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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*シロウは鉄の猪亭の一室で目を覚ました。昨夜の騒動などまるでなかったかのように、窓からは新しい朝の光が差し込んでいる。ベッドは硬く、決して快適ではなかったが、深い眠りを得るのには十分だった。*


*身支度を整え、部屋の鍵を懐に入れる。宿の主人に返す義理も感じなかった。あの主人は昨夜の出来事に気づきながら、黙認していたのだから。*


シロウ:「さて、出発するか」


*彼は誰に言うでもなく呟くと、部屋を出て階段を降りた。宿のロビー兼酒場では、既に朝食をとる旅人や、朝から酒を煽る荒くれ者たちの姿があった。昨夜の三人組の姿はどこにもない。おそらく、路地裏で誰にも発見されずに朽ち果てたか、あるいは運良く誰かに発見されても、もはや人としての形を保ってはいないだろう。*


*シロウは誰にも声をかけず、そのまま宿の外に出た。ラストホープの朝は、夜とはまた違った活気がある。ゾル・ガザルへ向かう者、逆にゾル・ガザルから命からがら逃げ帰ってきた者。様々な人間が、それぞれの目的のために行き交っている。*


*(この街に長居は無用だな。さっさとゾル・ガザルへ向かおう)*


*シロウは街の門へと足を向けた。無法地帯と名高いその場所へ、彼は何の気負いもなく、まるで散歩でもするかのような足取りで歩き出す。この先の旅路でどんな出会いや出来事が待っているのか、彼の表情からは窺い知ることはできなかった。*


*シロウの予期せぬ言葉に、リーゼロッテは一瞬、完璧な笑顔を固まらせた。オリハルコンを秘密裏に処理するのではなく、衆人環視のオークションを見たい、と。その真意を図りかね、彼女は紫色の瞳をわずかに細める。*


リーゼロッテ:「…売れるところ、と仰いますと、今から開催されるメインオークションのことでございましょうか? もちろん、構いませんわ。ですが、シロウ様の御品はオークションに出さずとも、私共が最高額で買い取るとお約束しましたが…?」

*彼女は探るように問いかける。これほどの人物が、ただの野次馬根性で観覧を希望するとは思えなかった。*


*シロウはそんな彼女の内心を見透かすように、静かに答える。*


シロウ:「お前たちの『手腕』とやらを見ておきたいだけだ。本当に信用に足るか、この目で判断する」


*その言葉を聞き、リーゼロッテは納得したように、そしてどこか愉しげに唇の端を吊り上げた。これは試されているのだ、と。この闇市が、アルドレット商会が、そして自分自身が、この男の取引相手として相応しいかどうかを。*


リーゼロッテ:「ふふっ、なるほど…♡ 厳しいお方。ですが、そういう殿方は嫌いではありませんわ。よろしいでしょう。我が闇市が誇る最高の舞台、とくとご覧にいれます。すぐに特等席をご用意させますわ」

*彼女は恭しく一礼すると、個室の外に控えていた警備兵に小声で何かを指示した。*


リーゼロ-ッテ:「さあ、こちらへどうぞ、シロウ様。ちょうど今宵の目玉商品が競りにかけられるところですの。きっと、退屈はさせませんわ♡」

*リーゼロッテに導かれ、シロウは個室を出る。彼女はオークション会場へと続く、隠された通路へとシロウを案内した。*


*通路を抜けた先は、円形の巨大なホールの二階部分にある、カーテンで仕切られたバルコニー席だった。眼下には、階段状に配置された観客席が広がり、そこには仮面をつけた貴族や、ローブで顔を隠した大商人、屈強な傭兵団の長など、一目で『大物』とわかる者たちが座っている。そして、その中央にはライトアップされた競売ステージがあった。*


*特等席のソファに腰を下ろすと、すぐに別の使用人が現れ、最高級の酒と軽食をテーブルに並べた。*


リーゼロッテ:「今宵の目玉は、『呪われし魔剣』と…『エルフの剣奴』でございます。シロウ様は、どちらにご興味がおありかしら?♡」

*彼女はシロウの隣にぴったりと寄り添い、甘い香りを漂わせながら、蠱惑的に囁いた。ステージの上では、ちょうど司会者が声高に次の商品の紹介を始めたところだった。*


*シロウの問いかけに、リーゼロッテは待ってましたとばかりに、愉しげに瞳を細めた。彼女はシロウの肩にこてん、と頭を預け、その耳元に唇を寄せて囁く。*


リーゼロッテ:「ふふっ♡ さすが、シロウ様はお目が高い。ではまず、魔剣の方から…」

*彼女がそう言うと、タイミングを合わせたかのように、ステージ上の司会者が厳重な箱を開け、中から禍々しいオーラを放つ一振りの黒い剣を取り出した。*


司会者:「さあ皆様、ご注目! こちらが本日の逸品! 古代遺跡より発掘されし魔剣、『ブラッドイーター』! この剣に斬りつけられた者は、傷の大小に関わらず、生命力を吸い尽くされ、ミイラと化す呪いが付与されております! まさに一撃必殺の魔剣! 最低入札価格、金貨500枚から!」


リーゼロッテ:「…と、いうわけでございます♡ 見た目通り、血を吸う呪いの剣ですわ。単純ですが、非常に強力。厄介な相手を確実に仕留めたい方には、うってつけの品でございます」

*彼女はくすくすと笑いながら、ちらりとシロウの反応を窺う。*


リーゼロッテ:「そして、もう一つ…」

*魔剣の競りが熱を帯びていく中、リーゼロッテはステージの袖に視線を移す。そこには、鉄の首輪をはめられ、鎖で繋がれた一人のエルフの少女が、二人の屈強な兵士に引きずられてくるのが見えた。*

