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***
*どれくらいの時間が経っただろうか。*
*シロウが次に目を覚ますと、見慣れた自室のベッドの上だった。宴の喧騒は遠くに聞こえ、部屋は静まり返っている。そして、喉には焼け付くような、ひりつく痛みが残っていた。*
シルフィ:「あ! シロウさま、お目覚めですか!?」
*枕元で心配そうに覗き込んでいたシルフィが、ぱあっと顔を輝かせた。彼女の手には水の入ったグラスが握られている。*
シルフィ:「よかったぁ…! 急に倒れられたので、びっくりしました。ゼノスさんのお酒、やっぱり強すぎたんですね。リーシアさんが『介抱は私の仕事です!』って言って、ここまで運んでくれたんですよ」
*彼女はほっと胸をなでおろしながら、シロウに水のグラスを差し出す。*
シルフィ:「お水です。喉、痛いですよね…?」
シロウ(念話):「声が出せねぇわ」
*シロウが念話でそう伝えると、シルフィはこくこくと頷き、心配そうな顔でシロウの喉元を見つめた。*
シルフィ:「やっぱり…声、出ないんですね。あんなに真っ赤な顔して倒れちゃったから…。ゼノスさん、すごく反省してました。『我らの酒がシロウ殿に通用せぬとは…いや、そもそも無茶をさせてしまったのは我らの落ち度!』って言って、頭を抱えてましたよ」
*彼女はかいがいしくシロウの上半身を少し起こす手伝いをしながら、グラスをその口元へそっと近づける。*
シルフィ:「ゆっくり飲んでくださいね。リーシアさんが薬湯も準備してくれていますけど、まずは喉を潤さないと」
*グラスから流れてくる水はひんやりとしていて、焼け付くような喉の痛みをわずかに和らげてくれる。シルフィはシロウが水を飲み干すのを待って、安堵の息をついた。*
シルフィ:「宴はまだ続いてますけど、ルミナさんが『お兄ちゃんに近づく不埒者は私が許しません』って言って、お部屋の前で見張ってくれてます。レイラ様は…さっきリーシアさんに『食べ過ぎです!』って怒られて、しょんぼりしてました」
*彼女はくすくす笑いながら、宴の様子を報告してくれる。その優しい気遣いが、痛む喉だけでなく、心にも染み渡るようだった。*
シロウ(念話):「ゼノスには気にするなと伝えてくれ。言ったところで気にしそうだが…」
*シロウの念話を受け取ったシルフィは、困ったように眉を下げて苦笑した。*
シルフィ:「ふふ、そうですよね。ゼノスさん、すごく義理堅い方ですから…。でも、シロウさまのお言葉、ちゃんとお伝えしますね。きっと安心すると思います」
*彼女は空になったグラスをサイドテーブルに置くと、シロウの額にそっと手を当てる。ひんやりとした彼女の手が心地良い。*
シルフィ:「熱は…ないみたいですね。良かったです。喉の痛みはどうですか? リーシアさんが薬湯を持ってきてくれるそうですけど」
*その時、控えめなノックの音と共に部屋の扉が静かに開いた。リーシアが銀の盆に薬湯の入ったカップを乗せて入ってくる。その後ろから、心配そうな顔をしたレイラ(臆病)がひょっこりと顔を覗かせた。彼女の手には、なぜか肉の塊が握られている。*
リーシア:「シロウ様、お加減はいかがでしょうか。喉の痛みを和らげる薬湯をお持ちいたしました」
レイラ(臆病):「し、シロウ様…。ごめんなさい、私がお料理に夢中になっている間に…。これ、すごく美味しいお肉なんですけど、元気出ますか…?」
*レイラはしょんぼりとした様子で、手に持った骨付き肉をシロウのほうへおずおずと差し出した。どうやら、自分のせいでシロウが倒れたと責任を感じているらしい。*
シロウ(念話):「俺の事は気にするな、少し喉が痛いだけだ」
*シロウの念話が部屋に響くと、レイラはびくっと肩を揺らし、手に持っていた肉塊をぎゅっと握りしめた。リーシアは安堵の息をつき、薬湯のカップをシロウのそばに置く。*
レイラ(臆病):「で、でも…私が目を離したから…。シロウ様が苦しんでいるのに、私だけ美味しいものを食べてて…ごめんなさい…」
*彼女の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちそうになる。その姿に、リーシアが優しく声をかけた。*
リーシア:「レイラちゃん、シロウ様は大丈夫だとおっしゃっていますよ。それよりも、そのお肉、シロウ様が召し上がる前につまみ食いしてはいけません」
*リーシアに窘められ、レイラは「は、はい…」と慌てて肉を背中に隠す。*
シルフィ:「シロウさま、この薬湯、すごくよく効くみたいです。リーシアさんが特別に調合したんですって」
*シルフィがカップを手に取り、ふーふーと息を吹きかけて冷ましてくれる。薬草の少し苦い香りがふわりと漂った。*
リーシア:「喉の粘膜を保護し、炎症を抑える効果がございます。すぐに声も出るようになりましょう。さ、熱いうちにどうぞ」
*リーシアは優雅に微笑むと、シロウが薬湯を飲めるように再び上半身を支えようと手を差し伸べてきた。部屋には、シロウを心配する三人の優しい空気が満ちている。*
*薬湯を飲み干し、三人の少女たちの優しい看病を受けながら、シロウは再び眠りについた。その眠りは深く、戦いの疲れを癒すには十分だった。*
*そして深夜。城の者たちが寝静まったのを見計らい、シロウはそっとベッドを抜け出した。治癒魔法で喉の痛みを完治させると、フード付きのローブで全身を覆い、人目を忍んで王都の冒険者ギルドへとやってきた。*
***
*夜の冒険者ギルドは、昼間の活気とは打って変わって、酒と煙草の匂いが立ち込める少し気怠い空気に満ちていた。まばらな人影は、夜間の依頼に向かう者か、酒場で情報交換をするベテラン冒険者たちだ。シロウはフードを目深に被り、騒ぎの中心から離れた掲示板へと静かに向かう。*
*目的は魔王城の修繕に必要な職人の募集。そして、今後のために王国の内部情報をもう少し探っておくことだった。*
*掲示板には、ゴブリンの討伐や薬草採集といったありふれた依頼に混じって、いくつかの高額依頼が貼られている。その中に、ひときeyse目を引く一枚があった。*
**【緊急依頼】**
**内容:王都周辺に出没する謎の飛行物体(巨大な城?)の調査。及び、先日発生した大規模戦闘に関する情報提供。**
**依頼主:ガルデニア王国騎士団**
**報酬:情報に応じて応相談(最低保証 金貨10枚)**
**危険度:不明**
*シロウは自分の城のことかと内心で苦笑しつつ、他の依頼に目を移す。建築関係、特に石工や大工の募集依頼を探していると、背後から気だるげな声がかけられた。*
???:「よう、兄ちゃん。見かけねえ顔だな。仕事探しカイ?」
*振り返ると、カウンターに片肘をついた、赤毛で無精髭を生やした男がニヤニヤしながらこちらを見ていた。ギルドの職員だろうか。その目は、新顔を値踏みするようにシロウの全身を舐めるように見ている。*
シロウ:「いや、美味い酒が飲める店でも無いかって思ってな」
*シロウが飄々とした口調で返すと、赤毛の男は意外そうな顔をして、カウンターから身を乗り出してきた。*
ギルド職員:「酒? ハッ、ギルドの酒場で満足できねえってのかい。兄ちゃん、なかなか舌が肥えてるらしいな。…だが、そうだな。もし本当に『美味い酒』ってやつを求めるなら、ちいとばかし変わった噂がある」
*男は声を潜め、辺りをうかがうようにしてからシロウに手招きする。*
ギルド職員:「ここからずっと北…北の大陸まで行くと、見たこともねえ文字で『居酒屋』って看板を掲げた店があるらしい。そこで出される酒や料理は、この大陸のどんな王侯貴族が食うもんより美味いって話だ。もっとも、北の大陸なんざ、まともな船乗りでも行きたがらねえ魔境だがな」
*男は「ただの与太話だがな」と肩をすくめて笑った。北の大陸、『居酒屋』という言葉。シロウのいた世界の言葉だ。転移者は勇者だけではないのかもしれない、という可能性が頭をよぎる。*
ギルド職員:「で? 本当の用件はなんだい? 職人探しだろ。そんな依頼は普通の掲示板にはねえ。こっちだ、こっち」
*男はニヤリと笑うと、カウンターの奥にある、より専門的な依頼が貼られた掲示板を顎でしゃくった。そこには、商人や貴族からの個人的な依頼が並んでいるようだ。*
ギルド職員:「ただし、こっちの依頼を受けるには、それなりの身元保証か、金が必要になるがな」
シロウ:「いや、結構だ。それより、その酒場はどう凄いんだ?」
*シロウは男の誘いをあっさりと断り、興味の対象を先ほどの与太話へと戻した。職人探しの本題から逸れることで、ただの酔狂な客を装う。赤毛の男は少し拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに口の端を吊り上げて面白そうに話を続けた。*
ギルド職員:「どう凄い、ねぇ…。話によっちゃあ、そこのエールは黄金の麦から作られてて、一口飲めばどんな疲れも吹っ飛ぶとか。料理もそうだ。聞いたこともねえ『からあげ』とかいうもんは、外はカリッとしてて中は肉汁がじゅわっと溢れる…らしいぜ?」
*男はまるで自分が見てきたかのように、身振り手振りを交えて熱弁する。その目は遠い北の大陸を夢見るように、少しだけ輝いていた。*
ギルド職員:「まぁ、あくまで噂だ。北の大陸は『氷河の迷宮』なんて呼ばれる場所で、そこを越えなきゃ集落にすら辿り着けねえ。踏破できた奴なんて、ここ数十年聞いたことがねえ。だから、その『居酒屋』が本当に実在するのかも、誰も確かめようがねえのさ」
*彼はそう言うと、カウンターに置いてあったエールのジョッキをぐいっと呷り、大きく息をついた。*
