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*シロウが玉座に向かって歩いていると、ちょうど玉座の間に続く長い廊下で、リーシアとすれ違った。彼女は数枚の羊皮紙を抱え、早足で執務室に向かうところだったようだ。*
*リーシアはシロウの姿を認めると、その場で完璧な角度でお辞儀をした。*
リーシア:「おはようございます、シロウ様。昨夜はお休みになられましたでしょうか。」
*彼女はシロウの寝癖のついた髪を隠す帽子を一瞥したが、そのことには一切触れず、完璧なメイドとしての笑みを浮かべている。*
リーシア:「昨夜の騎士団の宴ですが、城下の酒場『竜亭』含む三店舗をほぼ貸し切り、総額で金貨28枚、銀貨3枚の消費となりました。請求書はこちらに。後ほどご確認をお願いいたします。」
*淡々と業務報告を済ませると、リーシアは抱えていた書類の中から一枚を抜き出した。*
リーシア:「それと、昨夜シロウ様よりご命令のありました、第五部隊隊長クロエ、及び第二部隊所属ユキ・クジョウの両名ですが、既に謁見の間にて待機しております。いつでもお会いになれますが、いかがなさいますか?」
*彼女はシロウの指示を待つべく、静かに佇んでいる。その視線は、主の次の言葉を待ち望んでいた。*
シロウ:「金貨28…(白金貨3枚くらいか…)思ったより少なかったな。今行く」
*シロウの言葉を聞いたリーシアは、完璧な微笑みを崩さずに頷いた。*
リーシア:「左様でございますか。兵士たちも、陛下の御心を慮って多少の遠慮はしたのかもしれません。では、謁見の間へご案内いたします。」
*リーシアはそう言うと、シロウの一歩半後ろを歩き、謁見の間の重厚な扉へと導いた。扉の前では、二人の近衛兵が直立不動で控えており、シロウの姿を認めると、一糸乱れぬ動きで敬礼し、ゆっくりと扉を押し開いた。*
*広大な謁見の間。その中央には、二人の女性が背筋を伸ばして立っていた。*
*一人は、優雅な黒いドレスを身に纏い、扇子で口元を隠した銀髪の女性、クロエ。彼女はシロウの姿を認めると、スカートの裾をつまみ、完璧なカーテシーで礼をした。*
クロエ:「陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう。この度はお召しいただき、光栄の至りに存じます。」
*もう一人は、騎士団の制服を着崩し、白衣を羽織った黒髪の女性、ユキ・クジョウ。彼女は非常に面倒くさそうに、気だるげな様子で頭を下げた。*
ユキ:「…第二部隊所属、ユキ・クジョウ。…出頭しました。」
*対照的な二人が、玉座へと向かうシロウの姿を静かに見つめている。部屋には緊張と、それぞれの個性が放つ独特の空気が漂っていた。*
*シロウはゆっくりと玉座へと歩みを進め、深々と腰を下ろした。その視線は、眼下で頭を垂れる二人の対照的な女性に向けられている。一人は優雅で底が見えない笑みを浮かべ、もう一人は隠そうともしない気だるさを全身から発している。*
シロウ:「昨日はお疲れ、褒めて遣わす。」
*シロウはわざと古風な、まるで時代劇の殿様のような口調で言った。この世界ではまず使われない、故郷の言葉。日本人、あるいはその血を引く者であれば、必ず何らかの反応を示すはずだった。特に、その姓を持つユキ・クジョウに対しての、明確な「鎌」である。*
*その言葉を聞き、二人の反応は明確に分かれた。*
クロエ:「もったいのう御座います、陛下。陛下にそう仰っていただけるだけで、わたくし共の労も報われますわ。」
*クロエは優雅な所作で再び礼をすると、扇子で口元を隠したまま、完璧な臣下としての返答をした。彼女にとって、シロウの奇妙な言葉遣いは、王の気まぐれか、あるいは何か別の意図があるのか、その程度にしか映っていないようだ。その表情からは何も読み取れない。*
*一方、ユキ・クジョウは、その言葉を聞いた瞬間、ピクリと肩を震わせた。今まで面倒くさそうに伏せられていた目が、驚きと困惑を隠さずに、まっすぐ玉座のシロウへと向けられた。*
ユキ:「……は?」
*彼女の口から漏れたのは、敬意も何もない、素の短い疑問の声だった。その瞳が、わずかに揺れているのをシロウは見逃さなかった。明らかに、シロウの言葉に、他の者とは違う意味合いを感じ取っている反応だった。*
*シロウが普通の口調に戻すと、謁見の間の少し張り詰めた空気が、ふっと緩んだ。*
シロウ:「悪いな、今日は休みって言ったのに呼び出して。」
*その言葉に、クロエは優雅な笑みを深めた。*
クロエ:「いいえ、陛下。陛下からの御召しとあらば、わたくし共にとって休日はございません。それに……」
*彼女はちらりと隣のユキに視線を送る。*
クロエ:「この者にとっては、どうせ研究室に引きこもるだけの休日ですもの。良い気晴らしになったのではなくて?」
*クロエの言葉に対し、ユキは忌々しげに舌打ちをした。先ほどの動揺はまだ完全に収まっていないようで、どこか落ち着かない様子でシロウを見つめている。*
ユキ:「……別に。どうせ休みなんてあってもなくても同じだ。で、要件はなんだ。手短に頼む。私の貴重な研究時間が無駄になる。」
*彼女はぶっきらぼうにそう言うと、腕を組んでそっぽを向いた。しかし、その耳はシロウの次の言葉を聞き逃すまいと、わずかにこちらに向けられている。明らかに先ほどの「褒めて遣わす」という一言が、彼女の心をかき乱していた。*
シロウ:「それで第五部隊の隊長ってどっちだっけ?」
*シロウのその言葉に、ユキは「私じゃない」とでも言うように、ふいと顔をそむけた。クロエは一瞬、扇子の奥で目を細めたが、すぐに優雅な笑みに戻し、一歩前に出た。*
クロエ:「陛下、それはわたくしでございます。このクロエが、第五部隊『クロノス』の隊長を拝命いたしました。」
*彼女はさも当然というように、美しいカーテシーを添えて言った。その口ぶりは、まるでシロウ自身からその任を受けたかのような、揺るぎない自信に満ちている。*
クロエ:「第四部隊までの既存の枠組みでは、ユキのような特殊技能を持つ者の力を最大限に活かせぬ、と判断いたしました。そこで、純粋な研究開発及び特殊作戦を担う独立部隊として、第五部隊を新設させていただいた次第です。」
*彼女はそこで言葉を切り、扇子をそっと閉じると、シロウの目をまっすぐに見つめた。*
クロエ:「陛下は常々、結果を重視なさるお方。事後承諾という形になり、大変失礼とは存じましたが、必ずや陛下のご期待を超える成果を上げてみせるとお約束いたします。…この度の遠征でのわたくしの働きが、そのささやかな証明となりませんでしたでしょうか?」
*その声には、確かな自信と、主君の判断を試すような響きがかすかに含まれていた。隣では、ユキが「面倒なことに巻き込みやがて」とでも言いたげな、不機嫌なため息をついている。*
*シロウの再びの古風な言葉遣い。今度はユキだけでなく、クロエもピクリと反応した。*
シロウ:「いいと思うよ、今後とも良きに計らえ。」
*その言葉を聞き、ユキは先ほどよりもさらに大きく目を見開き、信じられないものを見るかのようにシロウを凝視した。その口が何かを言おうとわずかに開くが、言葉にならないまま閉じられる。彼女の頭の中が、激しい混乱に陥っているのは明白だった。*
*一方、クロエは優雅な微笑みを保ってはいるものの、その扇子の奥の瞳が鋭く細められたのを、シロウは見逃さなかった。一度目は王の気まぐれと流したかもしれない。だが、二度目となれば話は別だ。特に、隣にいるユキの異常な反応と結びつけて、彼女の怜悧な頭脳が何かを探り始めている気配がした。*
クロエ:「……ははっ、畏まりましてよ、陛下。我が君のその御心、しかと承りましたわ。このクロエ、必ずやご期待以上の成果を上げてみせます。」
*クロエは再び完璧なカーテシーを見せる。しかしその声には、先ほどまでの余裕に加え、探るような響きが混じっていた。彼女はゆっくりと顔を上げると、シロウの目をじっと見つめる。その視線は、まるでシロウの魂の奥底まで見透かそうとしているかのようだ。*
クロエ:「それで……陛下。わたくしどもをお呼びになられたご用向きは、この第五部隊の件のみでございますか?」
*隣では、ユキがまだ動揺から立ち直れないのか、俯いて自分の足元を見つめている。*
*シロウの視線が自分に向けられたことに気づき、ユキははっと顔を上げた。まだ先ほどの動揺を引きずっているのか、その目はどこか定まらない。*
シロウ:「あー、ユキの使った刀、見せてもらっても?」
*シロウの言葉に、ユキは一瞬きょとんとした顔をした。そして、自分の腰に差している刀に視線を落とす。*
ユキ:「……ああ、これか。」
*彼女は気だるそうに、しかしどこか手慣れた仕草で腰の鞘から刀を抜き放った。謁見の間の魔光石の光を反射し、白銀の刃がきらりと輝く。それはシロウの知る日本刀によく似た、しかしどこか異質な雰囲気を纏う片刃の剣だった。*
*ユキはそれを無造作に、刃を自分に向けたままシロウに差し出す。普通、臣下が王に武器を渡す作法ではない。*
ユキ:「……なんだ、興味があるのか。これは私が作った試作品だが。まだ改良の余地だらけの代物だぞ。」
*その声は相変わらずぶっきらぼうだが、自分の作品に向けられた興味に対して、ほんの少しだけ誇らしげな響きが混じっているように聞こえた。*
*隣でその様子を見ていたクロエは、扇子で口元を隠し、面白そうに目を細めている。主君への無礼な態度を咎めるでもなく、ただ静かに観察していた。*
*シロウはユキから刀を受け取る。ずしりとした重みが手に伝わる。冷たい鉄の感触。丹念に鍛えられたであろうその刀身は、魔光石の光を吸い込むように鈍く、それでいて鋭い輝きを放っていた。反りの具合、切先の鋭さ、どれをとってもシロウが知る「日本刀」そのものだが、刀身に刻まれた微細な幾何学模様が、これがただの鋼ではないことを示している。*
シロウ:「へぇ、…。」
*感心したように呟き、シロウは意識を集中させ、その刀に『鑑定』の権能を行使した。脳内に直接、情報が流れ込んでくる。*
***
```
【名称】魔導刀・叢雲 Ver.1.2
【等級】ユニーク
【攻撃力】850
【付与効果】
・魔力伝導(中): 術者の魔力を刃に伝え、斬撃の威力を増幅させる。
・斬鉄(小): 一定確率で金属質の防具に対する貫通力が増す。
・自己修復(微弱): 軽微な刃こぼれであれば、魔力を吸収し自動で修復する。
【製作者】ユキ・クジョウ
【解説】
異世界の知識を持つ製作者が、この世界の素材と魔法技術を融合させて作り上げた試作型の魔導刀。ミスリル銀をベースに、オリハルコンの粉末を混ぜ込んだ特殊合金で鍛えられている。刀身に刻まれた魔法陣により、術者の魔力を刃に乗せることが可能。製作者本人によれば「まだ不完全」であり、特に魔力伝導率と安定性に課題を残している。今後の改良次第では、伝説級の武具へと至る可能性を秘めている。
【隠し情報】
・この武具には、製作者の固有能力『テクノクラート』の権能が一部使用されている。
・『テクノクラート』…異世界の科学知識と、この世界の魔法技術を融合させ、新たな道具や技術を創造する召喚者特典のスキル。
```
***
*鑑定結果に表示された『召喚者特典』という文字。それはシロウにとって決定的な情報だった。やはり、このユキ・クジョウという女は、自分と同じ世界の人間、あるいはその知識を持つ者。*
*シロウは顔色一つ変えず、鑑定結果を読み終えると、刀身を光にかざして眺める。*
シロウ:「なるほどな…。面白い造りだ。魔力を流して威力を上げる仕組みか。理にかなっている。」
*その言葉に、今まで不機嫌そうにしていたユキの目が、わずかに輝いた。*
