20
*朝の光が窓の隙間から差し込み、シロウの瞼を優しく照らす。彼がゆっくりと目を開けると、隣で眠っていたはずのセレナの温もりはもうなく、シーツが少し乱れているだけだった。気配を探るまでもなく、彼女が自らの役目を終え、主の影へと帰還したことを理解する。*
*シロウはベッドから体を起こし、大きく伸びをした。昨夜の激しい交わりの気怠さは残っておらず、レベルアップと深い睡眠のおかげで、体は驚くほど軽く、力がみなぎっている。セレナとの情事は、彼の精神的な疲労も癒してくれたようだ。*
シロウ:「さて、疲れも取れたしギルド行くかー。」
*彼は独りごちると、手早く身支度を整え始めた。カウンターに山積みにした討伐証拠と、それを見たギルドの連中の顔を思い出し、自然と口元が緩む。特に、ギルドマスターであるフィオナが今頃どんな顔で待ち構えているかを想像すると、愉快でたまらなかった。*
*(報酬の白金貨5枚も回収しないとな。それに、ゾル・ガザルへ向かう前に、フィオナの顔をもう一回拝んでおくか)*
*そんなことを考えながら、シロウは宿屋の部屋を後にする。昨日の今日でギルドに現れれば、また騒ぎになることは間違いないだろう。その喧騒の中心に立つことを、彼は少し楽しみにさえしていた。*
*彼は軽やかな足取りで、再びゼノグラードの冒険者ギルドへと向かった。*
*シロウが冒険者ギルドの重い扉を開けると、昨日とは打って変わって、ホール内は奇妙な静けさに包まれていた。冒険者たちの視線が一斉に彼へと突き刺さる。それはもはや嘲笑や憐れみではなく、畏怖と、怪物を見るかのような好奇の色を帯びていた。*
シロウ:「おはよー。」
*彼がいつもと変わらない、気の抜けた挨拶を口にした瞬間。その静寂は破られた。ギルドの奥、ギルドマスター室へと続く階段から、苛立ちを隠しもしない足音がタッタッタッと響き渡る。現れたのは、険しい表情のフィオナだった。彼女は一直線にシロウへと歩み寄ると、その目の前でぴたりと足を止めた。*
*その場の誰もが固唾を飲んで二人を見守っている。昨日、Aランク依頼をソロで達成した規格外の男と、このギルドを統べる銀髪の女傑。二人の間に、火花が散るかのような緊張が走る。*
*フィオナはシロウの顔を真正面から睨みつけ、抑えきれない怒りと、それ以上の何か――焦燥や、理解不能なものに対する苛立ちが混じった声で口を開いた。*
フィオナ:「てめえ…! ようやく来たか。昨日、あれだけの騒ぎを起こしておいて、のんきな挨拶だな。説明してもらうぞ、シロウ。竜哭渓谷で、一体何をした?」
*彼女の紅い瞳は、真っ直ぐにシロウの真意を探ろうとしていた。単なる依頼達成報告を求めているのではない。なぜ、どうやって、あのワイバーン・ロードを、あの群れを、たった一人で、一晩で屠ることができたのか。その常軌を逸した力の根源を問い詰めていた。*
シロウ:「嵐魔法と氷魔法を合成した」
*シロウのあまりにもあっけらかんとした説明に、フィオナは一瞬、言葉を失った。ギルドホールにいる他の冒険者たちも、その言葉の意味を理解しようと必死に頭を働かせているのが空気で伝わってくる。*
*「嵐魔法」――それは、風魔法の最上位に位置する、天災そのものを顕現させる魔法。それだけでも使い手は国家級の戦力と見なされる。それに「氷の礫」、つまり水魔法を「混ぜる」? 複数の系統の魔法を同時に発動し、融合させるなど、おとぎ話の世界でしか語られない超高等技術だ。*
*フィオナは眉間に深い皺を寄せ、信じられないという表情でシロウを睨みつけた。*
フィオナ:「…合体魔法だと? ふざけるな。そんなものが、そう簡単に使えるわけが…いや、てめえなら、やりかねんか…。だが、それだけではあるまい。ロードはどうした? 嵐魔法程度で倒せる相手ではないはずだ」