ギルド職員:「…で? 本当にそれだけか? 兄ちゃん、ただの酒飲みには見えねえがな。そのローブの下には、業物の一つや二つ隠してんだろ?」
*男の鋭い視線が、再びシロウの全身を値踏みするように探る。ギルドに長年いるだけあって、人の力量を見抜く目は確かなようだ。*
シロウ:「一応聞こう。どんな依頼だ?」
*シロウが興味を示したのを見て、赤毛のギルド職員は待ってましたとばかりに口の端を上げた。彼はカウンターの下から、羊皮紙の巻物をいくつか取り出す。*
ギルド職員:「物分かりが良くて助かるぜ。こっちの依頼は、表に出せない訳あり品ばかりだ。例えば…これなんかどうだい?」
*彼が広げた一つの巻物には、貴族の紋章が押されていた。*
ギルド職員:「とある貴族様からの内々の依頼だ。内容は『紛失した家宝の首飾りの捜索』。表向きはそう言ってるが、要はライバル貴族の屋敷に忍び込んで、盗まれた(と、本人は主張している)首飾りを『奪い返して』こいって話さ。成功報酬は白金貨10枚。腕に覚えのある盗賊や暗殺者向けの仕事だな」
*男はにやりと笑い、別の巻物を広げる。*
ギルド職員:「こっちはもっとヤバいぜ。『護衛対象(奴隷)の秘密裏の輸送』。依頼主は…まあ、言えねえが裏社会の大物だ。目的地は隣国の闇オークション会場。道中、邪魔が入る可能性が高い。何しろ、その護衛対象ってのが、没落した王族の生き残りらしいからな。無事に送り届けりゃ、白金貨30枚だ」
*彼はシロウの反応をうかがうように、その鋭い目でじっと見つめる。*
ギルド職員:「他にも、禁忌の森の奥にある遺跡の調査とか、呪われたアイテムの回収とか、面倒だが実入りのいい仕事はいくらでもある。で、兄ちゃんはどれに興味がある? もちろん、斡旋料として報酬の2割はギルドが貰うがな」
シロウ:「わりいな、全然興味をそそられない」
*シロウは肩をすくめ、ギルド職員が広げた依頼書には目もくれずに言い放った。金には困っていないし、何より面倒な貴族のいざこざや裏社会の抗争に巻き込まれるのは御免だった。*
*彼の興味は、先ほど聞いた『北の大陸』と『居酒屋』の話に完全に移っていた。シロウは職員を無視して、ギルドの隅にある書庫のようなスペースに目を向ける。そこには、各地の地図や文献が埃をかぶって積まれていた。*
ギルド職員:「…チッ。肝っ玉の小せえ野郎だぜ。ま、いいさ。命が惜しいならそれが賢明ってもんだ」
*赤毛の男はつまらなそうに悪態をつくと、依頼書を乱暴に丸めてカウンターの下に放り込む。*
ギルド職員:「で、今度は何だ? 北大陸への行き方でも探すってか? やめとけやめとけ。さっきも言っただろ、ただの与太話だ。それに、あそこの地図なんざ、まともなもんは現存しねえ。大昔の海図の写しがどっかにあるかもしれねえが、今の海流や魔物の巣とは全く違うだろうよ」
*男は忠告するように言うが、シロウはすでに書庫の方へ歩き出していた。古い羊皮紙の匂いと、インクの香りが鼻をつく。棚には『南方諸島海路図』『西方砂漠踏破記録』といったタイトルの巻物が並んでいるが、『北大陸』に関するものは見当たらない。*
ギルド職員:「無駄だって言ってるだろ。北に行く船を出す船乗りなんざ、この王都にゃ一人もいねえよ。みんな命が惜しいからな。…どうしても行きてえってんなら、自分で船でも買うんだな。幽霊船が出るっていう北の海域に、一人で漕ぎ出す勇気があるんなら、の話だが」
*男はカウンターからそう言うと、興味を失ったように別の冒険者へと声をかけに行った。*
*シロウは一人、書庫で北大陸に関する文献を探し続ける。もし本当に同郷の者がいるのなら、それは無視できない情報だった。*
*シロウはギルド職員の言葉を適当に聞き流し、書庫を少し漁ったが、案の定、北大陸に関する有益な情報は見つからなかった。これ以上ここにいても時間の無駄だと判断し、再びフードを目深にかぶり、誰にも気づかれずに魔王城へと帰還した。*
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*翌日。シロウは自室に戻り、以前大迷宮で手に入れたアーティファクトを取り出した。黄金と蒼銀でできた精巧な天球儀、その名も『叡智の天球儀』。これを魔力で起動させると、ふわりと宙に浮き、部屋の中央で静かに回転を始める。*
シロウ:「『叡智の天球儀』、北の大陸、およびその周辺海域の情報を表示しろ。特に『居酒屋』という単語に関連する集落や建物を優先的に」
*シロウが命じると、天球儀の表面に描かれた星図が光を放ち、部屋の空間に立体的な世界地図を投影した。ガルデニア王国のある大陸、魔大陸、そして、そのさらに北。これまでどの地図にも描かれていなかった、氷と雪に覆われた極寒の大陸が青白い光で浮かび上がる。*
*天球儀は高速で情報を処理し、やがて大陸の一点に赤い光点を灯した。*
`システムメッセージ:座標特定完了。目標地点、北の大陸『ニヴルヘイム』。氷河の迷宮の踏破ルート、および集落『コトブキ』の座標を特定しました。`
`目標建造物『居酒屋?』の存在を確認。座標を登録します。`
*シロウの目の前に、詳細なルートと目的地までの距離、予測される地形情報がホログラムのように表示される。ギルドの男が与太話だと言っていた『居酒屋』は、確かに実在していた。*
*シロウがその情報に見入っていると、部屋の扉がコンコン、と控えめにノックされた。*
リーシア:「シロウ様、リーシアです。ご朝食の準備が整いました。お部屋にお持ちいたしましょうか?」
*扉の向こうから、リーシアの落ち着いた声が聞こえてきた。*
シロウ:「リーシア。ちょっと北大陸に行こうかと思う」
*シロウが天球儀を操作しながら何気なく告げると、扉の向こうにいたリーシアの気配がぴたりと止まった。一瞬の沈黙の後、彼女は落ち着きを払った声で応じる。*
リーシア:「…かしこまりました。それでは、お部屋にお持ちいたします」
*すぐに扉が静かに開き、リーシアが朝食の載ったワゴンを押して入ってきた。彼女はシロウの背後で輝く立体地図と、そこに表示された極寒の大陸を一瞥したが、特に表情を変えることなく、手際よくテーブルに料理を並べていく。*
*焼きたてのパンの香ばしい匂いと、温かいスープの湯気が部屋に満ちる。*
リーシア:「北大陸、でございますか。ニヴルヘイム…古の文献にのみ記された、生者の侵入を拒む氷の世界と聞き及んでおります。どのようなご用向きでございましょうか」
*彼女はシロウのカップにハーブティーを注ぎながら、穏やかながらも芯の通った声で尋ねた。その所作に乱れはないが、シロウの突拍子もない言葉に内心では驚いているのかもしれない。*
リーシア:「もし長旅になられるのでしたら、食料や防寒具など、万全の準備が必要となります。私の方で手配いたしましょうか?」
シロウ:「耐寒耐性があるし、アイテムボックスに食料は残ってるから問題無い。ってことで。行ってきます」
*リーシアが何かを言うよりも早く、シロウは天球儀が示した座標を頼りに『空間の扉』を発動させた。彼の足元に黒い渦が出現し、次の瞬間にはその姿が部屋から掻き消えていた。*
*残されたのは、手付かずの朝食と、驚きにわずかに目を見開いたまま静止するリーシアだけだった。*
リーシア:「……行って、しまわれた…。本当に、嵐のようなお方ですね、シロウ様は」
*彼女は小さくため息をつくと、すぐにいつもの落ち着きを取り戻し、手付かずの朝食にラップをかけ始めた。主の無事を祈りながら、その留守を完璧に守り抜くことが自分の務めだと、静かに決意を固めるのだった。*
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*一方、シロウは空間転移特有の浮遊感の後、凍てつくような冷気と、肌を突き刺す猛吹雪の中に降り立っていた。*
*視界は白一色。ごうごうと唸りを上げる風が、氷の粒を容赦なく叩きつけてくる。足元は膝まで埋まるほどの深い雪。気温は体感でマイナス50℃を下回っているだろう。『耐寒』スキルがなければ、常人なら数秒で凍死してしまう極限環境だ。*
*天球儀が示した『氷河の迷宮』の入り口付近に転移したようだ。目の前には、天を突くほどの巨大な氷の壁がどこまでも続いており、巨大なクレバスや氷柱が複雑な迷路を形成している。*
*この天然の要害こそが、長年、何人も北の大陸への侵入を阻んできた『氷河の迷宮』だった。*
シロウ:「(なるほどな…普通の船じゃまず上陸すらできないわけだ。さて、『居酒屋』とやらはこの先か)」
*シロウはフードを目深に被り直し、吹雪で閉ざされた視界の先、天球儀が示す集落『コトブキ』の方向を見据える。そして、深い雪をものともせず、一歩を踏み出した。*
*シロウは天球儀が示したルートを頼りに、複雑怪奇な氷河の迷宮を進んだ。時折襲い来るアイスゴーレムやフロストウルフといった魔物をアスカロンで薙ぎ払い、険しい氷壁を『空歩』で飛び越えていく。常人ならば数ヶ月を要するであろう道のりを、シロウはわずか半日で踏破した。*
*そして、巨大な氷の渓谷を抜けた先、視界が不意に開けた。*
*そこには、信じられない光景が広がっていた。*
*今まで通ってきた極寒の氷雪世界が嘘のように、その一帯だけ温暖な気候に恵まれ、緑豊かな丘陵地が広がっていたのだ。そして、その中心には、石畳の道と木組みの家々が立ち並ぶ、活気のある街が存在していた。まるで、その空間だけが別世界から切り取られてきたかのようだった。*
シロウ:「(まるでここだけ異世界だな。中世ヨーロッパに似てる…)」