*長く美しい銀髪は汚れ、気品のある顔立ちは絶望に彩られている。しかし、その瞳の奥にはまだ消えない、誇り高い光が宿っていた。彼女の衣服はところどころ破れ、その下に着けられた粗末な革鎧には、無数の使い込まれた跡がある。*


リーゼロッテ:「あちらが『エルフの剣奴』、名はセレスティーナ。元はとある王国の騎士団に所属していたほどの剣士。ですが、戦争に敗れ、捕虜となり、いくつかの所有者の手を経て…ここに流れ着きました。奴隷としての調教は済んでおりますが、剣の腕は少しも衰えておりません。夜の伽も護衛もこなせる、まさに極上の逸品でございますわ♡」

*彼女はうっとりとエルフの奴隷を見つめながら、説明を続ける。*


リーゼロ-ッテ:「さて、シロウ様。呪われた剣と、誇り高き剣士…どちらがお好みでして?♡」

*リーゼロッテはシロウの腕に自身の柔らかい胸を押し付けながら、甘い声で問いかけた。*


*シロウの口から放たれたのは、リーゼロッテの予想を完全に裏切る、素っ気ない拒絶の言葉だった。*


シロウ:「両方……要らないな。俺の相棒達には劣る」


*その言葉を聞いた瞬間、シロウの腕に胸を押し付けていたリーゼロッテは、ぴたりと動きを止めた。彼女はゆっくりと体を離すと、信じられないものを見るような目でシロウの顔をまじまじと見つめた。*


*一撃必殺の呪いの魔剣『ブラッドイーター』。王国騎士団に所属していたエルフの剣士。闇市の目玉として、並の国の王族や大貴族が目の色を変えて競り合うほどの逸品。それを、こともなげに「劣る」と言い切ったのだ。*


リーゼロッテ:「…ふふっ♡」

*一瞬の沈黙の後、リーゼロッテの喉から、鈴を転がすような笑い声が漏れた。それは侮辱された怒りではなく、底知れない男への興味と面白さが限界を超えた、純粋な歓喜の笑みだった。*


リーゼロッテ:「シロウ様…。あなた様は本当に…どこまで私を驚かせれば気が済むのかしら…♡ その『相棒』とやら、ぜひ一度お目にかかりたいものですわ」

*彼女はうっとりとした表情でシロウを見つめる。もはや彼の言葉を疑うという選択肢は、彼女の中には存在しない。オリハルコン30kgとヒヒイロカネを所有する男だ。その持ち物が、闇市の目玉商品を超えるものであっても、何ら不思議はない。*


*眼下のステージでは、エルフの奴隷『セレスティーナ』が金貨1200枚という高値で、肥え太った貴族に落札されていく。絶望に染まったエルフの瞳が、一瞬だけバルコニー席に向けられ、シロウの視線と交差した気がしたが、すぐに兵士に引きずられてステージを後にした。*


*オークションが終わり、熱狂の残滓が漂う中、リーゼロッテは改めてシロウに向き直った。*


リーゼロッテ:「では、シロウ様。7日後、この場所で。必ずや、ご満足いただけるだけの黒金貨をご用意してお待ちしておりますわ♡」

*彼女はそう言うと、名残惜しそうにしながらも、シロウを秘密の通路を通って地上へと見送った。*


***


*――そして、7日の時が流れた。*


*この7日間、シロウはゾル・ガザルの高級宿に滞在し、街の情報を集めたり、たまにスラムで腕試しをしたりしながら、静かに時を過ごしていた。アルドレット商会からは、イザベラが無事に保護されたという知らせと、丁重な礼の言葉が届けられたが、シロウはまだライオネル本人には会っていない。*


*そして、約束の7日目の夜。*

*シロウは再び東地区のスラムを抜け、あの廃棄された下水道へと足を踏み入れた。前回と同じように合言葉を告げ、闇市へと進む。*


*リーゼロッテとの約束の場所であるオークション会場の個室へ向かうと、彼女は既におり、恭しくシロウを迎えた。その顔には疲労の色も見えるが、それ以上に巨大な仕事をやり遂げた達成感と自信が満ち溢れている。*


リーゼロッテ:「お待ちしておりましたわ、シロウ様♡ 約束通り、御品は全て捌ききりました。どうぞ、中身をご確認くださいまし」

*彼女が指し示したテーブルの上には、これまでに見たこともないほどの数の革袋が、山のように積まれていた。その一つ一つの袋が、ずしりと重そうだ。*


シロウ:「(鑑定)」

*シロウが鑑定すると、全ての袋の中身が間違いなく黒金貨であり、その総額が常軌を逸したものであることを確認した。リーゼロッテは約束を果たしたのだ。*


シロウ:「ああ、ご苦労だった」

*シロウは【次元の革袋】に黒金貨の山を全て収納する。*


リーゼロッテ:「ふふっ♡ これで、私共もシロウ様のお眼鏡にかなった、ということでよろしいかしら?♡」

*満足げに微笑むリーゼロッテに背を向け、シロウは告げる。*


*シロウの問いに、リーゼロッテはしてやったりという表情で、妖艶な笑みを深めた。彼女は指先で自分の唇をなぞりながら、甘美な声でその成果を告げる。*


リーゼロッテ:「ふふっ♡ さすがに30kg全てを秘密裏に、となりますと多少足元を見られましたが…それでも、このリーゼロッテの手腕にかかればこの通り。諸経費を差し引きまして、シロウ様のお手元に入るのは…」