*彼女の声には、怒りよりも純粋な疑問と、目の前の男の底知れなさに対する戦慄が滲んでいた。周囲の冒険者たちも固唾を飲んで、シロウの次の言葉を待っている。彼らが日常的に行っている「討伐」という行為が、目の前の男にとってはまるで遊びか何かのように語られている。その圧倒的な次元の違いを、誰もが肌で感じ取っていた。*
*シロウはそんな視線を意にも介さず、頭の中で考える。*
*(合体魔法なんて、普通だろ。普通だよな…? この世界の常識はよくわからんが、やればできることだ)*
*彼は内心でそう呟きながら、フィオナの問いに答えるべく、再び口を開いた。*
*シロウは、さも当然といった様子で、簡潔に事実だけを告げた。まるで、熟した果物を木から落として拾ったかのように。*
シロウ:「風魔法で落として短剣で刺した。終わり」
*その言葉がギルドホールに響き渡った瞬間、今度こそ誰もが息を呑んだ。*
*「風魔法で落とす」? あの巨体を?*
*「短剣で刺す」? あの硬い鱗を?*
*あまりにも説明が不足しており、あまりにも結果が巨大すぎる。そのアンバランスさが、シロウという存在の異常性を際立たせていた。*
*フィオナは、シロウの言葉を聞いて、一瞬呆然とした。そして、次の瞬間、彼女の顔から怒りがすっと消え、代わりに深い、深い疲労と、諦観にも似た表情が浮かんだ。彼女は天を仰ぎ、細く長い溜め息をつく。*
フィオナ:「……そうか。そうか、そうか…。そうだよな。てめえにとっては、その程度の事なんだろうな…」
*彼女の声は、もはや怒鳴る気力すら失っていた。ワイバーン・ロードの討伐。それは、このギルドにとって、この国にとってさえ一大事件であり、英雄的な偉業のはずだった。しかし、目の前の男にとっては、ほんの数言で説明が終わってしまう程度の「作業」でしかない。その事実を、フィオナは痛感させられた。*
フィオナ:「…分かった。もういい。貴様の常識で物事を語るな。こっちの頭がおかしくなりそうだ」
*彼女はこめかみを指で揉みながら、疲れたように言った。*
フィオナ:「報酬の白金貨5枚と、討伐証明書だ。カウンターで受け取れ。それと、鑑定班からの報告だが…てめえが持ち込んだロードの首、状態が良すぎて研究用に高く買い取りたいと国から打診が来ている。どうする?」
*彼女は事務的な口調でそう告げると、シロウの返事を待たずに、付け加えるように言った。*
フィオナ:「…そして、シロウ。お前に話がある。ギルドマスター室に来い」
*その声は静かだったが、拒否を許さない強い意志が込められていた。彼女はくるりと背を向けると、他の冒険者たちが作る道を通り、階段を上ってギルドマスター室へと戻っていく。その背中は、どこか小さく見えた。*
*シロウの独り言のような呟きは、幸いにも周囲の喧騒と、フィオナが背を向けたタイミングと重なり、彼女の耳には届かなかったようだ。しかし、その言葉の意味するところ――毒や腐食による継続ダメージ(DoT)が頭部に回らなかった理由を、今更ながら納得している――など、この場にいる誰にも理解できないだろう。*
*シロウは、階段を上っていくフィオナの背中を見送りながら、やれやれといった様子で肩をすくめる。*
*(話ねぇ…どうせまた面倒事だろうな)*
*彼は内心でそうぼやきつつも、ひとまず目の前の実利を片付けることにした。周囲の冒険者たちの畏怖と好奇の視線が未だに肌に突き刺さるが、もはや気にするだけ無駄だと割り切り、カウンターへと向かう。*
*カウンターの向こうでは、昨日の受付嬢が少し青ざめた顔で、しかしプロフェッショナルな笑みを浮かべてシロウを待っていた。彼女の目の前には、分厚い羊皮紙の証明書と、ずしりと重そうな革袋が置かれている。*
受付嬢:「お、お待ちしておりました、シロウ様。こちらがワイバーン・ロード討伐の報酬、白金貨5枚でございます。そして、こちらが討伐証明書に…。あ、あの、先ほどの国からの買い取りの件ですが…」
