それでは七日後に
結構前に書いてたんですが、オチの準備ができたんで出させていただきました。
細い道を抜けると騒がしい通りに出る。
「七日通り」とか言って、そこに入ると視界一杯にお店が大挙して来る。
人はそこそこ居て、お店もそこそこ繁盛してる。
七日通りを抜けると、あとはもう、大きな道路が行く手をふさぎ、車とバイクとが我が物顔で走り回っていた。
交差点。
赤色は止まれ。だから止まってる。
わざわざ簡単にしてくれているのだから、理由はそれだけで十分。
『なんでも物事を簡単に見ようとするのは、お前の悪い癖だな』
うるさいな。
『きちんと考えれば、分かる事だろ』
めんどくさいって。
耳に蘇えってくる声に蓋をして、殊更に信号から視線を逸らした。
手元でケータイを弄くる。メールが来ていた。
横で人が動いた気配がした。
ケータイに眼を落としたまま、人の流れに任せて足を進める。
信号機のどこかやる気の無い、微妙に音をはずした「とおりゃんせ」。
ほら、簡単だ。
おかげで、前なんか見なくても信号を渡れる。
メールの相手は弥生だった。
――うらー英語の範囲教えろー。あと夜電話するぞー。
絵文字満載の装飾過多気味の文面に目を落としため息をついた。
意味のないメールに返信なんて、めんどくさいんだけど、仕方ない。
メールが来るなら、返信してやらなきゃならない。
なぜなら彼女は友達だから。
「あんたは本当にしょうがない子だねえ。英語の範囲は……」
呟くように指先を動かす。
電話と言ってもどうせ大した用件なんか無い。テスト範囲が馬鹿広いとか、どこか遊びに行きたいとか、彼氏欲しいとかそんな感じだろう。
無難な合いの手は、こういう手合いと付き合う上では必須スキルだ。
こうして無為なやり取りをしていた時、突然耳障りな摩擦音がした。
「………っ……い……」
誰かがなにか叫んだ気がした。
ゴムが焦げるにおいがして、直ぐに全身に衝撃が走る。
耳元で「んん」と、自分の声が聞こえた。
(なんだこれ?)
人が集まってくる。
壁一枚隔てた所で聞こえてくるような声。
「おい! だれか救急車!」
遠くの世界で「とおりゃんせ」が、また一音はずした。
「ぁんじゃこりゃぁぁぁぁぁ!」
「あの…それなんなんですか? なんか、会う人会う人必ずと言っていいほどそれやるんですけど。おまじないか何かですか?」
「おまじない、って言うか、日本人の義務?」
両手を戦慄かせているあたしの隣に立っているのは、黒い三つ揃えのスーツを着た男。くすんだ焦げ茶色の肩掛け鞄に、手には柄の長いでかい鎌。柄の先には小さなトトロのストラップがぶら下がっている。
襟までかっちり几帳面な服装と、ユーモラスなアイテムで、イマイチつかみどころの無い人物だけど、松田優作を知らないんだから大した男じゃない筈だ。
「で、あんたがお出迎えってわけ?」
「こういう場合はお出迎えじゃなくて、お迎えっていうんじゃないんですかね?」
目の前、もう少し正確に言えば、足元に転がっている人間。
あたし。
パッキリ逝っちゃったケータイの横で、手足をあちこちに投げ出して、頭から血を流して死んでいる。
傷だらけの体に比べて、着てるものは意外と軽傷だ。
ほぼフルオープンだったスカートは、近くに居た年配の女の人が慌てて直してくれて、中が見えないようにしてくれた。
「おい君しっかりしろ! 聞こえるか! 救急車まだかっ!?」
あたしに必死で声をかけてくれている、若い男の人。
まったく親切な人たちだ。
まだまだ捨てたもんじゃないネ、日本。
「あーあーあんたら、そんな事してくれなくていいのに。一生懸命やってくれてるとこなんだけど、あたしここに居るんだから」
ねえ、と顔を向けると、多分太陽に吼えた事のない黒服の男は、呆れたような顔をした。
「ねえ。ってそんな言い方無いでしょう、心配してくれている人にむかって」
「だってさー。あたし死んだんでしょ?」
あたしは車にはねられて死んでいた。
はねたのは泥をつけた小汚いワンボックス。
信号無視。
運転手は居眠り運転。
おしまい。
「おしまいじゃないですよ」
「は? あたし死んでんじゃないの?」
気づいたときには、こうして宙に浮いていた。
足元の自分を見下ろして少し狼狽。これは、自分が倒れているのを見たからじゃなくて、血まみれの人間が目の前に倒れていたからだ。
それが自分だと気づいたときには、この男はもう隣に浮いていた。