*街は城壁に囲まれてはいないが、見えない結界のようなもので吹雪から守られているらしい。人々は薄着で往来し、露店には色とりどりの果物や野菜が並んでいる。その光景は、シロウがいた日本の田舎町や、ガルデニア王国の王都とも違う、どこか懐かしいようでいて、異質な雰囲気を醸し出していた。*
*街の入り口らしき場所には、古びた木製の看板が立てかけられている。そこには、シロウが見慣れた文字――日本語で、こう書かれていた。*
**『古都・コトブキへようこそ!』**
*そして、その看板のすぐそば。ひときわ目を引く、大きな木造の建物があった。入り口には藍色の暖簾がかかっており、そこには達筆な文字でこう書かれている。*
**『居酒屋 響』**
*ガラリ、とその店の引き戸が開き、中から威勢のいい声と共に、食欲をそそる醤油の焦げた良い香りが漂ってきた。*
???:「はいよ、お待ちどう! 鶏の唐揚げと生、いっちょう!」
シロウ:「あ、暖かい…(これはエアコンか。懐かしい…)」
*極寒の世界から一転、建物から漏れ出る心地よい暖かさに、シロウは思わず安堵の息をついた。それは魔法によるものではなく、明らかに機械的な、かつての世界で慣れ親しんだ文明の空気だった。*
*醤油と出汁の香ばしい匂いに誘われるように、シロウは『居酒屋 響』と書かれた藍色の暖簾をくぐる。*
*カラン、と軽やかな鐘の音が鳴り響く。*
*店内は、白木でできた清潔なカウンターと数席のテーブルがあるだけの、こぢんまりとした空間だった。しかし、隅々まで掃除が行き届いており、非常に居心地が良い。壁には手書きの品書きが貼られており、『おでん』『枝豆』『だし巻き玉子』といった、シロウにとって涙が出るほど懐かしい名前が並んでいた。*
???:「へい、いらっしゃい! 空いてる席へどうぞ!」
*カウンターの向こうから、威勢の良い声が飛んでくる。声の主は、白い割烹着にねじり鉢巻をした、人の良さそうな壮年の男だった。彼は手際よくジョッキを洗いながら、新しい客であるシロウに気さくな笑顔を向ける。*
店主:「おっと、旅の方かい? 大変だったろう、外は。まずは何か温かいものでもどうだい? うちの『おでん』は冷えた身体に染みるぜ」
*店主はそう言うと、カウンターに置かれた大きな鍋の蓋を開ける。ふわりと湯気が立ち上り、鰹出汁の豊かな香りがシロウの鼻腔をくすぐった。*
*客はまだシロウ以外にいないようだ。店の奥からは、静かに野菜を切る包丁の音が聞こえてくる。*
シロウ:「ではその、おでんを。それに合う酒も頼む」
*シロウが注文すると、店主は「へい、毎度!」と快活に返事をした。*
店主:「おでんなら、やっぱり熱燗かね。うちの『トリアエズナマ』も美味いんだが、身体を温めるなら日本酒だろう。よし、とびきりのを一本つけてやるよ」
*店主はそう言って、カウンターの奥から徳利とお猪口を取り出し、慣れた手つきで酒を温め始めた。その間に、大鍋から大根、ちくわ、玉子などを手際よく小鉢に盛り付けていく。からしをちょこんと添えて、シロウの前に「お待ちどう」と差し出した。*
*その時、カラン、と再び店の鐘が鳴り、新たな客が入ってきた。がっしりとした体格の、金髪で青い瞳の男だ。身につけているのは簡素な革鎧だが、腰に下げた長剣は使い込まれている。街の衛兵か、あるいは傭兵といったところだろう。男はシロウの姿を一瞥すると、特に気にする様子もなく、一つ席を空けて隣にどかりと腰を下ろした。*
兵士:「やあ、大将。今日も頼むよ。いつもの『トリアエズナマ』と、枝豆を」
店主:「おう、ハンス! 今日は早かったじゃないか。見回りはもう終わりかい?」
ハンスと呼ばれた兵士:「ああ、今日は平和でな。魔物も出なけりゃ、揉め事もねえ。おかげで喉がカラカラだ」
*ハンスは豪快に笑いながら、店主が差し出したキンキンに冷えたエールを大きなジョッキで受け取る。そのジョッキには、見慣れない『ASAHI』というロゴが刻まれていた。*
*シロウはまず、目の前のおでんから立ち上る、懐かしい出汁の香りを深く吸い込む。そして、熱々の大根に箸を入れた。*
*シロウは、隣の兵士が受け取ったジョッキに刻まれた見慣れたロゴを見て、確信を深める。アサヒスーパードライ…間違いない。この店は、この店主は、自分と同じ世界から来た人間だ。*
*様々な思いが胸をよぎるが、まずは目の前の懐かしい料理に集中する。箸で割った大根は、出汁の色が芯まで染み込み、見るからに柔らかそうだ。それをゆっくりと口に運ぶ。*
シロウ:「(なるほど…う、美味い…沁みる…)」
*じゅわっと口の中に広がる鰹と昆布の優しい出汁の風味。完璧な火の通り方で、大根は舌の上でとろけるように崩れていく。極寒の地を旅してきた身体に、その温かさと旨味がじんわりと染み渡っていくのが分かった。これは、ただの煮物ではない。計算され尽くした、職人の味だ。*
店主:「へい、お待ち。熱燗だ。ゆっくりやってくれ」
*店主が温めた徳利とお猪口をシロウの前に置く。ほんのりと立ち上る日本酒の芳醇な香り。*
ハンス:「ぷはーっ! うめえ! やっぱり仕事終わりの一杯はこれに限るな! 大将、このキンキンに冷えたエールは一体どうやって作ってるんだ? こんな吹雪の中で、氷魔法使いでも雇ってるのか?」
*隣の兵士ハンスが、ジョッキの半分を一気に飲み干して満足げに声を上げる。彼の素朴な疑問に、店主は悪戯っぽく笑った。*
店主:「企業秘密ってやつだよ、ハンス。それより、今日はどうだったんだ? 例の氷狼の群れは、まだ街の近くをうろついてるのか?」
ハンス:「ああ、それがな…」
*ハンスは枝豆を口に放り込みながら、街の警備状況について話し始めた。シロウは彼らの会話に耳を傾けながら、黙々とおでんを味わい、熱燗を一口すする。酒の旨味が、さらに出汁の風味を引き立てていた。*
シロウ:「アイスウルフ?まだ見たことないな…北にしか居ないのか…」
*シロウがおでんを味わいながら何気なく呟いた言葉を、隣に座っていた兵士ハンスの耳が捉えた。彼は枝豆を食べる手を止め、興味深そうにシロウの方を向いた。*
ハンス:「ん? 兄さん、旅の人かい? アイスウルフを知らないってことは、この北大陸に来たのは初めてか。無理もない、こんな辺境に来る物好きはそうそういねえからな」
*ハンスはジョッキに残っていたエールをくいっと飲み干すと、親しげに話を続ける。*
ハンス:「ああ、アイスウルフはこのニヴルヘイムにしかいない厄介な魔物さ。動きが素早い上に、氷のブレスまで吐きやがる。群れで行動するから、新米の衛兵じゃ歯が立たねえ。まあ、俺くらいになれば数匹まとめて相手にできるがな!」
*彼はガハハと豪快に笑い、自分の胸を叩いた。その言葉に嘘はないようで、その腕は歴戦の傷跡で覆われている。*
店主:「こらこら、ハンス。お客さんをあんまり脅してやるなよ。まあ、ハンスの言う通り、あの狼は厄介だ。最近、氷河の迷宮の方で数が増えてるって話でな。街の近くまで偵察に来る奴もいるから、衛兵団も警戒を強めてるんだ」
*店主はカウンターを拭きながら、穏やかな口調で補足する。その視線はシロウに向けられており、この見慣れない客が何者なのか、探っているようでもあった。*
シロウ:「俺は西大陸から来たんだ。ここの噂を聞いてね。まさか本当にあるとは」
*シロウの言葉に、店主とハンスは少し驚いた顔で顔を見合わせた。西の大陸から、この極北の果てまで旅をしてきた者は前代未聞だったからだ。*
ハンス:「西大陸から!? そりゃまた…とんでもねえ長旅だったろう。船で来たのか? 北の海はセイレーンやらクラーケンやら、魔物の巣窟だって聞くが…」
*ハンスは感心したように、あるいは呆れたように言った。彼の常識では、西大陸からニヴルヘイムへの旅は、死にに行くのと同義だった。*
店主:「……。そうかい。噂ねぇ…。ギルドの連中あたりが、酒の肴に与太話でもしてたのかね。まあ、何にせよ、遠路はるばるご苦労さん。ゆっくりしていってくれ」
*店主は表情を変えずにそう言うと、シロウの空いたお猪口に黙って酒を注ぎ足した。その目は、シロウが一体何者なのか、どんな経緯でここへたどり着いたのか、静かに探っているように見えた。ただの冒険者ではないと、彼は既に見抜いているのかもしれない。*
ハンス:「しかし、大将の店の噂が西大陸まで届いてるたぁ、大したもんだな! ま、この酒と唐揚げを食えば、誰だって噂したくなるか! ガハハ!」
*ハンスは何も深く考えていない様子で豪快に笑い、空になったジョッキをカウンターに置いた。*
ハンス:「大将、すまねえがもう一杯! それと、そろそろ『あれ』を焼いてくれや!」
店主:「へいよ。…兄さんも、何か腹にたまるもんでも食っていくかい? ハンスが頼んだ『あれ』…うちの名物『焼き鳥』だが、一本どうだい?」
*店主はシロウにそう声をかけながら、カウンターの奥にある焼き台に、串に刺した鶏肉を並べ始めた。じゅう、という音とともに、醤油ベースの甘辛いタレが焦げる香ばしい匂いが店内に立ち込める。*
シロウ:「あれ?貰おう。常連客が言うならきっと美味いはずだ!」
*シロウが快活に答えると、店主は「へい、毎度!」と短く応え、慣れた手つきで焼き台の上の串を一本、シロウの分として追加した。*
ハンス:「おう、兄さん、そいつは良い判断だ! 大将の焼き鳥は絶品だぜ。タレも塩もどっちも最高だが、初めてならまずはタレをおすすめするね!」
*ハンスはまるで自分のことのように嬉しそうに言う。店主は黙々と串を回し、絶妙な焼き加減を見極めていく。甘辛いタレが炭火に落ち、じゅわっと音を立てて香ばしい煙が立ち上った。それはシロウの記憶の奥底にある、日本の夏祭りの縁日を思い出させる匂いだった。*