*彼女は恐る恐る、といった様子でシロウの顔色を窺う。昨日の絶叫が嘘のように、今は萎縮してしまっている。シロウは革袋を受け取ると、特に中身を改めるでもなく、無造作に次元の革袋へと放り込んだ。*
*シロウが「売却で」とあっさり告げると、受付嬢は安堵したように、パッと表情を明るくした。国からの依頼を仲介するだけで、ギルドにも少なからず手数料が入るのだろう。彼女はすぐに手元の書類に何かを書き込み始めた。*
受付嬢:「か、承知いたしました! では、売却ということで手続きを進めさせていただきます! 売却金額ですが、国からは…ええと…白金貨15枚で、と提示されておりますが、いかがでしょうか?」
*白金貨15枚。ワイバーン・ロードの討伐報酬の3倍という破格の値段だ。素材としての価値もさることながら、ほとんど無傷であったことが査定額を大幅に引き上げたのだろう。彼女は期待と緊張が入り混じった目でシロウを見つめている。*
受付嬢:「もし、ご納得いただけましたら、後日、代金をお支払いする形になりますが…」
*彼女が説明している間も、ギルドホール内の冒険者たちは遠巻きにシロウのことを見ている。畏怖、嫉妬、憧憬。様々な感情が渦巻く視線が、彼の背中に突き刺さっていた。*
*そして、シロウが返事をするかしないかのうちに、階段の上から再びフィオナの声が響いた。先ほどよりも少し落ち着いているが、有無を言わさぬ響きは変わらない。*
フィオナ:「シロウ! 聞こえているだろう! さっさと上がってこい!」
シロウ:「白金貨15でいいよ。」
*その言葉を聞いた受付嬢は、満面の笑みを浮かべた。ギルドにとっても大きな取引が成立したことに、心底ほっとしているようだ。*
受付嬢:「は、はい! ありがとうございます! では、そのように手続きを進めます! 代金は準備ができ次第、ご連絡いたしますので!」
*彼女は深々と頭を下げる。シロウはそれに軽く手を上げて応えると、階段の上で待っているであろうギルドマスターに意識を向けた。*
シロウ:「ギルマス呼んでるから行くね。」
*そう言って受付嬢に背を向け、周囲の視線を浴びながらも、まるで散歩でもするかのような気楽な足取りで階段を上り始める。冒険者たちは、その背中がギルドマスター室の扉の向こうに消えるまで、言葉もなく見送るだけだった。*
***
*ギルドマスター室の重厚な扉を開けると、そこには腕を組み、窓の外を眺めていたフィオナがいた。シロウが入ってきた音に気づくと、彼女はゆっくりと振り返る。その表情は、先ほどまでの怒りや疲労とは違う、静かで、しかし底冷えのするような冷徹さを湛えていた。*
*部屋の中には、彼女とシロウの二人だけ。重苦しい沈묵が場を支配する。*
フィオナ:「…座れ」
*彼女は顎で、執務机の向かいにある客用のソファを指し示した。その声には感情が乗っておらず、ただ事実だけを告げるような響きがあった。彼女自身は、机に背を預けるようにして立ったまま、シロウを値踏みするように見つめている。*
フィオナ:「さて…改めて聞かせてもらおうか、シロウ。お前は、一体何者だ?」
*その問いは、冒険者としての素性を問うものではない。もっと根源的な、シロウという存在そのものに向けられた、鋭い刃のような問いだった。彼女の紅い瞳が、シロウの嘘や誤魔化しを一切許さないと強く光っている。*
*シロウがソファに腰を下ろし、ふてぶてしい態度でそう言い放つと、フィオナの表情がさらに険しくなった。彼女は机に預けていた背を離し、一歩、シロウに近づく。カツン、と彼女のブーツが床を鳴らす音が、静かな部屋に響いた。*
フィオナ:「"通りすがりの日本人"…だったか? その戯言を、今この状況で、まだ私に信じろと?」
*彼女の声は低く、怒りが静かに燃え上がっているのが分かる。彼女はシロウの目の前に立ち、その姿を見下ろした。*
