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*翌朝、シロウが目を覚ますと、窓から差し込む朝日が部屋を明るく照らしていた。港からは船の出航を告げる汽笛の音が遠くに聞こえる。活気のある港町の一日が、すでに始まっているようだった。*
*ベッドから体を起こすと、床に目をやる。そこに敷かれた布団はすでに綺麗に畳まれ、部屋の隅に置かれていた。レイラの姿はない。*
*身支度を整えようと立ち上がったその時、部屋のドアが控えめにノックされた。*
シロウ:「入れ。」
*ドアがそっと開き、レイラ(臆病)が顔を覗かせた。彼女はすでに着替えを済ませ、身だしなみも整えている。その手には、どこで調達したのか、水差しと清潔なタオルが盆に乗せられていた。*
レイラ(臆病):「お、おはようございます、シロウ様。よくお眠りになれましたでしょうか…?」
*彼女はぺこりとお辞儀をしながら、部屋に入ってくる。そして、シロウが尋ねるより先に、顔を赤らめて申し訳なさそうに言った。*
レイラ(臆病):「そ、その…お恥ずかしながら、お腹が空いてしまって…。シロウ様が起きられるまで、下で待たせていただいておりました。」
*彼女がそう言った瞬間、それを証明するかのように、レイラのお腹から「くぅ~…きゅるる…」と、はっきりと、そして少し長めの可愛らしい音が部屋に響き渡った。*
レイラ(臆病):「ひゃっ!? す、すみませんっ!」
*彼女は真っ赤になってお腹を押さえ、再び深々と頭を下げた。昨夜あれだけ食べたというのに、朝にはもうすっかりお腹が空いてしまうらしい。*
*シロウは、真っ赤になって謝るレイラの姿を見て、小さく笑った。彼女の食欲旺盛なところは、健康的で悪くない。*
シロウ:「かまわんさ。食堂へ行こうか。」
*その言葉に、レイラ(臆病)はぱあっと顔を輝かせた。*
レイラ(臆病):「は、はいっ! ありがとうございます!」
*二人は連れ立って一階の食堂へ向かった。朝の食堂は、これから仕事に出る船乗りや商人たちで昨日よりもさらに活気に満ちている。*
*昨日と同じ女将が、忙しそうに動き回りながらも二人に気づくと、陽気な声をかけた。*
女将:「おや、おはようさん! 昨日はよく眠れたかい? お嬢ちゃんはもうお腹が空いたのかい? いい食べっぷりだったからねぇ!」
*からかうような女将の言葉に、レイラはまた顔を赤くして俯いてしまう。シロウは空いているテーブルに座ると、メニューも見ずに注文した。*
シロウ:「昨日のシチューを2つ。あとパンもだ。」
女将:「あいよっ! すぐ持ってくるよ!」
*注文を終えると、シロウは窓の外、活気あふれる港の様子を眺めながらレイラに話しかけた。*
シロウ:「朝食を済ませたら、すぐに船を探しに行く。東大陸へ向かう船だ。何か情報が聞けるかもしれん。」
*シロウとレイラが食事を終えると、食堂はすでに出航準備に向かう人々で慌ただしくなっていた。シロウは勘定を済ませると、レイラを伴って宿屋を出る。活気のある朝の空気を吸い込み、彼はまず情報収集の要である場所へ向かうことにした。*
シロウ:「(東大陸行きの船の情報とかあるかもしれない…)」
*港で直接船乗りたちに話を聞くのもいいが、まずは冒険者ギルドで確実な情報を得るのが手っ取り早い。護衛依頼などの形で、船の情報が掲示されている可能性もある。*
*シロウは人混みを抜け、港町の中央広場に面した一際大きな建物――冒険者ギルド『アクア・フロンティア』支部へと足を向けた。レイラは物珍しそうに周囲を見回しながらも、はぐれないようにシロウのすぐ後ろをついていく。*
*ギルドの重い扉を開けると、中には朝から多くの冒険者たちの熱気が渦巻いていた。酒の匂い、汗の匂い、そして鉄の匂い。依頼掲示板の前には人だかりができており、カウンターではギルド職員が忙しそうに手続きをこなしている。*
*シロウはまっすぐカウンターへと向かった。彼が一歩足を踏み出すたびに、周囲の喧騒がわずかに静まり、何人かの冒険者が訝しげな視線を向ける。その視線に気づきつつも、シロウは意に介さず、空いていた受付嬢の前に立った。*
受付嬢:「はい、こんにちは! ご用件は依頼の受注ですか? それとも…」
*受付嬢はにこやかな営業スマイルで対応しようとしたが、シロウの纏うただならぬ雰囲気を感じ取り、少しだけ表情をこわばらせた。*
*シロウはカウンターに立つと、単刀直入に用件を切り出した。*
シロウ:「東大陸行きの船ってあるか?」
*その問いに、受付嬢は少し驚いた顔をした。東大陸は、西大陸とは海流も厳しく、強力な海棲魔獣も多数生息する危険な航路。普通の商船や客船が気軽に向かう場所ではないからだ。*
受付嬢:「東大陸、ですか…。少々お待ちください。」
*彼女は少し考え込むと、カウンターの下にある資料をめくり始めた。そして、何かを思い出したように顔を上げる。*
受付嬢:「定期便のようなものはありませんが、ちょうど一件、東大陸の港町『アクアフォール』へ向かう大型商船の船団から、護衛依頼が出ています。積荷が非常に高価なものであるため、腕利きの冒険者を複数名募集しているようです。出発は明日の早朝ですが…。」
*彼女はシロウの顔色を窺うように続けた。*
受付嬢:「ただ、この依頼、最低でもAランク以上のパーティーであることが受注条件でして…。現在、すでにAランクのパーティーが二組、護衛につくことが決まっています。もし参加されるのでしたら、パーティーリーダーの方との面談が必要になりますが…いかがなさいますか?」
*受付嬢は、目の前の男がどれほどの実力者か測りかねている。Aランクという条件は、並大抵の冒険者にはクリアできない非常に高い壁だ。彼女はシロウの返事を待った。*
*シロウの即決に、受付嬢は一瞬目を見開いたが、すぐにプロの顔に戻り、手続きの準備を始めた。Aランク以上の依頼を即答で受ける冒険者はそう多くはない。*
受付嬢:「かしこまりました。では、依頼を受注されるということでよろしいですね? 念のため、冒険者証を拝見してもよろしいでしょうか?」
*彼女は手続き上、当然の要求をした。シロウは黙って懐からギルドカードを取り出し、カウンターの上に置く。受付嬢はそれを手に取り、ランクを確認した瞬間、先日の門番と同じように、その動きが完全に停止した。*
受付嬢:「………え?」
*彼女の視線は、カードに刻まれた『S』の一文字に釘付けになっている。数秒の沈黙の後、彼女は自分の目を疑うように、カードを何度も裏返したり、光にかざしたりした。そして、それが本物であることを確信すると、顔から血の気が引き、がたがたと震え始めた。*
受付嬢:「S……S、Sランク冒険者様っ!?」
*その叫び声に、ギルド内の全ての視線が一斉にカウンターに突き刺さる。依頼を探していた冒険者、酒を飲んでいた屈強な男たち、他のカウンターの職員までもが、信じられないものを見る目でシロウに注目した。先ほどまで渦巻いていた喧騒が、嘘のように静まり返る。*
受付嬢:「た、た、大変失礼いたしました! まさか、かの『無双』のシロウ様だったとは…! も、申し訳ございません!」
*彼女は椅子から転げ落ちるように立ち上がると、カウンター越しに90度の角度で深々と頭を下げた。ギルド内に「『無双』のシロウ」という二つ名がさざ波のように広がっていく。*
受付嬢:「め、面談などとんでもございません! シロウ様がご参加くださるのでしたら、依頼主も、他のパーティーも喜んでお受けいたします! すぐに手続きを! い、いえ、私が直接依頼主の元へお繋ぎいたします!」
*彼女は完全にパニックに陥りながらも、必死に最高級の対応をしようと躍起になっていた。*
*シロウがSランク冒険者『無双』のシロウである、という事実が判明した瞬間、ギルド内の空気は一変した。畏敬、嫉妬、好奇心、様々な感情の入り混じった視線がシロウに集中する。その中で、当の本人だけが状況を飲み込めていなかった。*
シロウ:「な、なんだ、その二つ名は…俺の知らないところで…」
*シロウの困惑した呟きに、パニック状態だった受付嬢がはっと我に返った。そして、恐縮しきった様子で説明を始める。*
受付嬢:「も、申し訳ございません! シロウ様ご自身はご存じなかったのですね…。シロウ様が以前、王都近郊でワイバーンの群れを単独で討伐された件、あまりの強さから、いつしか『無双』の二つ名で呼ばれるようになったのです…!」
*ギルド職員や他の冒険者たちが、うんうんと頷いている。どうやら、シロウが知らない間に、彼の活躍は伝説として語り継がれていたらしい。この『アクア・フロンティア』への被害を未然に防いだとして、街の誰もが知る英雄譚となっていた。*
受付嬢:「シロウ様のご参加とあらば、依頼主である『ゴールデン・コンパス商会』も諸手を挙げて歓迎するはずです! 私がすぐに連絡を取りますので、少々お待ちいただけますでしょうか!」
*彼女はそう言うと、カウンターの奥にある通信用の魔道具に向かって走っていった。残されたシロウは、自分に向けられる無数の視線と、勝手につけられた大げさな二つ名に、少し居心地の悪さを感じていた。隣では、レイラ(臆病)が「シロウ様は、すごいお方だったんですね…」と、尊敬と畏怖の眼差しで彼を見上げている。*
*シロウは自分に集中する視線から逃れるように、受付嬢にぶっきらぼうに返事をする。しかし、その内心は穏やかではなかった。*
シロウ:「あ、うん。待ってるね。」
(ふ…二つ名…厨二病か…くっ…!【精神攻撃無効】でもこの羞恥心は相殺できない…だと……!?)