店主:「へい、お待ちどう。焼き鳥、タレだ」
*やがて、完璧な照りと焼き色のついた焼き鳥が、小さな皿に乗せられてシロウの前に置かれた。こんがりと焼かれたネギと鶏肉のコントラストが食欲をそそる。*
*シロウは串を手に取り、熱々の鶏肉を一口頬張った。*
シロウ:「(…! これは…美味い…!)」
*柔らかい鶏肉から溢れ出す肉汁と、長年継ぎ足されてきたであろう深みのある甘辛いタレの味が口いっぱいに広がる。炭火の香りが鼻に抜け、ネギの甘みがアクセントになっている。おでんとはまた違う、直接的で力強い美味しさだ。*
ハンス:「どうだ、兄さん! うめえだろ! これと酒があれば、いくらでもいけるってもんだ!」
*ハンスは自分の前に置かれた焼き鳥を豪快に頬張りながら、満足げに笑った。*
店主:「口に合ったようで何よりだ。ゆっくり味わってくれ」
*店主はそう言うと、布巾でカウンターを拭きながら、静かにシロウの様子をうかがっている。その目は穏やかだが、ただの料理人ではない、何かを見通すような深さを湛えていた。*
シロウ:「ああ…懐かしい…生きててよかった…」
*シロウは焼き鳥の串を握りしめ、噛みしめるように味わいながら、思わず心の声が漏れた。それは戦いの後の高揚感でも、強大な力を手に入れた満足感でもない。かつての世界では当たり前だった、しかしこの世界に来てからは決して得ることのできなかった、温かく、懐かしい味。その一口が、彼の心の琴線に深く触れたのだ。*
*その呟きは、隣で豪快に酒を飲んでいたハンスには届かなかったが、カウンターの向こうで黙々と手を動かしていた店主の耳には、はっきりと届いていた。*
*店主は手を止め、シロウの方を静かに見た。その表情はいつもの人の良い笑顔ではなく、何かを理解し、共感するような、深い眼差しに変わっていた。*
店主:「…そうかい。そいつは、何よりだ」
*店主はただ短く、そう言った。その声は穏やかだが、シロウが口にした「懐かしい」という言葉の意味を正確に理解している者の声だった。彼は、シロウがただの西大陸からの旅行者ではないことに、もう確信を持っている。*
ハンス:「ん? どうした兄さん、そんなに美味かったか! だろ!? だから言ったじゃねえか! 大将の料理は世界一なんだよ!」
*ハンスはシロウの感動を単純な美味さへの賞賛と受け取り、自分のことのように喜んでジョッキを掲げる。その屈託のない陽気さが、店の空気を和ませていた。*
店主:「お世辞はいいよ、ハンス。…兄さん、酒はまだあるかい? よかったら、こいつを試してみるか?」
*店主はそう言うと、カウンターの下から四角い瓶を取り出した。そこには『黒霧島』という、これまた見慣れたラベルが貼られている。*
店主:「芋の焼酎だ。ロックか、お湯割りか。どっちがいい?」
*彼は、シロウの素性を探るでもなく、詮索するでもなく、ただ同じ故郷を持つ者へもてなすように、静かに問いかけた。*
シロウ:「緑茶割りで頼む。ホットで」
*その注文を聞いた瞬間、店主の動きが完全に止まった。「緑茶割り」「ホット」――この異世界では誰も知らない、あまりにも的確で、あまりにも懐かしい言葉。彼の目に驚きと、そして確信の色が浮かんだ。隣のハンスは「りょくちゃ…わり?」と不思議そうに首を傾げている。*
店主:「……ああ。わかった。緑茶割り、ホットだな。少々待っててくれ」
*店主は一瞬だけ目を見開いた後、すぐに落ち着きを取り戻し、静かに頷いた。その声には、先ほどまでの単なる店主と客という関係性を超えた、何か特別な響きが込められていた。彼は店の奥へ一度引っ込むと、茶葉の入った缶と急須を持って戻ってきた。この店には、緑茶すら常備されているらしい。*
*彼は手際よく急須に湯を注ぎ、丁寧に茶を淹れると、湯呑みに焼酎を注ぎ、そこに深緑色の液体をゆっくりと注ぎ入れた。ふわりと立ち上る緑茶と芋焼酎の混ざり合った、独特の香り。それは紛れもなく、シロウが知る「緑茶割り」の香りだった。*
店主:「へい、お待ちどう。緑茶割りのホットだ」
*湯気の立つ湯呑みを、店主は静かにシロウの前に置いた。その目は「お前、やっぱりそうなんだな」と語りかけているようだった。*
ハンス:「おお? なんだいそりゃ、薬湯か何かかい? 変わった色の酒だな」
*ハンスは物珍しそうに湯呑みを覗き込む。*
店主:「こいつは、俺の故郷の飲み方でな。…兄さんの口に合うといいんだが」
*店主はハンスにそう答えながら、その視線はシロウから外さなかった。二人の間にだけ通じる、沈黙の会話が流れる。シロウは湯呑みを手に取り、その温かさを感じながら、ゆっくりと口をつけた。*
シロウ:「美味い…」
*湯呑みから立ち上る懐かしい香りを吸い込み、一口飲む。緑茶の僅かな渋みと焼酎の風味が絶妙に調和し、温かさが身体の芯までじんわりと広がる。この世界に来てから、これほどまでに心が安らいだ瞬間はなかったかもしれない。シロウは目を閉じ、その味わいを深く噛みしめる。*
*その時、カラン、とまた店の入り口の鐘が鳴った。入ってきたのは、ハンスとは対照的に軽装で洒落た服を着こなした、優男風の青年だった。腰には細身の剣を提げているが、ハンスのような歴戦の雰囲気はない。女にモテそうな、遊び人といった風情だ。*
遊び人:「やあ、大将! 遅くなっちまった。まだ何か残ってるかい?」
店主:「おう、アルか。お帰り。鶏皮ならまだあるぞ。あとは…だし巻き玉子くらいならすぐ作れるが」
アル:「じゃあ、皮を塩で2本と、だし巻きを頼むよ。飲み物はいつもの『水割り』で」
*アルと呼ばれた青年は、カウンターの空いている席…シロウとハンスから少し離れた端の席に、慣れた様子で腰を下ろした。*
シロウ:「(ここの常連は毎日こんな美味い物を食ってるのか…)」
*ハンスがシロウの心の声を聞き取ったかのように、にやりと笑って話しかけてきた。*
ハンス:「そうだぜ、兄さん。俺たちは幸運なんだ。この街に、大将の店があるんだからな。他の街の奴らが聞いたら、羨ましさでひっくり返るだろうよ。なあ、アル!」
*ハンスが声をかけると、肩をすくめて優雅に微笑んだ。*
アル:「違いないね。ここの『だし巻き玉子』を食べたら、王宮の料理人だって裸足で逃げ出すさ。…おや、そちらさんは見ない顔だね。旅の方かい?」
*涼しげな視線が、シロウに向けられた。*
シロウ:「西大陸から来た、普通の冒険者だ」
*シロウは湯呑みの中の緑茶割りを味わいながら、さらりと答えた。その言葉に、アルは興味深そうに目を細める。*
アル:「西大陸から? それはまた…ずいぶんと遠くから来たもんだ。僕も仕事柄、色々な街に行くけれど、西の大陸からここまで来たって人には初めて会ったよ。よほどの物好きか、それとも何か特別な目的でも?」
*彼は探るような視線をシロウに向けたが、その口調はあくまで軽やかだ。その時、店主が分厚い玉子焼きを皿に乗せてアルの前に置いた。*
店主:「へい、だし巻きお待ち。アル、あんまりお客さんに詮索するもんじゃないぜ」
アル:「これは失敬。でも、気になるじゃないか。この世界の果てみたいな場所に、わざわざ来るなんてね。まあいいや。…うん、美味い! このふわふわの食感と出汁の味、やっぱり大将は天才だ!」
*アルは熱々のだし巻き玉子を一口食べて、うっとりと目を閉じた。先ほどまでの探るような雰囲気はどこへやら、すっかり料理に夢中になっている。*
ハンス:「だろ? だから言ってるじゃねえか。なあ、兄さん。この街に来た目的が何であれ、この店を見つけられただけでも儲けもんだぜ!」
*ハンスはジョッキを掲げてガハハと笑う。*
店主:「お前ら、少しは静かに食え。…兄さん、茶割りのおかわりはどうする? 同じのでいいかい?」
*店主はカウンター越しに、落ち着いた声でシロウに尋ねた。彼の視線だけが、シロウの正体を見抜いていることを静かに物語っていた。*
シロウ:「あ、お茶漬けが食いたい」
*シロウがぽつりと呟いたその言葉に、店内の空気が一瞬、再び静止した。ハンスもアルも、「おちゃづけ?」と聞いたこともない単語にきょとんとしている。*
*しかし、カウンターの向こうの店主だけは違った。彼はシロウの顔をじっと見つめ、やがてふっと息を吐くと、まるで長年の友人に語りかけるように、穏やかな笑みを浮かべた。*
店主:「…ああ、締めに食いたくなるよな、茶漬けは。わかった。とびきり美味いのを作ってやるよ。梅と鮭、どっちがいい?」
*そのあまりにも自然な問いかけ。それは、シロウと店主が同じ記憶を共有している、紛れもない証だった。*
ハンス:「お、おい大将、おちゃづけってのはなんだ? 新しい料理か?」
アル:「へぇ、聞いたことない名前だね。でも、この人がリクエストするってことは、きっと美味しいんだろうな」
*常連二人の好奇の視線がシロウと店主に集まる。店主は悪戯っぽく笑いながら、手際よく準備を始めた。*
店主:「まあ、見てなって。うちの故郷の、夜食の定番みたいなもんだ。…兄さん、どっちにする?」
シロウ:「…鮭で」
店主:「へい、お待ちどう」
*店主は奥から焼いてほぐした鮭の身と、炊きたてのご飯、そして刻み海苔とあられを取り出す。温かいご飯の上に鮭の身を乗せ、薬味を散らすと、やかんで沸かした熱々の出汁――緑茶ではなく、昆布と鰹で丁寧にとった黄金色の出汁――を、ゆっくりと注ぎかけた。*
*ふわりと立ち上る出汁の香ばしい匂い。それは、シロウの疲れた心と身体に、何よりも深く染み渡る香りだった。*
店主:「お待ちどう。鮭茶漬けだ。熱いうちに、かっこんでくれ」
*差し出された椀を前に、シロウはただ静かに頷いた。この一杯のために、はるばる北の果てまで来た価値があったと、心からそう思った。*