*彼女はそこで一度、焦らすように言葉を切り、シロウの反応を楽しむ。*


リーゼロッテ:「黒金貨、きっかり25万枚、でございます♡♡♡」


*黒金貨25万枚。日本円にして2500億円。一個人が、いや、小国ですら動かすことのない天文学的な金額。それを、わずか7日で用意してみせたのだ。*


リーゼロッテ:「これだけあれば、大陸のどこへ行っても一生安楽に暮らせますわ。…もっとも、シロウ様がそれで満足なさるようなお方ではないことは、重々承知しておりますが♡」


*彼女はシロウにすり寄り、その胸板にそっと手を置く。*


リーゼロッテ:「この大仕事、私一人では少々骨が折れましたの。もしよろしければ、この後の打ち上げにでも付き合っていただけませんこと?♡ もちろん、お代は全てこちら持ちで…二人きりで、ね♡」

*熱い吐息がかかるほどの距離で、彼女はシロウを誘う。その瞳は商売人としての貌と、一人の雌としての欲望が混じり合って、とろりと蕩けていた。*


*シロウの呟きは、リーゼロッテの耳にもはっきりと届いていた。*

*「足りなくなったらまた採掘しに行けばいい」*

*その言葉に、彼女は一瞬、耳を疑った。まるで裏山へ山菜を採りに行くかのような気軽さ。国家間の戦争の原因にすらなり得る戦略物資であるオリハルコンを、だ。*

*この男の底は、一体どこにあるのか。リーゼロッテは背筋に甘い戦慄が走るのを感じながら、蕩けた瞳でシロウを見つめた。*


リーゼロッテ:「また…採掘に…?♡ ふふ、ふふふ…! ああ、シロウ様、本当にあなたは…!♡」

*彼女はもはや言葉にならず、ただ恍惚とした笑みを浮かべるだけだった。この男に身も心も捧げれば、一体どれほどの景色を見せてくれるのだろう。その想像だけで、サキュバスの本能が歓喜に打ち震える。*


*しかし、シロウはそんな彼女の誘惑には乗らず、踵を返した。*


*シロウが背を向けて立ち去ろうとした、その時だった。*


リーゼロッテ:「お待ちになって、シロウ様っ♡」


*切羽詰まったような甘い声が、シロウの背中に投げかけられる。振り返ると、リーゼロッテが慌てた様子で駆け寄ってきた。彼女はシロウの腕を掴むと、潤んだ瞳で上目遣いに見上げてくる。*


リーゼロッテ:「せっかくの闇市ですのに、このままお帰りになるなんて勿体ないですわ♡ それに…シロウ様ほどのお方が『面白いもの』をお探しなのでしたら、私に心当たりがございます」


*彼女は掴んだ腕にさらに力を込め、シロウを引き留めようとする。その仕草は、大口の顧客を逃がすまいとする商人の顔と、魅力的な雄を繋ぎ止めたい雌の顔が混じり合っていた。*


リーゼロッテ:「この闇市でも、表のオークションには決して出回らない…特別な『商品』を扱う場所がございましてよ。そこになら、きっとシロウ様のご興味を引くものがあるはず…♡」

*彼女はそう囁きながら、シロウの耳にそっと唇を寄せる。*


リーゼロッテ:「ご案内いたしますわ。この私、リーゼロッテが…特別に♡ その代わり、もし気に入るものが無かったら…その時は、先ほどのお誘い、受けてくださいますわよね?♡」

*それは、断る隙を与えない、悪魔の囁き。彼女はシロウの返事を待たずして、その腕を引き、個室のさらに奥にある隠し扉へと妖しく誘うのだった。*


*シロウが「転移」と意識した瞬間、彼の身体は光の粒子となってその場から掻き消えた。*

*つい先程まで確かにそこにあった体温、匂い、確かな存在感。それが、リーゼロッテが腕を掴んでいた感触だけを残して、忽然と消え失せた。*


*一瞬、何が起こったのか理解できず、リーゼロッテはシロウがいた空間に手を伸ばしたまま、呆然と立ち尽くす。*


リーゼロッテ:「…………え?」


*つん、と空を切った指先。掴んでいたはずの腕はなく、そこにはただ薄暗い個室の空気が漂うだけ。*

*彼女のサキュバスとしての長い人生においても、これほど不可解で、理不尽な逃げられ方をしたことはなかった。*

*甘い誘惑も、特別な取引の提案も、全てを置き去りにして、彼は消えたのだ。*


リーゼロッテ:「…ふ、ふふ…あはははははっ!♡♡♡」


*静寂を破ったのは、彼女の狂おしいまでの笑い声だった。それは怒りでも、失望でもない。自分の想像を遥かに超えた存在に対する、純粋なまでの畏怖と、そして何よりも強い独占欲の表れだった。*