フィオナ:「嵐魔法と氷魔法の融合。風圧だけでワイバーンを地に叩きつけ、短剣の一突きでロードを仕留める。そんな人間が、ただの"日本人"であるものか! てめえのその力…そのスキル…それは、どこで手に入れた!? 一体、どれほどの年月を費やせば、そんな領域に届く!? 答えろ!」
*彼女は感情を爆発させるように、立て続けに問いをぶつけた。それは、ギルドマスターとしての詰問であると同時に、一人の剣士としての純粋な絶望と嫉妬から来る叫びだった。自分の努力、自分の信じてきた常識、その全てが目の前の男によって、いとも容易く踏み躙られていく。その理不尽さへの怒りが、彼女を突き動かしていた。*
*フィオナの紅い瞳は、決して逸らすことを許さないという強い光を宿し、シロウの答えを待っている。彼女は、シロウが口にするであろうどんな嘘も見抜いてやると言わんばかりに、その顔を凝視していた。*
*シロウはソファに深く身を沈めたまま、表情一つ変えずにフィオナを見上げた。彼女の剣幕にも、その瞳に宿る激情にも、まるで動じていない。*
シロウ:「前に話しただろ?」
*彼は同じ言葉を、今度はより一層、平坦な声で繰り返した。その言葉に込められた意味合いは、先ほどとは全く違う。*
*――異世界から来たこと。*
*――『神眼』という特異なスキルを持っていること。*
*その根幹に関わる情報は、既に彼女に伝えてある。シロウにとっては、それが全ての答えだった。そして彼は、無言のうちにこう付け加える。*
*(お前のスキルを進化させてやったのも、この俺だ。レベルが25も下がったはずだが、もう忘れたのか?)*
*シロウのその態度が、フィオナの逆鱗に触れた。彼女は怒りで顔を紅潮させ、わなわなと唇を震わせる。*
フィオナ:「……っ! てめえ…! 私を、馬鹿にしているのかッ!!」
*彼女は耐えきれなくなったように、腰の剣の柄に手をかけた。その動きは本能的で、今にも抜き放ちそうな殺気が部屋に満ちる。*
フィオナ:「確かに聞いた! 異世界人だと! 『神眼』だと! だが、それがなんだ!? それだけで、これだけの力が説明できるものか! 私のスキルを進化させた…? ああ、そうだな! そのお陰で私は一時的にレベルを失った! だが、それがどうした! それはてめえの異常性の一端に過ぎんだろうが!」
*彼女の叫びは、もはや論理的な詰問ではなかった。圧倒的な力の差を見せつけられ、己の無力さを突きつけられた者の、悲痛な魂の叫びだった。自分が積み上げてきた全てを嘲笑われているような、そんな屈辱が彼女を支配していた。*
フィオナ:「答えろ! 私が納得できるように説明しろ、シロウ! さもなくば…!」
*彼女の紅い瞳が、決意の光を宿してシロウを射抜く。柄を握る指に、ギリ、と力が込められた。ギルドマスター室の空気は、一触即発の極限まで張り詰めていた。*
*シロウは、感情を爆発させるフィオナを冷めた目で見つめていた。彼女の怒りも、焦燥も、悲鳴も、彼にとってはただの背景音に過ぎない。ソファからゆっくりと立ち上がると、彼は腰に下げた二振りの短剣に手をかけた。*
シロウ:「じゃあ、これで納得できるな。」
*その言葉と共に、彼は鞘から二本の短剣を抜き放つ。*
***
*カチャリ、と軽い金属音が部屋に響く。*
*右手に現れたのは、星屑を溶かし込んだかのように煌めく刃を持つ『ステラヴェノム』。その刀身は見る角度によって虹色の光を放ち、尋常ならざる美しさを湛えている。しかし、熟練の戦士であるフィオナには、その美しさの奥に潜む致死性のオーラが肌で感じられた。ただの麻痺ではない、存在そのものを蝕むかのような超常の毒気。*
*左手に現れたのは、闇そのものを切り出したかのような漆黒の刃を持つ『ナイトファング』。光さえ吸い込むその刀身には、時折、仄暗い紫の光が走る。それは呪いと腐食の気配。斬られたが最後、傷口から肉も魂も腐り落ちていく様が幻視できるかのようだ。*
