雪になる前に 【2011.12.24.】
初めてのクリスマス企画なので、遊森の得意なネタを仕込んで書きました。お楽しみ頂ければ幸いです。あとがきまで是非、お付き合いください。
「お前、実家が東京だろ。ちょうどいいから行け」
この五月、上司に軽ーく言われて、製薬会社の事務をしていた私は名古屋支社から東京本社に異動になった。異動には中途半端な時期だけど、東京本社の事務に急に欠員が出たのだ。
断る理由もなく実家に戻った私は、新宿で働きながら久しぶりの都会生活を満喫し始めた。こっちの友達はちょうど結婚ラッシュ第一弾が終わって、小さな子どもを抱えて忙しい時期。とても休日に遊びに誘えるような状況じゃない。でも幸いなことに、私は一人で行動するのは苦にならない方だ。
映画や美術館も一人で観に行くし、仕事の後には一人でバーにも入る。もうすぐ夏だからってさすがに海に一人で行ったりはしないけど、秋になったら一人紅葉狩りってのも悪くない。
あー、でも転勤になるに当たって、マイカーを手放しちゃったんだよねぇ……全くもう、東京って駐車場料金高すぎ。
そんな私の一番の趣味は、カフェ通い。かつての勤務地である名古屋は喫茶店文化の発達した土地で、至る所に様々なカフェがあった。街の中心部に限らず、ごく普通の住宅街にさりげなく看板が出ていることもある。休日はお気に入りのカフェでブランチするのが習慣だった。
東京にもそんな素敵なお店があるといいな。まあきっとあるでしょ、東京なんだから。
ある日曜日、私はそんな素敵なカフェを探して、最寄り駅の路地裏を歩いていた。
「……意外とないものね」
この駅付近がそうなだけかもしれないけれど、シアトル系のカフェに押されてかそれ以外の喫茶店があまり見あたらない。シアトル系も好きは好きなんだけど、なんて言うか……マスターの個性が表れているようなお店に入ってみたいんだ。
私の目の前で、ある店のガラスドアが急に開いた。カウベルの音。
扉から一歩大きく踏み出した男性が、私に背を向ける格好で遠くへ呼びかける。
「ナナオさん、忘れ物ですよ」
向こうの方で、高校生くらいの若い女の子が振り向いた。わあ、ありがとう、と駆け戻ってきた彼女に、男性は文庫本を渡す。
女の子は男性に手を振って、再び向こうへ去っていった。大手の予備校のパンフレットを持っているから、これから夏期講習にでも行くのかもしれない。
彼女を見送った男性は店内に戻ろうとして、私に気づいた。
「あ……失礼しました。どうぞ」
そこに突っ立っていたので、客だと思われたらしい。白いシンプルなシャツに、黒の長めのギャルソンエプロン。日本人にしては彫りの深い顔立ちの彼は、大きな手のひらを店内に向けて私に微笑みかけた。
その場の流れで、私はそちらへと歩み寄った。女子高生に「さん」付けで呼びかける彼の態度に、好感を覚えたからというのもある。
ドアをくぐる時にすぐ横に目をやると、ガラス窓に取り付けられた透明なアクリル板に『cafe・雪』という文字が、ひかえめに白く浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
それから、土曜か日曜のどちらかには文庫本持参でそのカフェに行くようになった。店内は白い壁と白木の床で明るく、二人掛けのテーブル席が三つにカウンター席が四つ。観葉植物の鉢がいくつか置かれているのと、入り口のすぐ上に雪の結晶のモビールが揺れている以外には装飾がない。窓もカーテンではなく白のブラインドがかかっていて、シンプルなものだ。
カウンターの隅に水出しのコーヒーメーカーが置かれていて、水滴がポタリ、ポタリと落ちている。コーヒーや紅茶などのほかには、自家製のパンとスープとカレーくらい。メニューにはスイーツも少しあるけど、これは他の店から卸しているらしく、タルトを頼んだら『ベル』と書かれた小さな紙のチップがフルーツの上にちょこんと載っていた。
常連のお客さんから「マスター」と呼ばれているあの男性は、一人でこの店を切り盛りしている。手に指輪もないし、独身だろうか。
私はたいてい開店直後の空いている時間に『雪』に来る。その時間帯にはあの女子高生と、いつもノートパソコンを開いている強面の男性がよく来ていて、顔見知りになった。といっても、会ったら会釈するくらいだけど。この店の中では、マスターも含めて誰もが一言二言しか話さず、静寂を楽しんでいる。
何度か通ううちに、コーヒーメーカーの前のカウンター席が私の定位置になった。木製の棒を金色の留め具でとめたこの水出しの器具は、見ていて飽きることがない。一番上のガラスの球体には透き通った水、そこからコーヒー粉の入ったろうとに、ポタリ、ポタリ。一番下のガラスのボトルにたまっていく琥珀色の液体がゆらゆらと揺れる。
