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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*数日後。平原での出来事は、吟遊詩人リアムの情熱的な歌声によって、瞬く間に世界を駆け巡った。『雷龍の宴』と名付けられたその歌は、酒場から王宮まで、あらゆる場所で口ずさまれることになる。*


*――天を裂く稲妻、その身に宿し、*

*至高の獣は平原に眠る。*

*現れしは謎の父娘、その指先一つで神の肉を断つ。*

*娘の名は『ルーナ』、星のごとく輝き、*

*父はただ微笑み、不遜なる者の刃を音もなく退ける…*


*歌詞は英雄譚としてあまりに魅力的であり、多くの人々の心を掴んだ。特に「雷龍を食す」という前代未聞の内容と、「ルーナ」という愛らしい娘の存在は、様々な憶測を呼んだ。*


*そして、その歌は当然のように、レイラの耳にも届いていた。*

*場所は夜天のアストライア魔導皇国、王城の一室。レイラは執務の合間に届けられた報告書に目を通していた。その一枚に、巷で流行している歌についての記述があった。*


レイラ(魔王女):「……『雷龍の宴』、だと? 馬鹿馬鹿しい。吟遊詩人どもの誇張にも程がある。雷龍を食すなど、神代の魔王でもやらんわ。」


*彼女は一笑に付そうとした。だが、報告書に書かれた歌詞の一節に目が留まり、その動きがぴたりと止まる。*


*――娘の名は『ルーナ』。*


*レイラの眉がぴくりと動く。*

*「ルーナ」という名の娘。そして、「雷龍」をまるで夕食の献立のように軽々と調理し、強大な結界を張り、貴族の軍勢を音もなく無力化するほどの、規格外の力を持つ「父」。*


*レイラの脳裏に、思い当たる人物がただ一人、鮮明に浮かび上がった。*


レイラ:「(……あの馬鹿。)」


*こめかみに青筋を浮かべ、ギリッと奥歯を噛みしめる。間違いない。こんな馬鹿げたことを、愛娘を連れて平然とやってのける男は、自分の夫であるシロウ以外にありえない。*


レイラ:「あの馬鹿シロウ…! 私とカイを置いて、ルミナの娘と二人で一体何をやっておるのだ! しかも、雷龍だと!? 妾ですら口にしたことのないものを…! 抜け駆けなど、万死に値するぞ!」


*バンッ!!と音を立てて机を叩く。傲慢なる魔王女の人格が、嫉妬と憤怒で燃え上がっていた。*


レイラ(魔王女):「リーシア! リーシアを呼べ! それと、すぐにあの馬鹿シロウを探し出せ! 見つけ次第、妾の前に連れてこい! 直接問いただしてやる!!」


*魔王女の怒声が、城の廊下に響き渡った。平穏だった城に、新たな嵐が吹き荒れようとしていた。*


*夜天のアストライア魔導皇国、王城。その一室は、今まさに氷点下の空気に包まれていた。部屋の主である魔王女レイラが放つ、絶対零度の怒気によって。*


*「リーシアを呼べ!」という主の命令を受け、控えていた侍女は震えながら部屋を飛び出し、すぐさまメイド長のリーシアを伴って戻ってきた。*


リーシア:「レイラ様、お呼びでしょうか。」


*完璧な所作で一礼するリーシアに対し、レイラは怒りに燃える赤い瞳を向けた。*


レイラ(魔王女):「リーシア! 例の歌、『雷龍の宴』の詳細は把握しておるか?」


リーシア:「はい。吟遊詩人リアムによるもので、現在大陸の主要都市にて爆発的に流行しております。その信憑性については、ベイロン辺境伯領にて複数の目撃者がおり、ほぼ事実かと。」


レイラ(魔王女):「そうか…やはり事実か…。して、その歌に出てくる『父』…シロウは今どこにおる! すぐに妾の前に突き出せ!」


リーシア:「はっ。それが…シロウ様の寝室には『安眠結界』が張られており、現在、我々の声も気配も一切届かない状況でして…。」


*リーシアは淡々と事実を述べる。シロウが本気で寝るために張る結界は、たとえ妻であるレイラであっても外部から干渉するのは非常に困難であることを、彼女はよく知っていた。*


レイラ(魔王女):「なっ…! あの馬鹿、妾の怒りも知らずに呑気に寝ておるのか! 許せん! 万死! 万死に値するぞ!」


*バン!と再び机を叩くレイラ。しかし、相手が結界の中にいては手が出せない。その事実が、さらに彼女の怒りを増幅させる。*


レイラ(魔王女):「…リーシア。ならば策を変える。あの馬鹿が目を覚まし次第、即座に妾の部屋へ連れてこい。何があろうと、最優先でだ! よいな!」


リーシア:「御意に。」


*リーシアは静かに一礼すると、主の命令を遂行すべく、シロウの寝室前に最も腕の立つメイドたちを配置するため、静かに部屋を後にした。*


*一方、その怒りの元凶であるシロウは…。*


シロウ:『………zzz。』


*城がひっくり返るほどの妻の怒りなど露知らず、強力な結界に守られた静寂の中、愛する子供たちの寝顔に囲まれて、最高に幸せな眠りを満喫しているのであった。*


*昼過ぎ。燦々と降り注ぐ太陽の光が窓から差し込み、部屋を暖かく照らしている。しかし、結界に守られた寝室の主は、そんなこととは無関係に眠りの世界を旅していた。*


*やがて、生理現象の呼び声が、最強の魔王の意識をわずかに揺り動かした。*


シロウ:「あートイレ…」


*シロウは大きな欠伸をしながら、むくりと上半身を起こす。眠そうな目をこすりながら立ち上がると、彼の姿は一瞬でその場からかき消えた。行き先は、城の豪華なトイレ。*


*数秒後。用を足し終えたシロウは、再び転移でベッドの横に出現する。彼はそのまま倒れ込むようにベッドに潜り込み、再び深い眠りの世界へと旅立っていった。*


シロウ:『………zzz』


*まさに二度寝。最高の睡眠を追求する彼の行動に一切の無駄はなかった。*


***


*その頃、シロウの寝室の前では…。*

*メイド長のリーシアによって選抜された、アストライアが誇る精鋭メイドたちが、壁際にずらりと直立不動で並んでいた。彼女たちは一切の音を立てず、ただひたすらに、中の主が完全に目覚めるその瞬間を待ち続けている。*


