれるんだって、自己中心的に確信していたわ。なんていうの<子供>としてさ。

でもね、その年のイブの夜にアレ?って思ったら目が覚めていたの。布団がはだけて寒かったからなのかどうか、理由はわからないけれど、今は夜中で私は目を覚ましてしまったという事態に恐れを感じて、だから隣の部屋にいるはずの母を呼んだのよ。でもどれだけ呼んでも返事がなくて今度は父を呼んでみた。

父も返事を返してはくれなかった。

それでなかばパニックになっちゃって、今日がクリスマス・イブだってことはまったく頭になかったわ。私は布団から起き上がって部屋の明かりを点けようとしたら枕元で何かを踏みつけたんだけれど、それが何かってことも忘れていた。そして背伸びして壁際のスイッチを入れると、その年の誕生日に買ってもらっていたおもちゃの化粧箱の、鏡になっている蓋が開いてて不安げな私が一瞬映ったの。

そしてキャラクターの時計が側にあって、目をやるとちょうど12時24分だった。その時刻の数字に、何か思い当たる節は確かにあったけれど、そんなこと考えている余裕はなくて、とにかく襖を開けると台所は電気がつけっ放したままだし、両親が寝ている部屋の襖も開いていて明るかった。しかも布団にはどちらもいなくて、春先にあった五歳の誕生日から一人で寝るって自分で言い出し実行してきたことをものすごく後悔したわ。そこでようやく泣き出しそうになったんだけれど、逆に突然今夜はクリスマス・イブだってことをどうしてか思い出したのね。たぶんさっき時計で見た数字の並びが思い出させたのだろうと思ったわ。でもどうして二人はいないの?

あっ、もしかしたら今まさに下の駐車場でサンタさんとお話ししているのかもしれないと考えたら、枕元で踏んづけた何かが、お願いしていたゾウガメのぬいぐるみかもしれないって、今度はうれしくて飛び上がったの。そしてそれは実際にそれだった。外に出てサンタさんの顔を見てみたい気持ちはあったけれど、もし顔を見たことがバレてしまったら来年からはもう二度と来てくれないような気がして、だから私は私の体くらいある大きなゾウガメのぬいぐるみを抱いて、両親の部屋の布団の中で二人が戻ってくるのを待とうとしたの。

長い首に黄色いリボンを巻いたゾウガメを抱えて部屋を出るとき、さっきのおもちゃの化粧箱の鏡がまたふと目に入ると、側の時計は今度は12時25分だったのね。

そのときにいたのよ。鏡の中に。

まんまの姿で、明らかに気まずそうに立っていて、むしろ突っ立ていたって感じかな。私はゾウガメを落としたわ。

そして私が映らない鏡のなかのサンタクロースが引きつった顔で片手を挙げようとしたのと同時に、側の時計を手にとって、その鏡っていうか蓋っていうか、とにかく投げつけちゃったのよ。たぶん恐怖で無意識にさ。大きな音を立てて粉々になったわ。ゾウガメの周りで破片がキラキラしていて、とても危険なモノなんだって思った。

両親たちはすぐに戻ってきたわ。ビールとホットワインをコンビニへ買出しに行ってたみたいで、部屋の中で呆然と立っていた私が、怖かった、とだけ言うと驚いた彼らは順番に抱きしめてくれて謝ってもくれた。鏡が割れたのは、誰かに追いかけられる怖い夢のなかで石を投げつけると実際にあの時計を投げていて、それが当ったっ、て嘘をついたの。もちろん両親は信じてくれなかったけれど、ずっとそういい続けていたわ。

以来、何年も精神的な面を心配させてしまっちゃったわ。でも夜中に二人が揃って家を空けることはなくなったわね。これまでにも私が寝ている隙にちょくちょくしていたらしいのよ。間にはさまって寝ているときにもよ。まったくね」