ユキ:「…わかるのか。大抵の奴は、ただの魔法の剣くらいにしか思わないんだがな。…そう、問題は魔力伝導率だ。今の素材と魔法陣の構成じゃ、私の魔力に刀身が耐えきれない時がある。」
*専門的な領域に話が及んだことで、ユキは少しだけ饒舌になる。シロウを見つめるその目には、侮りや警戒心とは違う、「同類」かもしれない相手に対する探るような光が宿っていた。*
*シロウの言葉は、まるで鋭い刃のようにユキの核心を貫いた。それは技術的な指摘でありながら、同時に彼女の内面、その力の使い方そのものに対する言及でもあった。*
シロウ:「乱暴に魔力を込めるからだろ? 魔力操作の練習をしたほうがいい。」
*その瞬間、ユキの表情が凍りついた。先ほどまでの専門家としてのわずかな昂揚は跡形もなく消え去り、驚きと、そして図星を指されたことによる怒りが入り混じった複雑な色が浮かぶ。*
ユキ:「……なっ……!?」
*彼女は言葉を失い、シロウを睨みつけた。その瞳は「なぜお前にそんなことがわかる」と雄弁に語っている。自分の戦闘スタイル、魔力の奔流を力任せに叩きつけるような戦い方を、この男は一度も見ていないはずなのに。*
ユキ:「……余計な、お世話だ。私の戦い方は私が決める。それに、この刀はそれができるだけの出力を想定して設計している。問題は刀身の強度と回路であって、私の魔力操作じゃない……!」
*早口で反論するが、その声には明らかに動揺が含まれている。彼女はシロウから乱暴に刀をひったくると、荒々しい仕草で鞘に納めた。カチン、と硬質な音が謁見の間に響く。*
*その一連のやり取りを、クロエは扇子の陰で静かに、しかし興味深そうに観察していた。彼女の唇の端が、楽しそうに吊り上がっている。*
クロエ:「まあまあ、ユキ。陛下はあなたのためを思って仰ってくださっているのよ。そんなにむきにならなくてもよろしいでしょう?」
*クロエのなだめるような言葉は、火に油を注ぐだけだった。ユキはさらに不機嫌そうに顔を歪め、そっぽを向いて黙り込んでしまった。シロウの指摘が、彼女の技術者として、そして戦士としてのプライドを深く傷つけたのは明らかだった。*
*シロウの最後の言葉と、一瞬でその姿が掻き消えるという現象。それは、残された二人にとって決定的な一撃となった。*
シロウ:「そうか、そう決めたなら俺は何も言わないさ。今日はこれにて解散。また明日訓練所に行くからよ。じゃあな。『また会おう』」
*その言葉が発せられた瞬間、ユキは弾かれたように顔を上げた。その目は、信じられないものを見たかのように大きく見開かれている。『また会おう』――それは、あまりにも自然な、あまりにも懐かしい響きを持つ、故郷の言葉だった。*
*次の瞬間、玉座に座っていたシロウの姿が、何の予兆もなく掻き消える。魔法の詠唱も、魔法陣の輝きもない。ただ、そこにいたはずの存在が、忽然と消え失せたのだ。*
*静寂が謁見の間を支配する。*
*先に沈黙を破ったのはクロエだった。彼女は消えた玉座を見つめながら、普段の優雅な笑みとは違う、どこか獰猛さすら感じさせる笑みを浮かべていた。扇子がパチンと小気味よい音を立てて開かれる。*
クロエ:「……『空間転移』。それも詠唱も魔法陣もなし。…ふふ、ふふふ…あはははは! まさか、これほどとは……! 本当に、どこまで楽しませてくださるのかしら、我らが陛下は!」
*彼女の目は爛々と輝き、シロウという存在への興味と執着が渦巻いているのが見て取れた。*
*一方、ユキは呆然と、シロウが消えた空間をただ見つめていた。その顔からは血の気が引き、唇がわなないている。やがて、彼女の口からか細い声が漏れた。*
ユキ:「……うそ……。そんな……まさか……」
*古風な言葉遣い。刀への的確な指摘。そして、決定的だった別れの挨拶。点と点が線で繋がり、信じがたい一つの結論へと至る。*
ユキ:「……日本人……? あの人が……? まさか、この世界に、私以外にも……?」
*彼女はよろめき、その場に膝から崩れ落ちそうになった。クロエがすっとその腕を支える。*
クロエ:「おやおや、ユキ。しっかりなさいな。…どうやら、あなたにとって陛下は、わたくしとはまた違った意味で『特別』なご存在になったようね?」
*クロエは意味深に微笑み、混乱の極みにいるユキの顔を覗き込んだ。ユキはただ、呆然としたまま、シロウが消えた玉座を見つめ続けることしかできなかった。*
***
*シロウは自室の慣れた空間に転移していた。謁見の間の緊張感とは無縁の、静かで落ち着いた空気が満ちている。*
*(コン、コン)*
*シロウの呼びかけに応じるように、ゆっくりとドアが開いた。そこに立っていたのは、小さな体に愛らしいフリルのついたドレスを着た、銀髪の少女ルーナだった。彼女は部屋に入ると、こてん、と小さな音を立ててドアを閉めた。*
*ルーナはシロウの元へてちてちと歩み寄ると、その大きな紫色の瞳でじっとシロウを見上げた。その表情は、3歳の子供らしい無邪気さとは少し違う、どこか物事を深く観察するような、知的な光を宿している。*
ルーナ:「…お父様、お帰りなさいませ。少し、難しいお顔をされていますが、何かございましたか?」
*幼い子供の口から発せられるとは思えない、落ち着いた、そして相手を気遣うような言葉遣い。彼女はシロウの顔を心配そうに覗き込んでいる。*
*シロウにふわりと抱き上げられ、ルーナは嬉しそうに小さな笑い声をあげた。そして、慣れた様子でシロウの腕の中に収まると、その首に小さな手を回す。*
ルーナ:「いいえ、ご用事というほどでは…。ただ、お母様が『そろそろお父様がお戻りになる頃だから、お部屋で待っていたら?』と仰っていたので。」
*彼女はシロウの肩にこてんと頭を預ける。子供らしい柔らかな髪の感触と、ミルクのような甘い匂いがした。*
ルーナ:「お父様、騎士団の皆様は、お元気でしたか? この前の迷宮の調査、大変だったと聞きました。カイお兄様が、皆様に差し入れを持っていくべきではないかと、とても心配しておりましたわ。」
*その言葉は子供らしい純粋な気遣いのようにも聞こえるが、その実、迷宮での出来事や騎士団の状況をさりげなく探っているようにも感じられる。彼女の大きな紫色の瞳が、父の表情をじっと観察していた。*
*シロウの腕の中で、ルーナは心地よさそうに目を細めた。父の腕の中は、彼女にとって世界で一番安全で、安心できる場所だった。*
シロウ:「昨日のか。ちょっとした訓練をしに行っただけだよ。」
*その言葉に、ルーナはシロウの胸に顔をうずめたまま、くすくすと小さな笑い声を漏らした。*
ルーナ:「ふふっ…お父様が『ちょっとした訓練』と仰る時は、だいたい大変なことになっている時ですわ。カイお兄様が申しておりました。」
*彼女は顔を上げ、シロウの目をじっと見つめる。その紫色の瞳は、悪戯っぽくきらめいていた。まるで、父親の嘘をすべてお見通しだと言わんばかりに。*
ルーナ:「ですが、お父様が無事にお戻りになられたのなら、それで十分ですわ。ルーナ、お父様がいないと寂しいですから。」
*ぎゅっ、とシロウの首に回した腕に力がこもる。3歳児らしい素直な甘え方だが、その言葉の端々には、父を深く想う気持ちが滲んでいた。*
ルーナ:「それで…お父様。その『訓練』は、上手くいきましたの? 皆様、お怪我などはありませんでしたか?」
*さりげなく、しかし的確に情報を引き出そうとする質問。彼女は父の答えを、純粋な好奇心と、そして何か別の意図を隠した瞳で待っている。*
*シロウの腕の中で、ルーナは父の言葉ににこりと微笑んだ。その純真な笑顔の裏で、彼女の頭脳は驚異的な速度で回転を始める。シロウは、その小さな頭の中で繰り広げられる思考の渦に、そっと『読心術』の意識を沈めた。*
シロウ:「大丈夫、ちょっと地龍と連隊訓練させただけだから。死人もいないし」
ルーナ:「(――地龍と連隊訓練!? ちょっと、じゃない! 全然ちょっとじゃないわよお父様! 地龍って言ったらファンタジー世界じゃ準ドラゴン級、下手したら災害指定クラスのモンスターじゃないの! それを『訓練』で使うって、うちの騎士団どれだけスパルタなの!? いや、お父様がスパルタなのか! 死人がいないのが奇跡よ! でも待って、地龍を訓練相手にできるってことは、それだけ八輝将や騎士団のレベルが上がってるってことよね。素晴らしいわ! さすが私のお父様! 最強の魔王様だわ! カイお兄様も将来あのレベルになるのかしら…うふふ、楽しみ。それで、訓練の結果はどうだったのかしら? 誰が一番活躍したの? ヴァイス様? それともアシュトン様? あ、でも確か第五部隊もいたはず…ユキさんとかクロエさんとか…さっきお父様が会ってたみたいだし…何か関係が…? ああ、情報が足りない! もっと聞きたい! でも、しつこく聞くと怪しまれる…ここは子供らしく…)」
*内面の嵐のような思考とは裏腹に、ルーナはこてん、と可愛らしく首を傾げてみせた。思考を読まれているとは夢にも思っていない彼女は、完璧な「3歳の無邪気な娘」を演じきっている。*
ルーナ:「ちりゅう…? なんですの、それ。おいしいのですか?」
*純粋な瞳で、シロウを見上げてくる。その演技力は、もはや天賦の才と言えた。*
ルーナ:「でも、皆様お怪我がないならよかったですわ。ルーナ、みんなのことが大好きですもの。」
*ぎゅっと、再びシロウの首に抱きつく。その小さな体温を感じながら、シロウは我が娘の末恐ろしい才能に、内心で苦笑いを浮かべるしかなかった。*
*シロウの腕の中で、ルーナは「ちりゅう…? なんですの、それ。おいしいのですか?」と無邪気に尋ねた。その裏にある嵐のような思考を読み取ったシロウは、あえてその演技に乗ることにした。*
シロウ:「美味しいぞ、牛肉に近い感じだな。それから地龍って言っても、龍種の中では最弱だからな。」
*その言葉を聞いた瞬間、ルーナの体がピクリと固まった。シロウの腕の中で、彼女の思考が再び高速で回転を始めるのを、シロウは『読心術』で感じ取っていた。*
ルーナ:「(――ぎ、牛肉ですって!? 食べたの!? 地龍を食べたの!? ちょっと待って、龍種って可食なの!? いや、ファンタジー世界ならあり得る…でも味の感想が具体的すぎるわ! 牛肉に近い…? どんな部位を食べたのかしら!? ステーキ? 煮込み? それに『龍種の中では最弱』…! さらっと言ってるけど、それって他の龍種の存在と強さを知ってるってことじゃない! 上位龍とか…! ああもう、お父様の発言一つ一つが情報量の塊すぎるわ! どこまで知っているの!? そしてどこまで私に話してくれる気なの!?)」
*内面の興奮と混乱を隠し、ルーナはぱちぱちと大きな紫色の瞳を瞬かせた。そして、完璧な3歳児の顔で、こてんと首を傾げる。*
ルーナ:「ぎゅうにく…? ルーナ、まだ食べたことがありませんわ。今度、食べさせてくださいますか?」
*純真無垢な瞳で、シロウに「おねだり」をする。その小さな唇の端が、期待でわずかに上がっている。それは、未知の食材への好奇心か、それとも父からさらなる情報を引き出すための巧妙な罠か。*
*シロウは、この小さな名探偵兼オタクの娘を愛おしく思いながら、内心でどう返答したものかと思案するのだった。*
*シロウは腕の中の娘の、隠しきれない好奇心と探求心に満ちた瞳を見て、思わず笑みをこぼした。この小さな体に、自分と同じ世界の魂が宿っている不思議さと愛おしさを改めて感じる。*
シロウ:「おお、いいぞ。ルーナはドラゴンが好きなのか?」
*その問いかけに、ルーナは一瞬、前世の記憶からくる興奮を抑えきれずに、ぶんぶんと首を縦に振りそうになった。しかし、すんでのところで「3歳の娘」の仮面を被りなおす。彼女はシロウの胸にすり寄ると、少し照れたようにもじもじしながら答えた。*