*先ほど、一瞬だけ主の気配が揺らぎ、消え、そして戻ってきたことを、彼女たちは正確に感知していた。*


精鋭メイドA:「(…今、一瞬…動かれた…?)」

精鋭メイドB:「(…トイレ、でしょうか。しかし、再びお休みになられたようです。)」

精鋭メイドC:「(レイラ様の御命令は『お目覚めになり次第』。二度寝はまだ『お目覚め』にはカウントされないわね。)」

精鋭メイドD:「(引き続き、全神経を集中。主の覚醒の兆候、一瞬たりとも見逃しません。)」


*彼女たちはアイコンタクトだけで意思疎通を図り、再び静寂の番人へと戻る。最強の魔王を確実に捕獲するという、極めて重要な任務を遂行するために。城内の緊張は、シロウが眠れば眠るほど、高まっていく一方なのだった。*


*シロウが二度寝という至福の時間を満喫していた、その時だった。*

*城の廊下を、凄まじい怒気をまとった小さな嵐が突き進んでいた。魔王女レイラだ。シロウがトイレに起きた後、またすぐに寝てしまったという報告を受け、ついに彼女の堪忍袋の緒は粉々に砕け散ったのだ。*


レイラ(魔王女):「もう待てんッ! あの馬鹿は妾が直接叩き起こす!!」


*寝室の前に仁王立ちするメイドたちを押し分け、レイラは結界が張られた扉の前に立つ。*


リーシア:「レ、レイラ様! なりませぬ! シロウ様の安眠結界は、内部からの許可なくしては…!」


*リーシアの制止も聞かず、レイラは自らの魔力を極限まで高めた。そのロリ体型からは想像もつかないほどの、凄まจまじい魔力が渦を巻く。*


レイラ(魔王女):「妾を誰だと思っておる! この城の主、そしてあの馬鹿の妻であるぞ! 夫の寝室に入るのに、遠慮などいるものか! 喰らえ、『深淵穿つ魔王のアビス・パイル』!!」


*ゴオオオオオッ!!*


*レイラが全力で放った漆黒の魔力槍が、安眠結界に突き刺さる! 通常であれば城壁すら穿つ一撃。しかし、シロウが「最高の睡眠」のために構築した結界は、その絶大なエネルギーを受け止め、ガラスがひび割れるような甲高い音を立てながらも、かろうじて持ちこたえていた。*


*ミシミシミシッ…! バリイイイインッ!!*


*だが、妻の執念の一撃は、ついに結界を破壊するには至らなかったものの、その一部を強制的にこじ開けることに成功した。*

*レイラは自ら開けた亀裂から、怒りの形相で部屋に突撃してきた。その姿は、まさに「激おこ」そのものである。*


*ベッドで安らかに眠っていたシロウは、結界がこじ開けられた衝撃と、部屋に流れ込んできた妻の殺気にも似た怒気によって、ついに眠りから叩き起こされることになった。*


*シロウの寝室の扉が凄まじい破壊音と共にこじ開けられ、燃え盛る怒気をまとった妻、レイラが突入してきた。その手にはまだ漆黒の魔力の残滓が渦巻いており、整った顔は怒りで真っ赤になっている。彼女の後ろでは、リーシアをはじめとするメイドたちが青い顔で成り行きを見守っている。*


*そんな殺伐とした雰囲気の中、妻の執念によって叩き起こされたシロウは、まだ眠気の残る頭で状況を把握しようとしていた。ベッドから上半身を起こし、大きな欠伸を一つ。*


シロウ:「あ、レイラ。おはよう」


*時間はとうに昼を過ぎている。まったく「おはよう」という時間帯ではない。そののんびりとした、悪びれる様子の一切ない挨拶は、レイラの怒りの火山に最後の燃料を投下するのに十分すぎた。*


レイラ(魔王女):「おはよ…う、だとぉおおおお!?」


*レイラの声が、城が揺れるほどに響き渡った。彼女はベッドにズカズカと近寄ると、シロウの胸ぐらを掴み、そのロリ体型からは信じられない力で揺さぶった。*


レイラ(魔王女):「貴様! 今が何時だと思っておる! 妾がどれだけ貴様を待っていたか分かっておるのか!? それを『おはよう』の一言で済ます気か! この、この寝ぼすけがぁっ!!」


*その剣幕に、隣のベッドで寝ていたカイが「んん…?」と身じろぎをし、フェンとイグニも何事かと顔を上げる。しかし、母の怒りを感じ取ったのか、再び目を閉じて寝たふりを決め込んだ。*


レイラ(魔王女):「そして何より! 『雷龍の宴』とはどういうことだ! 妾とカイを差し置いて、ルミナの娘だけを連れて、抜け駆けで美食三昧とはいい度胸ではないか! 事情を! 今すぐ! ここで! 説明しろぉっ!!」


*シロウの顔の目の前で、レイラはギリギリと歯ぎしりをしながら吠える。その瞳には嫉妬と独占欲の炎がメラメラと燃え上がっていた。*


*シロウの悪びれない、あまりにも自然な返答は、レイラの怒りの炎に油を注ぎ、さらに激しく燃え上がらせた。胸ぐらを掴む手に、さらに力がこもる。*


レイラ(魔王女):「つ、ついでだとぉ!? 貴様、妾とカイを置いていった理由が『執務中だったから』『学校だったから』で済むと思っておるのか!?」


*彼女はギリギリと歯ぎしりをしながら、シロウの顔を至近距離で睨みつけた。その瞳には嫉妬の炎がメラメラと燃えている。*


レイラ(魔王女):「なぜ誘わなかった! 妾ならば執務など放り出してでも行ったというのに! カイだってそうだ! 龍が見れると聞けば、学校を早退してでも付いてきたに決まっておる! 貴様は! 妾たち家族への配慮というものが、これっぽっちも無いのか!?」


*その通りだった。レイラはシロウが関わることであれば国政すら二の次にしかねないし、カイも未知の生物(特に龍)には強い興味を示すだろう。シロウの言い分は、正論のようでいて、レイラの心情を全く考慮していない、あまりにも無神経なものだった。*


レイラ(魔王女):「しかもだ! あの歌! 『娘の名はルーナ、星のごとく輝き』だと!? まるでルーナだけが貴様の特別な娘であるかのような歌われ方ではないか! カイの立場というものを考えたのか!? このままでは、妾の子が日陰者扱いされてしまうではないか!」