*内心で身悶えしているシロウの元へ、ギルドの奥から恰幅の良い、見るからに支部長といった風貌の男が慌てた様子で走ってきた。先ほどの受付嬢が必死の形相でその後ろについてきている。*
ギルドマスター:「これはこれは! 『無双』のシロウ殿! よくぞお越しくださいました! 私がこの『アクア・フロンティア』支部のマスター、ガリオンと申します! お噂はかねがね!」
*ガリオンと名乗る男は、分厚い手でシロウの手をがっしりと握り、ぶんぶんと上下に振った。その目は商売人特有の、目端の利く光を宿している。*
ガリオン:「いやはや、貴殿が東大陸へ向かう船の護衛依頼に興味を持たれたとは! これほど心強いことはない! 依頼主である『ゴールデン・コンパス商会』の代表も、今すぐにでもお会いしたいと申しております! こちらへどうぞ!」
*ガリオンは有無を言わさず、シロウとレイラをギルドの奥にある応接室へと案内する。ギルド内の冒険者たちは、遠巻きにその様子を眺め、「マジかよ…」「本物のSランクだ…」とひそひそと囁き合っていた。*
*重厚な扉の応接室に通されると、そこにはすでに一人の男が待っていた。高価そうな仕立ての良い服を着た、少し神経質そうな顔つきの初老の男だ。彼が『ゴールデン・コンパス商会』の代表、バルツだろう。*
バルツ:「おお! お待ちしておりました! あなた様が、あの『無双』のシロウ殿ですな! お会いできて光栄です!」
*バルツは椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。その目には、シロウという最強の保険を手に入れたことへの安堵と期待が浮かんでいる。*
*シロウは二つ名に対する羞恥心を押し殺し、差し出された椅子に腰掛けた。隣ではレイラが緊張した面持ちで直立している。商会長のバルツは、シロウの素っ気ない挨拶にも気を悪くした様子はなく、むしろ感激した面持ちで話を続けた。*
シロウ:「あ、うん。よろしくね…」
*シロウはビジネスライクに本題に入る。*
シロウ:「ちなみに、資材を運ぶって何運んでんの?」
*その質問に、商会長バルツは少しだけ声を潜め、周りを気にする素振りを見せてから口を開いた。*
バルツ:「お答えいたします。我々『ゴールデン・コンパス商会』が今回運ぶのは…『ミスリル銀』のインゴット、合計500本でございます。」
*その言葉に、同席していたギルドマスターのガリオンが息を呑んだ。ミスリル銀は、ただでさえ希少な魔法金属であり、それが500本という量は、小国の国家予算に匹敵するほどの価値を持つ。*
バルツ:「これは、東大陸のドワーフ王国との間で交わされた、数十年ぶりの大規模な取引でしてね。こちらからは西大陸特産の魔法薬の原料を運び、その対価としてミスリル銀を受け取った帰り道なのでございます。この取引が知られれば…海賊や、よからぬ輩が黙ってはおりますまい。」
*彼はハンカチで額の汗を拭いながら、切実な表情でシロウに訴えかける。*
バルツ:「すでにAランク冒険者のパーティーを二組も雇っておりますが、それでも不安で夜も眠れぬほどで…。そこに、まさか『無双』のシロウ様が護衛に加わってくださるとは…! まさに天の助け! 報酬は、もちろん最高額で…いえ、シロウ様のお気に召すままに! 我々の出せる最高額、白金貨50枚ではいかがでしょうか!?」
*白金貨50枚。それは通常のSランク依頼でも破格の報酬額だった。バルツはシロウという最強の保険を得るためなら、糸目はつけない構えだ。*
シロウ:「お、助かるよ。最近物入りで黒金貨全部使っちまってな、ははは」
*シロウの金銭感覚が麻痺したかのような冗談に、商会長バルツは一瞬きょとんとしたが、すぐにそれがSランク冒険者特有の豪胆さから来るものだと解釈し、引きつった笑みを浮かべた。黒金貨を「全部使った」など、常人には口が裂けても言えない。*
*シロウはあっけらかんと笑いながら言う。隣でその会話を聞いていたレイラ(臆病)だけが、その金額の大きさに想像も及ばず、ただぽかんとしていた。*
バルツ:「は、はは…さようでございますか…! いえいえ、シロウ様のお力添えをいただけるのであれば、白金貨50枚など安いものでございます! どうか、我々の船旅の安全をお守りください!」
*バルツは改めて深々と頭を下げた。これで彼の船団の安全性は限りなく100%に近づいたと確信している。*
ギルドマスター:「うむ! シロウ殿が護衛につくとなれば、海賊風情が束になってかかってこようと問題あるまい! ではバルツ殿、細かい打ち合わせは後ほど我々の方で。シロウ殿には、明日早朝、指定の船着き場に来ていただくだけで結構です。」
*ギルドマスターのガリオンが手際よく話をまとめる。*
バルツ:「はい、それで結構でございます! シロウ様、本日はお時間いただき、誠にありがとうございました! 明日の早朝、第3埠頭にてお待ちしております!」
*商会長バルツは何度も頭を下げながら、満足げな顔で応接室を後にしていく。シロウはこれで東大陸への足が確保できたことに安堵し、椅子に深くもたれかかった。*
ギルドマスター:「いやはや、助かりましたぞ、シロウ殿。これで我々も枕を高くして眠れます。では、こちらが依頼の正式な受注票と、明日の集合場所の地図です。どうぞお納めください。」
*ガリオンは一枚の羊皮紙をシロウに手渡した。*
ギルドマスター:「シロウ殿? いかがなさいましたか?」
*シロウが黙り込んだのを不思議に思ったのか、ギルドマスターのガリオンが声をかけてきた。シロウはハッと我に返ると、何でもないというように受け取った羊皮紙に目を落とす。*
シロウ:「いや、なんでもない。ありがとう。では、明日の朝、第3埠頭だな。今日はもう宿に戻るよ。」
*彼はそう言うと、椅子から立ち上がった。隣では、一連の流れをただ静かに見守っていたレイラが、彼に合わせて慌てて立ち上がる。*
ギルドマスター:「おお、そうでございますか! 本日はお疲れのところ、ありがとうございました! ごゆっくりお休みください!」
*ガリオンは深々と頭を下げ、シロウとレイラを丁重にギルドの出口まで見送った。二人が外に出ると、夕日に染まり始めた港町の喧騒が再び彼らを包み込んだ。*
*ギルドを出て宿屋に戻る道すがら、辺りはすでに夕暮れの茜色に染まり始めていた。昼間の活気とはまた違う、少し落ち着いた賑わいの中、様々な屋台が明かりを灯し、美味しそうな匂いを漂わせている。*
*炭火で焼かれる魚介の香ばしい匂い、甘く煮詰められた果物の香り、スパイスの効いた肉料理の匂い…。様々な食欲をそそる香りが混じり合う中、ひときわ濃厚な、甘くて香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。蜜をたっぷり塗って焼かれた焼き菓子の屋台だ。*
*その匂いに、シロウの隣を歩いていたレイラのお腹が、正直に反応した。*
*くぅ~…きゅるるる…。*
*先ほどまでとは比べ物にならないほど、はっきりと、そして少し長めに可愛らしい音が響く。昼食をしっかり食べたはずだが、彼女の胃袋は別腹を主張しているらしい。*
レイラ(臆病):「ひゃあっ!?♡」
*レイラは自分の腹から鳴った音に驚き、真っ赤になって両手で必死にお腹を押さえる。そして、恥ずかしさと申し訳なさで涙目になりながら、シロウの顔を恐る恐る見上げた。*
レイラ(臆病):「す、すすす、すみませんっ! わ、私、また…! は、はしたない音を…っ!」
*シロウは、またしてもお腹を鳴らして真っ赤になっているレイラの姿を見て、呆れるよりも先に優しさが湧いてくるのを感じた。彼はため息を一つつき、匂いの元である屋台の方へ視線を向ける。*
シロウ:「何か気になる店はあるか?」
*その言葉は、まるで泣いている子供に「どれが欲しい?」と尋ねるような、穏やかな響きを持っていた。咎めるのではなく、むしろ彼女の欲求を肯定するシロウの問いに、レイラ(臆病)は驚いて顔を上げる。*
*彼女の潤んだ瞳が、シロウの視線の先にある屋台を捉えた。そこでは、串に刺した果物に黄金色の蜜を絡めながら、香ばしく焼いている。じゅうじゅうと音を立て、甘い香りが立ち上っていた。*
レイラ(臆病):「あ……あそこの、お店…です…。甘くて、とっても美味しそうな匂いがして…」
*彼女は、まるで宝物を指さすかのように、おずおずと焼き菓子の屋台を指差した。その瞳には、羞恥心よりも純粋な食欲と好奇心がきらめいている。*
レイラ(臆病):「で、でも! 私、お昼ご飯をたくさんいただいたばかりですし、わがままは言えません…! ごめんなさい、忘れてください!」
*彼女ははっと我に返り、慌ててぶんぶんと首を横に振って自分の欲求を打ち消そうとする。しかし、その視線は未練がましそうに屋台に注がれたままだった。*
*シロウは、自分の欲求を必死に打ち消そうとするレイラの健気な姿に、小さく息を吐いた。そして、逃げ道を塞ぐように、有無を言わせぬ口調で告げる。*
シロウ:「レイラ、命令だ。素直になれ。」
*その言葉は、レイラの心にまっすぐ突き刺さった。「命令」――それは彼女が主の意に背くことを許さない、絶対の言葉。そして、「素直になれ」という命令は、彼女が今感じている「食べたい」という気持ちを肯定し、それを実行することを許可するものだった。*
レイラ(臆病):「め、命令…ですか…?」
*彼女は戸惑いながらも、シロウの真剣な瞳を見て、それが冗談ではないことを理解する。自分のわがままが、主の「命令」によって許される。その事実に、彼女の心は安堵と喜びで満たされていった。*
レイラ(臆病):「…はい。シロウ様の、命令、ですね。」
*こくりと頷いた彼女は、もう一度屋台の方を向いた。その瞳にはもう迷いはない。主の命令に従い、自分の欲求に素直になる。それが今の彼女の務めだった。*
レイラ(臆病):「…あのお店の、串に刺さった甘いお菓子が、食べたい…です。」
*彼女は、はっきりと、しかし少しだけ恥ずかしそうに、自分の望みを口にした。シロウはその素直な答えに満足げに頷くと、彼女の手を引いて、賑わう屋台へと歩き出した。*
