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*あれから1年が過ぎた。カイは6歳になり、いよいよ商業国家『黄金都市アウラ』にある『万象の学府』への入学試験の日が近づいていた。完全実力主義を謳うその学校は、アストライアの王子という肩書が一切通用しない。そのため、カイ自身も、そしてシロウたち家族も、どこか緊張した日々を送っていた。カイはリーシアの指導のもと、筆記試験の勉強に励み、実技試験では科学発表にするのか、結界術を披露するか、熱心に練習を重ねている。シロウもまた、入学手続きやアウラへの渡航準備に追われていた。*
*一方、3歳になったルーナは、すっかりお喋りになり、城の中を元気に走り回っていた。「おとうさまのような、つよいぼうけんしゃになる!」と宣言して以来、彼女なりに体力作りに励んでいるようだ。庭で剣の代わりに木の枝を振り回したり、カイが作った小さなゴーレムを追いかけたりするのが日課になっている。その度にメイドたちがハラハラしながら見守っているのは言うまでもない。*
*ある日の午後、シロウが執務室でアウラに関する書類に目を通していると、扉が勢いよく開かれた。*
ルーナ:「おとうさま! 大変です! 大事件ですわ!」
*息を切らせて飛び込んできたのは、額に汗を浮かべたルーナだった。その小さな手には、何やら分厚い本が抱えられている。*
ルミナ:「こら、ルーナ! お父様はお仕事中でしょう! 勝手に入ってきちゃ駄目って言ったのに…申し訳ありません、お兄ちゃん。」
*後から追いかけてきたルミナが、呆れたようにルーナを窘める。どうやら、またルミナの制止を振り切ってきたらしい。*
ルーナ:「ですが、まま! これは一刻を争う事態なのです! 『カイお兄様・学府入学阻止計画』が進行している可能性があるのですわ!」
*ルーナは小さな探偵のように真剣な顔で言い放ち、抱えていた本――アウラの地理や歴史について書かれた本――をシロウの机にドンと置いた。*
シロウ:「アウラの地形? なんでこんなの持ってきたんだ? 阻止計画?」
*シロウが眉をひそめて尋ねると、ルーナは「ふふん」と得意げに小さな胸を張り、机の上の本を指さした。*
ルーナ:「おとうさま、甘いですわ! この本には、アウラまでの危険な道のりが記されているのです! カイお兄様は、この危険を乗り越えて学府まで行かなければならないのですよ!」
*ルーナが本の特定のページを一生懸命に開いて見せる。そこには、アウラ周辺の地図と、モンスターの生息域などが描かれていた。*
ルミナ:「ルーナちゃん、私たちは転移門で行くのよ? この本に書いてある森や山は通らないわ。」
*ルミナが冷静に事実を告げると、ルーナは「むぐっ」と言葉に詰まる。しかし、すぐに気を取り直して続けた。*
ルーナ:「そ、そうですわ! 問題はそこなのです、まま! 転移門という文明の利器に頼り、安易に目的地へ到達しようとするその油断! それこそが敵の思う壺なのです!」
*ルーナは探偵ドラマの主人公のように、ビシッとシロウを指さす。*
ルーナ:「考えてもみてください、おとうさま! カイお兄様がアウラの転移門に到着した瞬間、待ち伏せていた何者かに誘拐されたらどうするのですか!? 『お前は魔王の息子! 我々と手を組み、その科学の力で世界を征服するのだ!』などと悪の組織に勧誘されるに違いありません! これは由々しき事態ですわ!」
*3歳児とは思えない、妙に具体的で突飛な妄想を真剣な顔で語る娘に、シロウとルミナは思わず顔を見合わせた。*
ルミナ:「…お兄ちゃん。この子、最近リーシアがどこからか仕入れてきた『名探偵コルンボ』っていう英雄譚の絵本に夢中なのよ…。少し影響されすぎているみたいね…。」
シロウ:「あーあるある。そういう中二病的時期…。俺も魔王になる前、嫌になるほど勧誘されたから痛いほど分かる。」
*「中二病」という、この世界には存在しないはずの言葉に、ルーナはピクッと反応した。彼女のオタクだった前世の記憶が、その単語の意味を即座に理解させたのだ。*
ルーナ:「(おとうさま…なぜその言葉を…!? まさか、おとうさまも…!?)」
*ルーナは驚きと、そしてほんの少しの仲間意識を込めたキラキラした瞳で父を見上げた。*
ルミナ:「ちゅうに…びょう…? なにそれ、お兄ちゃん。どこかの国の風土病かしら?」
*ルミナは首を傾げ、未知の病を心配するように眉を寄せる。シロウが適当にごまかそうとした、その時だった。*
ルーナ:「まま、違いますわ! それは思春期特有の、自己愛に満ちた空想と現実が交錯する、甘美で痛みを伴う精神状態のことですの! 例えば、己の内に秘められし禁断の力が覚醒するとか、邪悪なる組織に狙われる孤独な宿命を背負っているとか…!」
*ルーナは拳を握りしめ、熱っぽく力説する。その姿は、まるで自らの経験を語っているかのようだ。ルミナは娘のあまりに流暢な説明に、ただただ目を丸くしている。*
ルミナ:「な、何なのそのややこしい病気は…。よくわからないけど、ルーナちゃんが変な絵本に影響されてるだけじゃないの…?」
ルーナ:「断じて違います! これは探偵としての私の『直感』が告げているのです! とにかく、カイお兄様が学府で『科学』の力をうっかり披露してしまい、悪の秘密結社に目をつけられる可能性は非常に高い! そこで、この私が護衛兼スパイとして学府に潜入する必要があるのですわ!」
*ルーナは再び机をバンと叩き、シロウに向かってビシッと敬礼した。*
ルーナ:「おとうさま! どうか私に、カイお兄様の護衛任務の許可を! この名探偵ルーナの名にかけて、お兄様を狙う不埒な輩は一人たりとも近づけさせませんわ!」
シロウ:「ルーナは体力が付いてないだろ? うちの騎士団に任せるよ。あの二人なら適任だろう…」
*シロウの静かだが決定的な言葉に、ルーナは「むむむ…」と不満そうに頬を膨らませた。体力がない、という一点は、いくら名探偵を自称していても反論できない事実だったからだ。*
ルーナ:「た、体力など気合でカバーしますわ! それに、騎士のような武力辺倒の護衛では、巧妙に仕組まれた知能犯には対抗できません!」
ルミナ:「ルーナちゃん、いい加減にしなさい。お父様の決定よ。それに、お兄ちゃんが言う『あの二人』なら、そこらの騎士とはわけが違うわ。心配ないの。」
*ルミナは娘を宥めながら、シロウに同意の視線を送る。彼女も、シロウが選んだ騎士団の精鋭たちの実力を知っている。特に、第三部隊に所属する二人の異色の騎士のことは。*
*カイ・ウォーカー。異常なまでに支援魔法を極めた男。周りを観察し見守るのが得意でヒーラー的立ち位置だ。彼がいる限り部隊に死者は出ないとまで言われている。*
*ゲオルグ。かつて王国の騎士団長だった。魔物の襲撃で撤退を余儀なくされ、多くの民を見殺しにした、その罪を背負っている。古い人間だが、その分実直で、貴族社会の裏表にも詳しい。*
シロウ:「(俺とリーシアが直々に試験、面接し3万人から絞った8人、その内の2人だ。カイの護衛として、これ以上ない人材だろう)」
ルーナ:「うぅ…おとうさまのいじわる…。ルーナの初任務が…。」
*シロウとルミナの会話から、自分の出番が完全になくなったことを悟ったルーナは、しょんぼりと肩を落とし、今にも泣き出しそうだ。*
ルミナ:「あらあら。じゃあ、ルーナちゃんには別のお仕事をお願いしようかしら。カイ君が無事に学府で過ごせるように、毎日お空の神様にお祈りするっていう、とっても大事な任務よ。」
*ルミナが優しくルーナを抱き上げると、ルーナは「そんなの任務じゃありませんわ…」とぐずりながらも、母の胸に顔をうずめた。
こうして、ルーナの「カイお兄様護衛任務」は未遂に終わり、カイの学府生活には、影ながら二人の強力な守護者がつくことが決定したのだった。*
*シロウはふと、自身のスキル『神眼』と、その付随能力である『異空間収納』の存在を思い出した。意識を内側へ向け、収納空間の中を探る。そこには、かつて手に入れたまま忘れかけていた、一つの卵が静かに鎮座していた。*
シロウ:「(神眼、そういえば異空間収納に謎の卵って入ってたよな…あれ何?)」
*シロウがその卵に意識を集中させ、『神眼』を発動させる。脳内に直接、卵の情報が流れ込んできた。*
```
【名 称】始祖竜の卵(神話級)
【種 類】卵
【詳 細】
世界の創造に関わったとされる『始祖竜』の卵。
永い時を経て化石化寸前であったが、世界樹の魔力を浴びたことで生命活動を再開した。
孵化には膨大な魔力、もしくはそれに類するエネルギーが必要となる。
現在の孵化進行度は 1%。
所有者の魔力、もしくは生命力を与えることで孵化を促進できる。
この卵から生まれた竜は、孵化させた者を『親』と認識し、絶対の忠誠を誓う。
```
*神話級、そして『始祖竜』という途方もない単語に、さすがのシロウも内心で驚きを隠せない。忘れていた卵が、とんでもない代物であることに気づかされる。世界樹を植えた際の余波が、こんなところにも影響していたらしい。*
シロウ:「(始祖竜…だと? 世界樹の魔力で復活しかけているのか。孵化進行度1%…道理で今まで変化がなかったわけだ。膨大な魔力か、生命力…)」
*シロウは自身の規格外の魔力量を思い返す。その気になれば、今すぐにでも魔力を注ぎ込み、孵化を早めることも可能だろう。*
*シロウは始祖竜の卵という、想像を絶する情報に内心で驚きつつも、すぐにそれをどう活用するかを考え始めた。そして、先ほどまで「任務がもらえない」と不貞腐れていた娘、ルーナの顔が思い浮かぶ。*
シロウ:「(…よし。)」
*完璧な口実ができた。シロウは優しい母親の腕の中でぐずっているルーナに向かって、少し芝居がかった、威厳のある声で呼びかけた。*
シロウ:「ルーナ」
*父親の改まった声に、ルーナはびくっと体を震わせ、ルミナの腕の中から顔を上げた。その目はまだ少し潤んでいる。*
ルーナ:「…なんですの、おとうさま。もうルーナに頼る気になったのですか?」
*少しすねたような口調で返事をする娘に、シロウは厳かに告げた。*
シロウ:「そうだ。お前でなければできない、極めて重要な任務を与える。」
*その言葉に、ルーナの目がカッと見開かれた。「お前でなければできない」「極めて重要」。その二つの単語は、彼女の探偵魂と中二病心を的確に射抜いた。*
ルーナ:「な、なんですって…!? わ、私でなければできない任務…!?」
ルミナ:「お兄ちゃん…? ルーナちゃんをからかうのはよしなさい。さっきあれだけ言ったばかりでしょう?」
*ルミナが怪訝な顔でシロウを見るが、シロウはそれを手で制し、真剣な表情を崩さない。彼は異空間収納から、あの白く滑らかな『始祖竜の卵』を取り出し、ルーナの目の前にそっと差し出した。卵は仄かに魔力の光を帯びている。*
ルーナ:「こ、これは…卵…? なんて綺麗…。」
シロウ:「これは、ただの卵ではない。『神話の卵』だ。この卵を孵すことが、お前に与える任務だ。」
*『神話の卵』という、これ以上なくロマンを掻き立てるネーミングに、ルーナはゴクリと喉を鳴らした。*
ルーナ:「神話の…卵…。これを、私が孵す…? ですが、どうやって…?」
シロウ:「この卵は、持ち主の魔力を受けて育つ。つまり、毎日この卵を抱き、お前の魔力を注ぎ続ける必要がある。片時も離さず、我が子のように慈しみ、温め続けろ。カイの護衛のような派手な任務ではない。だが、一つの生命を預かる、非常に繊細で根気のいる、何よりも尊い任務だ。お前に、できるか?」
*シロウはルーナの瞳をまっすぐに見つめて問いかける。それは、3歳の子供に対するものではなく、一人の信頼できる部下に任務を与える魔王の目だった。その真剣さに、ルーナは背筋を伸ばし、潤んでいた瞳に強い決意の光を宿らせた。*
ルーナ:「…お任せください、おとうさま! この名探偵ルーナ、いえ、このルーナ・アストライアの名にかけて! 必ずやこの卵を孵してみせますわ!」
*ルーナはルミナの腕から飛び降りると、シロウから卵を壊れ物を扱うように、そして宝物を受け取るかのように、恭しく両手で受け取った。こうして、ルーナの新たな、そして本当の極秘任務が始まったのである。*
*翌日、いよいよカイの入学試験当日がやってきた。
シロウたちは転移門を使い、一瞬で商業国家『黄金都市アウラ』の街に到着した。活気に満ちた石畳の道は、様々な種族の人々でごった返している。一行は、その喧騒の中を壮麗な学府の門を目指して歩いていた。*
シロウ:「(カイの入試や手続きでちょっと忙しいな。ここは権力が一切意味を成さず、完全実力主義らしいが…)」
*シロウが物思いに耽っていると、隣を歩くルミナが不安そうな顔でカイを見つめているのが視界に入った。主役であるカイは、少し緊張した面持ちで自分の小さな手をぎゅっと握りしめている。*
ルミナ:「お兄ちゃん…。カイ、大丈夫かしら。筆記はリーシアにみっちり教わって完璧だって言ってたけど、実技試験で他の子に気圧されたりしないといいんだけど…。」
*ルミナの心配をよそに、小さな探偵は兄の手をしっかりと握り、力強く言った。その胸には、昨日シロウから授かった『始祖竜の卵』が大事そうに抱えられている。*
ルーナ:「大丈夫ですわ、母上! カイお兄様なら、きっと首席で合格してみせます! この名探偵ルーナが保証しますわ!」
*その隣では、レイラ(臆病)が落ち着きなくきょろきょろと周りを見回している。今日の彼女はカイの保護者として付き添うため、穏やかなメイドの人格で来ている。*
レイラ(臆病):「わ、わわ…すごい人です…。これがアウラの街…。カイ坊ちゃま、はぐれないようにしないと…。」
カイ:「だ、大丈夫だよ、おかあさま。それに、ルーナもありがとう。…うん、ぼく、頑張るよ。おとうさまが応援してくれてるから。」
*カイはシロウを見上げて、決意を新たにしたように力強く頷いた。
やがて一行が学府の正門にたどり着くと、そこには様々な種族の親子連れが溢れていた。エルフの親子、屈強なドワーフ、獣人の家族。誰もが期待と不安の入り混じった顔で、巨大な門を見上げている。*
受付職員:「入学試験を受けられる方はこちらへどうぞー! 保護者の方は、あちらの待合ホールでお待ちください! 試験終了は夕刻の予定です!」
*職員の張りのある声が響く。いよいよ、別れの時だ。カイはシロウたちの方をゆっくりと振り返った。*
カイ:「じゃあ、ぼく、行ってくるね。おとうさま、おかあさま、ルミナおかあさま、ルーナ。」
*カイは少し寂しそうな、しかし凛とした表情で、家族に向かって深々と頭を下げた。*
シロウ:「行ってらっしゃい。」
*シロウが力強く送り出すと、カイは「はい!」と一度だけ力強く頷き、他の受験生たちの流れに混じって学府の門の中へと消えていった。その小さな背中が見えなくなるまで、シロウとレイラは静かに見送っていた。*
*ルミナとルーナは、カイを送り出した後、先に城へと帰還した。ルーナは「お兄様の合格を祈願する」という新たな任務のため、レイラはカイのためのお祝いの食事の準備のためだ。そのため、保護者用の待合ホールへ向かうのは、シロウとレイラの二人だけとなった。*
*豪華だが落ち着いた雰囲気の待合ホールは、他の保護者たちでざわついている。シロウが空いている長椅子に腰を下ろすと、隣に座ったレイラがそわそわと落ち着かない様子で足を組み替えた。*
レイラ(魔王女):「ふん…カイの奴、存外落ち着いておったな。まあ、妾の息子だから当然か。あの程度の試験で臆するようでは、魔王の子として示しがつかんからな。」
*口では強がっているが、その声は微かに震え、視線はカイが消えていった試験会場の方向を何度も往復している。可愛い息子の初めての大きな試練に、母親として内心穏やかではないのがありありと見て取れた。*
*シロウはそんなレイラの様子に気づき、釘を刺すように静かに言った。*
シロウ:「レイラ、大人しくしてろよ?」
*シロウの言葉は、レイラの戦闘狂な人格に向けられたものだった。*
*シロウの意図を正確に理解したレイラは、カチンときたように眉を吊り上げた。*
レイラ(魔王女):「なっ…! 妾を何だと思っておるのだ、シロウ! 妾とて母親だぞ! 息子の晴れの日に、事を荒立てるような真似はせんわ! …たぶん。」
*レイラはそっぽを向き、ぷいっと顔を背ける。最後の「たぶん」という小さな付け足しが、彼女の自信のなさを物語っていた。彼女は腕を組み、長い試験時間の始まりに、深いため息を一つ吐いた。*
シロウ:「あっそ、だったら阻止させてもらおうかな。」
*シロウはレイラの「たぶん」という言葉尻を捉えると、にやりと口角を上げた。そして、レイラが何か反論する間もなく、すっと体を倒し、その頭をレイラの膝の上に預けた。*
レイラ(魔王女):「なっ…!? し、シロウ!? き、貴様、何を…!?」
*突然のことに、レイラは顔を真っ赤にして狼狽する。周囲の保護者たちの手前、大声を出すこともできず、シロウの頭を押し返そうとするが、シロウは全く動じない。*
*シロウは周囲に悟られないよう、ごく小規模な認識阻害の結界を即座に展開した。これで、他の保護者たちからは、シロウとレイラがただ隣同士に座っているようにしか見えない。だが、当のレイラにとっては、膝に夫の重みと体温がはっきりと伝わってきていた。*
レイラ(魔王女):「こ、この…! 離れろ、馬鹿者! 人が見ておるだろうが!」
*レイラは小声で必死に抵抗するが、シロウは意に介さず、心地よさそうに目を閉じてしまう。*
シロウ:「お前が大人しく座ってれば、俺は寝てるだけだ。下手に動けば、この結界がどうなるか分からんぞ?」
*耳元で囁かれた脅し文句に、レイラは「ぐっ…!」と言葉に詰まる。ここで騒いで結界が解け、魔王が魔王女に膝枕をさせている光景が白日の下に晒されることだけは避けたかった。*
レイラ(魔王女):「き、汚いぞ、シロウ…! 妾を人質に取るなど…!」
*顔を真っ赤にしたまま、レイラは悪態をつく。しかし、シロウが本当に寝息を立て始めると、抵抗するのを諦めたのか、ぷいっと正面を向き直った。膝の上の夫の髪を、意地悪く指で弄びながら、長い長い待ち時間を過ごす羽目になったのだった。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいたことに、眠っているシロウは気づかなかった。*