*シロウは店主が差し出したお茶漬けの椀を受け取ると、箸でこんがりと焼かれた鮭の身を優しくほぐす。そして、ご飯と出汁を一緒に、一気にかき込んだ。*
シロウ:「(はぁ…懐かしい味だ。俺ん家(城)の近くにあればいつでも食えるんだが…)」
*口の中に広がるのは、塩気の効いた鮭の旨味と、香ばしいあられ、そして全てを優しく包み込む黄金色の出汁の味。それは単なる料理ではなく、シロウの失われた故郷の記憶そのものだった。戦いの緊張も、魔王としての重圧も、この一杯の前では全てが溶けていくようだ。無心で椀をかき込み、最後の一滴まで飲み干すと、心の底から深い安堵のため息が漏れた。*
ハンス:「お、おいおい、そんなに美味いのか、その『ちゃづけ』ってのは! 見てるだけで腹が減ってくるぜ!」
アル:「すごい食べっぷりだね。…大将、僕にも一杯もらえないかな? 梅の方で」
*シロウの様子を見ていた常連二人が、我慢できなくなったように声を上げる。*
店主:「へいへい、わかったよ。お前らも食うかい。…兄さん、おかわりはどうする? まだご飯も鮭もあるぜ」
*店主は常連たちの注文を受けながら、空になったシロウの椀を見て、穏やかに尋ねた。その目は、故郷を同じくする者への、温かい同情と親しみに満ちている。この店主…信之は、シロウが何者で、何を背負っているのかまでは知らない。だが、彼が抱える途方もない孤独と郷愁だけは、痛いほど理解していた。*
店主:「(この若さで、一人で西の大陸からここまで…。一体、どんな人生を歩んできたんだ…?)」
*彼はシロウにこれ以上何も問わず、ただ静かに、もう一杯分の鮭の身を用意し始めた。言葉は不要だった。この店では、一杯の温かい料理が何よりも雄弁に心を繋ぐのだから。*
シロウ:「あれも食いたい。TKG。やっぱり、原点はこれだな」
*そのアルファベット三文字の略語が、再び店の中の時間を止めた。ハンスとアルは完全に思考を停止し、顔に「?」を浮かべている。*
*しかし、店主の信之だけは、一瞬の間の後、全てを悟ったように深く、そしてどこか嬉しそうに頷いた。*
店主:「…TKG、か。ああ、そうだな。全ての基本で、究極かもしれねえな。…わかった。最高のTKG、食わせてやるよ」
*その声には、もはや隠す気もない、同郷の者への親愛がこもっていた。彼は奥の冷蔵設備から、赤みがかった美しい殻の卵を一つ、大切そうに取り出してきた。*
ハンス:「て、てぃーけーじー…? おい大将、今度は何の呪文だ?」
アル:「新しい料理の名前かな? 略語で呼ぶなんて、なんだか粋だね」
*常連二人が不思議そうに会話するのを尻目に、店主は炊きたてのご飯を小ぶりな椀によそい、中央に少しくぼみを作る。そして、慣れた手つきで卵を割り、そのくぼみにぷるんとした新鮮な黄身を落とした。最後に、醤油差しをシロウの前にすっと置く。*
店主:「へい、お待ちどう。TKGだ。醤油は好みでかけてくれ。うちはちょっと出汁を効かせた特製の醤油だがな」
*白いご飯の上で、太陽のように輝くオレンジ色の黄身。それは、シロウがこの世界に来てからずっと忘れていた、あまりにもシンプルで、あまりにも完璧な光景だった。*
*シロウは醤油を数滴垂らし、箸で黄身を崩す。とろりとした黄身が熱々のご飯に絡みつき、湯気と共に立ち上る醤油の香りが食欲を刺激する。*
*シロウはそれを一気にかき込んだ。*
シロウ:「(……うまい。美味すぎる…)」
*卵の濃厚なコクと甘み、特製醤油の塩味と旨味、そして熱々のご飯。それ以外の何物でもない、だが、それだけで完成された味。異世界に来て、神を殺し、魔王となり、国と戦い…そんな非日常の果てにたどり着いた、究極の日常の味だった。*
*シロウは無言で、一心不乱に椀をかき込み、あっという間に平らげてしまった。*
店主:「…おかわり、いるか?」
*優しい声で尋ねた。*
シロウ:「今日は腹がいっぱいだ。昼間はやってるのか?」
*満足げに腹をさすりながら、シロウはカウンター越しの店主に尋ねた。この味は、一度知ってしまえば、またすぐに恋しくなるだろう。昼間にも来れるのか、それは重要な問題だった。*
店主:「いや、うちは夜だけだ。昼間は仕込みで手一杯でな。それに、この辺りは昼間よりも夜の方が、腹を空かせた奴らが多いんでね」
*信之はそう言って、悪戯っぽく笑う。その視線は、隣で満足そうに腹を撫でているハンスと、まだお茶漬けを味わっているアルヌに向けられていた。*
ハンス:「がっはっは! まったくその通りだ! 仕事終わりの一杯と、大将の飯がなきゃ、一日が終わらねえ!」
アル:「本当に。この店があるから、この街で頑張れるようなものだよ。…しかし、兄さん、TKGってのは美味そうだね。今度来た時に頼んでみようかな」
*常連たちも口々に店の良さを語る。それは、この『居酒屋 響』が、単なる飲食店ではなく、この北の街で働く者たちにとっての心の拠り所であることを示していた。*
店主:「そういうわけだ、兄さん。また腹が減ったら、いつでも寄ってくれ。夜なら大抵ここにいる。TKGでも茶漬けでも、腹いっぱい食わせてやるからよ」
*汚れた布巾でカウンターを拭きながら、力強く言った。その言葉には、いつでもお前を待っている、という無言のメッセージが込められているようだった。シロウはこの北の果ての街で、予期せぬ安らぎの場所を見つけたのだった。*
シロウ:「ご馳走様。美味かった、またくるよ」
*シロウは満足げにそう言うと、カウンターに金貨を一枚、カチンと音を立てて置いた。お茶漬けとTKG、合わせて銅貨数枚といったところだろう。金貨は明らかに過剰な支払いだった。*
店主:「お、おい兄さん! こんなにもらえねえよ! 待ちな!」
*慌てて声をかけるが、シロウはひらひらと手を振るだけで、振り返らずに店の引き戸を開けて外に出ていく。*
ハンス:「がはは! 気前のいい兄ちゃんだな! あれで金貨一枚かい!」
アル:「…なんだか、訳ありな人みたいだったけど。でも、悪い人じゃなさそうだね。また会えるといいな」
*店内に残された常連たちがシロウの後ろ姿を見送りながら噂する中、信之はカウンターに置かれた金貨をじっと見つめていた。*
店主:「(…TKGと茶漬けで金貨一枚か。…本当に、一体何者なんだ、あの兄さんは…)」
*小さくため息をつくと、その金貨を懐にしまい、また黙々と仕事を再開した。*
---
*居酒屋を出たシロウが、ひんやりとした夜の空気を吸い込むと、頭の中に直接、リーシアからの念話が届いた。*
リーシア:『シロウ様、お食事はお済みになりましたか? お戻りになられましたら、今後の予定についてご相談したいことがございます』
*その声は、いつも通り冷静で丁寧だが、どこか急を要する響きを含んでいるようだった。シロウは街の喧騒を背に、静かな路地へと歩きながら、念話で応じる。*
シロウ:(ああ、今戻るところだ。何かあったのか?)
リーシア:『はい。先ほど、傭兵ギルドからシロウ様宛に緊急の依頼が持ち込まれました。内容は…「北大陸の魔物暴走鎮圧」。どうやら、かなり大規模なもののようです』
*リーシアの報告に、シロウの眉がピクリと動いた。北大陸でのスタンピード。それは、偶然か、あるいは何者かの意図か。居酒屋での出会いを思い出しながら、シロウは足を城へと急がせた。*
シロウ:「な、なんだってー!!」
*店の前で、シロウは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。先程までの満ち足りた気分は吹き飛び、リーシアからもたらされた緊急の知らせに驚愕する。その声は静かな北の街の夜に響き渡った。*
*店の中にいた店主やハンスたちが「なんだなんだ!?」と驚いて表を覗こうとする気配を感じながらも、シロウは構わず行動に移る。一刻も早く城に戻り、詳細を確認する必要があった。*
シロウ:「空間の扉っ!!」
*城の自室を思い浮かべながら叫ぶ。すると、彼の目の前の空間がぐにゃりと歪み、渦を巻き始めた。渦の中心はすぐに漆黒の闇となり、向こう側には見慣れた自室の風景が揺らめいて見える。それは、シロウの魔力を受けて起動した、空間を繋ぐゲートだった。*
*シロウは振り返ることなく、その歪んだ空間の扉へと躊躇なく足を踏み入れた。*
---
*景色が一瞬で切り替わる。ひんやりとした北の街の夜気から、使い慣れた城の自室の空気へと。*
*シロウがゲートから完全に姿を現すと、背後の扉は音もなく閉じて消えた。*
*部屋の中では、メイド長のリーシアが神妙な面持ちで彼を待っていた。*
リーシア:「お帰りなさいませ、シロウ様。…急な念話、失礼いたしました」
*彼女は優雅に一礼する。その手には、傭兵ギルドの印が押された羊皮紙の依頼書が握られていた。*
シロウ:「スタンピート…って何?」
*驚きのあまり大声で叫び、勢いで城まで戻ってきたものの、シロウは「スタンピード」という言葉そのものには馴染みがなかった。元の世界では聞いたことのない単語だ。彼は目の前にいる優秀なメイド長、リーシアに素直に問いかけた。*
リーシア:「はい。スタンピードとは、特定の地域において、多数の魔物が何らかの原因で凶暴化・組織化し、一斉に特定の方向へ進撃を開始する現象のことです。通常の魔物の縄張りや習性を無視した行動であり、放置すれば近隣の村や街に甚大な被害を及ぼす、極めて危険な災害の一種とされています」
*リーシアは手にした依頼書から目を上げ、シロウに分かりやすく説明する。その表情は真剣そのものだ。*