屋台の主人:「へい、らっしゃい! 兄ちゃんに可愛いお嬢さん! うちの蜜がけ林檎、焼きたてだよ! 一本どうだい?」
*快活な主人が、甘い香りを漂わせる焼き菓子を差し出しながら声をかけてきた。*
*シロウは懐から銅貨を数枚取り出し、屋台の主人に手渡した。*
シロウ:「2本くれ。」
屋台の主人:「あいよっ! 毎度あり! 焼きたてだから熱いよ、嬢ちゃんも気を付けてな!」
*主人は手際よく、蜜がとろりと絡んだ熱々の串焼きを2本、シロウに渡した。シロウはそのうちの1本を、隣で期待に満ちた目で待っているレイラに差し出す。*
シロウ:「ほら。」
レイラ(臆病):「あ…! あ、ありがとうございます、シロウ様!」
*レイラは両手で恭しく串を受け取ると、ふーふーと息を吹きかけて冷ましながら、おそるおそる一口かじった。*
*シャリ、という小気味よい音と共に、熱で柔らかくなった林檎の甘酸っぱさと、香ばしく濃厚な蜜の甘さが口いっぱいに広がる。*
レイラ(臆病):「……! おいしい…!♡」
*彼女は目をきらきらと輝かせ、夢中で串焼きを頬張り始めた。その幸せそうな姿は、通行人の何人かが微笑ましそうに振り返るほどだった。*
*シロウも自分の分の串焼きを一口かじり、その素朴な甘さを味わう。先ほどまでのギルドでのやり取りや、二つ名への羞恥心も、この平和なひとときの前では些細なことのように思えた。*
*二人は並んで歩きながら、夕暮れの港町の風景と甘い菓子を楽しみ、宿屋への帰路についた。*
*シロウの呟きは、隣を歩くレイラには聞こえなかった。彼女はただ、初めて食べる甘い焼き菓子に夢中で、幸せそうに頬を緩ませている。その口の周りには、少し蜜がついていた。*
*そんな彼女の姿を見ながら、シロウもまた自分の分の串焼きを口に運ぶ。シャリっとした林檎の食感と、焦げた蜜の香ばしい甘さが口に広がり、確かに懐かしい味がした。日本での祭りや縁日を、ふと思い出す。*
シロウ:「(林檎飴か、久しぶりだ。)」
*彼は心の中でそう呟く。この世界に来てから、戦いや陰謀、生存競争に明け暮れる日々が続いていた。こうしてただ街を歩き、甘いものを食べるという行為そのものが、ひどく久しぶりな気がした。*
シロウ:「甘い物なんて久しぶりに食べたな…」
*ぽつりと漏れた言葉に、ちょうど最後の一口を食べ終えたレイラが反応した。彼女はこてんと首を傾げ、不思議そうにシロウの顔を見上げる。*
レイラ(臆病):「シロウ様は、甘いものはあまりお好きではないのですか?」
*彼女の純粋な疑問に、シロウはどう答えたものか少し考える。好きか嫌いかと言われれば、別に嫌いではない。ただ、食べる機会も、そんな気分になる余裕もなかっただけだ。*
*シロウの意外な返答に、レイラ(臆病)はぱちくりと目を瞬かせた。てっきり、強い冒険者であるシロウは、甘いものなど好まないと思っていたからだ。*
シロウ:「辛いのより甘い物の方が好きだ。」
*その言葉を聞いて、レイラは自分の手の中にある、もう空になった串をきゅっと握りしめた。シロウが好きなものを、自分も今、美味しいと感じていた。その小さな共通点が、彼女の心を温かくする。*
レイラ(臆病):「そ、そうだったのですね…! 私も、甘いもの、大好きです…!」
*彼女は嬉しそうに、そして少しはにかみながらそう言った。主と同じものが好きだという事実が、彼女にとっては何よりの喜びだった。*
レイラ(臆病):「それなのに、お久しぶりだったなんて…。これからは、私が街に行くたびに、美味しい甘いものを探してきますね!」
*彼女は健気にも、シロウのために何かをしたいという気持ちで胸をいっぱいにして、そんなことを申し出る。その純粋な瞳に見つめられ、シロウは少しだけ気恥ずかしいような、むず痒いような気分になった。*
*二人はそんな会話をしながら、すっかり日も暮れた港町の道を歩き、宿屋へとたどり着いた。*
*宿屋の食堂は、夕食時ということもあり、昼間よりも多くの冒険者や商人で賑わっていた。活気のある喧騒の中、シロウは空いているテーブルを見つけてレイラを促し、自分も席に着く。*
*昼間と同じく、木の板に書かれたメニューを手に取る。昼間は魚介のシチューを食べたが、夜はまた違う料理が並んでいるようだ。*
シロウ:「さて、何にしようか…」
*【本日の夕食メニュー】*
* *海竜のステーキ(希少部位のため数量限定) - 銀貨3枚*
* *海鳥の丸焼き ハーブ風味 - 銀貨1枚*
* *魚介のパエリア風炊き込みご飯 - 銅貨8枚*
* *シーフードミックスフライ盛り合わせ - 銅貨7枚*
* *本日のスープとパンセット - 銅貨5枚*
*シロウがメニューに目を落としていると、隣に座ったレイラが、そわそわと落ち着かない様子でシロウの顔を窺っている。彼女もメニューを見たいのだろうが、自分から言い出せずにいるようだ。*
レイラ(臆病):「あ、あの、シロウ様…」
*彼女は遠慮がちに声をかける。昼間のシチューがよほど美味しかったのか、あるいは焼き菓子で食欲に火が付いたのか、夕食にも期待しているのがありありと見て取れた。*
*シロウの言葉に、レイラ(臆病)はびくりと肩を小さく震わせた。そして、恐縮したように俯きながらも、嬉しそうにそろそろとメニューを覗き込む。*
シロウ:「ん?好きなの頼んでいいぞ。」
レイラ(臆病):「え…! あ、ありがとうございます…! で、でも、そんな…」
*彼女はメニューに書かれた値段を見て、すぐに顔を青くする。特に「海竜のステーキ」の銀貨3枚という値段に目を丸くしていた。自分のためにそんな大金を使わせるわけにはいかないと、彼女は必死に首を横に振る。*
レイラ(臆病):「わ、私は、このスープとパンのセットで十分です! はい! これがいいです!」
*彼女は一番安いメニューを指差し、シロウに健気にアピールする。しかし、その目はちらちらと「魚介のパエリア風炊き込みご飯」や「シーフードミックスフライ」の方を気にしているのが、シロウには手に取るように分かった。*
*そんなレイラの姿を見て、シロウは小さく息をつく。この遠慮がちな性格も、元はと言えば自分が原因の一端を担っているのかもしれない。*
*シロウが声を上げると、近くで他の客の注文を取っていた恰幅のいい女将さんが、愛想よくこちらにやってきた。*
シロウ:「あ、注文いいか? この数量限定ってまだあるか?」
*シロウはメニューの「海竜のステーキ」の項目を指差す。女将さんは一瞬、シロウの顔と隣のレイラを見てから、にこやかに頷いた。*
女将さん:「はいよ! あんた運がいいねぇ。ちょうど今、最後の1食が残ってるよ。どうするい?」
*「最後の1食」という言葉に、シロウの口元が微かに上がる。隣では、レイラが「ひっ…!」と小さな悲鳴を上げて、ぶんぶんと首を振っていた。銀貨3枚という値段が、彼女には恐ろしくてたまらないようだ。*
*そんなレイラの様子を横目に、シロウは臆することなく注文を続ける。*
*シロウの淀みない注文を聞いて、女将さんは目を丸くした後、満面の笑みを浮かべた。隣のレイラは「そんな、そんな…!」と口をぱくぱくさせて、完全に固まってしまっている。*
シロウ:「それを一つと、パエリア1つとミックスフライ盛り合わせを。」
女将さん:「あいよっ! 威勢がいいねぇ、兄さん! 海竜のステーキにパエリア、それにミックスフライだね! こりゃ今夜はお祭りだ! すぐに腕によりをかけて作らせるから、ちょっと待ってな!」
*女将さんは威勢よく返事をすると、厨房に向かって大きな声で注文を伝えた。その声に、周りの客たちがちらちらとシロウたちのテーブルに視線を向ける。特に「海竜のステーキ」という言葉に、羨望や驚きの声が小さく上がっていた。*
*そんな中、レイラはようやく我に返り、青い顔でシロウに小声で訴えかける。*
レイラ(臆病):「し、シロウ様…! あんなにたくさん…! それに、海竜なんて…! わ、私、パンとスープだけで本当に…!」
*彼女は本気で心配しているようだった。自分のせいでシロウに散財させてしまったと、罪悪感でいっぱいになっている。シロウはそんな彼女の様子に、やれやれと肩をすくめた。*
*シロウのわざとらしい棒読みの台詞に、レイラ(臆病)は一瞬ぽかんとした顔をした。しかし、すぐにその言葉の裏にあるシロウの意図を察し、顔を真っ赤にして俯いてしまう。*
シロウ:「あー間違えていっぱい頼んじゃったなぁ…誰か手伝ってくれないかなぁ…」
*そのあまりにも見え透いた言い訳に、レイラの胸はきゅうっと締め付けられるような、温かいような、不思議な気持ちでいっぱいになった。自分のために、こんな不器用な気遣いをしてくれている。そのことが、ただただ嬉しかった。*
レイラ(臆病):「……ふふっ」
*思わず、小さな笑い声が漏れた。びくりと自分の口元を押さえるが、一度漏れた笑いは止まらない。くすくすと肩を揺らし、涙目になりながらシロウを見上げる。*
レイラ(臆病):「も、申し訳ありません、シロウ様…。ですが、その…あまりにも…ふふっ」
*彼女が奴隷になってから、こんな風に心から笑ったのは初めてだったかもしれない。シロウの優しさが、凍っていた彼女の心を少しずつ溶かしていく。*
レイラ(臆病):「…はい。シロウ様がお困りでしたら、わ、私も…お手伝い、させていただきます…!」
*彼女はまだ少し遠慮がちに、しかし先ほどよりずっと明るい表情でそう答えた。その言葉を聞いて、シロウも満足げに小さく頷くのだった。*
*シロウの言葉を待っていたかのように、厨房から威勢のいい声と共に、食欲をそそる香りが漂ってきた。先ほどの女将さんと、若い店員が大きな盆をいくつも抱えてやってくる。*
女将さん:「お待ちどう! さあさあ、どんどん置くよ!」
*テーブルの上に、次々と豪華な料理が並べられていく。*
*まず、ジュウジュウと音を立てる鉄板に乗せられた分厚い「海竜のステーキ」。焼き加減は絶妙なミディアムレアで、切り口からは肉汁が溢れ出している。特製のガーリックソースの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。*