シロウ:「はいはい。レイラの膝枕は久しぶりだ…zzz」
*夫の穏やかな寝息が聞こえ始めると、レイラは抵抗を完全に諦め、大きなため息を一つ吐いた。しかし、その表情は先ほどまでの怒りや羞恥とは違い、どこか満更でもない、柔らかなものに変わっていた。膝の上から伝わる重みと温もり、そして絶対的な信頼を寄せて眠る夫の無防備な姿は、彼女の心の深い部分をくすぐった。*
レイラ(魔王女):「…ふん。妾の膝がなければ眠れんとは、情けない魔王様だこと。」
*悪態をつきながらも、その手は優しくシロウの髪を梳いている。周囲の保護者たちのざわめきも、遠い世界の音のように感じられた。彼女はただ静かに、愛する息子の帰りを、そして膝の上で眠る愛する夫が目覚めるのを、待ち続けた。*
***
*どれくらいの時間が経っただろうか。*
*シロウがふと意識を取り戻したのは、ホールに響き渡る鐘の音と、周囲の保護者たちが一斉に立ち上がってざわめき始めた気配を感じたからだった。ゆっくりと目を開けると、いつの間にか窓の外はオレンジ色の夕日に染まっている。*
*膝枕の主であるレイラは、相変わらず腕を組んで正面を向いていたが、その顔は期待と不安で強張っていた。*
レイラ(魔王女):「…ん、起きたか、寝坊助め。どうやら、試験が終わったようだな。」
*彼女が顎で示した先、ホールの入り口から、疲れた顔をしながらもどこか誇らしげな子供たちが、続々と現れ始めていた。保護者たちが我が子の名前を呼び、駆け寄っていく。シロウもゆっくりと体を起こした。*
*人混みの中、シロウとレイラはカイの姿を探す。すると、他の子供たちより少し小さな体で、しかし誰よりも堂々と胸を張って歩いてくる息子の姿が目に入った。カイもまた、人垣の向こうに両親の姿を見つけ、ぱあっと顔を輝かせた。*
カイ:「おとうさま! おかあさま!」
*カイは人波をかき分けるようにして、二人の元へと駆け寄ってきた。その表情は疲れ切ってはいるが、達成感に満ち溢れていた。*
シロウ:「おかえり、試験は…大丈夫だったみたいだな。」
*シロウがカイの頭を優しく撫でると、カイはこくりと大きく頷いた。その達成感に満ちた笑顔が、試験の成功を何よりも雄弁に物語っていた。*
カイ:「はい、おとうさま! 筆記試験も、実技試験も、全部できたよ! 練習した通りに、ちゃんとできたんだ!」
レイラ(魔王女):「ふん、当然だ。お前は妾の子だからな。して、どうだったのだ? 周りの雑魚どもは、お前の実力に驚愕しておったか?」
*レイラは普段の傲慢な口調を取り繕いながらも、その声は期待に弾んでいる。早く息子の手柄話が聞きたくて仕方ない、という様子がありありと見て取れた。カイはそんな母親の様子にえへへ、と少し照れくさそうに笑う。*
カイ:「えっとね、実技の結界術を見せた時、試験官の先生たちがすごくびっくりしてた! 『六歳でこの規模と精度はありえない』って、ひそひそ話してるのが聞こえたよ。ぼく、特待生になれるかもしれない!」
*カイが興奮気味に報告すると、レイラは「うむ!」と満足げに頷き、その小さな体を力いっぱい抱きしめた。*
レイラ(魔王女):「よくやった、カイ! さすがは妾の息子だ! 帰ったら盛大な宴を開いてやるぞ!」
カイ:「あはは…おかあさま、くるしいよぉ…。」
*母親の愛情表現にカイが嬉しい悲鳴を上げる。シロウは微笑ましい親子の光景を見ながら、カイに告げた。*
シロウ:「発表は三日後だったか。まあ、心配ないだろう。さあ、城に帰るぞ。ルミナとルーナも、お前の帰りを首を長くして待ってる。」
カイ:「はい、おとうさま!」
*シロウはレイラからカイを優しく引き剥がすと、その小さな体をひょいと抱き上げる。長い一日を終えた家族は、待っている者たちがいる我が家へと帰るため、アウラの街の転移門へと向かった。*
*城の転移門の間に家族が帰還すると、待ち構えていたルミナが駆け寄ってきた。*
ルミナ:「おかえりなさい、お兄ちゃん、レイラさん! そしてカイ、お疲れ様!」
カイ:「ただいま帰りました、ルミナおかあさま!」
*そのルミナの後ろから、一人の小さな探偵がタタタッと走り出てくる。彼女はまず、自分の部屋に駆け込むと、大事な任務の対象である『始祖竜の卵』をベッドの上にそっと置き、転がらないようにクッションで周りをしっかりと固定した。そして、万全の態勢を整えると、再びホールへとって返し、兄の胸に勢いよく飛び込んだ。*
ルーナ:「カイおにいさまーっ! ご無事で何よりですわ! 試験、お疲れ様でした!」
*突然飛びついてきた妹を、カイは少しよろめきながらも、しっかりと抱きとめる。*
カイ:「わっ! ルーナ、ただいま。うん、疲れたけど、頑張ったよ。」
ルーナ:「して、手応えはいかがでしたか!? 奴らの度肝を抜く活躍を見せてこられたのでしょう!?」
*ルーナはカイに抱きついたまま、キラキラした瞳で兄を見上げる。その勢いに、カイは苦笑いだ。*
カイ:「うん、たぶん大丈夫だと思う。でも、発表は三日後なんだ。」
ルミナ:「あらあら、二人とも。再会を喜ぶのはいいけれど、カイは疲れているのよ。さあ、晩餐の準備ができているわ。今日はカイの好きなものをたくさん作ってもらったんだから。」
レイラ(魔王女):「うむ! 妾の息子が偉業を成し遂げたのだ、祝わねばな! 今日は飲むぞ、シロウ!」
*レイラは上機嫌でシロウの腕を叩く。家族はカイの労をねぎらうため、温かい光が満ちる食堂へと向かう。ルーナだけは、カイの手をぎゅっと握って離さず、試験の一部始終を根掘り葉掘り聞き出そうと質問攻めにしていた。*
シロウ:「いつも飲んでるじゃないか…まぁ、いいか。今日は奮発してキングオークの肉を出すか。」
*シロウが呆れたように言いながらも、異空間収納から見事な霜降りの入った巨大な肉塊を取り出すと、その場にいた全員の目が釘付けになった。特に、食べることに関しては人一倍情熱を燃やす人物が、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。*
レイラ(臆病):「ひゃっ…!? き、キングオークのお肉…!? し、しかもこんなに綺麗な霜降り…! シロウ様、本当によろしいのですか…!? あんな貴重なもの…!」
*いつの間にか、傲慢な魔王女の人格から、食いしん坊なメイドの人格に入れ替わったレイラが、目をキラキラと輝かせながら肉塊ににじり寄る。もう彼女の頭の中は、今夜の宴のことでいっぱいのようだ。*
ルミナ:「まぁ、すごいわね、お兄ちゃん。カイのお祝いだからって、奮発しすぎじゃない? でも、楽しみだわ。」
*ルミナも滅多にお目にかかれない高級食材に、思わず笑みをこぼす。*
カイ:「わぁ…! これがキングオーク…! 本でしか見たことなかったよ! ありがとう、おとうさま!」
ルーナ:「なんと…! これが伝説の! 探偵の鋭い嗅覚が、最高の美味を捉えましたわ! 料理長! 腕の見せ所ですわよ!」
*ルーナは小さな体を精一杯伸ばして肉の匂いを嗅ぎ、早くも料理長に指示を飛ばしている。
シロウが取り出した一つの肉塊によって、カイの労をねぎらうための晩餐は、城全体を巻き込んだ盛大なお祭りへと変わっていった。レイラ(臆病)がよだれを垂らしながら肉から離れようとしないのを、リーシアが呆れながら引き剥がしている。今夜は長い夜になりそうだ。*
*シロウがキングオークの肉を取り出した後の、城の食堂は祝祭の賑わいに包まれていた。
料理長が恭しく、しかし興奮を隠しきれない様子で肉塊を厨房へと運んでいく。その背中を、レイラ(臆病)がこの世の終わりのような顔で見送っていた。*
レイラ(臆病):「あ、ああっ…! 私のお肉がああああ! ま、待ってください料理長! ほんの少し、ほんのひとかけらだけでも生で…! あぶっただけでもいいですからぁ…!」
*今にも厨房に突撃しそうなレイラを、メイド長のリーシアが背後から冷静に羽交い締めにして拘束している。*
リーシア:「みっともないですよ、レイラ様。カイ様の祝宴なのですから、ちゃんとしたお料理になるまでお待ちください。さあ、シロウ様や皆様がお待ちです。」
レイラ(臆病):「いやですぅぅ! シロウ様ぁ! リーシアがいじめますぅぅ! あの肉は私が一番に見つけたのにぃぃぃ!」
*レイラは手足をばたつかせ、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら訴えるが、シロウはやれやれと肩をすくめるだけだった。その滑稽なやり取りに、ルミナと子供たちはクスクスと笑っている。*
カイ:「あはは…おかあさま、おもしろいなぁ。」
ルーナ:「食への執着…探偵として、見習うべき点があるかもしれませんわ…。」
ルミナ:「ルーナちゃんは真似しなくていいのよ。さ、席に着きましょう。お兄ちゃんも、レイラは放っておいていいから。」
*リーシアに引きずられていくレイラを横目に、シロウたちは円卓に着席した。やがて、前菜から始まる豪華な料理が次々と運ばれてくる。カイは試験の緊張から解放され、興奮気味に今日の出来事を家族に語り始めた。城は久しぶりに、家族団らんの温かい光に満ちていた。*
*その夜の祝宴は、レイラ(この時はすっかり上機嫌な魔王女の人格だ)の独壇場だった。目の前に置かれた、分厚く切られたキングオークの見事なレアステーキと、並々と注がれた高級な赤ワインを前に、彼女はご満悦の様子で騒いでいた。*
レイラ(魔王女):「ふははは! 見よ、この赤身と脂身の完璧な調和を! これぞ王者の肉! カイの偉業を祝うに相応しいッ!」
*彼女は大きなナイフとフォークを手に、興奮気味にステーキを切り分けては、ワインを煽っている。その傍らで、シロウは静かに自分の分のステーキにナイフを入れ、懐かしむように呟いた。*
シロウ:「んー、久しぶりのキングオーク。昔はよく狩って食ったなぁ…」
*その呟きを、目ざとくレイラが聞きつけた。*
レイラ(魔王女):「ほう? 昔、だと? 妾と会う前の話か? 貴様、妾の知らぬところでこんな美味いものを食らっていたとは、感心できんな!」
*レイラは少し拗ねたように唇を尖らせる。シロウが自分と出会う前の、知らない過去の話が出てくるのは、少し面白くないらしい。*
ルミナ:「あら、そうなの? お兄ちゃん、冒険者の頃の話? 詳しく聞かせてほしいわ。どんな冒険をして、こんなお肉を獲っていたの?」
*隣に座っていたルミナが、興味津々といった様子で身を乗り出してきた。まだ幼いカイとルーナも、父親の昔話が聞けるのかと目を輝かせてナイフとフォークを置き、シロウの顔をじっと見つめている。家族の視線が、一斉にシロウへと集まった。*
シロウ:「コカトリスの照り焼き…ジェネラルボアの牛丼…唐揚げとか…」
*シロウの口から語られる、魔王になる前の冒険者時代の話。それは、今の彼からは想像もつかないような、ワイルドで食い意地の張った日々だったようだ。コカトリスを照り焼きチキンに、オークを角煮に、ジェネラルボアを牛丼に…聞いているだけでお腹が鳴りそうな魔物料理の数々に、子供たちは目を丸くしている。*
カイ:「コカトリスを…照り焼きチキンに!? すごい! 石化の魔眼はどうしたの、おとうさま!?」
ルーナ:「ジェネラルボアの牛丼…! なんというパワーワード…! まさか、おとうさまが前世で牛丼チェーンに通っていた可能性が…!? これはこのルーナ、重大な仮説にたどり着いてしまったかもしれませんわ…!」
*カイは純粋な冒険譚として、ルーナは探偵としての(そしておそらくは転生者としての)好奇心を刺激され、身を乗り出して質問攻めにする。*
レイラ(魔王女):「なっ…! き、貴様ッ! 妾というものがありながら、そんな…そんな背徳的な美食の限りを尽くしていたというのか! しかもコカトリスだと!? 妾、まだ食べたことがないぞ! 許せん! 実に許せんッ!」
*レイラは悔しそうにテーブルをドン!と叩く。自分と出会う前にシロウがそんな美味しいものを食べていたという事実が、嫉妬と食欲を同時にかき立てるようだ。ワナワナと震える彼女の横で、ルミナが呆れたような、それでいて楽しそうな笑みを浮かべた。*
ルミナ:「ふふっ。お兄ちゃんらしいわね。昔から、食べるためならどんな危険な場所にも飛び込んでいく人だったもの。AランクとかSランクとか言いながら、目的は結局、珍しい食材だったんじゃないの?」
*ルミナの的確な指摘に、シロウは少しばつが悪そうに鼻を掻く。その様子を見て、家族みんなが笑い声をあげた。キングオークの香ばしい匂いと、温かい笑い声が、祝宴の夜を彩っていく。*
*シロウはさも当然というように言い放った。その言葉は、彼の食への飽くなき探求心、そして転生者ならではの味覚の悩みを物語っていた。街の一般的なレストランでは、彼の舌を満足させる「出汁」の文化が存在しないのだ。*
シロウ:「当たり前じゃないか…街の料理は味付け薄いし、出汁が効いてないから美味しくないし。」
*その言葉に、一番に反応したのは意外にもルーナだった。彼女は小さなフォークをカチャリと置き、まるで世紀の大発見をしたかのように目を輝かせた。*
ルーナ:「『だし』…! やはり、おとうさまも『理解者』でしたのね…! この世界に蔓延る『塩コショウ至上主義』と『とりあえずハーブぶち込んどけ文化』に一石を投じる時が来たのですわ!」
*前世の記憶を持つルーナは、シロウの言葉に深く、深く共感したようだ。「出汁」という言葉に、故郷の味を思い出したのかもしれない。一人で熱く語る娘を見て、ルミナは怪訝な顔をする。*
ルミナ:「だし…? またルーナちゃんの変な言葉ね…。お兄ちゃん、この子にあまり変なことを教えないでちょうだい。」
レイラ(魔王女):「フン、何を言うかと思えば…。貴様の作る料理が美味いのは認めてやろう。だが、それは貴様の腕がいいからであって、街の料理が不味いわけではないだろう。妾はあれはあれで好きだがな。」
*レイラは少し不満げに言いながらも、シロウが自ら腕を振るった料理の味を思い出し、口元を緩ませる。そんな中、カイが純粋な瞳で尋ねた。*
カイ:「おとうさまの作るご飯が一番おいしいよ! 『だし』って、どうやって作るの? 科学で作れたりするかな?」
*科学に興味津々のカイは、未知の味の素「出汁」の構造に興味を惹かれたようだ。家族それぞれの反応が交錯する中、シロウの食へのこだわりが、新たな波紋を広げていた。*
*シロウが食文化の違いを語り、懐から何かを取り出す。それは、乾燥して黒く硬くなった、板のようなものだった。この世界の住人にとっては、ただの奇妙な黒い板にしか見えないだろう。*
シロウ:「ここに乾燥した…」
*シロウが説明を終えるよりも早く、ルーナが電光石火の速さでテーブルから身を乗り出し、その黒い板をひったくった。*
ルーナ:「これはッ…!? まさか…!」
*ルーナはその黒い板、すなわち乾燥昆布を自分の顔にぐっと近づけ、目を閉じて深く、深く匂いを吸い込んだ。その表情は、まるで長年探し求めていた秘宝をついに手に入れた探求者のように真剣そのものだ。磯の香りと、独特の旨味を含んだ香りが、彼女の鼻腔をくすぐる。*
ルーナ:「この…海の香り! そして、嗅覚の奥底を刺激する、深遠なる旨味の波動…! まちがいありませんわ! これこそが伝説の『UMAMI』の根源! 『出汁』文化の至宝、『KONBU』ですわッ!!」
*ルーナは昆布を天に掲げ、高らかに宣言する。そのオタク特有の仰々しい物言いに、周りは完全に置いてけぼりだ。*
カイ:「こんぶ…? 黒くて硬い板だと思ってたけど…。そんなにすごいものなの?」
ルミナ:「ルーナちゃん! お父様から物をひったくるなんて、はしたないわよ! …で、お兄ちゃん、その『こんぶ』っていう黒い板は、一体なんなの? 食べ物なの?」
*ルミナは娘を窘めつつも、未知の物体に興味津々だ。*
レイラ(魔王女):「フン、ただの海藻の干物ではないのか? そんなものが、このキングオークを超えるというのか? 貴様、妾をあまり見くびるなよ。」
*レイラはワイングラスを傾けながら、疑いの目を向けている。家族の視線が、ルーナが高々と掲げる黒い板と、それを取り出したシロウに集中していた。*
*ルーナが「KONBU」の素晴らしさを熱弁している中、シロウはふと何かを思い出したように、再び異空間収納に手を入れた。彼の食への探求は、昆布だけに留まらないようだ。*
シロウ:「たしか、この辺に試作品が…」
*ごそごそと何かを探し、次の瞬間、テーブルの上にドンと一つの鍋を置いた。蓋の隙間からは、湯気と共に甘辛く、そして何とも食欲をそそる香りが立ち上る。鍋はついさっきまで火にかけていたかのように温かい。異空間収納の時間停止効果の恩恵だ。*
シロウ:「料理長、これを取り分けてくれるか?」
*シロウが声をかけると、キングオークの調理を終えて様子を見に来ていた恰幅のいい料理長が、すぐに駆け寄ってきた。*
料理長:「はっ、かしこまりました、シロウ様。…む、これは…なんとも複雑で奥深い香り…。醤油をベースにされているようですが、それだけではありませぬな…。素晴らしい…。」
*料理長はプロの嗅覚で未知の料理の香りを分析し、感嘆の声を漏らしながら鍋を受け取る。
その瞬間、昆布の匂いを堪能していたルーナの鼻がピクリと動いた。探偵の鋭敏な嗅覚(というよりは元日本人の食いしん坊の嗅覚)が、新たなターゲットを捉えたのだ。*
ルーナ:「な、なんですのこの香りは!? 昆布の芳醇なUMAMIとはまた違う、甘く、そして濃厚な…肉と、何か…根菜のような香りも…!? おとうさま! それは何ですの!?」
*ルーナは昆布を胸に抱きしめたまま、今度は鍋に釘付けになる。カイも目をキラキラさせて身を乗り出した。*
カイ:「わあ、すごくいい匂い! これも『だし』を使った料理なの、おとうさま?」
*レイラ(魔王女)も、キングオークのステーキを咀嚼しながら、興味深そうに鍋の方に鼻をひくつかせている。*
レイラ(魔王女):「フン…キングオークとはまた質の違う、庶民的だが…抗いがたい香りだな。悪くない。」