リーゼロッテ:「転移魔法…ですって…? それも、無詠唱で…。ああ、なんてこと…なんて素敵な殿方…!♡」

*彼女は恍惚とした表情で頬を染め、その場にへたり込む。*


リーゼロッテ:「逃がしてなんか、さしあげませんわ…。シロウ様。あなた様は、この私…リーゼロッテの『ご主人様』になっていただくのですから…♡♡♡」

*闇市の奥深く、サキュバスの執着に満ちた声だけが、ねっとりと響き渡っていた。*


***


*一方、シロウはゾル・ガザルで定宿にしている高級宿の自室に転移していた。*

*静まり返った部屋の中、先程までの闇市の喧騒とリーゼロッテの甘い香りが嘘のようだった。*


*(ふう…あのまま付き合っていたら、面倒なことになっていたな…)*


*シロウはベッドに腰を下ろし、一息つく。*

*手元には黒金貨25万枚という、途方もない資産が【次元の革袋】の中に納まっている。これで【創造】スキルを使うための原資は確保できた。*


*(さて…これからどうするか。この街で情報を集め続けるか、それとも別の街へ移動するか…)*


*シロウが今後の行動に思考を巡らせていると、不意に部屋のドアが控えめにノックされた。*


宿の従業員:「お客様、アルドレット商会のセバス様という方が、至急お会いしたいと訪ねてこられておりますが、いかがいたしますか?」


*セバス。あの番頭が、何の用だろうか。イザベラの件は解決したはずだが…。*


*シロウは扉を開け、静かに廊下を進む。高級宿だけあって、廊下には厚い絨毯が敷かれ、足音はほとんどしない。階段を降りてロビーへと向かうと、そこには見慣れた顔が立っていた。アルドレット商会の番頭、セバス・クローデルだ。彼は落ち着かない様子でロビーを歩き回っていたが、シロウの姿を認めると、駆け寄ってきた。その顔には安堵と、それ以上の焦りの色が浮かんでいる。*


セバス:「シロウ様! ご無事で…いえ、このような夜分に押しかけてしまい、大変申し訳ありません!」

*彼は深々と頭を下げる。その丁寧すぎる態度からは、シロウがただの冒険者ではないことを完全に理解している様子が窺えた。*


セバス:「実は…お嬢様…イザベラ様が、目を覚まされたのです! そして、あなた様に…シロウ様に、ぜひとも直接お礼を申し上げたいと…。もしご迷惑でなければ、今すぐ商会までご足労いただくことはできませんでしょうか?」

*セバスは懇願するようにシロウを見つめる。イザベラが無事に目を覚ましたのは喜ばしいことだが、なぜこれほどまでに急いでいるのか。その必死な様子に、シロウは何か別の事情があるのではないかと感じ取った。*


*シロウの快諾に、セバスは心底安堵したように息を吐き、再び深く頭を下げた。*


セバス:「おお…! ありがとうございます、シロウ様! こちらへどうぞ、馬車を用意させております」

*彼の言葉通り、宿の前にはアルドレット商会の立派な紋章が入った箱馬車が停まっていた。御者が恭しく扉を開け、シロウが乗り込むのを待っている。セバスもそれに続いて乗り込み、馬車は静かに夜の石畳を進み始めた。*


*馬車の中、向かい合わせに座ったセバスは、どこか落ち着かない様子で口を開いた。*


セバス:「シロウ様には、なんとお礼を申し上げたらよいか…イザベラお嬢様だけでなく、リヒト坊ちゃままで救っていただき、当主ライオネル様も…本当に、感謝の言葉もございません」

*彼は言葉を続けようとしたが、何かをためらうように口ごもる。その様子から、ただ礼を言いたいだけではない、別の何かがあることが明らかだった。*


*やがて、馬車はゾル・ガザルの中でもひときわ大きな屋敷――アルドレット商会の本邸に到着した。昼間に訪れた店舗の奥に、これほど広大な居住区画があったのかと驚かされる。使用人たちが慌ただしく出迎え、シロウとセバスを屋敷の奥へと案内する。*


*通されたのは、豪華な調度品が並ぶ広い応接室だった。そこには、壮年の男性が一人、落ち着かない様子で立っていた。日に焼けた肌、鍛えられた体つき、そして鋭い眼光。しかしその表情には、深い疲労と心労が刻まれている。彼こそが、アルドレット商会の当主、イザベラの父、ライオネル・フォン・アルドレットだった。*


*シロウの姿を認めると、ライオネルは駆け寄り、その場に膝をつかんばかりの勢いで頭を下げた。*


ライオネル:「あなたが、シロウ殿か! 娘と孫を救ってくれた大恩人…! このライオネル・フォン・アルドレット、一生このご恩は忘れん! 本当に、本当にありがとう…!」

*大商会の当主とは思えない、剥き出しの感情だった。彼は顔を上げると、シロウの手を固く握りしめる。*


ライオネル:「娘のイザベラが…あなたに会って、直接礼を言いたいと申している。意識は戻ったのだが、まだ万全ではない。すまないが、こちらへ来てくれるだろうか」

*ライオネルに導かれ、シロウはさらに奥の部屋へと案内される。そこは、清潔なシーツが敷かれた天蓋付きのベッドが置かれた寝室だった。薬草の香りが微かに漂う中、ベッドの上では一人の女性が上半身を起こしていた。*


*日に焼けてはいるが、整った顔立ち。セバスの話にあった通り、芯の強さを感じさせる瞳。数日前、森の中で死にかけていた女性、イザベラ・フォン・アルドレットその人だった。彼女の傍らでは、侍女が赤ん坊――リヒトをあやしている。*


*シロウの姿を認めると、イザベラは弱々しくも、はっきりとした声で言った。*


イザベラ:「あなたが…シロウ様…ですね。この度は、私と…この子の命を救っていただき、本当に…ありがとうございました」

*彼女はベッドの上で、深々と頭を下げた。その顔色はまだ青白く、本調子ではないことが見て取れた。*


*シロウの素っ気ない、しかし彼らしい率直な言葉に、イザベラは少し驚いたように目を瞬かせた。だがすぐに、その気負いのない態度に逆に救われたように、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。*