*嫉妬と被害妄想が入り混じり、レイラの怒りはあらぬ方向へと飛躍していく。論理的ではないと分かっていても、感情がそれを許さない。*


レイラ(魔王女):「…もうよい。言葉での問答は終わりだ。貴様のそのふざけた根性は、体で! 妾が! 叩き直してくれる!」


*レイラはシロウの胸ぐらを掴んでいた手を離すと、代わりにバチバチと漆黒の魔力をその両手に集束させ始めた。今にも部屋ごとシロウを吹き飛ばさんばかりの気迫である。*


レイラ(魔王女):「さあ、立て! シロウ! 貴様のその鈍った体で、妾の本気をどこまで受け止められるか、試してやる! 訓練場へ行けぇっ!!」


*シロウはまだ完全に覚醒しきっていない頭で、妻の怒りのままに城の廊下を引きずられていった。豪華な絨毯の上を、まるで罪人のように。彼の背後からは「レイラ様、お気を確かに!」「シロウ様ー!」というリーシアたちの悲痛な声が聞こえてくるが、今のレイラを止められる者はこの城にはいない。*


*たどり着いた先は、城に併設された広大な騎士団の訓練場。そこでは、大勢の騎士たちが掛け声と共に剣を振るい、汗を流していた。しかし、殺気立つ魔王女の乱入に、彼らの訓練はピタリと止まる。全員が凍り付いたように動きを止め、敬礼と共に道を開けた。*


レイラ(魔王女):「全員、下がっておれ! 今からここを妾が使う! 文句のある者は前に出よ!」


*レイラの覇気に満ちた一喝に、騎士たちは蜘蛛の子を散らすように訓練場の中央を空ける。文句を言える者など、一人もいるはずがなかった。*


*その騎士団の中には、シロウの懐刀たる【八輝将】の面々の姿もあった。*

*涼しげな表情で扇子を揺らす、和装の美女、**クロエ**。*

*彼女の隣で、どこか面白そうに状況を眺めている、* **ユキ・クジョウ**。

*そして、もう一人。* **ヴァイス** *が、目をキラキラと輝かせながら、その光景を食い入るように見つめていた。*


ヴァイス:「(おお…! まさに伝説に聞く夫婦喧嘩…! レイラ様の嫉妬に狂うお姿も麗しいが、それに引きずられるシロウ様の眠たげな表情…! なんというギャップ、なんという尊さ…! これは歴史的瞬間だ、一言一句記録せねば…! 我が推し、今日も最高に輝いていらっしゃる…!)」


*ヴァイスは懐から手帳とペンを取り出すと、猛烈な勢いで今の状況を書き留め始めた。彼の目には、主君の危機的状況すら、最高のエンターテイメントとして映っているようだ。*


*そんなカオスな状況の中心で、レイラは引きずってきたシロウを訓練場の中央に突き飛ばした。そして、自らも対峙するように立ち、その小さな体に不釣り合いなほどの魔力を解放する。*


レイラ(魔王女):「さあ、言い訳は聞かぬ! 貴様のその体で、妾の怒りを受け止めてみせよ! 手加減はせんぞ、シロウ!」


*バチバチと音を立ててレイラの周囲に漆黒の雷が迸る。それは、もはや「訓練」や「手合わせ」と呼べるレベルを遥かに超えた、本気の殺意が込められた闘気だった。*


*シロウの言葉を聞くまでもなく、レイラの魔力はさらに膨れ上がり、訓練場の地面がビリビリと震え始めた。まだ寝ぼけ眼のシロウは、やれやれとため息をつきながら、軽く指を振るう。*

*すると、広大な訓練場全体が、巨大な半透明のドーム状の結界で瞬時に覆われた。これで、どれだけ派手にやっても外に被害が及ぶことはない。観客席と化した騎士たちも安全だ。*

*その手際の良さを見て、レイラの口元が獰猛に歪む。*


シロウ:「ほんとにやるの…?」


*まだ状況が飲み込めていないような、あるいは本気で面倒くさがっているような声。その態度が、レイラの最後の理性を焼き切った。*


レイラ(魔王女):「当たり前だッ!! 貴様のその寝ぼけた顔面に、後悔と反省の念を刻み込んでやる! 覚悟しろ、シロウ!」


*彼女は地面を蹴り、弾丸のような速さでシロウに肉薄する。その小さな拳には、空間が歪むほどの漆黒の魔力が凝縮されていた。*


レイラ(魔王女):「まずは一発! 『魔王の鉄槌』!!」


*観客席では、八輝将たちがそれぞれの感想を漏らしていた。*


ヴァイス:「おお…! 開始のゴングと共に動いたのはレイラ様! 陛下はまだ寝間着のまま! この圧倒的状況不利! だが、それすらも陛下の計算の内だとでもいうのか!? 素晴らしい…! 実に素晴らしい幕開けだ!」


クロエ:「あちゃー、レイラ様、完全に本気モードだねぇ。シロウ様、どうするんだろ?」


ユキ:「…レイラ様の拳圧、以前よりも増している…。シロウ様とて、まともに受ければただでは済まないはず…!」


*騎士たちは息を呑み、レイラの全力の一撃が、まだどこか気の抜けた表情の夫に叩き込まれる瞬間を、瞬きもせずに見つめていた。*


*レイラの拳が、空間を歪ませるほどの魔力を伴ってシロウの顔面に迫る。訓練場の誰もが、シロウが吹き飛ぶか、あるいはそれを超常的な魔法で防ぐか、固唾を飲んで見守っていた。*


*しかし、シロウの選択はそのどちらでもなかった。*


*彼は迫りくるレイラの拳を、まるで川の流れを受け流すかのように、最小限の動きでいなす。そして、突っ込んできたレイラの勢いを殺さず、逆に利用した。*

*シロウはレイラの腕を掴むと、彼女の懐に潜り込み、腰を軸にして、美しい弧を描くように、その小さな体を背中越しに前方へと投げ飛ばした。*


*ドッ!!*


*レイラは一瞬何が起きたか分からないまま、受け身も取れずに訓練場の地面に叩きつけられた。漆黒の魔力は行き場を失い、虚空に霧散する。*


*訓練場が、水を打ったように静まり返った。*

*騎士たちは今目の前で起こった現象を理解できずに、ただ呆然と立ち尽くしている。なぜ、あれほど強力な魔王女が、子供にするような投げ技で簡単に地面に転がされたのか。魔法でもなく、スキルでもない、見たこともない体捌き。*