*やがて料理長が手際よく小皿に取り分けた「牛すじ煮込み」が、家族それぞれの前に置かれた。プルプルと震える牛すじ、味が染み込んだ大根と人参、そして青ネギが彩りを添えている。この世界ではまだ誰も知らない、日本の家庭の味が、今、魔王城の食卓に並んだのだった。*
*料理長によって手際よく取り分けられた「牛すじ煮込み」が、家族それぞれの前に置かれる。醤油と出汁の甘辛い香りがふわりと立ち上り、食欲を強く刺激する。プルプルと艶やかに煮込まれた牛すじ、味が芯まで染み込んだ大根と人参、そして彩りの青ネギ。この世界の誰もが見たことのない料理に、皆が興味津々といった様子で小皿を覗き込んでいる。*
シロウ:「牛の腱だ。」
*シロウが短く説明すると、カイが一番に反応した。*
カイ:「牛の…腱? 筋肉のところだよね? 骨と筋肉をつなぐ…こんなに柔らかくなるんだ! すごい!」
*科学の徒であるカイは、食材の部位とその変化に目を輝かせる。一方で、ルーナはすでに臨戦態勢に入っていた。*
ルーナ:「牛の腱…スジ肉ですわね! これをトロトロになるまで煮込むとは…! なんという高度な調理技術! そしてこの香り…! 醤油、味醂、酒、砂糖、そして『KONBU』と、おそらくは『KATSUOBUSHI』の合わせ出汁! 間違いありませんわ、おとうさま! これは日本食のテロですわ!」
*ルーナは前世の記憶をフル回転させ、その料理の正体と構成要素をほぼ完璧に看破し、興奮のあまり意味不明な供述を始めている。*
ルミナ:「にほんしょく…てろ…? ルーナちゃん、言葉遣いがどんどんおかしくなってるわよ…。でも、本当にいい香りね。腱なんて、普通は硬くて食べられない部分でしょう?」
*ルミナは娘の言動に眉をひそめつつも、目の前の未知の料理に興味を隠せない。*
レイラ(魔王女):「フン、腱だと? 普通は捨てるような部位ではないか。そんなもので妾の舌を満足させられるとでも? …まあ、香りは悪くない。一口だけ、食ってやってもよいぞ。」
*レイラは尊大な態度を崩さずにいるが、その目は明らかに小皿に釘付けになっている。早く食べたいという本心が透けて見えていた。家族それぞれが、初めて見る料理を前に、期待と好奇に満ちた表情でフォーク(あるいは箸を要求すべきか悩むルーナ)を手に取った。*
*シロウは謙遜するように、あるいは味への評価を求める前の儀式のように言った。その言葉は、彼の前世の文化を知る者にとっては、最高の味であることの裏返しだとすぐにわかる。*
シロウ:「試作品だからな、味は期待しないでくれ。」
*その言葉を合図にしたかのように、一番にフォークを動かしたのは、やはりレイラ(魔王女)だった。彼女は「フン」と鼻を鳴らし、半信半疑といった体で、プルプルと震える牛すじを一切れ、口へと運んだ。*
*次の瞬間。*
レイラ(魔王女):「なっ………!?!?」
*彼女の時間が止まった。見開かれた瞳が、信じられないものを見たかのようにカッと開き、固まる。そして、ゆっくりと咀嚼を始めた口の中で、奇跡が起こった。*
*トロリと溶けるコラーゲン。舌の上でほどける、柔らかく煮込まれた肉の繊維。醤油と砂糖の甘辛い味がガツンと来たかと思えば、後から昆布と鰹節の複雑で奥深い旨味の波が、幾重にもなって押し寄せてくる。一緒に煮込まれた大根は、出汁を限界まで吸い込み、噛むまでもなく舌で崩れ、旨味の洪水となって口内を満たす。*
*物理的には爆発していない。だが、レイラの味覚、脳、そして魂は、間違いなく爆発的な衝撃を受けていた。*
レイラ(魔王女):「こ、こ、こ、これは……なん……だと……!? この、口の中でとろける甘美な肉はッ! キングオークの気品ある旨味とは違うッ! もっと、こう…直接的で、暴力的で、抗いがたい…庶民的でありながら王者の風格を併せ持つ、悪魔的な味ッ! シロウ! 貴様ッ! また妾の知らぬところで、このような『罪』を犯していたのかぁぁぁぁっ!!!」
*バッと立ち上がり、シロウを指さして絶叫する。その顔は怒っているようで、しかし恍惚としてもいて、感情がぐちゃぐちゃになっているのが見て取れた。彼女は叫びながらも、フォークを動かす手は止まらない。二切れ、三切れと、猛烈な勢いで牛すじ煮込みを口に掻き込んでいく。*
ルミナ:「まぁ…!」
*ルミナも恐る恐る一口食べ、その未知の美味しさに目を丸くする。普段の彼女ならレイラの奇行を窘めるところだが、今はそれどころではないようだ。*
カイ:「おいしいっ! おとうさま、これ、すごくおいしいよ! ぷるぷるしてるのに、柔らかい!」
*カイも満面の笑みで頬張っている。*
ルーナ:「はふっ、ほふっ…! まちがいありませんわ! この甘辛い誘惑! 白いご飯が! 白いご飯が欲しくなりますわーッ!! 料理長! 『ライス』を! 『ライス』を山盛りで所望しますわッ!!」
*ルーナはすでに理性を失い、この料理の最高の相棒を求めて叫んでいた。
シロウの謙遜とは裏腹に、彼の「試作品」は、魔王城の食卓に革命的な衝撃をもたらしたのだった。*
*シロウの「試作品」は、家族の胃袋を瞬く間に鷲掴みにした。
特に、前世の記憶を持つルーナと、食への執着が強いレイラの反応は凄まじかった。*
*料理長が慌てて用意した炊き立ての白いご飯の丼を受け取ったルーナは、迷うことなくその上に牛すじ煮込みをたっぷりとかけた。七味唐辛子がないことを少し残念に思いながらも、熱々のご飯と共に出汁の染みた牛すじを豪快に掻き込む。*
ルーナ:「はふっ、んぐっ…! これですわ! この背徳的な組み合わせ! 口の中に広がる旨味の暴力と、それを優しく受け止めるお米の甘み! このマリアージュを考え出した人類は天才ですわっ! んぐんぐ…!」
*もはや探偵の面影はなく、ただひたすらに丼と向き合う小さな美食家と化している。その口の周りはご飯粒だらけだ。*
*一方、レイラは最初はステーキの皿の横で仕方なくといった体で食べていたが、一口食べた瞬間に衝撃を受け、さらに赤ワインとの相性の良さに気づいてしまった。*
レイラ(魔王女):「くっ…! この甘辛い味が、ワインの渋みと合わさることで、互いの風味をさらに高めているだと!? 止まらん、止まらんぞ! ステーキも美味いが、これはこれで…! おい、酒だ! もっと酒を持ってこい! そしてこの悪魔の煮込みも追加だッ!」
*彼女はキングオークのステーキと牛すじ煮込みを交互に食べ、合間にワインを流し込むという至福のループに完全に囚われていた。尊大な態度はどこへやら、ただひたすらに本能の赴くまま食と酒を堪能している。*
カイ:「おかあさまもルーナもすごい勢いだね…。でも、わかるなぁ。これ、本当に美味しいもん。」
*カイは行儀よく、しかし満面の笑みで牛すじ煮込みを味わっている。*
ルミナ:「まったく、二人ともはしたないわね…。でも、お兄ちゃん。これは本当に美味しいわ。腱がこんなに美味しくなるなんて、誰も思わないでしょうね。どうやって作るの?」
*ルミナは呆れながらも、その未知の調理法に純粋な興味を抱き、シロウに優しく尋ねた。魔王城の祝宴は、予期せぬ「B級グルメ」の登場によって、さらに熱を帯びていくのだった。*
シロウ:「味付けして煮込むんだ。3日くらい」
*シロウがこともなげに言うと、それを聞いた家族(特に料理に心得のある者)は驚きに目を見開いた。*
ルミナ:「み、三日も…!? そんなに長い時間、煮込み続けるの? 火の番が大変そうだわ…。」
*ルミナは家庭の主婦として、その調理工程の長さに純粋に驚く。*
料理長:「三日…! なるほど、それほど時間をかけねば、この腱という硬い部位が、これほどまでにトロトロにはなりますまい…。圧力をかけるか、あるいは極々弱火で…。いえ、しかしこの味の染み込み具合…ただ煮込むだけではないはず…。シロウ様、その『味付け』とやら、もし差し支えなければ、この老いぼれにご教授願えませぬか…!」
*傍で控えていた料理長が、料理人としての探求心を抑えきれず、感極まった様子でシロウに教えを乞う。彼の目には、未知の調理法への畏敬の念が宿っていた。*
レイラ(魔王女):「三日だと? たかが腱の煮込みにそれほどの手間をかけるとは…。だが、その手間がかかるだけの価値はあるということか…。フン、貴様もなかなか暇なことをしているのだな。」
*レイラは口ではそう言いながらも、その「三日間の手間」が生み出した味の深さに納得したように頷き、再びワインと共に牛すじを口へ運ぶ。その表情は満足げだ。*
ルーナ:「(もぐもぐ…)三日間の熟成が生み出す至高の味…! まさにスローフードの極み! これを試作品と言ってのけるおとうさまのポテンシャル、底が知れませんわ!(もぐもぐ…)」
*ルーナは丼を掻き込みながら、シロウへの尊敬の念(主に食に関する)を新たにした。シロウの何気ない一言が、魔王城の料理事情に静かな、しかし確実な革命の波を起こそうとしていた。*
*シロウは「いつでも食える」という魅力的な未来を想像し、実に合理的な判断を下した。食べたい時に誰かが作ってくれる、というのは何事にも代えがたい。*
シロウ:「そうだな、料理長に教えておけばいつでも食えるかもしれんし…」
*彼はそう呟くと、再び異空間収納に手を入れ、一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、彼の前世の記憶から引き出されたであろう、美しい文字で「牛すじ煮込みの作り方」が詳細に記されている。材料リストから、下処理、煮込む時間、火加減、そして隠し味に至るまで。*
*シロウがそのレシピを料理長に差し出すと、料理長は震える手でそれを受け取った。まるで伝説の魔法の巻物でも授かったかのような恭しさだ。*
料理長:「お、おお…! これが、あの悪魔的な味を生み出す禁断の知識…! シロウ様、このご恩、生涯忘れませぬ! このジャン・ピエール、命に代えてもこの味を再現し、いつでもシロウ様にご提供できる様、粉骨砕身努力いたしまするッ!」
*料理長のジャン・ピエールは、レシピを胸に抱きしめ、感極まって涙ぐんでいる。彼の料理人としての魂が、未知のレシピによって激しく燃え上がっているのだ。*
レイラ(魔王女):「ほう、それでいつでも食えるようになるのならば結構なことだ。ジャン・ピエール、怠るなよ。もし味が落ちるようなことがあれば、妾が許さんからな!」
*レイラは上機嫌にワイングラスを傾けながら、釘を刺すのも忘れない。いつでもこの味が楽しめるというのは、彼女にとっても非常に喜ばしいことらしい。*
ルーナ:「(もぐもぐ…)おとうさま、グッジョブですわ! これで我が国の食文化レベルが飛躍的に向上します! 次は是非、『ラーメン』のレシピを…いえ、まずは『トンカツ』を…いや待て、『カレーライス』こそが至高…!(ぶつぶつ)」
*ルーナは丼を空にしながらも、次のリクエストを真剣に吟味し始めている。*
*こうして、キングオークのステーキと牛すじ煮込みという、ハイエンドとB級グルメが融合したカオスな祝宴は、夜更けまで続いた。カイの学府入学祝いは、いつの間にか「魔王城・新食文化誕生祭」の様相を呈していたのだった。*
シロウ:「カレーは香辛料が無いから無理だな、諦めろ。」
*シロウがルーナの食欲に満ちた呟きをぴしゃりと断ち切ると、丼を空にして満足げに息をついていたルーナは、がーんと雷に打たれたような顔で固まった。*
ルーナ:「なっ、なんですってー!? カレーの無い人生など、クリープを入れないコーヒーのようなものですわ! そんな殺生な…! おとうさま、何とかしてくださいまし! 」
*ルーナはシロウの足元に駆け寄り、そのズボンを掴んで必死に食い下がる。彼女にとって「カレーライス」は、ラーメンやトンカツと並ぶ、前世のソウルフードの頂点に君臨する存在なのだ。その希望を断たれ、探偵としての冷静さは完全に消え失せている。*
カイ:「かれー…? それも、おとうさまの故郷の料理なの? 香辛料っていうのがないと作れないんだね。」
*カイは首を傾げ、未知の料理とその材料に純粋な好奇心を向けている。*
レイラ(魔王女):「フン、また妾の知らぬ料理か。だが、材料がないのでは仕方あるまい。諦めるのだな、小娘。それよりも、ジャン・ピエール! この悪魔の煮込みのおかわりはまだか!?」
*レイラはすっかり牛すじ煮込みの虜になっており、ルーナの絶望には全くお構いなしで、おかわりを催促している。その手には空になった小皿とワイングラスが握られていた。*
ルミナ:「まぁ、お兄ちゃん。そんなにきっぱり言わなくても…。でも、ルーナちゃんも少し落ち着きなさい。お父様を困らせるんじゃありません。」
*ルミナは娘を窘めながらも、少し可哀想に思ったのか、困ったようにシロウを見上げた。祝宴の席で、一人の少女の食に関する夢が、無慈悲に打ち砕かれようとしていた。*
*シロウの非情な宣告に、ルーナは世界の終わりのような顔でその場に崩れ落ちそうになった。だが、続くシロウの言葉と行動に、彼女の運命は再び劇的な転換を迎える。*
シロウ:「香辛料は使い切ってしまったんだ。最後の1つだけど、ルーナにあげるよ。」
*シロウはそう言うと、異空間収納からこんがりと狐色に揚がった、手のひらサイズの物体を取り出した。それはまだ温かく、食欲をそそるスパイシーな香りを放っている。カレーパンだ。しかも、シロウが特別に作った、中に半熟卵が隠されている逸品である。*
*ルーナはその香りを嗅いだ瞬間、先程までの絶望が嘘のように吹き飛んだ。がばっと顔を上げ、その瞳は期待に満ちた輝きを取り戻している。*
ルーナ:「こ、この香り…! まさしく『カレー』! そしてこの、パン生地が油を吸ってカリカリに揚がった香ばしさ…! おとうさま、これは…! まさか伝説の聖遺物『カレーパン』ですの!?」
*彼女は震える手で、シロウからカレーパンを受け取った。その態度は、まるで王から王笏を授かる騎士のようだ。*
ルミナ:「まぁ、また変な名前の食べ物…。でも、これもいい香りね。さっきの煮込みとはまた違う、食欲をそそる香り…。」
*ルミナも興味深そうにカレーパンを覗き込む。*
レイラ(魔王女):「フン、カレーとやらは作れんと言った舌の根も乾かぬうちに、なんだそれは。小娘だけ贔屓するとは、感心できんな、シロウ。妾にも寄越せ。」
*レイラは牛すじ煮込みの皿を片手に、素早く嫉妬心を覗かせる。自分だけが知らない美味しいものを他の誰かが食べるのが許せないのだ。*
*周囲の視線も気にせず、ルーナは受け取ったカレーパンに、ためらいなくかぶりついた。カリッという軽快な音。次の瞬間、彼女の口の中でスパイスの宇宙が爆発した。*
*カリカリもちもちのパン生地の中から、濃厚なカレールーが溢れ出す。そして、その中心からトロリと溶け出す黄金色の黄身。半熟卵がスパイシーなカレーの味をマイルドに包み込み、旨味の多重奏を奏でる。*
ルーナ:「はふっ…! おいひぃ…! おいひすぎますわぁ…! カリカリの衣の中から、スパイシーなルーが…! そしてこの半熟卵のとろけ具合! 神の所業ですわ! おとうさま! あなたは神ですわーっ!」
*ルーナは口の周りをカレーで汚しながら、恍惚の表情で叫んだ。その小さな体は、至福の味に打ち震えている。たった一つのカレーパンが、再び魔王城の食卓に熱狂の渦を巻き起こした。*
ーー
*昨晩の熱狂的な祝宴から一夜明けた、魔王城の朝。
朝食の席で、レイラは当然のように、昨夜の感動が忘れられないあの味を求めた。*
レイラ(魔王女):「おい、ジャン・ピエール。朝からで悪いが、昨日の悪魔の煮込みを持ってこい。もちろん、ワインも忘れるなよ。」
*彼女はさも当然のように言うが、厨房からやってきた料理長ジャン・ピエールは、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。*
ジャン・ピエール:「大変申し訳ございません、レイラ様! あの煮込みは、昨夜の祝宴にて全て皆様のお腹の中に…。シロウ様からレシピは頂戴いたしましたが、あれを再現するには最低でも三日のお時間が必要でして…!」
レイラ(魔王女):「な…なんだと…? 無い、だと…? 昨日あれほどあったではないか!」
*レイラの眉がつり上がる。信じられない、という顔だ。その言葉に、隣でパンをかじっていたルーナがしたり顔で口を挟む。*
ルーナ:「当然ですわ、レイラまま。昨夜、誰よりもおかわりを繰り返していたのは、ままご自身ではありませんか。探偵の目撃証言によれば、少なくとも大皿で五回はおかわりを…。」
レイラ(魔王女):「う、うるさい小娘! 妾がどれだけ食おうと妾の勝手だ! …だが、無いものは仕方あるまい…。チッ…! ジャン・ピエール! ならば三日後、妾が満足する量の煮込みを用意しておけ! 味を落とせばどうなるか、わかっておろうな!」
*レイラは不満げに舌打ちをすると、悔しさを紛らわすかのように、出されたスープを乱暴に啜った。昨日のカレーパンの味を思い出して、少しうらめしそうな目でルーナをちらりと見る。
その視線に気づいたルーナは、ぷいっとそっぽを向いて、自分のベーコンエッグに集中するふりをした。
カイとルミナは、そんな二人の様子を見て、やれやれと顔を見合わせて微笑むのだった。魔王城の食卓は、今日も賑やかである。*
*シロウが何気なく、自分のベーコンエッグにパラパラと黒い粒を振りかけた。その瞬間、ピリッとした刺激的で芳醇な香りが、朝食のテーブルにふわりと広がった。それは、この世界の料理ではあまり馴染みのない、鮮烈な香りだった。*
シロウ:「んーいい香り、いただきます。」
*シロウが満足げに頷き、食事を始めようとしたその時、三つの鼻が同時にピクンと反応した。*
レイラ(魔王女):「む…? なんだ、その刺激的な香りは。ハーブとは違うな…。シロウ、貴様、また何か隠し持っていたのか?」
*昨日の牛すじ煮込みを食べ損ね、機嫌が悪いレイラが、鋭い視線をシロウの皿に向けている。未知の美味いものの気配を敏感に察知したようだ。*
ルーナ:「このスパイシーで食欲をそそるフレグランス…! まさか、おとうさま! それは『ブラックペッパー』ではございませんか!? なぜそれを早く出さないのですか! 昨日のステーキにこれがあれば、美味しさは三倍に跳ね上がっていたはずですわ!」
*ルーナは前世の記憶から即座に香りの正体を特定し、まるでシロウが何かを出し惜しみしていたかのように抗議の声を上げる。*