透けた掌と、目の前で倒れている自分に、浮いた体。隣には超猟奇的な農耕具を持った身なりのいい男。
これだけ状況が揃っていれば、こいつの正体なんかお見通しだ。
ザ・死神。
世界に羽ばたくマンガ国家の面目躍如ってとこだ。
「死んでませんよ」
それなのに、この死神はこんな事を言う。
「貴方は今、いわゆる幽体離脱をしている状態なんです」
「幽体離脱?」
「そう、霊魂だけが体から抜けてしまって、生きても死んでもいない状態」
「なにそれ?」
こんな透けてんのに死んでないの。
「だって、ほら、血だってあんな出てるし」
指差した所に見える、我ながら酷い顔色。
血を流しすぎた所為か、とことん青白い。
一目見て死んでますって顔だ。
「ね、どう見ても死人の顔だよあれ。血ィ流しすぎだ」
「ねって諦めないでください。それに血はあの男の人が傷口を押えてくれてるおかげで止まりかけてますから」
あ、本当だ。
自前のハンカチをあたしの血で赤く染めて、辛抱強く声をかけてくれている。
「……返事がない。ただの屍のようだ」
「どれだけ不謹慎なんですか貴方」
「いや、そんなこと言われてもさ」
頭の後ろで手を組んで、チラリとあたしの死体(正確には未満のものらしい)を見る。
自分で呆れるくらい、チープな女子高生。足を輪ゴムで纏められて、一山いくらで売られてても不思議じゃない。「絵美ちゃんは将来女優さんになるの?」なんて、人生におけるファーストトラップに引っかかったりもしていなかった。
「一人くらいモブから欠けたって、物語は成立するものでしょ?」
「貴方、自殺志願者かなにかですか?」
「まっさかー」
真剣な顔で問いかけてくる死神に、大袈裟に驚いてみせた。
そんな事考えた事も無い。いや、考えた事がないって言うのはさすがにないだけど、そこに本気はない。何か嫌な事があったときとかに、このまま死ねたら楽だろうなーとかベッドで横になって思ってたくらい。
「ただねぇ、このまま生きてても何かやりたい事があるわけでもないし。今すぐあの世にラチられても、あたしとしては一向に構わないわけで」
「そう、なんですか…?」
「そうなんですよ。まあ、あたしとしてはこの際どっちでもいいって言うか、死んで来世に期待って言うのもありかなーなんて」
人生は諦めが肝心で、今ある状況に慣れることが一番楽な生き方。霊魂になったからって、劇的に考えが変わるものでもないらしい。
よく臨死体験をした人なんかは、その後に人生観が変わったなんて話を聞くけど、現在進行形では効果もいまいちなようだ。
「…………それなら」
なにやら考え込むように黙っていた死神が、そう言って、懐をゴソゴソ探り出した。
「貴方に良い物を差し上げましょうか?」
「良い物?」
頷いて、取り出だしたるは小さな小さな米粒くらいの黒いもの。
「これは種です」
言うからには、それは種なのだろう。
死神の掌の上に乗った黒い粒は、見た目は朝顔の種に似ていた。
「はあ…」
「私たちも、生きているものを勝手に死なせる事はできないんですよ」
「死神の癖に?」
「死神の癖に。ですが、例えば植物状態で長いこと寝たきりになっている方とか、体だけ生きてて魂がどこかに行ってしまった方とか、この先、目覚めるかどうか分からない状態にある方に限っては、条件が揃ったりご本人の希望さえあれば、この種を植える事ができます」
「ご本人の希望ね……で、植えてなんなの?」
「これを植えると、直ぐに芽が出て、成長していきます。そして七日後に花が咲き、その人は死にます」
淡々と抑揚のないリズムで言われて、思わず聞き返しそうになった言葉が、目の前にいる男が本当に死神なんだと、あたしに思わせた。
「どうしますか? 今の貴方の体は、まさに生と死の瀬戸際にいます。来世に期待を、というのも、こうなった以上まあ前向きな意見ではありますし」
そう言って、西瓜を四つに切ったみたいな形の種を差し出す。
「…痛くない?」
「勿論。痛みの他あらゆる苦しみと無縁のものです。安らかな旅路をお約束いたします」
葬儀屋みたいな言いよう。
どこからか、鳴り響くサイレンの音。
どうやら救急車が到着したみたいだ。
その後を遅れて、白と黒のツートンカラーが現場に走ってくる。
「今は死んでないとして……あたし、このまま、目が覚めないなんて事もあるわけ?」
開き直りの段階は過ぎていた。
少しだけ冷静になりながら、あたしは尋ねる。