「この器具が、お好きですか」
顔を上げると、マスターがこちらを見ていた。気づいたら、他にお客さんは誰もいなかった。
「綺麗で、つい見入ってしまいます。家にも欲しいくらいだけど、さすがに無理だなぁ」
「ちょっと大きいですよね」
微笑むマスターに、私はうなずく。
「それに、うちは家族があまりコーヒー好きじゃなくて。いつもは自分の分だけ、手挽きミルでドリッパー使って淹れてるんです」
豆を挽くときのゴリゴリいう感触が好きで、とハンドルを回す身振りをしてみせると、マスターは優しく目を細めた。
「一人分なら手軽に挽けますよね。僕も家では手挽きです」
マスターも、一人分? 一人暮らしかしら。
「余った豆を、適当に混ぜてみたりもしてます」
「美味しいブレンドが見つかると、嬉しいですよね」
そこでドアのカウベルが鳴り、話は終わってしまったけれど、珍しく長いマスターとの会話だった。
◇ ◇ ◇
八月に入った。今日の『雪』には、いつもの女子高生も強面ライターも来ていなくて、私一人。
雑味の少ない水出しコーヒーをアイスで楽しんでいると、カウンターの上に置いてあるカードに目がとまった。一枚もらって、表、裏と返す。店名と住所・電話番号、簡単な地図が書かれていた。
ブルーグレイの地に白抜きで浮かんだ『cafe・雪』の文字を眺めながら、
「このお店、どうしてこの名前なんですか?」
と前から疑問に思っていたことを聞いてみた。
店内はクーラーがほどよくきいているけれど、今日は猛暑日。ここへ来たときに見た、看板の上の『雪』の小さな文字は、強い陽光に照りつけられて溶けてしまいそうだったのだ。
マスターは微笑んだ。
「名前から取ったんです」
そこへまたカウベルが鳴り、お客さんが入ってきたので、話はそこで終わりになってしまった。ささやかな会話は、いつもカウベルで断ち切られる。
注文をうなずきながら聞いているマスターを見ながら、私は思いを巡らせた。
名前から取った、か……マスターの名前? 雪野さん、雪村さん、それとも下の名前で雪弘さんとか雪彦さん。
いや……『雪』一文字をお店の名前にするその感覚は、女性的なものも感じられる。雪さん、雪子さん、美雪さん。
……大事な女性の名前から、取ったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
秋も深まった十一月のある日、仕事で遅くなって家に帰りつくと、父がテレビを見ながらご機嫌で酔っぱらっていた。
「おー、きたきた、おかえり晶花。おまえ、見合いしないか、みあい」
「は?」
ていうかお父さん、私に恋人がいるかどうかも聞かないで一体何を藪から棒に。
「今まで私の結婚の心配なんかしたことないくせに、何なの急に」
とりあえず上着をダイニングの椅子にかけてから、父の斜め向かいのソファに座る。
「ぶちょーめいれいだ」
ろれつの回っていない父が、据わった目をして私に指を突きつけた。そしてまた、でれっと相好を崩す。
「なんてな。いや、お前この間、会社のうんどーかいに来ただろ」
「うん」
父の会社は、毎年十月に市のグラウンドを借りて運動会を催す。せっかく東京に戻ってきたのだから、親孝行でちょっと応援くらいしてやるか、と私も覗きに行ったのだ。
「その時、すずきぶちょーの奥さんが、お前と話をして「感じのいいおじょーさんね」とこう来たもんだ。で、息子と見合いしてみないかってさ。さすがは俺の娘」
ああ、そういえば本部の前で、そんなようなご夫婦に挨拶したっけ。父はあの時すでにほろ酔いだったから、紹介もいい加減だったけど、あれが「すずきぶちょー」ご夫妻だったのね。って。
「え、やだ、本当に『ぶちょーめいれい』じゃないのそれ。断れないじゃない」
「他にも声かけてるって言ってたぞー」
あ、そう。何分の一ってことなら、まあいいか。
「いーじゃないか、もしいい男だったら、クリスマスがシングルベルじゃなくなるぞー」
シングルベルって。古いよ。
「ていうかお前って二十五歳じゃなかったか? それ、『クリスマス』ってんだよなー」
それも古い。
「会うのはいいけど、断ってもいいのよね?」
「おっけーおっけー」
全くもう。きっと飲み会の席で、こんな感じで安請け合いしたんだろうな。ま、断ってもいいなら話の種に一度くらいお見合い経験してもいい。
「相手の名前、なんて言うの」
「すずき……なんだっけ。聞いてみる」
父は携帯をポチりだした。部長とメル友かい。
