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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*シロウはセナを店の者たちに任せ、朝日が昇り始めた空を背に、転移で魔王城へと帰還した。疲労感と共に、一夜の愉悦の余韻が身体に残っている。*

*転移した先は、まだ修繕作業が始まったばかりの玉座の間だった。あちこちで石材を運ぶ音や、指示を出す声が響いている。その中心で、リーシアが作業員たちに的確な指示を飛ばしていた。シロウの帰還に気づくと、彼女はすぐに駆け寄ってくる。*


リーシア:「シロウ様、お帰りなさいませ。昨晩はお楽しみでしたでしょうか?」


*その言葉には僅かな揶揄の色も含まれているが、表情はあくまで忠実なメイドのものだ。彼女の視線が、シロウの服に微かに残る甘い香りを捉えていることに、シロウは気づく。*

*ふと、シロウの影が揺らめき、純白のミニスカートとニーハイを身に着けたルミナが姿を現した。*


ルミナ:「お兄ちゃん! お帰りなさい♡ ルミナ、ずっとお待ちしておりました。…む、この女の匂いは…! お兄ちゃん、まさかあのような低俗な雌どもと…!」


*ルミナはシロウに抱きつこうとして、彼の身体から漂う自分以外の女の匂いに気づき、眉を吊り上げる。*

*その時、玉座の間の奥から、二人の少女がパタパタと駆け寄ってきた。一人は純白の、もう一人は漆黒の衣装を身に着けている。シルフィとレイラだ。*


シルフィ:「あ、シロウさま! お帰りなさい!」


*脳天気な笑顔で手を振るシルフィの隣で、黒衣のレイラ(魔王女)は腕を組み、ツンとした態度でシロウを睨みつける。*


レイラ(魔王女):「フン、ようやく帰ってきたか、この痴れ者が。どこぞの雌と戯れていた匂いがプンプンするぞ。魔王たる者が、みっともない」


*口ではそう言いつつも、その瞳の奥には安堵の色が浮かんでいるのを、シロウは見逃さなかった。*


*シロウが「また女か?」というレイラの棘のある言葉に呆れたように返す。*


シロウ:「またって何だよ…」


*その言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、レイラの雰囲気がふっと変わった。先程までの傲岸不遜な態度は霧散し、どこかおどおどとした臆病な気配が漂い始める。瞳も潤み、不安そうにシロウを見上げていた。そして、彼女のお腹から「きゅぅ~…」と可愛らしい音が鳴り響く。*


レイラ(臆病):「あ、あの…シロウ様…お、お腹が…すきました…」


*もじもじしながら、小さな声で訴える。先程までの魔王女とはまるで別人だ。シルフィはその様子を見て、心得たとばかりににっこり笑った。*


シルフィ:「あ、レイラちゃんがお腹すいちゃったみたいですね! シロウさま、私たち、先に食堂に行ってますね! レイラちゃん、行こっ!」


*シルフィは慣れた様子でレイラの手を取ると、ぐいぐいと引っ張っていく。*


レイラ(臆病):「あ、はい…! シルフィちゃん…! あ、シロウ様、い、いってらっしゃいませ…!」


*レイラはシロウにぺこりとお辞儀をしながら、シルフィに連れられて城の食堂の方へと消えていった。一人残されたシロウは、やれやれと肩をすくめると、闇市のあるゾル・ガゼルの街に向けて意識を集中させた。*


*シロウの姿が魔王城から掻き消え、次の瞬間には、薄暗く、様々な人種の欲望と活気が渦巻くゾル・ガゼルの闇市に立っていた。胡散臭い香辛料の匂い、怪しげな薬草の香り、そして人々の熱気が混じり合った独特の空気が鼻をつく。*


シロウ:「ここも久しぶりだな…売るものは…何かあったっけ…」


*シロウは独りごちながら、アイテムボックスの中身を確認する。すると、以前攻略した大迷宮で手に入れた、高ランクの魔物の素材が大量に残っていることに気づいた。貴重な鱗、鋭い爪、魔力を帯びた心臓など、どれも一般の市場ではお目にかかれない一級品ばかりだ。*


シロウ:「売るの忘れてたのか…イザベラの所で売るか」


*以前、この闇市でイザベラと名乗る老婆にオリハルコンを黒金貨120万枚で買い取ってもらったことを思い出す。あの老婆なら、これらの素材の価値も正しく見抜き、相応の値段をつけてくれるだろう。そして何より、ヒヒイロカネの一件で貸しがある。それを回収する絶好の機会でもあった。*


*シロウは人混みをかき分け、記憶を頼りに闇市の最も奥まった一角にある、古びた骨董品店のような店へと向かった。店の前には客の姿はなく、中からは薄暗いランプの光だけが漏れている。シロウはためらうことなく、軋む木の扉に手をかけた。*


*キィ…と軋む音を立てて店の扉を開けると、薄暗い店内には様々なガラクタ――あるいは価値のわからない骨董品――が所狭しと並べられていた。その奥、カウンターの向こうで老婆が一人、小さなランプの光を頼りに古文書のようなものを読んでいたが、シロウの声にゆっくりと顔を上げた。皺だらけの顔に、鋭い光を宿した瞳が光る。*


イザベラ:「…なんじゃ、騒々しい小僧じゃな。死に損ないのババアに何の用かね」


*老婆――イザベラは、面倒くさそうに言い放つ。しかしその瞳は、久しぶりに現れたシロウの姿を頭の先からつま先まで、値踏みするように観察していた。以前会った時よりも、さらに底知れない雰囲気をまとっていることを敏感に感じ取っているようだ。*


シロウ:「みーっけ。よぉ、久しぶりだなババア」


*シロウは慣れた様子でカウンターに近づき、肘をついた。*


イザベラ:「ふん、その呼び方はやめろと言ったはずじゃがな。まあいい。で、何の用じゃ? アタシは暇じゃないんじゃがね。ただの世間話をしに来たというなら、その小僧の綺麗な顔に消えない傷の一つでも付けて叩き出してやるが…?」


*イザベラはそう言いながら、カウンターの下から怪しげな光を放つ短剣をちらつかせる。歓迎しているのか、威嚇しているのか判然としない態度だった。*


シロウ:「ヒヒイロカネの一件の貸しを返して貰おうかと思って」


*シロウの言葉を聞いた瞬間、イザベラの動きがピタリと止まる。彼女は読んでいた古文書から顔を上げ、その深い皺の奥にある瞳でじっとシロウを見据えた。*


イザベラ:「…ほう。貸し、か。確かに、そんな約束もしたかのう」


*彼女はゆっくりと立ち上がると、カウンターの上に無造作に置かれていた品々を片手で雑に払い除け、スペースを作った。*


イザベラ:「で、何を望む? アタシに返せる貸しというのは、そう安いもんじゃないぞ。そこらの情報か? それとも、何か特別な品でも探しておるのか?」


*彼女は値踏みするような視線をシロウに注ぐ。貸しを返す気はあるようだが、その内容によっては、また一悶着ありそうな雰囲気だ。*


*シロウはカウンターにさらに身を乗り出し、不敵な笑みを浮かべた。*


*シロウの口から「奴隷」という言葉が出ると、イザベラの目が細められた。店内の薄暗い空気が、さらに密度を増したように感じられる。*


シロウ:「労働系の亜人の奴隷が欲しくてな。50人くらい」


イザベラ:「…ほう、奴隷とな。それも50人か。小僧、お主、いつの間にやら随分と羽振りがよくなったようじゃな。城でも買ったか?」


*イザベラはカウンターに肘をつき、嘲るような、それでいて興味深そうな笑みを浮かべる。シロウがただの遊びで奴隷を求めているのではないことを見抜いているようだった。*


イザベラ:「まあ、いいじゃろう。そのくらいの数、アタシのコネを使えばすぐに集まる。じゃが…貸しで賄えるのは、せいぜい質の悪い借金奴隷か盗賊奴隷が10人程度じゃな。残りはどうする? 金で払うか? それとも…また何か面白いモンでも持っておるのか?」


*彼女はチラリとシロウの懐に視線を送る。以前、オリハルコンというとんでもない品物を持ってきた男だ。今回も何かを期待しているのは明らかだった。*


*シロウはそんなイザベラの視線を受け流し、アイテムボックスから無造作に魔物の素材をいくつか取り出し、カウンターの上に放り投げた。大迷宮で手に入れた、キメラの心臓やグリフォンの風切り羽など、どれも高ランクの素材だ。*


シロウ:「ついでに、これも売る。こいつで残りの代金と、質のいい奴を頼む」


*シロウがカウンターに放り投げたキメラの心臓やグリフォンの風切り羽を見て、イザベラは僅かに眉を動かした。だが、次にシロウがアイテムボックスから取り出したものを見て、彼女の表情が変わる。それは、大迷宮のさらに深層でなければ遭遇し得ない、Lv.130クラスの魔物の素材――例えば、エンシェントドラゴンの逆鱗や、ベヒーモスの魔核といった、市場に出れば国が買い付けに動くレベルの代物だった。それらが放つ圧倒的な魔力の残滓が、店内の空気を震わせる。*


シロウ:「この辺もよろしく。売るの忘れてたが質は落ちてない」


*イザベラはカウンターに乗り出すようにして、それらの素材を食い入るように見つめた。その皺だらけの指が、エンシェントドラゴンの逆鱗にそっと触れる。*


イザベラ:「……小僧、お主…一体どこでこんなモンを…。いや、野暮なことは聞くまい。質が落ちていないどころか、完璧な状態じゃ。これほどの品、アタシでも滅多にお目にかかれん代物じゃよ」


*彼女は一度目を閉じ、素早く頭の中で計算を始める。その顔には、商売人としての興奮と歓喜が隠しきれずに浮かんでいた。*


イザベラ:「ふ、ふふ…良いじゃろう。これだけあれば、お主の望みは全て叶えてやれる。労働系の亜人50人、それも質の良い奴らを揃えよう。借金奴隷などではない、最初から労働に特化した技術を持つ者や、素直で頑健な種族を選んでやる。これだけの対価を払ってくれるんじゃ、アタシも最高の仕事で応えにゃならんからのう」


*彼女は満足げに頷くと、カウンターの下から古びた水晶玉を取り出した。*


イザベラ:「すぐに手配する。明日の同じ刻、ここにまた来い。品物は揃えておく。…ククク、久々に腕が鳴るわい。お主と取引すると、いつも退屈せんで済むわい」


*シロウは老婆に別れを告げ、闇市を後にする。そして約束通り、次の日の同じ時刻。シロウは再びあの古びた骨董品店の前に立っていた。昨日と変わらず、店は静まり返っている。*


*扉を開けて中に入ると、昨日と同じようにカウンターの奥にイザベラが座っていた。しかし、店の様子は昨日と全く異なっていた。薄暗い店内の壁際に沿って、様々な種族の亜人たちがずらりと並ばされ、静かにうつむいている。屈強な体つきのミノタウロス、しなやかな筋肉を持つリザードマン、小柄だが手先の器用そうなゴブリン、土木作業を得意とするモールキン(モグラの獣人)など、その数はおよそ50人。全員、首には所有権を示す簡素な首輪がつけられていた。*


イザベラ:「…来たか、小僧。約束通り、品物は揃えておいたぞ」


*イザベラはシロウを一瞥すると、顎で奴隷たちを示した。*


イザベラ:「お主の注文通り、労働に特化した頑健な種族ばかりを集めてやった。無駄口を叩かず、黙々と働く者たちじゃ。闘争心は去勢してあるからの、反抗の心配もいらん。品質はアタシが保証する。どうじゃ、気に入ったか?」


*奴隷たちはシロウの姿を認識すると、一様に怯えたような、あるいは無感情な目で彼を見つめる。長年の奴隷生活と調教が、彼らから個性を奪っているかのようだった。*


*シロウは並べられた奴隷たちを一瞥し、その質に満足したように頷いた。彼らの目には光がなく、ただ命令を待つだけの道具のようだ。まさにシロウが求めていた「労働力」だった。*