彼女はふぅ、とため息をついた。


「買い物くらい行くよ」彼は言った。

「もし私たちに子供が出来たら、あなたは夜中に子供を一人、置いて出かけられるの?」

「よく聞く話だけど、子供が出来るとむしろ夫婦で二人きりになる方が落ち着かないらしいぞ」

「そんなこと知らないけど、私はゼッタイに一人にはしないわ。クリスマスだろうが正月だろうが……」

「……」

結局、そのことを言いたかったんだなと彼は思った。

「……」

でもそうじゃなかった。秘密の話をプレゼント交換しようとした意図はそれも含まれていただけだ。


「で、サンタを殺したっていうのはようするに鏡を割ったってこと?」

「まぁね。今でもそう思ってるわ。今でもはっきりと見た記憶と同じくらいの強さでね」

「本当にいたのかどうかはわからないけど、少なくとも君がそう信じているってことは信じるよ。

でもあれだろ? 今まで誰にも言えなかったっていうのは、つまり簡単に言うと祟り系を恐れてだろ?」

「Yes」

「よくわかるよ」

「あのね、私はこう考えているの。世界中の人間のある程度の数の人が本当に心の底から信じていると、それは何であれ、どういう形であれ現実化するんじゃないのかなって。私が見たサンタクロースはたぶん私のなかの投影だったろうけれど、それは私個人のモノじゃなくて、世界中で心から信じている子供たちによって現実化した幻影だったんじゃないのかって。現実の幻影っていうのも変な言い方だけど、そう思うわ。同じように考えている学者もいて、その人はプラネッツのことをそう言っていた。あれは幻だけど実際に存在しているって。たくさんの人々の純粋に信じる心が作り出した、実態のない現実化した幻なんだって。

その本を読んだのは高校生のころだったかな? UFOとかキョンシーとかピラミッドの用途や巨大隕石の落下跡とかを扱ったオカルトチックな本。私はプラネッツの項目を読んでいて、本当に目からうろこが落ちたわ。サンタクロースのことはさすがに書いていなかったけど、プラネッツの目撃者はどの人も心の底から存在を信じていて、一万年といわれる出現周期が、別に今日であっても不思議ではないと、ちゃんと思っていたって。12月25日12時25分にサンタクロースは幻影として、たとえば鏡の中に現れるのよ。心から信じている人に対してだけ……」



……実は、彼はずっと松井奈々のことを考えていた。

どうして今まで誰にも言わなかったことの本当の理由を……。

「あなたはプラネッツのことを信じている?」

「サンタ以上、カッパ未満でかな」

「ねぇ、何を考えているの?」

「……うん。お前、どうしてサンタの祟り系を振り払えた?」

「サンタの祟りって、どうして口に出来たかってこと?」

「あぁ」

「今夜あなたと籍を入れたからよ。それ以外に理由はないわ。でしょ?」

すべての意味で、なるほどなと彼は思った。

「少なからず恐怖感を伴った超常現象を経験すると、それを口にしたら何かの災いが起きるかもって考えちゃうよな」

「なに? 本当はカッパでも見たことあるの?」


彼は少し微笑み、左手の新しい指輪を触って勇気を擦り出そうとした。つるっとしただけの、お店で一番安いプラチナの呪い。分割払いは可能ですか? と聞いたとき自分たちよりもまだ若い女の店員は、えっ? と真顔で驚きやがった……。


「……松井奈々なんだけど、たぶん彼女の生霊を見たんだ。トイレの掃除を終えて出るときに、入口に立っていたんだ。でも彼女はかなり透き通っていた。俺は臍が凍りつくくらい驚いて、発光とか発電とかそんなもんをしかねない勢いで鳥肌が全身に回ったよ。硬くなった頭皮からたぶん髪の毛が何本か抜けたな。そんな脈も時間も止まってしまった間に、透き通った松井奈々が両手を合わせて、もうしないから絶対に誰にも言わないでって、頭を下げたんだ。耳じゃないところではっきり聞こえたんだ、あのときに……」

「……であなたは今まで誰にも言わなかった。口にするのが怖かったのね?」

彼女は同情するようにまた頭を摩った。

「彼女は私立中学の受験が控えていたし、ちょっと障害のある弟もいて、親との本当の関係がどうだったのかは知らないけど、誰からも自分はこう見られなければいけないってことを知っていた。いずれにしろ何かを抱えていてストレスがずいぶん溜まっていたんじゃないかな、じゃなければ男子便所でクソなんかしねぇよ」