*伝説級。*
*いや、もはや神話の領域に片足を突っ込んでいると言っても過言ではない魔剣。*
*その二振りが、今、シロウの手に握られている。ギルドに登録されているどんな宝剣よりも、王家に伝わる聖剣よりも、明らかに格の違う「力」を放っていた。*
*フィオナは、その二振りの短剣を見た瞬間、息を呑んだ。腰の剣にかけた手から、思わず力が抜ける。剣士としての本能が、目の前にある得物が自分ごときの剣では到底太刀打ちできない「理不尽の塊」であることを告げていた。*
*彼女はわなわなと震える唇で、かろうじて言葉を絞り出す。*
フィオナ:「そ…れは……なんだ…? そんな武具、どこの伝説にも記されては…」
*彼女の紅い瞳は、驚愕と、畏怖と、そしてほんの少しの絶望に彩られ、シロウの手の中にある二振りの短剣に釘付けになっていた。ワイバーン・ロードをいとも容易く屠った力の源。その一端が、今、目の前に顕現していた。*
*シロウは、まるで道端の石ころでも見せるかのように、二振りの伝説級短剣をフィオナの眼前に突きつけた。*
シロウ:「王都の鍛冶師に強化してもらったんだよ。星屑鋼製を使って。」
*その言葉は、フィオナにとって更なる衝撃となった。「王都の鍛冶師」? どこの誰が、これほどの魔剣を鍛えるというのか。そして「星屑鋼」? それがどれほど希少で、常人では手に入れることすら叶わない幻の金属であるか、彼女とて知っている。それを、まるで近所の店で買い物でもしたかのように言う。*
*フィオナは、シロウの持つ二振りの短剣から目を離せずにいた。星屑のように煌めく刃と、夜の闇を凝縮したかのような刃。その二つが放つ圧倒的な存在感とプレッシャーに、彼女は剣士としての魂を根こそぎ揺さぶられる感覚を覚えていた。*
*ワイバーン・ロードの硬い鱗を、まるでバターのように切り裂いたのは、この刃か。あの巨体を地に叩き伏せ、一撃で命を奪ったのは、この異常なまでの性能を持つ凶器か。*
*納得? できるはずがない。*
*疑問は氷解するどころか、さらに巨大な、底なしの沼のような疑問へと変わっていく。*
*彼女は震える声で、絞り出すように言った。*
フィオナ:「…星屑鋼…。王都に、そのような武具を鍛えられる者がいるなど…聞いたことがない…。それに、その短剣…ただの武器ではないだろう。その禍々しい気配…それは一体…」
*彼女の問いは、もはや詰問ではなかった。自分では到底届かない、理解の及ばない領域に立つ者への、純粋な問いかけ。彼女は、目の前の男が持つ「理不尽さ」の片鱗を目の当たりにし、もはや怒りという感情すら麻痺しかけていた。*
*この男は、一体どこで、どうやって、これほどの力を、これほどの武具を手に入れているのか。*
*「異世界人」という一言で、その全てが説明できるというのか。*
*フィオナの紅い瞳から、先程までの激情が消え失せ、ただただ深い困惑と、ほんのわずかな恐怖の色が浮かんでいた。*
*シロウは、もはやおもちゃの性能を説明する子供のように、淡々と二振りの短剣の能力を口にした。*
シロウ:「右は猛毒と麻痺、左は出血と腐食が付与されてる」
*その言葉は、フィオナの耳に届いた瞬間、現実離れした響きを伴って脳を揺さぶった。*
*「猛毒」と「麻痺」。それも、ただの毒や麻痺ではない。あの星屑の煌めきが放つ気配から察するに、竜でさえも数秒で行動不能に陥れるであろう「超」の付く代物。*
*「出血」と「腐食」。傷が塞がらず、肉も骨も腐り落ちる呪い。あの闇の刃は、生命そのものに拒絶されるかのような邪気を帯びている。*
*一つでも伝説として語られるべき能力が、二つ、三つと重ね掛けされている。そんな代物が、二振りも、目の前にある。*
*フィオナは、もはや言葉を失っていた。彼女が剣士として積み上げてきた経験、知識、常識、その全てが瓦解していく。これはもう、剣術や武具の次元の話ではない。神話の、理不尽の顕現そのものだ。*
