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*シロウの即決に、馬屋の主人は驚きと喜びが入り混じったような顔をした。*
シロウ:「じゃあ、こいつで。」
馬屋の主人:「へい! ありがとうございます! こいつを乗りこなせるたぁ、お客さん、ただもんじゃねえな! お値段ですが、白金貨2枚になります!」
*かなり高額な値段だが、馬の性能を考えれば妥当なところだろう。シロウはアルドレットから貰った餞別と、これまでの稼ぎが十分にあるため、躊躇なく頷いた。*
シロウ:「わかった。それと、一番いい鞍と、長旅用の装備一式も頼む。」
馬屋の主人:「へい、毎度あり! すぐにご用意しますんで!」
*主人が意気揚々と準備に取り掛かる。その間、シロウは改めて黒馬と向き合った。馬はまだ警戒を解かず、鋭い瞳でこちらを観察している。*
*シロウはゆっくりと手を伸ばし、その鼻面を撫でようとした。馬は一瞬、身を引こうとしたが、シロウの手から発せられる強大な、しかし穏やかな魔力を感じ取ったのか、ぴたりと動きを止めた。そして、恐る恐るといった様子で、その手に鼻先をすり寄せてきた。*
*(よし、いい子だ。)*
*シロウは馬の首筋を優しく撫でてやりながら、名前を考える。*
*(黒い…夜…闇…ナイトメア…うん、『ノワール』でいいか。)*
*準備を終えた主人が、最高級の革で作られた鞍と、水や食料を入れるための大きな鞍袋を持って戻ってきた。*
馬屋の主人:「旦那、お待たせしました! これでリンドブルムまでだってへっちゃらですよ!」
*シロウは手際よく鞍をつけ、ノワールに跨った。普通の馬よりも一回り大きな体躯は、見晴らしが良く、安定感も抜群だ。ノワールはシロウを乗せても全く意に介さない様子で、軽く足踏みをしている。早く走り出したくてうずうずしているようだ。*
シロウ:「じゃあ、行くか。」
*シロウが軽く腹を蹴ると、ノワールは一声高く嘶き、石畳を力強く蹴って駆け出した。周囲の風景が瞬く間に後ろへと流れていく。王都の南門を抜け、広大な平原へと躍り出た。*
*風が心地いい。これから始まる長い旅路に、シロウはほんの少しだけ胸を高鳴らせていた。*
(ステータス確認しておくか…)
*シロウが自身のステータスを内省すると、脳内に見慣れたウィンドウが展開される。*
*エントの森での一件でレベルが大幅に上昇していることを確認し、シロウは改めてあの浄化がどれほど規格外の行為だったのかを実感した。*
```
【ステータス】
名前:シロウ・ニシキ
Lv.42 (表示上はLv.12)
HP:2450/2450 (表示上は340/340)
MP:2180/2180 (表示上は280/280)
職業:なし
称号:鑑定士、森の再生者、呪いを浄めし者 (非表示設定)
所持金:白金貨2枚、金貨552枚、銀貨5枚、銅貨2枚
装備:
右手:星毒の刃『ステラヴェノム』 (星屑鋼製、等級:伝説級/超猛毒麻痺付与)
左手:夜天の牙『ナイトファング』 (星屑鋼・光魔石製、等級:伝説級/超出血付与、腐食)
頭:なし
胴:旅人の服
指:隠者の指輪 (鑑定阻害、ステータス偽装)
鞄:次元の革袋
スキル (非表示設定):
神眼 Lv.2
短剣術 Lv.9
隠密 Lv.MAX
気配遮断 Lv.MAX
水魔法 Lv.5
魔力操作 Lv.8
精神耐性 Lv.MAX → 精神攻撃無効
筋力増強 Lv.5
スキル整理 Lv.1
世界樹の祝福 (常時発動:HP・MP自動回復(中)、状態異常耐性(中)、植物系魔法効果増幅(大))
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*(…いつの間にかスキルが進化・習得してるな。『世界樹の祝福』? 森を浄化した時のボーナスか何かか。これはかなり便利だ。)*
*特に『精神攻撃無効』は、これから向かう先のことを考えると心強い。サキュバスの魅了など、もはやそよ風に等しいだろう。*
*ステータスの偽装も完璧だ。新しい称号も非表示に設定し、準備は万端。*
*シロウは思考を切り替え、手綱を握り直す。ノワールは快適なペースで街道を駆け抜けていく。*