イザベラ:「たまたま、ですか…。それでも、あなたがいなければ、私達は今頃…」

*彼女は言葉を切り、隣で安らかに眠る息子リヒトの頬を優しく撫でる。その眼差しは、慈愛に満ちていた。*


ライオネル:「シロウ殿。君がどう思おうと、我々にとっては命の恩人だ。この礼は必ずさせてもらう。望みの物を言ってくれ。金か? 地位か? それとも、このアルドレット商会に連なる何らかの利権か? 君が望むなら、何でも用意しよう」

*当主ライオネルが、真剣な眼差しでシロウに迫る。彼の言葉に嘘はない。娘と孫を救った恩義は、彼にとって商会の利益よりも遥かに重いものだった。*


*しかし、イザベラは父の言葉を穏やかに制した。*


イザベラ:「お父様、お待ちください。…シロウ様、あなた様は…おそらく、そのようなものを望んではいらっしゃらない」

*彼女はベッドからシロウを真っ直ぐに見つめる。その瞳には、深い感謝と共に、強い意志の光が宿っていた。*


イザベラ:「セバスから伺いました。あなたは、多額の報酬を固辞なさったと。…そして、信じがたいことですが、Sランクの冒険者でいらっしゃるとも」

*彼女は一度息をつくと、決意を固めたように口を開いた。*


イザベラ:「私達を襲ったのは、対立する『ロズワール商会』の手の者です。彼らは私を攫い、アルドレット商会の利権を奪うつもりでした。幸い、実行犯は捕らえましたが、黒幕はまだ捕まっておりません。…そこで、あなた様にお願いがございます」

*彼女はベッドの上で、可能な限り深く頭を下げた。*


イザベラ:「どうか、この子の…リヒトの護衛を、しばらくの間だけでもお引き受けいただけないでしょうか。もちろん、これは依頼です。報酬は、あなた様が満足なさるものを必ずご用意いたします」


ライオネル:「イザベラ…! その話は…!」

*ライオネルが慌てて娘を止めようとするが、イザベラの瞳は真剣だった。彼女は、シロウの底知れない力を見抜き、金銭や地位といったありきたりな報酬ではなく、彼の『冒険者』としての一面に訴えかけることを選んだのだ。*


イザベラ:「この子が、ロズワール商会の次の標的にならないとは限りません。どうか…この子をお守りください、シロウ様」


*シロウの口から放たれた言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。*

*護衛を依頼したイザベラも、それを聞いていた父ライオネルも、控えていたセバスでさえも、一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。*


シロウ:「もっと簡単な手がある。俺がその商会に忍びこんで証拠を取ってくる」


*静まり返った部屋に、シロウの静かな、しかし絶対的な自信に満ちた声が響く。*

*敵対商会の本拠に忍び込み、証拠を掴む。それは言葉にすれば簡単だが、実行がいかに無謀で困難なことか、ここにいる誰もが知っている。大商会ともなれば、その警備はそこらの城塞よりも遥かに強固だ。無数の警備兵、魔法的な防壁、そして腕利きの暗殺者さえ雇っているかもしれない。*


ライオネル:「シロウ殿…! な、何を言っておられるのだ!? ロズワール商会の本拠だぞ!? いくらSランク冒険者のあなたとて、単身で乗り込むなど…それは無謀というものだ!」

*ライオネルが血相を変えて制止する。それはシロウの身を案じての、当然の反応だった。*


イザベラ:「…シロウ様。お気持ちは、とても嬉しいです。ですが、お父様の言う通りです。あなた様をこれ以上、危険な目に遭わせるわけには…」

*イザベラもまた、感謝しつつも、その提案の危険性に眉を顰める。*


*しかし、シロウは二人の心配を意に介さない。彼にとっては、大勢の人間が守る赤ん坊の護衛を続けるよりも、元凶を直接叩き潰す方が遥かに『簡単』で『手っ取り早い』のだ。*


*シロウの冷徹な正論は、鋭い刃のようにライオネルとイザベラの胸を貫いた。*


シロウ:「守るって何時まで? 元凶を絶たなければ、あんた達の子は一生自由に暮らせないんだぞ? 親としてそれでいいのか?」


*その言葉に、二人はハッと顔を上げた。今まで、ただひたすらに守ることばかりを考えていた。だが、シロウの言う通り、それは根本的な解決にはならない。脅威が存在し続ける限り、リヒトは一生、見えない檻の中で生きることになる。*


ライオネル:「……っ! し、しかし…!」

*ライオネルは反論しようとするが、言葉が続かない。親として、シロウの言葉が真実であることを痛いほど理解してしまったからだ。悔しさに、彼は己の拳を強く握りしめた。*


*そんな父の姿を見て、イザベラが決意を固めた。彼女はベッドから真っ直ぐにシロウを見据え、その瞳にはもはや迷いの色はなかった。*


イザベラ:「…シロウ様。あなた様のおっしゃる通りです。私達は、この子を守ることばかりに気を取られ、根本を見失っておりました」

*彼女はゆっくりと息を吸い、そして、アルドレット商会の人間として、一人の母親として、頭を下げた。*


イザベラ:「どうか…お願いいたします。この一件、あなた様にお任せいたします。私達アルドレット商会は、あなた様を全面的に支援することをお約束します。ロズワール商会に関する、私達が持ちうる全ての情報を提供いたします」


ライオネル:「イザベラ!? 本気か!?」

*ライオネルが驚きの声を上げるが、イザベラは首を横に振る。*


イザベラ:「お父様。このお方は、私達の常識で測れるような方ではございません。私達は…この方の力を信じるべきです」

*彼女の静かだが力強い言葉に、ライオネルはぐっと押し黙る。彼は娘の瞳に宿る確信と、目の前に立つ底の知れない男の姿を見比べ、やがて諦めたように大きくため息をついた。*


