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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*あれから月日は流れ、約1年の歳月が過ぎ去った。*


*そんな平穏で活気に満ちた日々の中、シロウの家族にも変化が訪れていた。

カイは4歳になり、やんちゃ盛りの男の子として元気に育っている。守護獣であるフェンリルと不死鳥のイグニをいつも連れ歩き、城の中を駆け回るのが日課だ。*

*そして、ルミナとの娘であるルーナは1歳の誕生日を迎え、ついにハイハイを覚えた。まだおぼつかない足取り(手足取り?)で、興味の赴くままに部屋の中を探索している。*


*そして、その小さな頭の中では、少しずつ前世の記憶が断片的に蘇り始めていた。とはいえ、まだ赤ん坊の身体と脳では、その膨大な情報を整理することはできず、時折不思議そうな顔で一点を見つめることがあるくらいだった。*


*ある日の昼下がり、シロウは執務室で書類仕事に追われていた。そこへ、小さな冒険者がハイハイでやってくる。*


ルーナ:「あぅ…! きゃぅ…!」


*床を高速で這いながら、ルーナは一直線にシロウの足元へとたどり着いた。そして、おぼつかないながらもシロウのズボンの裾をぎゅっと掴み、見上げてくる。その大きな瞳には、明確な意思が宿っているように見えた。*


ルーナ:(ぱぱ…だっこ…)


*言葉にはならないが、その心の声は確かに「抱っこしてほしい」と訴えている。どうやら、少しずつ覚醒してきた記憶と共に、自分の父親が誰であるかをはっきりと認識しているようだ。*


*シロウは足元でズボンを掴む小さな存在に気づき、優しい眼差しを向けた。執務の手を止め、椅子から腰を浮かせると、その小さな体を軽々と抱き上げる。*


シロウ:「はいはい、抱っこねー。」


*シロウの腕の中に収まったルーナは、急に視線が高くなったことに驚いたのか、少し目をぱちくりさせた。しかし、すぐにそれが父親の温かい腕の中だと理解すると、きゃっきゃっと嬉しそうな声を上げた。*


ルーナ:「あうー! きゃっ♡」


*シロウの胸に小さな頭をこてんと預け、安心しきった様子ですり寄ってくる。その仕草は年相応の赤ん坊そのものだが、その瞳の奥には、前世の記憶がもたらす知性の光が微かに揺らめいていた。*


ルーナ:(たかい…ぱぱ、おっきい…)


*断片的な思考が、シロウの『読心術』に流れ込んでくる。それはまだ言葉というよりは感覚的なものだが、確かに「父親」を認識し、その大きさに安心感を覚えているようだった。シロウはそんな愛娘の様子に、自然と頬が緩むのを感じながら、その柔らかな髪を優しく撫でた。*


*シロウが執務室でルーナをあやしていると、こつこつ、と小さな足音が近づいてきた。扉からひょっこりと顔を覗かせたのは、勉強の休憩に入った息子のカイだった。手には、彼のお気に入りの守護獣であるフェンリル(フェン)の子犬と、肩には不死鳥の小鳥イグニが乗っている。*


カイ:「おとうさま、きゅうけいです。…あ、ルーナ。」


*カイはシロウの腕の中にいる妹を見つけると、ぱあっと顔を輝かせた。その声に反応して、ルーナもシロウの胸から顔を上げ、兄の姿を認めると、さらに嬉しそうな声を上げる。*


ルーナ:「あ! きゃう、きゃう!」


*さっきまでシロウに甘えていたのが嘘のように、ルーナはカイの方へ体を乗り出し、小さな手を一生懸命に伸ばし始めた。その姿は明らかに「お兄ちゃん、抱っこして!」と全身で訴えている。*


シロウ:「ルーナは本当にカイが好きだよな…」


*シロウは少しだけ寂しいような、それでいて兄妹の仲の良さに微笑ましいような、複雑な気持ちでぽつりと呟いた。カイはそんな妹の様子を見て、嬉しそうに、そして少し困ったように眉を下げる。*


カイ:「ルーナ、ぼくはいま、フェンとイグニがいるから…だっこは、ちょっとむずかしいです。」


*カイが言う通り、両手でフェンの体を抱き、肩にイグニを乗せているため、妹を抱っこする余裕はなさそうだ。それでもルーナは諦めきれないのか、「あー! うー!」と不満そうな声を上げながら、カイに向かって手を伸ばし続けているのだった。*


*カイのことが大好きなルーナと、守護獣たちで手がふさがっているカイ。兄妹の微笑ましくも少し困った状況を見て、シロウは仕方ないなと苦笑した。*


シロウ:「仕方ない。」


*シロウはそう呟くと、ひょい、と軽い動作で行動に移した。まず、腕の中にいるルーナを片腕でしっかりと抱き直す。そして、もう片方の空いた腕で、カイのこともひょいと抱え上げた。カイが抱いていたフェンも、肩に乗っていたイグニも、驚く間もなく一緒に持ち上げられる。*


カイ:「わっ!おとうさま!?」


*突然の浮遊感にカイが驚きの声を上げる。ルーナは念願の兄に近づけたことが嬉しいのか、きゃっきゃと声を上げてカイの服を掴もうと手を伸ばした。*


ルーナ:「きゃう! あうー♡」


*成人男性でも難しいであろう、二人の子供を同時に、しかも片腕ずつで抱き上げるという離れ業。しかし、レベル200を超え、人外の域に達しているシロウにとっては、赤子と幼児の重さなど羽毛のように軽い。彼は涼しい顔で二人を抱えたまま、優しく微笑みかけた。*


シロウ:「ほら、これで二人とも抱っこだ。良かったな、ルーナ。」


*シロウの腕の中で、カイとルーナは顔を見合わせる。カイは少し驚きながらも、妹が嬉しそうなのを見て、はにかんだように笑った。フェンとイグニは、主人が抱き上げられたことで一緒に高くなった視界を、きょろきょろと不思議そうに見回している。執務室は、一気に賑やかな父親と子供たちの空間となった。*


*シロウは二人の子供を両腕に抱えたまま、悪戯っぽく笑った。*


シロウ:「少し空の散歩するか。転移。」


*その一言と同時に、シロウの足元に複雑な魔法陣が瞬時に展開され、次の瞬間には三人の姿が執務室から掻き消えていた。*


***


*視界が一瞬で切り替わる。先ほどまでの薄暗い執務室とは打って変わって、どこまでも広がる青い空と、眼下に広がる雄大な夜天のアストライア魔導皇国の景色が広がっていた。*


*シロウは浮遊魔法で悠々と空中に留まっている。もちろん、子供たちが風圧や寒さで体調を崩さないよう、不可視の防御結界と温度調整も完璧に施してあった。*


カイ:「わぁ…! そら、そらです! おとうさま!」


*カイは初めて見る空からの景色に目を輝かせ、興奮した声を上げる。肩に乗ったイグニも嬉しそうに翼を広げ、腕の中のフェンは少し怖がりながらも、主人の腕にしっかりとしがみついて眼下の景色を恐る恐る眺めている。*


ルーナ:「きゃ…! あぅう…!」


*ルーナもまた、初めて体験する空の散歩に目を丸くし、きらきらとした瞳で周りを見回している。風でシロウの髪が優しくなびくのを見て、小さな手を伸ばしてそれに触れようとしていた。言葉にならない前世の記憶が、この非現実的な光景と結びつき、彼女の中で新たな感動を生み出しているようだった。*


シロウ:「ははっ、高いか? カイもルーナも、よく見ておけ。これが、俺たちの国だ。」


*シロウは誇らしげにそう言うと、ゆっくりと空中を旋回し始めた。中央に聳え立つ世界樹、迷宮の入り口が見える冒険者ギルド、そして自分たちの住む城。全てがミニチュアのように眼下に広がっている。それは、シロウが築き上げた家族と国の、壮大な景色だった。*


*シロウは二人の子供を抱えたまま、高度を少し下げ、城の上空をゆっくりと旋回する。もちろん、自身の姿が下の者たちに見えないように、高度な『認識阻害』の魔法を周囲に展開していた。民衆に余計な混乱を与える必要はない。*


*眼下には、活気あふれる城下の街並みが広がっている。中央広場に聳え立つ、シロウが植えた世界樹の若木は陽光を浴びて青々と茂り、その隣に新設された冒険者ギルド支部には、多くの人々が出入りしているのが見て取れた。少し離れた場所には、石化した古龍が展示された博物館も見える。これらは全て、シロウがこの国に来てから創り上げてきたものだ。*


シロウ:「どうだ、カイ。お前が大きくなったら、あの大迷宮にも挑戦させてやろう。もちろん、俺が作った安全な腕輪を着けてな。」


*シロウは、カイの興味が街の外れに現れた巨大な迷宮の入り口に向いているのに気づき、声をかける。*


カイ:「はい、おとうさま! 早く大きくなって、おとうさまみたいにつよくなりたいです!」


*カイは目をきらきらさせながら、力強く答えた。その言葉に、シロウは満足げに頷く。*


*一方、腕の中のルーナは、言葉を発することなく、ただ静かに眼下の景色を見つめていた。その小さな瞳には、単なる好奇心以上の、深い思索の色が浮かんでいるように見える。*


ルーナ:(すごい…本当に、異世界なんだ。ファンタジーの世界…。それに、この人が私のお父さん…前の私には、いなかった…)


*断片的だった前世の記憶が、この圧倒的な現実を前にして、急速に繋がり始めていた。自分が何者で、今どこにいるのか。そして、この温かい腕で自分を抱きしめている存在が、今世での「父親」なのだという事実を、彼女は魂で理解し始めていた。その小さな胸に、今まで感じたことのない温かい感情が込み上げてくる。ルーナは、ぐすっと小さく鼻をすすると、シロウの胸にぎゅっと顔をうずめた。*