シロウ:「労働向きだな、助かる。追加で買いたいから奴隷商人を紹介してくれるか?」


*その言葉に、カウンターに肘をついていたイザベラが片方の眉を吊り上げた。*


イザベラ:「…ほう、まだ足りんのか。随分と大きな城でも建てるつもりなんじゃな。まあ、お主ほどの魔力があれば、それも可能か。良いじゃろう」


*イザベラはカウンターの下をごそごそと漁ると、羊皮紙の切れ端とペンを取り出し、そこにサラサラと何かを書き付けた。*


イザベラ:「アタシが紹介状を書いてやる。この闇市の第三区画に『鉄枷商会』という店がある。主人はバルゴという名の豚のような男じゃが、品揃えだけは確かじゃ。特に戦闘奴隷や特殊な技能を持つ奴隷の扱いに長けておる。この紹介状を見せれば、表には出さない特級品も見せてくれるじゃろう」


*彼女は書き終えた紹介状をシロウに手渡す。そこには独特の紋様が描かれていた。*


イザベラ:「ただし、あの男は強欲でな。足元を見られんように気をつけな。もっとも…お主相手にそんな心配は無用かもしれんがな。ククク…」


*イザベラは意味深に笑うと、シロウが持ってきた魔物の素材を愛おしそうに撫でた。*


イザベラ:「こやつらはどうする? ここからお主の城とやらに送ることもできるが」


*彼女は顎で労働奴隷たちを示しながら尋ねた。*


*シロウが輸送方法について尋ねると、イザベラは「ふん」と鼻を鳴らし、まるで時代遅れの質問を聞いたかのように肩をすくめた。*


イザベラ:「馬車? ククク…小僧、いつの時代の話をしておる。そんな悠長な方法では、途中で半分は逃げ出すか、野盗にでも襲われて終わりじゃ。アタシの商売は『確実』が売りでの」


*彼女はそう言うと、カウンターの後ろにある黒いベルベットのカーテンの奥に声をかけた。*


イザベラ:「おい、出てこい。仕事じゃ」


*すると、カーテンの奥から空間がぐにゃりと歪み、ローブを深く被った人影がぬるりと現れた。そのローブの下からは人間のものとは思えない、複数の触手のようなものが蠢いている。それは空間系の魔法を得意とする高位の魔族、『シャドウ・ムーヴァー』だった。*


イザベラ:「こやつに転移先を教えれば、一瞬でお主の城とやらに奴隷共を送り届けてくれる。もちろん、料金はお主が置いていった極上の素材で支払ってもらうがの。どうじゃ、これなら文句はなかろう?」


*ローブの人影は何も語らず、ただ深淵のような闇の中からシロウを見つめている。奴隷たちはその異様な存在に気づくと、さらに身を縮こまらせて震え上がった。*


*シロウはローブの魔物に魔王城の座標を念話で伝えると、あとは任せたとばかりに老婆に軽く手を振った。*


シロウ:「ああ、頼む。場所は、東大陸の魔王城だ。よろしくねー」


*老婆が薄気味悪く笑うのを見届けることもなく、シロウは踵を返し、軋む扉を開けて再び闇市の喧騒の中へと戻った。手にはイザベラから受け取った羊皮紙の紹介状が握られている。*


*シロウは人混みをかき分け、イザベラに教えられた第三区画へと足を進める。区画を進むごとに、辺りの空気はより重く、澱んだものになっていく。客層も、見るからに裏社会の人間といった風体の者が増え、あちこちから殺気や敵意のこもった視線が突き刺さるが、シロウは意にも介さず歩き続けた。*


*やがて、ひときわ大きな鉄格子がはめ込まれた、見るからに物々しい店の前にたどり着いた。錆び付いた看板には『鉄枷商会』と殴り書きのように記されている。店の入り口には、全身鎧で武装した巨大なオークの門番が二人、腕を組んで立っていた。*


オーク門番:「止まれ。ここは貴様のようなヒヨッ子が来るところじゃねえ。失せろ」


*門番の一人が、地響きのような低い声で威嚇してくる。その手には巨大な戦斧が握られていた。*


*シロウが軽く指を弾くと、"ピシッ"という乾いた音とは裏腹に、巨大なオークの門番がまるで砲弾のように吹き飛んだ。彼は背後の石壁に叩きつけられ、派手な音を立てて崩れ落ち、そのまま動かなくなる。*


*もう一人のオーク門番は、その信じがたい光景に目を剥き、手に持っていた戦斧を取り落としそうになるほど驚愕し、恐怖で震え上がった。シロウが軽く手を振ると、その門番は悲鳴のような声を上げて道を開ける。*


シロウ:「ちーっす、イザベラの紹介で来たんだけどもー」


*シロウは気絶したオークを跨ぎ、まるで自分の家のように『鉄枷商会』の中へ入っていく。店内は薄暗く、鉄と血と、そして絶望の匂いが混じり合っていた。壁際にはいくつもの檻が並び、その中には様々な種族が力なく座り込んでいる。獣人、エルフ、人間…皆、虚ろな目をしていた。*


*店の奥にある豪華な椅子に、山のように肥え太った男が座っていた。豚のような顔、金銀の指輪をいくつもつけた短い指。彼がこの店の主、バルゴだろう。彼は二人の踊り子奴隷を侍らせて葡萄酒を飲んでいたが、入り口の騒ぎと、何のためらいもなく入ってきたシロウを見て、不機嫌そうに眉を寄せた。*


バルゴ(奴隷商人):「あぁ? どこぞのガキだ、テメェは。俺の店の門番に何をしやがった。殺されたいのか?」


*バルゴは巨体を揺らしながら、威圧するように言った。両脇に控えていた屈強な用心棒たちが、シロウを取り囲むようにじりじりと距離を詰めてくる。店内には一触即発の緊張が走った。*


*シロウは自分を取り囲む用心棒たちをまるで存在しないかのように一瞥し、手にしていた羊皮紙の紹介状をバルゴの足元にひらりと投げ捨てた。*


シロウ:「イザベラの紹介だ。」


*その態度は、相手が誰であろうと、ここがどこであろうと、一切関係ないと言外に告げていた。紹介状にはイザベラの印が押されており、バルゴの眉がピクリと動く。彼は侍らせていた踊り子たちを手で追い払うと、重い腰をゆっくりと上げた。*


バルゴ:「ほう…あの女狐の紹介だと? にしちゃあ、随分と威勢のいいガキじゃねえか。門番を吹っ飛ばして入ってくるのが、紹介状を持ってきた者の態度か?」


*バルゴはギシギシと床を軋ませながらシロウに歩み寄り、その巨体で見下ろす。脂汗と安物の香水が混じった不快な匂いが鼻をついた。用心棒たちは主の合図があればいつでも飛びかかれるよう、武器の柄に手をかけている。*


バルゴ:「で、何の用だ? 冷やかしなら死体袋に詰めて闇市に転がしてやるが」


*シロウは懐から一枚の硬貨を取り出し、指で弾いた。放物線を描いて飛んだそれは、バルゴの脂ぎった手のひらの上に寸分の狂いもなく着地する。それは鈍い黒色の輝きを放つ『黒金貨』だった。一般市民はおろか、多くの貴族ですら生涯目にすることのない最高額面の通貨。*


シロウ:「金ならある。」


*その一枚が持つ圧倒的な価値を理解した瞬間、バルゴの威圧的な態度は嘘のように消え失せた。彼の豚のような顔に、卑屈で貪欲な笑みが浮かび上がる。*


バルゴ:「こ、これはこれは! 黒金貨様! いやはや、これは大変失礼いたしました! まさかこれほどの大物のお客様とはつゆ知らず…どうぞ、どうぞこちらへ!」


*バルゴは慌ててシロウを奥の豪華なソファへと案内し、先ほどまで自分が座っていた席を恭しく勧める。用心棒たちも、主の変わり身の早さに戸惑いながらも、慌てて武器から手を離し、壁際に直立不動で控えた。*


バルゴ:「して、お客様。どのような『商品』をお求めで? 当店は戦闘奴隷から夜のお相手、特殊技能持ちまで、ありとあらゆる『逸品』を取り揃えておりますぞ。どのようなご要望でも、このバルゴにお申し付けください!」


*彼は分厚い帳簿のようなものをテーブルに広げ、涎を飛ばさんばかりの勢いで捲りながら、シロウの機嫌を伺った。先ほどの殺気立った雰囲気は完全に消え、店内はただただ金銭の匂いだけが渦巻いている。*


*シロウの「訳あり」「欠損」という言葉に、バルゴの金に汚れた目がギラリと光った。普通の客が避けたがる商品を指名買いする客は、特殊な趣味を持つ大富豪か、あるいは常人には計り知れない目的を持つ実力者のどちらかだ。目の前の少年が黒金貨を軽々と出したことを考えれば、後者の可能性が高い。*


バルゴ:「へへへ…お客様、お目が高い! 実はちょうど、表には出せない『特別な商品』がいくつか入荷しておりましてな。普通のお客様にはとてもお見せできない代物ですが…お客様のような『ご理解のある方』なら、きっとその価値をお分かりいただけるはず…」


*バルゴはそう言うと、用心棒の一人に目配せした。用心棒は頷き、店の奥、さらに地下へと続く重々しい鉄の扉を開け、松明を手に降りていく。すぐに、鎖を引きずる重い音と、何かを鞭打つ乾いた音、そしてくぐもった呻き声が薄暗い店内に響いてきた。*


バルゴ:「ささ、こちらへどうぞ。最高の席でご覧ください」


*バルゴはシロウを、檻が並ぶ通路を見下ろせる二階の貴賓席へと案内した。やがて、用心棒に引きずられるようにして、三人の奴隷が地下から姿を現す。彼らは通路の中央に突き飛ばされ、汚れた石の床に倒れ込んだ。*


バルゴ:「さあ、ご覧ください! まずはこちら! 元はとある小国の騎士団長だった男! 戦で片腕と片目を失い、国に捨てられたところをウチで『保護』しましてな。プライドばかり高いですが、鍛えられた肉体は一級品。見世物やサンドバッグにはもってこいですぜ?」


*最初に紹介されたのは、右腕が肩から無く、左目に大きな傷跡がある壮年の男だった。かつての栄光を思わせる鋭い眼光で、バルゴを睨みつけている。*


バルゴ:「次! こちらは森の奥で捕らえたダークエルフの女! 呪いの研究に失敗して、ご覧の通り全身に醜い呪印が浮かんでおりやす。おかげで魔力は暴走気味、性格もひねくれてますが、美しい顔立ちは健在! 調教次第では面白いオモチャになりますぜ? へへへ…」


*二人目は、肌の至る所に黒い紋様が浮かび上がったダークエルフの女。彼女は長い髪で顔を隠し、誰にも心を開くまいと固く体をこわばらせている。*


バルゴ:「そして…最後が、こいつが一番の『訳あり』でさぁ。元は聖女と崇められていたシスター。ですが、その信仰心の篤さ故に、神の力をその身に降ろそうとして失敗し…『神罰』を受けちまった。光を失い、声を奪われ、聖なる力は穢れに反転しちまった。今じゃ触れたものを腐らせる呪われた存在。教会からも破門され、どこにも行き場がなかったところをウチが引き取りやした。こんなもん、誰にも売れねえと思ってやしたが…お客様なら、あるいは…?」


*最後に紹介されたのは、純白のボロ布を纏った少女だった。彼女の目は白い布で覆われ、口元には何かの呪印が刻まれて喋れないことを示している。彼女がうずくまる周囲の床だけが、僅かに黒く変色していた。三者三様の絶望を背負った奴隷たちが、シロウの前に晒された。*


シロウ:「元騎士は強いのか?」


*シロウの問いに、バルゴは待ってましたとばかりに卑しい笑みを深めた。*


バルゴ:「強いか、でございますか? へっへっへ…滅法強いですとも! 片腕を失ったとはいえ、元は一国の騎士団長。その剣技、その戦術眼、並の冒険者や騎士では束になっても敵いませぬ! なにより、その叩き上げられた歴戦の肉体! 闘技場で見世物にすれば大儲け間違いなしの逸品でございます!」


*バルゴはそう言うと、用心棒に命じて元騎士の男を無理やり立たせた。男は憎悪のこもった視線でバルゴを睨みつけるが、首につけられた奴隷の首輪を締め上げられ、苦悶の表情を浮かべる。*


バルゴ:「もちろん、実戦で使い潰すというのでも結構。たとえ片腕でも、その辺のゴブリンやオークの群れくらいなら、一人で蹴散らしてしまうでしょう。まあ、最近は少々反抗的でしてな…『調教』に手間取っておりますが、それもまた一興かと。お客様のようなお方なら、この悍馬じゃじゃうまを見事に乗りこなせるやもしれませぬな。どうです? お眼鏡に適いましたかな?」