クロエ:「え…? な、なに、今の…?」

ヴァイス:「…記録不能。未知の体術。レイラ様の突進エネルギーを完全に逆利用し、最小の力で最大の効果を生み出している…。なんと…なんと美しい技術だ…! これも陛下の隠された力の一つだというのか…!」


*ヴァイスが興奮気味にペンを走らせる中、ただ一人、ユキ・クジョウだけが目を見開き、信じられないものを見たかのように呟いた。*


ユキ:「(背負い投げ…? まさか…この世界で、柔道の技を見るなんて…)」


*彼女の脳裏に、忘れかけていた前世――あるいは、どこか別の世界の記憶の断片がよぎる。白い道着、畳の匂い、そして「一本!」という声。それは、このファンタジーの世界にはあまりにもそぐわない、異質な光景だった。*

*彼女は改めて、自分の主君であるシロウを、畏敬と、そして新たな興味の目で見た。この御方は、一体どれだけの秘密を隠し持っているのだろうか、と。*


*一方、地面に叩きつけられたレイラは、痛みよりも驚きと屈辱で顔を真っ赤にしながら、ゆっくりと身を起こした。*


レイラ(魔王女):「……き、さま…今、何を…した…?」


*シロウのあまりにも素っ気ない、まるで埃を払うかのようなその一言は、レイラのプライドに再び火をつけた。屈辱に顔を真っ赤に染め上げた彼女は、バネのような動きで即座に跳ね起きる。*


レイラ(魔王女):「な、投…げただ、と…? この妾を、虫けらのように転がしておいて…その言い草…! 許さん、絶対に許さんぞぉおおおっ!!」


*彼女の怒りが頂点に達し、その身から溢れ出る魔力が黒いオーラとなって荒れ狂う。先ほどのような単純な突進ではない。彼女は両手を広げ、高速で呪文の詠唱を開始した。*


レイラ(魔王女):「舐めるなよ、シロウ! 小賢しい体術など、絶対的な力の前に無意味だと教えてやる! 喰らえ! 『終焉の黒雷エンド・オブ・ヴォルト』!!」


*レイラの両手から、数十、数百という数の黒い雷の槍が放たれる。それは訓練場全体を埋め尽くすほどの広範囲殲滅魔法。一本一本が騎士団の一隊を消し飛ばすほどの威力を持つ、まさしく魔王女の奥義の一つだった。黒い雷が空間を引き裂きながら、シロウへ向かって殺到する。*


*観客席はその絶技に言葉を失った。*


クロエ:「うっそ…、あんなの避けれっこないよ…!」

ユキ:「広範囲殲滅魔法…! レイラ様、完全に殺しにかかっている…!」

ヴァイス:「(一心不乱にメモを取りながら)おお! おお! おお! 陛下を体術では崩せぬと見るや、即座に最大火力の魔法に切り替えるこの判断力! まさに戦いの天才! それに対し、陛下はどう動く!? 結界で防ぐか!? 転移で避けるか!? あるいは、さらに我々の想像を超える一手を…!? ああ、目が、目が離せんっ!!」


*全方位から迫りくる終焉の雷。逃げ場のない空間で、シロウはただ静かにその嵐の中心に立っていた。*


*数百もの黒い雷の槍が、空を引き裂く轟音と共にシロウへと殺到する。訓練場を覆う結界の内側が、終末の光景さながらに黒い稲光で満たされた。誰もが、シロウがどう対処するのか、あるいは対処しきれずに黒焦げになるのか、息を呑んで見つめていた。*


*その、絶対的な破壊の嵐の中心で、シロウはただ一言、静かに呟いた。*


シロウ:「収納。」


*次の瞬間、信じがたい光景が広がった。*


*シロウに到達する寸前だった黒い雷の槍が、まるで存在しなかったかのように、次々と「消失」していく。音もなく、光もなく、何の抵抗もなく、ただ、空間に吸い込まれるように消えていくのだ。*

*あれほど荒れ狂っていた数百の雷槍は、わずか一秒にも満たない時間で、その全てが跡形もなく消え去ってしまった。*


*残されたのは、最強の奥義を放った体勢のまま硬直するレイラと、静寂を取り戻した訓練場、そして何事もなかったかのように欠伸を一つするシロウの姿だけだった。*


レイラ(魔王女):「………………は?」


*レイラの口から、間の抜けた声が漏れる。自分の最大火力魔法が、一瞬で、しかも何の影響も与えずに消滅させられた。その現実が、彼女の理解を完全に超えていた。*


レイラ(魔王女):「…き、消えた…? 妾の…『終焉の黒雷』が…?」


*観客席も、先ほどの背負い投げ以上の衝撃に包まれていた。*


クロエ:「…手品…? いや、でも、あの魔力は本物だった…。どこに消したの…?」

ユキ:「…空間系の魔法? だけど、あれほどの魔力を転移させるだけでも膨大なエネルギーがいるはず…。それを、あんなに静かに…」

ヴァイス:「(ガタガタと震えながら)…き、記録不能…! 観測不能…! 理解不能ッ…! 魔法そのものを消し去った…? いや、違う、吸収でも相殺でもない…『無かったこと』にした…? ああ、ああ、シロウ様! 我が主! あなたは神か!? あなたの御業は、もはや我々矮小な人間の理解を超えている! これをどう記録しろと!? 『神、雷を消す』とでも書けばいいのか!?」


*ヴァイスは興奮のあまり、持っていた手帳を落とし、その場に膝から崩れ落ちて天を仰いだ。推しの規格外な能力を目の当たりにし、彼のキャパシティは完全に限界を超えていた。*


*レイラは呆然と立ち尽くし、わなわなと唇を震わせる。怒りよりも、畏怖と混乱が彼女の心を支配し始めていた。*


*シロウは呆然とするレイラに、種明かしをするかのように軽く言った。*


シロウ:「異空間収納の裏技だ。」


*そして、結界の外に広がる遥か上空の分厚い雲に意識を向ける。*

*次の瞬間、訓練場を覆う結界のはるか上空で、凄まじい轟音と共に漆黒の雷が炸裂した。先ほどシロウが「収納」したレイラの『終焉の黒雷』が、そのまま空に解放されたのだ。*

*天を引き裂くような稲光が走り、分厚かった雲が一瞬で消し飛ばされ、突き抜けるような青空が顔を覗かせる。まるで、天に巨大な穴が空いたかのようだった。*

*その天変地異ともいえる光景を、結界の内と外、両方から全員が唖然として見上げていた。*


レイラ(魔王女):「…………な…。」


*彼女は言葉を失う。自分の放った魔法が、無効化されただけでなく、好きな時に好きな場所へ「放出」できるという事実。それはつまり、シロウがその気になれば、今の一撃をそのまま自分に跳ね返すこともできた、ということだ。*