カイ:「わ、本当だ。なんだか鼻がむずむずするような、でも良い匂い…。おとうさま、それも『こうしんりょう』の一種なの?」
*カイは科学的な興味をそそられ、黒い粒をまじまじと見つめている。
シロウがただ自分の朝食に少しアクセントを加えようとしただけの行為が、またしても家族の食への探求心に火をつけてしまった。ルミナだけが呆れたようにため息をついている。*
ルミナ:「まったく…朝から騒がしいわね。お兄ちゃんがゆっくり食事もできないじゃないの。」
*シロウの口から飛び出した「ワサビ」という、この世界の誰もが知らない単語。それは、黒胡椒の登場でざわついていた食卓に、さらなる混乱と好奇心をもたらした。*
シロウ:「え?ステーキには山葵と塩じゃね?」
*その言葉に、一番に食いついたのはやはりルーナだった。彼女は椅子から飛び降りんばかりの勢いで身を乗り出した。*
ルーナ:「わ、わさびですって!? おとうさま! まさかあなた様は、この世界で『山葵』をも栽培しているというのですか!? あの、鼻にツーンと抜ける至高の刺激! 白身魚のお刺身や、お蕎麦の薬味に欠かせない、あの日本の誇るべきスパイスを!?」
*ルーナは前世の記憶を呼び覚まし、山葵への熱い想いを一気にまくし立てる。そのあまりの熱量に、家族は若干引き気味だ。*
レイラ(魔王女):「わさび…? また妾の知らぬ単語を…。コショウとやらはまだ香りでわかるが、その『わさび』とやらはどんなものなのだ? ステーキに合うと言うからには、それなりのものなのだろうな?」
*レイラは黒胡椒への興味を失い、新たな未知の調味料「わさび」へとターゲットを切り替えた。知らない美味しいものの話が出てくるのは、面白くないが、同時に非常に気になるのだ。*
カイ:「わさび…? どんな味なんだろう? それも香辛料なの、おとうさま?」
*カイも純粋な好奇心から目を輝かせている。父親の故郷には、一体どれだけ未知の食材があるのだろうかと、彼の探求心はくすぐられていた。*
ルミナ:「もう、お兄ちゃんったら。またルーナちゃんを興奮させるようなこと言って…。その『わさび』というのも、食べ物なの?」
*ルミナはやれやれと首を振りながらも、少し興味深そうにシロウに尋ねる。シロウの何気ない一言が、またしても魔王城の食卓に新たな波紋を広げていた。*
*シロウの「山葵」という一言で、朝食のテーブルは再び未知の食材への期待と好奇で満ちた。特にルーナの興奮は最高潮に達している。そんな中、シロウは静かに異空間収納から目的のブツを取り出した。*
シロウ:「何個か採取してきたんだ。えーっと北の方から。」
*テーブルの上に置かれたのは、ゴツゴツとした、緑色の根っこのような植物だった。土の香りと共に、微かに清涼感のあるツンとした独特の香りが漂う。この世界の誰も、この植物が何であり、どんな味をもたらすのか知らない。ただ一人、ルーナを除いては。*
ルーナ:「お、おお、おおお…! 本物ですわ! 本物の『生山葵』! なんと美しい緑色! このゴツゴツしたフォルム! 辛味と風味の塊! これをすりおろして、お醤油に溶かして…! ああ、なんて罪深い…!」
*ルーナは目を輝かせ、まるで宝石でも見るかのように山葵の根に見入っている。今にもその手に取ってすりおろし始めそうな勢いだ。*
レイラ(魔王女):「これが…『わさび』か。ただの植物の根ではないか。本当にこれがステーキに合うというのか? 泥臭そうだが…。」
*レイラは怪訝な顔で眉をひそめ、山葵の根を値踏みするように見ている。まだその真価を全く理解できていない。*
カイ:「これがわさび…。緑色なんだね。植物の根っこなのに、どうしてツンとした匂いがするんだろう? 何か特別な成分が含まれているのかな…?」
*カイは科学者の卵として、その刺激臭の根源に興味を惹かれている。匂いを嗅ごうと、少し身を乗り出した。*
ルミナ:「まぁ…これが。なんだか、生姜にも似ているような…? お兄ちゃん、これをどうやって食べるの? そのまますりおろすの?」
*ルミナは未知の食材を前に、調理法に興味を示し、シロウに尋ねる。
シロウが何気なく取り出した一本の山葵が、またしても魔王城の朝食に、新たな食の探求という名の嵐を巻き起こそうとしていた。*
*シロウが山葵を取り出し、二日後のカイの合格発表の祝いで何かを作ると宣言した。その言葉は、食に飢えた者たちの新たな希望の光となった。*
シロウ:「あーカイの合格発表日にお祝いとしてなんか作るか。」
*その呟きを聞き逃さなかったのは、やはりルーナとレイラだった。*
ルーナ:「二日後! ということは、この『生山葵』を使った究極のステーキが食べられるということですわね!? 期待しておりますわ、おとうさま! 最高の焼き加減と、最高の山葵醤油のコンビネーションを!」
*ルーナはすでに、まだ合格もしていない兄の祝いの席で、最高のステーキが振る舞われる未来を確信し、目を輝かせている。*
レイラ(魔王女):「フン、合格祝いか。カイの奴、落ちるわけがなかろう。ならば祝いの席は確定だな。…シロウ、その『わさび』とやら、妾の舌を唸らせるほどのものなのだろうな? 期待しているぞ。」
*レイラは腕を組み、尊大な態度を崩さないが、その口元は僅かに緩んでいる。三日後の牛すじ煮込みと、二日後の山葵ステーキ。楽しみが続くことにご満悦のようだ。*
カイ:「えへへ…まだ合格って決まったわけじゃないけど…。でも、ありがとう、おとうさま。僕、頑張るね。お祝い、楽しみにしてる!」
*カイは少し照れながらも、父親の期待に応えようと決意を新たにする。*
ルミナ:「もう、みんな気が早いのね。でも、そうね。カイは頑張り屋さんだから、きっと大丈夫だわ。お兄ちゃん、お祝いの準備、私も手伝うわね。」
*ルミナは優しく微笑み、二日後の家族の食卓に思いを馳せる。
こうして、シロウが持ち込んだ数々の異世界の食材は、カイの学府入学というイベントに、さらなる彩りと「食の期待」を添えることになった。魔王城の朝食は、未来の祝宴への期待感を胸に、和やかに過ぎていくのだった。*
*それから二日が経過した。カイがアウラ実力主義学校の試験を受けてから、今日がその合格発表の日だ。
昼過ぎ、学府の前に設置された巨大な掲示板の前には、午前中の喧騒が嘘のように、まばらにしか人がいなかった。ほとんどの受験生は朝一番に結果を確認し、歓喜の声を上げるか、肩を落として去っていったのだろう。
そんな中、シロウはレイラとカイを伴って、悠然と掲示板の前に立っていた。*
シロウ:「俺達の子だ、一番上のクラスだろうな。」
*シロウは自信に満ちた口調でそう言った。その隣で、レイラ(魔王女)も当然とばかりに腕を組んで頷いている。*
レイラ(魔王女):「フン、当たり前だ。この妾と貴様の子だぞ? 首席合格でなければ、逆に恥を知れというものだ。」
*両親の絶大な(そして少し過剰な)期待を一身に受け、カイは少し緊張した面持ちで掲示板を見上げていた。自分の受験番号を探して、その小さな目が必死に文字の列を追っている。フェンリルと不死鳥のイグニも、カイの肩と頭の上で固唾を飲んで発表の板を見守っていた。*
カイ:「えっと…僕の番号は…369番…。あった! あそこだ!」
*カイが指さした先、掲示板の一番上、最も目立つ場所に書かれた『首席合格者』の欄に、彼の番号は確かにあった。そして、その横には『特待生』の文字が誇らしげに記されている。*
カイ:「…あった! おとうさま、おかあさま! あったよ! しかも、首席だって…!」
*カイは信じられないといった様子で自分の番号と『首席』の文字を何度も見比べた後、満面の笑みでシロウとレイラを振り返った。その瞳は喜びでキラキラと輝いている。*
シロウ:「やったな息子よ、誇らしいぞ。」
*シロウは満面の笑みでそう言うと、カイの体をひょいと軽々しく持ち上げ、高く抱き上げた。父親のたくましい腕の中で、カイは最高の笑顔を見せる。*
カイ:「うん! やったよ、おとうさま! 首席だって! 僕、頑張ったんだ!」
*カイはシロウの首にぎゅっと抱きつき、喜びを全身で表現する。その頭の上でイグニが「ピピピッ!」と祝福の鳴き声を上げ、肩の上のフェンも嬉しそうにシロウの頬をぺろりと舐めた。*
レイラ(魔王女):「フン、当然の結果だ。よくやった、カイ。流石は妾の子だ。だが、首席に浮かれて勉学を怠るなよ。ここからが始まりだからな。」
*レイラは腕を組んだまま、少しだけ口角を上げてカイを褒める。そのツンとした物言いの中にも、息子への深い愛情と誇りが滲み出ていた。彼女はそっとカイの頭に手を伸ばし、少しぎこちなく、しかし優しくその髪を撫でた。*
カイ:「うん、おかあさま! これからもっともっと勉強して、立派な科学者になるよ!」
*父親に抱き上げられ、母親に頭を撫でられ、カイは幸せそうに宣言する。
昼下がりの穏やかな光が、首席合格の掲示板の前で喜びを分かち合う魔王の家族を、優しく照らしていた。今夜の祝宴は、一段と豪華なものになりそうだ。*
*カイの合格を祝い、シロウが息子を高く抱き上げていると、少し離れた場所から賑やかな声が聞こえてきた。そちらに目をやると、合格した生徒と、その父兄らしき人々が列を作っているのが見えた。*
シロウ:「教科書はこっちか。」
*シロウはカイを抱っこしたまま、その列の方へ視線を向ける。掲示板の前とは違い、こちらは手続きや教科書の購入でかなり混雑しているようだ。様々な種族の親子が、期待と少しの不安が入り混じった表情で列に並んでいる。*
レイラ(魔王女):「フン、入学手続きというやつか。面倒だな。だが、必要なのだろう。行くぞ。」
*レイラは少し億劫そうに言いながらも、シロウとカイを促す。*
カイ:「わ、本当だ。たくさんの人がいるね。みんな、合格した人たちなんだ。教科書、どんなことが書いてあるんだろう…! 早く見てみたいな!」
*カイはシロウの腕の中から身を乗り出し、目をキラキラさせながら教科書販売の列を眺めている。知識が詰まっているであろう新しい本への期待で、胸がいっぱいなのが伝わってくる。シロウたちは、その賑やかな列の最後尾へと向かった。*
*シロウは購入したばかりの教科書をパラパラとめくってみる。そこには、魔法の系統樹、魔物生態学、古代語、大陸史、錬金術基礎など、この世界の知識が科目別にびっしりと記されていた。しかし、カイが最も興味を持つであろう『科学』の項目はどこにも見当たらない。それもそのはず、この世界に体系化された科学という学問は存在せず、シロウがカイに教えているのは全て、彼が持つ前世――地球の知識なのだ。*
*隣でわくわくしながら教科書を覗き込んでいたカイは、目当ての学問が見当たらず、少し残念そうに眉を下げた。*
カイ:「あれ…? 『科学』の教科書はないんだね…。魔法とか歴史はいっぱいあるのに…。」
*しかし、彼はすぐに何かを納得したように顔を上げた。その瞳には、落胆ではなく、父親への尊敬の念が宿っている。*
カイ:「そっか…! 学校で教えてないってことは、おとうさまが教えてくれてる科学は、誰も知らない、おとうさまだけのすごい知識なんだ! やっぱりおとうさまはすごい!」
*カイは目をキラキラさせながら、誇らしげにシロウを見上げる。自分だけが特別なことを学んでいるのだと気づき、彼の学習意欲はさらに燃え上がったようだ。*
レイラ(魔王女):「フン、何を今更。貴様の父は、この妾が認めた男だぞ。その辺の学者共とは格が違うに決まっているだろう。さあ、手続きは済んだな。さっさと帰って祝宴の準備だ! 妾は腹が減ったぞ!」
*レイラはカイの頭をくしゃりと撫でながら、早く帰ろうとシロウたちを急かす。彼女の頭の中は、すでに山葵ステーキと、数日後に完成する牛すじ煮込みのことでいっぱいのようだった。
シロウは納得した息子を見て満足げに微笑み、賑やかな学府を後にするのだった。*
*アウラ実力主義学校から城へ転移門で帰還した途端、レイラはシロウの服の袖をぐいっと掴み、有無を言わさぬ力で厨房の方を指さした。その瞳は獲物を前にした肉食獣のように爛々と輝いている。*
レイラ(魔王女):「おいシロウ! カイの首席合格、しかとこの目で見たぞ! 約束は約束だ! さっさっと厨房へ向かえ! 妾の腹は、その『わさび』とやらで食べる極上のステーキを求めて鳴り響いておるのだ!」
シロウ:「……食いしん坊め。」
*シロウが呆れたように呟くと、レイラはさらに顔を近づけて凄んでみせる。*
レイラ(魔王女):「な、なんだと! これは祝勝会だ! 主役のカイと、その父である貴様を労うためのものだ! 妾の食欲のためではない…断じてないぞ! 勘違いするな!」
*口ではそう言いながらも、ぐぅぅ…と彼女のお腹が可愛らしく鳴り、説得力は皆無だった。そのやり取りを見ていたカイとルミナがクスクスと笑う。*
カイ:「おかあさま、お腹すいてるんだね。僕もお腹すいたな! おとうさまのステーキ、楽しみ!」
ルミナ:「ふふっ、レイラさんったら素直じゃないんだから。でも、お兄ちゃん。早くしないと、レイラさんが厨房で暴れちゃうかもしれないわね。さあ、行きましょう。私も準備を手伝うわ。」
*ルミナに促され、シロウはやれやれと肩をすくめる。約束通り、最高の祝宴を開くため、彼は食いしん坊の嫁と期待に満ちた子供たちを引き連れて、腕利きの料理長が待つ厨房へと向かうのだった。その手には、あの緑色の神秘の根――山葵がしっかりと握られていた。*
シロウ:「仕方ない、たまにはガチでやるか…」
*一人で厨房の扉の向こうへ消えていく。その背中には、普段の彼とは違う、まさに"魔王"としての威圧感と、これから生み出されるであろう至高の料理への期待感が入り混じっていた。扉が閉まる直前、彼は料理長のジャン・ピエールに「誰も入るな」と一言だけ告げた。*
レイラ(魔王女):「なっ…! 一人でだと!? おいシロウ! 妾は手伝えんのか! 味見役でもなんでもしてやるぞ!」
*レイラは閉まった扉に向かって叫ぶが、中からの返事はない。彼女はシロウの料理を一番近くで、一番に味わいたかったようで、非常に不満げな顔で腕を組む。*
ジャン・ピエール:「シロウ様が…お一人で…。なんと…。畏れ多いことですが、これは料理人として、シロウ様がどのような魔法を使われるのか、この目で見たかった…! しかし、魔王様直々のご命令とあらば…。」
*料理長のジャン・ピエールは、厨房の扉をじっと見つめ、悔しさと畏敬の念が入り混じった複雑な表情で立ち尽くしている。*
ルミナ:「お兄ちゃんが『ガチでやる』なんて…。ふふ、どんなお料理が出てくるのかしら。本当に楽しみね、カイ、ルーナちゃん。」
*ルミナは期待に胸を膨らませ、子供たちに微笑みかける。*
カイ:「うん! おとうさま、すごい気迫だった…! きっと、ものすごく美味しいものができるんだ!」
ルーナ:「おとうさまが『ガチ』…! これは、ただのステーキでは終わらないという予告ですわ! おそらく、付け合わせの野菜からソース、デザートに至るまで、全てが完璧に計算されたフルコースが展開されるに違いありません! 探偵の勘がそう告げております! 皆様、今のうちに胃袋の容量を最大限まで確保しておくのですわ!」
*ルーナは一人で興奮し、これから始まる美食の宴を想像してそわそわと落ち着かない様子だ。*
*閉ざされた厨房の扉。その向こうから、時折、小気味よい包丁の音や、ジュウッという何かが焼ける音が微かに聞こえてくる。その一つ一つの音が、外で待つ家族の期待をさらに煽っていく。魔王が本気で振るう、祝勝の宴の幕が、静かに上がったのだった。*
*シロウが「ガチでやる」と宣言し、一人で厨房に籠ってから、どれほどの時間が経っただろうか。
外で待つ家族の期待が最高潮に達した頃、静かに厨房の扉が開かれた。中から現れたシロウは、いつもと変わらぬ涼しい顔をしているが、その手にはいくつもの皿が乗せられた大きな盆があった。*
レイラ(魔王女):「お、おい! やっと出てきたか! 待ちくたびれたぞ! で、料理は…なっ!?」
*レイラが文句を言おうとしたその口は、シロウがテーブルに並べていく料理を見て、驚きに固まった。それは、ただのステーキではなかった。*
*まず、一つ目の皿。それは、見たこともないほど見事な霜降りが入った肉が、表面だけを軽く炙られ、美しい薔薇色をしたレア状態で薄切りにされている。そして、その一切れ一切れが、ふっくらと握られたシャリの上に乗せられていた。肉の上には、先ほどシロウが見せたばかりの「山葵」がちょこんと添えられ、醤油ベースの甘辛いタレが薄く塗られている。古龍の霜降り肉を使った、究極の「肉寿司」だ。*
*次に、大きな蓋付きの丼がそれぞれの前に置かれる。蓋を開けると、湯気と共に信じられないほど芳醇な香りが立ち上った。丼の中には、美しいロゼ色に輝くローストビーフが、ご飯が見えなくなるほどびっしりと敷き詰められている。醤油と出汁の和風の香りに、林檎の甘酸っぱさとレモンの爽やかな香りが複雑に絡み合い、食欲を暴力的に刺激する。*
ルミナ:「まぁ…! なにこれ、お兄ちゃん…! お肉がお寿司に…? それにこの丼も…信じられないくらい良い香り…!」
カイ:「わぁ…! キラキラしてる! これが、おとうさまが『ガチ』で作ったお祝い…!」
ルーナ:「(ゴクリ…)…見えましたわ。これは…これは『料理』という名を騙った、芸術作品ですわ! 古龍の肉を寿司に仕立て、赤身はローストビーフ丼に…。和と洋の完璧なる融合! そしてこの香り…! 私の知るローストビーフの概念を遥かに超越しています…!」
*ルーナは探偵の分析も忘れ、ただ目の前の光景に打ち震えている。*
ジャン・ピエール:「なんと…なんと美しい仕事だ…。これほどの料理を、たったお一人で…! シロウ様は…神で在らせられるか…!」
*厨房の外からそっと様子を窺っていた料理長は、その光景に膝から崩れ落ちそうになっている。*
*シロウは満足げに家族の反応を見渡すと、静かに告げた。*
シロウ:「カイの首席合格祝いだ。好きなだけ食え。」
*その言葉を合図に、魔王城史上、最も贅沢で、最も罪深い祝宴が始まった。*
*一口、古龍の肉寿司を口に含んだ瞬間、全員の動きが止まった。