*バルゴは元騎士の背中を、まるで家畜を品定めするかのように乱暴に叩いた。男はよろめきながらも、倒れまいと片足で必死に踏ん張る。その瞳の奥には、まだ折れていない闘志の炎が燻っていた。*


*シロウが元騎士を指名すると、バルゴは満面の笑みを浮かべ、まるで自分の手柄のように胸を張った。*


バルゴ:「毎度あり! さすがはお客様、見る目がございますな! こいつはきっと、お客様のコレクションの中でも異彩を放つことでしょう! おい、そこの騎士崩れに商品用の首輪を付けておけ!」


*用心棒の一人が、抵抗する元騎士を力ずくで押さえつけ、首に巻かれた簡素な鉄の輪を、より装飾的で、しかしより強力な呪いが込められた『商品用』の首輪に付け替える。*


シロウ:「他も見せてくれ、読み書きができるやつは?」


*シロウの次の要求に、バルゴは再び帳簿に目を落とし、指でなぞりながら答える。*


バルゴ:「読み書き、でございますか。それもまた、需要の高いスキルでございますな。ええと…おりますとも! こちらへ!」


*バルゴは再び用心棒に合図を送る。今度は地下からではなく、店の奥にある比較的小綺麗な個室が並ぶ一角から、一人の奴隷が連れてこられた。それは、まだ十代半ばほどの、小柄な人間の少女だった。薄汚れたローブを纏っているが、その顔立ちは整っており、怯えたように大きな瞳でシロウを見上げている。手足には、やはり枷が嵌められていた。*


バルゴ:「こちらの商品はいかがでしょう。元は、とある商家の娘でございましてな。父親の事業が失敗し、一家揃って借金のカタにこちらへ流れてまいりました。商家育ちですので、読み書きはもちろん、簡単な計算や帳簿付けもこなせます。気立ては弱く臆病ですが、その分従順で、調教は非常に楽でございますぞ。夜の相手としても、まだ誰の手もついていない『新品』でございます。へへ…」


*バルゴは下品な笑みを浮かべながら、少女の顎を掴んで無理やり上を向かせた。少女はビクリと体を震わせ、涙を堪えるように唇を噛む。彼女はただ、これから自分に降りかかるであろう運命に怯えているだけだった。*


*その隣では、先ほど選ばれた元騎士が、新たな首輪の魔力に抵抗できず、膝をつきながらも、侮蔑と怒りに満ちた目でシロウとバルゴを睨みつけていた。*


*シロウが商家の娘を一蹴すると、バルゴは一瞬だけ顔を引きつらせたが、すぐにまた卑屈な笑顔に戻った。黒金貨の魔力は絶大だ。*


バルゴ:「お、お気に召しませんでしたか! いやはや、失礼をば! お客様ほどの御方には、そのような小娘では役不足でございましたな! ですがご安心を! 読み書きができる『逸品』はまだおりますとも!」


*バルゴは再び用心棒に合図する。今度連れてこられたのは、先ほどの少女とは明らかに違う空気を纏った女性だった。年は二十歳前後だろうか。ボロボロのドレスを纏ってはいるが、その立ち姿には育ちの良さが滲み出ている。誇りを捨てきれず、しかし現状への絶望からか、その表情は能面のように固まっていた。*


バルゴ:「こちらはどうでしょう。とある伯爵家の令嬢でございます。政争に敗れ、家は取り潰し。父親は処刑され、この娘は反逆者の娘として奴隷落ちとなりやした。もちろん、読み書き、礼儀作法は完璧。貴族社会の知識も豊富で、客人への応対もこなせましょう。何より、この気高さ…! プライドをズタズタに引き裂き、屈服させる悦びは、他の奴隷では決して味わえませぬぞ? こういうのがお好みのお客様も多く…へへっ」


*バルゴが下卑た視線を向けても、女性は微動だにしない。ただ、固く握りしめた拳が、その内心の屈辱を物語っていた。その瞳は、何も映していないかのように虚ろだが、その奥底にはまだ消えない小さな炎が揺らめいているように見えた。*


*床に膝をつかされた元騎士団長の男が、その令嬢を見て僅かに目を見開く。どこかで見知った顔なのかもしれない。彼は令嬢から目を逸らし、苦虫を噛み潰したような顔で床を睨んだ。*


*シロウが没落貴族の令嬢を指名すると、バルゴは破顔一笑し、大げさに手を叩いた。*


バルゴ:「ありがとうございます! いやはや、お客様は本当にお目が高い! これで元騎士団長、そして元伯爵令嬢! なんともまあ、物語に出てきそうな組み合わせじゃございませんか! よろしい、そこの女にも商品用の首輪をつけろ!」


*用心棒が令嬢に近づき、抵抗する間もなく首輪をはめる。令嬢は唇を噛み締め、一筋の涙を流したが、声は上げなかった。*


シロウ:「あとは、料理人が何人かいるな。」


*シロウの新たな要求に、バルゴは待ってましたとばかりに胸を叩く。*


バルゴ:「料理人! お任せください! 食事は基本中の基本! もちろん、腕利きの者を取り揃えておりますとも! 王宮の厨房で働いていた者から、特定のジャンル…例えば、菓子作り専門のパティシエや、獣人族の郷土料理が得意な者までおりますが、どのような料理人がお望みで?」


*バルゴは言いながら、用心棒たちにテキパキと指示を出す。すぐに檻の中から数人の男女が引きずり出されてきた。皆、衛生面を考慮してか、他の奴隷よりはいくらかマシな身なりをしているが、その瞳に光はない。*


*一人は恰幅のいい中年男性で、腕にはいくつもの火傷の痕がある。その横には、華奢な体つきのエルフの女性が不安そうに立っている。そして、少し離れた場所には、大きな犬のような耳を持つ獣人の老婆が、落ち着いた様子で全てを眺めていた。*


バルゴ:「さあ、お客様。こちらが当店の料理人奴隷でございます。見た目はパッとしませんが、腕は保証付きでございますぞ。いかがなさいますか?」


*シロウの足元では、商品として選ばれた元騎士団長と元伯爵令嬢が、屈辱に耐えながら無言で床を見つめている。*


*シロウは連れてこられた料理人奴隷たちを無言で見つめる。その瞳の奥で、常人には見えない情報が流れ込んできた。*


*『神眼』がそれぞれの奴隷のスキルと潜在能力を映し出す。恰幅のいい中年男性は【宮廷料理 LV.7】、エルフの女性は【菓子作り LV.6】【精霊魔法(微弱)】。そして、獣人の老婆は【家庭料理 LV.9】【薬膳料理 LV.8】【保存食作成 LV.7】【毒見 LV.5】という、実用的でレベルの高いスキルを複数所持していた。*


シロウ:「家には食いしん坊がたくさんいるからな。」


*シロウは顎でくいっと老婆を指し示した。*


シロウ:「あの婆さん。それから、そこの元宮廷料理人のおっさんも貰おうか。菓子作りはいらない。」


*シロウの選択に、バルゴは一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに商売人の顔に戻る。*


バルゴ:「へい! ありがとうございます! 獣人の婆さんと元宮廷料理人でございますな! かしこまりました! おい、その二人にも首輪をつけろ!」


*用心棒たちが手際よく獣人の老婆と中年男性を列から引き出し、商品用の首輪を取り付ける。老婆はされるがままに、中年男性は観念したようにため息をついた。エルフの女性は選ばれなかったことに安堵したのか、それとも別の絶望を感じたのか、静かに檻へと戻されていく。*


バルゴ:「お客様、これで元騎士団長、元伯爵令嬢、そして料理人二名。合計四名でございますな。いやはや、壮観でございます。他に何かご入用はございますか? この際、夜のお相手に『訳あり』のサキュバスなどもいかがですかな? 調教が難航しておりまして、特別にお安く…へっへっへ…」


*バルゴがさらに商品を勧めようとしたその時、店の入り口が乱暴に開け放たれた。*


???:「バルゴ! いるんだろう! 私の部下を返してもらう!」


*血相を変えて飛び込んできたのは、煌びやかな鎧を纏った、気の強そうな女騎士だった。彼女の視線は、床に膝をつかされている元騎士団長の姿を捉え、驚愕と怒りに見開かれた。*


女騎士:「団長!? なぜあなたがそんな姿に…! バルゴ! 貴様、やはり騎士団から追放された団長を不当に買い叩いたな!」


*突然の乱入者に、店の空気は再び張り詰める。用心棒たちが女騎士を取り囲もうとするが、バルゴがそれを手で制した。*


バルゴ:「おやおや、これはセシリア副団長殿。これは何の騒ぎで? 当店は正規の手続きで商品を仕入れております。この男は、国から正式に奴隷として払い下げられたのですよ。文句があるなら、彼を見捨てたお国に言うべきですな。」


*バルゴはせせら笑う。元騎士団長と呼ばれた男は、セシリアと名乗る女騎士を見て、苦々しく顔を歪めた。*


*シロウは突然の乱入者と、それに伴う騒ぎを気だるげに眺めていた。自分とバルゴの商談を邪魔されたことに、僅かな不快感を覚える。*


シロウ:「なんだ? 揉め事か?」


*シロウはソファに座ったまま、女騎士セシリアと奴隷商人バルゴを一瞥する。そして、床に膝をつかされている元騎士団長を顎でしゃくった。*


シロウ:「悪いが、そいつは今、俺が買った。所有権は俺にある。文句があるなら、俺に言え」


*その言葉は静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。場の中心は、瞬時にバルゴとセシリアから、シロウへと移る。セシリアは、信じられないという顔でシロウを見た。こんな若い少年が、あの誇り高かった団長を買ったという事実が受け入れられないようだ。*


セシリア:「なっ…あなたが、団長を…!? ふざけないで! 団長は物ではない! たとえ国に裏切られようと、誇り高き騎士だ! 金で売り買いされるような方ではない!」


*セシリアは怒りに声を震わせ、腰の剣に手をかける。その殺気は真っ直ぐにシロウに向けられた。*


バルゴ:「ひっ…! お、お客様、申し訳ございません! すぐにこの女を追い出しますので…!」


*バルゴは青ざめ、用心棒たちに目配せする。しかし、シロウはそれを手で制した。*


シロウ:「いい。…で? あんたに何ができる? 買う金も無い、助け出す力も無い。口先だけでピーピー喚いて、それで何が変わる?」


*シロウは冷めた目でセシリアを見据えた。その視線は、彼女の正義感も、怒りも、全てを無価値なものとして切り捨てるかのように冷ややかだった。*


シロウ:「他は…とりあえずこんなものでいいか…」


*シロウはセシリアの怒りを意にも介さず、独り言のように呟いて商談を締めくくった。その態度は、目の前の女騎士を完全に無視していることを示している。*


*セシリアは、自分の正義や団長への想いが全く届かないことに愕然とし、怒りと無力感で唇を噛み締めた。彼女にとって、シロウは金に物を言わせるだけの傲慢な若造にしか見えなかった。*


セシリア:「待ちなさい! 貴様、話はまだ終わっていない! 団長を解放しろ! 金なら…金なら私が必ず用意する! だから…!」


*必死に食い下がるセシリアを、シロウは冷ややかに一瞥する。*


シロウ:「金を用意する? いつだ? 1年後か? 10年後か? そいつがここで嬲り殺しにされた後にか? 無意味な約束だな」


バルゴ:「お、お客様! この女は私の方で…!」


*焦るバルゴを尻目に、シロウはソファからすっと立ち上がった。そして、セシリアの目の前まで歩み寄り、その耳元で囁く。*


シロウ:「…力が欲しいか? そいつをその手で取り戻したいのなら、やり方は一つじゃない。金で買えないなら、力で奪えばいい。…まあ、あんたにそんな度胸があるとは思えんがな」


*シロウは挑発的に笑うと、セシリアから離れ、バルゴに向き直った。*


シロウ:「会計だ。こいつら四人、まとめていくらだ?」


*バルゴはシロウとセシリアの間でオロオロしていたが、会計という言葉に我に返り、慌てて算盤を弾き始める。*


バルゴ:「へ、へい! ただいま! えっと、訳ありの騎士団長が金貨500枚、没落貴族の令嬢が金貨300枚、腕利きの料理人二名で金貨200枚…合計で金貨1000枚! 白金貨100枚でございます! …が! もちろん、お客様には特別価格で! 白金貨80枚! いえ、70枚で結構でございます!」