「状況によリけりでしょうか。明日目が覚めるかもしれないですし、一年後、下手すれば死ぬまで目が覚めないなんて事もあります」
「あんたにはわかんないの?」
「私は死神ですから。死者をご案内してるだけで、将来のことは一切」
「そう……ん、ちょっと待った。だったらどうしてこんなに早く駆けつけられんのよ?」
問いかけるあたしに、困ったように死神は首をめぐらせる。
「どうして、と、言われましても……そうですね、あれより速い乗り物があるとでも思っていただければ…」
そう言って指差したのは、あたしを撥ねた運転手が警察の人に促がされながらパトカーに乗り込んでいる場面だった。
その周りを取り囲む野次馬達。その中にはつまらなそうに写メを撮ってる人たちの姿も。一億総パパラッチ状態。
「そんなもん?」
「そんなもんですよ。で、どうします? 使われないんでしたら、この先目が覚めるまでの過ごし方をご説明いたしまして、次に回りたいんですけど」
「目が覚めるまでの過ごし方?」
なんだかPHP新書刊行の叢書のタイトルみたいだ。死者の品格、とか言ったらこの死神はまた呆れるのだろうか。
「はい。先程も言ったとおり、この先いつ目を覚ますかわからない状態にありますから、その間退屈されないように」
「そんなフォローまでしてくれるんだ…」
「無為な時間があると、ほら、良からぬ事を考えちゃう人っているでしょう。そうならないように、色々と時間の潰し方などを」
時間の潰し方って。
例えば? とあたしが聞くと、死神は鞄をがさごそと始めた。
そうして出て来たのは数冊の雑誌。
映画館や観光地などを紹介した、レジャー雑誌のようだった。
「……ほら、ココなんかどうですか? この季節は山々の表情が素晴らしく…」
「ちょ、ちょと」
地面(空中?)に雑誌を広げて、何でかウキウキした様子でページをめくる死神を止める。
雑誌では北陸の自然の魅力を存分に語るべく、色鮮やかな風景が写真に収められていた。
「富士山の…」
「いや、富士山でなくて。なんなの?」
「なんなのって、観光地の情報ですけど」
「観光地なんて行くの?!」
驚いたあたしに、少しだけ呆気にとられたような顔で死神は言う。
「それは、ご希望であればご近所めぐりとかでもいいですけど、飽きると思いますよ」
「それは、あたしもそう思う。じゃなくて、どうやって?」
「飛んでですけど」
あ、そう言えばあたしは今宙に浮いてるんだった。改めて自分の体(?)を見て、力が抜ける。海に浮かぶクラゲを想像するのが一番近いかも。浮いてるし透けてるし。
人間、そんな現状を思えば、何事も受け入れられるような気がしてくるものだ。
それにしても。
「幽霊が観光地なんていくんだね」
「あれ? 見たことありません? 心霊写真。あれ写ってるの大抵観光地じゃないですか」
言われてみればそうだけど、それは土地とかに何か因縁があったりして、そこに居る幽霊とかが写ってるんだと思ってた。
「たまにスナップ写真などに写りこんじゃう方がいらっしゃるんですよね」
「その場所に居る自縛霊とかじゃないんだ」
「そこが観光地だから写るんです」
なんだか理屈にあわない気がしないではない。
あたしの言葉に直接は答えず、それよりも率直に死神は答えた。
真面目な物言いからだろうか、こいつの言葉には妙に説得力がある。言いくるめられたような気持になりながら、あたしは死神の手の平に目を戻した。
控えめにのった小さな種。
回復の見込みの無い患者に対する安楽死のようなもので、それは安らかな死を与えてくれるものらしい。
「ねえ」
「はい」
雑誌を鞄に戻していた死神が、あたしの方に顔を向ける。
「その、種、さ。使った人って、どういう理由で使おうって思ったのかな?」
あたしの質問を聞いた死神は、鞄の蓋を閉めると、立ちあがって視線を合わせてきた。
光彩のないその瞳に、あたしの姿は映っていない。
「……大抵の方は、看病にあたられているご家族の方々の為にご決心なさいます」
「家族」
「はい」
死神は頷く。
「病人の看病は単純にもの凄い体力を使います。ですが、長い間寝たきりになっておられる方などの看病となると、加えて、強い精神力も必要となるんです。亡くなられていれば、残された人たちはいっそ心の整理などが出来ます。しかし、こういう言い方もなんですが、なまじっか生きている分だけ、希望が持ててしまいますからね。看病にあたられるご家族は、いつか目が覚めるかもしれないという希望と、もしかしたらこのまま目を覚まさないのではないか、という不安の間を常に行き来しています。加えて日々の生活も変わらず続くわけですから、それはとても精神的負担のかかる事で、経済的な理由も含めて、中にはいっそ早く亡くなってほしいと思う方もいらっしゃるようです」