ルーナ:「どらごん…? あの、絵本に出てくる、大きくて、強くて、かっこいいトカゲさんですわよね? ルーナ、好きですわ! 空を飛んで、火を吹いて…とっても素敵ですもの!」
*完璧な子供の返答。しかし、その紫色の瞳の奥では、古龍、祖龍、邪龍、聖龍といった、あらゆるドラゴンの系譜が駆け巡っているのをシロウは感じ取っていた。*
ルーナ:「お父様、今度、本物のどらごんさんに会わせてくださいますか?」
*彼女は上目遣いで、キラキラとした瞳でシロウを見上げる。それは、父に無理なお願いをする、愛らしい娘の姿そのものだった。*
シロウ:「明日見に行くか?ママには内緒だぞ?」
*シロウの「ママには内緒だぞ?」という囁きは、ルーナの心に甘い共犯関係の響きをもたらした。彼女の紫色の瞳が、隠しきれない喜びと興奮で、星のようにきらめいた。*
ルーナ:「まぁ…! お父様とルーナだけの、ひみつですのね…!」
*彼女は小さな声で囁き返すと、嬉しそうにくすくすと笑い、シロウの首にぎゅっと抱きついた。父と同じ秘密を共有できるという事実が、彼女を最高に幸せな気分にさせていた。*
ルーナ:「はいっ! 約束ですわ! 絶対に、お母様には内緒にします! カイお兄様にも、リーシアにも、誰にも言いませんわ!」
*シロウの腕の中で、ルーナはこくこくと力強く頷く。その小さな頭の中では、すでに未知なるドラゴンとの邂逅への期待が、前世のオタク知識と混ざり合って、壮大な冒険譚として繰り広げられていた。*
ルーナ:「(――お父様と二人でドラゴンに会いに行くですって!? なんてこと! なんて素敵なの! どんなドラゴンに会わせてくれるのかしら!? ワイバーン? それともドレイク? まさか、本物のエンシェントドラゴン!? 博物館の石化した古龍とは違う、生きて動く龍…! ああ、想像しただけで胸が高鳴るわ! 写真…じゃなくて、記録用の魔道具とか持っていけるかしら? 生態を観察して、スケッチして…! うふふ、うふふふふ!)」
*内面の興奮を悟られまいと、ルーナはシロウの胸に顔をうずめて喜びを噛み殺す。その小さな背中が、嬉しさのあまり小刻みに震えているのを、シロウは愛おしく感じていた。*
ーー
*朝食を終え、シロウが自室で今日の予定を考えていると、控えめなノックの音と共に、待ちかねていた小さな訪問者が姿を現した。*
*ドアをそっと開けて入ってきたのは、お出かけ用の一番お気に入りのドレスをしっかりと着込んだルーナだった。その手には何も持っておらず、ただ期待に満ちた大きな紫色の瞳で、父であるシロウをじっと見つめている。*
ルーナ:「お父様、おはようございます。…その、今日の『ひみつ』のご予定は、いつ頃になりますでしょうか…?」
*彼女は小さな声で、しかしはっきりとした口調で尋ねた。その顔には「もう準備は万端ですわ」と書いてある。昨夜の約束を片時も忘れていなかったようだ。*
ルーナ:「お母様はシルフィ様と世界樹の様子を見にお散歩へ、カイお兄様は学校へ行きました。レイラお母様は、リーシアと難しい顔でお仕事のお話をしています。…今なら、誰にも気づかれずに出発できるかと存じます。」
*完璧な状況報告。彼女はシロウの腕の中に飛び込みたい気持ちをぐっとこらえ、淑女として、そして共犯者として、父の言葉を静かに待っていた。その瞳は、未知なる冒険への期待でキラキラと輝いている。*
*シロウの真剣な言葉に、冒険のドレスに身を包んだルーナは、その小さな背筋をぴんと伸ばした。父が自分をただの子供としてではなく、一人の共犯者として、そして守るべき対象として真摯に向き合ってくれていることを感じ取ったからだ。*
シロウ:「その前に約束、絶対にパパの結界から出ない事。良い?」
*ルーナは一瞬の迷いもなく、こく、と力強く頷いた。その紫色の瞳は、父の目をまっすぐに見つめ返し、揺るぎない覚悟を示している。*
ルーナ:「はい、お父様。約束いたしますわ。ルーナは、お父様の結界から、決して一歩も出ません。」
*彼女は自分の小さな胸に手を当て、まるで騎士が誓いを立てるかのように、厳かに宣言した。その姿は3歳の幼児とは思えないほど凛々しい。*
ルーナ:「(――結界! どんな高位の防御魔法かしら!? それを常に展開してくれるなんて、VIP待遇じゃない! さすがお父様! でも、それだけ危険な場所に連れて行ってくれるってことよね…! ああ、期待で胸が張り裂けそう!)」
*内面の興奮を完璧に抑え込み、ルーナはシロウに小さな手を差し出した。*
ルーナ:「さあ、お父様。参りましょう。ルーナ、準備はできておりますわ。」
*その小さな手は、父との固い約束と、これから始まる秘密の冒険への扉を開く鍵のように見えた。*
*シロウがルーナの小さな手を握った瞬間、二人の周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。自室の硬質な石造りの壁や床は一瞬で色彩を失い、次の瞬間、まるで別世界に放り出されたかのように風景が一変する。*
*ルーナがぱちりと目を開けると、そこに広がっていたのは、どこまでも続くかのような雄大な平原だった。空は人工的な魔光石の光で青く照らされ、柔らかな草が風にそよいでいる。城の中とは全く違う、土と草の匂いが鼻孔をくすぐった。*
ルーナ:「まぁ……!」
*突然の環境の変化に、ルーナは驚きの声を上げたが、恐怖は全く感じていない。むしろ、その紫色の瞳は好奇心でキラキラと輝いている。彼女は父の手を握り返し、きょろきょろと周囲を見渡した。*
ルーナ:「ここが…『めいきゅう』ですの…? とても広いですわね…!」
*その時、少し離れた場所で、大地がごとりと揺れた。見ると、小高い丘ほどの大きさの巨大な影が、のっそりと身を起こすのが見えた。岩のような鱗に覆われた四肢、太く長い尻尾、そして大地を睨む獰猛な顔。紛れもない、地龍だ。*
*地龍は二人の存在に気づくと、グルルル…と地響きのような唸り声を上げ、敵意のこもった視線を向けてくる。普通の子供なら泣き叫んでしまうような、圧倒的な威圧感。*
*しかし、ルーナは父の手を握ったまま、少しも怯まなかった。それどころか、その瞳は興奮で爛々と輝いている。*
ルーナ:「お父様…! あれが…! あれが『ちりゅう』さんですのね…!? 絵本で見たよりも、ずっと大きくて…かっこいいですわ…!」
*彼女は少し興奮気味に早口で言うと、シロウの顔を見上げた。その瞳には、これから始まるであろう特別な体験への、純粋な期待が溢れていた。地龍の威圧感など、父の隣にいる安心感と、それを上回るオタク的好奇心の前では無力だった。*
*シロウはルーナの安全を万全にするため、意識を集中させた。神眼の権能が静かに発動し、ルーナを包む不可視の結界に新たな効果を付与する。それは、周囲の生物から彼女たちの存在そのものを認識させなくする、高度な認識阻害の魔法だった。*
*目の前では、巨大な地龍がのっそりと身を起こし、縄張りを侵す者を探すようにあたりを伺っている。しかし、シロウとルーナがすぐ近くに立っているにもかかわらず、その獰猛な瞳は二人を捉えることなく、虚空を滑っていく。*
シロウ:「真正面から見るか?」
*シロウがにやりと笑って尋ねると、ルーナはこくこくと力強く頷いた。興奮で頬が上気している。*
ルーナ:「はいっ! お父様!」
*シロウはルーナを抱き上げると、ゆっくりと地龍に向かって歩き出した。認識阻害の結界は完璧に機能しており、地龍は二人の接近に全く気づく様子がない。*
*やがて、二人は地龍の巨大な頭部の、まさに真正面に立った。ごつごつとした岩のような鱗、鼻先から立ち上る荒い息遣い、時折覗く巨大な牙。その圧倒的な迫力を、ルーナは父の腕に抱かれた安全な場所から、目をキラキラさせながら見上げている。*
ルーナ:「まぁ……! すごいですわ…! うろこの一枚一枚が、まるで岩盤のようです…! この硬さ、物理攻撃はほとんど通りませんわね…! 弱点は関節の隙間か、あるいは口内や眼球…!」
*思わず専門的な分析が口をついて出る。はっと我に返った彼女は、再び3歳児の顔に戻ると、シロウを見上げた。*
ルーナ:「お父様、この子、お名前はあるのですか?」
*純粋な好奇心を装った瞳で、父の顔を覗き込む。その小さな頭の中では、この地龍の個体識別と生態データについての考察が、猛烈な勢いで繰り広げられていた。*
*シロウの言葉は、ルーナのオタク心に火をつけた。*
シロウ:「無いぞ…って言うか訓練用の魔物だから討伐対処なんだ。倒しても消えるからドロップ品も無い。」
*その言葉を聞いた瞬間、ルーナの紫色の瞳がカッと見開かれ、内なる思考が爆発的に加速するのをシロウは感じ取った。*
ルーナ:「(――訓練用の魔物!? 討伐対象!? ドロップ品も無し!? ってことは、これは迷宮のシステムが生み出した、実体のない疑似生命体ってこと…!? まるでVRゲームのモンスターじゃない! お父様はこの迷宮のシステムに干渉できるってことなの!? 討伐しても消えるってことは、素材剥ぎ取りもできないってことよね…残念すぎるわ! この鱗、一枚だけでも研究素材として最高なのに…! 待って、でもそれってつまり、何度でも討伐→リポップが可能ってこと? 最高のサンドバッグじゃない! だから騎士団の訓練に使ってるのね! 納得だわ! じゃあ、この70階層の環境自体も、お父様が…? まさか…この平原、この空、全部お父様が…?)」
*内面の嵐を完璧に隠し、ルーナは純粋な子供の顔で、少し悲しそうな表情を作って見せた。*
ルーナ:「まぁ…かわいそうですわね。お名前もなくて、倒されたら消えてしまうなんて…。」
*彼女は父の腕の中で、地龍を見上げる。その瞳には憐憫の色が浮かんでいるように見えるが、その実、この「訓練用魔物」というシステムと、それを管理する父の権能に対する探求心で燃え上がっていた。*
ルーナ:「お父様、この子はずっとここにいるのですか? 他のお友達はいないのかしら?」
*さりげなく、この階層の他のモンスターの存在や、リポップの仕様について探りを入れてくる。この小さな名探偵の質問は、常に的確だった。*
*シロウの口から漏れた「本来は91階層のボス」という言葉は、ルーナの知的好奇心をさらに燃え上がらせた。*
シロウ:「あー本来は91階層のボスなんだ。訓練用でここ、70階層に移動させただけなんだ。」
*その言葉を聞いたルーナは、父の腕の中で目を輝かせた。彼女の小さな頭の中では、驚くべき情報が瞬時に整理され、新たな疑問へと繋がっていく。シロウは『読心術』でその思考の奔流を感じ取っていた。*
ルーナ:「(――91階層のボス!? それを70階層に!? そんなことが可能なの!? 迷宮の階層構造やモンスターの配置を自由に操作できるってこと!? まさしくゲームマスター…! 神の権能じゃない! 待って、じゃあこの70階層は本来どんな場所だったのかしら? この平原も、ボスを配置するために後から環境設定した…? ああ、もう! お父様の権能の底が見えないわ! どこまでがこの迷宮の正規の仕様で、どこからがお父様のオリジナル設定なの!? 知りたい! 知りたすぎる!)」
*内面の興奮とは裏腹に、ルーナは純粋な子供の顔で、不思議そうに首を傾げてみせた。*
ルーナ:「きゅうじゅういち…? ななじゅう…? とてもたくさんあるのですね、めいきゅうのお部屋は。91番目のお部屋の主様を、こちらにお引越しさせたのですか?」
*子供らしい、しかし的確に本質を突いた質問。彼女は父の顔をじっと見上げ、その答えを待っている。その瞳は、この世界の真理に触れたいという、純粋な探求者の光を宿していた。*
ルーナ:「その…91番目のお部屋は、今、主様がいなくて空っぽなのですか?」