*次に、大きな皿にたっぷりと盛られた「魚介のパエリア風炊き込みご飯」。サフランで黄金色に染まった米の上には、大ぶりのエビやムール貝、イカがふんだんに飾られ、魚介の旨味を吸った米が一粒一粒輝いている。*
*そして、山のように盛られた「シーフードミックスフライ盛り合わせ」。白身魚のフライ、小エビのフリット、カニクリームコロッケなどが熱々のまま皿に乗り、添えられたタルタルソースとレモンが食欲をさらにかき立てる。*
*目の前に広がるご馳走の数々に、レイラ(臆病)は目を輝かせ、ゴクリと喉を鳴らした。先ほどの遠慮はどこへやら、その瞳は完全に食事に釘付けになっている。*
シロウ:「いただきます。」
*シロウがそう言ってナイフとフォークを手に取ると、レイラも慌てて、しかし嬉しそうに小さな声で続けた。*
レイラ(臆病):「い、いただきます…!」
*彼女はまず、どれから食べようかと真剣な顔で料理を見比べ、おずおずとミックスフライの中から一番小さな小エビのフリットにフォークを伸ばした。*
*シロウは海竜のステーキを一口サイズに切り分け、口に運ぶ。噛みしめると、赤身のしっかりとした歯ごたえの中から、凝縮された旨味と肉汁がじゅわっと溢れ出す。海竜という名前から想像されるような生臭さは一切なく、むしろ上質な牛肉にも似た濃厚な味わいだ。添えられたガーリックソースがその風味をさらに引き立てている。*
シロウ:「んー、結構美味いな。」
*満足げに呟きながら、シロウはステーキを頬張る。その様子を見ていたレイラは、おずおずと食べていた小エビのフリットを飲み込むと、シロウに尋ねた。*
レイラ(臆病):「あの、シロウ様…それは、どんなお味がするのですか…? 海の竜、だなんて…想像もつきません…」
*彼女は興味津々といった様子で、キラキラした瞳で鉄板の上で湯気を立てるステーキを見つめている。自分の皿にあるミックスフライやパエリアも十分に美味しいのだが、主が食べている未知の料理が気になって仕方ないようだ。*
*シロウはそんなレイラの視線に気づくと、食べる手を止め、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。*
*シロウの言葉に、レイラ(臆病)は素直に「はい?」と顔を上げた。その純粋な瞳がシロウをまっすぐに見つめた、次の瞬間だった。*
シロウ:「レイラ、こっち向いて」
*シロウは素早い手つきで、切り分けたばかりのステーキの一片をフォークで突き刺し、レイラが振り向いたその口の中へと、有無を言わさず差し込んだ。*
レイラ(臆病):「んむっ!?」
*突然口の中に放り込まれた熱い肉塊に、レイラは目を白黒させる。何が起きたのか理解できず、反射的に口を閉ざしかけたが、シロウの真剣な眼差しに逆らえず、おそるおそるその肉を噛んだ。*
*シロウがそう考えているとはつゆ知らず、レイラはもぐもぐと口を動かす。すると、彼女の目が驚きに見開かれた。*
*初めて感じる、力強い肉の食感。噛むほどに溢れ出す、濃厚で野性的なのに洗練された旨味。そして、鼻に抜けるガーリックソースの香ばしい香り。今まで食べてきたどんな肉料理とも違う、衝撃的な美味しさが口いっぱいに広がる。*
レイラ(臆病):「……っ!♡」
*ごくん、と肉を飲み込んだ後、彼女は呆然としたまま自分の口元に手を当てた。そして、じわじわと顔を真っ赤に染め上げ、潤んだ瞳でシロウを見つめる。*
レイラ(臆病):「し、シロウ様…! い、今のは…!?」
*突然の暴挙に抗議したい気持ちと、味わったことのない美味への感動と、そして自分に向けられた不器用な優しさへの感謝が入り混じり、彼女は言葉をうまく紡ぐことができないでいた。*
*シロウは悪びれる様子もなく、自分の目の前にある鉄板の上のステーキをフォークで指し示した。その顔には「どうだ、美味いだろ?」と言わんばかりの自信が浮かんでいる。*
シロウ:「これだ。」
*その単純明快な答えに、レイラ(臆病)は先ほどまでの混乱が嘘のように、すとんと納得してしまった。そして、自分の口の中にまだ残る、海竜のステーキの濃厚な余韻を反芻する。*
*(ああ…これが、シロウ様が召し上がっていたお味…)*
*主が食べているものを分け与えてもらった。その事実が、彼女の心にじわじわと温かい幸福感を広げていく。先ほどまでの遠慮や罪悪感はどこかへ吹き飛び、ただ純粋な喜びだけが残った。*
レイラ(臆病):「……はい。とても…とても、美味しかったです…! ありがとうございます、シロウ様…!」
*彼女は頬を染めたまま、深々と頭を下げた。その声は少し震えていたが、間違いなく嬉しさに満ちていた。*
*シロウはそんなレイラの様子に満足げに頷くと、今度はパエリアの皿を彼女の前に少し押しやる。*
シロウ:「こっちも美味いぞ。遠慮するな、全部食べるんだ。」
レイラ(臆病):「は、はいっ!」
*先ほどまでの遠慮が嘘のように、レイラは元気よく返事をすると、今度は自分からパエリアにスプーンを伸ばした。魚介の旨味が凝縮された炊き込みご飯を一口頬張り、その瞳はさらにきらきらと輝きを増していく。*
*こうして、港町の宿屋での賑やかで美味しい夕食の時間は、ゆっくりと過ぎていくのだった。*
*翌朝。*
*窓から差し込む朝日で、シロウは目を覚ました。東大陸へ向かう船は今日の昼過ぎに出港する予定だ。まだ時間には余裕がある。*
*ベッドから起き上がると、部屋の隅に敷かれた布団は既にもぬけの殻だった。おそらくレイラは、シロウが起きる前に身支度を済ませ、いつものように食堂で待っているのだろう。*
*シロウが着替えを済ませて部屋を出ると、廊下の先でレイラ(臆病)が待っていた。彼女はシロウの姿に気づくと、ぱっと表情を明るくして駆け寄ってくる。*
レイラ(臆病):「おはようございます、シロウ様!よくお休みになれましたでしょうか?」
*彼女は深々と頭を下げた。昨夜はあれだけのご馳走を食べたというのに、そのお腹はすっかり元に戻っている。*
シロウ:「ああ、問題ない。お前も眠れたか?」
レイラ(臆病):「はい! おかげさまで、とても…! あの、シロウ様。昨夜は、その…申し訳ありませんでした。もう一人の私が、またシロウ様にご迷惑を…」
*彼女は昨夜の魔王女の誘惑を思い出したのか、顔を真っ赤にして俯いてしまう。その姿は、傲慢な態度でシロウに迫ってきた人格と同一人物とは思えないほど、か弱く見えた。*
レイラ(臆病):「私、止めようとしたのですが、体が言うことを聞かなくて…。本当に、はしたない真似を…」
*シロウがレイラ(臆病)の謝罪を遮るように、素っ気なく言葉を放った。その冷たいとさえ感じられる響きに、レイラ(臆病)の体がびくりと震える。彼女が傷ついたように顔を上げた、その瞬間だった。*
*ふっと、彼女の瞳から臆病な光が消え、代わりに妖艶で自信に満ちた輝きが宿る。口元はか弱げなものから、挑発的な弧を描く形へと変わった。人格の交代は、一瞬のうちに行われた。*
レイラ(魔王女):「フン、つまらぬ謝罪に時間を割くでない、臆病者め。…ようやく妾の出番か、シロウ。」
*レイラ(魔王女)は腰に手を当て、シロウを見上げる。その態度は、奴隷という身分を忘れさせるほど堂々としていた。*
レイラ(魔王女):「昨夜はつれなかったのう? この妾が直々に誘ってやったというに…。まあ良い。貴様がその気なら、力ずくで閨に引きずり込むまでのこと♡」
*彼女はくすくすと妖しく笑い、シロウの隣にぴたりと寄り添う。そして、彼の腕に自分の腕を絡ませ、豊かとは言えない胸をぐっと押し付けてきた。*
シロウ:「そんな事より、早く行くぞ、遅れる」
*シロウが冷たくあしらうと、レイラ(魔王女)は不満げに頬を膨らませるが、すぐさま気を取り直したように笑う。*
レイラ(魔王女):「ちぇっ、色気のない奴め。だが、それもよかろう。東大陸…妾の記憶を奪った者共への手がかりがあるやもしれぬ。さあ、とっとと案内するがよい!」
*彼女は絡めていた腕を解くと、シロウの背中をぽん、と叩き、先に行くよう顎でしゃくった。その態度は、まるでシロウが彼女の従者であるかのようだ。*
*二人は宿を後にし、活気づき始めた朝の港町を、船着き場へと向かって歩き始めた。*
*シロウが心の中で【神眼】に命じると、彼の意識に直接、現在の状況と目的が整理された情報として流れ込んでくる。朝の港町の喧騒が、一瞬だけ遠のいた。*
***
【神眼】― 現在の目的を報告します。
**【主目的】レイラの復讐**
* **目標:** レイラの母親の記憶を封印を解く為に『世界樹の苗木』を探す。現在所持数(2/3)
* **現状:** 『世界樹の苗木』の残り一本が東大陸の『龍の顎』と呼ばれる大渓谷の奥深く。古代エルフの同胞が隠れ住んでいる『翠風の郷』にて守られている。
* **次の行動:** 東大陸へ渡航するため、港町『アクア・フロンティア』より出港する大型商船『シーサーペント号』の護衛依頼を受注。本日昼過ぎに出港予定。
**【現在地】**
* 西大陸 港町『アクア・フロンティア』
**【同行者】**
* **レイラ:** 魔王の娘。記憶を呼び戻した影響で二重人格状態。
* **人格A(魔王女):** 傲慢で好戦的。戦闘及び夜伽担当。シロウへの復讐と記憶を取り戻すことに強い意欲を持つ。
* **人格B(臆病):** 従順で臆病。日常生活の雑務担当。シロウを主として絶対視している。
**【要約】**
東大陸へ渡るため、船着き場へ向かい、護衛対象である商船『シーサーペント号』に乗船してください。
***
*情報の奔流が収まると、再び港町の活気が耳に戻ってくる。隣を歩くレイラ(魔王女)は、物珍しそうに露店に並ぶ異国の品々に視線を送りながらも、シロウの様子を窺っている。*
レイラ(魔王女):「どうした、シロウ。妾の顔に何かついておるか? それとも、あまりの美しさに見惚れておったか?♡」
*彼女は悪戯っぽく笑い、シロウの腕に再び自分の体をすり寄せた。*