「ひろなり君だって。二十八歳」
「レス早っ」
もしかして絵文字なんかも使ってるのかも。それはともかく、すずきひろなり、ね。
「シラフの時にもう一回確認してよね! 私のことじゃないかもしれないし」
「おっけーおっけー」
怪しい。父が出勤する時に、もう一回念押ししておこう。
私は立ち上がると、キッチンで洗い物をしている母の所へ行った。
「お腹空いたー」
「食べてくるって言ってたじゃないの。炊き込みご飯が少し残ってるけど。お味噌汁と」
「それでいい。あ、ゴボウとマイタケだ、いいねえ」
「全くもう……さっきの話、嫌ならちゃんと断りなさいよ」
「うん」
漬け物をつまみながらふと横を見ると、キッチンカウンターの上の定位置に、木製のコーヒーミルが佇んでいる。
マスターの顔が浮かんだ。
彼の私生活に、想像をめぐらせる。
長袖のTシャツにジーパン姿のマスターが、手挽きミルで挽いたコーヒーの粉を陶器のドリッパーに移す。しゅんしゅんと湯気を上げる、雪のように白いホーローのポット。お湯を注ぐと、クリーム状の泡が生き物のように盛り上がる。それを見つめる優しい瞳。
明日は土曜日だ。『雪』に行こう。
◇ ◇ ◇
翌日、開店時間の十時ぴったりに『雪』に行った。ちょうど何かの業者さんがドアからでてきたところで、お互いに会釈してすれ違う。
ドアにはまだロールスクリーンが降りていて中が見えず、開けたとたんにマスターとぶつかりそうになった。
「あ、おはようございます。すみません、今開けますね」
マスターは手にしていたカードケースをカウンターに置いて、私の横を通り過ぎた。いつもの席に座ると、背中側でロールスクリーンを開ける音がする。
――来週お見合いすることになっちゃって、なんて話してみようかな。
「あの……」
口を開きかけたとき、カウンターの上の開けっ放しのカードケースが目に入った。名刺が入っているのが見える……業者さんと名刺交換してたんだろう。
そこには、『雪 拓也』という名前があった。
『ゆき たくや』? ちょっと変わった芸名みたいな名前。雪、って女性の名前じゃなくて、マスターの名字だったんだ。
何だかホッとしてしまった。
「何ですか?」
振り向くと、斜め上にマスターの笑顔。私は軽く首を振った。
「いえ。来週は来られないから、今日はケーキも注文しちゃおうかなって」
お見合い、会うだけ会ったらちゃんと断ろう、と改めて思った。
◇ ◇ ◇
そして迎えた翌週、十二月の初めの土曜日。
仲介人がいるわけでもないし、もういい大人なので、親は交えず二人で会うことになった。私は池袋のメトロポリタンホテルの中二階のラウンジで、相手を待っていた。
ところが、待ち合わせの時間を少し過ぎたところで、ホテルマンが『すずきひろなり』氏からの伝言を持ってきた。
「大変申し訳ないが、急用ができて行けなくなった」とのことだった。
部長の息子さんだし、なんだかんだ仕事が忙しいのかもね。まあ、ご縁がなかったということで。
ホテルを出たその足で電車に乗り、『cafe・雪』に行ってみると、ガラスドアにはロールスクリーンが降りていて、「臨時休業」の札がかかっていた。
あらら……そうか、私が今週は来ないって言ったから、マスターもこのことは言わなかったのね。
木枯らしに肩をすくめ、きびすを返す。と、カラン、と音がした。
「はせがわさん」
びっくりして振り返ると、マスターが立っていた。Vネックの黒のニットにグレーのジャケット、モスグリーンのパンツ。
「マスター。何で」
名前を教えたことなんてないのに。
「あの、入りませんか」
いつかのように大きな手のひらに誘われて、私は店内に入った。
店内は薄暗く、空気はひんやりしていて、マスターはすぐにエアコンを入れた。彼も今来たところなんだろうか。
「すみません、今日は水出しではないんですが……」
そういうと、彼は手挽きミルで豆を挽いた。心地よい低音が響いてくる。
挽き終わって、お湯が沸くのを待ちながら、マスターは珍しく目を伏せて言った。
「長谷川さんに謝らなくては。今日、お約束をすっぽかしたのは、僕なんです」
「え?」
沈黙が流れる。お湯がしゅんしゅんいい始めた。
「あの……え?」
もう一回疑問符。これじゃ話が進まない。
「私がお会いする予定だったのは、『すずきひろなり』さん、という方なんですけど」
言うと、彼は火を止めてからあのカードケースを取り出した。名刺を一枚、私の前に置く。『雪 拓也』。
「それで、すずきひろなり、と読むんです」
「は?」
『たくや』じゃなくて『ひろなり』……はわかるけど、『雪』で『すずき』?