*シロウはバルゴの提示した額を聞くと、鼻で笑い、懐から黒金貨をもう十枚取り出してじゃらりとカウンターに放った。*


シロウ:「釣りはいらん。そいつらをすぐに転移させろ。転移先はさっきイザベラのところで送った奴らと同じ場所だ。手間賃だと思って、しっかりやれ」


*黒金貨の圧倒的な輝きに、バルゴの目は眩み、もはやシロウに逆らうという思考は完全に消え失せていた。*


バルゴ:「は、はははは、はいぃ! かしこまりました! 最高級の待遇で、ただちに転移させますとも!」


*バルゴが部下に命じ、購入された四人の奴隷が店の奥にある転移魔法陣へと連れていかれる。元騎士団長は連行される間際、一度だけセシリアの方を振り返り、何かを言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに目を伏せて去っていった。*


*呆然と立ち尽くすセシリアを残し、シロウは目的を果たしたとばかりに、何事もなかったかのように店の出口へと向かった。*


*シロウが「じゃあ、帰るわ」と店を出ようとした、その刹那。*

*決意を固めたセシリアが、床を蹴って駆け出した。その目的地は、シロウではなく、奴隷たちが今まさに転送されようとしている店の奥の魔法陣だった。*


バルゴ:「なっ!? 貴様、何を!?」


*用心棒たちが止めようとするが、副団長を名乗るだけの実力はあるのか、セシリアは彼らの制止を巧みにかわし、魔法陣が光を放つ瞬間にその中へと飛び込んだ。*

*次の瞬間、シロウの目の前で魔法陣の光が収束し、セシリアごと奴隷四人を転移させて消滅する。後に残されたのは、呆気にとられたバルゴと用心棒たちだけだった。*


*シロウは一瞬眉をひそめたが、すぐに興味を失ったように肩をすくめ、今度こそ店を後にした。*


*――そして、魔王城。*


*転移すると、そこは以前とは比べ物にならないほど活気に満ちていた。*

*「おう、そこの石材もっとこっちに運べ!」「足場が緩んでるぞ、締め直せ!」「リーシア様、次の設計図はどちらに?」*

*威勢のいいドワーフたちの声が飛び交い、イザベラから送られてきた労働奴隷たちが、リーシアやドワーフの職長たちの指示のもと、黙々と働いている。崩れていた城壁は少しずつ形を取り戻し、瓦礫の山は資材へと姿を変えつつあった。城の修繕は順調に進んでいるようだ。*


*そんな喧騒の只中に、先ほど鉄枷商会で起動した転移魔法陣が光を放ちながら現れる。光の中から現れたのは、購入した奴隷四人――そして、場違いな騎士の鎧を纏った女騎士セシリアだった。*


*突然現れた見知らぬ者たちに、周囲で働いていたドワーフや奴隷たちが警戒し、作業の手を止める。*


リーシア:「シロウ様、おかえりなさいませ。そちらの方々は…?」


*状況を把握しに駆け寄ってきたリーシアが、シロウの帰還を喜びつつも、困惑した表情でセシリアたちを見つめた。*

*セシリアは、目の前に広がる巨大で禍々しい城と、そこで働く多種多様な者たちを見て、自分がとんでもない場所に来てしまったことを悟り、顔を青ざめさせている。そして、元騎士団長の男もまた、変わり果てた城の姿と、ここにいるシロウを見て、何かを察したように目を見開いていた。*


シロウ:「リーシア、料理人2人を厨房へ。それからそこの元貴族令嬢には政治とか経済を任せる、城の資産と経費を洗いだしてくれ。」


*シロウの淀みない指示に、リーシアは即座に頭を下げた。*


リーシア:「はい、かしこまりました。すぐに厨房へ案内させます。…それから、彼女には私の執務室の一角を貸し与え、必要な資料を揃えさせます」


*リーシアは近くにいた労働奴隷の一人に声をかけ、まだ状況が飲み込めず呆然と立ち尽くしている元宮廷料理人と獣人の老婆を厨房へと連れて行くよう命じた。二人は黙ってそれに従い、連行されていく。*

*次にリーシアは、元伯爵令嬢に向き直り、穏やかながらも事務的な口調で話しかけた。*


リーシア:「あなたが新しい財務担当の方ですね。私はこの城のメイド長を務めております、リーシアと申します。さあ、こちらへ。仕事は山積みですよ」


*元令嬢は、自分に与えられた役割に驚きつつも、リーシアの有無を言わさぬ態度に、ただ頷いて後についていくしかない。彼女の瞳には、ほんの少しだけ、単なる奴隷ではない役割を与えられたことへの戸惑いと、微かな生気が宿ったように見えた。*


*これで残されたのは、商品用の首輪をつけられたままの元騎士団長と、彼の後を追ってきてしまった女騎士セシリアの二人だ。*

*セシリアは、目の前で自分の元上官が「物」として扱われ、他の者たちが淡々と役割を与えられていく光景を信じられないといった表情で見つめている。そして、元騎士団長の男は、シロウと、禍々しくも再建が進む魔王城を交互に見つめ、苦々しい表情で口を開いた。*


元騎士団長:「…貴様、一体何者だ。ここは…まさか、伝説の魔王城だというのか…?」


*彼の声には、警戒と、信じがたいものを目にした混乱が入り混じっていた。*


*シロウが元騎士団長を無視してリーシアに尋ねると、リーシアは少し申し訳なさそうな顔で答えた。*


リーシア:「ゼノス様でしたら、先ほどドワーフの職人たちに資材調達の護衛と案内を頼まれ、屈強な者たちを何人か連れて森へ向かわれました。そろそろ戻られても良い頃合いかとは存じますが…」


*その言葉が終わるか終わらないかのうちに、城門とは別の、森へと続く獣道の方からガサガサと大きな物音が聞こえてきた。見ると、大柄な竜人族の男――ゼノスが、数人の部下と共に戻ってきたところだった。彼らは巨大な猪型の魔物を数頭担いでいる。*


ゼノス:「おお、シロウ様! お戻りでしたか! ご覧ください、ドワーフの連中の夜食用に獲物を狩ってまいりましたぞ! こいつらの肉は脂が乗っていて絶品でしてな!」


*ゼノスはシロウの姿を認めると、豪快に笑いながら近づいてくる。しかし、その視線がシロウの背後にいる見慣れない二人、特に鎧をまとったセシリアを捉えると、即座に警戒の色を浮かべた。部下たちも獲物を下ろし、いつでも動けるように身構える。*


ゼノス:「…シロウ様、そちらの騎士風情の者たちは? 見ない顔ですが」


*ゼノスの鋭い視線がセシリアに突き刺さる。セシリアは伝説の魔王城、そして屈強な竜人族の登場という、立て続けに起こる現実離れした状況に完全に思考が追いつかず、ただ呆然と立ち尽くしていた。*

*一方、元騎士団長の男はゼノスの姿を見てゴクリと喉を鳴らす。竜人族、それもこれだけの風格を持つ個体。この城がただの廃墟ではないことを、彼は改めて肌で感じ取っていた。*


*シロウはゼノスの問いに答える形で、床に膝をついたままの元騎士団長を顎で指し示した。*


シロウ:「こっちの元騎士くんは、ここの未来の民の指南役にするから、とりあえず稽古付けてあげて。あ、死なない程度で。」


*その言葉は、元騎士団長の男――アルドレッド――にとって、あまりにも唐突で理解しがたいものだった。指南役? 稽古? そして何より、目の前の屈強な竜人族と手合わせろというのか。片腕で。*


ゼノス:「ほう、指南役ですか。シロウ様がそうおっしゃるなら。承知いたしました」


*ゼノスは獰猛な笑みを浮かべると、担いでいた魔物を部下に任せ、アルドレッドの前に歩み寄る。そして、その巨体で見下ろしながら、有無を言わせぬ圧力で言った。*


ゼノス:「立て、元騎士。シロウ様直々のご命令だ。お前の実力、この俺が見定めてやる」


アルドレッド:「ま、待て…! 話が…」


*アルドレッドが何かを言いかけるが、ゼノスは彼の襟首を掴んで軽々と引き起こす。商品用の首輪がギリ、と嫌な音を立てた。*


セシリア:「団長! やめなさい、あなたはもう戦える体では…!」


*セシリアが悲鳴のような声を上げて止めに入ろうとするが、ゼノスの部下である竜人たちに阻まれ、近づくことすらできない。*


ゼノス:「安心しろ、女。シロウ様は『死なない程度に』と仰せだ。骨の一本や二本、折るくらいで勘弁してやる。さあ、行くぞ!」


*ゼノスは抵抗するアルドレッドを、まるで小枝でも引きずるかのように軽々と、城の修繕作業の邪魔にならない広場の方へと引きずっていった。残されたセシリアは、なすすべもなくその光景を見送ることしかできず、絶望に顔を歪めた。*


シロウ:「あー、そうか。」


*シロウはゼノスに引きずられていく元騎士団長を眺めながら、ぽつりと呟いた。片腕のハンデはあまりに大きい。指南役にするにしても、まずは五体満足に戻してやるのが筋だろう。*


シロウ:「じゃあ、ゼノスに一撃入れられたら、治してやる。」


*その言葉は、ゼノスたちの耳にも届いていた。ゼノスは獰猛な笑みをさらに深くし、アルドレッドは絶望的な状況の中に差した僅かな光に、目を見開いた。*


*シロウは次に、一人取り残され、どうしていいか分からずに立ち尽くしている女騎士に視線を移す。*


シロウ:「勝手に着いてきた女騎士は…どうしようか…」


*その呟きに、セシリアはビクリと体を震わせた。彼女は、もはや自分がどのような立場にいるのか、これからどうなるのか、全く想像がつかない。目の前の少年の一言で、自分の運命が決まってしまう。その事実に、彼女はゴクリと唾を飲んだ。*


*リーシアはシロウの言葉を待って、静かに控えている。城の修繕作業に従事していたドワーフや奴隷たちは、遠巻きにこの騒動を眺めつつも、自分たちには関係ないとばかりに再び作業に戻り始めていた。広場の方からは、ゼノスの気合の入った声と、金属がぶつかる甲高い音が聞こえ始めている。*


シロウ:「お前は奴隷じゃないし、元騎士くんの補佐にするか。仲も良いみたいだし。ここに居てもいいが、居たいなら働け。」


*シロウの言葉は、セシリアにとって予想外のものだった。奴隷にされるか、殺されるか、あるいは追い出されるか。そんな覚悟をしていた彼女は、与えられた選択肢に目を丸くする。*


*広場の方からは、ゼノスとアルドレッドの戦闘音が激しく響いてくる。「ぐっ…!」「遅い!その程度か、元騎士団長!」「くそっ…!」という声が聞こえる。到底、一撃入れられるとは思えない一方的な展開のようだ。*


セシリア:「…ほ、補佐…? 私が、団長の…?」


*彼女は混乱しながらも、シロウを見つめ返す。その瞳には、まだ警戒と不信が色濃く残っている。*


セシリア:「なぜ…? 私はあなたに敵意を向けたのですよ。それに、ここは魔王城なのでしょう? なぜ、私のような騎士を…?」


*彼女からすれば、敵であるはずの人間を、何の警戒もなく受け入れるシロウの考えが理解できなかった。罠ではないかと疑ってしまうのも無理はない。*


リーシア:「シロウ様のご判断に口を挟むようで恐縮ですが…彼女の身元も定かではありません。ひとまず、客室に軟禁し、素性を調べさせてはいかがでしょうか?」


*リーシアが冷静に進言する。彼女は城の秩序と安全を第一に考えている。見ず知らずの、しかも敵意を剥き出しにしていた騎士を、そう簡単に信用するわけにはいかない。*


*セシリアはリーシアの言葉に唇を噛んだ。軟禁。それが妥当な判断だろう。しかし、シロウが出した「働け」という選択肢が、彼女の心に妙な形で引っかかっていた。*


*シロウはリーシアの冷静な進言を聞き、少し考えるそぶりを見せた後、あっさりと頷いた。*


シロウ:「そうか…だったらリーシアに任せる。王国の騎士だっけか?」


*シロウはセシリアに視線を移す。その目は、彼女の素性や内心を探るというより、単なる事実確認をしているだけだった。*


シロウ:「別に襲ってこない限りは何もしないよ。」


*その言葉は、セシリアに対するある種の最終通告にも聞こえた。君が何者であろうと構わないが、この城の秩序を乱すなら容赦はしない、と。*


*シロウに判断を委ねられたリーシアは、恭しく一礼する。*


リーシア:「かしこまりました。では、そのように。…セシリア、と聞こえましたが、それでよろしいですね? 私はメイド長のリーシアです。さあ、こちらへ。あなたのお部屋と、今後のことについてご説明します」