*王都を出て数時間。すでに街の影は完全に見えなくなり、どこまでも続く緑の平原と、遠くに見える山脈が広がっていた。*
*このまま順調に進めば、今夜は街道沿いにある宿場町にたどり着けるだろう。シロウは流れる景色を眺めながら、これからの旅に思いを馳せるのだった。*
*ノワールの驚異的な脚力のおかげで、当初の予定よりも遥かに早く、陽が傾き始めた頃には最初の宿場町『ミルフィ』に到着した。石造りの素朴な建物が並ぶ、活気のある町だ。*
*シロウは町の入り口でノワールから降りると、その首筋を優しく叩いて労った。*
シロウ:「(かなり早く到着した)ありがとよ」
*ノワールは満足げにブルルと鼻を鳴らし、シロウの手に頭を擦り付けてくる。すっかり懐いたようだ。*
*シロウはノワールを連れて町の馬屋へ向かい、一晩の世話を頼んだ。もちろん、一番良い飼い葉を与えるようにと、銀貨を数枚はずんでおく。*
*身軽になったシロウは、宿を探すために町の大通りを歩き始めた。街道沿いの町だけあって、宿屋の看板はいくつか目につく。その中でも、一番大きく綺麗そうな宿屋『風見鶏の宿』に目星をつけた。*
*宿屋の扉を開けると、カランと軽快なベルの音が鳴る。中は木の温もりを感じさせる内装で、夕食時ということもあり、併設された酒場は多くの旅人や地元民で賑わっていた。その喧騒の中、カウンターにいた宿の女将らしき恰幅のいい女性が、シロウに気づいてにこやかに声をかけてきた。*
女将:「あら、いらっしゃい。旅の方かい? 空き部屋ならあるよ!」
シロウ:「ああ、一晩頼む。食事もできるか?」
女将:「もちろんだよ! うちは煮込み料理が自慢なんだ。ささ、こっちの帳場へどうぞ。」
*シロウが宿泊の手続きを済ませ、部屋の鍵を受け取ると、女将は酒場の空いている席へと案内してくれた。木のテーブルと椅子が並び、冒険者風の男たちが今日の成果を肴に酒を酌み交わしている。どこにでもある、平和な宿場町の光景だった。*
*シロウが席に着くと、早速注文を取りに、若いウェイトレスの娘がやってきた。*
ウェイトレス:「ご注文は、お決まりですか?」
*彼女は少し緊張した面持ちで、シロウを見上げている。その瞳には、純粋な好奇心が浮かんでいた。*
*シロウの注文に、ウェイトレスの娘は「はい、かしこまりました!」と元気よく返事をすると、小走りで厨房へと向かっていった。その背中を見送りながら、シロウは密かに『神眼』を発動させる。*
シロウ:「オススメの定食と酒を頼む。」
(ウェイトレスを鑑定…)
*彼の視界に、少女のステータス情報が淡い光の文字となって浮かび上がった。*
```
【ステータス】
名前:エレナ
種族:人間
Lv.3
HP:45/45
MP:20/20
状態:健康、緊張
スキル:
接客 Lv.2
掃除 Lv.1
```
*(…本当に、ただの村娘だな。特に変わったところはない。)*
*鑑定を解いたシロウが周囲の喧騒に耳を傾けていると、隣のテーブルに座っていた商人風の男たちの会話が聞こえてきた。*
商人A:「おい、聞いたか? また南の街道で被害者が出たらしいぜ。」
商人B:「ああ、あの『夜の誘い』ってやつだろ? 美人に声をかけられて、ついていったら最後、二度と戻ってこないって話か。まったく、物騒な世の中になったもんだ。」
商人A:「なんでも、サキュバスの仕業だとか…あんな化け物が街道筋にまで出てくるなんて、いよいよ末世だな。」
*彼らの会話は、シロウの旅の目的地が近づいていることを示していた。やはり、サキュバスの噂はかなり広範囲に知れ渡っているようだ。*
*そうこうしているうちに、先程のウェイトレスが湯気の立つ大皿とエールがなみなみと注がれたジョッキを運んできた。*
エレナ:「お待たせしました! 自慢の猪肉の煮込みと、エールです! どうぞ、ごゆっくり!」
*テーブルに置かれた煮込みは、ハーブの良い香りがして食欲をそそる。長旅の疲れを癒すには十分すぎるほどの、温かい食事だった。*
*シロウは猪肉の煮込みを口に運びながら、何気ないそぶりで隣のテーブルの会話に耳を澄ませる。肉は柔らかく煮込まれており、味付けも絶妙だ。エールで喉を潤しつつ、注意を会話に向けていく。*