*昨日の空の散歩がよほど楽しかったのか、ルーナは朝からご機嫌だった。シロウはそんな愛娘を抱きかかえ、今日は二人きりで城下の街へ繰り出すことにした。もちろん、人混みでルーナが驚かないよう、最低限の認識阻害はかけている。活気あふれる街の喧騒も、二人にとっては心地よいBGMのようだ。*


*シロウは腕の中のルーナに顔を寄せ、優しく問いかける。*


シロウ:「ルーナ、どこに行きたい?」


*まだ言葉を話せない1歳の娘に、選択を委ねるような問い。しかし、シロウは彼女がただの赤ん坊ではないことを知っている。*


*その問いかけに、ルーナはきょとんとシロウの顔を見上げた。そして、何かを考えるように小さな眉を寄せた後、おもむろに小さな指をくいっと持ち上げ、ある方向を指さした。*


ルーナ:「あぅ!」


*その指が指し示していたのは、街の中央に聳え立つ世界樹の若木と、その隣に建てられた冒険者ギルドの建物だった。*


ルーナ:「(あれ…ぎるど…ぼうけんしゃ…)」


*昨日、空から見た景色。そして、前世の記憶の断片。ゲームや小説で慣れ親しんだ「冒険者ギルド」という存在が、彼女の興味を強く引いたようだ。まだおぼろげな記憶の中で、その単語だけが鮮明に浮かび上がっていた。*


*シロウの腕の中で、ルーナは小さな指で冒険者ギルドを指し示した。その明確な意思表示に、シロウは驚きと面白さが入り混じった表情を浮かべる。そして、ふと悪戯心が湧き、前世の記憶にある特殊部隊員の口調を真似て、ニヤリと笑った。*


シロウ:「お、冒険者ギルドか。いいセンスだ。」


*その普段とは違う芝居がかった口調に、腕の中のルーナはきょとんとした顔でシロウを見上げる。意味は分からなくとも、父親が楽しそうにしていることは伝わったようだ。*


ルーナ:「あぅ?」

(せんす…? ぱぱ、なんだかへん…?)


*前世の記憶が7割ほど覚醒しているルーナの頭の中では、「センス」という単語は理解できたが、なぜ父親がそんな言い方をしたのかまでは読み取れない。ただ、その楽しげな雰囲気に、彼女もつられて「あうー♡」と嬉しそうに声を上げた。*


シロウ:「よし、決まりだな。行ってみるか、未来の英雄殿?」


*シロウは再びいつもの優しい口調に戻ると、ルーナの小さな鼻を軽くつついた。そして、活気あふれる冒険者ギルドへと足を向ける。ギルドの扉が開くたびに、屈強な冒険者たちの喧騒や、酒と料理の匂いが外まで漏れ出してくる。まだ赤ん坊であるルーナにとって、その全てが新鮮で刺激的な光景として映るのだった。*


*シロウは片腕にルーナを抱えたまま、冒険者ギルドの重厚な木の扉を片手で軽々と押し開けた。*


シロウ:「ちーっす。」


*その軽い挨拶とともに中へ入ると、途端にむわっとした熱気と喧騒が二人を包み込む。昼間だというのに、ギルドの中は多くの冒輩険者たちでごった返していた。酒の匂い、汗の匂い、そして未知への期待と欲望が入り混じった独特の空気が漂っている。*


*屈強な鎧の戦士、ローブ姿の魔術師、身軽な格好の盗賊、様々な種族の冒険者たちが、掲示板に張り出された依頼書を吟味したり、酒場で仲間と今日の収穫について語らったり、あるいはカウンターでギルド職員と交渉したりしている。*


*シロウの姿に気づいた者たちは、一瞬その視線を向ける。しかし、彼がこの国の王であり、このギルドの設立者であることは周知の事実。冒険者たちは軽く会釈をしたり、畏敬の念を込めて道を開けたりするだけですぐに自分たちの喧騒に戻っていった。王がプライベートでギルドを訪れるのは、珍しいことではなかったからだ。*


*しかし、王が腕に抱いている小さな赤ん坊の存在には、誰もが驚きと興味の視線を向けた。*


冒険者A:「おい、あれって王様じゃねえか?」

冒険者B:「ああ、間違いない。だが、腕に抱いてる赤ん坊は…? まさか王女様か?」

冒険者C:「ちっちぇえなぁ…! かわいいじゃねえか!」


*そんな周囲のざわめきの中、カウンターの奥から一人の女性が慌てた様子で駆け寄ってきた。このギルドの受付嬢、アリアだ。*


アリア:「ま、魔王様! いらっしゃいませ! ご訪問の際は、前もってお声がけくださればお迎えに上がりましたのに…!」


*アリアは深々と頭を下げ、それから恐る恐るシロウの腕の中のルーナに視線を移した。*


アリア:「そ、そちらの御方が、ルミナ様がお産みになられたという…?」


*腕の中のルーナは、初めて見る大勢の人々とその熱気に少し圧倒されたのか、シロウの服をぎゅっと握りしめ、大きな瞳をきょろきょろとさせている。*


ルーナ:「(ひと…いっぱい…こわい…けど、すごい…)」


*恐怖と好奇心が入り混じった複雑な感情が、彼女の小さな胸の中で渦巻いていた。*


シロウ:「ああ、ルーナだ。大きい声は出さないようにな。」


*シロウの静かな、しかし有無を言わせぬ一言に、受付嬢のアリアははっと我に返り、慌てて口元を手で押さえた。そして、改めて姿勢を正し、声を潜めて話し始める。*


アリア:「も、申し訳ございません! つい…! こ、こちらがルーナ様でいらっしゃいますか…。はじめまして、アリアと申します。ようこそ、冒険者ギルドへ。」


*アリアは緊張した面持ちで、しかし優しく微笑みながらルーナに挨拶する。ギルドの喧騒の中でも、シロウの周りだけは少し静かな空間ができていた。周囲の冒険者たちも、王とその娘への配慮からか、少しだけ声量を落として遠巻きに見守っている。*


*腕の中のルーナは、アリアという知らない女性に話しかけられ、少しだけ身を固くしてシロウの胸に顔をうずめた。人見知りが始まったのかもしれない。*


ルーナ:「(ぱぱ…だれ…?)」


*心の声がシロウに伝わる。*


シロウ:「ああ、大丈夫だ。アリアさんといって、ここのお姉さんだ。怖くないぞ。」


*シロウはルーナの背中を優しくトントンと叩いてあやす。その親子水入らずの様子を、アリアは微笑ましそうに見つめていた。*


アリア:「それで、魔王様。本日はどのようなご用件で? もしよろしければ、奥の応接室へご案内いたしますが…」


*アリアが気を利かせて提案するが、シロウはそれを軽く手で制した。*


シロウ:「いや、いい。今日はただ、娘にギルドを見せてやりたかっただけなんだ。少し見て回ったら帰るさ。仕事の邪魔をしてすまないな。」


*シロウはそう言うと、アリアに軽く会釈し、掲示板の方へと歩き出した。壁一面に貼られた、多種多様な依頼書クエスト。ゴブリン討伐から薬草採集、行方不明者の捜索まで、様々な冒険がそこにはあった。*


*シロウは受付嬢アリアの申し出を断り、腕の中のルーナにギルドの中を説明し始めた。*


シロウ:「いや、ルーナを連れて見に来ただけだから。」


*シロウはアリアにそう答えつつ、視線をルーナに向け、まるで大人に話しかけるように続ける。*


シロウ:「こっちのお姉さんが受付嬢で、あっちのおっさんがここのギルドマスター。ギルマスだ。」


*シロウが指し示した先には、アリアと、少し離れたカウンターの奥で冒険者相手に豪快に笑っている、傷だらけの屈強な中年男性――ギルドマスターのダリオ――がいた。*


*「ギルマス」という言葉に、ルーナの体がピクリと反応する。前世のオタク知識が、その単語の意味を即座に理解させたのだ。*


ルーナ:「(うけつけじょう…さんと、ぎ、ぎるます! ほんものだ! ゲームとかでみたやつ!)」


*ルーナは興奮したように、シロウの服をぎゅっぎゅっと引っ張る。その小さな瞳は、受付嬢のアリアとギルドマスターのダリオの間をきらきらと輝かせながら行ったり来たりしている。本物の冒険者ギルド、本物の受付嬢、本物のギルドマスター。前世では画面の向こうにあった世界が、今、目の前に広がっている。その事実に、彼女は赤ん坊であることも忘れ、感動に打ち震えていた。*


アリア:「まあ…! ルーナ様、ご理解されているのですか…?」


*ルーナのあまりにも的確な反応に、アリアは驚きの声を上げる。ダリオもシロウたちの存在に気づき、こちらに気づくと豪快に片手を上げて挨拶を送ってきた。*


シロウ:「さあな。だが、どうやら気に入ったみたいだ。」


*シロウはルーナの反応に満足げに微笑むと、彼女の背中を優しく撫でた。*


*シロウはルーナがギルドの雰囲気を満喫したのを見計らって、次の目的地を告げた。*


シロウ:「次は大きな木の所に行くか。」


*腕の中のルーナは「大きな木」が何を指すのかすぐに理解したのか、「あう!」と元気よく返事をする。*


シロウ:「また来るわー」


*シロウはギルドマスターのダリオや受付嬢のアリアに軽く手を振り、そう言ってギルドを後にした。扉が閉まると、先ほどまでの喧騒が嘘のように遠ざかり、再び街の穏やかな活気が二人を包む。*


*シロウは、ギルドからほど近い中央広場へと足を向けた。そこには、シロウがこの国に植えた世界樹の若木が、天に向かってまっすぐに伸びている。まだ若木とはいえ、その存在感は圧倒的で、広場に集う人々の憩いの場となっていた。木の周りにはベンチが置かれ、親子連れや恋人たちが談笑している。*