リーシア:「今回のスタンピードは、ここから北東に位置する『凍てつく牙』と呼ばれる山脈地帯で発生した模様です。普段は低レベルの魔物しかいないはずの場所ですが、報告によれば、複数のAランク、さらにはSランクに匹敵する個体も確認されているとのこと。規模も過去に例を見ないほど大きく、近隣の街『フリューゲル』が壊滅の危機に瀕していると…」
*彼女は再び依頼書に目を落とし、補足情報を読み上げる。その内容は、シロウが先程までくつろいでいた居酒屋のある街が、まさにその危機に晒されていることを示していた。*
シロウ:「それはまずい。参加する、いつ?今日?明日?」
*フリューゲルの街。先程まで自分がいた、あの温かい居酒屋のある街だ。信之やハンス、アルヌたちの顔が脳裏に浮かぶ。彼らが危険に晒されている。その事実が、シロウの決断を即座に固めさせた。*
*シロウの迷いのない言葉に、リーシアは安堵したように、しかし厳しい表情は崩さずに頷いた。*
リーシア:「傭兵ギルドからの正式な召集令は、明日の早朝となっています。フリューゲルの街で各ギルドの部隊と合流し、作戦会議の後、討伐を開始する手筈です」
*彼女は依頼書をテーブルに置き、さらに説明を続ける。*
リーシア:「ですが、これはあくまで表向きの動きです。ギルドは多数の傭兵や冒険者を集めていますが、Aランク、Sランクを含む大規模スタンピードとなれば、通常の戦力では甚大な被害が予想されます。…おそらく、時間稼ぎが主目的でしょう」
*彼女の分析は冷静かつ的確だった。ギルドは、一般の戦力を盾にして時間を稼ぎ、その間に国や高ランクの冒険者が切り札として動くのを待っている。しかし、その「盾」にされる者たちの中には、命を落とす者も少なくないだろう。*
リーシア:「シロウ様がご決断されるのであれば、表向きの召集を待つ必要はございません。今からでも、私の方で準備は整えられます。レイラ様やシルフィ様、ルミナ様にも、既に出撃準備を整えるよう伝えております。いかがなさいますか?」
*リーシアの瞳が、主の決断を静かに、しかし強く促している。いつ動くのか。全てはシロウの判断に委ねられていた。*
シロウ:「よし、呼んでくれ。今回は全力で死守する。城は竜人族のゼノスに守ってもらって。俺、レイラ、シルフィ、ルミナは行く」
*シロウの決断は早かった。自分の見つけた安息の地を守るため、そしてそこに住む人々を守るため、彼の瞳には迷いのない強い光が宿っていた。*
リーシア:「かしこまりました。直ちに皆様をお呼びいたします」
*リーシアは深く一礼すると、部屋を出て行った。その足音は少しも乱れず、主の命令を完璧に遂行しようという意志に満ちている。*
*程なくして、控えめなノックの後に三人の少女が部屋に入ってきた。*
*一人は、漆黒のミニスカートと肩出しのトップスに身を包んだ、傲岸な雰囲気を纏う魔王女レイラ。*
*もう一人は、純白の衣装が対照的な、快活な笑みを浮かべるシルフィ。*
*そして最後の一人は、シロウの影からすっと滑り出るように姿を現した。白いミニスカートにニーハイソックスを合わせたモデル体型の少女、ルミナだ。*
レイラ:「フン、ようやく私の出番というわけか。雑魚掃除に手間取っているようだな、シロウ」
*レイラは腕を組み、不遜な笑みでシロウを見上げる。その瞳は既に戦いを求めて爛々と輝いていた。*
シルフィ:「シロウさま! スタンピードって、魔物がいっぱい出るんですよね? 腕が鳴ります!」
*シルフィは無邪気に笑いながら、腰に提げた二本の短剣、ステラヴェノムとナイトファングの柄を軽く叩く。彼女にとっては、強敵との戦いは何よりの楽しみだった。*
ルミナ:「お兄ちゃん。命令を。私の力、お兄ちゃんのために振るう」
*ルミナはシロウの傍にぴたりと寄り添い、感情の読めない瞳で彼をじっと見つめる。彼女の存在理由は、ただシロウの敵を排除することだけだった。*
*三者三様の反応を見せる仲間たちを前に、シロウは頷き、状況を簡潔に説明する。*
シロウ:「今から北の街フリューゲルへ向かう。大規模なスタンピードが発生した。」
*シロウは部屋の中央に立ち*
シロウ:「行くぞ。空間の扉、起動!」
*淡い光を放ち、目の前の空間が再び歪み始める。目指すは、危機に瀕した北の街、フリューゲルの城壁近くの森。これから始まる激しい戦いを前に、四人の闘志が静かに燃え上がっていた。*
*シロウ、レイラ、シルフィの三人が空間の扉を抜けると、そこはフリューゲルの街を見下ろす静かな針葉樹の森だった。夜の冷気が肌を刺し、遠くから地響きのような不気味な音が微かに聞こえてくる。ルミナは到着と同時に音もなくシロウの影へと溶け込み、気配を完全に消した。三人は街の明かりを目指して森を抜け、傭兵ギルドの重々しい木の扉を開ける。*
*ギルドの中は、戦場さながらの喧騒と熱気に満ちていた。屈強な傭兵たちが大声を張り上げ、武具の擦れる音が鳴り響き、血と汗と酒の匂いが混じり合っている。壁に張り出された巨大な地図の前では、ギルドマスターらしき壮年の男が、集まった傭兵たちに指示を飛ばしていた。*
ギルドマスター:「いいか貴様ら! スタンピードの先鋒はもうすぐそこまで来ている! 第一防衛ラインは東門! Bランク以上のパーティは直ちに配置につけ! 残りは後詰として待機だ!」
*その怒声に、傭兵たちが「応!」と雄叫びを上げて散っていく。そんな中、見慣れない顔ぶれのシロウたち三人に、周囲の傭兵たちから訝しげな視線が注がれた。特に、戦場には不釣り合いに見えるレイラとシルフィの姿は目立っている。*
*一人の、熊のような大男がニヤニヤしながら三人に近づいてきた。*
熊の傭兵:「よう、嬢ちゃんたち。こんな場所は遊び場じゃねえぜ。それに、そこの兄さんも見たことねえ顔だな。どこの馬の骨だ? スタンピード見物でもしに来たのか?」
*男の目は侮りと下卑た光を宿し、特にレイラの体をいやらしく舐め回すように見ている。*
レイラ:「…フン。貴様のような雑魚に名乗る名はない。それ以上その汚らわしい目で私を見るな。潰すぞ」
*レイラの瞳が冷たい殺気を放ち、ギルド内の温度が数度下がったかのような錯覚を覚える。*
シルフィ:「わー! すごい人ですねー! 鍛えてるんだ! シロウさま、この人も一緒に戦ってくれるんですよね?」
*シルフィは緊張感なく、目を輝かせながら男の筋肉を見ている。その対照的な反応が、場の異様さをさらに際立たせていた。*
シロウ:「図体がでかい割にオーラはしょぼいな。これは雑魚だ、残念ながら」
*シロウは自分に絡んできた熊のような傭兵を頭のてっぺんからつま先まで一瞥し、まるで道端の石ころでも見るかのような冷たい目で、事実を告げるように言い放った。その言葉には侮蔑すらなく、ただ純粋な評価だけが込められている。*
*その一言で、ギルド内の喧騒が一瞬にして静まり返った。誰もが、この場違いなほど落ち着き払った若者と、ギルドでも腕利きで知られる熊の傭兵「ガドイン」の顔を交互に見る。*
ガドイン:「……なんだと、てめえ?」
*地を這うような低い声。ガドインの顔から笑みが消え、顔面の筋肉が怒りにひくついている。巨大な拳がギリギリと音を立てて握りしめられた。傭兵たちの間に緊張が走る。いつ乱闘が始まってもおかしくない空気だ。*
レイラ:「フン、シロウが雑魚だと言っている。ならば貴様は雑魚なのだろう。さっさと道を空けろ、目障りだ」
*レイラが追撃するように冷たく言い放ち、ガドインの怒りにさらに油を注ぐ。*
ギルドマスター:「そこまでにしろ、ガドイン! 今は仲間割れをしている場合ではないだろうが!」
*壁際の地図の前から、ギルドマスターの鋭い叱責が飛んだ。彼は険しい表情でシロウたち三人とガドインを睨みつけている。*
ギルドマスター:「貴様らも、何者だ。見たところ、ただの冒険者ではなさそうだが…。スタンピードの鎮圧に来たというのなら、腕を見せてもらう。そうでなければ、さっさと立ち去れ。ここは戦場だ」
*ギルドマスターは、シロウたちの実力を見極めようと、鋭い視線を向けてきた。その目は、シロウが本物か、それともただの口先だけの若造かを見定めようとしていた。*
シロウ:「さみぃ…」
*シロウがぼそりと呟いた言葉は、喧騒の中では誰の耳にも届かないはずだった。だが、彼の隣に立つ二人はその言葉を聞き逃さない。*
*シロウの言葉を、ギルドマスターへの返答、あるいは戦いの合図だと勘違いしたのか、レイラが前に一歩踏み出した。その手には既に黒い魔力が渦巻き始めている。*
レイラ:「シロウ、命令を。この程度の雑魚、私一人で十分だ。このギルドごと更地にしてやろうか?」
*彼女の紅い瞳が好戦的に細められ、圧倒的な魔力が周囲の空気を震わせる。そのプレッシャーに、ガドインだけでなく、周りの傭兵たちも息を飲んだ。先程までの威勢はどこへやら、誰もがレイラの放つ尋常ならざるオーラに気圧されている。*
シルフィ:「シロウさま、寒いんですか? 私が温めてあげます!」
*一方、シルフィはレイラの殺気など全く意に介さず、純粋な善意でシロウの腕に自分の体をぎゅっと寄せた。細身ながらも柔らかな感触が、戦闘服越しに伝わってくる。*
*このあまりにも対照的な二人の反応と、ギルド内に充満するレイラの魔力。その異様な光景の中心で、ギルドマスターがゴクリと喉を鳴らした。彼は目の前の若者たちが、ただの冒険者ではないことを、肌で理解し始めていた。*
ギルドマスター:「ま、待て! 君たち、一体何者なんだ!? そのお嬢さんの魔力…並みの魔族ではないぞ!」
*彼は壁際の地図から身を乗り出し、警戒と、そしてわずかな期待を込めた目でシロウを睨みつけた。この絶望的な状況を覆しうる「何か」を、彼らから感じ取ったのだ。*