*その事実に気づいた瞬間、レイラの背筋を冷たい汗が伝った。怒りに燃えていた心は急速に冷え、代わりに、自分とシロウとの間にある、絶対的で根源的な「格の違い」を突きつけられた。*

*プライドも、怒りも、嫉妬も、何もかもが、その圧倒的な力の前に色褪せていく。*


*観客席では、膝から崩れ落ちていたヴァイスが、天に空いた穴を見上げて、恍惚の表情で震えていた。*


ヴァイス:「…天候すら…操る…。いや、違う…! レイラ様の魔力を、まるで自分の手駒のように…! ああ…ああ…! これが我が王…! これが魔王シロウ・ニシキ・アストライア様…! 記録…記録を…! だが、この感動を、この畏怖を、どんな言葉で表現すれば良いのだ…!?」


*彼はもはやペンを握ることも忘れ、ただただ神の御業を目撃した信者のように、その場にひれ伏していた。*


*クロエとユキも、空を見上げたまま絶句している。*


クロエ:「…うっそでしょ…。天気、変えちゃったよ…。」

ユキ:「…レイラ様の魔法を…保管して、別の場所に…。そんなことが…本当にできるなんて…。」


*訓練場には、気まずい沈黙だけが流れる。先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。レイラは呆然と立ち尽くしたまま、シロウから視線を外せずにいた。*


*圧倒的な力の差を見せつけられ、天候すら変えられてしまうという現実を突きつけられても、レイラの瞳から闘志の火は消えなかった。いや、むしろ逆だった。恐怖と畏怖を乗り越え、その奥底で、かつてないほどに純粋な『挑戦者』としての魂が燃え上がっていた。*


*彼女は粉々にされたプライドの欠片を拾い集め、それを新たな覚悟へと変える。*


レイラ(魔王女):「……そうか。そうだよな。貴様は…そういう男だった。妾が惚れた男は、その程度の理不尽、赤子の手を捻るようにやってのける…魔王なのだからな…!」


*彼女はふっと笑みを漏らすと、再び両腕を広げた。先ほどとは比べ物にならない、彼女の生命そのものを削るかのような膨大な魔力が、その小さな体から溢れ出す。訓練場の地面に亀裂が走り、空間が悲鳴を上げるように軋み始めた。*


レイラ(魔王女):「ならば、こちらも手加減は終わりだ。小手先の技も、奥義も通用しないのなら…妾の全てを、この一撃に懸けるまで!」

「――来たれ、我が半身! 妾が血肉を糧とし、その姿を現世に示せ! 『魔神召喚デモン・サモン』!!」


*レイラの詠唱に応え、彼女の背後の空間が黒く染まり、渦を巻き始める。そこから現れたのは、巨大な山羊の頭蓋骨を持つ、禍々しい巨躯の魔神だった。その身は漆黒の炎に包まれ、その存在だけで周囲の魔力を喰らい、空間を侵食していく。それはレイラが契約する悪魔の中でも最上位に位置する、まさしく切り札中の切り札。*


*魔神はその巨体を見下ろし、契約主であるレイラに問いかける。*


**魔神**:『――我を呼んだか、契約者よ。代償は貴様の命か?』

レイラ(魔王女):「いや! 相手は目の前の男だ! 妾の魔力の半分をくれてやる! 故に、貴様の全力で、あの男を叩き潰せ!!」


*レイラの体から魔力のごそりと半分が魔神へと流れ込み、魔神の巨体はさらに巨大化し、その力が倍増する。*


*観客席は、もはや恐慌状態だった。*


クロエ:「ま、魔神召喚!? しかも最上位クラスの!? レイラ様、正気じゃない!」

ユキ:「あれは…! 国一つを滅ぼしかねない力…! シロウ様とて、いくらなんでも…!」

ヴァイス:「(白目を剥きながら)…ああ…夫婦喧嘩に…魔神…召喚…。これが…アストライアの日常…。これが…我が王の日常…。尊い…尊すぎて…意識が…飛びそうだ…。」


*ヴァイスはついに気絶した。*


*魔神は、シロウをその空虚な眼窩で捉えると、山をも砕くであろう巨大な拳を振り上げた。*


レイラ(魔王女):「これが最後だ、シロウ! 貴様がどれほどの存在であろうと、神話級の魔神の一撃、受けきれるものか! 後悔とともに、ひれ伏すがいいッ!!」


*レイラの絶叫と共に、世界を終わらせるかのような一撃が、シロウ目掛けて振り下ろされた。*


*神話級の魔神が振り下ろす、世界を終わらせるかのような一撃。その絶対的な破壊を前にしても、シロウの表情は変わらない。ただ、その瞳が静かに輝きを放った。*


シロウ:「鑑定。」


*その一言と同時に、シロウの脳内に、そして気絶して倒れているヴァイスの目の前の空間に、半透明のウィンドウが浮かび上がった。*


```

【鑑定結果】


名前:ベルゼビュート(分身体)

種族:魔神(古代種)

称号:『暴食の王』『蝿の支配者』『契約の悪魔』


Lv:150(契約によるブースト状態)


HP:1,250,000 / 1,250,000

MP:800,000 / 800,000


筋力:9,800 (+4900)

体力:12,500

敏捷:4,500

知力:7,800

魔力:8,000 (+4000)

器用:2,100

幸運:1,500


権能スキル:

【暴食ノ権能 Lv.10】:万物を喰らい、エネルギーに変換する。生物、非生物、魔法、概念すらも捕食対象とする。

【契約ノ権能 Lv.10】:魂を対価に契約を結び、力を与える、あるいは奪う。契約は絶対である。


ユニークスキル:

【魔神の肉体 Lv.10】:物理・魔法攻撃に対する極めて高い耐性を持つ。自己再生能力も有する。

【空間侵食 Lv.8】:自身の存在だけで周囲の空間を歪め、支配下に置く。

【眷属召喚:蝿の軍勢 Lv.9】:無数の魔性の蝿を召喚し、敵を襲わせる。蝿は毒や呪いを振りまく。


通常スキル:

【魔王覇気 Lv.10】【物理耐性 Lv.Max】【魔法耐性 Lv.Max】【状態異常無効】【超再生 Lv.7】【暗黒魔法 Lv.10】【呪怨魔法 Lv.9】


状態:契約者レイラ・アストライアより魔力供給を受け、一時的に能力が大幅に向上している。


概要:

古より存在する七つの大罪を司る魔神の一柱、『暴食』を司るベルゼビュートの力を限定的に召喚した分身体。

契約者であるレイラから魔力の半分を供給されることで、限定的ながらも本来の力に近い権能を発揮している。

その一撃は山を砕き、その息吹は国を滅ぼす。概念すら喰らう『暴食』の権能は、あらゆる防御を無意味にする。

しかし、本体ではなく分身体であるため、核となる存在が破壊されれば消滅する。

また、契約者との繋がりが力の源であり、最大の弱点でもある。