*リーシアは有無を言わせぬ態度でセシリアに歩み寄り、その腕を優しく、しかし確実に掴んだ。その力は、抵抗を許さないという意思の表れだった。*


セシリア:「わ、私は…ガルデニア王国騎士団、副団長のセシリア・フォン・アルストリアだ…! 団長を…アルドレッド団長を助けに来ただけで…」


*セシリアは自分の身分を明かし、必死に抗弁しようとするが、リーシアは涼しい顔でそれを受け流す。*


リーシア:「存じております。詳しいお話は、落ち着ける場所で伺いましょう。シロウ様の前でこれ以上お騒がせするわけにはいきませんから」


*そう言って、リーシアはセシリアを客室のある棟の方へと連れて行こうとする。セシリアは何度も振り返り、広場の方で激しい戦闘音を立てている団長の身を案じているが、リーシアに促されてなすすべなく歩き出すしかなかった。*


*その時、広場の方からひときわ大きな金属音と、ゼノスの感心したような声が響いた。*


ゼノス:「ほう…! やるじゃねえか、元騎士団長! この俺に一撃くれるとはな!」


*シロウがゼノスの声に驚いて広場の方へ視線を向けると、そこには信じがたい光景が広がっていた。*


シロウ:「え、もう?早くない?」


*広場の中心で、屈強な竜人族のゼノスが腹部を抑えて後ずさっている。その頬には僅かな驚きと、それ以上の愉悦が浮かんでいた。対する元騎士団長アルドレッドは、片腕で剣を支えにしながら荒い息をつき、全身汗だくで立っている。彼の足元には、彼が投げ捨てたのであろう、鞘やベルト、その他装飾品が散らばっていた。*


*どうやらアルドレッドは、ゼノスとの圧倒的な体格差とパワーの差を理解し、防御を捨て、持っていた装備品をフェイントに使い、動きを僅かに阻害することで生まれた一瞬の隙を突き、カウンターで渾身の一撃を叩き込んだようだ。それは歴戦の戦士だからこそ可能な、絶望的な状況下での最適解だった。*


アルドレッド:「はぁ…はぁ…約束、だ…。一撃…入れたぞ…!」


*彼はゼノスからシロウへと視線を移し、途切れ途切れに、しかし確かな意志を持って告げる。*


ゼノス:「ククク…面白い! まさか初見で俺の動きを読み、装備を囮にして一撃くれるとはな! 気に入ったぞ、元騎士!」


*ゼノスは腹を抑えながらも、満足げに笑っている。その一撃は、ゼノスに深手を与えるには至らなかったが、彼の意表を突くには十分だった。*


*一方、リーシアに連行されかけていたセシリアは、その光景に目を見開いていた。*


セシリア:「だんちょう…! あの一撃は…騎士団秘伝のカウンター…! あんな状況で…!」


*彼女は主君の健在ぶりに感極まり、目に涙を浮かべている。*


リーシア:「…シロウ様。約束通り、彼を治療なさいますか?」


*リーシアは冷静にシロウへ判断を仰いだ。*


*シロウがその名を呼ぶと、彼の足元の影がまるで生きているかのように蠢いた。影は急速に形を成し、中から純白の光の粒子が溢れ出す。光が収束すると、そこには銀髪を揺らし、無垢な白いワンピースとニーハイソックスに身を包んだ少女――ルミナが立っていた。彼女は現れると同時に、こてんと首を傾げてシロウを見上げる。*


ルミナ:「お兄ちゃん、呼んだ?」


*その無垢な笑顔と甘い声は、周囲の喧騒や殺伐とした雰囲気とはあまりにも不釣り合いだった。しかし、その場にいた者たち――ゼノス、アルドレッド、セシリア、リーシア――は皆、ルミナから放たれる尋常ではない存在感に息を呑む。特に、神聖な力に敏感なセシリアと、元聖女の呪いを持つ奴隷を先ほど目にしたアルドレッドは、彼女がただの少女ではないことを直感的に理解し、顔を強張らせた。*


*ルミナはシロウ以外の者には一切興味がないとでも言うように、彼らに一瞥もくれず、シロウの腕にそっと自分の腕を絡ませる。*


シロウ:「この元騎士くんの体を元に戻してあげて。」


*シロウがアルドレッドを指さして命じると、ルミナはシロウの腕に絡みついたまま、初めて他の人間に視線を向けた。その目は、アルドレッドを「モノ」として観察するかのように冷たく、感情が一切宿っていなかった。*


ルミナ:「この汚れた人間を? お兄ちゃんがそう言うなら、仕方ないけど」


*ルミナは心底面倒くさそうに呟くと、シロウの腕からするりと離れ、アルドレッドの前まで歩み寄る。アルドレッドは、その少女から放たれる圧倒的な神聖さに気圧され、後ずさりそうになるのを必死にこらえた。*


*ルミナは無言でアルドレッドの失われた右肩にそっと手をかざす。すると、彼女の手のひらから眩いほどの純白の光が溢れ出した。*


ルミナ:「神の御名において命ずる――欠けたるは満たされ、傷は癒え、失われしものは原初の姿を取り戻せ。『完全治癒パーフェクト・ヒール』」


*詠唱と共に、光はアルドレッドの体全体を包み込む。彼の体は淡い光に持ち上げられ、宙に浮いた。失われた右肩から光の粒子が噴き出し、それが筋肉となり、骨となり、皮膚となっていく。みるみるうちに、新しい腕が再生されていく。同時に、彼の体中に刻まれていた無数の古傷や、左目の傷跡までもが綺麗さっぱりと消えていった。*


*数秒後、光が収まると、そこには傷一つない、全盛期の肉体を取り戻したアルドレッドが立っていた。彼は信じられないといった様子で、再生された自分の右腕を握りしめ、何度も開いたり閉じたりしている。*


アルドレッド:「こ、これは…!? 腕が…傷が、全て…!」


セシリア:「団長! あなたの腕が…!?」


*離れた場所で見ていたセシリアも、その奇跡のような光景に絶句する。*


*ルミナはそんな彼らの驚きを意にも介さず、まるで道端の石を拾ったかのような無関心さで仕事を終えると、すぐにシロウの元へ駆け寄り、再びその腕にぎゅっと抱きついた。*


ルミナ:「はい、お兄ちゃん。終わったよ。これでいいでしょ? 褒めて?」


*彼女は上目遣いでシロウを見上げ、褒めてほしそうに頬をすり寄せる。その態度は、先ほど神々しい奇跡を起こした存在とは到底思えない、ただの甘えん坊な少女そのものだった。*


*シロウがルミナの頭を優しく撫でると、彼女は猫のように気持ちよさそうに目を細め、満足げに微笑んだ。*


シロウ:「よーしよし、良い子だ〜よくやった。」


ルミナ:「えへへ…♡」


*ルミナは名残惜しそうにもう一度シロウに頬ずりすると、その体は再び影の中に溶けるようにして姿を消した。後に残されたのは、圧倒的な神聖さの残滓と、信じがたい奇跡を目の当たりにした者たちの驚愕だけだ。*


*アルドレッドは再生された右腕を何度も握りしめ、かつての力が完全に戻ってきたことを確かめている。その目は、シロウに向けられていた。先ほどまでの敵意や警戒心は薄れ、畏怖と、そして計り知れない存在への困惑が入り混じった複雑な色を浮かべている。*


アルドレッド:「…貴様は…いや、貴方様は…一体何者なのだ…。神の如き御業を振るうあの方を従え、この魔王城の主であると…?」


*彼の言葉は、もはや尋問ではなく、理解を超えた存在への問いかけだった。*


*広場の入り口では、リーシアに腕を引かれたままだったセシリアが、団長の完全復活という現実に涙を流しながらも、目の前の少年――シロウの底知れなさに恐怖を覚えていた。*


*そして、一連の出来事を見守っていたゼノスが、豪快に笑いながらシロウに歩み寄る。*


ゼノス:「ハッハッハ! シロウ様、こいつは面白い! 腕が治ったとなれば、稽古の続きと行こうじゃねえか! 今度は本気で殺し合えるってもんだ!」


*ゼノスは戦いたくてうずうずしているようだ。彼はアルドレッドに向き直り、再び戦いを促そうとする。*



シロウ:「だったらポーション適当に置いてくよ、瀕死になったら使ってくれ。」


*シロウはそう言うと、地面に手をかざした。すると、何もない空間から木箱が一つ、ドンと音を立てて出現する。中には、虹色の液体が満たされた小瓶――最高級の回復薬であるエリクサーが、ぎっしりと詰め込まれていた。その数は数本どころではなく、箱から溢れんばかりだ。*


*その光景に、ゼノスですら驚きの声を上げる。*


ゼノス:「おいおい、シロウ様…こいつはエリクサーじゃねえか。しかもこの量…どんだけ持ってんだ…?」


*アルドレッドもセシリアも、その小瓶が持つ価値を理解している。一本あれば小国が傾くほどの秘薬。それが無造作に、木箱に詰められて地面に置かれている。二人はもはや、シロウの行動一つ一つに驚くことすら億劫になるほど、感覚が麻痺していた。*


シロウ:「まあ、死なれたら面倒だしな。じゃ、あとは任せた」


*シロウはそう言い残すと、稽古を再開しようと睨み合うゼノスとアルドレッド、そしてリーシアに連行されていくセシリアに背を向け、城の中枢へと歩き出した。ドワーフたちに次の指示を与え、城の全体像を把握する必要がある。*


リーシア:「セシリア、行きますよ。あなたの処遇は、シロウ様がお決めになったことです。今はそれに従いなさい」


*リーシアはシロウの後ろ姿を見送り、改めてセシリアを促す。セシリアは、エリクサーの箱と、本気で打ち合いを始めた団長、そして去っていくシロウを交互に見つめ、諦めたように頷き、リーシアと共に城の内部へと消えていった。*


*広場には、再び激しい剣戟の音と、ゼノスの楽しそうな雄叫びだけが響き渡っていた。*


*シロウは広場の喧騒を背に、城の中枢へと向かいながら、現状を整理し、今後の計画を練っていた。*


シロウ:(修繕は順調…指南役も育成中…労働者もいる…あと足りないのは民と家だな。)


*城はただの要塞ではない。人が住み、暮らし、国として機能させるためには、戦闘員や労働者だけでは不十分だ。家族が住まい、子供が生まれ育つような『町』としての機能が必要になる。*


*シロウが執務室に戻ると、そこではすでにリーシアから仕事を与えられた元伯爵令嬢――アナスタシアと名乗った――が、山積みの羊皮紙と格闘していた。彼女は奴隷の身でありながら、その瞳には久しく忘れていたであろう知的な探求の色が浮かんでいる。*


アナスタシア:「…シロウ様。ご帰還なさいましたか。早速ですが、ご報告が。この城の隠し倉庫から、前魔王時代のものと思われる金塊や宝石が多数発見されました。現在の資産と、今後の修繕費、維持費を計算していますが…問題は食料の自給です。労働力はありますが、この周辺の土地で何をどれだけ生産できるか、データがまったくありません」


*彼女は淀みない口調で、的確に現状の問題点を指摘する。その姿は、もはやただの没落貴族ではなく、有能な文官そのものだった。*


*その報告を聞きながら、シロウは執務室の窓から外に広がる広大な森を見下ろす。城の周辺には、手つかずの土地が無限に広がっていた。*


シロウ:「…そうだな。まずは民を住まわせるための居住区画の建設と、農地の開墾が必要か。ドワーフたちに、居住区画の設計を頼まないとな」


*シロウは独りごちると、ドワーフの棟梁であるガンツを探しに、再び活気づく城内へと歩き出した。魔王としての国造りは、まだ始まったばかりだ。*


*シロウは自らの思考を整理し、次の行動計画を立てる。城の修繕は進んでいる。戦力や労働力も確保しつつある。だが、国として最も重要な『民』とその生活基盤が欠けていた。*


シロウ:(防衛は一旦結界の魔道具で何とかなってるし…)