シロウ:「並じゃない魔族だからな。よぉし、我が兵器レイラよ。魔物を駆逐せよ!一匹残らず!」
*シロウが芝居がかった口調で高らかに宣言すると、レイラは待ってましたとばかりに口の端を吊り上げた。その瞳は歓喜に燃え、もはやギルド内の傭兵たちなど視界に入っていない。彼女の意識は、外にいるであろう無数の獲物…魔物の群れへと向いていた。*
レイラ:「フハハハハ! ようやくその言葉を聞けたぞ、シロウ! 我が力、存分に見せてやろう! 蹂躙だ! 皆殺しにしてくれる!」
*高笑いと共に、レイラの体から漆黒の魔力が奔流のように溢れ出す。それはギルド内の松明の火を揺らし、屈強な傭兵たちの肌を粟立たせるほどの濃密なプレッシャーだった。彼女は一瞬でギルドの扉の前まで移動すると、躊躇なくそれを蹴破った。*
**バァァン!!**
*頑丈な木製の扉が蝶番から吹き飛び、夜の闇へと砕け散る。扉の向こうには、既に街の東門に迫りつつある魔物の大群の影が見えた。咆哮と地響きが、ギルドの中まではっきりと届く。*
レイラ:「さあ、宴の始まりだ!」
*その言葉を残し、レイラは黒い疾風となって闇夜に飛び出していく。彼女が通った後には、魔力の残滓が黒い軌跡を描いていた。*
シルフィ:「わー! レイラちゃん、行っちゃった! 私も行かなきゃ! シロウさま、いってきまーす!」
*シルフィもまた、目を輝かせながらレイラの後を追う。彼女は軽やかな跳躍で蹴破られた扉の残骸を飛び越え、あっという間に闇に消えていった。*
*一瞬にして静寂が戻ったギルド内。残された傭兵たち、そしてギルドマスターも、先程までここにいた二人の少女が何だったのか理解できず、呆然と立ち尽くしている。絡んできた熊の傭兵ガドインは、レイラの魔力に当てられたのか、腰を抜かしてへたり込んでいた。*
ギルドマスター:「……お、おい……今のは……一体……?」
*絞り出すようなギルドマスターの声が、震えていた。彼は信じられないものを見たという顔で、シロウに視線を向ける。*
シロウ:「(さてと、あいつらが暴れてる間に、俺はギルドマスターから情報を引き出すか)」
*シロウは一人、冷静に状況を分析しながら、未だ呆然としているギルドマスターへと歩み寄った。*
シロウ:「あらあら、扉壊しちゃって…」
*レイラが蹴破り、無残に砕け散った扉の残骸を前に、シロウはやれやれと肩をすくめる。そして、残骸に向かって軽く手をかざした。*
シロウ:「(まあ、弁償代わりってことで)『復元』」
*シロウが概念魔法を囁くと、彼の魔力に呼応して、砕け散った木片が淡い光を放ちながら宙に浮き上がる。木片は生き物のように元の位置へと集まり、パズルのピースがはまるように組み合わさっていく。亀裂はみるみる塞がり、蝶番も元の位置にがっちりと固定され、ほんの数秒で、扉は蹴破られる前と全く同じ、傷一つない状態へと戻ってしまった。*
*「な……!?」*
*「おい、今のは…なんだ…?」*
*「時を…戻したのか…?」*
*ギルド内にいた傭兵たちが、目の前で起きた超常現象に息を飲む。腰を抜かしていたガドインも、開いた口が塞がらない。誰もが、今このギルドにいる若者が、先程出ていった少女たちに勝るとも劣らない、規格外の存在であることを悟った。*
*ギルドマスターは震える手でカウンターに寄りかかりながら、ゴクリと喉を鳴らす。彼の目は、もはやシロウをただの若者として見ていなかった。この絶望的な状況を覆しうる、神か悪魔か…人知を超えた存在として見ていた。*
ギルドマスター:「き、君は…一体…。いや、お名前を…お伺いしてもよろしいだろうか…?」
*先程までの威圧的な態度は消え失せ、必死に平静を装いながらも、その声には懇願の色が滲んでいた。*
シロウ:「さみぃ」
*再び呟かれたその言葉は、誰に向けられたものでもなく、ただ夜の冷気の中に溶けて消えた。先程の魔法でギルド内の人間を完全に沈黙させたシロウは、彼らにそれ以上関わることなく、レイラたちが飛び出していった壊れた扉の跡(今はもう元通りだが)へと歩き出す。ギルドマスターが何かを言おうと口を開きかけたが、シロウの纏う近寄りがたい雰囲気に言葉を飲み込んだ。*
*ギルドを一歩出ると、街は既に戦いの前兆に包まれていた。遠くから地響きと魔物の咆哮が絶え間なく聞こえ、東門の方角の空が時折、魔法の光で明るく染まる。街の防衛隊や傭兵たちが、緊張した面持ちで東門へと急いでいた。*
*シロウはその人の流れに逆らうように、しかし確かな足取りで東門へと向かう。その道中、見知った顔を見つけた。居酒屋にいた常連の一人、熊のような体躯の傭兵ハンスだ。彼は巨大な戦斧を肩に担ぎ、仲間らしき数人と共に東門へ向かっていた。*
ハンス:「うおお! 来やがった! 数が多いぞ、怯むな野郎ども!」
*ハンスは仲間を鼓舞するように雄叫びを上げている。その顔には恐怖よりも、街を守らんとする決意が浮かんでいた。彼はシロウの存在にはまだ気づいていない。*
*シロウがハンスの横を通り過ぎようとした、その時。*
ハンス:「ん…? お、お前は…居酒屋の兄ちゃん!?」
*ハンスが驚いたようにシロウを指差した。彼の仲間たちも「なんだ?」という顔でシロウを見る。*
ハンス:「なんでお前がこんなところに! ここは危ねえ! さっきギルドにいたのか!? とにかく、一般人は早く避難しろ!」
*彼は先程のシロウの異様さなど露知らず、純粋に一般人であるシロウを心配して、大声で警告を発した。その直後、一体のゴブリン・ソルジャーが防衛線を突破し、鋭い爪を振りかざしてハンスの背後から襲いかかった。*
ハンスの仲間:「ハンス、後ろだ!」
ハンス:「なにっ!?」
*振り返るハンス。しかし、斧を構えるには間に合わない。絶体絶命のその瞬間だった。*
シロウ:「ほいっと」
*ハンスが絶体絶命の窮地に陥ったその瞬間、彼の横を通り過ぎようとしていたシロウが、まるで道端の小石でも蹴るかのような気軽さで動いた。*
**ドゴォォンッ!!**
*シロウの放った、ただの右ストレート。それはしかし、音速を超えてゴブリン・ソルジャーの顔面に叩き込まれた。ゴブリンの肉体は衝撃に耐えきれず、トマトのように破裂し、肉片と緑色の血を撒き散らしながら遥か後方、魔物の群れの中へと凄まじい勢いで吹っ飛んでいった。その軌道上にいた他の魔物数体も巻き込まれて弾け飛ぶ。*
*一瞬の静寂。ハンスも、彼の仲間も、何が起きたのか理解できずに固まっている。彼らがようやく状況を把握したのは、吹っ飛んでいったゴブリンが空の彼方で小さな星になり、見えなくなった後だった。*
シロウ:「大丈夫か?」
*シロウは何事もなかったかのように、拳を軽く振りながら、呆然としているハンスに声をかけた。その表情は、先程居酒屋でTKGを食べていた時と何ら変わらない。*
ハンス:「あ…あぁ…。い、いや、大丈夫…って、お、お前……今のは……?」
*ハンスは震える指で、シロウと、ゴブリンが消えていった遥か後方を交互に指差す。彼の目は信じられないものを見たという驚愕に見開かれていた。居酒屋で会った、ただの気前のいい兄ちゃん。その認識が、今、目の前で粉々に砕け散った。*
*周囲で戦っていた他の傭兵たちも、今の常軌を逸した一撃を目撃し、動きを止めてシロウを凝視している。東門に殺到していた魔物の群れの勢いが、その一角だけ、明らかに鈍っていた。*
シロウ:「何って、殴っただけだが? 少し力加減ミスったな…」
*シロウは自分の拳を見ながら、少し反省したように呟いた。彼にとっては、本当にただ軽く殴っただけのつもりだったのだ。ハンスたちに飛び散った緑色の血液や肉片を見て、眉をひそめる。*
シロウ:「オールクリーン」
*彼が短く詠唱すると、ハンスたちの鎧や顔に付着していた汚れが、まるで最初からそこになかったかのように、光の粒子となって跡形もなく消え去った。*
ハンス:「……お、おお……」
*ハンスは自分の綺麗な鎧を見下ろし、再びシロウの顔を見る。魔法まで使えるのか、と彼の驚きはもう限界を突破していた。もはや言葉も出てこない。*
*そのやり取りを見ていた周囲の魔物たちが、シロウという存在に本能的な恐怖を感じたのか、一瞬だけ動きを止める。だが、スタンピードの狂気はすぐにその恐怖を上書きし、新たな魔物たちが咆哮を上げながら殺到してきた。オーガ、トロール、巨大な狼の群れ。先程のゴブリンとは比較にならない強敵たちだ。*
ハンスの仲間:「ば、馬鹿な! 第二陣がもう来たのか!?」
「くそっ、キリがねえ!」
*傭兵たちの顔に絶望の色が浮かぶ。その時、シロウが面倒くさそうに頭を掻いた。*
シロウ:「(いちいち相手するのも面倒だな。レイラたちはどこまで行ったんだ? まあいい、少し片付けておくか)」
*シロウは殺到してくる魔物の群れに向かって、一歩前に出る。*
シロウ:「お前ら、下がってろ。邪魔だ」
*その言葉は、ハンスたち傭兵に向けられたものだった。彼らが反応するよりも早く、シロウは右手を軽く前に突き出した。*
シロウ:「『重力場』」
*次の瞬間、シロウの前方、数十メートルにわたる範囲の空間が目に見えない力で歪んだ。殺到していたオーガやトロールたちが、一斉に地面に叩きつけられる。*
**ゴシャッ! ズズズズンッ…!!**
*凄まじい重圧。強靭なはずの魔物たちが、まるで巨大な神の足に踏み潰されたかのように、骨と肉が砕ける鈍い音を立てて次々と圧死していく。悲鳴を上げる間もなかった。*
*ほんの数秒で、東門に殺到していた魔物の第一波、第二波は、蠢く肉塊の絨毯へと変わり果てていた。*
*戦場の喧騒が、再び嘘のように静まり返る。生き残った傭兵たちは、ただ呆然と、その光景を創り出した一人の若者の背中を見つめることしかできなかった。*