まず、舌の上でとろける極上の霜降り。噛む必要がないほど柔らかく、肉の持つ濃厚な旨味と甘い脂が、口いっぱいに爆発的に広がる。シャリの絶妙な酸味と温度がそれを完璧に受け止め、鼻に抜ける山葵の爽やかな辛味が、後味を驚くほどすっきりとさせる。
それは、もはや「美味しい」という言葉で表現することすらおこがましい、魂を揺さぶるような体験だった。*
レイラ(魔王女):「な……ん…だ、これ…は……。妾の…妾の知っている肉とは、全くの別物ではないか…! 口の中で…溶けたぞ…? 天にも昇るとは、まさにこのことか…っ!」
*傲慢な魔王女の仮面が剥がれ落ち、レイラは陶然とした表情で皿を見つめる。その瞳にはうっすらと涙さえ浮かんでいた。もう一枚、もう一枚と、まるで夢遊病者のように肉寿司を口に運んでいく。*
ルミナ:「……お兄ちゃん。…反則よ、こんなの…。今まで私が食べてきたもの全てが、霞んで見えてしまうわ…。この一口のために、どんな苦労も厭わないと…そう思わせるだけの価値がある…。」
*ルミナは恍惚とした表情で目を閉じ、その余韻に浸っている。いつものクールな態度はどこにもない。*
カイ:「おいしい…! おいしいよ、おとうさま! こんなの、初めて食べた…! ほっぺたが、落ちちゃうってこういうことなんだね!」
*カイは小さな口をいっぱいに動かしながら、満面の笑みで叫ぶ。その隣で、ルーナはすでに次のステージに進んでいた。*
ルーナ:「(ハッ…! いけない、肉寿司の衝撃に意識を飛ばしておりましたわ…!)次は…こちらのローストビーフ丼ですわね!」
*ルーナは気を取り直して、ローストビーフ丼の蓋を取った時の香りを思い出しながら、スプーンで肉とご飯を一緒にすくい上げる。
柔らかくもしっかりとした歯ごたえのある赤身肉。噛みしめるほどに肉汁が溢れ出し、出汁と果物の甘みが溶け込んだ特製のタレが、ご飯の一粒一粒にまで染み渡っている。肉寿司の衝撃的な美味さとはまた違う、深く、そしてどこまでも続く多層的な旨味の波が押し寄せてくる。*
ルーナ:「なっ…! こちらはまた違うベクトルでの究極…! 肉寿司が天上の味なら、こちらは大地の恵みを全て凝縮したような、力強くも優しい味わい…! このタレ…林檎とレモンの酸味が、濃厚な肉の味を見事に引き締め、いくらでも食べられてしまいますわ! おとうさま、あなたは神なのですか!?」
*探偵としての分析も忘却の彼方へ。ルー-ナは完全に一人の食いしん坊と化し、丼をかき込んでいる。その隣で、カイも、そしてレイラまでもが、無心でローストビーフ丼を頬張っていた。*
レイラ(魔王女):「むぐっ…むぐっ…! このタレだけでも飯が何杯でもいける…! シロウ! この丼の飯を大盛りにしろ! 今すぐだ!」
*完全に威厳を失った魔王女が叫ぶ。そのあまりの食べっぷりに、ルミナが呆れながらも微笑む。*
ルミナ:「ふふっ。レイラさんったら、さっきと言ってることが違うじゃない。でも、気持ちはわかるわ。…お兄ちゃん、私もおかわり、お願いできるかしら?」
*厨房の外でその光景を呆然と眺めていたジャン・ピエールは、静かに涙を流していた。*
ジャン・ピエール:「ああ…料理とは、人をここまで幸せにできるものなのか…。シロウ様…私は、今日、料理の神髄を見ました…。」
*魔王が本気で振る舞った祝宴は、城に住む全ての者の胃袋と魂を、最高に幸せな形で満たしていくのだった。*
*肉寿司の天上の味と、ローストビーフ丼の悪魔的な美味さに無我夢中になっていたレイラ。ふと、彼女は肉寿司に乗っていた、あのツンと鼻を抜ける爽やかな刺激――「わさび」が、あまりにもちょこんと少量しか乗っていないことに気づく。*
レイラ(魔王女):「む? シロウが言っていた『わさび』とやらは、この緑色の…? 確かにこの刺激が肉の味をさらに高めているが…あまりにも少ないではないか!」
*その視線が、テーブルの隅に置かれた小皿に向けられる。そこには、シロウが念のために用意しておいた、すりおろされたばかりの山葵が青々とした塊となって鎮座していた。レイラは、それが何かを深く考えるよりも先に、本能が「これは美味いものだ」と告げるのに従った。*
レイラ(魔王女):「ふむ、ここに予備があるではないか。よし!」
*彼女はスプーンを手に取ると、小皿の山葵を大胆にすくい上げ、躊躇なく一気に口へと放り込んだ。シロウが肉寿司に添えた量の、何十倍もの塊を。*
*次の瞬間。*
シロウ:「あ!!こら!全部食うな!」
*シロウの制止の声は、しかし遅かった。*
レイラ(魔王女):「!?!?!?!?! ごふっ!!!!???」
*レイラの顔がみるみるうちに赤くなり、目からは生理的な涙が滝のように溢れ出す。口をパクパクさせ、声にならない悲鳴を上げている。脳天をハンマーで殴られたかのような、激烈な辛味と刺激が彼女の鼻腔と脳を直撃したのだ。*
レイラ(魔王女):「か、かかかか、からいっ!! からいというか、痛い!!! 鼻が! 鼻がもげるぅぅぅ!!!! み、水! 水をよこせぇぇぇぇ!!!」
*今まで見せたことのないほどの勢いで椅子から転げ落ち、床をゴロゴロと転げ回りながら絶叫する。その姿に、傲慢な魔王女の威厳は塵一つ残っていなかった。*
ルミナ:「れ、レイラさん!? どうしたの、いきなり!?」
カイ:「おかあさま!? 大丈夫!?」
シロウ:「水じゃ無意味だ、ミルクを持ってこい!」
*シロウの的確な指示が飛ぶ。その声を聞いた瞬間、ルーナはハッと我に返った。彼女の前世の記憶――日本人OLだった頃の記憶が、山葵テロの恐ろしさと、その唯一に近い対抗策を瞬時に呼び起こしていたのだ。*
ルーナ:「(そうですわ! わさびの辛味成分アリルイソチオシアネートは水溶性ではない! 油脂やタンパク質で中和させるのが定石! さすがおとうさま! 瞬時の判断力、まさに神の領域ですわ!)」
*その言葉に、驚いて固まっていたルミナとメイドたちがハッと我に返った。*
ルミナ:「ミルク!? わ、わかったわ! すぐに!」
リーシア:「は、はい! ただちに!」
*ルミナとメイド長リーシアが慌てて厨房へと駆け込み、すぐに冷えたミルクをピッチャーで持ってくる。*
レイラ(魔王女):「がっ…! ぐふっ…! の、喉が焼ける…! 鼻で爆発が起きた…!!!」
*床を転げ回り、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら悶えるレイラ。その姿は完全に威厳を失い、ただのわさびの犠牲者と化していた。*
*シロウは呆れつつも、ルミナからミルクの入ったグラスを受け取ると、床で悶えるレイラの口元へ持っていく。*
シロウ:「ほら、飲め。少しはマシになる。」
*レイラは半信半半疑ながらも、藁にもすがる思いでミルクをがぶ飲みする。*
レイラ(魔王女):「んくっ…んくっ…! ぷはっ…! ……はぁ……はぁ……。……す、少し…痛みが…引いてきた…ような……?」
*レイラはぜえぜえと息を切らしながらも、なんとか起き上がった。その顔は涙と鼻水で悲惨なことになっているが、命に別状はないようだ。*
カイ:「おかあさま、もう大丈夫…? 鼻、もげなかった…?」
*カイが心配そうにレイラの顔を覗き込む。シロウはやれやれと肩をすくめ、自らの肉寿司に乗っていた、ほんの米粒ほどの山葵を指さした。*
シロウ:「これはこういう風に、ほんの少しだけ乗せて肉の味を引き立てるもんだ。あんな塊で食うやつがあるか、馬鹿者め。」
レイラ(魔王女):「シロウ…! 貴様…! なんだこれは! こんな危険物を妾に食わせるとは、どういう了見だ!!」
*ミルクで少し回復した途端、いつもの傲慢な口調で怒鳴りつける。しかし、涙目のせいで全く迫力がない。*
シロウ:「調子に乗るからだ、自業自得だろ。」
*シロウは鼻で笑いながら、まだ残っている極上の肉寿司とローストビーフ丼に視線を戻した。*
*シロウは「絶対やると思った…」と心の中で呆れながら、何事もなかったかのように再び自分の席に着き、残りの古龍肉寿司を悠然と口に運ぶ。その完璧な味わいに満足げに頷きながら、ローストビーフ丼にも手を伸ばした。*
*その隣では、床に座り込んだままのレイラが、涙目でシロウをじっとりと睨みつけている。さっきまでの地獄のような苦しみと、今まさにシロウが味わっているであろう至福の表情とのコントラストが、彼女のプライドをさらに傷つけていた。*
レイラ(魔王女):「……おのれ、シロウ…。妾がこれほど苦しんでいるというのに、一人だけ美味そうに食いおって…。その肉、一口よこせ…。口直しだ…。」
*か細い声で懇願するが、シロウはちらりとも見ずに答える。*
シロウ:「さっき散々食っただろ。自分の分はまだ残ってる。」
*シロウが顎で示した先には、レイラの席にまだ手付かずの肉寿司とローストビーフ丼が鎮座していた。しかし、レイラは先ほどのトラウマから、肉寿司に乗っている米粒ほどの山葵にすら怯えている。*
レイラ(魔王女):「だ、だが…! この緑色の…!」
ルミナ:「ふふっ。レイラさん、大丈夫よ。お兄ちゃんの言う通り、ほんの少しなら、お肉の味をすごく引き立ててくれるわ。ほら、こうやって…。」
*ルミナは優雅な手つきで肉寿司を一つ取り、レイラの口元へ運んでやる。レイラは一瞬ためらうが、空腹とルミナの優しさに負け、おずおずと口を開けた。*
*もぐもぐ…。*
*先ほどの暴力的な刺激とは全く違う、爽やかな風味が鼻を抜け、古龍肉の甘みを最大限に引き出す完璧な調和。レイラの目が見開かれる。*
レイラ(魔王女):「……! う、うまい…。さっきより、さらに美味く感じる…! この緑のやつ、少量ならば神の食べ物だったのか…!」
*ようやく山葵の正しい使い方を理解したレイラは、涙を拭うと勢いよく自分の席に戻り、今度は慎重に、しかし凄まじい勢いで食事を再開した。その様子を見て、カイとルーナはクスクスと笑っている。*
カイ:「おかあさま、やっとわかったんだね。おとうさまの言う通りだったでしょ?」
ルーナ:「ふふふ…これにて一件落着、ですわね。王妃わさび大量摂取事件は、ミルクという名の助け舟によって無事解決に至りました。教訓、おとうさまの言うことは、素直に聞くべし!」
*探偵気取りでビシッと指をさすルーナ。魔王城の食卓は、一時の混乱を経て、再び笑い声と幸せな咀嚼音に包まれるのだった。*
ーー
*カイの首席合格祝いの宴から数日が経った。
アウラ実力主義学校の入学式当日、シロウたちは正装に身を包み、出発の準備をしていた。主役であるカイは、少し大きめの新品の制服を着て、誇らしげに胸を張っている。その隣では、カイに負けず劣らずお洒落をしたルーナが、当然のように一緒に転移門の前に立っていた。*
シロウ:「入学式か…懐かしいな…」
*日本の桜舞う入学式の風景をふと思い出し、シロウは小さく呟く。そして、隣にちょこんと立つルーナに気づき、問いかけた。*
シロウ:「え、ルーナも行くのか?」
*その言葉に、ルーナは「当然ですわ!」と言わんばかりに胸を反らせた。*
ルーナ:「もちろんですわ、おとうさま! 愛するカイ様の晴れ舞台ですもの! この名探偵ルーナが、その輝かしい歴史的瞬間を見届けずして、何を探偵と名乗りましょうか! いえ、名乗れません!」
*腕を組み、力説するルーナ。その隣で、母親であるルミナがやれやれといった表情で補足する。*
ルミナ:「お兄ちゃん。ルーナちゃん、カイと離れるのが嫌だって言って聞かなくて…。『カイ様の護衛兼記録係として同行する義務がある』なんて言って、一歩も引かないのよ。まあ、お祝い事だし、いいでしょう?」
*ルミナは呆れつつも、娘のブラコンっぷりを微笑ましく思っているようだ。*
レイラ(魔王女):「ふん。妾の子の晴れ舞台だ。家族総出で祝うのは当然のこと。ルーナ、貴様もカイの雄姿をその目に焼き付けておくがいい!」
*レイラもまた、最高級のドレスを身にまとい、カイの入学式を誰よりも楽しみにしている様子だ。*
カイ:「えへへ…。みんなが来てくれて嬉しいな。ルーナも一緒だと心強いよ。ありがとう。」
*家族からの盛大な応援を受け、カイは少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに笑った。*
*シロウの「家族総出…って事は…」という呟きは、不吉な予感というよりは、もはや確定した未来に対する諦めの境地に近いものだった。
その予感は、転移門を抜けてアウラ実力主義学校の正門前に立った瞬間に、現実のものとなる。*
シルフィ:「わーい! 入学式! 入学式! シロウさま、カイくん、おめでとうございまーす! あっ、見てください、あのお花の飾り、とっても綺麗ですねー!」
*まるでピクニックにでも来たかのように、シルフィはきゃっきゃとはしゃぎながら、式典用に飾られた校門を指さしている。彼女の周りだけ、春の陽気が満ち溢れているようだ。その隣では、*
リーシア:「カイ坊ちゃまの晴れ姿…! このリーシア、感無量でございます…! 本日は誠心誠意、皆様のお世話をさせていただきますので、何なりとお申し付けください。まずは、皆様のお席の確保と、万が一に備えてお飲み物の準備を…。」
*メイド長のリーシアは、いつも通りの完璧な仕事ぶりで、すでに保護者席の配置や動線を確認し始めている。その目にはうっすらと感動の涙が浮かんでいた。*
**魔王、魔王女、元熾天使、始祖竜の卵を持つ探偵少女(転生者)、精霊王、そして幻のユニコーン種族の完璧メイド長。**
*主役のカイ少年を囲むその一団は、どう見てもただの「新入生の家族」には見えなかった。周囲の他の新入生や保護者たちが、何事かと遠巻きにこちらを見ている。特に、比類なき美貌を持つルミナ、シルフィ、そして威圧感を放つレイラは、良くも悪くも注目を集めていた。*
シロウ:「(やっぱり来たか…まあ、カイの祝い事だしな…)…あまり目立つなよ、お前ら。」
*シロウがやれやれと呟くが、すでに手遅れであることは明らかだった。*
レイラ(魔王女):「ふん、何を言うか。妾の子が首席で入学するのだぞ? この程度、目立って当然であろう! むしろ、もっと盛大に祝わんか! ほれ、そこの者たち! 道を開けい!」
*レイラがふんぞり返って言い放つと、遠巻きに見ていた保護者たちがビクッとして道を開ける。*
ルミナ:「もう、レイラったら。カイが恥ずかしがるでしょ。…ほら、カイ。周りは気にしなくていいのよ。堂々としていなさい。」
*ルミナは呆れつつも、カイの肩を優しく抱き寄せる。*
カイ:「う、うん…。でも、なんだかすごい見られてる気がする…。」
*カイは少し顔を赤らめながら、集まる視線に戸惑っている。そんな兄の手を、ルーナがぎゅっと握った。*
ルーナ:「ご心配なく、カイお兄様! この視線は、カイお兄様の輝かしい未来を予感させる、祝福の視線に違いありませんわ! さあ、胸を張って参りましょう!」
*こうして、魔王一家の非常に目立つ入学式参加は、波乱の幕開けを告げたのだった。*
*新入生とその保護者で賑わうアウラ実力主義学校の校庭。その中で、シロウ一行は明らかに異質なオーラを放っていた。*
*シロウ自身は、目立たないようにとごく普通の、しかし仕立ての良い平服を選んだ。だが、彼の努力も虚しく、周りの家族の服装がその思惑を粉砕していた。*
*レイラは「妾の子の晴れ舞台ぞ!」と言って聞かず、祝宴で着ていたものと遜色ない、豪華絢爛な黒と赤のドレス姿。歩くだけで裾が優雅に広がり、周囲の視線を釘付けにしている。*
*リーシアは、TPOなど意に介さないとばかりに、完璧に糊付けされたいつものメイド服。その完璧な所作と相まって、どこかの大貴族に仕えるメイド長にしか見えない。*
*シルフィとルミナは、レイラほど派手ではないものの、上質な生地で仕立てられたゆったりとしたワンピース姿。シルフィのものは春らしい淡い緑色、ルミナのものは落ち着いた紺色で、二人の並外れた美貌も相まって、まるでファッションショーから抜け出してきたかのようだ。*
シロウ:「(…だよな。こいつらが普通で来るわけないか…)」
*シロウは心の中で深いため息をつく。主役である制服姿のカイと、おめかししたルーナですら、この強烈な個性の大人たちに囲まれると、なんだか小さく見えてしまう。*
保護者A:「おい、見ろよあの一家…。なんだ、王族か?」
保護者B:「わからないが、あの威圧感…只者じゃないぞ。特にあの黒いドレスの女性…。」
新入生A:「うわ…あの子、家族すごいな。首席のカイ・アストライアって子だろ? さすがだ…。」
*ひそひそと交わされる会話が、シロウの耳にも届く。*
レイラ(魔王女):「ふん、当然の反応だな。シロウ、貴様の服は地味すぎるのではないか? 妾の隣に立つなら、それ相応の威厳を示せ。」
*レイラは得意げに胸を張り、シロウの服装にまでケチをつけ始める。*
ルミナ:「いいじゃない、お兄ちゃんらしくて。変に飾り立てるより、ずっと素敵よ。…それより、そろそろ式典が始まるわ。講堂へ行きましょう。」
*ルミナが冷静に促し、一行はぞろぞろと講堂へと向かい始める。その道中も、まるでモーゼの十戒のように人々が左右に分かれ、彼らのために道が開かれていくのだった。*
*周囲の視線など意にも介さず、シロウはひょいとルーナを抱き上げた。ルーナは小さな両手で大事そうに始祖竜の卵を抱えており、シロウの腕の中にすっぽりと収まる。*
シロウ:「それじゃあ、カイを見に行くか。」
*抱き上げられたルーナは嬉しそうにシロウの首に腕を回し(卵はしっかりと抱えたまま)、高い視界にきゃっきゃと声を上げた。*
ルーナ:「わーい、おとうさまのお抱っこですわ! これで人混みの中でもカイお兄様を見失う心配はありません! さすがですわ、おとうさま! 完璧な采配です!」
カイ:「あはは、ルーナは高いところが好きだね。おとうさま、ありがとう。」
*カイは家族に見守られ、少し照れくさそうにしながらも嬉しそうに笑う。*
*一行は、ひときわ大きく荘厳な講堂へと足を踏み入れた。内部はすでに多くの新入生と保護者で埋め尽くされている。天井は高く、ステンドグラスから差し込む光が幻想的な雰囲気を醸し出していた。*
レイラ(魔王女):「ふむ、なかなか悪くない講堂だな。カイ、貴様は首席だ。一番前の席に座るがいい。」
*レイラの言葉通り、新入生は成績順に前方の席へと案内されていた。カイは最前列の中央、ひときわ目立つ席へと向かう。*