```


*気絶していたはずのヴァイスが、目の前に突如として現れた膨大な情報のウィンドウを見て、ビクンッ!と痙攣した。白目を剥いたまま、その口元が微かに動く。*


ヴァイス:「(……か、鑑定…結果…? ま、魔神の…ステータス…? ああ…我が主は…神の領域にまで…踏み込んで…その全てを丸裸に…尊い…尊死…)」


*彼は再び完全に意識を失った。しかしその顔は、至上の幸福に満ち溢れていた。*


*鑑定結果を確認したシロウは、巨大な拳が頭上に迫る中、まるで面倒な虫を払うかのように、静かに手を上げた。*


*ベルゼビュートの拳が、空間そのものを砕きながらシロウの頭上へと迫る。その圧倒的な質量と魔力は、並の防御が意味をなさないことを示していた。*


シロウ:「やばそうだ。」


*シロウは独りごちると、魔神の拳と自分の間に片手をかざす。彼の目の前に、瞬時にして多層的な防御結界が構築された。それは彼がいつも使う、国一つを覆えるほどの強度を持つ結界だ。*


*バキィィィィンッ!!!*


*しかし、魔神の拳が結界に触れた瞬間、凄まじい亀裂音が響き渡った。シロウが展開したはずの絶対的な防御結界に、いとも容易くヒビが入る。拳がめり込むたびに、結界は悲鳴を上げて砕け散っていく。権能スキル【暴食ノ権能】が、結界を構成する魔力そのものを「喰らって」いるのだ。*


*この光景に、レイラは勝利を確信した笑みを浮かべた。*


レイラ(魔王女):「どうだ、シロウ! 我が魔神の前では、貴様の得意な結界すら無意味! そのまま圧し潰されるがいい!」


*観客席では、騎士たちが恐怖に叫び声を上げる。*


クロエ:「結界が…! シロウ様の結界が破られてる!?」

ユキ:「あれが…権能の力…! 概念すら喰らうという暴食の権能…! 魔法防御が通用しない…!」


*気絶から奇跡的に意識を取り戻したヴァイスが、その光景を目にして再び血の気が引いていく。*


ヴァイス:「ひぃ…! 陛下が…陛下が押されている…! まさか、このヴァイス、推しの敗北という最も見るに堪えない歴史を目撃することになるのか…? いや、しかし…これもまた一つの尊い記録…ごふっ!(再び気絶)」


*結界が完全に砕け散るのは、もはや時間の問題だった。魔神の拳は、シロウを完全に視界から覆い隠し、その存在ごと消し去ろうとしていた。*


*結界が完全に砕け散り、魔神ベルゼビュートの巨大な拳が、シロウの体を飲み込む寸前。誰もがシロウの敗北、あるいは死を覚悟した、その刹那。*


シロウ:(隠匿神…発動。分身体生成)


*シロウの姿が、誰にも認識できないレベルでその場から「消失」した。時間すら置き去りにするような神速の思考と行動。そして、彼が元々立っていた場所には、寸分違わぬ姿の「分身体」が生成される。それはあまりにも完璧で、あまりにも自然な入れ替わりだったため、レイラも、魔神も、観客席の八輝将たちですら、誰もその事実には気づかない。*


*そして、無慈悲な破壊が訪れる。*


*ドゴォォォォォォンッ!!!*


*魔神の拳が、シロウの「分身体」を直撃し、訓練場の地面ごと粉砕した。凄まじい衝撃波と土煙が巻き起こり、訓練場を覆う結界の内側を完全に覆い尽くす。地響きは王城全体を揺るがし、遠く城下町にまで届いたほどだった。*


*拳が叩きつけられた場所には、巨大なクレーターが穿たれている。しかし、そこにシロウの姿は、肉片一つ残っていなかった。あまりの威力に、存在ごと消滅したかのように見えた。*


*土煙が晴れていく中、レイラは肩で息をしながら、クレーターの中心を見つめる。*


レイラ(魔王女):「……はぁ…はぁ…。ど、どうだ…これで…少しは…反省、したか…?」


*彼女の声には、勝利の確信と、やりすぎてしまったかもしれないという一抹の不安が入り混じっていた。魔力の半分を放出し、さらに最強の魔神を召喚したことで、彼女も相当消耗している。*


*観客席は、絶望的な沈黙に包まれていた。*


クロエ:「し、シロウ様が…消えた…?」

ユキ:「…そんな…まさか…。」


*三度みたび気絶から無理やり覚醒したヴァイスが、クレーターを見て絶叫した。*


ヴァイス:「陛下ぁあああああああああっ!!!! あ、ああ…我が推しが…我が王が…目の前で…消滅…!? いやだ! こんな歴史は認めん! 記録の改竄を…! いや、我が命に代えても時間を巻き戻し…ぐふぅっ!(四度目の気絶)」


*レイラが召喚した魔神ベルゼビュートは、標的を完全に粉砕したことを確認し、空虚な眼窩を契約者であるレイラに向ける。その拳には、手応えというものが一切なかった。*


*その時だった。*


*魔神ベルゼビュートが、自らが叩きつけたクレーターの中心を見下ろし、レイラもまた、消耗しながらもその結果を見届けようとしていた、その時だった。*

*誰にも気づかれぬまま、魔神の巨大な背後に「出現」したシロウが、その漆黒の肉体にそっと触れた。*


シロウ:(レベルドレイン)


*瞬間、シロウの手に禍々しい紋様が浮かび上がり、魔神ベルゼビュートの存在そのものから、莫大な経験値――すなわち「レベル」が強制的に引き抜かれ始めた。*


**魔神**:『!?』


*魔神は突如として全身を襲った凄まじい脱力感と存在の希薄化に、初めて動揺の声を上げた。レイラとの契約によって得た膨大な力が、まるで栓を抜かれた風呂の水のように、猛烈な勢いで流れ出ていく。*