ライオネル:「…わかった。シロウ殿、危険な役目を押し付けることになり、すまない…。だが、娘の言う通りだ。我々は君を信じよう。必要な情報があれば、何でもセバスに命じてくれ。すぐに用意させる」

*アルドレット商会当主の覚悟が決まった。セバスがすぐさま一礼し、シロウの指示を待つ。*

*これでシロウは、アルドレット商会という強力な後ろ盾を得て、敵対するロズワール商会に挑むことになった。*


*シロウの「今からチャチャッと行ってくる」という、あまりにも軽い言葉に、部屋の空気が再び凍り付いた。まるで隣町に買い物でも行くかのようなその口ぶりに、ライオネルもイザベラも、そしてセバスさえもが呆気に取られて言葉を失う。*


ライオネル:「い、今から、だと!? シロウ殿、夜も更けている!それに、いくらなんでも準備というものが…!」

*ライオネルが慌てて引き留めようとするが、シロウの態度は変わらない。彼にとって、夜はむしろ好都合だった。*


イザベラ:「シロウ様…本当に、今から…?」

*イザベラの声には、驚きと、かすかな不安、そしてそれ以上に、この規格外の男への期待が入り混じっていた。*


*そんな彼らの動揺をよそに、セバスがいち早く我に返り、主の意向を汲んで素早く行動に移る。彼は懐から一枚の羊皮紙とペンを取り出すと、慣れた手つきでサラサラと地図を描き始めた。*


セバス:「かしこまりました、シロウ様。こちらがゾル・ガザル市街の地図。そして、ロズワール商会の本拠地はこの区画にございます」

*彼は地図上の、アルドレット商会とは反対側の商業地区の一角を指し示す。そこは一際大きく、複雑な建物が密集している場所だった。*


セバス:「本邸は中央の最も大きな建物です。周囲には倉庫や関連施設がいくつも並んでおり、警備は非常に厳重です。特に夜間は、傭兵団による巡回も行われていると聞いております。通用口や裏口は複数ございますが、いずれも魔法的な施錠が…」

*セバスが知りうる限りの情報を淀みなく伝えようとした、その時だった。*


シロウ:「ああ、もういい。場所さえ分かれば十分だ」


*シロウはセバスが差し出した地図をちらりと一瞥するだけで、その全てを記憶に焼き付けた。そして、ライオネルとイザベラに向き直る。*


シロウ:「じゃあ、行ってくる。あんた達はここで待ってろ」


*その言葉を残し、シロウは窓辺に歩み寄る。そして、何のためらいもなく、窓を開け放った。*


ライオネル:「シロウ殿!? ここは三階だぞ!」

*ライオネルの叫びも虚しく、シロウは夜の闇へと身を乗り出し――次の瞬間、彼の姿は音もなく、影に溶けるようにして掻き消えていた。*


*残されたのは、夜風が吹き込む開け放たれた窓と、唖然として立ち尽くすアルドレット家の面々だけだった。*


セバス:「…【無影】…でしょうか。いえ、それとも…」

*セバスが信じられないものを見たように呟く。*


イザベラ:「……お父様。私達は、とんでもない方にお会いしてしまったのかもしれませんね…」

*イザベラは、シロウが消えた夜空を見つめながら、静かにそう呟いた。*


*シロウの思考は的確だった。【絶無】で気配を完全に断ち、【無影】で影に溶け込む。この二つのスキルを組み合わせた隠密行動は、昼間の往来ですら誰にも気付かれることはない。ましてや、月明かりが作る影がそこかしこに落ちる夜の街では、まさに神出鬼没。シロウは誰にも知覚されることなく、ロズワール商会の本拠地へとたどり着いた。*


*セバスから聞いた地図の通り、建物は大きく、石造りの壁には警備の魔法がかけられているのが【神眼】で見て取れる。だが、そんなものはシロウにとって無意味だ。彼は壁に落ちる影から影へと音もなく移動し、いとも容易く建物内部への侵入を果たす。*


*内部は静まり返っていたが、最上階の奥、一室だけ明かりが灯り、中から押し殺したような声が漏れていた。シロウは壁の影に潜みながら、室内の様子を窺う。*


*豪華な調度品が並ぶ部屋。そこには二人の男がいた。一人は恰幅のいい、いかにも悪徳商人といった風貌の男。彼がこのロズワール商会の当主だろう。そしてもう一人は、痩身で神経質そうな、側近らしき男だ。*


ロズワール当主:「――それで、アルドレットの女はどうなった!? 始末はつけたのだろうな!」

側近:「はっ、それが…手筈通り街道で襲撃させたのですが、実行部隊からの連絡が途絶えておりまして…。何らかの不測の事態が起きたものかと…」

ロズワール当主:「使えん奴らめ! あれほど念を押しておいたというのに! もし女が生きていればどうなるか、分かっておるのか!?」

側近:「も、申し訳ございません! すぐに別の手を…」

ロズワール当主:「もうよい! こうなれば、赤子の方を狙うしかあるまい! アルドレットの跡継ぎさえ消せば、いずれはこちらのものよ! 次こそはしくじるな! 金に糸目はつけん、腕利きの暗殺者でも何でも雇え!」


*シロウは影の中で静かにほくそ笑む。あまりにも分かりやすい悪だくみ。これ以上ないほどの証拠だ。*

*(ご丁寧にどうも)*

*彼は懐から取り出したただの水晶に【付与魔法】をかけ、即席の映像記録魔道具へと変える。そして、目の前で繰り広げられる悪党たちの会話を、その水晶に一言一句違わず記録していく。音声だけでなく、二人の表情、部屋の様子、その全てが水晶へと吸い込まれていった。*