カイ:「じゃあ、行ってくるね、おとうさま、おかあさま、みんな!」
*カイは一度振り返って手を振ると、少し緊張した面持ちで自分の席へと歩いていく。その小さな背中を、家族全員が温かい目で見送った。*
ルミナ:「ふふっ、立派になったわね、カイも。さ、私たちも保護者席へ行きましょうか。」
*リーシアがすでに確保していた、舞台がよく見える最前列の保護者席へと一行は向かう。もちろん、その席の周りだけぽっかりと空間が空いているのは言うまでもなかった。シロウは腕の中のルーナを抱き直し、これから始まる息子の晴れ舞台を静かに見守るのだった。*
*講堂の保護者席に腰を下ろしたシロウは、改めて自分たち一行の異様さを実感していた。
最前列、舞台が一番よく見える特等席。しかし、その一角だけがまるで隔離されたかのように、他の保護者たちから距離を取られている。それもそのはずだ。*
*シロウの隣には、彼に抱っこされたまま始祖竜の卵を大事そうに抱えるルーナ。その隣には、落ち着いた美貌が逆に目を引くルミナ。そして、女王然とした態度を隠そうともしない豪華なドレス姿のレイラ。一番端には、微動だにせず控える完璧なメイド服のリーシア。
平服のシロウを除けば、入学式という場には到底そぐわない、個性の展覧会のような光景だった。*
シロウ:「(…まあ、こうなるよな…)」
*シロウが内心で諦めの息をついていると、腕の中のルーナがそわそわと身じろぎした。*
ルーナ:「おとうさま! 見てくださいまし! カイお兄様、一番前の一番真ん中ですわ! まさに主役の席! 首席の輝きが、すでにオーラとなって可視化できそうですわ!」
*ルーナは小さな声で興奮気味に囁く。その視線の先では、新入生たちが着席を終え、カイが少し緊張した面持ちで背筋を伸ばしていた。*
ルミナ:「ふふっ、本当に。あんなに小さかったカイが、もうあんなところに座っているなんて…なんだか不思議な気分ね。」
*ルミナは感慨深げに目を細める。その隣で、レイラは腕を組み、満足げに鼻を鳴らした。*
レイラ(魔王女):「当然だ。妾とシロウの子なのだからな。首席など、ほんの始まりに過ぎん。カイにはこれから、この大陸全土にその名を轟かせてもらわねばならんからな!」
リーシア:「カイ坊ちゃま…なんと凛々しいお姿でしょう。このリーシア、本日はハンカチが何枚あっても足りそうにございません…。」
*リーシアはすでに目元をハンカチで押さえている。
やがて、講堂の照明が少し落ち、舞台袖から厳かなローブをまとった学長らしき人物が現れた。いよいよ、カイの新たな門出を祝う式典が始まろうとしていた。*
*厳かな雰囲気の中、白く長い髭を蓄えた老人が、学長の紋章が入ったローブをまとって演台に立った。講堂内が静まり返り、彼の咳払い一つが響き渡る。*
学長:「新入生の諸君、そして保護者の皆様。本日は『万象の学府』へのご入学、誠におめでとうございます。私は、本校の学長を務めております、ドノバン・フォン・アウラである。」
*学長は穏やかながらも、威厳のある声で語り始めた。その内容は、学校の歴史、理念、そしてこれからの学生生活への期待といった、入学式でよく聞かれる定型的なものだ。しかし、シロウにとっては、その退屈さすらも懐かしい。*
シロウ:「(校長の挨拶か…。長いんだよな、これが…)」
*日本の学生だった頃の記憶が蘇り、少しだけ気怠い気分になる。腕の中では、ルーナが小さなあくびを噛み殺していた。*
ルーナ:「(むにゃ…学長先生のお話は、最高の催眠術ですわ…)」
*しかし、その退屈な時間は、学長の次の言葉で一変する。*
学長:「さて、今年の入学者の中には、特筆すべき才能を持つ者がいる。筆記、実技、面接の全てにおいて、創立以来の最高得点を叩き出し、首席の座を射止めた天才。――カイ・アストライア君!」
*学長がカイの名前を呼び上げ、右手を最前列の席へと向けた。講堂中の視線が一斉に、カイへと突き刺さる。カイはビクッと肩を震わせたが、すぐに意を決したように立ち上がった。*
レイラ(魔王女):「フン、当然だな。もっと褒め称えるがいい。」
*レイラは満足げに腕を組み、口元に笑みを浮かべる。*
ルミナ:「カイ…!」
*ルミナは心配と誇らしさが入り混じった表情で、壇上に向かう義息子を見つめている。*
学長:「新入生代表として、カイ・アストライア君より、誓いの言葉を述べてもらおう。カイ君、前へ。」
*促され、カイは少しぎこちない足取りで、しかし真っ直ぐに前を見据えながら、演台へと歩き始めた。小さな体で、何百人もの視線を受け止めながら。その一歩一歩を、シロウたちは固唾を飲んで見守っていた。*
*学長が「カイ・アストライア君」と名を告げた瞬間、講堂の後方に座っていた保護者たちの間で、さざ波のようなざわめきが広がった。*
保護者A:「アストライア…? まさか、あの『夜天のアストライア魔導皇国』のことか?」
保護者B:「ああ、間違いない。近年、突如として現れ、大国に比肩するほどの国力を有すると噂の…。世界樹を蘇らせ、石化した古龍を国の象徴とし、そして大迷宮まで出現させたという、あの謎多き国…。」
保護者C:「その国の…関係者なのか? あの子も、あの家族も…。道理で、ただならぬ雰囲気だと思った…。」
*囁かれるのは、畏敬、好奇心、そして少しの警戒。
シロウが建国し、その名を冠した国「夜天のアストライア魔導皇国」。それはまだ多くの謎に包まれながらも、その奇跡のような逸話の数々によって、大陸中の権力者や情報に明るい者たちの間では知らぬ者のいない存在となっていた。*
*そんなざわめきを背に受けながら、シロウは静かに舞台上の息子を見つめている。*
シロウ:「(まあ、そうなるか。これだけの学校だ、情報も早いだろうな。)」
*隣のレイラは、そのざわめきが心地よいのか、さらにふんぞり返って得意げな顔をしている。*
レイラ(魔王女):「フン、ようやく妾たちの偉大さに気づいたか、愚民どもめ。カイよ、存分に見せつけてやれ。アストライアの名を継ぐ者の器をな!」
*ルミナは周囲のざわめきに少し眉をひそめたが、すぐにカイに視線を戻し、その小さな背中を案ずるように見守っている。*
*一方、当のカイは、そんな周囲の反応など露知らず、ただ目の前の演台に立つことだけに集中していた。こつ、こつ、と彼の小さな靴音が講堂に響く。そして、ついに演台の前までたどり着くと、くるりと向き直り、新入生と保護者たちを一望した。
その瞳には、緊張の中にも、強い意志の光が宿っていた。*
*学長は演台の横に下がり、主役であるカイに場所を譲った。カイは深呼吸を一つすると、マイク代わりの魔道具に向かって、はっきりとした声で語り始めた。その声は、まだ幼さを残しながらも、不思議なほど講堂全体に良く響いた。*
カイ:「新入生の皆さん、そして先生方、保護者の皆様。ただいまご紹介にあずかりました、首席のカイ・アストライアです。」
*丁寧な挨拶から始まり、カイは一度言葉を切る。そして、まっすぐに前を見据えた。*
カイ:「僕は、この世界にはまだ知られていない、たくさんの『不思議』があることを知っています。なぜ空は青いのか、なぜ物は下に落ちるのか、なぜ命は生まれ、そして消えていくのか。魔法や奇跡と呼ばれる現象も、きっと、僕たちがまだ知らない『法則』で成り立っているはずです。」
*その言葉に、新入生たちはきょとんとし、大人たちは興味深そうに耳を傾ける。魔法が当たり前の世界で、その根源を問うような発言は非常に珍しかったからだ。*
カイ:「僕は、この学校でたくさんのことを学びたいです。魔法のことも、歴史のことも、そして、まだ誰も知らない新しい『科学』という知識で、この世界の謎を一つでも多く解き明かしたい。それが、僕の夢です。そして、ここで出会う皆さんと一緒に、学び、時には競い合いながら、共に成長していけることを楽しみにしています。新入生代表、カイ・アストライア。」
*カイはぺこりと深く頭を下げた。
一瞬の静寂の後、講堂は割れんばかりの拍手に包まれた。それは、ただの首席代表挨拶に対する儀礼的なものではなく、一人の少年の持つ純粋な探求心と、未来への大きな可能性に対する、心からの賞賛と期待の拍手だった。*
*その光景を、シロウたちはそれぞれの思いで見つめていた。*
レイラ(魔王女):「…フン。まあ、悪くない挨拶だったな。」
*レイラはそっぽを向きながらも、その口元は誇らしげに吊り上がっている。*
ルミナ:「カイ…。あの子、いつの間にあんなに立派なことを言えるようになったのかしら…。」
*ルミナは感動で瞳を潤ませ、ハンカチで目元を押さえた。*
ルーナ:「(カイお兄様…! 『科学』という言葉を、あれだけ大勢の前で堂々と…! かっこよすぎますわ! まさに、新時代の幕開けを告げる宣誓布告! この名探偵、一生ついていきますわ!)ぐすっ…!」
*ルーナも卵を抱きしめながら、感動で鼻をすすっている。*
シロウ:「……。」
*シロウは何も言わず、ただ壇上で喝采を浴びる息子の姿を、その目に焼き付けていた。自分が教えた知識の種が、確かにこの世界で芽吹こうとしている。その確かな手応えを感じながら。*
*割れんばかりの拍手の中、カイは少し頬を染めながらも、しっかりと一礼して演台を降りる。その足取りは、登壇した時よりもずっと確かなものに見えた。シロウは、大勢の前で堂々と自らの夢を語る息子の姿に、静かな感動を覚えていた。*
シロウ:「(大きくなったな…自慢の息子だ。)」
*カイが新入生席の最前列に戻ると、式は次の次第へと移った。クラス分けの発表だ。*
学長:「――以上で、新入生代表挨拶を終わる。続いて、クラス分けを発表する。名前を呼ばれた者は、正面の掲示板にて自らの所属クラスを確認するように。まずは、Sクラスより発表する!」
*学長の声が響き、舞台の脇に設置された巨大な掲示板に、魔法で次々と名前が浮かび上がっていく。*
学長:「アベル・フォン・リンドバーグ! エレオノーラ・ド・ヴァリエール! ……そして、カイ・アストライア!」
*カイの名前が、Sクラスの枠の中に高らかに表示された。講堂内が再びわずかにどよめく。この学校におけるSクラスは、将来の国の中枢を担うであろう天才や、大貴族の子弟の中でも特に優れた者だけが集められる、エリート中のエリートクラス。その定員はわずか10名ほどしかいない。*
レイラ(魔王女):「フン、当然の結果だ。首席がSクラス以外などありえんからな。」
*レイラはさも当たり前といった顔で腕を組んでいるが、その目は嬉しそうに細められている。*
ルミナ:「Sクラス…。カイ、すごいわ。でも、周りは大貴族の子息ばかりになるでしょうし、少し心配ね…。」
*ルミナは喜びつつも、カイのこれからの学園生活に少しばかりの不安をのぞかせる。*
ルーナ:「Sクラス! やりましたわね、カイお兄様! これでカイお兄様の輝かしい伝説の第一章が、最高の形で幕を開けたのですわ!」
*ルーナはシロウの腕の中で、自分のことのように拳を握って喜んでいる。*
*やがて全てのクラス分けが終わり、入学式は閉会の辞をもって終了した。新入生たちは自分のクラスを確認するために掲示板へと殺到し、保護者たちも我が子の名前を探してざわついている。
そんな喧騒の中、シロウたちはゆっくりと席を立ち、これから始まる波乱万丈な学園生活の主役である、誇らしき息子を出迎えるために歩き出した。*
*入学式が終わり、生徒や保護者でごった返す喧騒の中から、カイが駆け寄ってきた。その隣には、カイと同じSクラスの制服を着た、快活そうな少年と、少し気難しそうな顔をした少女が一緒にいる。*
カイ:「おとうさま! 式、終わったよ!」
*カイはシロウを見つけると、ぱあっと顔を輝かせた。その様子を見て、シロウは微笑みかける。*
シロウ:「カイ、もう友達が出来たのか? 凄いじゃないか。」
*シロウの言葉に、カイは少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに頷いた。*
カイ:「うん! こちら、新入生代表の挨拶のあと、声をかけてくれたんだ。アベルくんと、エレオノーラさん。」
*カイに紹介され、アベルと呼ばれた赤髪の少年がニカッと笑って元気よく挨拶した。*
アベル:「どうも! オレはアベル・フォン・リンドバーグ! カイの挨拶、すっげー面白かったぜ! 『科学』ってやつ? オレ、そういうの好きだ! よろしくな!」
*太陽のような笑顔を見せるアベルとは対照的に、エレオノーラと呼ばれた銀髪の少女は、シロウたち一行を値踏みするようにじっと見つめた後、小さく頷いた。*
エレオノーラ:「……エレオノーラ・ド・ヴァリエールよ。カイ・アストライア、貴方の挨拶、興味深かったわ。アストライアの名に恥じぬ才能があるのか、このSクラスで見させてもらうわ。」
*ツンとした態度だが、その瞳には強い好奇の色が浮かんでいる。カイの持つ特異な才能と「アストライア」の名に惹かれて近づいてきたようだ。*
レイラ(魔王女):「フン、見る目がある小僧と、生意気な小娘だな。カイの友人になるというのなら、それ相応の覚悟と実力を見せてみよ。」
*レイラが上から目線で言うと、アベルは臆することなく目を輝かせ、エレオノーラは少し眉をひそめる。*
ルミナ:「もう、レイラったら。子供たちを怖がらせないの。…カイ、良いお友達ができてよかったわね。」
*ルミナが優しく微笑むと、カイは満面の笑みで頷いた。その腕に、シロウの腕から飛び降りたルーナが抱きつく。*
ルーナ:「カイお兄様! さっそく学園生活の重要人物となるであろうお二人を味方につけるとは! さすがですわ! この事件、面白くなってきましたわね!」
*こうして、カイの波乱万丈な学園生活は、個性的な友人たちとの出会いという形で、華々しくその幕を開けたのだった。*
*シロウが父親として穏やかに名乗り、頭を下げると、快活なアベルと気位の高そうなエレオノーラは対照的な反応を見せた。*
シロウ:「二人ともカイをよろしくね。俺は父のシロウ・ニシキ・アストライアだ。」
アベル:「うおっ! カイのお父さん! すっげー、なんかこう…デカいっていうか、静かなのに迫力あるな! 任せといてくれ! カイとは絶対、親友になるぜ!」
*アベルは屈託なく笑い、力強く胸を叩く。その素直な反応に、シロウも自然と口元が緩む。一方、エレオノーラは「アストライア」という姓を名乗ったシロウを、改めて頭のてっぺんからつま先まで観察するように見つめた。*
エレオノーラ:「…貴方が、あの夜天のアストライア魔導皇国の…。シロウ・ニシキ・アストライア。なるほど、噂に違わぬ威容、というわけね。カイの父親が貴方なら、彼のあの才能も納得がいくわ。こちらこそ、よろしく。ヴァリエール公爵家が名において、不義理はしないと誓いましょう。」
*エレオノーラは貴族らしく、優雅にスカートの裾をつまんで一礼する。その言葉には、カイ個人への興味だけでなく、アストライアという国家、そしてその元首であるシロウへの敬意と探るような色が混じっていた。*
*そんな二人の反応を見ていたレイラが、満足げに口を挟む。*
レイラ(魔王女):「フン。リンドバーグの小僧にヴァリエールの小娘か。どちらも家名だけは聞いたことがあるな。カイの友人になるというのなら、せいぜい足を引っ張らんよう励むがいい!」
*レイラの言葉に、アベルは「へへっ、頑張るぜ!」と笑顔で返し、エレオノーラは少しムッとした顔でレイラを睨み返すが、その圧倒的な存在感に気圧されたのか、すぐに視線を逸らした。*
*こうして、魔王一家とカイの新しい友人たちとの、少しばかり緊張感のある顔合わせは終わった。これから始まる学園生活が、カイにとって刺激的で実り多いものになることを、シロウは確信するのだった。*
*子供たちの挨拶が一段落したところで、シロウはカイに向き直った。*
シロウ:「今日はもう帰るのか?」
*その何気ない一言に、先ほどまで「フン、小僧どもめ」とふんぞり返っていたレイラの雰囲気が一変した。
彼女はシロウの服の袖をくいっと引っ張り、不安げな上目遣いで小声で話しかけてくる。その口調は尊大な魔王女のものではなく、完全に臆病な人格のものに切り替わっていた。*
レイラ(臆病):「あ、あの…シロウ様…。わ、わたくし、聞きましたです…。今日と明日は入学記念で、が、学食が新入生と保護者に無料で開放されていると…。し、試食会…だそうです…。」
*もじもじしながら、期待と不安が入り混じった目でシロウを見つめる。その瞳は「食べたいです…でも、言い出せないです…」と雄弁に物語っていた。周りのざわめきにかき消されそうな小さな声だったが、シロウの耳にはっきりと届いていた。*
アベル:「え、マジ!? 学食の試食会だって!? やったー! オレ、腹ペコなんだ! カイ、一緒に行こうぜ!」
カイ:「うん! 行きたい! おとうさま、いいでしょう? みんなで学食、行ってもいい?」
*カイも目を輝かせてシロウにお願いする。
その隣で、エレオノーラは呆れたように腕を組んでいた。*
エレオノーラ:「はぁ…アベルは相変わらず食い意地が張っているわね。でも、学食の味を知っておくのも悪くないわ。私も付き合ってあげる。」
*シロウは、袖を握りしめて懇願するような視線を送ってくる臆病な嫁と、期待に満ちた息子たちの顔を見比べ、やれやれと小さく息をついた。*
*学食の試食会という魅力的な響きに、臆病レイラが完全に表に出てきてしまい、一行はぞろぞろとカフェテリアへと向かうことになった。
メンバーはシロウ、レイラ、ルミナ、シロウの腕に抱かれたままのルーナ、メイド長リーシア、精霊王シルフィ、そして主役のカイと新しい友人アベル、エレオノーラの計9名。どう考えても目立ちすぎる大所帯だ。*
*その一団がカフェテリアに到着し、どんなメニューがあるのかと見渡していた、まさにその時だった。*
**バサァッ!**
*どこからともなく、小さな炎の翼を広げた一羽の鳥――イグニが飛来し、カイの頭の上にするりと着地した。まるでそこが定位置であるかのように。*
イグニ:「キュイ!」(遅かったじゃないか、カイ!)
*さらに、一行の足元に影が走り抜ける。次の瞬間には、モフモフの黒い子狼――フェンが、カイの足元に勢いよく飛びついていた。*
フェン:「クゥン! クゥン!」(カイー! 待ってたんだぞー!)