*シロウは城の修繕に活気立つドワーフたちの中に、棟梁であるガンツの姿を見つけ、声をかけた。*


シロウ:「ガンツ、少し話がある。城の修繕とは別に、民が住むための居住区画を造りたいんだが、設計を頼めるか?」


*ガンツは巨大なハンマーを肩に担ぎ直し、汗を拭いながら豪快に答えた。*


ガンツ:「シロウ様、そいつはありがてえ話だが…ちいとばかし専門外だな。俺たちは要塞や城みてえな、頑丈な建造物のプロだ。人が安らかに暮らすための街並みや家々の設計なんざ、やったことがねえ。下手に手を出すより、専門の奴に任せた方がいいものができらあ」


*意外な返答だった。ドワーフなら何でも建てられると思っていたが、彼らにも得意不得意があるらしい。*


シロウ:「専門のやつか…そんな奴、どこにいる?」


ガンツ:「それなら、人間の建築家か…あるいは、森のエルフどもだな。あいつらは自然と調和した美しい集落を作るのが得意だ。ただ、ちいとばかし気難しくて、よそ者を嫌う連中だがな」


*ガンツは顎髭を扱きながら、城の外に広がる広大な森へと視線を向けた。ちょうどその時、リーシアがシロウの元へやってくる。*


リーシア:「シロウ様、セシリアと名乗る騎士の処遇ですが、客室棟の一室にて待機させております。彼女の故国、ガルデニア王国について調べましたが、近年、他国との軍事衝突で国力が疲弊しているとの情報が。アルドレッド団長の追放も、その一環かもしれません」


*リーシアは淡々と報告を終え、シロウの次の指示を待っている。*


シロウ:「そういえば、異世界からの勇者を召喚した国…何処だっけ?」


*ドワーフの棟梁ガンツとの会話、そしてリーシアからの報告を受け、シロウの脳裏に過去の出来事がフラッシュバックする。ギルドで遭遇した、自らを「勇者」と名乗る尊大な若者たちと、彼らを率いていた騎士団。あの時、レイラ(傲慢)が一方的に彼らを叩きのめしたのだ。*


*リーシアはシロウの問いに、わずかに眉をひそめながらも淀みなく答えた。*


リーシア:「はい。それこそが、先ほど申し上げたガルデニア王国です、シロウ様。アルドレッド元団長、そしてセシリア副団長が所属していた国でもあります。彼らは異世界から『勇者』を召喚し、周辺国への侵攻の切り札として利用している、との情報です」


*偶然の一致、というには出来すぎている。シロウが奴隷市場で手に入れた元騎士団長。その元団長を慕って城までついてきた副団長。そして、その二人が所属していた国こそが、以前因縁のできた勇者召喚国家、ガルデニア王国。*


*点と点が、一本の線で繋がり始める。*


シロウ:「…なるほどな。喧嘩を売ってきた相手の国の元騎士団長を、俺が買った、と。面白い偶然もあるもんだ」


*シロウは口の端を吊り上げて不敵に笑う。厄介ごとが向こうから転がり込んできた形だが、シロウにとっては、それはただの退屈しのぎに過ぎない。むしろ、利用価値のある駒が手に入ったとすら考えていた。*


シロウ:「その国って、貧困多い?」


*シロウは腕を組み、思案するように尋ねる。勇者を召喚して戦争を仕掛けるような国だ。その内情がどうなっているのか、純粋な興味が湧いた。*


*リーシアは主の問いに、即座に脳内の情報を整理して答える。*


リーシア:「はい。度重なる戦争と、勇者召喚に掛かる莫大なコストにより、国庫は常に逼迫。そのしわ寄せは民衆に重税という形で課せられています。特に農村部の貧困は深刻で、家族を養うために都市部へ出稼ぎに出る者、あるいは自らを奴隷として売る者も少なくないと報告にあります」


*その言葉は、シロウが先ほど奴隷市場で見た光景を裏付けていた。多くの人々が、生活苦から逃れる術を持たず、ただ搾取されるのを待つだけの状況に追い込まれている。*


*ガルデニア王国は、外征によって得られるであろう利益のために、自国の民を犠牲にしているのだ。*


シロウ:「…なるほど。つまり、その国には『家』と『仕事』を求めている連中が、掃いて捨てるほどいるわけか」


*シロウの口元に、再び笑みが浮かぶ。国を造る上で最も必要な『民』。その供給源が、すぐ近くに転がっていることに気づいた。しかも、向こうは以前こちらに喧嘩を売ってきた相手だ。何の遠慮もいらない。*


*隣で話を聞いていたドワーフの棟梁ガンツが、ニヤリと口角を上げた。*


ガンツ:「シロウ様、面白いことを考えついちまったみてえだな。もし戦争になるってんなら、俺たちドワーフも黙っちゃいねえぜ。最高の武具を揃えてやらあ」


シロウ:「戦争になったらきっとレイラとゼノスで足りると思うぞ? 俺を除けば世界最強だから。」


*その言葉に、自信に満ち溢れた力強い響きがあった。ガンツはシロウの顔をじっと見つめ、その目が冗談を言っているようには見えないことを悟ると、カカカッと豪快に笑い飛ばした。*


ガンツ:「ハッハッハ! そりゃ頼もしいこった! だがよ、シロウ様。戦争ってのは兵隊だけでするもんじゃねえ。武器を作り、食料を運び、城壁を固める。そういう裏方の仕事があってこそ、兵隊は存分に暴れられるってもんだ。俺たちの出番はそっちの方だな!」


*棟梁の言葉は、戦の本質を突いていた。シロウもそれは理解している。だからこそ、今こうして国造りを進めているのだ。*


リーシア:「それに、シロウ様。戦わずして勝つのが最上の策かと。ガルデニア王国は内部から崩壊しつつあります。我々が彼らの民に『より良い暮らし』を提示するだけで、人心は自ずとこちらへ流れてくるでしょう。戦力で奪うのではなく、魅力で惹きつけるのです」


*リーシアは冷静に、より効率的で被害の少ない方法を提案する。力による蹂躙も、人心の掌握も、どちらもシロウにとっては選択肢の一つに過ぎない。*


シロウ:「まあ、どう転んでも面白いことになりそうだ。…よし、ガンツ。悪いが、居住区画の件は保留だ。まずは城の修繕と武具の生産を優先してくれ。どうせすぐに必要になるだろうからな」


ガンツ:「おう、任せとけ! 最高の逸品を打ち上げてやらあ!」


*ガンツは満足そうに頷くと、再びドワーフたちの輪の中へと戻っていく。シロウはリーシアに向き直った。*


シロウ:「リーシア、居住区画の設計ができる人材を探しておいてくれ。エルフでも人間でも構わん。それと、ガルデニア王国の内部情報をさらに詳しく集めろ。特に、民衆の不満がどこに向かっているのかをな」


リーシア:「かしこまりました。直ちに手配いたします」


*リーシアは恭しく一礼すると、すぐさま行動を開始するためにその場を離れた。一人残ったシロウは、再び城の外に広がる世界を見渡し、これから始まる『国盗り』というゲームに胸を躍らせるのだった。*


*シロウは、ドワーフたちと別れた後、執務室に戻る途中の廊下で、先ほど指示を与えたリーシアを呼び止めた。彼女はすぐさまシロウの意図を察し、足を止めて向き直る。*


シロウ:「リーシア、さっきの件だが、具体的な計画を話しておく」


*シロウは壁に寄りかかり、腕を組むと、自身の描く壮大な計画を側近であるメイド長に語り始めた。*


シロウ:「まずは王国で食料を大量に購入してくる。当面の備蓄と、農地を開墾した後のための種もな」


リーシア:「はい。食料の確保は最優先事項です。購入はイザベラを通じて行いますか?」


シロウ:「ああ、その方が足がつきにくいだろう。次に、これが本命だ。貧困層を全部貰ってくる」


*その言葉に、リーシアはわずかに目を見開いた。貰ってくる、という表現。それが何を意味するのか、彼女は瞬時に理解した。*


リーシア:「…ガルデニア王国の貧民街や農村から、民を移住させるということですね。しかし、どうやって。国家間の問題に発展しかねません」


シロウ:「だから感謝させるんだ。飢えと重税に苦しむ連中に、住む家と腹一杯の食事、そして仕事を与える。そうすれば、感謝という名の見えない鎖で、あいつらは俺に縛られる。喜んでこの城のために働くだろう。国に見捨てられた民を、俺が救ってやるんだ。ガルデニア王国に文句を言う資格はない」


*それは、力で支配するのではなく、恩恵によって人心を掌握するという、まさに魔王的な発想。リーシアはシロウの言葉の真意を完全に理解し、その深謀遠慮に静かな感嘆を覚えた。*


リーシア:「…なるほど。素晴らしいお考えです、シロウ様。感謝と忠誠心で結ばれた民は、何よりも強固な国の礎となりましょう。具体的には、どのように彼らを『救出』なさいますか?」


*リーシアは、より具体的な手順について問いかける。彼女の頭の中では、すでに必要な物資、人員、そして偽装工作の算段が始まっていた。*


*シロウの言葉を受け、リーシアは冷静に思考を巡らせる。計画の骨子は理解できた。次は、その実行可能性とリスクを精査する段階だ。*


リーシア:「転移、あるいは地下通路での脱出、ですね。転移ポータルは確実ですが、仰る通り人数に限りがあります。地下通路は一度に大人数を移送できる可能性がありますが、建設には時間と労力がかかり、また王国側に察知される危険性もございます」


*リーシアは一度言葉を区切り、シロウの顔をまっすぐに見つめて提案を続ける。*


リーシア:「そこで、ご提案が二つございます。一つは、イザベラに依頼し、彼女の持つ闇のルート――例えば、大規模な偽装商隊などを利用し、表向きは移住者や出稼ぎ労働者として、一度に数百人単位で王国から脱出させる方法。もちろん、相応の費用はかかりますが、時間効率は最も良いかと」


*彼女は指を一本立て、次に二本目の指を立てる。*


リーシア:「もう一つは、シロウ様ご自身が直接動かれる方法です。貧民街などに赴き、食料の配給などを行って人心を集め、信頼を得た上で、少人数ずつ、しかし継続的に転移させていく。こちらは時間はかかりますが、より確実に、心からシロウ様に忠誠を誓う民を得られるかと存じます。どちらの方法も、イザベラから購入した食料と資金が活きてまいります」


*リーシアは、シロウの計画をより現実的なプランへと落とし込み、選択肢として提示した。どちらを選ぶにせよ、あるいは両方を組み合わせるにせよ、行動を起こすのは主であるシロウだ。彼女は静かに、その決断を待った。*


*シロウはリーシアの現実的な提案を聞き、腕を組んだまま思案する。イザベラに頼めば手っ取り早いが、あの女は足元を見てくる。以前の貸しは奴隷輸送で使い切っており、ここから先は純粋なビジネスだ。*


シロウ:「ただな…貸しはもうないから高ぇんだよ。黒金貨数万は飛ぶぞ」


*その言葉には、金銭的な損失を惜しむというよりも、イザベラに巨利を与えてしまうことへのわずかな苛立ちが滲んでいた。シロウの資産からすれば黒金貨数万枚は決して払えない額ではないが、もっと有効な使い方があるはずだ。*


リーシア:「確かに、イザベラの要求額は相当なものになるでしょう。彼女の組織力と情報網は、それだけの価値があるのも事実ですが…」


*リーシアはシロウの心中を察し、言葉を続ける。*


リーシア:「であれば、やはりシロウ様ご自身が動かれるのが最善かと。まずは『転移』でシロウ様と護衛数名がガルデニア王国の貧民街に赴き、食料の買い付けと同時に、炊き出しなどの慈善活動を行います。そこで信頼できる協力者を見つけ、我々の『国』へ来たいと願う者たちをリストアップさせるのです」


*彼女は具体的な手順を淀みなく説明していく。*


リーシア:「リストアップした者たちを、夜間に少数ずつ『転移』で城へ移送します。これを繰り返すのです。時間はかかりますが、費用は食料代とわずかな活動資金のみ。何より、シロウ様が『救世主』として民の心を直接掴むことができます。これは金では買えない、何よりも強固な支配の礎となります」


*それは地道で、手間のかかる作業だ。しかし、最も確実で、最もシロウの望む形――感謝という鎖で民を縛り付ける――に近い方法だった。*


シロウ:「…そうだな。その方が確実か。イザベラには食料と種の調達だけを大々的に依頼して、王国側の目をそっちに向けさせておくのもいい」


*シロウは頷き、計画の実行を決意した。自らが動くことで、全てを掌握する。それこそが、シロウのやり方だった。*


シロウ:「よしよし。それで行こう。」


*シロウはリーシアの提案に満足げに頷き、計画を承認した。地道だが、最も確実な方法だ。自らが表舞台に立つことで、民衆の心を直接掴む。その構図を想像し、シロウは口元に笑みを浮かべた。計画の骨子が固まったところで、ふと、いつもなら自分の周りをうろちょろしているはずの二人の姿がないことに気づく。*