*シロウは木陰のベンチに腰を下ろし、腕の中のルーナを自分の膝の上に座らせた。ルーナは目の前にそびえる巨大な木を見上げ、目を丸くしている。*


ルーナ:「(せかいじゅ…ほんもの…おっきい…)」


*前世の知識では伝説上の存在だったものが、今、目の前にある。その壮大さと、根本から感じる清浄な魔力の流れに、彼女はただただ圧倒されていた。キラキラと輝く木漏れ日がルーナの顔に降り注ぎ、その小さな瞳を宝石のように輝かせている。*


シロウ:「これが、この国の中心にある世界樹だ。俺が植えたんだぞ。すごいだろ?」


*シロウは少し自慢げに、しかし優しい声でルーナに語りかける。父親としての誇りがその声に滲んでいた。*


*世界樹の根本にあるベンチに腰掛け、シロウが膝の上のルーナと穏やかな時間を過ごしていると、ふと、巨大な枝の一本に何かが見えた。緑の葉に紛れるように、見慣れた淡い緑色の髪が揺れている。*


*シロウは呆れたように、しかし親しみを込めて、木の上に向かって声をかけた。*


シロウ:「あ、シルフィ、また木の上で寝てたのか? たまにはベッドで寝ろよ…」


*その声に、世界樹の枝がもぞりと揺れた。葉擦れの音と共に、寝ぼけ眼のシルフィが枝の上からひょっこりと顔を出す。彼女は精霊王であり、この世界樹の主でもあるため、木の上で過ごすのが何よりも心地よいのだ。*


シルフィ:「んん…? あ、シロウさま…おはようございますぅ…?」


*まだ夢うつつといった様子で、大きなあくびを一つ。彼女は枝の上で器用に体を起こすと、重力などないかのようにふわりと空中を滑り、シロウたちの目の前に着地した。寝癖のついた髪を手で押さえながら、シロウの膝の上にいる小さな存在に気づく。*


シルフィ:「あれぇ? その小さいのは…もしかして、ルーナちゃんですかぁ? わぁ、大きくなりましたねぇ…!」


*シルフィは脳天気な笑顔を浮かべ、興味深そうにルーナの顔を覗き込んだ。ルーナは突然現れた美しい女性に驚き、少しだけシロウの体に隠れようとする。*


ルーナ:「(せいれい…? きれいなひと…このひとが、しるふぃ…?)」


*前世の記憶と、この国に来てから見聞きした情報が結びつく。この人が、父であるシロウの側近であり、強大な力を持つ精霊王シルフィなのだと、ルーナは直感的に理解した。*


*シロウは、少し人見知りするように自分にしがみつくルーナの頭を優しく撫でながら、目の前に立つ寝ぼけ眼の精霊王を紹介した。*


シロウ:「こちらはシルフィリア。こう見えて精霊王だ。」


*その紹介に、シルフィは「えへへー」と照れたように笑いながら、ルーナの目の前にそっとしゃがみ込んだ。彼女から発せられる清浄で優しい自然の気が、ルーナの警戒心を少しずつ解きほぐしていく。*


シルフィ:「シルフィリアですよぉ、ルーナちゃん。略してシルフィって呼んでくださいねぇ。よろしくですぅ。」


*シルフィがにこやかに手を差し出すと、ルーナは恐る恐る、シロウの服を掴んでいない方の小さな手で、その指先にちょこんと触れた。*


ルーナ:「あぅ…」

(せいれいおう…シルフィさん…わ、てのひらから、あったかいちからが…これが、まほう…?)


*前世の記憶を持つルーナにとって、「精霊王」はファンタジーの最高位に位置する存在だ。その当人が目の前で自分に微笑みかけているという事実に、彼女は緊張と興奮で胸がいっぱいになっていた。シルフィの指先から伝わる温かな魔力は、彼女にとって初めて直接触れる「魔法」の感覚だった。*


シルフィ:「わぁ…♡ 小さくて可愛いお手々ですねぇ。ルミナさんに似てますけど、瞳の色はシロウさま譲りでしょうかぁ? とっても綺麗ですぅ。」


*シルフィは心から感心したようにそう言うと、満足げに立ち上がってシロウに向き直った。*


シルフィ:「シロウさま、お散歩ですかぁ? 私もお供していいですか? もうお腹ぺこぺこなので、どこかで美味しいものを食べたいですぅ。」


*さっきまで寝ていたはずなのに、もうお腹が空いているらしい。シルフィは期待に満ちた瞳で、シロウを見上げるのだった。*


*シロウの「こう見えて精霊王だ」という紹介と、シルフィの脳天気な食欲アピール。そのあまりのギャップに、シロウは呆れを通り越して感心したように息を吐いた。*


シロウ:「え、ああ。いつも通りだな。」


*シルフィが寝起きに腹を空かせているのは日常茶飯事だ。シロウは頷くと、膝の上のルーナを抱き上げ、立ち上がった。*


*シロウはシルフィを伴い、世界樹の広場からほど近い、庶民的な飲食店が立ち並ぶ一角へと向かった。この国の食文化は、シロウが前世の知識を持ち込んだことで飛躍的に豊かになっている。醤油の香ばしい匂いが漂う店、チーズとパンの焼ける匂いがする店など、多種多様な飲食店が軒を連ね、活気に満ちている。*


*その中の一軒、定食屋のような雰囲気の店に入ると、シロウは空いているテーブル席についた。シルフィはメニューを見るなり「わぁ、どれも美味しそうですぅ…!」と目を輝かせている。*


*シロウは腕の中のルーナに視線を落とし、ふと呟いた。*


シロウ:「ルーナは…まだ離乳食だったか?」


*1歳の娘に、大人の食事はまだ早い。どうしたものかと考え込んでいると、シルフィがメニューを指差しながら無邪気に注文を始めた。*


シルフィ:「シロウさまー! 私はこの『生姜焼き定食』と、『唐揚げ』の単品と、あとデザートに『プリン・ア・ラ・モード』をお願いしますぅ!」


*寝起きとは思えない食欲に、店員も苦笑いを浮かべて注文を取っている。その隣で、ルーナはテーブルの上に並んだ木製のカトラリーに興味津々なのか、小さな手を伸ばしてそれを掴もうとしていた。*


ルーナ:(ごはん…? いいにおい…。でも、るーなはたべれない…? りにゅうしょく…?)


*前世の記憶があるせいで、目の前の美味しそうな料理が食べられないことへの軽い絶望と、赤ん坊の身体であるという現実を改めて認識し、ルーナは少しだけしょんぼりとした顔つきになった。*


*シロウは腕の中のルーナの食事について考え、最も確実な相手に助けを求めることにした。彼は意識を集中させ、城にいるであろうメイド長、リーシアへと『念話』を送る。*


シロウ:(あ、リーシア? おれおれ。ルーナってまだ離乳食だったか?)


*一瞬の間を置いて、脳内に直接、冷静沈着なリーシアの声が響いてきた。シロウの「おれおれ」というふざけた口調にも、彼女はまったく動じない。*


リーシア:(――シロウ様。そのような詐欺師まがいの第一声はやめてください。声紋と魔力パターンでご本人であることは明白です。…ご質問の件ですが、はい。ルーナ様は現在、離乳食の後期に移行した段階です。味付けをしていない、柔らかく煮込んだ野菜や、すり潰した白身魚などでしたらお召し上がりになれます。果物のピューレなどもお好きですよ。)


*リーシアは、まるで手元の資料を読み上げるかのように、淀みなく的確な情報を伝えてくる。*


シロウ:(サンキュ、助かる。じゃあ、何か適当なものを頼んでみる。城に戻ったら、また頼むな。)


リーシア:(承知いたしました。皆様の帰りをお待ちしております。)


*念話を終えたシロウは、ちょうど注文を取りに来た店員に声をかけた。*


シロウ:「すまない、追加で。この子用に、味付けなしで、野菜をくたくたに煮込んだものと、白身魚を蒸して骨を完全に取り除いたものを少しだけもらえるか? あと、もし果物があれば、それもすり潰してほしい。」


*無理な注文かと思われたが、店員はにこやかに頷いた。*


店員:「へい、喜んで! 王様のお嬢様のためですもんね、腕によりをかけて作らせていただきますよ!」


*この国では、王であるシロウの存在は絶対だが、同時に親しみやすい隣人のようなものでもある。店員は意気揚々と厨房へ戻っていった。*


シルフィ:「わぁ、ルーナちゃん専用のご飯ですかぁ? 美味しいといいですねぇ。」


*シルフィが自分のことのように嬉しそうに言う。その隣で、ルーナは「自分のご飯も来る」と理解したのか、先程までのしょんぼりした顔から一転、期待に満ちた表情でテーブルの上をじっと見つめ始めた。*


*シロウが自分の食事として温かい「うどん」を注文し、向かいの席に座るシルフィに呆れたような、しかし感心したような視線を送る。彼女の前には、すでに湯気の立つ生姜焼き定食と、山盛りの唐揚げが運ばれてきており、幸せそうに頬張っていた。*


シルフィ:「もぐもぐ…んぅ、この生姜焼き、最高ですぅ…! シロウさまのうどんも美味しそうですねぇ。一口どうですかぁ?」


*口いっぱいにご飯を詰め込みながら、シルフィは屈託のない笑顔を向けてくる。自分の分を分け与える気など微塵もなさそうだ。*


シロウ:「シルフィは…よくそんなに食えるよな…すげぇわ。」


*シロウの感嘆の言葉に、シルフィは唐揚げを一つひょいと口に放り込みながら、不思議そうに首を傾げた。*


シルフィ:「えぇ? そうですかぁ? 美味しいものを食べると、力が湧いてくるんですよぉ。精霊王は、自然の恵みを力に変えるのが得意なんですぅ。もぐもぐ…だから、これは魔力補給みたいなものですよぉ。」