「雪という漢字で「雪ぐ」って読みますよね。そこから変化した名字らしいです。詳しいことは知らないんですが」
私は開いた口がふさがらなかった。『すずきぶちょー』って『雪部長』だったのか!
「母がいきなり「見合いしろ」という話を持ってきて……僕の店を手伝ってくれる奥さんを、と世話を焼いたつもりらしいんですが。元々一人で始めた店なのにと思いつつも、待ち合わせ場所に行ってみたら、あなたが」
彼はドリッパーにお湯を注ぎ始めた。そうすれば、その場の空気が落ち着くというように。
「そのままお見合いをして、まとまらなかった場合、あなたは店に来てくれなくなる……と思ったら、会えませんでした。とっさに急用の連絡を入れてしまったんですが、後から考えたら大変失礼なことを」
彼はコーヒーを淹れ終えると、静かに頭を下げた。
「申し訳ありませんでした、はせがわ……あきかさん」
「『しょうか』です。長谷川晶花」
私はマスターの手元を見ながら、胸が高鳴るのを感じていた。
私が店に来なくなると思ったら、お見合いできなかった。それって、つまり、私に会えなくなるのが嫌だ、ってことよね……?
「お、お見合いなんて、必要なかったってことですね。もう知り合いなんだし」
私が笑いかけると、マスターもやっと微笑んでコーヒーをカップに注いだ。二人分。
私は一人の生活を楽しんでいたし、マスターも一人で素敵なお店を持った。一人も十分楽しいけどそれはそれで、やっぱりこうやって二人で分けあって飲むコーヒーは美味しい。
「じゃあこのお店も、『カフェ・ゆき』じゃなくて『カフェ・すずき』って読むんですか?」
そう聞くと、マスターは珍しく声を出して笑った。
「急に昭和っぽい感じになりますよね、『カフェ・すずき』だと。実は、この店をやる前に働いていた喫茶店が『喫茶 ベル』というところなんですが」
私は、タルトの上に載っていた『ベル』というチップを思い出した。スイーツはそこで作られてるんだ。
「『鈴木』さんご夫妻が経営している喫茶店なので『ベル』と言うんです。客として通っていたら急に店員さんが辞めたので、名前がご縁で僕が代わりに働くことになって。鈴木さんのところで修行させてもらったので、僕の店にも、なんというか……」
「あ、のれん分け?」
「そう、そんなような意味で、名前を付けたんです。でも『ゆき』と読んでいただいても一向に構いません。特に、これからの季節はそちらの方が雰囲気がありますよね」
二人でコーヒーを飲む。ふんわりと身体が温まってきた。
「それで、あの……僕は、あなたとお会いするのを、いつも……楽しみにしていたんです。これからも、この店に来ていただけますか?」
マスターがそっと尋ねてくる。私はちょっと考えてから、言った。
「今年はクリスマスが連休で、会社お休みなんですよね。……ここ、クリスマスも開いてますか?」
マスターは軽く目を見開いた。
「あ、はい。もちろん」
「じゃあ来ます。クリスマスの日に、こうやって一緒にコーヒー飲んでくれるなら」
お客さんがいても、そのくらいいいよね?
軽く首をかしげて見上げると、マスターは嬉しそうに笑って、うなずいた。
いつもカウベルの音で途切れがちな私たちの会話は、その日はいつまでもいつまでも、続いた。
【雪になる前に 完】
最後までお読み頂き、タイトルのもう一つの意味に気づいてニヤリとしていただけたら、遊森もしてやったりとほくそ笑みます(笑)
以下、いつも遊森作品を読んで下さっている方へのおまけです。
・「製薬会社の事務をしていた」「東京本社の事務に急に欠員が出た」……『金色フェスティバル』ヒロインが失踪したことによる欠員です。第三話参照。
・「ナナオさん、忘れ物ですよ」……『離宮の乳母さま』に登場した七緒です。高校生になっています。
・「いつもノートパソコンを開いている強面の男性」……『イマジネーション・ラグーン』の彼です。奥さんが休日出勤の土日は、「雪」でお茶しながら仕事をしています。スイーツももちろん注文します。
・「パンとスープとカレー」「喫茶 ベル」「タルトの上に載っていた『ベル』というチップ」……短編『サ店のあなた』に登場した喫茶店です。昔からナポリタンとカレーだけは美味しく、『雪』のマスターもカレーのレシピは受け継いだようです。スイーツを作っているのは『ベル』の若奥さん。
・「急に店員さんが辞めたので」……『王妃様は逃亡中』ヒロインは『ベル』で働いていたのですが、マスコミに追われて辞めざるを得なくなりました。26話参照。
お楽しみいただけたでしょうか♪ メリークリスマス!