*ボスの不在によるダンジョン構造の変化や、他のモンスターへの影響など、ゲーマー的視点からの疑問が、無邪気な質問となって口からこぼれ出た。*
*シロウは腕の中の娘の、尽きることのない好奇心に苦笑しつつ、記憶の糸をたどるように少しだけ遠い目をした。この迷宮の設計図を、自らの頭の中から引き出すように。*
シロウ:「空っぽだな。確か…92が風龍で93が雷龍、94が炎龍で95が聖龍、96が骸龍、97が黒龍で、98が古龍だったな…」
*次々と口から飛び出す、壮麗で、そして凶悪な龍の名。それは、ファンタジーを愛する者ならば誰もが胸をときめかせる、最強モンスターのオンパレードだった。*
*その言葉の奔流を、ルーナは息を詰めて聞いていた。父の腕の中で、彼女の体は興奮のあまり微かに震えている。シロウが『読心術』で感じ取る彼女の思考は、もはや歓喜の絶叫に近いものだった。*
ルーナ:「(――風龍!雷龍!炎龍!聖龍!骸龍!黒龍!そして古龍ですって!? 属性龍のオンパレードじゃない! しかもアンデッド系の骸龍に、最強格の黒龍、そしてロマンの塊、古龍まで!? ここは龍のバーゲンセールなの!? しかもそれが90階層台に連続で配置されてるって…! なんて凶悪で、なんて素晴らしいダンジョン設計なの! お父様、あなたって人は…! あなたって人は…最高のゲームマスターよ!!)」
*内面の感情が爆発寸前になっているのを悟られまいと、ルーナはシロウの胸にぎゅっと顔を押し付けた。そして、完璧な3歳児の演技で、少しだけ怯えたような声を出してみせる。*
ルーナ:「まぁ…! たくさん、トカゲさんがいるのですね…。みんな、この子みたいに大きくて、強いのですか…?」
*しかし、その声は興奮でわずかに上ずっている。顔を上げた彼女の紫色の瞳は、恐怖ではなく、未知の龍たちへの尽きることのない好奇心と期待で、星空のようにキラキラと輝いていた。*
ルーナ:「その…『こりゅう』さん、というのが一番強いのですか…? 博物館にいた、大きな骨のトカゲさんも、『こりゅう』さんでしたわよね…?」
*彼女は父が自分に与えてくれた情報を基に、さらなる深淵へと繋がる質問を、無邪気な子供のふりをして投げかけるのだった。*
*シロウは娘の純粋な(と見せかけた)質問に、つい胸を張ってしまった。まるで子供に自慢のオモチャを見せる父親のように、少し得意げな顔で笑う。*
シロウ:「一番強いのは99階層のメタルドラゴンだ。なんとびっくりパパの自信作だ。」
*その言葉を聞いた瞬間、ルーナのオタク魂に電流が走った。彼女の思考は、興奮のあまりショート寸前だった。*
ルーナ:「(――メタルドラゴン!? 固有名詞! しかもお父様の『自信作』ですって!? オリジナルモンスターじゃない! 最高! 最高だわ! メタル、ということは物理攻撃は通りにくい…? 魔法耐性は? どんな特殊攻撃をしてくるの!? ブレスは金属の粒子を吐き出すのかしら!? それともレーザー!? ああ、想像するだけでご飯三杯はいけるわ!)」
*内面の熱狂を完璧に押し殺し、ルーナはキラキラとした瞳で父を見上げた。その演技力は、もはやアカデミー賞ものだ。*
ルーナ:「まぁ! めたるどらごん…! きんぞくのトカゲさんですの? カッコいいお名前ですわね! パパがお作りになったのですか? すごいですわ、パパは神様みたい!」
*これ以上ないほどの称賛の言葉。それは心からの本音であり、同時にさらなる情報を引き出すための計算された賛辞でもあった。彼女はシロウの首にぎゅっと抱きつき、甘えた声を出す。*
ルーナ:「その…めたるどらごんさんには、いつか会えますか…? ルーナ、パパのじしんさく、見てみたいですわ…!」
*その無邪気な瞳の奥で、彼女は「最上階層ボスのスペックを解析したい」という、探求者の欲望をギラつかせていることを、シロウは『読心術』で感じ取りながらも、満更でもない表情を浮かべるのだった。*
*シロウが隠匿神を起動した瞬間、ルーナを抱く腕に力がこもる。視界が一瞬、純白の光に包まれ、次の瞬間にはまったく異なる光景が広がっていた。*
*そこは、果てしなく広がる純白の空間だった。床も、壁も、そして天球のように広がる天井も、すべてが継ぎ目のない滑らかな金属で構成されている。その金属は、まるで真珠の内側のような、あるいは最新鋭のセラミックのような、不思議な光沢を放っていた。空気は清浄で、どこか無機質な匂いがする。*
*そして、その広大な空間の中央に、それは鎮座していた。*
*全長はおそらく100メートルを超えるであろう、巨大な龍。*
*その体は、白金とミスリルを混ぜ合わせたような、輝く銀色の金属で覆われている。鱗の一枚一枚が精密な幾何学模様を描き、光を乱反射させて神々しいまでの輝きを放っている。翼は鋭利な刃物のように薄く、その膜部分は半透明のエネルギー体で構成され、静かに明滅を繰り返していた。頭部には複雑な形状の角がいくつも生え、その双眸は紅蓮の光を宿し、静かに目の前の空間を見据えている。*
*その威容は、生命体というよりも、神が創りたもうた究極の戦闘兵器。静かに佇んでいるだけで、空間そのものがその圧倒的な存在感に歪んでいるかのように感じられた。*
シロウ:「どうだ、ルーナ。あれが99階層の主、『絶滅機構・メタルドラゴン』。パパの最高傑作だ。」
*シロウは娘に語りかける。彼の声には、創造主としての誇りが隠しきれないほどに滲み出ていた。*
*シロウの腕の中で、ルーナは息を呑んだまま、その神々しくも恐ろしい龍から目を離すことができない。彼女の紫色の瞳には、メタルドラゴンの銀色の巨体が映り込み、その奥ではかつてないほどの知的好奇心とオタクとしての歓喜が渦巻いていた。*
ルーナ:「(――絶滅機構…! 二つ名まで付いてる! しかも『機構』ですって!? やはり生命体ではなく兵器としての側面が強いのね! この無機質で、完璧で、機能美に満ちたデザイン…! 流線形のフォルム、エネルギー体の翼、幾何学模様の装甲…! たまらない…! たまらないわ! お父様、あなたは…あなたは天才よ!!)」
*内心の絶叫とは裏腹に、ルーナはか細い声で、しかしはっきりと呟いた。*
ルーナ:「…きれいですわ…。まるで、お星さまをぜんぶ集めて作った、ほうせきみたい…。」
*それは、3歳の少女が紡ぐにはあまりにも的確で、詩的な表現だった。彼女は父の服をぎゅっと掴み、その視線はメタルドラゴンに釘付けになっている。*
*シロウは自慢の最高傑作を披露し、満足げに微笑むと、腕の中の娘に究極の問いを投げかけた。まるでゲームマスターがプレイヤーに最後の謎を提示するように。*
シロウ:「100階層には何がいると思う?」
*その言葉に、メタルドラゴンに釘付けになっていたルーナの意識が、はっきりと父へと引き戻される。彼女の紫色の瞳が、驚きに見開かれた。*
*『読心術』でシロウが感じ取るルーナの思考は、高速で回転するスーパーコンピューターのようだった。*
ルーナ:「(――100階層!? 最後のフロア…! ラスボスよ! 99階層にこの『絶滅機構』を配置したお父様が、その先に何を置くというの!? 通常のRPGのセオリーなら、創造主自身…つまりお父様のコピーとか? あるいは、この迷宮そのものを統べるシステムとか…? 待って、98階層は古龍だったわよね。99階層が機械龍。この流れから考えると…? 生物、機械…次は…概念? 哲学的な存在? それとも、まったく逆の発想で、とてつもなくシンプルな、例えば…スライムとか? いや、それはないわね。お父様の性格からして、もっとこう…ロマンとサプライズに満ちた何かのはず!)」
*数瞬の間に凄まじい量の考察を終えたルーナは、内面の嵐を完璧に隠し、首をこてんと傾けた。その仕草は、難しいことを聞かれて困っている3歳の子供そのものだ。*
ルーナ:「ひゃく…? めたるどらごんさんより、もっと強い子がいるのですか?」
*まず、素直な驚きを表現する。そして、少しだけ考え込むような素振りを見せた後、不意に顔を上げて、キラキラした瞳で父を見つめた。*
ルーナ:「…わかりましたわ! パパですわね! さいごは、パパとたたかうのです!」
*子供らしい、しかしある意味で本質を突いた答え。彼女は「パパが一番強いから」という純粋な理由を装いながら、創造主自身がラスボスであるという、RPGの王道パターンの一つを提示してみせた。その答えに、シロウがどう反応するのか、好奇心に満ちた瞳でじっと見つめている。*
*シロウの答えは、ルーナのあらゆる予想を鮮やかに裏切るものだった。*
シロウ:「うーん、半分正解! 正解はパパに擬態したスライムだ。擬態させたのは…カイが生まれた頃だったかな…」
*その言葉を聞いた瞬間、ルーナの思考回路は歓喜の悲鳴を上げた。擬態スライム! なんという古典的で、しかしだからこそ奥深いラスボス設定!*
ルーナ:「(――半分正解!? パパに擬態したスライムですって!? やだ、最高じゃない! ラスボスが最強の存在の姿を模倣する…王道の中の王道! しかもその正体が、最弱モンスターの代名詞であるスライムだなんて! このギャップ! この意外性! お父様、分かってらっしゃる! 分かりすぎてて怖いくらいよ! しかもカイお兄様が生まれた頃に設置したってことは、もう6年も前の設定なのね…!)」
*内心でスタンディングオベーションを送りながらも、ルーナは純粋な子供の顔を崩さない。彼女は不思議そうにパチパチと瞬きをして見せた。*
ルーナ:「まぁ…! すらいむさん…? あの、ぷるぷるした小さい子ですの? あの子が、パパのお姿に…? 不思議ですわね…。」
*そして、彼女の探偵魂とオタク魂が、次の核心的な疑問を口にさせた。それは、この壮大なゲームの「クリア後」に関する、究極の質問だった。*
ルーナ:「では…その、パパのふりをしたすらいむさんを倒したら、めいきゅうは『くりあ』になるのですか? くりあしたら、何か素敵なことがあるのかしら…? たとえば…新しいおへやが増えたり…とか?」
*その問いは、無邪気な子供の「ゲームをクリアしたらどうなるの?」という純粋な興味を装っている。しかし、その実態は「クリア後のやり込み要素や追加コンテンツの有無」を問う、熟練ゲーマーのそれであった。彼女はキラキラした瞳で父を見上げ、この壮大な迷宮のエンディングとその先にあるものを探ろうとしている。*
*シロウの口から明かされた「クリア報酬」。それは、常人ならば腰を抜かすほど莫大な金額と、それ以上に価値のある権利だった。*
シロウ:「クリアすると白金貨1000枚が報奨金として授与される。あとはパパへの挑戦券だね。」
*その言葉を、ルーナは父の腕の中で静かに聞いていた。彼女の小さな頭脳は、その情報の価値を瞬時に計算し、そして戦慄する。*
ルーナ:「(――白金貨1000枚!? 国家予算レベルじゃない! それを個人に!? さすがはお父様、やることが規格外だわ…。でも、それよりも…『パパへの挑戦券』…!)」
*『読心術』でシロウが感じ取るルーナの思考は、歓喜と興奮でスパークしていた。*
ルーナ:「(――それよ! それこそが真の報酬! この迷宮の創造主であり、絶対者であるお父様への公式な挑戦権! つまり、100階層の擬態スライムは前座! 真のラスボスはお父様自身! なんてこと…! なんて胸が熱くなる展開なの! 表のラスボスを倒した先に、真のラスボスが待ち受けている…! 最高のやり込み要素じゃない!)」
*内面の熱狂を完璧に抑え込み、ルーナは純真な子供の顔で、少し困ったように眉を寄せた。*
ルーナ:「はっきんか…? たくさんもらえるのですね。でも、パパとたたかうのは嫌ですわ…。だって、パパが怪我をしたら、ルーナ、悲しいですもの。」