乾いた喉に水を流し込むように一気に言い終えて、死神はあたしを見た。
二、三無言のやり取りの後、
「……どうなさいますか?」
救急車に乗せられて、搬送先の病院でICUと書かれた部屋に運び込まれたあたしの体は、そこで治療を受けていた。
部屋の外では、駆けつけた家族が、小さくなって身を寄せるように長椅子に座っていた。
あたしと死神は手術室の中にいた。
自分の体が弄くられているだろう光景は、想像しただけで薄ら寒いくらいだ。あたしはずっと部屋の隅を見ていた。
「本当にいいんですね?」
静かな調子で死神が訊ねてくる。
あたしは、タイル張りの壁を見ながら、小さく頷いた。
結局、あたしは種を植えてもらう事にした。
最初の時のような、自棄や開き直りのような感情で決めたんじゃない。
その時、頭に浮かんできたのは家族だった。
決して誰にでも自慢できるような立派な家族じゃないけど、それでも、あたしにとってとても大事な人たちだ。
お父さんやお母さん、それから二人の弟たちには迷惑は掛けたくなかった。
…いや、違うな。
本当を言えば怖かったんだと思う。
大事な人たちに「いっそ死んでくれたら…」なんて思われるのが。
お父さんたちがそんな事思うわけないと分かってはいても、その、もしも、への恐怖心があたしに最後の一歩を決意させた。
「うん。えと。じゃあ、早くやっちゃって」
後ろを見ないまま、手を振って死神に言う。
「わかりました」
酷く事務的な感じで死神は返事をした。
動く気配があって、ほんの少しの間のあと。
「……終わりました」
声をかけられて、あたしは顔を上げた。
そこには、一仕事を終えたような表情の死神が、何故か手鏡を持って立っていた。
「もう…おわったんだ?」
「はい。無事…というのも変かもしれませんけど、種を植え終わりました」
俯いてあたしは「そう」とだけ答えた。
「……ご覧になられますか?」
「うん。…………えと、何を?」
あたしが首をかしげると、すっと手鏡が差し出される。
わけが分からない内にそれを受け取って、あたしはそこに映る顔を見た。
「…………………………………へ?」
鏡に現れた自分の姿を見て、あたしは絶句する。
直ぐにそれを突っ返すと、自分の体の方へと駆け寄った。
そこには強い光を当てられた、生気を感じさせない血の気のうせた顔が。
問題は視線をもう少し上にあげた所にあった。
「どうです。立派な芽が出たでしょう」
出てる。出ちゃってる。
何が。って、芽が。
旋毛の辺りからピョロ~ンと。
細長いカイワレを思わせる双葉が、見事に頭の先から伸びている。
「なにこれ?」
震える声を出しながら、あたしは後ろに立っている死神を見た。
「何って、芽です。これが成長して花が咲くと、貴方に死が訪れます」
死が訪れる? こんなピクミンみたいな姿のまま?
頭をかすめる、そう遠くない未来の映像。
あたしが寝ているベッドの周りで、泣き崩れる家族達。
死期が迫っている。
ピ…ピ…ピ…と、心音をはかる音も途切れがちになり、医者の手によって、静かに生命維持装置がはずされる。
『絵美ぃ』
泣き崩れるお母さんと、顔を背けながらも、そんなお母さんの肩を抱くお父さん。
『絵美姉』
ベッドに縋り付くようにして、悲鳴を上げる弟たち。
そこに寝ているのは、新種の肌色ピクミン。
やがて、ピーっと一際甲高い音が鳴って、医者が時計を確認する。
『……午後五時二十九分。ご臨終です』
『絵美ィ」
『絵美姉』
絶叫する家族の中心で静かに眠る、頭に花の咲いた女子高生。
彼女は……ってなんだこれ?
「心配なさらなくても、その芽は他の方には見えませんから。…おっと、そろそろ失礼します。次の方が待っているそうなので」
死神は、今時ポケベルのようなものを取り出して用件を確認すると、ふわりと浮き上がり、あたしに一礼をして見せた。
「当日になったら、お迎えにあがりますので。多由真絵美様。それでは七日後に」
優雅に頭を下げたかと思うと、顔を上げて天井に吸い込まれるように消えていった。
……………………。
えー……それでは、皆さんご唱和ください。
いくぞーーー!