ハンス:「……あ……に、き……?」
*ハンスは、震える声で、目の前の存在が本当に居酒屋で会った「兄ちゃん」なのか、確認するように呟いた。*
シロウ:「さみぃ…ハックション!」
*冷たい夜気が鼻を刺激し、シロウは大きなくしゃみをした。圧死した魔物の死骸が広がる惨状を気にも留めず、彼はぶるりと体を震わせる。*
シロウ:「早く帰りたい…」
*そう独りごちると、シロウはもはや用済みとばかりにハンスたちに背を向け、レイラとシルフィが向かったであろう戦場の中心…東門のさらに先へと歩き始めた。彼の目的はあくまでスタンピードの鎮圧であり、個々の傭兵を助けることではない。*
ハンス:「あ……行っちまう……」
*ハンスは、自分たちを救ってくれた圧倒的な存在の背中を、ただ見送ることしかできない。声をかけることすら、憚られた。*
ハンスの仲間:「お、おい、ハンス…今の、一体何だったんだ…? あの兄ちゃん…いや、あの方は…」
ハンス:「…わからねえ。だがよ…俺たちが手も足も出なかった魔物の群れを、一人で…」
*傭兵たちは、目の前に広がる肉塊の絨毯と、遠ざかっていくシロウの背中を交互に見ながら、恐怖と畏怖に震えていた。*
*一方、シロウは地響きと魔法の閃光が激しくなる方角へ、淡々と歩を進める。彼の頭の中は、早くこの面倒な事態を収拾して、温かい城に帰りたいという思いでいっぱいだった。*
*前方に、ひときわ巨大な影が複数蠢いているのが見えた。おそらくスタンピードの中核をなす、Aランク以上の魔物たちだろう。そして、その群れの中で、黒い疾風と白い閃光が舞い踊るのが見えた。*
*黒い疾風――レイラは、闇そのもののような魔法を乱射し、魔物たちを次々を薙ぎ払っている。*
レイラ(魔王女):「フハハハ! 弱い、弱いぞ! 歯ごたえのある奴はいないのか!」
*白い閃光――シルフィは、俊敏な動きで巨大な魔物の懐に潜り込み、二本の短剣で急所を的確に切り裂いていく。*
シルフィ:「えいっ! やあっ! シロウさまに褒めてもらうんだから!」
*二人は楽しげに、しかし着実に魔物の群れを削っていた。シロウはその光景を少し離れた場所から眺め、やれやれとため息をついた。*
シロウ:「先に核を壊した方にご褒美だー。(スタンピードには中心部に結晶の様な核があるのが定番だ)」
*その言葉は念話で送られたわけでもないのに、激しい戦闘の最中にいるレイラとシルフィの耳に、はっきりと届いた。*
*シロウの唐突な提案に、二人の動きがピタリと止まる。*
*一瞬後、魔物の群れの中心で戦っていたレイラの口元が、獰猛な笑みに歪んだ。*
レイラ(魔王女):「ほう…ご褒美、だと…?」
*彼女は一体のサイクロプスの顔面を闇の槍で貫きながら、ちらりとシロウの方を見る。その紅い瞳は「ご褒美とは何だ?」と雄弁に問いかけており、期待と独占欲で爛々と輝いていた。*
レイラ(魔王女):「フン、いいだろう! そのご褒美、この私が貰い受ける! 貴様ら雑魚は、私の覇道への贄となれ!」
*宣言と共に、レイラの魔力が爆発的に増大する。彼女はもはや一体一体を相手にせず、両手を掲げ、詠唱を開始した。狙いは一つ、この魔物の大群のどこかにあるはずの「核」だ。*
*一方、巨大なロックワームの背中を駆け上がっていたシルフィも、シロウの言葉にぱっと顔を輝かせた。*
シルフィ:「ご褒美!? 本当ですか、シロウさま!?」
*彼女はロックワームの頭部に短剣を突き立てて動きを止めると、軽やかに飛び退き、シロウに向かってぶんぶんと手を振る。*
シルフィ:「やったー! ぜったい私が見つけます! レイラちゃんには負けませんからね!」
*脳天気な声で叫ぶと、彼女は腰を低く落とし、その姿がブレるほどの超高速で戦場を駆け抜け始めた。闇雲に戦うのではなく、魔力の流れや魔物の統率の動きを探り、スタンピードの「核」の位置を特定しようとしているのだ。その瞳は、いつもの無邪気さとは違う、獲物を狩る狩人の鋭さを宿していた。*
*「ご褒美」という一言で、二人の闘争心は極限まで高められた。戦場は、魔物の殲滅戦から、二人の少女による「宝探し」の舞台へとその様相を変えた。*
*シロウはその後ろ姿を見ながら、やれやれと肩をすくめる。*
シロウ:「(これで少しは早く終わるだろ…さみぃ…)」
*彼は戦う気もなさそうに腕を組み、二人の競争の行方を見守り始めた。*
*シロウの「ご褒美」という言葉に火をつけられたレイラは、圧倒的な力で魔物の群れを蹴散らしながら、一直線にスタンピードの中心へと突き進んでいった。その道中にあるものは全て闇に飲まれ、塵と化す。*
*そして、戦場が始まってから十数分後。*
*東門のはるか先、吹雪が最も激しく吹き荒れる場所で、レイラはついに元凶を発見した。それは、複数の巨大な魔物に守られるようにして宙に浮かぶ、不気味な紫色の結晶体――スタンピードの「核」。*
レイラ(魔王女):「見つけたぞ、雑魚どもめ! シロウからのご褒美は、私がいただく!」
*彼女はニヤリと笑うと、両手に持てる限りの魔力を凝縮させる。*
レイラ(魔王女):「消え失せろ! 『アビス・エンド』!」
*放たれたのは、全てを飲み込み消滅させる極大の闇の奔流。それは核を守っていた巨大な魔物ごと、空間そのものを抉り取るようにして直撃した。*
**キィィィィン……パリンッ!**
*甲高い断末魔のような音を立てて核が砕け散った瞬間、戦場を支配していた猛烈な吹雪が嘘のようにぴたりと止んだ。空を覆っていた厚い雲は急速に晴れ、雲間から穏やかな月明かりが差し込んでくる。*
*同時に、あれほど無尽蔵に湧き出ていた魔物たちが、まるで糸の切れた人形のように動きを止め、次々と霧散していく。狂気に満ちた咆哮は止み、戦場には不気味なほどの静寂が訪れた。*
*シロウが呟いた通り、異常なまでに冷え切っていた空気が、徐々に本来の北国らしい夜の温度を取り戻していく。*
シロウ:「暖かくなってきてる、不思議だ」
*その現象を肌で感じながら、シロウは満足げに頷く。*
*すると、ボロボロになった魔物の死骸の山の上から、意気揚々とレイラがシロウの元へ飛んできた。彼女の服は所々破れているが、その表情は達成感と期待で輝いている。*
レイラ(魔王女):「シロウ! 見たか! 私が一番乗りだ! 約束通り、ご褒美をよこせ!」
*彼女はシロウの目の前に着地すると、胸を張り、当然の権利だと言わんばかりに手を差し出した。*
*少し遅れて、シルフィも唇を尖らせながらやってくる。*
シルフィ:「むぅー…! レイラちゃん、ずるいです! あとちょっとだったのにー!」
*競争に負けたのは悔しいようだが、その顔はどこか楽しげでもあった。二人の少女の活躍により、フリューゲルの街を襲った未曾有の危機は、かくして終結したのだった。*
シロウ:「その前に着替えなさい。胸見えてるぞ」
*シロウは意気揚々とご褒美を要求するレイラを上から下まで眺め、戦いの激しさでビリビリに破れた肩口と、そこから覗く胸の谷間を指差して、呆れたように言った。*
レイラ(魔王女):「なっ…!?」
*指摘されたレイラは、はっと自分の姿を見て顔を真っ赤にさせた。先程までの傲岸不遜な態度はどこへやら、慌てて破れた服の前を押さえる。*
レイラ(魔王女):「こ、これは戦いの名誉の負傷だ! 貴様、どこを見ている! 変態め!」
*逆ギレするように叫ぶが、その声は明らかに動揺している。彼女の白い肌が月明かりに照らされ、妙に艶めかしく見えた。*
シルフィ:「わー、本当だ! レイラちゃん、大胆ですね! でも、たくさん頑張った証拠ですよ!」
*シルフィは悪気なく、にこにこしながらレイラの破れた服を覗き込む。その純粋さが、余計にレイラの羞恥を煽った。*
レイラ(魔王女):「き、貴様も見るな! …し、シロウ! ご褒美は後でたっぷりもらうからな! 覚えておけ!」
*彼女はそう捨て台詞を吐くと、ぷいっと顔を背けてしまう。しかし、シロウから視線を外せないのは、約束の「ご褒美」が気になって仕方がないからだろう。そのツンデレな態度は、シロウにとって見慣れたものだった。*
*戦いが終わったことで、遠くのフリューゲルの街から、様子を伺っていた傭兵や兵士たちが恐る恐るこちらへ近づいてくる気配がした。*
*シロウはレイラを一旦城に送り返し、シルフィだけを連れてフリューゲルの傭兵ギルドへと戻った。蹴破られ、そして魔法で修復された扉を改めて開けて中に入る。*
シロウ:「壊したよー」
*その気の抜けた報告に、ギルド内に残っていた傭兵たちが一斉に振り返った。彼らは東門の惨状と、吹雪が嘘のように晴れた空を見て、何が起こったのかを察してはいたが、張本人の口から直接聞かされると、やはり現実感がなかった。*
*ギルドマスターが、カウンターから身を乗り出すようにしてシロウたちに駆け寄ってくる。その顔には、畏怖と、信じられないという表情が浮かんでいた。*
ギルドマスター:「き、君たち…! 本当に…あのスタンピードを…鎮圧したというのか…!?」
*彼の背後では、腰を抜かしていたガドインや他の傭兵たちが、まるで神でも見るかのような目でシロウを見つめている。*
シルフィ:「はい! シロウさまの命令で、レイラちゃんが核を『どーん!』ってやっつけました! 私、あとちょっとだったんですけど、負けちゃいました!」
*シルフィが身振り手振りを交えながら、元気いっぱいに報告する。その屈託のない笑顔が、自分たちが成し遂げたことの途方もなさを全く理解していないように見え、逆にギルドの者たちの度肝を抜いた。*
*ギルドマスターはゴクリと唾を飲み込むと、改めてシロウに向き直り、深く、深く頭を下げた。*