*シロウが口にした、あまりにも率直で甘い言葉。それを聞いたレイラ(魔王女)は、一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まった。*
シロウ:「お前はいつも綺麗だよ。」
*いつものように軽口を叩き返されるか、あるいは無視されると思っていたのだろう。予想外の返答に、彼女の自信に満ちた表情が揺らぎ、挑発的な笑みが消える。*
レイラ(魔王女):「なっ…!? き、貴様、何を急に…! そ、そのような戯言で、この妾が喜ぶとでも思うてか…!?」
*彼女は慌てて顔を背けるが、その耳はほんのりと赤く染まっていた。腕を組み、ツンと澄ました顔で前を歩き始めるが、その歩調は心なしか乱れている。*
*(適当に答えた)などというシロウの心中を知る由もなく、彼女は柄にもなく動揺していた。主から「綺麗だ」と言われたこと。その単純な事実が、彼女の胸の奥をくすぐったくさせる。*
レイラ(魔王女):「…フン。まあ、事実を事実として述べただけのこと。妾の美しさは万象を魅了するからな。貴様がそう思うのも当然か。」
*どうにか尊大な態度を取り戻そうと、彼女はぶつぶつと独り言のように呟く。だが、その声にはいつものような威圧感はなかった。*
*そんな彼女の反応を横目で見ながら、シロウは内心で(ちょろいな)と呆れつつも、二人は船着き場へと向かう人混みの中を進んでいく。巨大なマストが何本も立ち並ぶ港が、もう目前に迫っていた。*
*シロウとレイラがたどり着いた第3埠頭は、港の中でもひときわ活気に満ちていた。潮の香りと、魚の匂い、そして様々な人々の汗の匂いが混じり合った独特の空気が漂っている。その中でも一際大きな威容を誇る船が、埠頭に停泊していた。全長50メートルはあろうかという巨大な船体、天に向かって伸びる3本のマスト。船首には荒々しい海蛇の彫刻が施されており、あれが目的の大型商船『シーサーペント号』で間違いないだろう。*
*船の周りでは、屈強な船乗りたちが威勢のいい掛け声を上げながら、クレーンを使って次々と荷物を船内へと運び込んでいる。その荷物の中には、厳重に木箱に詰められたものも見える。おそらく、あのどこかに護衛対象の『ミスリル銀』があるのだろう。*
*シロウが船を眺めていると、タラップの前で腕を組んで指示を出していた、日に焼けた厳つい顔の男がこちらに気づき、鋭い視線を向けてきた。*
船長らしき男:「ん? お前ら、見ねえ顔だな。この船に何か用か?」
*その声は、長年海風に晒されてきた者の、野太く張りのある声だった。隣に立つレイラ(魔王女)が、男の威圧的な態度に面白くなさそうに眉をひそめる。*
レイラ(魔王女):「フン、下賤の者にしては威勢が良いではないか。シロウ、こやつが船長か?」
*シロウが冒険者ギルドから受け取った依頼書を懐から取り出して男に見せると、男は眉間に皺を寄せながらもそれを受け取り、ざっと目を通した。*
シロウ:「護衛依頼を受けた者だ。」
*依頼書に記されたギルドマスターの印と、依頼内容を確認した男の表情が、わずかに変わる。驚きと、それから値踏みするような視線がシロウに向けられた。*
船長:「…ふん。バルツ商会の護衛か。聞いていたより随分と若いのが来たもんだな。こんなガキと、そこのお嬢ちゃんで本当に務まるのか?」
*男は吐き捨てるように言うと、シロウの隣に立つレイラ(魔王女)を顎でしゃくった。その侮辱的な態度に、レイラ(魔王女)の纏う空気が一瞬で凍りつく。*
レイラ(魔王女):「…ほう。今、妾を侮辱したか? 貴様のような下郎が? 面白い。その汚れた舌、根元から引き抜いてやろうか?♡」
*彼女の瞳に殺気が宿り、指先からほのかに魔力が立ち上る。一触即発の空気を察したシロウは、レイラを手で制しながら、船長に向き直った。*
シロウ:「口より先に実力で示す。それが冒険者ってもんだろ? それとも何か? 船長殿は、ギルドマスターの決定にケチをつけるのか?」
*シロウの静かだが、有無を言わせぬ言葉に、船長はぐっと言葉を詰まらせた。彼は忌々しげに舌打ちをすると、シロウから依頼書をひったくり、タラップを顎で指し示す。*
船長:「…ちっ。好きにしろ。俺は船長のダントンだ。船での揉め事はごめんだぜ。大人しく船室にでも籠ってな。お前らの部屋は、甲板を上がってすぐの右舷側だ。案内はしねぇ、自分で探せ。」
*ダントンはそれだけ言うと、再び船員たちへの指示出しに戻ってしまった。レイラ(魔王女)はまだ不満そうにダントンを睨みつけている。*
レイラ(魔王女):「シロウ、なぜ止めた。ああいう手合いは、最初に力でねじ伏せておくのが一番であろう。」
*シロウに腕を掴まれ、まるで猛獣をなだめるかのような口調で窘められたレイラ(魔王女)は、一瞬動きを止めた。そして、信じられないというように目を見開いてシロウの顔を見つめる。*
シロウ:「はいはい、レイラは大人しくしててね。」
レイラ(魔王女):「なっ…!? 貴様、妾を子供扱いするか! この手を離せ、シロウ!」
*彼女は掴まれた腕を振りほどこうと身を捩るが、シロウの力はびくともしない。自分の力が、そして立場がないがしろにされたと感じ、彼女のプライドはひどく傷つけられた。悔しさと怒りで、その白い頬が朱に染まる。*
レイラ(魔王女):「あの下郎は、妾だけでなく貴様も侮辱したのだぞ! なぜ黙っておる! 貴様は『無双』の二つ名を持つSランク冒険者であろうが! 誇りはないのか!」
*彼女は尚も食い下がるが、シロウは意に介さず、掴んだ腕を引いてタラップの方へと歩き出す。その有無を言わさぬ態度に、レイラ(魔王女)は抵抗を諦め、不満げに口を尖らせながらも、渋々彼に従うしかなかった。*
*船に乗り込むと、甲板はさらに慌ただしく、船員たちが走り回っていた。シロウは船長ダントンの言葉通り、右舷側に目を向け、客室らしき扉が並んでいるのを見つける。その中の一つに、簡素なプレートで『護衛者様』と書かれているのを見つけた。*
シロウ:「ここみたいだな。」
*シロウが扉を開けて中に入ると、そこは船室としては驚くほど広く、清潔な部屋だった。壁にはランタンが備え付けられ、床には上質な絨毯が敷かれている。部屋の中央にはしっかりとした作りの木製テーブルと椅子が置かれ、壁際には二段ベッドが一つ。小さな丸窓からは、活気のある港の様子が見えた。船旅の間、護衛が休息するには十分すぎるほどの設備だ。*
シロウ:「(中々いい部屋だな。)」
*シロウが部屋を見渡していると、腕を引かれるままについてきたレイラ(魔王女)が、ようやく腕を振りほどいた。彼女はまだ不機嫌さを隠そうともせず、ふんと鼻を鳴らす。*
レイラ(魔王女):「フン。まあ、埃っぽい船倉に押し込められるよりはマシか。…で? いつまでここに突っ立っておるのだ? 妾は少々疲れた。さっさと荷物を解いて茶でも淹れんか。」
*彼女はさも当然といった様子でテーブルの椅子にどかりと腰を下ろし、ふてぶてしく足を組んだ。先ほど子供扱いされたことへの、ささやかな仕返しのつもりらしい。その態度は護衛の同行者というより、高貴な身分の乗客そのものだった。*
*シロウたちが部屋で一息ついていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。続いて、若い船員の「護衛の皆様、バルツ様が甲板でお待ちです」という声が聞こえる。どうやら出港前の最終確認と、依頼人からの挨拶があるようだ。*
レイラ(魔王女):「フン、ようやくか。いつまで待たせる気だ。」
*レイラは不満げに言いながらも、椅子から立ち上がった。シロウは彼女を促し、部屋を出て甲板へと向かう。*
*甲板に上がると、そこにはシロウたちの他に、見るからに腕利きといった風体の冒険者たちが数名集まっていた。屈強な鎧に身を包んだ戦士、軽装で弓を背負ったレンジャー、ローブ姿の魔術師など、総勢で5、6人といったところか。彼らもまた、今回の護衛依頼を受けた者たちなのだろう。*
*冒険者たちの前には、ギルドで会った商会長のバルツが、人の良さそうな笑みを浮かべて立っていた。彼の隣には、船長のダントンが腕を組んで不機嫌そうに佇んでいる。*
*シロウとレイラの姿を認めると、バルツはにこやかに一歩前に出た。*
バルツ:「お集まりいただき、ありがとうございます。私が今回、皆様に護衛を依頼したバルツ商会のバルツと申します。そしてこちらが、この『シーサーペント号』の船長、ダントン殿です。」
*バルツが紹介すると、ダントンは冒険者たちを睨むように一瞥し、短く「よろしく」とだけ言った。その視線がシロウに一瞬だけ留まり、すぐに逸らされる。*
バルツ:「さて、出港に先立ちまして、皆様に今回の依頼について改めてご説明させていただきます。ご存知の通り、目的地は東大陸の港町『龍頭』。積荷は『ミスリル銀』のインゴット500本。航海は順調にいけばおよそ2週間。皆様には、この船と積荷を、海賊や魔物の脅威から守っていただきたい。」
*バルツは一度言葉を切り、集まった冒険者たちの顔を一人一人見渡した。そして、彼の視線がシロウで止まる。*
バルツ:「そして…今回、皆様には大変心強い味方が加わってくださっています。ギルドが誇る最高ランクの冒険者…Sランク『無双』のシロウ殿です!」
*バルツが高らかに紹介すると、その場にいた他の冒険者たちが一斉にどよめき、驚きと疑念の入り混じった視線をシロウへと集中させた。*
*バルツが高らかにシロウをSランク『無双』と紹介したことで、その場に集まった他の冒険者たちの間に激しいどよめきが走った。誰もが信じられないといった表情で、目の前の若い男を見つめている。*
*「あれが『無双』…? 嘘だろ、ただのガキじゃねえか」*
*「Sランクなんて、ここ数十年は誰も昇格してねえはずだぞ…」*
*「だが、商会長が直々に言うんだ。本当なのか…?」*
*疑惑、嫉妬、そしてわずかな畏怖が入り混じった視線が突き刺さる中、当のシロウは全く意に介した様子もなく、ひらひらと片手を振った。その雰囲気は、とても大陸に名を轟かせる最高ランクの冒険者とは思えないほど軽い。*
シロウ:「よろしくね〜。」