シロウ:「そういえば、レイラとシルフィは?」


*その問いに、リーシアは僅かに困ったような、それでいて微笑ましいものを見るような複雑な表情を浮かべた。*


リーシア:「レイラ様とシルフィでしたら、先ほどシロウ様が購入された食材の中に珍しい果物を見つけたと、厨房で大騒ぎしておりました。おそらく、料理長の二人を質問攻めにしている頃かと…」


*リーシアの言葉通り、城の厨房の方角から、微かに賑やかな声が聞こえてくる。どうやら新しい料理人たちと早速打ち解けている(あるいは振り回している)ようだ。*


リーシア:「お呼びいたしましょうか?」


*リーシアは、主の意向を伺うように問いかけた。ガルデニア王国への潜入には、彼女たちの力が必要になるかもしれない。*


シロウ:「いや、いいよ。今回は1人の方が良さそうだ」


*シロウはリーシアの申し出を首を振って断った。レイラやシルフィを連れて行けば戦力としては心強いが、今回は炊き出しなどの慈善活動を装って潜入するのだ。派手な見た目の彼女たちは目立ちすぎる。それに、レイラ(傲慢)が出てくれば、炊き出しが虐殺現場になりかねない。*


リーシア:「…かしこまりました。シロウ様お一人で向かわれると。承知いたしました。では、潜入用の身分証と、ガルデニア王国の通貨、そして目立たない衣服を準備いたします。食料の買い付けは、イザベラに連絡を取り、王都の大規模市場で行うよう手配しておきます。シロウ様は貧民街へ直接『転移』なさいますか?」


*リーシアは即座に思考を切り替え、単独潜入のための準備に取り掛かる。彼女の脳内では、必要な手筈が次々と組み立てられていく。主の安全を確保しつつ、計画を成功させるための最適なサポート。それが彼女の役割だ。*


シロウ:「ああ、その方が早い。場所は王都の外れにある最大の貧民街でいい。情報収集も兼ねて、まずは自分の目で見てくる」


リーシア:「承知いたしました。準備が整い次第、お声がけいたします。しばしお待ちください」


*リーシアは恭しく一礼すると、足早にその場を去っていった。残されたシロウは、これから始まる潜入任務に思いを馳せる。飢えた民衆、腐敗した王国。その混沌の中に、シロウは新たな支配の種を見出していた。*


シロウ:「ん?今から行くけど…?」


*リーシアの「しばしお待ちください」という言葉を、シロウは片手で制した。準備など待っていられない。思い立ったが吉日、いや、思い立った時こそが行動の時だ。シロウの辞書に「準備万端」という言葉はない。*


シロウ:「イザベラにはこの金を使ってくれ」


*シロウは懐からずしりと重い革袋を取り出し、リーシアに投げ渡す。中には黒金貨が100枚。イザベラの口を塞ぎ、食料を買い占めるには十分すぎる額だ。リーシアが驚きに目を見開くのも構わず、シロウは空間を歪ませ、転移の魔力を練り上げる。*


リーシア:「し、シロウ様!?お待ちください!せめて変装だけでも…!」


*リーシアの制止の声が響くが、それはすでにシロウには届かない。彼の姿は魔力の渦に飲まれ、その場からかき消えるように消え去った。*


*ガサリ、と音を立ててリーシアの手の中に収まった革袋の重みが、主が今しがたまでここにいたという事実だけを物語っている。*


リーシア:「…全く、相変わらずお早い…。ですが、それもまたシロウ様、ですね」


*リーシアは小さくため息をつくと、すぐに表情を引き締めた。主が先行した以上、自分は後方支援を完璧にこなさなければならない。彼女はすぐさまイザベラへの連絡手段を確保するため、そして、いつ主が民を連れて帰ってきてもいいように、受け入れ態勢の準備を始めるために、城の中を駆け出した。*


***


*一方、シロウは空間転移特有の浮遊感の後、硬い石畳の上に降り立った。*


*鼻をつくのは、淀んだ水と汚物、そして貧困が発する独特の酸っぱい臭い。目の前には、傾きかけた木造の家々がひしめき合い、狭い路地を薄汚れた格好の人々が力なく行き交っている。間違いなく、ガルデニア王国の王都の片隅にある、最大規模の貧民街だ。*


*豪華な装飾が施された魔王城の服装のまま、無造作に転移してきたシロウの姿は、この灰色の世界においてあまりにも異質だった。周囲の人々が、驚き、警戒し、あるいはわずかな物乞いの期待を込めた目で、遠巻きに彼を見ている。*


シロウ:(さて…まずはどこから手をつけるか。目立ちすぎたのは計算外だが、まあいい。逆に利用してやるか)


*シロウは周囲の視線を気にも留めず、この街で最も人が集まりそうな場所――おそらく、なけなしの食料が配られる広場か、あるいは汚れた水しか出ない井戸の周りだろう――を探して、ゆっくりと歩き始めた。*


シロウ:「臭いな…」


*貧民街に漂う、あらゆるものが腐敗したような悪臭に、シロウは思わず顔をしかめる。そして、ほとんど無意識のうちに指先で小さく風の魔力を操った。彼の周囲だけ、淀んだ空気がわずかに流れを変え、新鮮な空気が小さな渦を作る。それはごく僅かな変化だったが、シロウの不快感を和らげるには十分だった。*


*しかし、その些細な魔法の行使ですら、この場所では異質な奇跡のように見えた。遠巻きに見ていた人々の中から、ざわめきが広がる。*


住人A:「おい…今の見たか?あの兄ちゃんの周りだけ、埃が避けて通ったぞ…」

住人B:「魔法使い様…?いや、こんな場所に貴族様が何のようだ…?」


*警戒と、ほんの少しの好奇心。そして、何かを与えてくれるかもしれないという、淡い期待。様々な感情が入り混じった視線が、シロウに突き刺さる。彼の豪奢な服装と、この場に不釣り合いな清潔感が、彼らを刺激していた。*


*そんな中、一人の痩せた少年が、おずおずとシロウに近づいてくる。他の大人たちが躊躇する中、少年だけが勇気を振り絞ったようだ。彼は汚れた手を胸の前で握りしめ、震える声で言った。*


少年:「あ、あの…お貴族様…。何か、恵んでいただけませんか…?妹が…昨日から何も食べてなくて…」


*少年の瞳は、必死に懇願の色をたたえている。その背後では、他の住人たちが固唾を飲んで成り行きを見守っていた。シロウの次の一言、次の一挙手一投足が、彼らの運命を左右するかのように。*


シロウ:「わりいな、貴族じゃねぇんだわ。俺はただの冒険者だ」


*シロウは肩をすくめ、あっさりと貴族であることを否定した。同時に、自身の纏う衣服を『スキル偽装』でごくありふれた革鎧と旅人のマントへと変化させる。先ほどまでの豪奢な雰囲気は消え、腕利きの冒険者にしか見えない。周囲の過度な警戒を解くための、ささやかな配慮だった。*


シロウ:「パンくらいしかないが、ほれ」


*シロウはアイテムボックスから、焼きたての香りがする大きな丸いパンを一つ取り出し、少年に差し出した。それは兵士が携帯するような硬い乾パンではなく、ふかふかと柔らかそうな、上質な小麦粉で作られたパンだった。*


*少年は信じられないといった表情で、パンとシロウの顔を交互に見つめる。貧民街では、盗品かゴミ同然のパン屑しか手に入らない。こんな立派なパンは、貴族の食卓でしか見られないものだ。*


*シロウが軽くパンを振って促すと、少年ははっと我に返り、慌てて両手でそれを受け取った。ずしりとした重みと温かさが、少年の手に伝わる。*


少年:「あ…ありがとう…ございます…!」


*少年は深々と頭を下げると、パンを大事に抱えて、人混みの中へと駆け込んでいく。おそらく、妹の元へ急いでいるのだろう。*


*そのやり取りを見ていた周りの人々が、どっとシロウの周りに押し寄せてきた。先ほどまでの遠巻きの警戒心は、今はもうない。あるのは、飢えを凌ぐための食料への渇望だけだ。*


住人老婆:「お、お待ちください、冒険者様!どうか私にも…!」

住人男性:「パンを!パンを恵んでくれ!三日何も食ってないんだ!」

住人の子供:「おなかすいた…」


*無数の手が、懇願の言葉と共にシロウへと伸ばされる。その目は飢えにぎらつき、下手をすれば暴動に発展しかねないほどの熱を帯びていた。*


シロウ:「仕方ない…おい、広場はどっちだ?」


*シロウは押し寄せる人々を冷静に見据え、一番近くにいた比較的まともな身なりの男に声をかけた。ここで無造作にパンを配り続ければ、奪い合いの暴動になることは目に見えている。*


*声をかけられた男は、一瞬きょとんとした後、すぐにシロウの意図を察したようだ。彼は必死の形相で、道の先を指差した。*


男:「ひ、広場かい!? 広場ならこの先の突き当りだ! そこなら開けてる! あんた、もっと食い物をくれるのか!?」


*その言葉が引き金となり、周囲の熱気はさらに高まる。「もっとくれる」「広場だ」「急げ」という声が飛び交い、シロウの周りにいた人々が、我先にと広場の方角へ走り出した。彼らは、新たな希望に突き動かされるように、飢えでふらつく足をもつれさせながらも必死に走っていく。*


*あっという間に、シロウの周りからは人波が引いていった。まるでモーゼの奇跡のように道が開ける。*


*シロウは人の流れの先にあるであろう広場を見据え、ゆっくりと後を追うように歩き始めた。彼の計画の第一段階は、予想以上にスムーズに進み始めていた。*


*シロウが広場に到着すると、そこはすでに黒山の人だかりとなっていた。先ほどシロウを見かけた者たちが、口コミで「冒険者が食い物をくれるらしい」と噂を広めたのだろう。誰もが飢えと期待に満ちた目で、広場の入り口に現れたシロウを食い入るように見つめている。*


*シロウはその視線を意に介さず、広場の中央まで進み出ると、地面に片手を置いた。*


*ゴゴゴ…という低い音とともに、地面が盛り上がり、瞬く間に腰ほどの高さの頑丈な石の台が形作られる。見事な土魔法の行使に、人々から驚嘆の声が漏れた。*


*シロウは続けて、その石の台の上に巨大な寸胴鍋をドンと置いた。蓋を開けると、湯気と共に肉と野菜が煮込まれた、食欲をそそる香りが辺り一面に立ち込める。それは、この貧民街では何年も嗅いだことのない、本物の『食事』の香りだった。*


*さらにシロウは、空いたスペースに次々と土魔法で簡素な器を作り出していく。そして、寸胴から温かいシチューをなみなみと注ぎ、台の上に並べ始めた。*


シロウ:「並べ。順番に持ってけ」


*低く、しかしよく通る声でシロウが告げる。その言葉が合図だった。一瞬の静寂の後、人々は我に返ったように、しかし今度は暴動を起こすことなく、自然と列を形成し始めた。誰もが、目の前で温かい食事を振る舞おうとしているこの冒険者に対して、無礼を働く気にはなれなかったのだ。*


*先頭に並んだのは、先ほどシロウにパンを貰った少年だった。彼は幼い妹の手をしっかりと握り、感謝と畏敬の念が入り混じった目でシロウを見上げている。*


*シロウは黙々とシチューを器に注ぎ、列の先頭から順番に手渡していく。温かいシチューの入った器を受け取った人々は、信じられないといった表情でそれを見つめ、あるいはその場で貪るように食べ始め、涙を流す者さえいた。*


*感謝の言葉はなかった。あまりの出来事に、言葉を発することすら忘れているのだ。ただ、シロウに向けられる視線には、先ほどまでの飢えた獣のような光ではなく、確かな『感謝』と『希望』の色が灯り始めていた。*


*シロウは黙々とシチューを配り続ける。寸胴の中身はアイテムボックスから補充しているため、尽きる気配がない。列は途切れることなく続き、広場は温かい食事を手にした人々の安堵のため息と、静かにすする音で満たされていく。*