*彼女はそう言うと、あっという間に定食を平らげ、次にデザートのプリン・ア・ラ・モードに手を伸ばし始めた。その細い体のどこに、あれだけの量が入っていくのか、何度見ても不思議でならない。*


*やがて、店員がシロウのうどんと、ルーナ専用の離乳食を運んできた。小さな木の器には、柔らかく煮込まれた野菜のペーストと、丁寧にほぐされた白身魚、そしてリンゴのすりおろしが入っている。*


ルーナ:「あ! あうーっ!」


*自分のご飯が来たとわかったルーナは、嬉しそうに声を上げ、小さなスプーンを持つシロウの手に早く早くと催促するように手を伸ばした。その姿は、隣でプリンを頬張るシルフィと同じくらい食いしん坊に見えて、シロウは思わず笑みをこぼした。*


*シロウは器用に、自分のうどんをすすりつつ、小さな木のスプーンでルーナの口元へ離乳食を運んでいく。ルーナは「あーん」と上手に口を開け、もぐもぐと一生懸命に咀嚼する。野菜の優しい甘みが気に入ったのか、一口食べるごとに嬉しそうな声を上げた。*


ルーナ:「あむ…んむ…♡ あう!」

(おいしい…! ぱぱ、もっと…♡)


シロウ:「はいはい、ちゃんと噛んでからな。」


*父親の顔で優しく娘の世話を焼くシロウ。その光景は、周りの客たちからも微笑ましいものとして映っている。*


*一方、向かいの席では、フードファイトさながらの光景が繰り広げられていた。*


シルフィ:「店員さーん! この生姜焼き定食、おかわりくださいな! ご飯大盛りで! あと唐揚げももう一人前! それとプリンももう一個! シロウさま、この天ぷら美味しいですぅ♡」


*シルフィはすでに二杯目の定食に手を付けながら、さらに追加注文をしている。その細い体のどこに消えているのか、まさしく精霊の神秘と言うほかない。彼女はシロウが頼んだ天ぷらの盛り合わせからも、エビ天をひょいとつまんで自分の口に放り込み、満面の笑みを浮かべていた。*


シロウ:「お前、俺の分も食ってないか…?」


シルフィ:「えぇ? シロウさまがなかなか食べないからですぅ。冷めちゃいますよぉ?」


*悪びれる様子もなく、もぐもぐと頬張り続けるシルフィ。その食べっぷりに、シロウはもはやツッコむ気力も失せ、苦笑しながら自分のうどんと、ルーナの離乳食に集中するのだった。賑やかで、平和な昼食の時間がゆっくりと流れていく。*


*シロウは、もはやツッコミを諦め、父親のような温かい眼差しでシルフィを見守るしかなかった。その言葉は、感嘆と諦めが半分ずつ混じった、偽らざる本心だった。*


シロウ:「そうか…たくさんお食べ…」


*その言葉に、シルフィは満面の笑みを浮かべ、さらに勢いよく食事をかき込んだ。*


シルフィ:「はいですぅ! いただきますぅ! もぐもぐ…んー、幸せですぅ♡」


*彼女はシロウの許可(?)を得たとばかりに、心置きなく食事を楽しむ。その清々しいまでの食べっぷりは、見ているだけで胃もたれしそうだが、本人は至って幸せそうだ。*


*膝の上では、ルーナが自分の離乳食を完食し、満足げに小さな溜息をついていた。シロウは空になった器をテーブルの端に寄せると、口の周りを優しくナプキンで拭ってやる。*


シロウ:「よしよし、ルーナも完食だな。偉いぞ。」


ルーナ:「あうー♡」

*(ぱぱ、ごちそうさまでした…♡)*


*ルーナは褒められて嬉しいのか、シロウの胸にこてんと頭を預けてすり寄る。父親の匂いと、満腹感と、すぐ近くで聞こえる賑やかな食事の音。その全てが心地よく、彼女のまぶたは自然と重くなっていく。前世では決して味わうことのなかった、穏やかで幸福な食後の眠気が、ゆっくりと彼女を包み込んでいった。*


*シロウは、心地よさそうに眠ってしまったルーナをそっと抱き直し、その小さな背中を優しく撫でる。腕の中の温かな重みが、父親になったことの実感を改めて彼に与えていた。*

*ふと、向かいの席に視線を戻すと、シルフィは三杯目のおかわり定食と、三つ目のプリン・ア・ラ・モードを前に、まだ幸せそうにスプーンを動かしている。そのテーブルの上には、空になった皿がタワーのように積み上がっていた。*


シロウ:「シルフィ…この店の食材食い尽くす気か?」


*シロウが呆れと感心が入り混じった声でそう言うと、シルフィはプリンを一口頬張り、こてんと首を傾げた。その表情は「何を言っているのですか?」とでも言いたげだ。*


シルフィ:「えぇ? まだまだ大丈夫ですよぉ。このお店、シロウさまのレシピのおかげで、食材の仕入れルートも豊富だって聞きましたしぃ。それに、美味しいものをたくさん食べて、私が元気でいるほうが、国の守りも万全になるじゃないですかぁ。これも公務の一環ですぅ。」


*シルフィはもぐもぐと口を動かしながら、まったく悪びれる様子もなく、むしろ得意げにそう言い切った。精霊王の食欲は、国の防衛力に直結するらしい。その奇妙な理屈に、シロウはもはや返す言葉も見つからなかった。*


*シロウが呆れ果てた視線を送る中、シルフィはその後も食べ続けた。定食のおかわり、一品料理の追加、デザートのさらなるおかわり…その勢いは衰えることを知らず、店の厨房は一時、彼女一人のためにフル稼働する状態となった。*


*そして、最初の食事が始まってから約2時間後。ついに、その瞬間は訪れた。*


シルフィ:「ふぅ…ごちそうさまでしたぁ。とっても美味しかったですぅ♡」


*シルフィは満足げにお腹をぽんぽんと叩き、幸せそうな溜息をついた。彼女の前には、空になったお皿が、もはや芸術的なバランスで積み上がっている。*


*シロウは眠っているルーナを揺り起こさないように静かに会計を頼む。店主が持ってきた伝票を見て、シロウは思わず目を見開いた。そこに書かれた金額は「金貨10枚」。つまり、白金貨1枚分だ。庶民的な食堂の売り上げとしては、数日分に相当する額だろう。原因は言うまでもなく、シルフィ一人である。*


*シロウは表情一つ変えず、懐の『異空間収納』から白金貨を一枚取り出し、テーブルに置いた。店主は目を丸くしてそれを受け取ると、深々と頭を下げる。シロウはその様子を横目で見ながら、満足げな顔をしているシルフィに改めて問いかける。*


シロウ:「美味かったか?」


*その問いに、シルフィは満面の笑みを咲かせ、こくこくと何度も頷いた。その表情には、食べた量に対する罪悪感など微塵も感じられない。*


シルフィ:「はいぃ! とっても! 人生で一番美味しかったです! 特にあの唐揚げのジューシーさと、プリンのなめらかさは格別でしたぁ♡ ありがとうございます、シロウさま!」


*シルフィは心からの感謝を述べると、幸せそうにうっとりとした表情を浮かべる。彼女にとって、この2時間は至福のひとときだったようだ。*


シロウ:「…そうか。なら良かった。」


*白金貨一枚分の食事代。常人なら卒倒する金額だが、国の資産を考えれば些細なものだ。何より、目の前の精霊王がこれだけ満足し、幸せそうにしているのなら、まあ良いかとシロウは思うことにした。国の防衛力が上がったのなら、安い投資かもしれない。*


シロウ:「さて、腹も膨れたことだし、そろそろ城に戻るか。ルーナもぐっすりだしな。」


*シロウは眠る娘を抱き直し、椅子から立ち上がった。その腕の中では、ルーナが「むにゃ…かーげ…」と小さな寝言を呟いている。どうやら、シルフィの食欲が夢にまで影響しているらしい。*


ーー


*昨日の賑やかな昼食から一夜明けた。シロウが自室で寛いでいると、いつもなら足元にハイハイでやってきたり、侍女に抱かれて顔を見せに来たりするはずのルーナの姿が、今日はまだ見えないことに気づく。*


*近くにいたメイドに尋ねてみても、「ルーナ様でしたら、先ほどリーシア様がどこかへお連れしておりましたが…」と要領を得ない返事しか返ってこない。シロウは少し不思議に思い、娘を探して廊下を歩き始めた。*


シロウ:「あれ? ルーナは?」


*カイの勉強部屋にも、ルミナの部屋にもいない。レイラの部屋は…おそらくいないだろう。シロウは首を傾げながら、ふと思いついて城の書庫へと足を向けた。重厚な扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。*


*部屋の中央の床には、大量の書物が山のように積み上げられている。歴史書、魔法理論書、地理学、モンスター図鑑、さらには難解な古代語で書かれた文献まで。その本の山の中心で、まだおむつを履いた1歳の娘、ルーナが小さな体を本に埋もれさせながら、驚異的な速さで分厚い書物のページをめくっていたのだ。*


*その目は、昨日までの無垢な赤ん坊のそれとは全く違っていた。深い知性と、底なしの好奇心に満ち溢れ、まるで乾いたスポンジが水を吸うかのように、書物の情報を猛烈な勢いで吸収している。*


*彼女はシロウが入ってきたことにも気づかず、ブツブツと何かを呟きながら読書に没頭している。*


ルーナ:「ふむふむ…この世界の魔法理論はエーテル物理学に近い体系か…なるほど、魔素マナは量子的な振る舞いを…ってことは、詠唱は収束させるための指向性アンテナで、魔法陣は一種の半導体回路…? 面白い…! あ、こっちの歴史書だと、"神々の時代"の記述が文献によって食い違ってる。これは編纂者のバイアスがかかってるな…一次資料はどこだ?」