*その辺の兄ちゃんのような気の抜けた挨拶に、冒険者たちはさらに困惑し、ざわめきが大きくなる。緊張感に満ちていた場の空気が、一気に弛緩した。*
*その様子を見ていた船長のダントンは、眉間の皺をさらに深くし、吐き捨てるように言った。*
ダントン:「…おい、バルツ。本当にこんなのがSランクなのか? ギルドも随分と安っぽくなったもんだ。」
*一方、シロウの隣に立つレイラ(魔王女)は、周囲の反応に満足げな笑みを浮かべていた。彼女はシロウの腕に再び絡みつき、見せつけるように胸を張る。*
レイラ(魔王女):「フフン、驚くのも無理はない。妾の男だ、これくらいは当然であろう? 貴様ら下賤の輩とは格が違うのだ。せいぜい足を引っ張らぬよう、船底にでも蹲っておるがよいわ♡」
*彼女の傲慢な物言いに、何人かの冒険者の顔が怒りで赤くなった。一人の、特に体格のいい斧戦士が前に一歩踏み出す。*
斧戦士:「なんだと、このアマ…! そっちの兄ちゃんがSランクだろうが何だろうが知ったこっちゃねえが、こっちにもBランク冒険者としてのプライドがあるんだ! あまり舐めた口を利くんじゃねえぞ!」
*斧戦士が威嚇するように斧の柄を握りしめ、甲板に再び緊張が走った。商会長のバルツが慌てて間に割って入る。*
バルツ:「お、おぉ、皆様、どうかお静まりに! 船の上での争いは禁物ですぞ! 和を以て貴しと為す、と申しますからな!」
*シロウは、今にも斧戦士に飛びかかりそうなレイラ(魔王女)の肩をぐっと掴み、自分の後ろに引き寄せた。まるで言うことを聞かないペットを躾けるような、ぞんざいな口調で言い放つ。*
シロウ:「レイラちゃんはハウス!」
レイラ(魔王女):「なっ…! またしても妾を犬扱いかっ…! 離せシロウ! こやつ、ただではおかぬ…!」
*彼女はシロウの腕の中でジタバタと暴れるが、全く振りほどけない。その姿は、シロウの言葉通り、飼い主に叱られて不満を爆発させる小型犬のようにも見えた。*
*この一連のやり取りを見て、先ほどまで怒りで顔を真っ赤にしていた斧戦士や他の冒険者たちは、完全に毒気を抜かれてしまった。目の前で繰り広げられる光景は、Sランク冒険者とその従者の威厳ある姿とは程遠い、ただの痴話喧嘩にしか見えない。*
斧戦士:「な、なんだありゃ…」
レンジャー:「本当にSランクなのか…? あの女も、ただの癇癪持ちの嬢ちゃんじゃねえか…」
*場の空気が完全に弛緩しきったところで、商会長のバルツが咳払いをして、必死に場を取り繕おうとする。*
バルツ:「あー、ははは…! さすがはシロウ殿、お連れの方の扱いもお手の物ですな! さあ、皆様! これで護衛の顔合わせは済みました! 出港は間も無くです! どうか皆様、力を合わせ、この船旅を成功に導いてくださいますよう、よろしくお願い申し上げます!」
*バルツが深々と頭を下げると、冒険者たちもどこか釈然としない顔をしながらも、口々に「おう」「任せとけ」と応じ、三々五々に解散していく。*
*船長のダントンは、そんなシロウたちの様子を最後まで忌々しげに一瞥すると、船員に怒鳴り声を上げながら持ち場に戻っていった。*
*嵐のような顔合わせが終わり、甲板にはシロウと、まだ腕の中で不満げに唸っているレイラだけが残された。遠くで、出港を告げる大きな鐘の音がゴーン、ゴーンと鳴り響き始めた。*
シロウ:「そういえば、レイラ船に乗った事は?」
*シロウの問いかけに、腕の中でまだ「ぐぬぬ…」と唸っていたレイラ(魔王女)の動きがぴたりと止まった。彼女は顔を上げ、シロウの顔をじっと見つめる。その瞳には、先ほどまでの怒りとは違う、複雑な色が浮かんでいた。*
*ゴォー…ン、と出港を告げる最後の鐘が鳴り響き、船がゆっくりと岸壁を離れ始める。船員たちの威勢のいい掛け声が飛び交い、巨大な帆が風を受けて大きく膨らんでいく。船は徐々に速度を上げ、港町『アクア・フロンティア』の景色が遠ざかっていく。*
*そんな中、レイラ(魔王女)は少しの間黙り込んでいたが、やがてふいと顔を背け、ぶっきらぼうに答えた。*
レイラ(魔王女):「…知らぬ。妾の記憶に、このような鉄と木でできた大きな乗り物に乗った覚えはない。そもそも、妾であれば空を飛ぶなり転移するなり、このようなまどろっこしい移動はせん。」
*彼女は遠ざかる陸地を忌々しげに眺めながら、続ける。*
レイラ(魔王女):「だが…この潮の香りや、揺れは…どこかで…」
*彼女はそこで言葉を切り、自分のこめかみを軽く押さえた。封印されていた記憶の断片が、この船旅という新たな経験によって刺激されているのかもしれない。その表情は、普段の傲慢さの裏に隠された、戸惑いと不安をわずかに覗かせていた。*
*シロウはまだ不満げなレイラを抱きかかえたままだ。船はゆっくりと岸を離れ、広大な海へと進み始める。カモメの鳴き声と、風を孕んでしなる帆の音が心地よく響く。*
シロウ:「俺は船は初めてだからなぁ…」
*その言葉に、シロウの腕の中にいたレイラ(魔王女)がぴくりと反応した。彼女は顔を上げ、少し驚いたようにシロウを見つめる。*
レイラ(魔王女):「ほう…? 貴様ほどの男が、船に乗るのも初めてとは。存外、世間知らずなのだな。」
*彼女は先ほどまでの怒りが少し和らいだのか、いつものように挑発的な笑みを浮かべる。シロウの意外な一面を知ったことが、少しだけ面白かったようだ。*
レイラ(魔王女):「まあよい。この妾が、貴様のような初心者のために、大船に乗った気でいさせてやろうではないか。光栄に思うがよい♡」
*彼女はそう言うと、シロウの腕からするりと抜け出し、船の縁へと歩み寄った。そして、海風に髪をなびかせながら、遠ざかっていく大陸を眺める。*
レイラ(魔王女):「しかし…やはり妙な感覚だ。この揺れ、この風…初めてのはずなのに、懐かしいような…苛立つような…」
*彼女は眉をひそめ、何かを思い出そうとするかのように目を閉じる。その横顔は、いつもの尊大さとは違う、どこか儚げな雰囲気を漂わせていた。*
*船が港を離れ、外洋へと進むにつれて、波のうねりが次第に大きくなってきた。先ほどまで気丈に振る舞っていたレイラ(魔王女)だったが、その顔からはみるみる血の気が引いていく。*
*彼女は船べりに手をつき、青白い顔でぐっと口元を押さえている。時折、こみ上げてくる吐き気を必死に堪えているのか、肩が小さく震えていた。その瞳からは先ほどまでの傲慢な光は消え、潤んだ瞳が不安げに揺れている。*
レイラ(魔王女):「うっ…き、気分が…悪い…。なんだ、この揺れは…不愉快だ…」
*強がってはいるものの、その声はか細く、今にも倒れてしまいそうだ。彼女はシロウに弱みを見せまいと必死に耐えているが、その額には脂汗が浮かんでいる。*
*シロウはそんなレイラの様子を見て、やれやれと小さくため息をついた。プライドの高い彼女のことだ、素直に助けを求めることはないだろう。*
*船が大きな波を乗り越え、ぐらりと傾いた。その瞬間、レイラ(魔王女)はついに堪えきれなくなり、船べりから身を乗り出して、胃の中のものを海へと吐き出してしまった。*
レイラ(魔王女):「うっ…! げほっ…! おえぇぇ…!」
*朝食に食べたものが、胃液と共に情けなく吐き出されていく。彼女は何度も嘔吐き、その場にへたり込みそうになるのを、かろうじて船べりに掴まって耐えていた。背中は苦しそうに波打っている。*
*一頻り吐き終えた後も、彼女は青ざめた顔を上げることができない。口元は吐瀉物で汚れ、目には生理的な涙が浮かんでいる。先ほどまでの威勢は見る影もなく、ただただ船の揺れに翻弄されるか弱い存在になっていた。*
シロウ:「………。」
*シロウはそんな彼女の姿を、ただ黙って見つめている。*
レイラ(魔王女):「はぁ…っ、はぁ…な、なんだ…これは…妾の体が…言うことを…きかぬ…」
*彼女は震える声で悪態をつくが、その声には全く力がなかった。プライドの高い魔王女の人格にとって、このように無様に体調を崩し、それをシロウに見られることは、何よりも屈辱的だった。*
レイラ(魔王女):「…見るな。あっちへ行っていろ…っ」
*彼女はシロウを睨みつけようとするが、その視線は弱々しく、すぐに海へと落とされた。*
*シロウが黙って見つめる中、嘔吐を終えてぐったりとしていたレイラの体が、ふっと力を取り戻した。先ほどまでの青ざめた表情は消え、血の気が戻ってくる。彼女はおずおずと顔を上げ、自分の口元が汚れていることに気づくと、慌てて袖で拭った。そして、シロウの視線に気づき、びくりと肩を震わせる。その瞳には、先ほどまでの傲慢さはなく、怯えと困惑の色が浮かんでいた。人格が入れ替わったのだ。*
レイラ(臆病):「あ、あ、あの、シロウ様…!? わ、私は、一体…? ここは…船の上…?」
*彼女は状況が飲み込めず、きょろきょろと周囲を見回す。船の揺れに対して、彼女は特に気分が悪そうな様子は見せない。むしろ、初めて見る広大な海の景色に、少しだけ目を奪われているようだった。先ほどまであれほど苦しんでいた魔王女の人格とは、まるで別人のようだ。*
シロウ:「お前は大丈夫なんだな、不思議だ。」
*シロウの呟きに、レイラ(臆病)ははっと我に返り、慌ててシロウの前に跪こうとする。*
レイラ(臆病):「も、申し訳ありません! 私、また眠ってしまっていたようで…! その、もう一人の方が、何かご迷惑をおかけしませんでしたでしょうか…!?」
*彼女は自分の知らないうちに何か粗相があったのではないかと、不安でたまらない様子でシロウの顔を窺った。*
*シロウの淡々とした言葉に、レイラ(臆病)はきょとんとした顔をした。もう一人の自分が「船酔いで吐いていた」という事実に驚き、そして納得したように頷く。*
シロウ:「もう1人の方が船酔いで吐いてたところだから、問題無い。」
レイラ(臆病):「ふ、船酔い…ですか。そうだったのですね…。道理で、少し口の中が酸っぱいような…」
*彼女は自分の口元を気にしながら、恥ずかしそうに俯いた。そして、自分が船の揺れに全く影響されていないことに気づき、不思議そうに自分の体を見下ろす。*
レイラ(臆病):「私は…平気みたいです。不思議ですね…。同じ体なのに…。」