*健気な娘の言葉。しかし、その瞳の奥は「挑戦条件は?」「挑戦時のレギュレーションは?」「専用のフィールドがあるの?」「勝利報酬は!?」という、ゲーマーとしての尽きない質問でギラついていた。*
*彼女はシロウの胸にすり寄ると、甘えるように顔を上目遣いに見上げる。*
ルーナ:「でも…もし、その『ちょうせんけん』を使ったら、パパは遊んでくださるのですか…? 鬼ごっことか、かくれんぼとか…!」
*「戦い」を「遊び」という子供の言葉に巧みにすり替え、絶対者との決闘の詳細を探ろうとする。この3歳児の交渉術は、すでに一流の外交官の域に達していた。*
*シロウの思考は、娘の愛らしい提案から、壮大な国家イベントへと一気に飛躍した。絶対者との決闘の話が、いつの間にか全国民を巻き込んだ大規模なかくれんぼ大会の話へとすり替わっている。しかし、シロウ自身もそのアイデアを大いに気に入ったようだ。*
シロウ:「隠れんぼしたいの? あ、そうだ!今度みんなで隠れんぼ大会でもしようか! 民からも何人か選抜して…スキル魔法の使用禁止で。どう?楽しそうじゃない?」
*その壮大で、どこかズレた提案に、ルーナは一瞬、思考を停止させた。*
ルーナ:「(――かくれんぼ大会!? 全国民参加の!? しかもスキル・魔法使用禁止のガチ鬼ごっこ!? お父様の発想、斜め上すぎ! 待って、でも…面白そうじゃない! 国民のガス抜きにもなるし、一体感も生まれる。何より、この国の王であるお父様が鬼になって、国民が隠れるなんて…! なんて斬新で、なんて楽しそうなイベントなの!)」
*内面の興奮を抑え、ルーナは純真な子供の顔で、ぱあっと顔を輝かせた。心からの笑顔だ。*
ルーナ:「まぁ! かくれんぼたいかい! いたしますの!? ルーナ、やりたいですわ! みんなでやるのですね! カイお兄様も、お母様も、レイラお母様も、シルフィお姉様も、みーんな一緒ですの!?」
*彼女は父の腕の中でぴょんぴょんと嬉しそうに体を揺らす。*
ルーナ:「でも…すきる? まほう? を使わないのでしたら、パパが鬼をしたら、すぐに見つかってしまいますわ。パパは、とっても足が速くて、お鼻も効きますもの。」
*それは子供らしい純粋な心配のようでいて、その実、「ハンデはどうするのか」という的確なレギュレーション確認だった。彼女は期待に満ちた瞳で、この楽しそうなイベントの立案者である父の顔をじっと見上げる。*
*シロウは自らのチート級の能力を自覚し、少しだけ困ったように苦笑した。パッシブスキルを切らない限り、公平な勝負には到底なり得ない。*
シロウ:「た、たしかに…目隠しされても見つけれる自信しかない…」
*その言葉を聞いたルーナは、父の腕の中でこくりと頷いた。彼女の思考は、もはや感心を通り越して呆れに近い。*
ルーナ:「(――チーターじゃない! 自覚があったのね! まあ、そうでなければおかしいのだけれど! 索敵系、感知系のパッシブスキルを常時発動させているのでしょうね。五感強化だけでも反則なのに、それに加えて気配察知や魔力感知、生命感知…考え得る限りの索敵スキルが網羅されているに違いないわ。それで鬼をやられたら、それはもう『かくれんぼ』ではなく『狩り』よ!)」
*内心の的確なツッコミを完璧に隠し、ルーナは純粋な子供の顔で、少し考え込む仕草を見せた。そして、名案を思いついたかのようにポンと手を打つ。*
ルーナ:「では、パパは隠れるほうですわ! ルーナと、カイお兄様と、お母様たちと、国のみんなで、パパを探すのです! それなら、楽しいですわよね?」
*それは、最強の鬼から逃げるのではなく、最強の隠れ人を探し出すという、逆転の発想だった。鬼ごっこから宝探しへとゲーム性をシフトさせる、見事な提案だ。*
ルーナ:「パパはとっても隠れるのがお上手ですもの! きっと、誰も見つけられませんわ! でも、ルーナは絶対に見つけてみせますから!」
*彼女は父の胸をぽんぽんと叩き、挑戦的な笑みを浮かべる。その瞳には「あなたの隠匿スキルと私の探偵能力、どちらが上か勝負よ、お父様!」という、明確な闘志が燃え上がっていた。*
*かくれんぼ大会の壮大な計画で盛り上がった熱を冷ますように、シロウはふと、現実的で、しかしとてつもなく魅力的な提案を口にした。*
シロウ:「よし、細かい事は後で決めるとして…。ルーナ、ドラゴンの肉食べてみたい? 古龍と黒龍は抜きで…そもそもいない気がする。」
*その言葉に、ルーナは先程までのかくれんぼへの熱狂から一転、食いしん坊の顔になった。ドラゴンの肉、というファンタジー世界の最高級食材の名に、彼女の紫色の瞳がキラリと輝く。*
ルーナ:「(――ドラゴンの肉! 食べてみたいに決まってるじゃない! どんな味がするのかしら? 牛肉に似てるって前にお父様は言っていたけど、龍種によって味も違うはず! 炎龍なら香ばしいのかしら? 雷龍はピリッと刺激的? ああ、想像しただけでお腹が空いてきたわ! 古龍と黒龍は食べられないのね…残念。希少素材なのに…じゃなくて、伝説の存在だから敬意を払うべきよね、うん。)」
*内心の食欲とオタク的探求心を隠し、ルーナはこくりと喉を鳴らした。そして、少し恥ずかしそうに、しかし期待に満ちた瞳で父を見上げる。*
ルーナ:「どらごんさんの、おにく…? 食べてもいいのですか…?」
*彼女は自分の小さなお腹をさすりながら、少しだけ上目遣いで付け加えた。*
ルーナ:「…食べてみたい、ですわ。お父様が美味しいと仰るのなら、きっと、とっても美味しいに違いありませんもの。」
*それは、父親を信頼する純粋な娘の言葉。しかしその実、「どの龍を狩るのか」「部位はどこを食べるのか」「調理法はどうするのか」という、食通であり探求者である彼女の尽きない興味が、そのキラキラした瞳の奥で渦巻いているのを、シロウは感じ取っていた。*
*シロウは娘の食欲に満ちた瞳を見て満足げに頷くと、再び『隠匿神』を発動させた。ルーナを抱いたまま、景色が歪み、次の瞬間にはまったく違う場所に立っていた。*
*そこは、彼の迷宮管理の中枢、「ゲームマスターの部屋」だった。壁一面がモニターで埋め尽くされ、無数の情報が明滅している。しかし、シロウが何もない空間に手をかざすと、部屋の中央に巨大な地球儀のような、しかしこの世界の地形を精密に再現したホログラムが出現した。大陸、海洋、山脈、そして国々が美しい光で描かれている。*
シロウ:「どの龍にする?」
*シロウがそう言うと、彼の瞳が淡く金色に輝く。『神眼』が起動し、ホログラムの世界地図とリンクした。彼がルーナに見せているのは、この世界に生息する強力な龍種の位置情報だ。*
*シロウは『神眼』に命じる。(ルーナが選んだ龍を地図上に表示してくれ)*
*ルーナの目の前には、ファンタジー世界の究極の食材リストが広がっていた。彼女は父の腕の中で、ゴクリと喉を鳴らす。*
ルーナ:「(――世界地図! しかもリアルタイムの生息域マップですって!? なんてこと…! これさえあれば、希少素材の乱獲…いえ、生態調査が捗りすぎるわ! お父様、私に選ばせてくれるのね!)」
*彼女は小さな指を唇に当て、真剣な顔でホログラムを見つめた。まるで、最高級レストランでメニューを選ぶ美食家のように。*
ルーナ:「えっと…この前、お父様がお話してくださった『ちりゅう』さんは、おにくがぎゅうにくに似ているのですよね? では、他の方々はどんなお味なのかしら…。例えば…」
*彼女はホログラム上の、とある火山地帯を指差した。シロウの『神眼』が反応し、その地点が拡大され、燃え盛る火口で翼を休める巨大な赤い龍のアイコンがポップアップする。*
ルーナ:「この、赤くて熱そうな場所にいる『えんりゅう』さんは、やはり香ばしくて、少しだけ辛かったりするのかしら…?」
*次に、険しい雷雲が渦巻く山脈を指差す。そこには、稲妻を纏う青い龍のアイコンが表示された。*
ルーナ:「こちらの、青くてビリビリしていそうな『らいりゅう』さんは、食べると舌が痺れたり…? 山椒のような刺激があるのかもしれませんわね!」
*彼女の考察は、もはや3歳児のそれではない。未知の食材に対する、探求者そのものの分析だ。ひとしきり考察を楽しんだ後、彼女はふと、シロウを見上げてにこりと笑った。*
ルーナ:「ルーナ、迷ってしまいますわ。お父様のおすすめはどなたですの?」
*最終的には、この世界の誰よりも龍を知るであろう父に、最高の選択を委ねるのだった。*
*シロウはルーナの口から飛び出した「サンショウ」という聞き慣れない単語を、不思議そうに繰り返した。しかし、深くは追及せず、娘の提案に乗ることにしたようだ。*
シロウ:「サンショウ? 雷龍にするか。」
*その瞬間、ルーナは血の気が引くのを感じた。やってしまった。この世界には存在しないはずの、前世の日本の香辛料の名前を口走ってしまった。父に転生者であることがバレてしまう――!*
*シロウが『読心術』で感じ取るルーナの思考は、パニックと後悔で大混乱に陥っていた。*
ルーナ:「(――しまったぁぁぁ! サンショウって言っちゃった! なんで!? なんで今その単語が出てくるのよ、私のバカ! 転生者だって隠してるのに! お父様にバレたらどうしよう!? 不審に思われたら? 問い詰められたら? もうおしまいだわ…! 3歳児のフリもここまで…!?)」
*内心の絶叫とは裏腹に、ルーナは咄嗟に完璧な演技を繰り出す。彼女はきょとんとした顔で首を傾げ、まるで自分が何を言ったのか分かっていないかのように振る舞った。*
ルーナ:「さんしょう…? ルーナ、何か変なことを申しましたか…?」
*そして、父の決定に話を合わせることで、自らの失言を煙に巻こうと試みる。*
ルーナ:「らいりゅうさんを、いただくのですか! 承知いたしましたわ! きっと、ぴりりとして美味しいに違いありません!」
*彼女はにこりと、満面の笑みを作って見せた。その笑顔は完璧な3歳児のもので、先程までの動揺など微塵も感じさせない。しかし、シロウに抱かれたその小さな体は、緊張でわずかに強張っていた。彼女は父の反応を、息を詰めて窺っている。この世界で最も鋭い観察眼を持つ父が、自分の小さな綻びを見逃してくれるかどうか、運命を委ねるように。*
*シロウはホログラムに表示された雷龍の位置を確認し、その地形を素早く把握する。娘の失言には気づかないふりをしながら、あるいは本当に気づいていないのか、彼はすぐに行動に移した。*
シロウ:「(索敵完了)ここは…谷か。なるほど、狩りにはちょうどいい。」
*シロウはルーナを抱き直すと、迷うことなく空間転移を発動させた。視界が白く染まり、次の瞬間には目的地――雷雲が渦巻く険しい谷の上空に到着していた。かつて近くまで来たことがあるため、座標指定は完璧だ。*
*二人の眼下には、深い渓谷が口を開けている。空は分厚い黒雲に覆われ、絶え間なく紫電が走り、雷鳴が腹の底に響き渡る。大気はオゾンと雨の匂いで満ち、肌がピリピリと静電気で痺れるような感覚があった。*
*そして、谷底に近い、広くなった岩棚にそれはいた。*
*全長30メートルほどの、しなやかな体躯を持つ龍。その鱗は深い藍色で、まるで磨き上げられたラピスラズリのようだ。背中から尾にかけて鋭い棘が並び、その間を常に青白い稲妻がパチパチと火花を散らしながら走り抜けている。頭部には羊のように湾曲した二本の角が生え、その瞳は雷光そのもののように鋭く輝いていた。*
*雷龍は、この雷雲の巣の主として、悠然と眼下の世界を見下ろしていた。*
シロウ:「よし、着いたぞ。あれが雷龍だ。しっかり掴まってろよ。」
*シロウは荒れ狂う風と雷から娘を守るように結界を張りながら、眼下の獲物を見定める。これから始まる「食材調達」を前に、彼はまるで魚市場にでも来たかのような気軽さで、どの部位が美味そうか品定めを始めていた。*