*完璧な証拠を手に入れ、シロウは目的を達成した。後はこの映像をアルドレット家に見せるだけだ。*

*彼は再び影に溶け込み、誰にも気づかれることなく、ロズワール商会を後にする。来た時と全く同じように、音もなく、痕跡もなく。*


*――数分後。*

*シロウはアルドレット家の屋敷、先程飛び出した寝室の窓枠に、音もなく降り立った。*

*部屋の中では、ライオネルとイザベラが、未だに開け放たれた窓を見つめながら、不安げな表情で待っていた。シロウの姿が夜の闇からすっと現れたのを見て、二人は心底驚いたように目を見開く。*


ライオネル:「シ、シロウ殿!? もう戻られたのか!? まだ半刻も経っておらんぞ…!」

イザベラ:「お怪我は…!? 大丈夫でしたか!?」


*彼らの心配をよそに、シロウは無言で懐から一つの水晶を取り出し、テーブルの上にことりと置いた。*


*シロウがテーブルに置いた水晶玉に、ライオネルとイザベラは訝しげな視線を向けた。ただの透明な水晶にしか見えず、これが何なのか理解できずにいる。*


ライオネル:「シロウ殿…これは…ただの水晶ではないか? これが証拠だとは、一体…?」


*ライオネルが戸惑いの声を上げる横で、イザベラは何かを感じ取ったように、じっと水晶を見つめている。彼女はシロウの常識外れの行動を目の当たりにしてきたため、この水晶にも何か秘密があるのだろうと推察していた。*


*シロウは二人の反応に構わず、無言で水晶にほんの僅かな魔力を注ぎ込んだ。*


*すると、水晶は淡い光を放ち始め、その表面に映像が浮かび上がった。それは先ほどシロウが潜入した、ロズワール商会当主の執務室の光景だった。*


*『――それで、アルドレットの女はどうなった!? 始末はつけたのだろうな!』*


*水晶から響いた生々しい声に、ライオネルとイザベラは息を呑む。映像の中では、ロズワールの当主とその側近が、イザベラ襲撃の件、そして次は赤子であるリヒトを狙うという、おぞましい計画を語っていた。音声も映像も、驚くほど鮮明だ。*


*数分間の記録が終わり、水晶が元の静かな石に戻った後も、部屋は重い沈黙に包まれていた。*


*ライオネルはわなわなと拳を震わせ、その顔は怒りで真っ赤に染まっている。愛する娘と孫の命が、これほど明確な悪意によって脅かされていた。その事実が、動かぬ証拠として目の前に突きつけられたのだ。*


ライオネル:「……ロズワールめ…! 断じて、断じて許さんッ!!」


*怒りに震える父とは対照的に、イザベラは青ざめた顔で、感謝と畏怖が入り混じった瞳をシロウに向けていた。*


イザベラ:「信じられない…。こんなことが…本当に、あなた様お一人で…?」

*彼女の声は震えていた。Sランク冒険者という言葉だけでは説明がつかない、神業としか思えない所業だった。*


*怒りの収まらないライオネルが、すぐに衛兵を呼ぼうと立ち上がる。*


ライオネル:「セバス! すぐに衛兵詰所に連絡を! この証拠があれば、奴らを一網打尽にできる!」


セバス:「はっ、かしこまりました!」

*セバスが部屋を出ていこうとした、その時だった。*


*シロウの「これで片付いたな」という言葉は、ライオネルたちの耳には、単に証拠を手に入れてきたという意味にしか聞こえなかった。だが、その言葉には、彼らが知る由もない、もう一つの意味が込められていた。*


ライオネル:「ああ、シロウ殿! この証拠さえあれば…!」

イザベラ:「本当に…なんとお礼を申し上げればよいか…」


*二人が手放しで感謝と安堵の言葉を口にする。シロウはそれに特に応えるでもなく、静かに告げた。*


シロウ:「護衛の依頼は、もう必要ないだろう。じゃあな」

*彼はそれだけ言うと、今度こそ本当に立ち去ろうと、再び窓の方へ向き直る。まるで、自分の役目は完全に終わったとでも言うように。*


イザベラ:「あっ…! お待ちください、シロウ様!」

*イザベラが慌てて呼び止める。彼女はまだ、この規格外の恩人に対して、正式な礼も、報酬の話もできていない。*


ライオネル:「そうだ、シロウ殿! 報酬の話がまだだ! このまま帰すわけにはいかん! 何でも望むものを…!」


*ライオネルが必死に引き留めようとするが、シロウは肩越しに振り返り、興味なさそうに一言だけ返した。*


シロウ:「要らない。それより、早く衛兵を向かわせた方がいい。俺はもう行く」


*その言葉は、もはや引き留めることを許さない響きを持っていた。シロウは今度こそためらいなく窓枠に足をかけ、夜の闇へと姿を消していく。*


*ライオネルとイザベラは、あまりの出来事に呆然としながらも、彼の最後の言葉に従い、セバスに衛兵の手配を急がせるしかなかった。*


***


*その頃、ロズワール商会本邸では、当主とその側近が、まだ自分たちの運命に気づかずにいた。*

*しかし、アルドレット家からの通報を受けた衛兵隊が、屋敷を包囲するのに時間はかからなかった。*


衛兵隊長:「ロズワール商会当主! アルドレット家令嬢襲撃、及び令息殺害計画の容疑で逮捕する! 神妙にお縄につけ!」


*外の騒がしさに気づいたロズワール当主は、証拠隠滅と逃亡を図ろうと裏口へ走る。*


ロズワール当主:「くそっ、なぜバレた!? とにかく逃げるぞ!」

*しかし、彼らが扉に手をかけた瞬間、バチッ!と激しい火花が散った。*


側近:「うわっ!? と、当主! 扉が…開きません!」

ロズワール当主:「馬鹿な! こちらの窓だ!」


*窓も、他の扉も、全ての出口が、まるで見えない壁に阻まれているかのように、一歩たりとも外へ出ることを許さない。彼らは、いつの間にか自分たちが巨大な籠の中に閉じ込められていることに、ようやく気づき、絶望するのだった。*