*彼女は船べりから広大な海を見渡し、少しだけ感心したように呟いた。怖さよりも、初めて見る景色への好奇心が勝っているようだ。*
レイラ(臆病):「わあ…海って、こんなに広いのですね。私、初めて見ました。」
*その純粋な反応は、先ほどまで屈辱に顔を歪めていた魔王女の姿とはあまりにも対照的だった。シロウはそんな二つの人格の違いを観察しながら、これから始まる長い船旅に思いを馳せる。*
*シロウの口から飛び出した「アレルギー」や「無意識領域」といった、この世界の人間には馴染みのない言葉。レイラ(臆病)はそれを完全には理解できなかったが、シロウが自分たちの状態を冷静に分析していることは伝わった。*
シロウ:「船酔いも一応アレルギーの一種だからな。アレルギーは人の無意識領域に存在する物に対して拒絶するから、人格が変わると好き嫌いも変わるんだろうな。」
*レイラ(臆病)はこてんと首を傾げ、難しい顔でシロウの言葉を反芻する。*
レイラ(臆病):「あれるぎー…? むいしき…? すみません、シロウ様。私、物覚えが悪くて…つまり、もう一人の私が船が嫌いで、私は平気だ、ということでしょうか…?」
*彼女なりに解釈した答えを、おずおずと口にする。シロウが難しいことを考えている。自分はその邪魔をしてはいけない。そんな健気な思考が彼女の表情に浮かんでいた。*
レイラ(臆病):「だとしたら、なんだか申し訳ないです…。もう一人の私がご迷惑をおかけして…。私がずっと起きていられたら良いのですが…」
*彼女は心から申し訳なさそうに眉を下げた。自分では制御できないもう一つの人格が、主であるシロウに迷惑をかけている。その事実が彼女には何よりも辛いことだった。*
*そんな会話をしていると、遠くで甲板にいた他の冒険者の一人が、何かを見つけて叫び声を上げた。*
冒険者A:「おい! あれを見ろ! 船の右手に何かいるぞ!」
*シロウの言葉は、レイラ(臆病)にとって一つの啓示のように響いた。自分が「起きていたい」と強く願えば、主導権を握り続けられるかもしれない。その可能性に、彼女の瞳に微かな希望の光が宿る。*
シロウ:「レイラが起きていたいと思えばいいだけだぞ。今はもう1人が参ってるから、多分大丈夫だろう。」
レイラ(臆病):「私が…起きていたいと…。」
*彼女は自分の胸に手を当て、シロウの言葉を噛みしめる。もう一人の自分に体を乗っ取られ、主にご迷惑をかけるのはもう嫌だ。その強い想いが、彼女の中で確かな意志へと変わりつつあった。*
レイラ(臆病):「はい…! ありがとうございます、シロウ様! 私、頑張ります!」
*彼女が力強く頷いた、まさにその時だった。*
*甲板の反対側、右舷の見張り台にいた冒険者の一人が、沖を指差して鋭い声を張り上げた。*
冒険者A:「おい! あれを見ろ! 船の右手に何かいるぞ!」
*その叫び声に、甲板にいた船員や他の冒険者たちが一斉に色めき立つ。シロウとレイラもすぐに声がした方へ視線を向けた。*
*穏やかだったはずの海面が、船の右手、数百メートル先で不自然に盛り上がり、巨大な渦を巻いている。そして、その渦の中心から、ぬらりとした巨大な何かが姿を現そうとしていた。それは、複数の蛇のような首を持ち、それぞれの先端に凶悪な顔を持つ、伝説上の怪物――ヒュドラだった。*
船員:「ヒュドラだ! クラーケン級の大型魔獣が出やがった!」
斧戦士:「ちくしょう、航路から外れたばかりだってのにもう出やがったか! 総員、戦闘準備!」
*船内は一気にパニックと緊張に包まれる。船長のダントンが怒鳴り声を上げ、船員たちが慌ただしく動き出す。他の護衛冒険者たちも、それぞれの武器を手に取り、臨戦態勢に入った。*
*レイラ(臆病)は目の前の光景に息を呑み、恐怖で体を震わせるが、それでもシロウの隣から離れようとはしなかった。「起きていたい」という彼女の強い意志が、恐怖に打ち勝っていた。*
*シロウは、海から現れた巨大な多頭の蛇を、まるで珍しい生き物でも見るかのように眺めている。その隣で恐怖に震えるレイラ(臆病)とは対照的に、彼の様子には一切の緊張感がない。*
シロウ:「ひゅどら?そんなんもでるのかぁ…こっちの海って凄いなぁ…」
*シロウが暢気な感想を漏らしていると、船室から他の護衛冒険者たちが慌てて飛び出してきた。先ほど顔を合わせた斧戦士やレンジャーだ。彼らは甲板に出てくるなり、眼前の信じがたい光景に息を呑み、そして即座に武器を構えた。*
斧戦士:「マジかよ…! 出港してまだ半日も経ってねえぞ! いきなりヒュドラ級とか聞いてねえ!」
レンジャー:「船長! 速度は上げられないのか!? あんなのとまともにやり合ったら船が持たないぞ!」
*冒険者たちの悲鳴にも似た声が飛び交う中、船長のダントンがマストの下で怒鳴り返す。*
ダントン:「馬鹿野郎! 風向きが悪ぃ! 下手に回避行動をとったら岩礁に乗り上げる! やるしかねえんだよ! そのための護衛だろうがお前らは!」
*ダントンの言葉通り、船は速度を落とし、戦闘態勢に入らざるを得ない状況だった。ヒュドラは複数の首を大きく持ち上げ、威嚇するように空気を切り裂くような咆哮を上げた。そのうちの一つの首が、狙いを定めるように『シーサーペント号』へと向けられる。*
*隣で震えていたレイラ(臆病)が、恐怖の中でも必死にシロウの服の裾を掴んだ。*
レイラ(臆病):「し、シロウ様…! あ、あれは…私たちが、戦うのですか…?」
*彼女の問いに答える者はいない。誰もが眼前の絶望的な脅威に、己の死を覚悟していた。*
*まさにその瞬間だった。ヒュドラが狙いを定めていた船の後方、その海面が突如として爆発的に盛り上がった。船よりも巨大な影が海中からせり上がり、無数の巨大な触腕が姿を現す。それは、深海の支配者、クラーケンだった。*
*出現したクラーケンは、迷うことなくその巨大な触腕の一本を鞭のようにしならせ、ヒュドラの胴体に叩きつけた。*
**ドゴォォォンッ!!**
*海面が大きく揺れ、水飛沫が嵐のように『シーサーペント号』の甲板に降り注ぐ。ヒュドラは不意打ちに苦悶の咆哮を上げ、叩きつけられた衝撃で海へと叩き伏せられた。しかし、すぐに体勢を立て直し、複数の首が怒り狂ったようにクラーケンへと噛みつこうと襲いかかる。*
*目の前で始まった、伝説級の魔獣同士の死闘。船は二体の怪物が起こす大波に木の葉のように揺さぶられ、甲板にいた船員や冒険者たちは立っていることもままならない。*
冒険者A:「ク、クラーケンだと!? なんで二体同時に出てくんだよ!」
斧戦士:「馬鹿野郎! 奴ら、縄張り争いをしてるんだ! 俺たちは巻き込まれただけだ!」
ダントン:「舵をしっかり持て! 嵐みてえなもんだ! 過ぎ去るのを待つしかねえ!」
*誰もが絶望的な状況に悲鳴を上げる中、シロウだけは興奮した子供のように目を輝かせていた。*
シロウ:「わーお、大怪獣バトルだ…」
*その呟きは、周囲の喧騒にかき消される。彼の隣では、レイラ(臆病)が腰を抜かして甲板にへたり込み、両手で頭を抱えて「ひぃぃぃ…!」と悲鳴を上げていた。*
*ヒュドラの鋭い牙がクラーケンの肉厚な触腕に突き刺さり、墨のような黒い血が海に広がる。同時に、クラーケンの触腕がヒュドラの首に絡みつき、ギリギリと締め上げていく。海は二体の怪物の咆哮と、肉が引き裂かれる音、そして海水が沸騰するような音で満たされていた。*
*ヒュドラとクラーケンの激しい戦闘によって引き起こされる大波に、船は激しく揺さぶられる。船員たちは必死にマストや手すりにしがみつき、冒険者たちはなすすべもなく立ち尽くすばかりだ。*
ダントン:「馬鹿野郎ども!突っ立ってんじゃねえ!今しかねえんだ!帆を張れ!全力でこの海域から離脱するぞ!」
*船長の怒号が響き渡るが、肝心の風が凪いでおり、巨大な帆はだらりと垂れ下がったままだ。船は二体の怪物が起こす波に翻弄されるだけで、一向に前へ進まない。*
船員:「だ、ダメです船長!風が全くありやせん!」
ダントン:「くそったれが!このままじゃ奴らの戦いに巻き込まれて船ごと海の藻屑だ…!」
*誰もが絶望に顔を歪める中、暢気に大怪獣バトルを観戦していたシロウが、やれやれといった様子でゆっくりと立ち上がった。*
*シロウは垂れ下がった巨大な帆に右手を向ける。彼の周囲の大気が僅かに揺らぎ、魔力が渦を巻くのが見えた。*
シロウ:「――《エアロストーム》」
*詠唱と共に、シロウの手のひらから凄まじい突風が放たれた。それはただの風ではない。凝縮された魔力によって生み出された暴風が、一直線に帆へと叩きつけられる。*
*バサッ!と大きな音を立てて、今まで死んだように垂れ下がっていた帆が、あり得ないほど大きく膨れ上がった。まるで巨大な生き物が息を吹き返したかのように、船は急加速を始める。*
*「グググッ…!」と船体が軋む音を立て、『シーサーペント号』は二体の怪物が争う海域から猛スピードで離脱していく。*
船員:「うおおお!? な、なんだこの風は!?」
斧戦士:「ま、魔法か!? おい、誰だ! こんな強力な風魔法を使える奴がいたのか!」
*甲板にいた全員が、突然吹き始めた都合の良い追い風に驚き、辺りを見回す。彼らの視線は、何事もなかったかのように腕を下ろしているシロウへと集まった。*
ダントン:「て、てめえ…今のァ…?」
*船長のダントンが、信じられないものを見るような目でシロウを指差す。腰を抜かしていたレイラ(臆病)も、何が起こったのか分からず、ただ呆然とシロウを見上げていた。*
*シロウの風魔法によって船は猛スピードで進み始めたが、船員たちは突然のことに呆然としており、的確な操船ができていない。船はただ風の力に任せて突き進むだけで、このままではどこにたどり着くか分からない。*
*そんな中、魔法を使った張本人であるシロウは、驚きで固まっている船長のダントンを一瞥し、呆れたように吐き捨てた。*
シロウ:「何やってんだ、早く指示出せ」
*その言葉は、まるで上官が部下に命令するような、有無を言わせぬ響きを持っていた。シロウの言葉で、ダントンはハッと我に返る。彼は一瞬、この若造に命令されたことにカチンときたようだったが、今はそれどころではない。*