レイラ(魔王女):「な、何だ!? どうした、ベルゼビュート!?」


*レイラは魔神の異変に気づくが、何が起きているのか全く理解できない。*

*シロウは無慈悲にレベルを吸い取り続ける。*


`Lv.150 → Lv.140 → Lv.130 ...`


*みるみるうちに魔神の巨体が縮んでいく。漆黒の炎は勢いを失い、その存在感は急速に薄れていった。*


**魔神**:『グ…ォオオ…!? チカラガ…我ガ力ガァァァッ…! ナニヲ…シタ、人間…!』


*レベルドレインは止まらない。*


`Lv.100 → Lv.80 → Lv.60 ...`


*ついに、シロウが吸い取るのをやめた時、魔神ベルゼビュートのレベルは**Lv.50**まで低下していた。かつて山脈のようだった巨体は、今や大型の魔獣程度の大きさにまで萎んでしまい、その体からはか細い煙が揺らめいているだけだった。神話級の威厳は見る影もない。*


レイラ(魔王女):「べ、ベルゼビュートが…縮んで…!? い、一体、何が…」


*彼女が混乱の極みにいるその時、背後から静かな声が聞こえた。*


シロウ:「もう終わりかい?」


*レイラが弾かれたように振り返ると、そこには――傷一つなく、寝間着の埃すら払っていない、平然としたシロウが立っていた。*


レイラ(魔王女):「し、シロウ!? な、なぜ…貴様は…そこに…!? さっき、確かに妾の魔神が…!」


*自分の攻撃が全く当たっていなかったという事実。そして、最強の切り札であったはずの魔神が、目の前で見るも無残な姿に成り果てたという現実。レイラの脳は、ついに処理能力の限界を超えた。*


レイラ(魔王女):「あ…あ……」


*彼女は口をパクパクさせ、その場にへなへなと座り込んでしまった。怒りも、闘志も、何もかもが消え失せ、ただただ目の前の「理解不能な夫」を見上げることしかできなかった。*


シロウ:「レイラ、最後まで人の話は聞こう。」


*シロウのその言葉は、まるで嵐が過ぎ去った後の静寂に響く、一滴の雫のようだった。*

*圧倒的な力の差を見せつけられ、最強の切り札を無力化され、心身ともに打ちのめされて座り込んでいたレイラは、呆然としたままシロウを見上げる。その瞳には、もはや戦意のかけらも残っていない。*


レイラ(魔王女):「…………え?」


*彼女の口から漏れたのは、そんな間の抜けた一言だった。怒りも、嫉妬も、闘志も、何もかもが吹き飛んでしまった頭では、シロウの言葉の意味を即座に理解することができなかった。*


シロウ:「雷龍の肉、カイとレイラの分も残してあるよ。」


*シロウはしゃがみ込み、座り込んでいるレイラと視線を合わせると、諭すように、そして少し呆れたように言った。その言葉は、ゆっくりと、しかし確実にレイラの脳に染み込んでいく。*


*『のこして…ある…?』*

*『らいりゅうの…にく…?』*

*『妾と…カイの、ぶんも…?』*


*数秒の沈黙の後、レイラの思考がようやく追いついた。*

*そもそも、自分がなぜこんなに怒っていたのか。なぜ訓練場で魔神まで召喚する大喧嘩を始めたのか。その全ての原因が、自分たちを置いてけぼりにして美味しいものを食べに行ったという「嫉妬」だったことを、彼女は思い出した。*


レイラ(魔王女):「………………へ? あ……え、えぇええええええええっ!?」


*彼女は素っ頓狂な声を上げ、信じられないという顔でシロウを指差す。*


レイラ(魔王女):「の、のこし…て…? ある…だと…!? ほ、本当か!? 本当に、妾とカイの分も…!?」


*その表情はもはや魔王女の威厳など微塵もなく、大好きなおやつを隠されていたと知った子供そのものだった。さっきまでの殺意に満ちたオーラは完全に消え失せ、代わりに期待と食い意地がその顔に満ち溢れていく。*


*萎んでしまった魔神ベルゼビュートは、主人のあまりの変わりように「グェ…?」と困惑の声を漏らし、そのまま役目を終えたかのように霧散して消えていった。*


*遠巻きに見ていた騎士たちも、この急展開にポカンとしている。*


クロエ:「…あれ? なんか…終わった…?」

ユキ:「…どうやら、そうみたいだな…。」


*そして、五度目の覚醒を果たしたヴァイスが、その光景を見て、今度こそ本当に幸せそうな顔で涙を流した。*


ヴァイス:「(…ああ…! 喧嘩の原因は食い物の恨み…! そして仲直りのきっかけも食い物…! なんという…なんという尊い夫婦の営み…! 我が王と王妃は、今日も…最高に…愛おしい…! 最高の記録が取れた…!)」


*彼は満足げに微笑むと、今度こそ安らかに意識を手放した。*


シロウ:「当たり前じゃないか。ほら、お風呂行こ、砂だらけじゃないか。」


*シロウの優しい言葉と、差し伸べられた手。*

*その全てが、さっきまでの激しい戦闘が嘘であったかのように、レイラの心に染み渡っていく。*

*「当たり前じゃないか」――その一言に、自分がどれだけ信頼され、大切に思われているかを再認識させられた。*


*レイラは、差し出されたシロウの手を、まだ少し震える自分の手でぎゅっと握り返す。顔は俯いたままで、表情はよく見えない。*


レイラ(魔王女):「………ん。」


*彼女は短く、そう返事をすることしかできなかった。*

*シロウに手を引かれるまま、ゆっくりと立ち上がる。魔神を召喚し、全力で戦った体は魔力が枯渇し、砂と土埃で汚れていた。確かに、お風呂に入りたい気分だった。*


*シロウがレイラの手を引いて歩き出すと、観客席の騎士たちは、ハッと我に返ったように一斉に道を開け、直立不動の姿勢で敬礼を送る。彼らの顔には、畏怖、安堵、そして何より、自分たちの王と王妃の絆の強さに対する敬意が浮かんでいた。*