イチ!
二ィ!
サン!
「ぁんじゃこりゃあぁぁ!」
病院のベッドであたしは横たわっている。
直ぐそばには、涙を流しているお母さん達が居る。
個室をあてがわれたようだ。
ベッドはこれ一つだけ。
静かで良い。
「お姉ちゃん」
まだ小さい方の弟が、あたしの手を握った。
大きい方の、一つ下の弟は、今は仕事で来れないお父さんの代わりをするように、しっかりと姿勢を保って立っている。
彼に支えられるようにして、お母さんは隣に立っていた。
このまま、人型ピクミンの格好のままで、逝ってしまうのは口惜しいけど、悪くない状況だ。
大切な人たちに囲まれて、静かな空間で。
たったの一週間。それだけ我慢すれば彼らはあたしから解放される。
その筈だったのに。
……ただ、ただ一つだけ、たったの一つだけ、計算違いがあった。
「絵美」
あたしの体が、一週間もたなかった。
種を植えてから三日後の事だ。
瞳に薄っすらと涙を浮かべながら、お母さんがあたしの顔を覗き込む。
「絵美?」
返事を求めるように名前を呼ぶ顔が、目の前に見える。
「……絵美!」
「お姉ちゃん」
小さい方の弟が、握っている手に強く力を込めた。
「絵美! 絵美!」
詰め寄ろうとするお母さんを、大きい方の弟が止める。肩を抱きパンパンと軽くたたいてやった。
「母さん言ったろ」
弟の声がどこか大人びて響いた。お母さんがその場に崩れ落ちる。
看護師と医者が慌しく駆けつけてきて、あたしの脈をとったり、色々調べたりした。やがて幾つか医療機具がはずされ、ふうと息をつく男の声が。医者だ。彼は言った。
「はい……もう大丈夫ですね」
「な。絵美姉がそんな簡単に死ぬわけないって」
…………うん?
ゴリラのようなゴツイ指で瞼を無理矢理こじ開けられ、目の前で明かりを振られる。
「んふー……んふー……」
ちょ、先生鼻息荒い!
あたしは試しに指先を動かしてみた。
滑るようなシーツの感触と、久しぶりに感じる体の重い感覚。
僅かに霞む視界は、数度の瞬きで鮮明になった。
「先日説明したとおりですね。頭の怪我って言うのは出血が多いんですが、傷自体は数針縫うだけの小さなものでした。脳にも異常は見られませんでしたし、まあただ、三日間目を覚まさなかったって言うのはちょっと心配ですから、一応明日一日それを検査してもらって、異常が無ければ、明後日には退院してもらえますからね」
ミスターマリックに良く似た顔の、マギー一門みたいな喋り方をする医者の説明を聞き、お母さんが頭を下げた。お礼を言うその隣で、弟がニヤニヤとあたしを見てる。
「寝すぎだバカ」
小生意気な坊主の言葉は無視するとして、クイクイと腕を引かれる。
「おはようお姉ちゃん」
我が家の唯一の癒し系が、嬉しそうに目覚めの挨拶をしてくる。あたしは割りと真剣に、彼の背中に存在するはずの羽根を一度となく探した事がある。
「……おはよう」
あああ、声が出た。きゅううと握り締められた感触を思うと、やはりこれは夢ではないのだ。
「もう心配させて」
お母さんが、涙の混じった声で反対の手を握る。
確かめるように二人の手をしばらくにぎにぎとやって、あたしはお母さんが握っている方の手を離した。だって、天使の手は離せない。
「あ、ダメよ。大した事ないって言っても、怪我してるんだから」
あたしはその声を無視して、頭の方へと手を伸ばす。目的は包帯の巻かれている箇所じゃない。
それより少し上、話が本当なら、みんなには何もないように見えている空間。
――サワサワ。
「はあ」
溜息を吐くと全身から力が抜けた。
ある。
何度か手を行ったり来たりさせると、植物独特の弾力を持った跳ね返りを感じた。
「ほら、お姉ちゃん寝るみたいだから静かにしてましょ」
体から力が抜けると、瞼がやけに重くなっていった。
これから、あたしは眠ってしまうらしい。
そう、だったら、やっぱりこれは夢ではないんだ。
遠くなっていくみんなの声と意識の中、あたしはそのことだけを思っていた。
―――死神に出会って三日後。
―――あたしは目を覚ました。
後編につづく。
後編に続く……とか言っちゃってw
なるべく早く続き書きたいと思います……。