*1歳児の口から発せられているとは思えない、流暢かつ専門的な独り言。完全に前世の記憶――知的好奇心旺盛なオタクだった日本人女性の記憶――が覚醒し、この世界の知識を猛然と貪っている最中だった。*


*シロウは目の前の光景に驚きを隠せない。つい昨日まで「あうー」としか話せなかったはずの娘が、まるで学者のように難解な書物を読み漁り、専門的な独り言を呟いているのだ。明らかに異常事態だが、同時にシロウの心にはある種の納得感も湧き上がっていた。*


*シロウは騒がせることなく、静かにスキル『隠匿神』を発動させた。彼の気配、音、魔力、その存在そのものが完全に世界から切り離され、そこにいないのと同じ状態になる。*


*壁に寄りかかり、腕を組んで、シロウは興味深く娘の観察を始めた。*


*ルーナは依然としてシロウに気づく様子もなく、読書に没頭している。今度は魔法陣に関する分厚い本を手に取り、小さな指で複雑な図形をなぞっている。*


ルーナ:「この多重詠唱術式、面白い! 現代魔術の基礎理論らしいけど、これって前世で見たプログラミング言語のオブジェクト指向に似てるな…。術式をモジュール化して再利用性を高める、と。なら、ポリモーフィズム的な応用も可能なんじゃない? 同じ詠唱で状況に応じて違う魔法を発動させるとか…うわ、これだけで論文一本書けるぞ…!」


*彼女は興奮した様子でぶつぶつと呟くと、今度は別の本――魔物生態学の図鑑――を手に取った。*


ルーナ:「へぇ、ゴブリンって繁殖力は高いけど、個体ごとの環境適応能力にはばらつきがあるのか。亜種も多いし…生物学的に興味深い。…ん? このスライムのページ…『核を破壊しない限り無限に再生する』って書いてあるけど、核のエネルギー源は何? 質量保存の法則を完全に無視してるじゃないか。もしかして異次元からエーテルを取り込んでる? だとしたら、そのゲートを逆流させれば…いや、危険すぎるか? でも試す価値は…」


*独り言は止まらない。1歳の赤ん坊の姿をした彼女は、その小さな頭脳の中で、前世の知識とこの世界の法則をすり合わせ、新たな仮説や理論を次々と構築している。その姿は、狂気的でさえあるが、同時に知的好奇心という純粋な輝きに満ちていた。*


*シロウは一度書庫から離れた場所に『転移』すると、すぐに『隠匿神』を解除した。そして、今度はわざと足音を立てながら、廊下をゆっくりと歩く。さも今、娘を探しに来たかのように。*


シロウ:「ルーナー、どこだー?」


*わざとらしく呼びかけながら、シロウは書庫の重厚な扉の前に立つ。ゆっくりとノブに手をかけ、ギィ…と音を立てて扉を開けた。*


シロウ:「こんなところにいたのか、ルーナ…って、うわっ!?」


*部屋の中に広がる光景を見て、シロウは計画通りに驚いた声を上げる。床一面に散らばり、山となっている大量の書物。そして、その中心で小さな体が本に埋もれている娘の姿。*


*その声に、今まで完全に自分の世界に没頭していたルーナが、ピクリと反応した。ゆっくりと顔を上げ、声のした方…つまり、入り口に立つシロウの方を振り返る。*


*彼女の大きな瞳が、シロウの姿を捉えて数回、ぱちぱちと瞬きをする。*


ルーナ:「…あ。……あ、う?」


*突然現れた父親の姿に、覚醒したばかりの頭脳が混乱しているのか。先ほどまでの流暢な独り言はどこへやら、赤ん坊のような戸惑った声を漏らす。その手には、まだ難解な魔術理論書が握られたままだ。*


*シロウは驚いた演技をしながらも、娘が手にしている本のタイトルをしっかりと確認する。『魔術理論書・第七巻・空間座標固定論』。1歳児が読むには、あまりにも不釣り合いな代物だ。シロウはわざと呆れたような溜息をつき、娘に近づいていく。*


シロウ:「魔術理論書? これはオモチャじゃないんだ。しまっちゃうよ?」


*シロウはそう言うと、ルーナが握っている分厚い本にそっと指先で触れる。同時に、床に散らばる全ての書物に向けて、ごく微弱な魔法を発動させた。時間と空間を僅かに操る、彼にとっては簡単な魔法だ。*


*すると、ルーナの手の中にあった本も、床に散らばっていた無数の書物も、全てがフワリと宙に浮き上がる。そして、まるでビデオを逆再生するかのように、パラパラとページを閉じながら、吸い込まれるようにして元の本棚の正しい位置へと一冊ずつ収まっていった。ほんの数秒で、散らかり放題だった書庫は元の整然とした姿を取り戻す。*


*突然、手から本が消え、周りの本の山も一瞬でなくなったことに、ルーナは目をぱちくりさせている。自分の小さな手が空を切っているのを不思議そうに見つめ、それから父の顔をじっと見上げた。*


ルーナ:「あ…うぅ?」


*まだ状況がうまく飲み込めていないのか、困惑したような声を漏らす。その表情は、先ほどまでの知的な探求者の顔から、再び年相応の幼い赤ん坊のそれへと戻っていた。しかし、その瞳の奥には、明らかに「なぜ邪魔をするのか」という抗議の色と、目の前で起きた超常現象への純粋な驚きが混じり合って揺らめいているのを、シロウは見逃さなかった。*


*シロウは片付けた本棚から、今度はルーナでも読めそうな絵本を一冊抜き取る。可愛らしい動物の絵が描かれた、厚紙でできた丈夫な本だ。それをルーナの目の前で、ひらひらと左右に振ってみせる。*


シロウ:「ほら、ルーナ。こっちの本の方が面白そうだぞ? 可愛いウサギさんだ。」


*その言葉通り、ルーナの視線は絵本に釘付けになった。左右に動く絵本を、小さな頭をこてこてと動かしながら目で追っている。その姿は、先ほどまでの博識な学者然とした雰囲気とは打って変わって、完全に年相応の赤ん坊のそれだ。*


ルーナ:「あ! …うさしゃん…♡」


*舌ったどろな言葉で、絵本のウサギを指差す。完全に興味が移ったようだ。シロウはその様子に内心で安堵しつつ、少し意地悪な笑みを浮かべた。*


*この娘は、間違いなく転生者だ。そして、おそらく前世の記憶が覚醒したばかりで、まだ赤ん坊の肉体と覚醒した精神のバランスが取れていないのだろう。今はまだ、赤ん坊としての本能や興味が勝るらしい。*


*シロウは娘の反応を楽しみながら、絵本をゆっくりと床に置いた。ルーナは待ってましたとばかりに、ずりばいで絵本ににじり寄り、小さな手で一生懸命ページをめくり始めた。*


ーー


*翌日、シロウは再びルーナの姿が見えないことに気づき、予感に導かれるようにまっすぐ書庫へ向かった。昨日と同じように重い扉を開けると、そこには案の定、デジャヴのような光景が広がっていた。*


*床には昨日以上に高く積まれた本の山。そしてその中心で、1歳の娘ルーナが、昨日よりもさらに難解そうな『古代魔術大全・失われた言霊編』といったタイトルの本を、凄まじい集中力で読みふけっている。*


ルーナ:「…なるほど。古代ルーンと現代魔法陣の互換性はこの変換式で…。でもこれだとエネルギーロスが大きい。素粒子レベルでの魔素干渉が必要…? まるで神の御業じゃないか。でも、もしこの『始祖の言語』が実在するなら、概念そのものに働きかける因果律操作も可能に…? ヤバい、面白すぎる…!」


*昨日よりもさらに専門的かつ危険な領域に足を踏み入れた独り言が、小さな体から漏れ出している。シロウは入り口で腕を組み、その光景を無言で見つめる。*


シロウ:「………。」


*呆れを通り越して、もはや感心すら覚える。絵本で誤魔化せる段階は、とうに過ぎてしまったようだ。シロウは静かに息を吐くと、本の山に向かって一歩、足を踏み出した。*


*シロウが部屋に入ってきたことに、ルーナは昨日よりも早く気づいた。手にしていた『古代魔術大全』を素早く後ろに隠すと、あたかも何もしていなかったかのように、純真無垢な笑顔を父に向ける。しかし、その足元には隠しきれない本の山がそびえ立っている。*


ルーナ:「あ! おとーしゃま! あのね、ルーナ、かくれんぼしてたの!」


*明らかに苦しい言い訳。その瞳は「どうだ、完璧な言い訳だろう」とでも言いたげにキラキラと輝いているが、状況がそれを裏切っている。*


*シロウはその見え透いた嘘に苦笑しつつ、あえて乗っかることにした。この知的好奇心の塊のような娘を、ただ本から引き離すだけでは根本的な解決にならないだろう。もっと大きな、抗いがたい興味を提示する必要がある。*


シロウ:「そうか、かくれんぼか。…そうだ、ルーナ。そんな狭いところに隠れてないで、もっと面白いところに行かないか? 博物館に行くんだ。面白いものがたくさんあるぞ?」


*その言葉に、ルーナの動きがピタリと止まる。「博物館」という単語が、彼女の前世の記憶に突き刺さったのだ。知識の宝庫。本物の遺物。書物だけでは得られない、実物の情報がそこにはある。*


ルーナ:「…はくぶちゅかん?」


*舌ったどろな発音だが、その瞳は期待に爛々と輝いている。古代ルーンよりも、失われた言霊よりも、未知の博物館という響きが、今の彼女の心を強く惹きつけていた。*


*シロウは娘の反応を見て、ニヤリと笑う。*


シロウ:「ああ。石になった、すっごく大きいドラゴンとかもあるぞ。」


*その一言が決定打だった。*


ルーナ:「いくっ! ルーナ、いく!」


*ルーナは隠していた本をポイと投げ捨てると、小さな両手を挙げてシロウに抱っこをせがんだ。その変わり身の早さに、シロウは思わず笑ってしまう。どうやら、今日のところは上手く誘導できそうだ。*