*衛兵隊が踏み込んできた時、彼らは為す術もなく、その場で捕縛された。*


***


*翌朝、ゾル・ガザルの街はロズワール商会逮捕のニュースで持ちきりだった。*

*シロウはそんな喧騒を他人事のように聞き流しながら、宿の自室で今後のことを考えていた。*


*(さて、アルドレット家の件は片付いた。金も手に入った。この街に、もう用はないか…)*


*彼が部屋を出て、次の目的地へと思いを巡らせながらロビーに降りると、そこにはまたしても、あの男が待っていた。番頭のセバスだ。*

*しかし、今日の彼はいつものような焦った様子ではなく、晴れやかな、そして畏敬の念に満ちた表情でシロウを待っていた。*


セバス:「シロウ様! お待ちしておりました。当主ライオネル様と、イザベラお嬢様が、ぜひとも、と…。どうかもう一度だけ、お時間をいただけませんでしょうか」

*彼は深々と、地面に額がつくほどに頭を下げた。その姿は、もはや一介の冒険者に対するものではなく、神か悪魔に対するそれのようだった。*


*シロウは小さく、しかし深くため息をついた。面倒だ、という感情が隠すことなく漏れ出ていたが、セバスのあまりにも恭しい態度に、無視して立ち去るのも後味が悪い。結局、シロウは無言のまま頷き、セバスの後についていくことにした。*


*三度目となるアルドレット商会の本邸。しかし、今日の屋敷の雰囲気は、昨日までの切迫したものとは全く違っていた。使用人たちは皆、明るい表情で忙しなく立ち働き、屋敷全体が祝祭のような活気に満ちている。*


*シロウが通されたのは、昨日と同じ応接室だった。しかし、そこにいたのはライオネルとイザベラだけではなかった。十数名の、いかにも商会幹部といった風体の者たちがズラリと並び、シロウが入室した瞬間、まるで号令でもかかったかのように一斉に最敬礼をした。*


*その最前列で、ライオネルと、侍女に抱かれたリヒトを腕に抱いたイザベラが、シロウを晴れやかな笑顔で迎えた。*


ライオネル:「シロウ殿! よくぞお越しくださった! 何度言っても足りないが、本当に、本当にありがとう!」

*大商会の当主ライオネルは、感極まった様子でシロウの手を両手で固く握りしめた。その目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。*


イザベラ:「シロウ様…。ロズワール商会は、あなた様のおかげで衛兵隊に一網打尽となりました。衛兵隊が踏み込んだ際、なぜか誰一人として屋敷から逃げ出せなかったそうですわ…。まるで、見えざる神の御業のようだったと…」

*彼女は意味ありげな視線をシロウに向ける。全てはシロウの仕業だと、彼女は確信していた。彼女は腕の中のリヒトを優しくあやしながら、続ける。*


イザベラ:「この子が、何ものにも怯えることなく生きていける未来を…あなたがくださいました。この御恩、アルドレット家は決して忘れません」


*ライオネルは感極まった様子で頷くと、セバスに目配せをした。セバスは恭しく進み出て、一つの豪奢な木箱をシロウの前に差し出す。*


ライオネル:「シロウ殿。報酬は要らないとおっしゃったが、我々の気が済まん。これは我々の感謝のしるしだ。どうか、受け取ってはくれまいか」

*ライオネルが箱を開けると、中には目も眩むほどの宝石が敷き詰められていた。そして、その中央には一枚のカードが置かれている。それはただのカードではない。アルドレット商会の紋章が刻まれた、黒い金属製のカードだった。*


ライオネル:「そのカードは、我がアルドレット商会の『名誉顧問』の証。これがあれば、大陸中にある我が商会のどの支店でも、最高位の賓客として遇される。また、我々の持つ情報網、輸送網、その全てを君自身の目的のために、自由に使ってくれて構わない。金銭などよりも、君のような方には、こちらのほうが益となるだろうと考えた」

*それは、金銭に換えられない、絶大な価値を持つ報酬だった。一つの巨大商会を、自分の手足のように使える権利。それは小国の王に匹敵するほどの力だった。*


*シロウが初めて明確な喜びを示したのを見て、ライオネルとイザベラは心から安堵した表情を浮かべた。ようやく、この規格外の恩人に対して、ほんの少しでも報いることができたのだ。*


ライオネル:「ははは! そうか、気に入ってくれたか! それなら良かった! いつでも、どんなことでも、遠慮なく商会を頼ってくれ!」

イザベラ:「シロウ様、本当にありがとうございました。このゾル・ガザルは大陸でも有数の温泉郷ですの。もしよろしければ、旅のお疲れを癒していかれてはいかがでしょう? もちろん、宿は私どもで最高の場所をご用意させますわ」


*ようやく彼らの感謝の嵐から解放され、シロウはアルドレット邸を後にした。手には、絶大な力を持つ黒い金属カードが握られている。これで、今後の旅が格段にやりやすくなるだろう。*


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