「わざとハズすのは流すと水音でバレるからなんでしょ?」

「流さなければバレないよ」

「そうね、確かに収まったまま残っている場合もあったわね」

「ハズしちゃえって思うんじゃん。どうしても外さなければならないんだよ」

「あれっ? あなたは松井さんのは流したの?」

「窓からぶん投げたんだ。強く握らないように握って振りかぶったとき、なんで俺がこんなもんを遠投しなければいけないんだって、情けなかったよ。渾身の放物線の途中で中身とトイレットペーパーが分離してな。笑っちゃうよな。いずれにしろあれだな、クリスマスの夜にこんな話をしてるカップルって他にいねぇだろうな」

「夫婦よ。でももしかしたら小学生になった子供のことで悩んでいるご夫婦のなかにはいるかもしれないわ。二学期も終わったけどあいつ大丈夫かな? 学校のトイレで、わざとクソをハズして何かを訴えようとしてねぇかな?ってさ」

彼女は幸せそうにクスクス笑った。


「……もう少しだけ続きがあんだよ。松井奈々は卒業式のとき卒業生代表として当然祝辞を読んだ。立派なだけでつまらない退屈なものだ。でも最後に、これはわたし個人のことで大変に申し訳ありませんが、一言だけですから最後に言わせてくださいって言い出したんだ。当然ざわついたよ。父兄だって散々いたしな」

「なんて言ったの?」

「あなたに心から感謝しています。本当にありがとうって言うと、その場で顔を覆って泣いたんだ。何回も何回も頭を下げ続けて、最後は教頭だか誰だかの教師に抱えられながら舞台の袖へ連れて行かれた。バカだから俺は誰のことを言っていたのかずっとわからなかった。しかも二十歳になるまで。成人式の日に同窓会があって、そんときなんだかんだで急に思い当たったんだ。俺のことだったんじゃねぇのかって……」

「……微妙だけど、どっちにしろあんた本当にバカよね」



話し終わると、彼は今まで俺は何を恐れていたのだろう? と思わずにはいられなかった。

でもそれは結果として良かった。本当に良かったことだった。


「ねぇ、そういえばプロポーズの言葉ってなかったわよね?」

「でもいらないだろ?」

「そうね。いらないわね。でもこれからも会話はしていこうね。うるさくない程度で気を使うこともなく。結婚した友達の半分は離婚か別居中なの。私たちは絶対に生き残りましょう」

彼女は彼の小指を捜して絡めた。

今更だけどと、微笑んだ。


「……なぁ、サンタってまだ死んでねぇんじゃねぇの。そのお前のいう現実化した幻影を殺すってことは、サンタを信じなくなったときのことだよ」

彼は小指を絡めたままつぶやいた。

「……」

「今何時だ?」

彼女は枕元の目覚まし時計を傾けた。

「どうしよう? 12時22分」

「お前まだ心から信じてんなら、鏡見てみろよ」

「……信じている子供は毎年起きていられないし、起きていられる大人はとっくに信じていない……」

「すごいぞ、この鳥肌。おおぉ、お前もかなり来てんな!」

二人は互いにあわ立った腕や腹を見せあい、ゲラゲラ笑った。

「マジ、あなたも一緒に見てくれる?」

「夫婦だからな」


二人は時計を持ってベッドから降りると隣の部屋に移り、明かりをつけそこにある桜材の鏡台の前でなぜだか正座をして姿見のカバーを外した。


夜中の鏡の中に二人が並んで映るのはたぶん初めてのことだった。

いつかこの人の子供が欲しいなと、妻は思った。


「おう、24分だぞ!」


でもそんなことサンタさんになんか頼めないよなと、妻は思う。

……あっ、でも、もしかしたら子宝の神様に口を利いてくれるかも?

じゃなければとりあえずはコウノトリでもいいんですけど、サンタさん……。



(了)


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