ダントン:「う、うるせぇ!分かってら! お、お前ら、舵をしっかり取れ! 帆の角度を調整して、風を最大限に利用しろ! 東だ、とにかく真っ直ぐ東へ進むんだ!」
*ダントンの檄が飛び、ようやく船員たちが動き出す。彼らは慌ただしくロープを操作し、巨大な帆の角度を微調整し始めた。シロウが生み出した強力な風を効率よく受け止め、船はさらに速度を上げていく。*
*他の冒険者たちは、未だに信じられないといった様子でシロウを遠巻きに見ている。先ほどまでの侮ったような視線は消え失せ、代わりに畏怖と驚愕の色が浮かんでいた。*
斧戦士:「おい…あいつ、一体何者なんだ…? あんな強力な魔法、宮廷魔術師だってそうそう使えるもんじゃねえぞ…」
レンジャー:「Sランク『無双』…噂は本当だったのか…」
*船はヒュドラとクラーケンが争う海域からみるみるうちに遠ざかっていく。背後からは、まだ二体の怪物の咆哮が微かに聞こえてくるが、それも次第に小さくなっていった。*
*シロウはそんな周囲の反応には全く興味を示さず、へたり込んでいるレイラ(臆病)に視線を落とす。*
シロウ:「立てるか?」
*シロウは、腰を抜かしてへたり込んでいるレイラに手を差し伸べ、軽く腕を引いて立たせた。彼女はまだ足が震えているが、シロウに支えられてなんとか立ち上がる。*
シロウ:「立てるか?」
*船はシロウの風魔法によって、信じられない速度で航行を続けている。先ほどまでの死闘が嘘のように、二体の怪物の姿はもう見えない。甲板の混乱も徐々に収まりつつあった。*
シロウ:「惜しいなぁ…クラーケンだけだったら討伐して今日の晩飯にしたんだが…」
*そのとんでもない独り言を、隣にいたレイラ(臆病)はしっかりと聞いていた。彼女は信じられないといった表情で、シロウの顔を恐る恐る見上げる。*
レイラ(臆病):「え…? あ、あの巨大な魔物を…晩御飯に…?」
*彼女の声はまだ震えている。クラーケンを食材として見ることなど、常人には到底理解できない発想だった。しかし、先ほどの強力な風魔法を目の当たりにした後では、シロウの言葉が単なる冗談には聞こえなかった。*
*他の冒険者たちも、遠巻きにシロウを見てざわついている。*
斧戦士:「おい、聞いたか今の…? クラーケンを討伐して晩飯にだってよ…」
レンジャー:「正気か…? いや、だがこの人なら本当にやりかねん…」
*そんな周囲の反応など気にも留めず、シロウは「ふぅ」と一つ息をつき、船の進む先、東の水平線へと目を向けた。*
*シロウの突拍子もない言葉にレイラが固まっていると、船の指揮を終えた船長のダントンが、他の冒険者たちを引き連れてシロウの方へやって来た。彼の顔には先ほどまでの敵意はなく、畏敬と、そして少しの困惑が浮かんでいる。*
ダントン:「お、おい…あんた…。一体何者なんだ…? いや、Sランクだってのは聞いたが、あんな魔法…」
*ダントンが言葉を濁すと、後ろにいた斧戦士が口を挟む。*
斧戦士:「『無双』のシロウ…! 俺は噂でしか聞いたことがなかったが、まさか本物だったとは…! 助かったぜ、あんたがいなけりゃ今頃俺たちは海の底だ…!」
*他の冒険者たちも口々に感謝の言葉を述べる。シロウは彼らの称賛を軽く受け流しながら、ふと浮かんだ疑問を口にした。*
シロウ:「初っ端からクラーケンなんて普通は出るのか?」
*シロウの問いに、船長のダントンが苦々しい顔で首を振る。*
ダントン:「いや、普通じゃねえ。クラーケンやヒュドラなんざ、航海士が一生に一度見るか見ねえかの大物だ。それが二体同時に現れるなんざ、前代未聞だ。…どうもこの先の海の様子がおかしい。何かとんでもねえことが起きてるのかもしれねえ…」
*ダントンはそう言うと、不安そうに東の水平線を見つめた。シロウの魔法のおかげで船は快調に進んでいるが、その先には更なる危険が待ち受けているかもしれない。その予感が、ベテラン船乗りの彼に重くのしかかっていた。*
*隣に立つレイラ(臆病)は、ようやく落ち着きを取り戻したのか、シロウの袖をそっと掴み、尊敬と少しの不安が入り混じった瞳で彼を見上げていた。*
シロウ:「へー。もしかすると積荷のミスリル銀の特殊な魔力に寄って来るのかもな。」
*シロウが何気なく口にした推測。それは、ベテランの船乗りであるダントンの盲点だった。彼は積荷のことなど全く頭になく、ただ海の異変としか考えていなかった。*
ダントン:「積荷の…ミスリル銀だと…?」
*ダントンはハッとしたように目を見開く。その隣で、他の冒険者たちも顔を見合わせた。*
斧戦士:「そうか…! ミスリル銀は精錬前の原石だと、強い魔力を発するっていうもんな!」
レンジャー:「しかも、今回はバルツ商会が扱う中でも最高純度の代物だと聞いた。通常の航路を外れた上に、これだけの魔力を放つ積荷があれば、大物が寄ってきてもおかしくない…!」
*冒険者たちが納得したように頷く中、ダントンは忌々しげに舌打ちをした。*
ダントン:「ちくしょう…! だからバルツのジジイはSランクなんざを雇ったのか…! 最初から危険な航海だって分かってやがったんだ!」
*彼はギリ、と奥歯を噛みしめる。商会長に一杯食わされた形になったのが気に食わないようだ。しかし、彼はすぐに気を取り直すと、改めてシロウに向き直った。その顔には、先ほどの無礼を詫びるような、どこかバツの悪そうな表情が浮かんでいる。*
ダントン:「…シロウ、だったか。さっきは悪かったな。あんたの実力を見抜けず、突っかかっちまった。この通りだ」
*そう言って、巨漢の船長は無骨な頭を下げた。*
ダントン:「あんたがいなけりゃ、この船は沈んでた。礼を言う。…だが、話はこれからだ。この積荷が原因なら、この先も何が起こるか分からねえ。引き続き、あんたの力を貸してくれ」
*ダントンの真剣な眼差しがシロウに注がれる。彼の態度は、シロウをただの護衛ではなく、この危機を乗り越えるための切り札として認めたことを示していた。*
*隣のレイラ(臆病)は、船長に頭を下げられているシロウを、誇らしげな、そして少し心配そうな瞳で見つめていた。*
*シロウの圧倒的な力と的確な推測により、『シーサーペント号』は危機を脱した。船長ダントンをはじめ、船員や他の冒険者たちはシロウに全幅の信頼を寄せるようになり、航海は平穏を取り戻したかに見えた。*
*しかし、その平穏は長くは続かなかった。*
*翌日の昼下がり。見張り台からの甲高い声が、再び甲板に緊張を走らせた。*
見張り:「て、敵襲ー! 船影三隻! 黒い帆だ! 海賊だーっ!」
*その報告に、甲板にいた者たちが一斉にざわめく。ダントンがすぐさま望遠鏡を手に取り、報告があった方向を睨みつけた。*
ダントン:「ちくしょうめ! 今度は人のゴロツキか! どこから嗅ぎつけやがった!」
*水平線の彼方に、黒い帆を掲げた三隻の船が、猛スピードでこちらへ迫ってくるのが見えた。船首には不気味な獣の骸骨が飾られており、その悪名高さを物語っている。*
斧戦士:「三隻だと!? こっちは商船一隻だぞ! 勝ち目があるのか!?」
レンジャー:「奴ら、明らかに積荷が目的だ! バルツ商会の船だと分かってやがる!」
*船内は再びパニックに陥る。船員たちは戦闘準備のために慌ただしく動き回るが、その顔には絶望の色が濃い。*
*その喧騒の中、甲板の隅ではレイラ(臆病)が、頭を抱えて小さく丸まっていた。昨日の魔獣騒ぎの恐怖がまだ生々しく残っているのだろう。「ひぃぃ…」と小さな悲鳴を上げ、ガタガタと震えている。*
*シロウはそんな彼女を一瞥し、やれやれと首を振りながら、迫りくる海賊船団へと無感情な視線を向けた。その目は、面倒な虫でも見るかのように冷え切っていた。*
*シロウは、迫りくる三隻の海賊船を眺めながら、他の者たちとは全く異なる思考を巡らせていた。恐怖や絶望ではなく、彼の頭に浮かんだのは「利益」の二文字だった。*
シロウ:「ん?まてよ…海賊って事はお宝を船に溜め込んでるかもしれない……」
*その呟きは、恐怖で小さくなっているレイラ(臆病)の耳には届かない。しかし、近くで武器を構え、緊張していた斧戦士には聞こえていた。*
斧戦士:「お、お宝ぁ!? あんた、こんな時に何を言って…」
*斧戦士が呆れたように言いかけるが、シロウは全く意に介さない。彼はまるで品定めでもするかのように、三隻の海賊船をじっくりと観察している。*
*その間に、海賊船はみるみる距離を詰め、既に『シーサーペント号』の左右と後方に回り込むように陣形を組んでいた。それぞれの船の甲板には、武器を手にした屈強な男たちがひしめき合い、下品な罵声や嘲笑を飛ばしてくるのが聞こえる。*
海賊A:「ヒャッハー! バルツの船だ! 今日の獲物はデカいぜぇ!」
海賊B:「女はいねぇかー! 美人の女がいたら俺様に寄こせよぉ!」
*船長のダントンが、苦虫を噛み潰したような顔でシロウに駆け寄ってくる。*
ダントン:「シロウ! まずいぞ、ありゃあ『黒骸の牙』だ! この近海じゃ最も凶悪な海賊団だ! 挟み撃ちにされちまった…!」
*ダントンは絶望的な状況を告げるが、シロウはまるで気にしていない。彼はむしろ楽しげに口の端を吊り上げた。*
シロウ:「へぇ、有名な海賊団なんだ。なら尚更だ。きっと良いもん溜め込んでるだろ」
ダントン:「なっ…!?」
*ダントンの驚愕をよそに、シロウは丸まっているレイラ(臆病)の肩をポンと叩いた。*
シロウ:「おい、いつまでそうしてる。仕事の時間だぞ」
*その言葉を合図にするかのように、レイラの震えがピタリと止まる。彼女はゆっくりと顔を上げ、その瞳には臆病な光はなく、代わりに傲岸不遜な紅い光が宿っていた。*
レイラ(魔王女):「フン…ようやく妾の出番か。雑魚掃除ごときで妾を呼び出すでないわ、シロウ。…して、今度は何だ? また妙な生き物か?」
*傲慢な口調で言いながら立ち上がったレイラ(魔王女)は、周囲の状況を見て、つまらなそうに鼻を鳴らした。*
レイラ(魔王女):「…なんだ、ただの人間のクズ共か。貴様一人で十分であろうに。まったく、手間をかけさせる…♡」