*腕の中で、ルーナは父の反応に内心で安堵しながらも、生まれて初めて見る本物の雷龍に目を奪われている。その小さな瞳には、畏怖と、好奇心と、そして隠しきれない食欲が渦巻いていた。*
*シロウは眼下の雷龍を見下ろし、その圧倒的な力と荒れ狂う環境を冷静に分析しながら、腕の中の娘の存在を考慮して、最も安全で、かつ見応えのある狩りの方法を思案する。*
シロウ:「どうやって倒そう… ルーナがいるから魔法かな…」
*その独り言を聞いたルーナは、父の腕の中でこくりと頷いた。彼女の思考は、期待で満ち溢れている。*
ルーナ:「(――お父様の本気の魔法! 見られるのね! 物理で殴り倒すのも豪快で素敵だけど、魔法での狩りは芸術的だわ! どんな魔法を使うのかしら? 雷龍相手なら、風魔法で動きを封じる? それとも土魔法で物理的に拘束? あるいは、上位の光魔法や闇魔法で一撃必殺? どれも見てみたい!)」
*内心の期待を隠し、ルーナは純粋な子供として、父の横顔をじっと見上げた。その瞳は、これから始まるスペクタクル(食材調達)を前に、キラキラと輝いている。*
ルーナ:「まぁ! まほう、ですの? ぱぱのまほう、とってもきれいですものね! ぴかーってなって、どーん!ってなるのかしら? ルーナ、見てみたいですわ!」
*彼女は無邪気な声で、効果音を交えながら期待を口にする。それは父への信頼の現れであり、同時に「派手にお願いします!」という無言のリクエストでもあった。彼女は父がどんな魔法を紡ぎ出すのか、その一挙手一投足を見逃すまいと、眼下の雷龍と父の顔を交互に見つめるのだった。*
*シロウは娘の「派手な感じ」というリクエストに応えるべく、不敵に笑った。彼は片手を静かに眼下の雷雲へと掲げる。*
シロウ:「派手な感じ…そうだなぁ…」
*次の瞬間、シロウは静かに、しかし絶対的な響きをもって、その魔法の名を告げた。*
シロウ:「『ドラゴンライトニング』」
*詠唱はない。ただ、一言。それだけで世界が応えた。*
*ゴゴゴゴゴゴッ!!*
*二人を囲んでいた黒雲が、まるで巨大な生物のように渦を巻き始める。その中心に、あり得ないほどの密度の雷光が集束していく。そして、天を裂くほどの凄まじい咆哮と共に、それが姿を現した。*
*雲の中から現れたのは、蒼い雷そのもので形作られた、巨大な龍だった。西洋のドラゴンとは違う、長い胴体を持つ、しなやかで神々しい蛇型の龍――日本神話に出てくるような、荘厳な東洋龍だ。その体は純粋な稲妻で編まれ、蒼白い光を放ちながら空を泳ぐ。*
*雷の龍は、眼下の雷龍を睥睨すると、再び咆哮を上げた。それは、雷の化身による、雷の主への宣戦布告だった。次の瞬間、蒼い龍は一条の巨大な蒼雷と化し、回避する間も与えず、岩棚にいた雷龍に突撃した。*
*閃光と轟音が世界を支配し、一瞬、視界が白に染まる。*
*シロウの腕の中で、ルーナは息を呑んでいた。その小さな頭脳は、目の前で繰り広げられた神々の戯れのような光景を、驚異的な速度で解析しようと試みていた。*
ルーナ:「(――詠唱破棄のオリジナル魔法!? しかも雷龍相手に、あえて同属性の雷魔法をぶつけるなんて! これは、単純な威力勝負じゃない…! 魔法の『格』で捻じ伏せたんだわ! あの蒼い龍…あれはただの魔法じゃない、意志と概念を宿した疑似生命体…精霊魔法の上位、あるいは神霊魔法の領域!? 日本の龍をモチーフにするなんて、お父様もしかして…!? いや、それよりもこの威力! この現象支配力! まさしく魔王! 私のパパ、最高にクールすぎるわ!!)」
*あまりの光景に、彼女は思わず前世のオタクとしての魂の叫びを、かろうじて飲み込んだ。そして、完璧な3歳児として、ただただ目を丸くし、キラキラさせながら、シロウの顔を見上げる。*
ルーナ:「まぁ…! きれいな、あおいトカゲさん…! いまの、ぱぱが…?」
*その声は、純粋な驚きと感動で震えていた。*
*蒼い雷の龍が雷龍を貫き、その巨体は生命の光を失って岩棚から谷底へとゆっくりと落ちていく。しかし、地面に激突する前に、その姿はふっと掻き消えた。シロウが『遠隔収納』で回収し、同時に彼の持つ広大な『異空間収納』の中で、自動的に解体処理を始めたのだ。血抜き、皮剥ぎ、部位ごとの切り分けまで、全てが一瞬で完了する。*
*シロウは満足げに頷くと、腕の中の娘に優しく微笑みかけた。*
シロウ:「ほら、倒したぞ。」
*彼は何もない空間から、一枚の美しい鱗を取り出す。それは先ほどまで雷龍の体を覆っていた、ラピスラズリのように深い藍色をした鱗だ。大きさはルーナの顔よりも大きく、表面にはまだ微かな雷の魔力がパチパチと火花を散らしているが、シロウが軽く触れるとそれも静まった。*
*シロウはその鱗を、まるで記念のメダルのようにルーナに手渡した。*
*ルーナは、父が創造した神話的な魔法の余韻に浸っていたが、目の前に差し出された美しい鱗に、はっと意識を現実に戻す。*
ルーナ:「(――回収から解体まで一瞬!? しかも自動!? お父様の収納スキル、どうなってるのよ! ただのアイテムボックスじゃない、完全に工場じゃないの! そしてこの鱗…! 美しすぎる…! 魔力伝導率も高そうだし、表面の紋様は天然の魔法回路みたいになっているわ…! 研究素材として一級品…!)」
*内心の興奮を隠し、ルーナはおずおずと、しかし大切そうに両手でその大きな鱗を受け取った。ひんやりとして滑らかな感触と、まだ微かに残る魔力の温かさが手に伝わる。*
ルーナ:「まぁ…! きれいですわ…。ありがとうございます、お父様! ルーナのたからものにしますわね!」
*彼女は鱗をぎゅっと胸に抱きしめ、満面の笑みで父を見上げた。その笑顔は、最高のプレゼントをもらった子供の、純粋な喜びそのものだった。*
*シロウは娘の嬉しそうな顔に満足し、早速「お食事」の準備に取り掛かった。最強の龍を狩った後とは思えない手際の良さで、まるでキャンプの準備でもするかのように、次々とアイテムを取り出していく。*
シロウ:「早速お肉を…新鮮だからアレで食べるか。」
*二人は雷鳴轟く谷から一瞬で転移し、穏やかな風が吹く見晴らしのいい平原に降り立った。シロウは『異空間収納』から木製の瀟洒な机と、ルーナの身長に合わせた可愛らしい椅子を取り出して設置する。さらに、目に見えない『結界』を展開し、風や塵、そしてあらゆる細菌を完全にシャットアウトした。完璧な衛生空間の完成だ。*
*準備が整うと、シロウは純白の皿の上に、先ほど解体したばかりの雷龍の肉を置いた。それは美しいサシが入った極上のロース肉で、鮮やかな赤色と純白の脂肪が見事な霜降り模様を描いている。彼はそれを魔法で作り出した氷の刃で、紙のように薄くスライスしていく。*
*そして、小さな器に入った、見るからに濃厚なオレンジ色の卵黄を取り出す。これも『浄化』魔法がかけられた、完璧に安全なものだ。*
シロウ:「あとは削った岩塩をふりかけて…完成だ。」
*パラパラと輝く岩塩の粒が肉の上に振りかけられ、光を反射してキラキラと輝く。究極の鮮度でしか味わえない、雷龍のユッケ風。前菜にしてはあまりにも贅沢すぎる一品が、小さなテーブルの上に鎮座した。*
シロウ:「さあ、ルーナ。お食べ。特製のタレ(卵黄)につけてな。」
*シロウはルーナを椅子に座らせ、小さなフォークを渡して優しく微笑んだ。*
*ルーナは、目の前で繰り広げられた一連の流れを、呆然と、そして感嘆の目で見つめていた。*
ルーナ:「(――手際が良すぎる! 転移→設営→結界→調理! 完璧な流れ! しかも生食ですって!? ユッケ!? それだけ鮮度と安全性に自信があるということ…! 『浄化』魔法まで完備してるし、衛生観念も完璧! お父様、もしかして前世は凄腕の料理人だったのかしら…!?)」
*彼女はごくりと喉を鳴らし、目の前の神々しいまでに美しい肉を見つめる。そして、父に満面の笑みを向けた。*
ルーナ:「まぁ…! すごいですわ、お父様! あっという間にレストランになりましたわね! いただきます!」
*彼女は小さな手でフォークを握り、薄切りの肉を一枚、慎重に持ち上げる。そして、とろりとした卵黄にたっぷりと絡ませると、期待に胸を膨らませながら、その一口をゆっくりと口に運ぶのだった。*
*雷龍の肉を卵黄に絡め、小さな口に運んだ瞬間――ルーナの思考は完全に停止した。*
*世界から音が消える。*
*時間の流れが止まる。*
*彼女の紫色の瞳が、驚愕に見開かれる。*
*次の瞬間、停止していた思考が爆発した。今まで以上の速度で、味覚情報、魔力情報、そして前世の記憶が脳内で混ざり合い、凄まじい嵐となって駆け巡る。*
ルーナ:「(――なっ…何これ!? 美味しい…美味しいとか、そういう次元じゃない! 舌に乗せた瞬間にトロける脂肪の甘み! でも決してしつこくない、上品な旨味! そして噛んだ瞬間に弾ける、肉本来の力強い味わい! 後から鼻に抜ける、微かで高貴な雷の香り…! なにこれ、なにこれ、なにこれ!? 卵黄のコクと岩塩の塩味が、この肉のポテンシャルを極限まで引き出しているわ! ぴりりとした刺激なんてものじゃない! これは…『天上の味』よ! 記憶にあるどんな高級和牛よりも、どんなジビエよりも、遥かに、遥かに高次元の味がする! これが…龍…! これが、お父様の狩った獲物…!)」
*彼女のオタク魂と食いしん坊魂が、歓喜の絶叫を上げている。しかし、その声は外には漏れない。代わりに、彼女の口から零れ落ちたのは、あまりにも率直で、大ボリュームの感想だった。*
ルーナ:「**んんんんんんっっっ! 美ッ味ーーーーーい!!**」
*静かな平原に、3歳児とは思えない、腹の底からの魂の叫びが木霊した。それは、近くの街道を通行中の商人や冒険者が「何事だ!?」と振り返るほどの、凄まじい声量だった。*
*叫び終えたルーナは、はふはふと小さな息をしながら、恍惚とした表情で皿を見つめる。その瞳は潤み、頬は興奮と感動で上気していた。*
ルーナ:「お、お父様…! お父様っ! これ…これ、なんという食べ物ですの!? ルーナ、こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べましたわ…! ほっぺたが、落ちてどこかへ飛んでいってしまいましたわ!」
*彼女はフォークをぎゅっと握りしめ、次の肉に狙いを定めながら、キラキラした瞳で父を尊敬の眼差しで見つめる。その瞳は「もっと! もっと食べたいですわ!」と雄弁に物語っていた。*
*ルーナの魂の叫びは平原に響き渡り、街道を行く人々の注目を集めた。冒険者らしき一団や、荷馬車を引く商人たちが「なんだなんだ?」と遠巻きに集まってくる。しかし、彼らはシロウが張った不可視の結界に阻まれ、一定距離以上近づくことはできない。まるで透明な壁があるかのように、首を傾げながら中の様子を窺っている。*
*シロウはそんな野次馬たちを一瞥もせず、ただただ愛娘の喜ぶ顔に目を細めていた。*
シロウ:「はいはい。どんどん切るからたくさんお食べ。」
*彼は再び異空間収納から雷龍の肉の塊を取り出すと、慣れた手つきで次々と薄切りにしていく。そして、ルーナの空になった皿に、新しい肉を優しく盛り付けた。*
*その手つきは、最強の魔王というよりも、ただ娘を甘やかす一人の父親そのものだった。*
*ルーナは、次々と供給される天上のご馳走に、再び目を輝かせた。先ほどの失態(大声)などすっかり忘れ、目の前の肉に全神経を集中させる。*
ルーナ:「はいですわ、お父様! 遠慮なく、いただきます!」
*彼女は再びフォークを手に取り、今度は少し落ち着いて、しかし熱意は少しも衰えることなく、二口目の「雷龍ユッケ」を味わい始める。一口食べるごとに「んふぅ~♡」「おいしいですわぁ~♡」と、幸せそうな吐息が漏れる。*