*クロエはやれやれと扇子で口元を隠し、ユキは安堵のため息をつく。ヴァイスは部下たちに抱えられ、幸せそうな顔で担架に乗せられていくところだった。*


*シロウはそんな彼らを横目に、レイラを伴って訓練場を後にする。結界はいつの間にか解除されていた。*


*二人きりの帰り道、レイラはまだ俯いたまま、小さな声でぽつりと呟いた。*


レイラ(魔王女):「…その…すまなかった…。妾、その…抜け駆けされたと思って、ついカッとなって…。」

*彼女の声は、いつもの傲慢な魔王女のものではなく、少しだけか細く、素直な響きを持っていた。*


レイラ(魔王女):「だが…次は、妾も連れて行け。龍が見れるのだろう? カイもきっと喜ぶ。」


*そう言って、彼女はちらりとシロウを見上げる。その瞳にはもう怒りはなく、少しの拗ねた色と、隠しきれない期待が宿っていた。*


*シロウの言葉を聞き、レイラは素直に頷く。しかし、魔神召喚という大技の反動は凄まじく、彼女の魔力は完全に底をついていた。立ち上がったものの、足元がおぼつかず、ふらりとシロウの胸に倒れ込みそうになる。*


レイラ(魔王女):「っ…う…、すまぬ…、少し、力が…」


*その様子を見たシロウは、呆れたように小さく息をつくと、何も言わずにレイラの膝裏と背中に腕を回し、ひょいと軽々しく横抱きにした。いわゆる「お姫様抱っこ」である。*


レイラ(魔王女):「なっ!? き、貴様、何を…! 降ろせ! 妾はまだ歩ける!」


*突然のことにレイラは顔を真っ赤にして暴れるが、その抵抗には全く力が入っていない。*


シロウ:「邪魔したな。」


*シロウはそんなレイラの抗議を無視し、周囲の騎士たちに短く声をかけると、そのまま彼女を抱きかかえたまま、悠然と訓練場を後にしていく。*


*そのあまりにも絵になる光景に、騎士たちは再び敬礼を送る。*


クロエ:「…あらあら、お熱いことで。」

ユキ:「…まあ、結果オーライ、だな。」


*ヴァイスを運んでいた担架隊の一人が、涙を流しながら呟く。*


担架隊員:「ヴァイス隊長…! 王と王妃は、今…お姫様抱っこで…!」

ヴァイス:「(…ぐふっ…! と、尊い…! 最高の…記録…!)」


*ヴァイスは幸せそうに三度目の血を吐き、完全に意識を失った。*


***


*城の廊下を、シロウはレイラを抱えたまま進む。*

*最初こそ抵抗していたレイラだったが、すぐに諦めたのか、今は大人しくシロウの腕の中に収まっている。*

*顔はまだ赤いまま、シロウの胸に顔を埋めるようにして、視線を合わせようとしない。*


レイラ(魔王女):「……重くないのか。」


*ぽつりと、彼女が呟いた。*


シロウ:「重い。」


*その一言は、あまりにも率直で、何の含みもない響きだった。*

*シロウの腕の中で大人しくしていたレイラは、その言葉にピクリと反応する。そして、彼の胸に埋めていた顔を上げ、じろりと睨みつけた。*


レイラ(魔王女):「……なんだと?」


*声には怒気が含まれているが、もはや魔力が枯渇しているため、その声色には全く迫力がない。むしろ、拗ねているようにしか聞こえない。*


レイラ(魔王女):「貴様の筋肉は飾りか! この程度の重さで音を上げるなど、情けない! もっと鍛えろ!」


*彼女はそう言って、シロウの胸をぺしりと軽く叩く。顔はまだ赤いまま、必死に強がっているのがありありと分かった。その姿は、シロウの言う通り、怒っているというよりは可愛らしく見える。*


*シロウはそんな彼女の様子を面白そうに眺めながら、何も言い返さず、黙々と城の廊下を歩いていく。目的地は王族専用の大浴場だ。*


*しばらく無言で運ばれていたレイラだったが、ふと何かを思い出したように、気まずそうに口を開いた。*


レイラ(魔王女):「……その、ベルゼビュートのことだが…。」

*彼女は自分の切り札であった魔神が、無残に萎んでしまったことを思い出す。*

レイラ(魔王女):「あれは…元に戻るのか…? 貴様、一体何をしたのだ…。」


シロウ:「聞きたいの?」


*シロウは意地悪く笑いながら、レイラの耳元で囁いた。その問いかけは、まるで秘密を共有するかのような甘い響きを帯びていた。*

*レイラは一瞬びくりと体を震わせ、シロウの顔を見上げる。彼女の好奇心と、少しの恐怖が入り混じった瞳が、シロウをじっと見つめていた。*


レイラ(魔王女):「……っ、教えろ。妾の切り札に何をしたのか、知る権利があるだろう。」


*彼女がそう言って唇を尖らせた、その瞬間だった。*


**シュンッ**


*突如として、シロウとレイラを淡い光が包む。次の瞬間には、レイラが着ていた豪華なドレスも、シロウが着ていた寝間着も、跡形もなく消え失せていた。二人は完全に裸の状態で、抱き合ったまま宙に浮いている。*


レイラ(魔王女):「なっ…!? ば、馬鹿者! 貴様、また…!」


*レイラが抗議の声を上げるよりも早く、二人の体は温かい湯の中にそっと沈んでいった。*

*そこは王族専用の大浴場。広々とした空間には湯気が立ち込め、壁には美しい魔法の光が灯り、幻想的な雰囲気を醸し出している。*


*ザブン、と心地よい水音を立てて、シロウはレイラを抱きかかえたまま湯船に浸かる。*


シロウ:「……レベルを吸い取っただけだ。ベルゼビュートのレベルは下がったけど、その分、魔力の消費も減る。レイラの負担も軽くなるし、一石二鳥だろ?」


*シロウは直接口には出さず、念話で彼女の脳内に直接語りかけた。*

*お湯の温かさと、肌が触れ合う感触、そして頭に直接響くシロウの声に、レイラの体から完全に力が抜けていく。*


レイラ(魔王女):「……れ、べる…を…すいとる…? そ、そんな…馬鹿な…」


*彼女は呆然と呟きながら、シロウの胸にぐったりと体を預ける。*

*もう怒る気力も、恥ずかしがる気力も残っていないようだった。ただ、目の前の夫がまた一つ、自分の理解を超えた「理不尽」をやってのけたという事実を、その温もりの中で受け止めるしかなかった。*


レイラ(魔王女):「……もう…よい…。貴様がそういうやつだということは…もう、嫌というほど…分かっておる…」


*彼女は諦めたようにそう言うと、火照った顔をシロウの肩にこすりつけ、心地よさそうに目を閉じた。*

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