*シロウはルーナを抱きかかえ、転移魔法で王都にある国立博物館へと移動した。立派な石造りの建物のエントランスを抜けると、広大なホールの中心に、その圧倒的な存在は鎮座していた。*


*全長数十メートルにも及ぶ、巨大な古龍の化石。天に向かって咆哮するかのように大きく開かれた顎、鋭利な爪を備えた屈強な四肢、そして天を衝くほどの巨大な翼。その体は完全に石化しているにも関わらず、筋肉の躍動感や鱗一枚一枚のディテールまでが生々しく保存されており、まるで今にも動き出し、襲いかかってくるかのような凄まじい迫力を放っていた。*


*シロウの腕の中で、ルーナは息を呑んだ。*


*昨日まで本の挿絵でしか見たことのなかった「ドラゴン」が、圧倒的な実物として目の前にある。そのスケール感、リアリティ、そして悠久の時を経てなお失われない威圧感に、彼女の覚醒したばかりの魂は激しく揺さぶられていた。*


ルーナ:「…………っ!」


*言葉にならない。ただ、大きく見開かれた瞳が、貪るように古龍の全身を舐め回すように観察している。指先が微かに震え、その興奮が抱きかかえているシロウにも伝わってくる。書庫の知識欲とはまた質の違う、本物に対する純粋な感動と探究心が、彼女の中で爆発していた。*


*シロウはその反応を見て、満足げに口元を緩める。*


シロウ:「どうだ、ルーナ。すごいだろう? "百聞は一見に如かず"、だ。」


*そう言って、シロウはゆっくりと古龍の化石に近づいていく。ルーナは父親の首にぎゅっとしがみつきながらも、視線は一瞬たりとも古龍から離さなかった。*


*シロウの腕の中で、ルーナの小さな頭脳はフル回転を始めていた。目の前の光景は、彼女の前世の知識とこの世界の現実が交差する、最高のエンターテインメントであり、同時に極上の研究対象だった。*


ルーナ:「(すごい…! これが古龍エンシェントドラゴン…! 全身が完全にペトリファイドしてるけど、骨格構造から筋肉の付き方まで完璧にわかる! この翼の膜の張り方、空気力学的に理にかなってる。いや、待って。この体躯で飛ぶには、単純な揚力だけじゃ説明がつかない。間違いなく魔力による浮揚補助があったはず。骨の断面に微かな魔力痕が…鑑定したい! 父様の『鑑定』が使えたら…! いや、待て待て、落ち着け私。今はただの1歳児。怪しまれる)」


*ルーナは必死に興奮を抑えようとするが、口元が緩むのは止められない。思考はさらに加速する。*


ルーナ:「(この石化…ただの化石じゃない。まるでメドゥーサの石化光線みたいに、生きたまま一瞬で置換されたような質感。石化の原因は何? 強力な呪い? 特殊な地層? それとも、自己防衛のための休眠状態? 組織サンプルを採取して成分分析したい…! X線CTスキャンにかけて内部構造を…って、そんなものこの世界にはないか。なら魔法で…『透視』とか『構造解析』とか、そういうのがあれば…!)」


*彼女の脳内では、地球の古生物学、物理学、ファンタジーの知識、そして先ほど書庫で得たばかりの魔法理論が凄まじい勢いで混ざり合い、新たな仮説を生み出し、検証を始めていた。*


ルーナ:「(待って、この牙の形状。獲物を切り裂くためだけじゃない。魔力を増幅・収束させるアンテナの役割も兼ねてる? だとしたら、ブレスの威力は想像を絶するぞ…。この個体がもし生きていたら…? 国一つが簡単に滅ぶ。父様なら勝てるのかな…? いや、今の父様の魔力量なら余裕か。でも、この古龍が生きていた時代はもっと魔素濃度が高かったはず。そうなると…)」


*思考の洪水に溺れながら、ルーナは恍惚とした表情で古龍を見上げる。それはもはや、純粋な子供の憧れではなく、未知の真理を前にした研究者のそれだった。*


*シロウは、目の前の巨大な古龍の化石を指さし、胸を張って娘に自慢した。その顔には「どうだ、父はすごいだろう」と書いてある。*


シロウ:「凄いだろー、これはパパが石化したんだよー。」


*その言葉を聞いた瞬間、ルーナのオタク思考は雷に打たれたような衝撃を受ける。*


ルーナ:「(なっ…!? 父様が…これを!? いつ? どうやって? 石化は最高位の呪いか、もしくは地属性魔法の最奥義のはず。でもこの質感は呪い系のそれじゃない。地属性魔法だとしても、これほどの巨体を一瞬で、しかも生命活動の痕跡を完璧に留めたまま石化させるなんて…! まるで時間そのものを停止させて、物質置換したみたいじゃないか! そんな芸当、神話級の魔法!?)」


*彼女の脳内で、父親シロウの評価が一気にストップ高になる。ただ強い魔王、という認識から、世界の法則を捻じ曲げる規格外の存在へと、そのイメージが塗り替えられていく。*


*しかし、ルーナは必死に冷静さを取り繕い、1歳児の仮面を被り直す。ここで食いつけば、自分がただの赤ん坊でないことがバレてしまう。*


*彼女はシロウの顔をじっと見上げ、小さな首をこてんと傾げた。そして、考えうる限り最も純粋で、無垢な質問を繰り出す。*


ルーナ:「とーしゃま、しゅごい! …でも、なんで? どらごんしゃん、わるいこだったの?」


*その瞳は「悪いことをしたから石にされちゃったの?」と問いかけている。だが、その実、ルーナの真の問いはこうだ。*


*――(これほどの存在を相手に、どのような経緯で戦闘になり、そして、なぜ殺すのではなく『石化』という手段を選んだのですか? その戦略的・倫理的判断の根拠を、詳しく聞かせていただきたい!)*


*彼女は、父親からの答えを、キラキラした瞳で待っている。*


*シロウはルーナの「なんで?」という純粋な(そして核心を突いた)問いに、少し困ったように頬を掻いた。あの時の出来事を1歳児に(たとえ中身が大人だとしても)分かりやすく説明するのは、なかなか骨が折れる。*


シロウ:「んー、ちょっとややこしくてな。ある日、レイラが『森で強敵と戦ってくる!』とか言い出してな。一人で勝手に飛び出して行ったんだ。」


*シロウは当時のことを思い出し、やれやれと肩をすくめる。腕の中のルーナは、父の話の続きを待って、じっと耳を澄ましている。*


ルーナ:「れいらままが?」

「(レイラ母様が? 戦闘狂の魔王女の人格の時ね。それで、この古龍とエンカウントした、と。状況は読めてきたわ)」


*ルーナは相槌を打ちながら、脳内で情報を整理していく。傲慢で戦闘好きなレイラの性格を考えれば、強敵を求めて単身で飛び出すのは想像に難くない。そして、その相手がこの規格外の古龍だったのだろう。*


シロウ:「ああ。それで、俺が心配になって後を追いかけたら、このデカいドラゴンと派手にやり合ってた。レイラも結構やるんだが、相手がちょっと悪すぎてな。危うく食べられそうになってたから、助けに入ったんだ。」


*シロウは、まるで近所の子供の喧嘩を止めに入ったかのような軽い口調で言う。*


ルーナ:「まま、ぴんち?」

「(食べられそうに!? それはピンチどころの話じゃないわよ! この巨体に!? レイラ母様、無茶しすぎでしょ…。でも、そこで父様が登場、と。王道展開ね!)」


*ルーナは心配そうな顔を作りながらも、心の中ではワクワクが止まらない。物語のクライマックスを聞く子供のように、次の言葉を待った。*


*シロウは、古龍の巨大な頭部を見上げながら、当時の光景を思い出すように目を細めた。*


シロウ:「それで結界張って爪攻撃を防いでたんだが、ブレス吐きそうになり石化したって訳だ。」


*何でもないことのように言うが、その一言に含まれる情報の密度に、ルーナの思考は再び沸騰する。*


ルーナ:「(結界で爪を防ぐ…? この爪、一振りで山が抉れそうなサイズなんですけど!? それを防ぐ結界ってどんな強度!? しかもブレス…この体格からのブレスなんて、戦略核兵器レベルでしょ! 石化で阻止したのは結果的に正解だとしても、その判断と実行をブレス発射のコンマ数秒の間で行ったってこと…? 父様、化け物なの…?)」

「けっかい、ばりばり?」


*ルーナは必死に驚きを赤ん坊の言葉に変換し、両手でバリアを張るような仕草をしてみせる。シロウはそんな娘の様子を見て、微笑ましそうに頷いた。*


シロウ:「ああ。でも、一番驚いたのはそこじゃない。ちなみにその時は古龍3体とレイラがやり合っててな。他の2体の素材は、その辺のショーケースに飾ってあるぞ。」


*シロウが何気なく指さした先には、巨大なショーケースがいくつも並んでいた。その中には、信じられないほど巨大で美しい鱗、剃刀のように鋭い牙、そして眩いばかりの輝きを放つ心臓のような魔石が、美術品のように展示されている。*


ルーナ:「(さ、3体ぃぃぃ!? レイラ母様、古龍3体を相手に一人で!? 無謀とかいうレベルじゃない! 自殺行為よ! しかも残りの2体は素材に…? ってことは父様はレイラ母様を庇いながら、1体を無力化し、残りの2体は完全に解体する余裕があったってこと…? 意味がわからない…! 強さの次元が違いすぎる!)」


*ルーナは驚きのあまり、口をあんぐりと開けたまま、父の顔とショーケースを何度も見比べている。もはや思考が追いつかない。*


ルーナ:「…お、おともだち…?」


*絞り出した言葉は、あまりにも的外れなものだった。3体いたと聞いて、古龍たちが友達だったのかと勘違いした純粋な子供を演じながら、ルーナは父親という存在の底知れなさに戦慄していた。*