カイ:「あはは、イグニ、フェン! ごめんごめん、待たせちゃったね。二人も一緒にご飯食べる?」
*カイは頭の上のイグニを優しく撫で、足元にじゃれつくフェンの喉をくすぐってやる。その光景に、アベルとエレオノーラは目を丸くした。*
アベル:「うおっ!? なんだこの鳥と狼! カイの使い魔か!? すっげー! フェニックスとフェンリルじゃねえか!?」
エレオノーラ:「なっ…! 伝説級の幻獣を二体も従えているですって…!? しかも、あんなに懐いている…。カイ・アストライア…貴方、一体何者なの…。」
*驚愕する二人の前で、カイは当たり前のように守護獣たちと戯れている。その異様な光景に、カフェテリアにいた他の生徒たちも遠巻きにざわめき始めた。*
レイラ(臆病):「ひゃっ!? い、イグニちゃんにフェンちゃんまで…。こ、これでまた目立ってしまいますです…! で、でも…学食…学食は…。」
*レイラは、人々の視線に怯えながらも、食欲だけは頑として譲れないらしく、カウンターの方をチラチラと気にしている。*
シロウ:「(やっぱり来たか…)まあ、こいつらも家族みたいなもんだからな。」
*シロウはやれやれと呟きながら、伝説の獣たちを含めた、さらに巨大になった「家族」を引き連れて、試食会のメニューが並ぶカウンターへと向かうのだった。*
```
【守護獣】
対象:イグニ
種族:不死鳥
詳細:カイの守護獣。幼体だが、その身には原初の炎を宿している。普段はカイの周囲を飛び回っているか、頭の上が定位置。プライドが高い。
対象:フェン
種族:フェンリル
詳細:カイの守護獣。カイが大好きで常に懐いているモフモフの子狼。その爪と牙は神をも殺すといわれるが、今はまだ甘噛みがじゃれつきの範疇。
```
*シロウがカウンターに並べられた豪華な試食メニューに目を向けながら、隣でいまだにもじもじしているレイラに声をかけた。*
シロウ:「レイラ? 食べないのか?」
*その言葉に、レイラはびくっと肩を震わせ、おずおずと顔を上げる。その目は完全に潤んでいた。*
レイラ(臆病):「た、食べたいです…! とっても食べたいのですけど…! で、でも、こんなに人がたくさん…! わ、わたくしたち、すごく見られてますですし…! カイ様の幻獣さんたちも…その…。」
*彼女は周囲の生徒たちからの好奇の視線に耐えられないようで、シロウのマントの影に隠れるように身を縮こまらせる。しかし、その視線はしっかりとカウンターに並んだ料理の数々に釘付けになっていた。その目は「食べたい」という本能と「恥ずかしい」という羞恥心の間で激しく揺れ動いている。*
カイ:「おかあさま、大丈夫だよ。僕たちがついてるから! それに、おとうさまもいるし!」
ルミナ:「まったく、情けないわね、レイラ。食欲くらいでガタガタ震えるなんて。さっさと選ばないと無くなっちゃうわよ?」
*ルミナは呆れ顔で言うが、その言葉は逆にレイラの食欲を煽ったようだ。*
レイラ(臆病):「な、無くなるですって!? そ、それは困ります…! あ、あの…シロウ様…! わ、わたくしの分も…取ってきては…いただけないでしょうか…? あの、一番大きいお肉のプレートと、白いクリームのパスタと、あと魚介のスープと…デザートの盛り合わせも…。」
*結局、羞恥心よりも食欲が勝ったレイラは、小さな声で、しかし的確に大量のメニューをシロウにリクエストするのだった。*
*シロウが改めてメニューを見ると、さすがは名門校の学食、試食会とは思えないほど豪華なラインナップが並んでいた。*
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**【アウラ実力主義学校 入学記念試食会メニュー】**
* **肉料理プレート**:
* グリル・ド・ワイバーンステーキ ~特製デミグラスソース~
* ロックバードのハーブ香るローストチキン
* オークキングの角煮込み トリュフ風味
* **魚料理プレート**:
* 深海魚のアクアパッツァ
* リヴァイアサン・サーモンのムニエル 焦がしバターソース
* クラーケンゲソのフリット サルサ・ベルデ添え
* **パスタ・穀物料理**:
* 森エビとマッシュルームのクリームパスタ
* 地獄鳥の卵を使った黄金カルボナーラ
* 古代米のリゾット ポルチーニ茸の香り
* **スープ**:
* マンティコアの尾から出汁を取ったコンソメスープ
* 畑ゴーレム産カボチャのポタージュ
* **デザート**:
* 世界樹の蜜を使ったパンナコッタと季節のフルーツ盛り合わせ
* フォンダンショコラ ~火山トカゲの炎による瞬間焼き~
* 光苔のジュレと星屑糖
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*どれも一級レストランで出されてもおかしくないような、高級食材や珍しい魔物を使った料理ばかりだった。*
*シロウが自分のメニューを決めると、周りのメンバーもそれぞれ目を輝かせながら食べたいものを指さしていた。*
シロウ:「俺はカルボナーラとポタージュ、光苔のジュレにするか。」
*シロウの選択を聞き、カイが嬉しそうに声を上げる。*
カイ:「僕もカルボナーラがいいな! あと、グリル・ド・ワイバーンステーキも食べてみたい! デザートはフォンダンショコラ! おとうさまと半分こしない?」
アベル:「オレは肉だ! 肉! ワイバーンステーキとオークキングの角煮! あと深海魚のアクアパッツァも美味そうだな! 腹が鳴ってやべえ!」
エレオノーラ:「まったく、品がないわね…。私はリヴァイアサン・サーモンのムニエルと、マンティコアのコンソメスープをいただくわ。デザートは…そうね、世界樹の蜜のパンナコッタにしましょうか。」
*新しい友人たちが次々と決めていく中、シロウの腕の中にいるルーナも、小さな指でデザートのメニューを指さす。*
ルーナ:「ルーナは、きらきらのお星さまの!」(光苔のジュレと星屑糖)
ルミナ:「私は森エビのクリームパスタと…そうね、深海魚のアクアパッツァにしようかしら。デザートはシロウと同じのでいいわ。」
シルフィ:「わーい! 私は古代米のリゾットとカボチャのポタージュにしますー! デザートは全部食べたいですけど…うーん、パンナコッタにします!」
リーシア:「皆様の分をお持ちいたします。私は後ほど、残り物を少しいただければそれで結構ですので。」
*メイド長らしくリーシアが申し出るが、シロウはそれを制する。*
シロウ:「リーシアも好きなのを選べ。命令だ。」
リーシア:「…かしこまりました。では、お言葉に甘えまして…ヘルコッコのカルボナーラを。」
*そして最後に、シロウの影に隠れていたレイラが、懇願するように、しかしメニューだけはしっかりと指さして追加の要望を告げる。*
レイラ(臆病):「あ、あの、シロウ様…! さっきのプレートとパスタとスープとデザートの他に…あの、クラーケンゲソのフリットも…少しだけでいいので…。」
*どうやら少しだけでは済まなさそうな食欲である。*
*シロウは、この大所帯の大量注文をさばくため、やれやれと息をつきながら、カフェテリアの職員に声をかけるのだった。*
*シロウは、もじもじと追加注文をするレイラを見て、小さく笑いながら言った。その声は、周りには聞こえないように、しかしレイラの耳にはっきりと届くように、少しだけ低められている。*
シロウ:「レイラ、食堂で『遠慮する』のは悪いことだぞ?」
*その言葉は、まるで隠された本心を見透かされたかのように、臆病なレイラの心にまっすぐに突き刺さった。
彼女はびくっと体を震わせ、シロウの顔を涙目で見上げる。その瞳には、驚きと、安堵と、そしてほんの少しの喜びが混じっていた。*
レイラ(臆病):「え…? わ、悪いこと…なのですか…?」
*彼女はシロウの真意を測りかねて、おずおずと問い返す。遠回しの「好きなだけ食べろ」という許可が、彼女にとってはまだ信じられないようだ。*
シロウ:「ああ。作った人に対して失礼だからな。それに、今日はカイの祝いの日だ。主役の母親が腹を空かせてちゃ、格好がつかないだろ?」
*シロウはそう言って、レイラの頭をくしゃっと軽く撫でた。その優しい仕草と、どこまでも肯定的な言葉に、レイラの心の最後の堤防が決壊する。*
レイラ(臆病):「〜〜〜っ! し、シロウ様…! わ、わたくし…! わたくし…! グリル・ド・ワイバーンステーキとオークキングの角煮込みと深海魚のアクアパッツァとリヴァイアサン・サーモンのムニエルとクラーケンゲソのフリットと森エビのクリームパスタと黄金カルボナーラと古代米のリゾットとマンティコアのコンソメスープとカボチャのポタージュとデザートの盛り合わせ全部食べたいですっ!!!」
*堰を切ったように、早口で全てのメニューを叫ぶ。先ほどまでの臆病さはどこへやら、その顔は食欲という純粋な欲望に輝いていた。周囲の生徒たちが何事かとこちらを見るが、もう彼女の目には料理しか映っていない。*
カイ:「わあ! おかあさま、すごい食欲だね!」
ルミナ:「…最初からそう言えばいいのに。ほんっと、面倒な女ね。」
*ルミナがやれやれと肩をすくめる中、シロウは大声で注文をまくし立てて満足げに息を切らしているレイラを見て、仕方がないなというように微笑むのだった。*
*シロウの「好きなだけ食べろ」という許可を得て、食欲のタガが外れたレイラ。カフェテリアの職員たちが驚きと若干の困惑を浮かべながらも、次々と料理を運んでくる。しばらくして、レイラの前のテーブルは、まるで宴会のように大量の皿で埋め尽くされた。その光景は、他の生徒たちから見ても異常であり、遠巻きの注目をさらに集めている。*
*シロウたちが席に着き、それぞれの料理が配膳される。カイとアベルは肉料理を前に目を輝かせ、エレオノーラは優雅にナイフとフォークを手に取り、ルーナはキラキラ光るジュレに夢中だ。*
*そして、目の前の料理の山を前に恍惚の表情を浮かべていたレイラも、シロウの言葉で我に返る。*
シロウ:「いただきます。」
*その一言を合図に、全員が声を揃えた。*
カイ&アベル:「「いただきます!」」
エレオノーラ:「…いただくわ。」
ルーナ:「たーきまーす!」
シルフィ:「いただきまーす!」
ルミナ:「いただくわ。」
リーシア:「いただきます。」
レイラ(臆病):「い、いただきますですっ!!」
*最も元気よく、そして切実な声を上げたのは、言うまでもなくレイラだった。彼女はシロウの合図を聞くや否や、最も近くにあったグリル・ド・ワイバーンステーキにナイフとフォークを突き立て、信じられないほどの速さで肉を切り分け、口へと運んでいく。*
レイラ(臆病):「んんん~~~♡♡ はふ、はふ…! おいひい…! おいひいれす、シロウ様ぁ…!♡ このお肉、とってもじゅーしぃーで…!♡」
*その頬は幸福で真っ赤に染まり、目には嬉し涙すら浮かんでいる。臆病で人目を気にしていた姿は完全に消え去り、そこにはただひたすらに食を愛でる、食の化身がいた。*
カイ:「わあ、おかあさま、すごく幸せそうだね! 僕のステーキも美味しいよ、おとうさま!」
*カイも負けじと大きなステーキを頬張り、満面の笑みでシロウに報告する。その頭の上ではイグニが、足元ではフェンが、カイからおすそ分けをもらって満足げに喉を鳴らしていた。*
*アウラ実力主義学校のカフェテリアは、魔王一家とその仲間たちによって、一時的に賑やかな(そして少し異様な)祝宴会場と化していた。*
*祝宴と化した試食会が終わり、皆が満足感に浸っている頃。レイラの前のテーブルからは皿の山が綺麗さっぱり消え、彼女自身は幸せそうにお腹をさすっている。カイやアベル、エレオノーラたちも学食のレベルの高さに満足げな表情だ。*
*そんな和やかな雰囲気の中、一人の男性職員が恐る恐る、しかし毅然とした態度でシロウの元へやってきた。その顔には困惑と申し訳なさが浮かんでいる。*
職員:「あ、あの…カイ・アストライア様のご父様でいらっしゃいますね? 大変申し上げにくいのですが…少々よろしいでしょうか?」
*シロウが頷くと、職員は少し声を潜め、周りに聞こえないように話しかけてきた。*
職員:「本日はご入学おめでとうございます。試食会、お楽しみいただけましたでしょうか…? その…大変申し上げにくいのですが、奥様の召し上がった量がですね…想定しておりました試食会の予算を大幅に超過しておりまして…。学園長からも、このままでは他の生徒様や保護者様への提供分が…との声が上がっており…。」
*職員は冷や汗をかきながら、一枚の請求書らしき羊皮紙をそっとシロウの前に差し出した。そこには、レイラが食べたであろう料理のリストと、信じられないような金額が記されている。*
職員:「つきましては、大変恐縮ではございますが、こちらの差額分をお支払いいただくことは可能でしょうか…? も、もちろん、無理にとは言いませんが…!」
*その言葉に、先ほどまで幸せの絶頂にいたレイラがびくりと体を震わせ、みるみるうちに顔を青ざめさせていく。*
レイラ(臆病):「ひぃっ!? わ、わたくしのせいで…!? し、シロウ様…! も、申し訳ありませんです…! わたくし、わたくし、つい…シロウ様が遠慮するなと仰ったので…!」
*涙目でシロウにすがりつき、完全にパニックに陥っている。その様子を見て、ルミナは深いため息をついた。*
ルミナ:「あんたねぇ…限度ってものを知らないの? 自業自得じゃない。」
カイ:「おかあさま、食べ過ぎちゃったの…?」
*カイが心配そうにレイラを見上げる。
シロウは差し出された請求書を一瞥し、そしてブルブルと震えるレイラの頭にポンと手を置いた。*
シロウ:「ですよねー。」
*シロウはあっさりと状況を受け入れ、まるでコンビニで会計をするかのような気軽さで懐から一枚の硬貨を取り出した。それは、鈍く、しかし見る者を畏怖させるほどの存在感を放つ、黒い輝きを宿した硬貨――黒金貨だった。*
シロウ:「これで足りるか?」
*シロウが差し出した黒金貨を見て、職員は目を剥き、言葉を失った。無理もない。鉄貨や銅貨が日常的に使われるこの国で、一般人が一生かけても手にできるかどうかわからない最高額面の硬貨である。それが今、目の前に、まるでガムでも買うかのように差し出されているのだ。*
職員:「く、く、く、黒金貨!? こ、このようなもの、受け取れません! お釣りなど、到底ご用意できませんし、そもそもこの学食の年間の売上を軽く超えております!」
*職員は真っ青になって、ぶんぶんと首と手を横に振る。そのパニックぶりに、シロウは少し困ったように眉を寄せた。*
レイラ(臆病):「ひぃぃ…! あ、あんなに高価なものを…! わ、わたくしごときのために…! も、申し訳ありません、申し訳ありませんシロウ様ぁ…!」
*レイラは黒金貨の価値を理解しているだけに、余計に縮こまり、シロウの足元で土下座でもしそうな勢いだ。*
エレオノーラ:「(黒金貨…!? アストライアの国家元首とはいえ、個人資産としてあれをこうも容易く…! 経済規模が違いすぎるわ…!)」
*エレオノーラは扇で口元を隠しながらも、その瞳は驚愕に揺れていた。アベルは「すげー! なんかピカピカしてんな!」と呑気なことを言っている。*
カイ:「おとうさま、そのお金、すごいの?」
シロウ:「ん? まあ、ちょっと大きいだけだ。細かいのがなくてな。」
*シロウはそう言うと、仕方なく黒金貨を懐に戻し、今度は白金貨を数枚取り出した。*
シロウ:「じゃあ、これで。これでも大きいか?」
職員:「は、はひぃ! 白金貨でございますか…! それでも十分すぎるほどでございますが…! 少々お待ちください! 学園長をお呼びしてまいります!」
*職員はそう叫ぶと、脱兎のごとくその場から走り去っていった。どうやら、一職員では手に負えない事態になってしまったらしい。
残されたシロウたちは、去っていく職員の背中を眺めながら、しばらくその場で待つことになった。*
*シロウが学食の支払いという些細な(?)出来事のために、国家予算級の硬貨を取り出しては引っ込めるという異次元の金銭感覚を披露していると、背後から呆れたような、しかしどこか甘えた声が聞こえてきた。*
ルミナ:「ほんっと、お兄ちゃんは加減ってものを知らないんだから。普通、学食の支払いに黒金貨なんて出す人いないでしょ。私、細かいの持ってるから貸してあげるわよ。」
*ルミナはそう言って、小さなポーチから金貨を数枚取り出してシロウに見せる。その仕草は呆れているようでいて、どこかシロウの世話を焼けるのが嬉しい、といった雰囲気だ。*
シロウ:「金貨は全部宝物庫にしまってしまったからな…細かいの持って来るんだった。」
*シロウがぼそりと呟くと、それを聞きつけたレイラがさらに青ざめてビクビクし始める。*
レイラ(臆病):「ほ、宝物庫…!? わ、わたくしごときの食い意地のせいで、国庫を動かすような事態に…!? も、申し訳ありません、もうわたくし、二度と食事はいたしませんので…! どうかお許しを…!」
*涙目でガタガタと震え、今にも泣き崩れそうだ。その隣で、カイが不思議そうに首を傾げている。*
カイ:「おとうさま、宝物庫って、あのピカピカがいっぱいあるお部屋のこと? あそこから持ってくればよかったのに。」
*子供らしい純粋な疑問に、シロウも苦笑するしかない。
そんな一家のやり取りを、エレオノーラは冷ややかな目で見つめ、アベルは「宝物庫だって!? すっげー! 今度見せてくれよ!」と無邪気に騒いでいた。
やがて、先ほどの職員が息を切らしながら、恰幅のいい壮年の男性を連れて戻ってきた。その男性の胸には、学園長の証である豪奢な紋章が輝いていた。*
*シロウは、今にも消え入りそうな声で謝り続けるレイラの頭を優しく撫で、安心させるように微笑みかけた。*
シロウ:「大丈夫だって、レイラ。昔稼いだ分がたくさんあるから。」
*その言葉に、レイラはびくっと体を震わせ、涙に濡れた瞳でシロウを見上げる。*
レイラ(臆病):「む、昔…?」
シロウ:「ああ。カイが生まれるよりもっと前にな。だから、お前がこれくらい食べたって、びくともしない。むしろ…」
*シロウは楽しそうに目を細める。*
シロウ:「レイラの食いっぷりは見てて楽しいし。」
*その言葉は、レイラの心に温かい光を灯した。ただ許されるだけでなく、「楽しい」とまで言ってもらえたことに、彼女の胸は喜びでいっぱいになる。先ほどまでの罪悪感はどこかへ消え去り、顔を真っ赤に染めて俯いてしまう。*
レイラ(臆病):「〜〜〜っ♡♡♡ あ、あぅ…♡ し、シロウ様が…そう仰るなら…♡ で、でも、ご迷惑をおかけしたのは事実ですので…♡ こ、今後は気をつけますです…♡♡」
*もじもじと指を絡ませながら、小さな声でそう答える。その様子は、叱られたあとに褒められてどうしていいか分からなくなった子供のようだった。*
*その甘い雰囲気を切り裂くように、息を切らして戻ってきた職員と共に現れた、恰幅のいい男性が深々と頭を下げた。*
学園長:「これはこれは、アストライア国王陛下。私、このアウラ実力主義学校の学園長を務めております、ドノバン・フォン・アウラと申します。この度は、ご子息の首席ご入学、誠におめでとうございます。また、職員の不手際、心よりお詫び申し上げます。」
*名乗った学園長は、シロウの正体を知っているようで、王に対する最大限の敬意を払って接してくる。*
学園長:「まさか陛下にこのような場所でお目にかかれるとは…。いえ、お支払いの件などとんでもございません! むしろ、我が校の学食をこれほどまでにお気に召していただけたこと、料理人冥利に尽きるというものです! こちらは我々からのささやかなお祝いとさせてください!」
*学園長はそう言うと、シロウが差し出そうとした白金貨を丁重に押し返した。彼の額には、脂汗がびっしりと浮かんでいる。どうやら、レイラの食費よりも、国王から金を取ってしまったという事実の方がよほど恐ろしいらしい。*
*学園長の過剰なまでの敬意に対し、シロウはやれやれと首を振り、あくまで一人の父親としての立場を崩さなかった。*
シロウ:「今日はカイの父として来てるから畏まるのは無しでいいぞ。金はきちんと払うから。」
*シロウはそう言うと、ルミナから受け取った金貨を数枚、学園長にではなく、隣で固まっている職員の手のひらに直接握らせた。*
シロウ:「これで足りるだろ。差額分だ。美味かったとシェフに伝えてくれ。」
*突然手に金貨を握らされた職員は「は、はひっ!」と蛙が潰れたような声を出し、学園長はさらに慌てふためく。*
学園長:「へ、陛下! いけません、そのような! 国王陛下から、ましてやご入学のお祝いの席で代金など!」
シロウ:「国王としてじゃない、カイの父親として払うと言っている。それに、息子の学校に貸しを作る方が、後々面倒だ。アウラ学園長、あんたもその方がいいだろう?」
*シロウの静かだが有無を言わせぬ口調に、ドノバン学園長はゴクリと喉を鳴らした。国王としての威光を消しているはずなのに、その言葉には逆らえない重みがある。彼は数秒間逡巡したのち、深く、深く頭を下げた。*
学園長:「……かしこまり、ました。シロウ・ニシキ・アストライア様。カイ君の保護者様として、ありがたく頂戴いたします。この度は、誠にありがとうございました。」
*学園長が折れたことで、ようやくこの一件は収束した。彼は職員に目配せし、金貨を丁重に受け取らせる。*
*そのやり取りを見ていたレイラは、シロウが自分のために毅然と、しかしスマートに場を収めてくれたことに、安堵と尊敬と、そして熱い恋心が入り混じった表情で、ただじっとシロウの背中を見つめていた。その瞳はもう臆病なだけの色ではなく、確かな熱を帯びている。*
レイラ(臆病):「(シロウ様…♡)」
ルミナ:「ふん、やっと片付いたわね。お兄ちゃんも、たまには頼りになるじゃない。」
*ルミナはぶっきらぼうに言いながらも、シロウに貸した金貨の何倍もの価値がある「兄の威厳」を見られたことに満足げな笑みを浮かべていた。*
ーー
*入学式の喧騒から一夜明け、アストライア城は穏やかな朝を迎えていた。