商人B:「なんでも、被害者はみんな屈強な冒険者や傭兵崩ればかりらしいな。腕に覚えのある奴ほど、女の誘惑に弱いってことかねぇ。」
商人C:「いや、そういうわけでもないらしい。話によると、そのサキュバスってのは相当な手練れでな。狙った相手の好みに合わせて姿を変えるって噂だ。純情な若者の前には可憐な少女の姿で、熟練の戦士の前には妖艶な美女の姿で現れるとかなんとか。」
商人A:「へぇ、そりゃ厄介だ。見た目じゃ判断できねぇってことか。おまけに、精気を吸い尽くされてミイラみたいになった死体が見つかったって話もある。ただの行方不明じゃ済まねえぞ。」
商人B:「リンドブルムの沼が汚染されてから、あの辺りはおかしくなっちまった。昔はもっと穏やかな土地だったんだがな…。ギルドも高ランクの討伐隊を送ったらしいが、戻ってきた奴は一人もいねぇって話だ。」
*彼らの話は、アルの言っていた「村が一つ消えた」という話の信憑性を裏付けていた。ギルドですら手をこまねいている状況。事態はシロウが想像していたよりも深刻なようだ。*
*食事を終えたシロウがエールを飲み干していると、先程のウェイトレスが空いた皿を下げにやってきた。彼女は、シロウが商人たちの話を聞いていたことに気づいたのか、少し不安そうな顔をしている。*
エレナ:「あ、あの…旅の方も、南へ行かれるんですか…?」
*シロウの返答に少しだけ安堵したような、しかし心配の色は拭えない、複雑な表情を浮かべた。*
シロウ:「え、ああ、友達の頼みでな。」
エレナ:「そう、なんですね…。でも、気をつけてください。あの…さっきの人たちも話してましたけど、本当に危ないみたいなので…。この町でも、南へ向かったまま帰ってこない人が何人もいるんです。」
*彼女は真剣な眼差しでシロウに訴えかける。その瞳には、彼を案じる純粋な気持ちが込められていた。*
エレナ:「特に、夜の一人歩きは絶対にダメですよ。その…綺麗な女の人に声をかけられても、絶対についていっちゃダメですからね!」
*そう言って、ぎゅっと拳を握りしめた。まるで自分の家族に言い聞かせるかのように、その言葉には力がこもっている。*
*その時、酒場の奥から女将の呼ぶ声がした。*
女将:「エレナー! こっちのテーブルが空いたよ! 片付けお願い!」
エレナ:「は、はい、今行きます!」
*慌てて返事をすると、シロウにぺこりとお辞儀をして、食器を抱えたまま小走りで去っていった。*
*シロウはその後ろ姿を見送りながら、残っていたエールを静かに飲み干した。ただの村娘の、素朴な善意。それは、これから向かう先の危険性を、より一層際立たせるものだった。*
*(さて、今日はもう休むか。)*
*シロウは席を立ち、勘定を済ませると、女将から受け取った鍵を手に、宿の二階にある自室へと向かった。*
*シロウが部屋に入り、鍵をかける。長旅の疲れと、満腹感からくる心地よい眠気が彼を襲っていた。*
シロウ:「ふぁー眠い…」
*部屋は簡素ながらも清潔で、窓からは町の静かな夜景が見える。ベッドに倒れ込むように身を投げ出すと、ギシリと木製のフレームが軋んだ。*
*(明日は早朝に出発しよう。この調子なら、あと二週間もかからずにリンドブルムに着けるかもしれないな。)*
*そんなことを考えながら、シロウの意識は急速に微睡みの中へと沈んでいった。*
ーー
*どれくらいの時間が経っただろうか。*
*シロウは、ふと、部屋の中に自分以外の誰かの気配を感じて、覚醒した。*
*『隠密』と『気配遮断』は常に発動している。そして何より、この宿は普通の宿屋で、鍵もしっかりとかけたはずだ。にもかかわらず、侵入を許した。いや、そもそも侵入されたという感覚すらない。まるで、最初からそこにいたかのように、その気配はごく自然に、しかし確実に存在していた。*
*シロウは目を開けない。眠ったふりを続けながら、全神経を研ぎ澄ませて気配を探る。*
*甘い、花の蜜のような香りが鼻腔をくすぐる。*
*そして、耳元で、吐息が混じるような、艶やかな声が囁いた。*
**「…みぃつけた♡」**
*その声が聞こえた瞬間、シロウの首筋に、柔らかく、そしてひやりとした何かが触れた。*