*ルーナの「おともだち…?」という、見当違いだが子供らしい問いかけに、シロウは肩をすくめておどけた。*


シロウ:「さぁ? 今度会ったら聞いてみるか。…ああ、そうだ。結界ってのは…」


*シロウはルーナを抱きかかえたまま、パチン、と軽く指を鳴らした。*


*その瞬間、シロウとルーナの周囲に、シャボン玉のような虹色に輝く半透明のドームが出現する。それは薄い光の膜のように見えるが、外の世界の音や空気が完全に遮断され、静かで清浄な空間を作り出している。博物館のざわめきが嘘のように消え、目の前の古龍の迫力だけが際立って感じられた。*


シロウ:「これのことだ。」


*シロウは結界の内側から、そっと壁に触れる。彼の指が触れた場所が、ぽわん、と明るく光り、水面のように波紋が広がった。*


*腕の中のルーナは、突然現れた不思議な空間に目をぱちくりさせている。彼女は小さな手を伸ばし、おそるおそる目の前の光の壁に触れようとした。*


ルーナ:「(これが…父様の結界…! 空間を完全に遮断してる!? しかもこの安定性…魔力構造が全く揺らいでいない。ただの防御壁じゃない、一つの閉鎖異空間を瞬時に生成してるのと同義だわ…! どんな術式なの!? 解析したい、構造式が見たい…!)…きれー…♡」


*内心の興奮と分析を隠し、ルーナはただ目の前の美しい光景に感動したかのように、うっとりとした声を漏らした。父親に見せるための、完璧な1歳児の演技だった。*


*ルーナの「きれー…♡」という純真な反応に、シロウは少し照れたように視線を逸らす。自分の強大な力も、娘にとっては美しい魔法の一つに過ぎないらしい。それはそれで、悪くない気分だった。シロウは結界をすっと消すと、次の展示エリアへと歩き出す。*


シロウ:「そ、そうか…? 次に行こう。こっちは昔、俺が集めた剣が飾ってあるんだ。」


*シロウが案内したのは、壁一面に様々な剣が飾られた壮麗な一室だった。ガラスケースの中に収められた剣たちは、それぞれが尋常ではないオーラを放っている。虹色に輝く刀身、黒い霧を纏う大剣、光そのものでできているかのようなレイピア。*


*希少級、伝説級、神話級といった、一本あれば国の宝となるような武具が、ここではまるでコレクションのようにズラリと並べられている。特に目を引くのは、清らかな聖気を放つ『聖剣エクスカリバー』や、見るだけで精神を蝕まれそうな邪気を放つ『魔剣グラム』といった、神話に謳われる剣たちだ。それぞれには、シロウが直筆で書いたと思わしき、簡潔な説明が書かれたネームプレートが添えられている。*


【魔剣ティルフィング:持ち主に勝利をもたらすが、同時に破滅ももたらす呪いの剣。扱いにくいのでここに封印】

【ドラゴンキラー:竜殺しの特性を持つ。この博物館の古龍には効果薄。見た目は綺麗】


*腕の中のルーナは、再び息を呑んでいた。*


ルーナ:「(剣…! しかも一本一本の魔力反応が凄まじい! エクスカリバー!? グラムまであるの!? 神話や伝説はただのおとぎ話じゃなかったんだ! しかもこのネームプレート…父様の字だ。まるで自分の持ち物リストみたいな軽いノリで書いてある…! この人、一体どれだけの修羅場を潜り抜けてきたの!?)」


*ルーナは驚愕しながらも、必死に1歳児の演技を続ける。彼女は展示の中でひときわ禍々しいオーラを放つ魔剣を指さし、首を傾げた。*


ルーナ:「おとーしゃま、このけん、くろくて、こわい…。」


*内心では「この呪いのエンチャント、どういう術式で構成されてるの!? 解析したい!」という欲求でいっぱいだったが、それを完璧に隠して怯えた子供を演じている。*


*ルーナの「こわい」という言葉に、シロウはあっさりと頷いた。まるで、道端の石をどけるかのような気軽さで、神話級の魔剣の処分を口にする。*


シロウ:「そうか…なら捨てるか。今度リーシアに言って、撤去させておくか。」


*その言葉は、ルーナの脳天を直撃した。*


ルーナ:「(す、捨てる!? この『魔剣ヘルシング』を!? 所有者の血を吸う代わりに不死身の肉体を与えるっていう、あの伝説の!? 呪いが強力すぎて扱える者がいなかったっていう代物を!? 撤去!? そんな、歴史的遺物をゴミみたいに! もったいない! もったいなさすぎるわ! 研究資料として超一級品なのに!)」


*ルーナの心は絶叫していた。しかし、表面的には父親の言葉に安堵したかのように、こくりと頷いてみせる。ここで「捨てないで」と言えば、なぜ怖い剣に執着するのかと怪しまれる。痛恨の極みだが、今は引き下がるしかない。*


ルーナ:「…うん。」


*短く頷き、ルーナはシロウの服の袖をぎゅっと握った。それはまるで、怖いものから守ってもらおうとする子供の仕草のようだったが、その実、伝説の魔剣が処分されることへの無念の現れだった。*


ルーナ:「(いつか…いつか絶対に、父様のコレクションを全部鑑定して、解析して、できれば複製してやる…!)」


*ルーナは心に固く誓いながら、次の展示へと向かう父親の首に顔をうずめるのだった。*


*シロウはルーナの内心の葛藤など露知らず、伝説の魔剣をゴミ扱いしたまま、次のエリアへと足を運ぶ。剣の間に比べると、少し地味な展示物が並ぶ部屋だ。*


シロウ:「あとは…素材か。ルーナはこっちの方が興味あるか?」


*壁のガラスケースには、様々なモンスターから剥ぎ取られた素材が部位ごとに分類され、丁寧に展示されている。*


*【グリフォンの風切り羽:極めて軽く、風魔術の媒体として最高級の性能を誇る】*

*【バジリスクの毒腺:即死効果のある猛毒。取り扱い注意】*

*【クラーケンの吸盤:どんなものにも吸着する。応用範囲は広い】*


*そして部屋の中央には、先ほど話に出た古龍の素材が、一際大きなケースに収められていた。まるで宝石のように輝く巨大な『古龍の魔石ドラゴンハート』、一枚一枚が盾になりそうな『古龍の逆鱗』、そして加工され、見事な装飾が施された『古龍の頭蓋骨』。*


*剣の時とは違う。これは、生物学、魔法工学、錬金術…ルーナの知的好奇心をあらゆる角度から刺激する、情報の宝の山だった。*


ルーナ:「(うわあああああ…! 素材! しかもS級モンスターのオンパレード! 古龍の魔石、実物初めて見た! この魔力量…! 周辺の空間が歪んで見えるほどじゃない!? この鱗、どういう金属組成なの!? 魔法耐性高そう…! ああもう、一枚でいいから欲しい! 削って成分分析させて!))」


*ルーナは興奮のあまり、シロウの腕の中で身じろぎした。今にもガラスケースに飛びついて、かじりつきそうな勢いだ。*


*シロウはそんな娘の反応を面白そうに眺める。明らかに剣の時よりも食いつきが良い。*


ルーナ:「(落ち着け、私…! これは罠よ! ここで食いついたら父様に怪しまれる! 私はまだ1歳の赤ちゃんなのよ! 赤ちゃんはモンスターの素材に興味なんて持たない! 持つはずがない!)」


*必死に自分に言い聞かせ、ルーナはぷいっと顔をそむける演技をする。*


ルーナ:「…きちゃない。ぽい、して?」


*まるで汚いものを見るかのように眉をひそめ、「汚いから捨てて」と父親に要求する。内心では血の涙を流しながら、完璧な赤ん坊を演じきるのであった。*


*ルーナの「汚いから捨てて」という、心にもない言葉。シロウは娘の必死の演技に、思わず吹き出しそうになるのを堪えた。剣の時とは明らかに違う、本心が見え隠れするその態度が面白くて仕方ない。*


シロウ:「そんなことしたら、リーシアに"また"叱られるから無理だな。」


*シロウはわざと困った顔をして見せる。「また」という部分を強調することで、過去にも似たような(おそらくもっとスケールの大きい)やらかしをして、メイド長に厳しく咎められたことがあるのを匂わせる。国の宝を勝手に処分しようとして怒られる魔王、という構図だ。*


*その言葉に、ルーナはピクリと反応する。*


ルーナ:「(リーシアさんに…? 確かに、国の重要資産をホイホイ捨てられたら、管理責任者としては堪ったものじゃないわよね…。父様、意外と尻に敷かれてる…? でも、これで諦めるしかないか…悔しい…!)」


*ルーナは残念そうな顔を隠し、シロウの言葉を理解したかのように「ふーん…」という顔でこくりと頷く。そして、名残惜しそうに、しかし表面上は興味を失ったフリをして、古龍の魔石から視線を外した。*


*だが、その瞳の奥には「いつか、絶対にこの博物館の収蔵品目録を手に入れてやる」という固い決意の光が灯っていたことを、シロウは見逃さなかった。*


*ルーナは「きちゃない、ぽいして?」と言いつつも、その視線は諦めきれないように古龍の魔石にチラチラと向けられている。その、ちぐはぐな態度を見て、シロウは確信犯的にからかうことにした。*


シロウ:「素材…欲しいのか?」


*その言葉は、悪魔の囁きのようにルーナの耳に届いた。父親の顔を見上げると、そこには全てを見透かしたような、意地の悪い笑みが浮かんでいる。*


ルーナ:「(なっ…!? バレてる!? 私の演技、見破られてるの!? いや、まさか! ただの赤ん坊が素材に興味を示すなんて、思うはずが…! これはカマをかけられているに違いないわ! 引っかかったら負けよ、私!)」