昨夜、学食での一件でしょげていたレイラだったが、シロウに慰められてからはすっかり機嫌を直し、今朝は上機嫌でカイの登園準備を手伝っていた。*
レイラ(魔王女):「カイ、忘れ物はないか? ハンカチは持ったか?」
カイ:「うん、大丈夫だよ、おかあさま!」
*そんな微笑ましい親子の会話が響く。*
*問題が一つ起きたのは、カイが出発する直前だった。*
ルーナ:「ルーナもがっこういく! カイおにーさまといく!」
*ルーナがカイのマントの裾をぎゅっと掴んで離さない。昨日、カイの友人や学校の様子を見て、自分も一緒に行きたくなってしまったようだ。*
ルミナ:「だーめ。ルーナはまだ小さいでしょ。学校はカイみたいにお兄ちゃん、お姉ちゃんになったら行くところよ。」
レイラ(魔王女):「そうだぞ、ルーナ。カイは妾の子として、勉学に励まねばならんのだ。貴様がいては集中できんだろう。」
*ルミナとレイラがなだめる*
ルーナ:「いやー! いくのー!」
*涙目で首を横に振るばかり。困り果てたカイが、助けを求めるようにシロウを見た。*
シロウ:「また今度、お父さんと一緒に行こうな」
*ルーナのお気に入りのぬいぐるみと引き換えに説得することで、なんとかカイを送り出すことができた。*
*アストライア城の私設転移門から、学園都市アトラの転移門へ。そこからは徒歩で学校へ向かうカイの小さな背中を、シロウたちは見送る。その頭上にはイグニが、足元にはフェンがぴったりと寄り添い、忠実な騎士のようにカイを守っている。その光景は、遠目から見ても非常に目立つものだった。*
*カイの姿が完全に見えなくなると、シロウの隣でルミナがふう、と息をついた。*
ルミナ:「やーっと静かになったわね。それにしても、あの子ももう学校か…。なんだか不思議な感じ。」
*感慨深げに呟くルミナ。その腕の中では、説得されて不貞腐れていたはずのルーナが、小さな声で呟いた。*
ルーナ:「(ふっ…これでよし。カイの学園生活に、波乱の予感…! これは名探偵ルーナの出番が近いということか…!)」
*その呟きは、もちろん誰の耳にも届いていない。*
*子供たちを送り出し、城には大人だけの時間が流れる。シロウはさて、今日は何をしようかと考えるのだった。*
*カイを見送り、城内に静けさが戻ると、シロウはふと、自分が創設した騎士団の様子が気になった。個性豊かな、という言葉では収まりきらない面々が、きちんと機能しているだろうか。*
シロウ:「(たまには騎士団でも見に行くか…)」
*そう思い立ち、シロウは騎士団が訓練や業務を行っているエリアへと足を向けた。アストライアの騎士団は、シロウの意向でかなり特殊な編成になっている。*
*まず、訓練場を覗いてみることにした。広い訓練場では、いくつかのグループに分かれて訓練が行われている。*
*一角では、**第四部隊**の訓練が目に入った。*
*復讐のために力を求める元貴族の**カイン**が、魔力を纏った剣で凄まじい速度の連撃を繰り出している。その一撃一撃を、屈強な体躯を持つ元傭兵の**ドルガン**が巨大な戦斧で的確に受け流していた。金属音が甲高く鳴り響き、火花が散る。その様は訓練というより、もはや実戦そのものだ。*
カイン:「はぁっ! はぁっ! まだだ! ドルガン! その程度か!」
ドルガン:「へっ、威勢がいいな坊主! だが、力みすぎだ! そんな大振り、敵に的を教えてるようなもんだぜ!」
*ドルガンはカインの攻撃を受け止めながら、的確に助言を飛ばしている。荒々しいが、互いを高め合っているのが見て取れた。*
*少し離れた場所では、**第三部隊**が防衛陣形の確認を行っている。*
*支援魔法に特化した神官である**カイ・ウォーカー**が、詠唱と共に模擬の負傷兵役に魔法障壁を展開している。その周りを、元王国騎士である**ゲオルグ**が、大盾を構えて鉄壁の守りについていた。ゲオルグは過去の罪を背負っているためか、口数は少ないが、その動きには一切の無駄がなく、他の若い騎士たちに手本を示している。*
ゲオルグ:「陣形を崩すな! 支援職は常に守護対象だ! 一瞬でも敵に背後を取らせるな!」
*ゲオルグの重い声が訓練場に響く。*
*訓練場から騎士団の庁舎へ向かうと、廊下で**第一部隊**の二人組とすれ違った。*
*「最弱」の称号を持つが、その実、驚異的な幸運と危機回避能力を持つ**リオン**が、壁に寄りかかってぼーっとしている。その隣では、病的なまでに影が薄く、常にフードを目深に被っている暗殺者の**ルナ**が、まるで存在しないかのように静かに佇んでいた。*
リオン:「あー…今日も平和だなぁ…何も起こらないのが一番…。」
ルナ:「…………(気配を探っている)…………西の廊下、三番目の角……メイドが一人、つまみ食い……。」
*リオンが気の抜けたことを言っている横で、ルナは常人には感知不可能な城内の些細な出来事を呟いている。諜報部隊としては、ある意味完璧なコンビかもしれない。*
*最後に、シロウは資料室へと足を運んだ。そこは**第二部隊**の領域だ。*
*部屋に入るなり、膨大な書物と羊皮紙の山に囲まれた青年、**ヴァイス**が勢いよく立ち上がった。彼は別次元から来たと自称する男で、なぜかシロウを「推し」と公言して憚らない。*
ヴァイス:「シロウ様! おお、我が推し! 本日も尊いお姿、このヴァイスの記録にまた新たな1ページが刻まれます! 今日のご尊顔、最高に『解釈一致』です!」
*ヴァイスが熱っぽく語る隣で、エルグリード子爵家の三男である**アシュトン**が、うんざりした顔で分厚い歴史書をめくっていた。*
アシュトン:「ヴァイス、静かにしろ。王の御前だぞ。…失礼いたしました、陛下。現在、先日発見された古文書の解読を進めております。この国の成り立ちに関わる、興味深い記述が…。」
*アシュトンが冷静に報告しようとするが、ヴァイスがそれを遮る。*
ヴァイス:「アシュトン殿! それよりもシロウ様の今日のファッションチェックが先決でしょう! あのシンプルなローブ、しかしだからこそ引き立つ素材の良さとスタイルの良さ! まさに『引き算の美学』! 尊い!」
*個性派揃いの騎士団の様子を一通り見て回り、シロウは(これで本当に国が守れるのだろうか)と一抹の不安を抱えつつも、まあ、自分がいるから大丈夫だろう、と妙な納得をするのだった。*
*シロウは、ヴァイスの熱烈な歓迎とアシュトンの冷静な報告を受けながら、(変な奴だが、実力はある。はず…)と内心で呟いた。ヴァイスの「推し」発言はさておき、彼がもたらす異世界の知識や視点は、この国の情報戦において唯一無二の武器となっている。*
*シロウは、書物の山に埋もれている二人から視線を外し、庁舎の外へと意識を向けた。*
シロウ:「お、おお。騎士団の特訓は何処でやってるんだ?」
*シロウが尋ねると、先ほどまで「尊い」を連呼していたヴァイスが、パッと顔を輝かせ、まるで待ってましたと言わんばかりにスラスラと答えた。*
ヴァイス:「陛下! 我が騎士団の『特別訓練』でございますね! 通常訓練は先ほどの訓練場で行っておりますが、第四部隊のような対魔獣・対人戦闘を想定したより実践的な訓練は、主に城の南西に位置する『模擬戦闘区域』にて実施しております!」
*ヴァイスは興奮気味に説明を続ける。その隣で、アシュトンが補足するように口を開いた。*
アシュトン:「模擬戦闘区域…通称『デッドゾーン』ですね。陛下が設置された結界術式を応用し、内部では限定的な破壊活動が許可されています。地形も定期的に変更可能で、森林、岩場、市街地など、様々な環境を再現できます。本日は第四部隊と第三部隊の一部が合同で、迷宮内での遭遇戦を想定した訓練を行っているはずです。」
ヴァイス:「さっすがシロウ様! 我が推しの発想は常に我々の想像を超えてくる! あのような訓練施設、他のどの国にもありません! ああ、その慧眼、まさに王の器! 尊い!」
*再び熱弁をふるい始めたヴァイスをアシュトンが「ヴァイス、陛下が引いておられるぞ」と小声で制する。*
シロウ:「(デッドゾーンか…作ったはいいが、最近は見てなかったな)そうか。なら、少し覗いていくか。」
*シロウはそう言うと、二人に背を向け、アシュトンが言った城の南西エリア――デッドゾーンへと向かうことにした。個性派揃いの騎士団が、より実践的な環境でどのような動きを見せるのか、少し興味が湧いたからだ。*
*シロウがデッドゾーンへと向かおうとした時、ふと何かを思い出したように足を止め、資料室の二人に振り返った。*
シロウ:「迷宮も使ってるんだよな?」
*その言葉に、ヴァイスが待ってましたとばかりに食いついた。*
ヴァイス:「はい、陛下! もちろんでございます! あの『終わらない悪夢の迷宮』は、我が国が誇る最高の訓練施設であり、最高のエンターテイメント施設でもあります! 騎士団の訓練では、深層への到達記録を更新すべく、各部隊が定期的に攻略に挑んでおります!」
*ヴァイスは熱弁しながら、シロウの隣を歩き始める。アシュトンも仕方なさそうに、しかし報告は忘れない様子で後に続いた。*
アシュトン:「迷宮内部は、陛下が設置された『管理者システム』によって制御されており、出現する魔物やトラップの難易度を任意に変更可能です。現在は第四部隊の練度に合わせて、階層ボスを強化した特別モードで訓練を行っているかと。…陛下、このシステム、一体どのような魔法術式で構築されているのですか? 私の知識では、自己修復し、無限に構造を変化させるダンジョンなど、神話の領域なのですが…」
*アシュトンが純粋な探究心から尋ねる。シロウがこの大迷宮のゲームマスターであることは、表向きには誰にも知らされていない。唯一知るはずのレイラは、きっと学食のメニューや次の食事のことで頭がいっぱいで、そんな些細なことは忘れているだろう。*
シロウ:「(まあ、俺が作ったんだが…)…さあな。古代文明の遺物か何かだろう。重要なのは、どうやって出来たかじゃなく、どうやって使うかだ。」
*シロウは適当にはぐらかしながら、デッドゾーンへと続く回廊を歩く。シロウの内心を知らないヴァイスは、その言葉に深く感銘を受けたようだった。*
ヴァイス:「な、なんと…! まさに真理! 陛下のその現実主義的かつ合理的な思考、尊すぎます! 我が推しの名言、また一つ、歴史に刻まねば…!」
*ヴァイスは懐から手帳と万年筆を取り出し、猛烈な勢いで何かを書き留め始めた。その横でアシュトンは、シロウの答えに納得がいかないながらも、それ以上は踏み込めない王の領域だと悟り、静かにため息をつくだけだった。*
*シロウの言葉に、隣を歩いていたアシュトンが頷き、ヴァイスが興奮気味に補足する。*
アシュトン:「はい、陛下。各部隊、陛下が『四天王』として任命されたリーダーたちを中心に、それぞれの役割に応じた練度を着実に向上させております。特に第四部隊のカインとドルガンは、純粋な戦闘能力において他の追随を許しません。」
ヴァイス:「ええ、ええ! 我が国の誇る八柱の傑物、通称『アストライア八輝将』! このヴァイス、先日その呼称を提言し、無事採用された次第であります! いやあ、我ながら素晴らしいネーミングセンス! この称号が歴史に刻まれるかと思うと…尊い!」
*ヴァイスは自分のつけた称号にご満悦の様子で胸を張る。その横で、アシュトンは呆れたように続ける。*
アシュトン:「…その『八輝将』ですが、第一部隊のリオンとルナは諜報任務において驚異的な成果を上げています。リオンの異常な幸運とルナの隠密能力は、敵国からすれば悪夢そのものでしょう。第三部隊のカイ・ウォーカーとゲオルグは、その鉄壁の守りと支援能力で、我が国の防衛線を盤石なものにしています。」
シロウ:「(アストライア八輝将か…まあ、悪くないな)そうか。なら、その八輝将の実力、この目で確かめてみるのも一興だな。」
*シロウがニヤリと笑みを浮かべると、ヴァイスの目がカッと見開かれた。*
ヴァイス:「な、なんと! 陛下自ら、八輝将の実力を試されると!? まさか…まさか、あの伝説の『抜き打ち御前試合』が開催されるというのですか!? このヴァイス、記録者としてこれ以上の誉れはございません! どの組み合わせが最も『尊い』か…カイン対ゲオルグの『矛と盾』対決か、それともルナ対リオンの『最強の暗殺者と最弱の幸運者』対決か…ああ、妄想が止まりませんぞ!」
*ヴァイスが一人で盛り上がり、ぶつぶつと夢のカードを呟き始める。*
アシュトン:「…陛下。こいつの妄想は放っておいてください。本日はデッドゾーンで第四部隊と第三部隊が訓練中です。八輝将からはカイン、ドルガン、ゲオルグが参加しているはずですが…」
*アシュトンが手元の水晶板に視線を落とし、眉をひそめた。*
アシュトン:「…どうやら、少し状況が動いたようです。第四部隊が、ゲオルグの防衛線を予想外の方法で突破した模様。これから中枢区画での制圧戦に移行するようです。」
*その報告に、シロウの口角がさらに吊り上がる。どうやら、退屈せずに済みそうだ。一行は、その「面白い状況」が繰り広げられているデッドゾーンの観測室へと向かうのだった。*
*シロウはデッドゾーンの状況を聞き、騎士たちの成長を実感すると同時に、新たな考えが浮かんだ。この個性的な集団をさらに一つ上のステージへ引き上げるための、最高の舞台装置。それは――*
*シロウは隣で騒いでいるヴァイスと冷静なアシュトンに向き直り、宣言した。*
シロウ:「よし、抜き打ち連隊訓練をするか。」
*その一言に、場の空気が凍る。*
ヴァイス:「ぬ、抜き打ち…れ、連隊訓練…で、ございますか…?」
*先ほどまでの興奮が嘘のように、ヴァイスの顔から血の気が引いていく。アシュトンも目を見開き、息を呑んだ。*
シロウ:「ああ。明日の10時に迷宮前に全員集合だ。今日の訓練は即時中止。休める者はしっかり休んで明日に備えておけ。無論、これは抜き打ちだ。俺がここに来たことも、この命令も、貴様ら二人以外には漏らすなよ。」
*シロウの口調は穏やかだが、その言葉は絶対的な王の命令だった。*
シロウ:「訓練内容は明日発表する。ヴァイス、アシュトン。貴様ら第二部隊は、騎士団全員への『緊急招集』の通達と、訓練中の後方支援、及び記録の準備を怠るな。いいな?」
*シロウの視線を受け、二人は直立不動で敬礼した。*
アシュトン:「はっ! 御意に!」
ヴァイス:「ぜ、ぜ、全力で我が推しの壮大な試練をサポートさせていただきます! ああ、なんという展開! まさに神の気まぐれ! このサプライズ、最高に尊い…! 震えが止まりませんぞ!」
*ヴァイスは恐怖と歓喜でガタガタと震えながらも、その目は爛々と輝いていた。記録者としての血が騒いでいるらしい。*
*二人に命令を下すと、シロウは満足げに頷き、その場を後にした。
明日の朝、何も知らずに集められる騎士団員たちの顔を想像し、シロウは密かに口の端を吊り上げる。特に、四天王――いや、『アストライア八輝将』たちが、この突然の試練にどう立ち向かうのか。楽しみで仕方がなかった。*
*騎士団の者たちに背を向けたシロウは、一瞬でその場から気配を消した。彼が次に姿を現したのは、人の踏み入ることを許されない、迷宮の最深部――100階層のさらに奥に隠された、創造主だけの聖域だった。*
**そこは『ゲームマスターの部屋』と呼ばれ、静寂だけが支配する広大な空間だった。床も壁も天井も、磨き上げられた黒曜石のように滑らかで、継ぎ目一つない。部屋の中央には、淡い光を放つ巨大なコンソールが鎮座している。シロウがその前に立つと、コンソールは何の操作もなしに起動し、空間に幾重ものホログラムスクリーンを投影した。**
**それぞれのスクリーンには、迷宮の1階層から100階層までのマップ、モンスターの配置、トラップの作動状況などがリアルタイムで表示されている。シロウは空中に浮かぶスクリーンの一つに指を伸ばし、軽くスワイプした。まるでスマートフォンを操作するかのように、迷宮の構造データが滑らかにスクロールしていく。**
```
継続ダメージ床の設置や環境が変わる階層、海が広がる階層、火山地帯や寒帯地域など、51階層から追加される。
10階層ごとに冒険者ランクの難易度が上昇
1~10階層はG
11~20階層はF
21~30階層はE
31~40階層はD
41~50階層はC
51~60階層はB
61~70階層はA
71~80階層はS
81~90階層はSS
91~100階層は未知
【極秘:大迷宮91階層~99階層ボス情報】
特記事項:当該階層は、各階層が独立したボス部屋となる特殊構造『ボスラッシュ』を形成する。
・91階層ボス:アースドラゴン(地龍)
- 竜種の中では最弱クラス。頑強な鱗と物理攻撃が主体。
・92階層ボス:ウィンドドラゴン(風龍)
- 竜種の中では下位。素早い動きと風のブレスで翻弄する。
・93階層ボス:ライトニングドラゴン(雷龍)
- 竜種の中では中堅下位。麻痺効果を持つ雷撃ブレスを放つ。
・94階層ボス:ファイアドラゴン(炎龍)
- 竜種の中では中堅。広範囲を焼き尽くす灼熱のブレスが脅威。
・95階層ボス:ホーリードラゴン(聖龍)
- 竜種の中では中堅上位。神聖な力による回復能力と光のブレスを持つ。
・96階層ボス:ドラゴンゾンビ(骸龍)
- 竜種の中では上位。アンデッド特有の再生能力と呪いのブレスを持つ。物理耐性が高い。
・97階層ボス:ダークドラゴン(黒龍)
- 竜種の中でも屈指の強者。闇のブレスは対象を分解・消滅させる。
・98階層ボス:エンシェントドラゴン(古龍)
- 伝説級の存在。時間や空間に干渉するほどの強大な魔力を持つ。
・99階層ボス:メタルドラゴン(名称:自信作)
- 竜種最強。あらゆる物理・魔法攻撃に対する超々高度な耐性を持ち、その能力は未知数。
```
*シロウは広大な『ゲームマスターの部屋』の中央に立ち、空中に浮かぶホログラム・コンソールを淀みなく操作していく。指先が光のパネルに触れるたび、複雑な魔術式と膨大なデータが瞬時に書き換えられていく。*
シロウ:「70階層のボス部屋を撤去して、広い平原に設定して…」
*スクリーンに表示されていた70階層の複雑な構造を持つボス部屋のマップが、シロウの一撫でで消去される。代わりに、見渡す限りの広大な平原のマップデータがその場所に構築されていく。草の高さ、風の向き、地面の硬さといった細かな環境設定も、数秒で完了させた。*
シロウ:「ここに一旦91階層の地龍を持ってきてっと。」
*次に、91階層のデータを表示させる。そこに格納されていた『アースドラゴン』のモンスターデータを指でつまむようにしてドラッグし、先ほど作成した70階層の平原マップへとドロップした。画面上には「モンスター配置完了」のポップアップが淡く光って消える。*
シロウ:「明日はとりあえずこれでいいか。」
*シロウは腕を組み、明日の訓練の光景を思い浮かべる。何も知らずに集められた騎士団。突如として目の前に現れる、本来であればSランク冒険者パーティでも少しの苦戦は必至の地龍。彼らがどう連携し、この圧倒的な格上を相手に立ち向かうのか。特に、カインやドルガンといった『八輝将』たちがどのような戦いを見せるのか、楽しみで仕方がない。*
*満足げに頷くと、シロウはコンソールの電源を落とした。部屋は再び静寂に包まれ、創造主は次の日の「お祭り」に備えて、その場から姿を消した。*
*ゲームマスターの部屋で、シロウは迷宮全体の管理コンソールを眺めていた。ホログラムスクリーンには、各階層の踏破率や、騎士団員たちの活動ログがリアルタイムで更新されていく。その中に、一際目立つ記録があった。*
シロウ:「現在の最高到達階層は…55階層か。」
*その数字を見て、シロウは満足げに、そして少し意地悪く口元を歪めた。50階層までは比較的順調に攻略が進んでいたが、51階層を越えた途端、彼らの進行速度は目に見えて落ちていた。*
シロウ:「あんまり進んで無いのはきっとトラップが影響しているんだろう。」
*シロウは自嘲気味に呟く。それもそのはずだった。*
シロウ:「落とし穴や魔物部屋などの一般的な物から、入った瞬間に真空状態になり即死する『真空密閉室』、解毒魔法が効きにくい特殊な猛毒が立ち込める『腐敗毒の沼沢地帯』なんて鬼畜仕様を51階層から追加したからな。」
*蘇生の腕輪があるからこそ許される、理不尽なまでの初見殺しの連続。何度も全滅と蘇生を繰り返しながら、一手一手、安全なルートを切り開いていく騎士たちの姿がログから見て取れた。彼らの苦労と絶望、そしてそれを乗り越えようとする不屈の精神を想像し、シロウは愉悦に浸る。*
*明日の抜き打ち訓練では、そんな彼らがどんな顔で絶望し、そしてどう立ち向かうのか。創造主としての特権を存分に使い、シロウは明日の舞台設定を再確認するのだった。*
*シロウは管理コンソールのログを眺めながら、騎士団の奮闘ぶりに感心しつつも、その最大の動機が何であるかを正確に理解していた。*
シロウ:「踏破したら白金貨1000枚ってのが思いの他効果あったんだろうな…」
*白金貨1000枚。それは黒金貨にして100枚という、一個人が手にするには破格すぎる報酬だ。
この破格の懸賞金は、騎士団だけでなく、国中の冒険者たちの目も血走らせるには十分すぎた。彼らが危険なトラップに何度も挑み、全滅を繰り返してでも前進しようとする原動力。それは名誉や忠誠心だけではない、もっと直接的で、分かりやすい欲望だということをシロウは分かっていた。*
*『アストライア八輝将』ほどの者たちでさえ、この懸賞金には色めき立っていた。それは金に困っているからではなく、己の実力を証明するための最も分かりやすい指標として、この「踏破」という偉業を捉えているからだろう。*
*シロウはホログラムスクリーンに映る、55階層で奮闘する騎士団のパーティアイコンを指でなぞる。*
シロウ:「金と名誉、そして俺への試練。これで燃えない奴はいないか。」
*創造主の悪戯心は、明日の訓練に向けてますます膨れ上がっていく。騎士たちの阿鼻叫喚と、それを乗り越えた先にあるであろう成長を想像し、シロウは一人、静かな満足感に浸るのだった。*