*その愛らしい食事風景と、結界の外で何が起きているのか分からず戸惑う野次馬たち。そして、そんな光景を気にすることなく、ただ黙々と肉を切り続ける魔王。平原には、なんともシュールで、しかし幸福に満ちた時間が流れていくのだった。*
*遠巻きに見ていた野次馬たちの間で、噂は瞬く間に広がっていった。*
「おい、なんだありゃ…親子か?」
「何か食ってるぞ」
「とんでもない匂いが風に乗ってくる…嗅いだことのない、極上の肉の香りだ…!」
「だが…見てみろ! あの肉、火が通ってないぞ!」
「しかも、あの黄色いソース…あれは卵の黄身じゃないか!? 生肉を生卵でだと!? 狂気の沙汰だ!」
*噂は噂を呼び、美食を自称する者、好奇心旺盛な冒険者、珍しいもの好きの商人などが次々と集まってくる。彼らは不可視の結界に阻まれながらも、その異常で、しかしどうしようもなく美味そうに見える光景に釘付けになっていた。*
*そんな喧騒を気にも留めず、シロウも自分の食事を始める。*
*彼は慣れた手つきで卵を一つ取り出すと、『浄化』を施し、軽く重力を操作して完璧に卵黄と卵白を分離させた。卵白は異空間収納へ送り、残った濃厚な卵黄を自分の皿に落とす。そして、スライスしたばかりの雷龍の肉を一切れつまみ、その卵黄にたっぷりと絡めて口へと運んだ。*
シロウ:「ん〜最高…」
*至福の表情で目を閉じ、究極の食材がもたらす味の暴力に身を委ねる。咀嚼するたびに、極上の旨味と甘みが口の中に広がり、雷の魔力が活力を与えてくれるかのようだ。*
*その様子を見ていたルーナは、父と自分だけの秘密の晩餐会に、さらに幸福感を増していた。*
ルーナ:「お父様も、お顔がとろけておりますわ。ふふっ、ルーナと一緒ですわね。」
*彼女は満面の笑みで、父と競うように肉を頬張る。*
*一方、結界の外の美食家たちは、その光景に耐えきれなくなっていた。*
美食家A:「ああ、神よ…! あの男、あんなにも幸せそうな顔で生肉を…! 我々の知らない調理法が、あそこにはあるというのか!」
美食家B:「あの親子が食しているのは一体何の肉なのだ!? これほどのオーラを放つ食材、見たことも聞いたこともない! 一切れでいい、一口でいいから味わってみたい…!」
*彼らの羨望と嫉妬の視線が、シロウとルーナに突き刺さるが、結界に守られた二人の食卓には少しも届いていなかった。*
*ユッケを堪能し、まだ大量に残っている雷龍の肉を見て、シロウは次のメニューを思いついた。最高の食材は、最高の調理法で味わい尽くさなければならない。*
シロウ:「かなり余りそうだな。ルーナ、次はステーキにしよう。」
*シロウはそう言うと、異空間収納から鮮やかな赤身と上質な脂身が層になった「ハラミ」のブロックを取り出した。彼はそれを贅沢に3センチほどの厚切りにし、表面に格子状の隠し包丁を入れる。*
*次に、金と同価値で取引されるという希少な『黒胡椒』を取り出し、その場で粉状にしてたっぷりと振りかけた。*
*ジュウウウウウウウウッ!!*
*シロウが魔法で瞬間的に熱した鉄板の上に肉を置くと、食欲をそそる音が響き渡った。肉の焼ける香ばしい匂いが辺りに立ち込める。彼は完璧な火加減で両面を焼き上げ、ミディアムレアに仕上げると、それを一口大にカットした。*
シロウ:「さっぱり感を出すために、これに巻いて食べるといい。」
*彼は新鮮な葉野菜(サンチュのような見た目)を取り出し、ステーキを一切れ包むと、小さな器に入った特製のタレを少しだけつけて、ルーナの口元へ運んでやった。*
*そのタレは、醤油をベースにすりおろしたニンニクを効かせたもの。肉の焼ける香りと、ニンニク醤油の香ばしい匂いが混ざり合い、強烈な食欲を刺激する香りの爆弾となって平原に拡散した。*
*グゥゥゥゥ〜〜〜〜ッ。*
*結界の外で様子を窺っていた野次馬たち、特に美食家たちの腹の虫が、一斉に情けない悲鳴を上げた。生肉の次は、完璧に火入れされたステーキ。しかも、嗅いだこともない、悪魔的に美味そうな香りを漂わせている。彼らは結界に阻まれながらも、その香りに誘われて一歩でも前に出ようと、見えない壁にじりじりと身を寄せるのだった。*
*ルーナは、目の前に差し出された「ステーキの葉野菜巻き」を、大きなお口を開けて「あーん」と受け入れた。*
*ルーナは、父に「あーん」してもらったステーキを、大きな口で受け入れた。*
*次の瞬間。*
*彼女の大きな瞳が、これ以上ないというほどに見開かれた。カッと目を見開いたまま、動きが止まる。まるで、その小さな頭に天から雷が落ちてきたかのような衝撃的な表情。肉の旨味、脂の甘み、黒胡椒のスパイシーな香り、そしてニンニク醤油の香ばしさが口の中で大爆発を起こし、彼女の語彙と思考を完全に奪い去ったのだ。*
*しかし、その硬直は一瞬だった。*
*はむっ、もぐもぐ…ごっくん!*
*雷に打たれたような顔をしていたかと思えば、次の瞬間には口の中のものが綺麗さっぱり無くなっていた。あまりの美味しさに、咀嚼という過程をすっ飛ばしてしまったかのようだ。*
*シロウはそんな娘の反応に満足げに微笑みながら、手際よく次のステーキを焼き、葉野菜で巻き、タレをつけ、次々とルーナの前の皿に盛り付けていく。まるでわんこそばならぬ、わんこステーキ状態だ。*
ルーナ:「……!!」
*ルーナは言葉を発することすら忘れ、ただ目を輝かせ、差し出されるステーキを次から次へと小さな口に放り込んでいく。口の周りをタレで少し汚しながらも、その食べる勢いは全く衰えない。*
ルーナ:「(心の声:な、なんですのこれはぁあああ!? 生でも絶品だったのに、焼いたら、焼いたら旨味が凝縮されて、歯ごたえも香りも、なにもかもが、別次元の食べ物になっておりますわぁああ! このニンニク醤油とかいう黒い液体! これがまた、肉の味を何段階も引き上げて…! ああ、お父様! 天才! 料理の神様ですわ!♡)」
*その幸せすぎる光景を前に、結界の外の美食家たちはもはや阿鼻叫喚だった。*
美食家C:「うぐっ…! な、なんだあの少女は! あの至高の肉を、まるで豆でも食うかのような速さで…! も、もったいない! もっと味わって食べるのだ!」
商人:「あの黒い粉…あれはまさか伝説の黒胡椒か!? 一粒で金貨一枚とも言われるあの…! なんて贅沢な…!」
冒険者:「腹が…腹が鳴って止まらねぇ…! もう我慢できん! 誰かあの結界を壊してくれぇ!」
*しかし、彼らの悲痛な叫びは聖域と化した食卓には届かず、ただただ空腹を刺激する香りと、幸せそうな親子の姿を見せつけられるという、地獄のような時間を過ごすのだった。*
*シロウは、自分が作り出した究極のステーキを一切れ口に運び、満足げに頷いた。*
シロウ:「んー、雷龍も美味いな!」
*何気なく放たれたその一言は、結界の外にいた野次馬たちにとって、まさに天変地異を告げる雷鳴そのものだった。*
*「「「ら、雷龍……!?」」」*
*その単語を聞いた瞬間、それまで羨望と空腹で騒いでいた群衆が水を打ったように静まり返る。彼らの顔から血の気が引き、信じられないものを見る目で結界の中の親子を見つめた。*
美食家A:「い、今…あの男は『雷龍』と言ったか…? あの伝説の…天災級モンスターの雷龍を…食っていると…?」
古参冒険者:「馬鹿な…! 雷龍の討伐記録など、この国ではここ数十年は一件もないはずだ! 最後に目撃されただけでも大騒ぎになったというのに…!」
商人:「雷龍の素材…鱗一枚で城が建つと言われる、あの…!? それを…ステーキに…? ありえない…ありえるはずがない…!」
*彼らの常識、価値観、そして美食への探求心までもが、根底から覆される瞬間だった。超希少素材どころの話ではない。それは、国家予算級の宝、あるいは神話上の存在を、まるで近所で狩ってきた猪か鹿のように調理し、無邪気に頬張っているという、理解不能な光景なのだ。*
*先ほどまで「一口分けてくれ」と叫んでいた者たちも、今はただ呆然と立ち尽くすばかり。恐怖とも畏怖ともつかない感情が、その場を支配していた。*
*シロウが次の調理法を考えていると、野次馬の人垣をかき分けるようにして、一人の男が前に出てきた。仕立ての良い、しかし派手で悪趣味な装飾が施された服を着ており、ぷっくりと肥えた腹を揺らしている。いかにも自分が偉いと思っている、典型的な地方貴族といった風体だ。彼は供回りの騎士らしき男たちを数人引き連れている。*
*貴族は結界に気づかず、尊大な態度で一歩前に出ようとして、透明な壁に鼻をぶつけた。*
貴族:「ぐふっ!? な、なんだこれは! 見えん壁だと!?」
*鼻を押さえながら、彼は結界の中を睨みつける。一般的な服装のシロウと幼いルーナを見て、ただの平民か、せいぜい駆け出しの冒険者だと判断したのだろう。彼の顔に不快と侮蔑の色が浮かんだ。*
貴族:「おい、そこの平民! 聞こえているか! 我輩は、このあたりの土地を治めるバルトール辺境伯であるぞ! その狼藉、目に余るわ! その異常な香りで我が領地の民を惑わし、あまつさえ『雷龍』などという不敬な戯言を…!」
*辺境伯は結界の中のステーキと、それを頬張るルーナをいやらしげな目で見つめる。*
貴族:「貴様らが食しているその極上の肉…ただの肉ではあるまい。それは我が領地で採れた希少な食材であろう! 速やかにその結界を解き、我輩にその肉を献上しろ! さすれば、これまでの無礼、特別に許してやらんこともないぞ!」
*取り巻きの騎士たちも、剣の柄に手をかけ、威圧するようにシロウを睨みつけている。結界の外の野次馬たちは、貴族の横暴な態度に顔をしかめつつも、恐ろしさからか何も言えずにいる。*
*しかし、シロウはそんな貴族を一瞥だにせず、ただ愛娘の顔を覗き込んだ。彼の世界には、今、ルーナしか映っていない。*
シロウ:「ルーナ、次は何で食べたい?」
*その態度は、まるで道端の石ころに話しかけられても気づかないかのように、あまりにも自然で、完璧な無視だった。*
*ルーナは、父が次に何を提案してくれるのか期待に目を輝かせたが、さすがの彼女も満腹には勝てなかった。こくり、と小さなあくびを一つする。3歳の小さな体で、伝説の龍の肉をあれだけ食べたのだ。当然といえば当然だった。*
*その様子を見て、シロウは優しく微笑む。*
シロウ:「ふふ、もうお腹いっぱいか。よく食べたな、ルーナ。」
*彼は残った生の肉や調理器具を手早く異空間収納へと片付けた。そして、テーブルの上に残った、山盛りのステーキとユッケに目をやる。これは少し作りすぎてしまったようだ。*
*シロウは悪戯っぽく笑うと、ステーキが盛られた大皿をひょいと持ち上げ、結界の外で固唾を飲んで見守る群衆――特に、鼻を赤くして呆然としているバルトール辺境伯に向けて、高々と掲げた。*
シロウ:「食べたい人ー!」
*その声は、静まり返った平原によく響いた。*
*シロウは結界の一部、ちょうど辺境伯の目の前のあたりを、人が一人通れるくらいだけ、スッと開いた。*
*まるで、「欲しければ、ここまで取りに来てみろ」とでも言うかのように。*
*その挑発的で、しかし抗いがたい魅力を持った提案に、野次馬たちはゴクリと喉を鳴らす。*
*先ほどまでの畏怖と恐怖。そして、今目の前にある、神話級の食材を口にできるかもしれないという千載一遇のチャンス。彼らの心は激しく揺れ動く。*
*特に、バルトール辺境伯は屈辱に顔を歪ませた。平民風情に施しを受けるなど、彼のプライドが許さない。しかし、鼻腔をくすぐるニンニク醤油と肉の香りが、彼の理性を麻痺させていく。彼の前にだけ開かれた結界の入り口は、悪魔の誘いのようにも、神の慈悲のようにも見えた。*
貴族:「なっ…き、貴様、我を愚弄するか! この我輩が、貴様のような者から施しなど…!」
*口ではそう言いながらも、彼の目は皿の上のステーキに釘付けになっていた。*