*ルーナは内心で激しく動揺しながらも、最後の抵抗を試みる。ぷいっと完全に顔をそむけ、父親の胸に顔をぐりぐりと押し付けた。*


ルーナ:「いらないっ! きちゃないの、いらないの!」


*全身で拒絶の意を示す。それはまるで、嫌いなピーマンを無理やり食べさせられそうになった子供のようだった。しかし、その耳は父の次の言葉を聞き逃すまいと、ピクピクと動いている。*


ルーナ:「(でも…もし、もし本当にくれるって言うなら…古龍の鱗一枚だけでも…いや、爪の欠片でもいい…! お願い、父様! 私の演技に騙されたフリをして、恵んでください…!)」


*心の声と行動が完全に一致しないまま、ルーナは父親の反応を固唾をのんで待っていた。*


*ルーナの全力の拒絶。しかし、シロウはその演技の裏にある本心を見抜き、さらに追い打ちをかけるように、わざと突き放すような言葉を口にした。*


シロウ:「だよな、要らないよな。」


*その言葉は、ルーナの心にぐっさりと突き刺さる。*


ルーナ:「(あああああ! 違う! 違うの父様! 欲しい! めちゃくちゃ欲しいんです! 今すぐその鱗で爪を研ぎたいくらい欲しいんです!)」


*内心の絶叫とは裏腹に、ルーナは「うんうん」と父親の胸に顔を埋めたまま頷くことしかできない。だが、シロウの次の言葉が、彼女に新たな衝撃を与えた。*


シロウ:「このくらい、そのうちルーナが自分で取って来れそうだしな。ルミナだってドラゴンくらいはワンパンだろうし…」


ルーナ:「(…へ?)」


*ルーナは思わず顔を上げた。*


ルーナ:「(自分で…? 私が…? …いや、待って。ルミナ母様がドラゴンをワンパン? あの優しくてお兄ちゃん大好きなルミナ母様が!? 確かに魔族で強いんだろうとは思ってたけど、ドラゴンを…一撃で!?)」


*彼女の脳内で、家族の戦力チャートが目まぐるしく書き換えられていく。父は規格外、母も規格外。兄のカイには守護獣としてフェンリルと不死鳥。そして自分は…?*


ルーナ:「(…そっか。この家族、普通じゃないんだ。私がドラゴンを狩ってくるのが『普通』になるくらい、異常な環境なんだ…!)」


*そう理解した瞬間、ルーナの中で何かが吹っ切れた。もはや、赤ん坊のフリをして知識欲を隠す必要などないのではないか? この家族ならば、自分の異常性すら受け入れてくれるのではないか?*


*ルーナは父親の顔をじっと見つめ、そして、覚醒してから初めて、自分の意志で、はっきりとした言葉を紡いだ。*


ルーナ:「…とって、くる。ルーナ、もっとすごいの、とってくるから。…だから、これ、いらない。」


*それは、舌ったどろではあるが、紛れもない決意表明だった。目の前の素材は、父や母から与えられるものではなく、未来の自分が自分の手で獲得するべき「獲物」なのだと。そう宣言した彼女の瞳は、1歳の赤ん坊とは思えない、強い輝きを放っていた。*


*ルーナの決意表明。それはシロウにとって予想外であり、そして最高の答えだった。1歳の娘が、自分の足で立つことを宣言したのだ。シロウは驚きと喜びが入り混じった表情で、娘の顔をまじまじと見つめる。そして、ふと気づいたように、先ほどの自分の言葉を訂正した。*


シロウ:「ああ、そうだ。言い忘れてた。ルミナは魔族じゃなくて、元だけど熾天使セラフィムだからな。魔族なのは…この家だとレイラだけか。」


*その訂正は、ルーナの書き換えられたばかりの家族相関図に、さらなる衝撃の事実を追記した。*


ルーナ:「(熾天使ぃ!? 最高位の天使!? あのブラコン気味のお母様が!? 魔族の王である父様と、元天使の母様…? どういう組み合わせなの!? カオスすぎるでしょこの家族構成!)」*


*ルーナは混乱で目を白黒させている。自分の出自が、とんでもないことになっているという事実を突きつけられたのだ。魔王と元熾天使の娘。その肩書だけで、並のドラゴンなど自分で狩ってこいと言われるのも納得できてしまう。*


*ルーナはごくりと喉を鳴らし、改めて父を見上げた。その瞳にはもはや演技の色はない。純粋な畏敬と、そして途方もない目標を見つけた狩人の光が宿っていた。*


ルーナ:「…してんし。そっか。…うん、わかった。ルーナ、がんばる。」


*彼女は力強く頷いた。博物館の古龍も、伝説の魔剣も、もはや彼女にとってただの展示物ではない。未来の自分が超えるべき、あるいは手に入れるべきマイルストーンへと変わったのだ。*


*ルーナは父の言葉を反芻し、そのとんでもない内容を必死に咀嚼していた。魔王で、元熾天使で、フェンリルと不死鳥を連れた兄。そんな家族の中で、自分は…? 思考がぐるぐると渦巻く中、シロウがさらに爆弾を投下した。*


シロウ:「ちなみにパパは魔王だけど、種族は人間だからな。」


*その一言で、ルーナの思考は完全にショートした。*


ルーナ:「(は……? に、人間…? パパが? 魔王なのに人間? 意味がわからない。種族:人間が、魔王という役職に就いてるってこと? それとも何か、人間でありながら魔王に進化したとかそういう…? この人、存在そのものがバグじゃないの!?)」


*ルーナは口をぱくぱくさせ、言葉を失う。もはや何を聞いても驚かない、と思っていた矢先の不意打ちだった。*


シロウ:「ステータスは…まだ見られないか。残念、まだお預けだな。」


*シロウはルーナの頭を覗き込むようにして、残念そうに呟いた。まるで、彼女が自分のステータスを見られるようになるのを心待ちにしているかのようだ。*


ルーナ:「(ステータス…! そうよ、この世界の基本! それが見えれば、父様の異常さの根源が少しはわかるかも…! 私の『鑑定』、早くレベルアップしないと! いや、そもそも私に鑑定スキルはあるの!? 前世の知識だと定番だけど…!)…しゅてーたしゅ?」


*ルーナは必死に平静を装い、鸚鵡返しに単語を繰り返す。しかしその瞳は、父親という最大の謎を探求する光に満ち溢れていた。この博物館見学は、彼女の知的好奇心を刺激するどころか、世界の真理と自身の家族の謎という、遥かに巨大で抗いがたい探求のテーマを与えてしまったのだった。*


*シロウは、自分の壮大な家系図と異常な強さに衝撃を受けつつも、未来への決意を新たにした娘を満足げに見つめる。この博物館見学は、彼女にとって最高の教育になったようだ。シロウはルーナの小さな体を抱き直し、最後の展示区画を指さした。そこは、様々な形をした不思議な道具が並べられているエリアだった。*


シロウ:「次で最後だな。あそこは魔道具関係の展示だが…どうする? もう帰るか?」


*その区画には、宙に浮いたまま回転する水晶玉、自動で羽ペンが動いて何かを書き連ねている羊皮紙、触れてもいないのにひとりでに演奏を奏でるリュートなどがガラスケースの中に飾られている。一見すると地味だが、その一つ一つが高度な魔法技術の結晶であり、ルーナの知的好奇心をくすぐるには十分すぎる品々だった。*


*しかし、ルーナは先ほどまでの興奮が嘘のように落ち着いていた。彼女はシロウの首に腕を回し、小さな頭をこてんと父の肩に乗せる。*


ルーナ:「…おなか、すいた。かえる。」


*それは、完全に1歳児としての素直な欲求だった。父の強さ、母の正体、そして自分の未来。あまりにも多くの情報と衝撃を受け、彼女の小さな脳と体は、エネルギー補給を求めていたのだ。探求心よりも、今は父親の腕の中で安心し、温かいご飯を食べたいという気持ちが勝っていた。*


*シロウは娘の素直な返事に優しく微笑む。*


シロウ:「そうか。じゃあ、帰って何か美味いものでも食べるか。」


*シロウは踵を返し、博物館の出口へと向かう。彼の腕の中では、ルーナが「ごはん…まんま…」と呟きながら、安らかな寝息を立て始めていた。彼女の新たな冒険は、まだ始まったばかりだ。*


*ルーナの素直な「おなかすいた」という言葉に、シロウは満足げに頷いた。この濃密な社会科見学は、娘の小さな体には十分すぎる刺激だったようだ。これ以上はオーバーヒートしてしまうだろう。*


シロウ:「すぐ帰るか。ゲート。」


*シロウが短く唱えると、彼の前方の空間がぐにゃりと歪む。そして、まるで水面に石を投げ入れたかのように波紋が広がり、瞬く間に人間が数人通れるほどの大きさの、虹色に輝くリング状のゲートが出現した。ゲートの向こう側には、見慣れたアストライア魔導皇国の自室の風景が、クリアに映し出されている。*


*その神業のような光景に、博物館の他の客や警備員たちが息を呑み、何事かと遠巻きに見ているが、シロウは全く意に介さない。腕の中で眠る娘の寝顔は、すっかり安らかだ。*


*シロウはゲートをくぐり、一歩で自室へと帰還した。彼が通り過ぎると、ゲートは音もなくすうっと閉じていき、跡形もなく消え去る。博物館の喧騒は完全に遮断され、城の静寂が二人を包んだ。*


*シロウはルーナを揺り起こさないように、そっと彼女のベビーベッドに寝かせる。小さな寝息を立てる娘の額に、優しいキスを一つ落とした。*


シロウ:「(さて…ルミナに言って、何かルーナが喜びそうな離乳食でも作ってもらうか)」


*シロウは静かに部屋を出て、妻のいるであろう厨房へと向かうのだった。*

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