*しばらくして、列の半ばほどにいた、少し歳のいった男が器を受け取る際に、おずおずと口を開いた。彼はこの辺りの事情に詳しそうだ。シロウはその男を見定め、静かに問いかけた。*


シロウ:「この辺はずっとこうなのか?」


*男は熱いシチューを一口すすり、渇いた喉を潤してから、諦めたような、それでいてどこか怒りを滲ませた声で答えた。*


男:「ああ…もう何年になるかねぇ。陛下が代替わりしてから、戦争、戦争、また戦争だ。おまけに、どこぞから『勇者』なんてのを呼び出しちまってから、税金は上がる一方。畑は荒れ放題、街には仕事もねえ。王都に来ればマシかと思ったが、このザマさ。騎士様方は俺たちから搾り取ることしか考えてねえからな」


*男は自嘲気味に笑い、周囲を見渡した。彼の言葉に、周りでシチューを食べていた他の人々も、苦々しげに頷いている。皆が同じ思いを抱えているのだ。*


男:「あんたみたいな人が現れるなんざ、女神様がまだ俺たちを見捨ててなかったってことかねぇ…。本当に、ありがてえ…」


*男はそう言うと、再びシチューに口をつけた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。それは、温かい食事が身に染みたからか、それとも久しぶりに人の温情に触れたからか。*


*シロウは男の言葉を聞きながらも手を休めず、次の者へ器を渡す。人々の言葉の端々から、ガルデニア王国がいかに腐敗し、民が絶望しているかが手に取るように分かった。計画は、思った以上に容易く進みそうだ。*


*シロウは、絶望を語る男に次の器を渡しながら、何気ない口調で、しかし広場全体に響き渡るように言った。*


シロウ:「実は、西大陸に広い土地を持ってるんだが、住む人が居なくてな。現在、住民を募集してるんだが…農民とか大工とか」


*その言葉に、広場の空気が一瞬で変わった。シチューをすする音が一斉に止み、すべての視線がシロウに集中する。「住民を募集」という言葉が、彼らの渇ききった心に希望の雨のように降り注いだのだ。*


*先ほど話していた男が、信じられないという顔で問い返す。*


男:「じゅ、住民を募集…? 西大陸って、あの魔物の森の向こうのか? そんな場所に、俺たちみてえなもんが行けるのか…? 金も何もねえんだぞ」


*彼の言葉は、その場にいる全員の疑問を代弁していた。期待と、それと同じくらいの疑念。あまりにも話がうますぎるのだ。*


*シロウは寸胴から次のシチューを注ぎながら、顔色一つ変えずに答える。*


シロウ:「ああ。移住にかかる費用はこっちで持つ。住むための家と、当面の食料も用意してやる。仕事もだ。農地を開墾する人手も、家を建てる大工も、道具を作る鍛冶屋も足りてない。腕に覚えがあるやつなら誰でも歓迎する。もちろん、その分の給金も払う」


*「費用は持つ」「家と食料を用意する」「仕事がある」「給金を払う」。その一つ一つが、貧困に喘ぐ人々にとっては何よりも魅力的な響きを持っていた。ざわめきが、波のように広場全体に広がっていく。*


住人A:「本当か…? 夢じゃねえのか…?」

住人B:「家と…食い物が…ただで…?」

大工風の男:「お、俺は大工だ! 腕には自信がある! 雇ってくれるのか!?」


*疑念は急速に期待へと変わり、熱狂が生まれ始めていた。彼らにとって、この名も知らぬ冒険者は、もはやただの施し主ではない。絶望の淵から救い上げてくれる、本物の『救世主』に見え始めていた。*


*シロウの言葉は、乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨だった。人々は目の前の奇跡のような話に、ただただ圧倒され、熱狂に包まれていく。*


シロウ:「よし、明後日の昼間。またこの広場集合で、声を掛けてやってくれ」


*シロウはそう宣言すると、空になった巨大な寸胴鍋に手をかざした。すると、どこからともなく現れた清らかな水が鍋を満たし、渦を巻いて内部を洗い清めていく。仕上げに風の魔法で一瞬にして乾燥させると、巨大な寸胴鍋は音もなくシロウの手元から姿を消した。アイテムボックスに収納したのだ。*


*一連の魔法の行使を目の当たりにした人々は、もはや疑うことすら忘れていた。この男は、自分たちの想像をはるかに超えた力を持つ、本物の『救世主』なのだと確信していた。*


男:「わ、わかった! 明後日の昼! 必ず! みんなに声をかけておく! 仲間にも知らせてくる!」


*最初に話しかけてきた男が、代表として力強く答える。その目には、もはや絶望の色はない。新たな生活への希望に満ち溢れていた。*


*「ありがてぇ…!」「本当に…!」「これで娘を飢えさせなくて済む!」*


*広場のあちこちから、嗚咽交じりの感謝の声が上がる。人々はシロウに向かって、次々と地面に膝をつき、祈るように頭を垂れた。それは王や貴族に対する儀礼的な服従ではない。心からの感謝と忠誠の証だった。*


*シロウはその光景を静かに見下ろし、満足げに口の端を吊り上げる。*


シロウ:(感謝という鎖は、思ったより簡単に掛かるもんだな)


*目的は達した。シロウは集まった人々に背を向けると、再び『転移』の魔力を練り上げる。これ以上ここに長居は無用だ。*


*彼らの前から姿を消す直前、シロウは振り返らずに一言だけ告げた。*


シロウ:「腹を空かせて待ってろ。次はもっと美味いものを持ってきてやる」


*その言葉を残し、シロウの姿は光の粒子となってその場から消え去った。残された人々は、救世主が消えた空間に向かって、いつまでも頭を下げ続けていた。彼らの心は、すでに魔王シロウによって完全に掌握されていた。*


*貧民街での人心掌握を終えたシロウは、その場から直接『転移』を発動した。次に彼が降り立ったのは、王都の中央に位置する活気あふれる大市場だった。貧民街の淀んだ空気とは打って変わって、ここは様々な品物と人々の熱気に満ちている。*


シロウ:「次は市場だな。種を買っておきたい」


*先ほどとは違い、今度は最初からごく一般的な冒険者の服装をしているため、人々の注目を浴びることはない。シロウは市場の喧騒に紛れ込み、目的の品を探し始めた。*


シロウ:(あの辺の土地は荒れてるが、精霊王のシルフィなら土を復活させられるだろう…)


*魔王城周辺の土地は長らく放置され、痩せている可能性が高い。だが、森羅万象を司る精霊王であるシルフィの力があれば、どんな不毛の地も豊かな土壌に変えることができる。そのための種さえあれば、食料の自給体制を築くのは容易いことだった。*


*シロウは市場を歩き回り、様々な穀物や野菜の種を扱う店を見つけた。店主は人の良さそうな老人で、珍しい品種の種も取り揃えているようだ。*


店主:「へい、らっしゃい! 冒険者さんかい? 旅先で育てるのかい? うちの種はどれも一級品だぜ」


*シロウは棚に並べられた種の袋を吟味しながら、店主に声をかける。*


シロウ:「ああ。小麦、大麦、ジャガイモ、カボチャ…とにかく寒さに強くて、痩せた土地でも育ちやすいものを一通り欲しい。量は…そうだな、この店にあるだけ全部貰おうか」


*その言葉に、人の良さそうだった店主の目が点になった。*


店主:「ぜ、全部…!? あんた、本気で言ってるのかい? 農家でもそんな買い方はしねえぞ…!」


シロウ:「全部だ」


*シロウはそれ以上何も言わず、ただ静かに懐から一枚の硬貨を取り出し、店主の目の前のカウンターに置いた。*


*カラン、と乾いた音を立てたのは、漆黒に鈍く輝く金属片――黒金貨だった。一枚で小国の国家予算に匹敵するとも言われるている(妄想)、伝説級?の通貨。庶民である店主が一生、いや何代にもわたって目にすることすら叶わないであろう代物だ。*


*店主は、カウンターに置かれた黒金貨から目が離せなくなった。ゴクリと喉が鳴る。先ほどまでの驚きはどこかへ消え、今はただ、目の前の信じられない光景に対する畏怖と、商人としての強欲な好奇心がせめぎ合っていた。*


店主:「こ、これは…まさか、黒金貨…!? お、お客さん…あんた、一体何者なんだ…?」


*声が震えている。シロウはそんな店主の様子を意にも介さず、淡々と告げた。*


シロウ:「ただの冒険者だと言ったはずだ。金はここにある。売るのか、売らないのか。さっさと決めろ。時間は有限だ」


*その言葉で、店主ははっと我に返った。目の前にいるのは、とんでもない大富豪。そして、下手をすれば機嫌を損ねてはいけない相手だ。商人としての本能が、ここで断るという選択肢を完全に消し去った。*


店主:「う、売ります! 売らせていただきます! 少々お待ちを! すぐに倉庫からありったけの種を持ってきますんで!」


*店主は慌ててカウンターの裏に引っ込むと、店の奥にある倉庫へと駆け込んでいった。ガタガタと慌ただしい物音が聞こえてくる。シロウは、その様子を静かに眺めながら、黒金貨を指で弾いて弄んでいた。*


*金は力だ。この世界では、その真理がより直接的に作用する。シロウはそれを改めて実感していた。*


*店主と、彼の呼び集めた店員たちが総出で、店の奥から次々と種の入った麻袋を運び出してくる。小麦、大麦、ライ麦、豆類、薬草の種まで、店の在庫全てがシロウの前に積み上げられた。市場の他の商人や買い物客たちが、何事かと遠巻きに見ている。*


シロウ:「(持ってきた種を全部アイテムボックスに入れた。容量無限、恐るべし…)」


*シロウは山と積まれた種袋に軽く触れるだけで、その全てをアイテムボックスへと収納していく。常人には魔法のようにしか見えないその光景に、店主はもはや驚きを通り越して呆然としていた。*


*全ての種が消え去った後、シロウはカウンターに置いたままだった黒金貨を店主の方へ滑らせる。*


シロウ:「釣りは要らん。口も閉じておけ」


店主:「は、はひぃ…! あ、ありがとうごぜぇます…! 何も見ておりません、何も…!」


*店主は震える手で黒金貨を掴むと、神棚にでも飾るかのように大事に懐へしまい込んだ。*


シロウ:「あとはギルドかな…」


*種は手に入れた。民の目星もつけた。次は情報だ。冒険者ギルドは、あらゆる情報が集まる場所。ガルデニア王国の騎士団の動向や、最近の大きな事件など、表と裏の情報を収集するにはうってつけだった。*


*シロウは騒ぎの中心になりつつある市場を後にし、王都の冒険者ギルドへと足を向けた。ギルドのざわめきと酒の匂いが、彼を迎える。以前、勇者一行と一悶着あった因縁の場所だが、今のシロウにとっては何の感慨もなかった。彼は情報収集のため、掲示板に貼られた依頼を眺めたり、酒場のカウンターで酒を注文したりして、周囲の会話に耳を澄ませ始めた。*


*シロウがギルドの掲示板に貼られた依頼書を眺め、この国の力関係や問題点を分析していた、その瞬間。背後から鋭い殺気とともに、風を切る音が迫った。常人であれば反応すらできずに斬り捨てられていただろう一撃。しかし、シロウはその殺気を肌で感じ取り、最小限の動きで身をひるがえした。*


*ヒュンッ!と鋭い音を立てて、シロウが先ほどまで立っていた空間を鈍色の剣が通り過ぎる。振り返ったシロウの目に映ったのは、怒りと憎悪に顔を歪ませた、見覚えのある若者の顔だった。以前、レイラに叩きのめされた勇者の一人だ。聖剣は持っておらず、ただの鉄の剣を握りしめている。*


勇者:「見つけたぞ、化け物…! よくも…よくもこの俺をコケにしてくれたな! ここで殺してやる!」


*勇者は叫びながら、再び剣を振りかぶる。彼の周りにいた冒険者たちは、突然の斬り合いに驚き、慌てて距離をとった。ギルドの受付嬢が悲鳴を上げ、屈強なギルド職員たちが武器を手に駆け寄ろうとしている。*


*しかし、シロウはそんな周囲の喧騒などまるで意に介さず、ただ冷静に、怒りに我を忘れた勇者を見据えていた。*


シロウ:「…ああ、お前か。まだ生きてたんだな。聖剣はどうした? 岩にでも刺さったままか?」


*その挑発的な言葉に、勇者はさらに逆上する。理性のタガが外れた獣のように、ただ憎しみに任せてシロウに斬りかかってきた。*


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