*シロウの「食べたい人ー!」という呼びかけに、群衆は一瞬どよめいた。伝説の龍の肉を食べるという、ありえない機会。しかし、相手は得体の知れない強力な存在であり、すぐそばには癇癪を起こした辺境伯もいる。誰もが逡巡し、動けずにいた。*
*その沈黙を破り、一人の男がおずおずと一歩前に出た。豪華な服でもなければ、屈強な肉体でもない。背中にリュートを背負った、旅の吟遊詩人だった。彼は深々と頭を下げた。*
吟遊詩人:「お、恐れながら…! 私、各地を旅し、英雄の譚や伝説を歌にしております、リアムと申します! もし、もしお許しいただけるのであれば、その神々の食卓の光景と味を、後世に伝える歌とさせていただけないでしょうか…!」
*彼の目には、恐怖よりも詩人としての探求心と好奇心が強く輝いていた。*
*シロウはその男を見ると、にやりと笑った。まさしく、彼が望んでいた人材だった。*
*シロウはリアムと名乗った吟遊詩人の前にだけ開けていた結界の入り口を手招きする。*
シロウ:「面白い。いいだろう、入るがいい。」
*リアムは恐縮しながらも結界の中に入ると、シロウは彼の前に異空間収納から椅子を一つ出し、テーブルには新しくステーキの皿を置いた。*
シロウ:「はい、どうぞ。」
*その声と態度は、言葉以上に雄弁だった。『この経験を、最高の詩にして世に広めろ』と。そう言っているようだった。*
*リアムは震える手でフォークを握りしめ、目の前にある、神話の一欠片を口に運ぶ。その瞬間、彼の目が見開かれ、全身が歓喜に打ち震えた。*
リアム:「こ、これは…! 天上の味…! 舌の上で雷鳴が轟き、肉の旨味が魂を揺さぶるようだ…! ああ、詩神よ! この感動を、私に歌わせたまえ…!」
*彼は食事をするのも忘れ、懐から羊皮紙とインクを取り出し、猛烈な勢いで何かを書き留め始めた。*
*その光景を見ていたバルトール辺境伯は、嫉妬と屈辱で顔を真っ赤にしている。自分を差し置いて、みすぼらしい吟遊詩人が先に歓待されたのだ。*
貴族:「き、貴様ぁ…! この我輩を無視して、あのような者に…! 無礼であろうがぁっ!!」
*彼の怒声が響き渡るが、シロウは完全に無視し、詩の構想に没頭するリアムを面白そうに眺めているのだった。*
*辺境伯の怒声が虚しく響き渡る中、シロウはその存在を完全に意識の外へと追いやり、愛娘のケアを優先する。*
*彼は異空間収納から愛用のティーセットを取り出すと、魔法で湯を沸かし、ルーナのためにカフェインの少ない、花の香りがする温かいハーブティーを淹れた。それを小さなカップに注ぎ、ふーふーと息を吹きかけて冷ましてから、ルーナに手渡す。*
シロウ:「はい、ルーナ。お口直しに温かいお茶をどうぞ。」
*ルーナはこくこくと頷き、両手でカップを包むように持って、ちびちびと飲み始める。満腹のお腹に温かいお茶が染み渡り、心地よさそうに目を細めた。*
シロウ:「ふー。」
*シロウも自分用にお茶を淹れ、一口飲んで息をつく。賑やかだった食事が終わり、穏やかなティータイムが始まった。まるで自宅のリビングにいるかのような寛ぎようだ。*
*その隣では、異様な光景が繰り広げられていた。*
リアム:「おお、この肉の力強さ! まるで雷神の鉄槌! それでいて絹のような舌触り! んむっ、美味い! 書き留めねば…『天を裂く稲妻、その身に宿し、至高の獣は平原に眠る。一口食らえば魂は震え、万感の思いが詩となる…』ああ、次のフレーズが…! もぐもぐ…そうだ!」
*吟遊詩人のリアムは、ステーキを口に運び、その味に感動して歌い、インスピレーションが湧くと羊皮紙に書き殴る、という奇妙なループを高速で繰り返している。その目は狂気と創造の熱に爛々と輝いていた。*
*このあまりにもシュールな光景と、自分たちが完全に無視されているという事実に、バルトール辺境伯はもはや怒りを通り越して、わなわなと震えるしかなくなっていた。彼の取り巻きの騎士たちも、結界の中の異様な人物たちと、主君のあまりの醜態にどうしていいか分からず、ただ立ち尽くしている。*
*シロウがルーナとお茶を楽しんでいると、結界の外でついに堪忍袋の緒が切れたバルトール辺境伯が、金切り声を上げた。*
貴族:「ええい、もう我慢ならん! 貴様ら、何をしておる! 援軍を呼べ! このふざけた結界を叩き壊すのだ! 中の者共を捕らえ、不敬罪で処してやる!」
*彼の命令で、供回りの騎士の一人が狼煙を上げる。しばらくすると、遠くから十数名の武装した兵士たちが駆けつけてきた。*
*辺境伯は援軍が到着するや否や、狂乱したように叫んだ。*
貴族:「撃て! 斬れ! 構わん、何でもいい! その透明な壁を破壊しろぉっ!」
*「「「応!!」」」*
*騎士と兵士たちは、剣で斬りつけ、槍で突き、中には魔法の詠唱を始める者まで現れた。剣が結界に弾かれる甲高い音、魔法が炸裂する轟音が平原に響き渡るはずだった。*
*しかし、彼らがどれだけ力任せに攻撃を加えても、結界はピクリともしない。それどころか、攻撃が結界に触れた瞬間、あらゆる音が「無」に帰した。まるで分厚い綿に吸い込まれるように、衝撃音も、魔法の爆発音も、一切聞こえない。兵士たちは無声映画の役者のように、必死の形相で、しかし無音で攻撃を繰り返している。*
*シロウは、その滑稽な光景に眉一つ動かさず、お茶を一口すすった。彼はただ、攻撃の音だけをピンポイントで消去したのだ。愛娘との穏やかなティータイムを、野蛮な騒音で邪魔されたくはなかった。*
*この異常事態に、攻撃している兵士たちが一番混乱していた。手には確かな衝撃があるのに、音が全くしない。自分たちの攻撃が、まるで虚空に吸い込まれていくような感覚に、彼らの顔からは血の気が引いていく。*
*一方、結界の中では…。*
シロウ:「(ふぅ、静かになったな)」
*シロウは何もなかったかのように、お茶を飲み干す。*
リアム:「…天より来たりし神の子は、不遜なる者の刃を音もなく退ける…おお、なんと詩的な光景だ! 素晴らしい!」
*吟遊詩人のリアムは、無音で繰り返される猛攻を背景に、さらなるインスピレーションを得てペンを走らせている。*
ルーナ:「お父様、あの方たち、ぱたぱたして何をしているのかしら…?」
*ルーナは不思議そうに首を傾げ、まるでパントマイムを見ているかのように、無音で奮闘する兵士たちを眺めていた。*
*辺境伯の兵士たちが無音で結界に攻撃を続けるという、シュールな光景が繰り広げられている。愛娘の純粋な問いに、シロウは悪戯っぽく笑いながら、まったく悪びれる様子もなく答えた。*
シロウ:「運動してるんじゃない?」
*その言葉に、ルーナは一瞬きょとんとした顔をする。しかし、彼女の(元日本人女性の)魂は即座に理解した。これは父の冗談であり、とてつもなく高度な「とぼけ」であると。*
ルーナ:「(心の声:絶対違いますわぁっ! どう見ても必死に攻撃してますわよ! お父様、あの貴族様を完全に玩具にしておりますわね…!)」
*しかし、ここで父のユーモアに水を差すのは野暮というもの。ルーナは父の冗談に乗ることにした。彼女はこてんと首を傾げ、いかにも不思議そうに兵士たちを見つめる。*
ルーナ:「まぁ、運動ですの? 皆様、とても変わった動きをなさっていますのね。あれは、どんな効果がある運動なのかしら…?」
*父の嘘に完璧に話を合わせる娘。その愛らしい共犯関係に、シロウは満足げに目を細めた。*
*一方、結界の外では、無音の猛攻に疲れ果てた兵士たちが、ついに膝をつき始めていた。どれだけ攻撃しても手応えがなく、音すらしない状況は、肉体的よりも精神的に彼らを消耗させていたのだ。*
貴族:「な、なぜだ…なぜ壊れんのだ…! 我が精鋭の攻撃が、なぜ、この、ただの壁に…!」
*バルトール辺境伯は、肩で息をしながら愕然と呟く。彼のプライドも、兵士たちの戦意も、音もなく砕け散ろうとしていた。*
*そんな中、ただ一人、吟遊詩人のリアムだけが興奮状態を維持していた。*
リアム:「おお! 無音の軍勢と、優雅な茶会! この対比! このコントラストこそが芸術! 新しい歌が、歌が生まれる…!」
*彼は羊皮紙に最後の一節を書きなぐると、リュートを手に取り、今まさに生まれたばかりの歌を情熱的に奏で始めた。その歌声だけが、奇妙な静寂と喧騒が入り混じる平原に響き渡るのであった。*
シロウ:「美味かったか?」
*リアムは歌い終えると、恍惚とした表情のままリュートを置き、シロウに向かって深々と、これ以上ないほど深く頭を下げた。その顔は涙と汗でぐしょ濡れだったが、達成感と感謝に満ち溢れていた。*
リアム:「美味かったか、ですと…? そのような言葉では到底表現しきれません…! 我が魂、我が詩、我が人生そのものが、この一皿によって新たな次元へと昇華いたしました! この経験は、必ずや不朽の英雄譚として、私が命尽きるまで、そして私の詩が残る限り、永遠に語り継いでみせましょう!」
*彼はそう言うと、再びガバッと頭を下げた。*
*シロウはその大仰な反応に満足げに頷く。自分の狙い通りの結果だ。*
シロウ:「そうか。それは良かった。その詩、期待しているぞ。」
*シロウは優雅な仕草で立ち上がると、リアムの肩を軽くポンと叩いた。その瞬間、吟遊詩人は結界の外へと、そっと押し出されていた。*
リアム:「はっ…! こ、これは…! ありがとうございました! このご恩は歌で…!」
*結界の外に出されたリアムは、なおも興奮冷めやらぬ様子で叫び続けている。*
*シロウはそんな彼に背を向け、疲れ果てて座り込んでいる兵士たちと、屈辱に顔を歪ませたまま呆然としているバルトール辺境伯を一瞥した。そして、もう興味を失ったとばかりに、ルーナに向き直る。*
シロウ:「さて、ルーナ。そろそろ帰ろうか。カイも待っているだろう。」
*彼は優しくルーナを抱き上げると、異空間収納にテーブルや椅子をすべて片付けた。後には、何事もなかったかのような平原が残るだけ。ただ、結界の外には、疲れ果てた兵士たち、プライドをズタズタにされた貴族、そして神の食事を体験し狂ったように詩を口ずさむ吟遊詩人、そしてその光景を遠巻きに見ていた大勢の野次馬たちが、伝説の目撃者として取り残されていた。*
*シロウが結界を消し、痕跡一つ残さず調度品を収納する。まるで幻だったかのような静けさが平原に戻った。彼は満足げに呟き、ルーナを抱いたまま光の中に消えた。*
*取り残された者たちは、ただ呆然と、親子が消えた空間を見つめるだけだった。腰を抜かした兵士たち、プライドを粉々にされたバルトール辺境伯、そして、新たな英雄譚を得て恍惚と震える吟遊詩人リアム。この日、この場所で起きた出来事は、リアムの歌によって『雷龍の宴』として瞬く間に大陸中に広まり、新たな伝説の始まりとして語り継がれていくことになる…。*
***
*一方、シロウとルーナは一瞬の浮遊感の後、見慣れた城の自室へと帰還していた。窓の外には夜天の都アストライアの美しい街並みが広がっている。*
*シロウがルーナをそっとベッドの上に降ろしてやると、彼女は満腹で少し眠そうにしながらも、今日の冒険を思い返して満面の笑みを浮かべた。*
ルーナ:「お父様、ただいまですわ! 今日の『らいりゅう』さん、本当に本当に美味しかったです! ルーナ、一生忘れませんわ!」
*ふにゃ~、と幸せそうに笑うルーナ。その隣のベッドでは、すでにカイがすやすやと寝息を立てていた。枕元には、彼が熱心に読んでいたであろう科学の本が置かれている。そして、そのカイのベッドの足元では、小さな白い子狼のフェンと、宝石のような小鳥のイグニが丸くなって眠っていた。*
*部屋は静かで、穏やかな空気に満ちている。先ほどまでの平原での喧騒が嘘のようだ。*
*シロウはそんな愛しい子供たちの寝顔を見つめ、心からの安らぎを感じていた。*