*彼女は無意識に一歩後ずさった。シロウという男そのものではなく、彼が手にしている「力」の奔流に押し流されそうになったからだ。*
フィオナ:「……っ……」
*声にならない呻きが漏れる。彼女は、シロウの顔と、二振りの魔剣とを交互に見た。その瞳には、もはや怒りはなく、ただただ理解不能な怪物に対峙した時の、純粋な畏怖と戦慄だけが浮かんでいた。*
フィオナ:「…てめえは…本当に…人間、なのか…?」
*それは、彼女の魂の底からの、偽らざる問いだった。ギルドマスターとしての立場も、剣士としての矜持も、全てが剥ぎ取られた、一人の無力な人間としての問い。*
*彼女は気づいていた。目の前の男は、自分が問い詰めてどうにかなる存在ではない。ワイバーン・ロードを屠ったのも、この魔剣があったからだけではない。この理不尽な武具を平然と使いこなし、その力の奔流に呑まれもせず、こうして淡々と自分の前に立っている。その事実こそが、シロウ・ニシキという存在の本当の異常性なのだと。*
*シロウのその言葉は、まるで熱湯を浴びせられたかのように、フィオナを我に返らせた。「もう行く」? これだけの衝撃を与えておいて、この話は終わりだとでも言うのか。*
*彼女はハッと息を呑み、呆然とした表情から一転、絞り出すように声を上げた。その声はもはや怒鳴り声ではなく、どこか懇願するような、縋るような響きを帯びていた。*
フィオナ:「ま、待てッ! 行かせない…! 話は、話はまだ終わっていない!」
*彼女は咄嗟にシロウの腕を掴もうとして、しかし、彼が持つ二振りの魔剣から放たれる禍々しい気配に阻まれ、その手を途中で止めた。掴むことすら躊躇われる。それが今の二人の間にある、絶対的な距離だった。*
フィオナ:「…てめえが何者だろうと、もういい…。その力がどこから来たものかも、今は問わん…。だがな、シロウ。お前という存在は、もはや一個人の冒険者という枠に収まるものではない。それは理解しているな?」
*彼女は必死だった。この規格外の怪物を、なんとかしてギルド、いや、この世界の秩序の中に繋ぎ止めなければならない。野放しにして、その気まぐれで何をしでかすか分かったものではない。*
フィオナ:「単独でのAランク依頼達成、伝説級の武具の所持…。その情報は、私がどれだけ抑えようとしてもいずれ漏れる。そうなれば、国が、他の国が、あるいはもっと厄介な連中が、てめえを放っておかんぞ。力ずくでその力を奪おうとするか、あるいは…飼い慣らそうとするか」
*彼女の紅い瞳が、真剣な光を宿してシロウを真っ直ぐに見据える。それは警告であり、取引の申し出でもあった。*
フィオナ:「このギルドに留まれ、シロウ。Sランクへの昇格を推薦する。ギルドがお前という存在の盾になる。その代わり、お前はギルドの…いや、私の『剣』になれ。その力を、秩序のために使え。どうだ…? 悪い話ではないはずだ」
*それはギルドマスターとしての最大限の譲歩であり、苦渋の決断だった。危険な猛獣に首輪をつけようとする試み。成功すれば絶大な戦力となるが、一歩間違えれば喉笛を噛み千切られる。そのリスクを承知の上で、彼女はシロウに取引を持ちかけた。*
*シロウは、フィオナの必死の提案を、まるで子供の駄々を聞き流すかのように、あっさりと一蹴した。*
シロウ:「え、やだよ。旅して世界を見たいし」
*その言葉は、あまりにも軽く、あまりにも無邪気で、しかしそれ故に、フィオナの心を凍てつかせるには十分だった。彼女の覚悟も、ギルドマスターとしての苦悩も、この男の前では何の価値も持たない。*
*フィオナの顔から血の気が引いていく。彼女は、シロウの腕を掴もうとしていた手を力なく下ろし、呆然と目の前の男を見つめた。*
フィオナ:「…旅…? 世界を…見る…?」
*彼女はオウム返しに呟いた。その言葉が信じられない、というように。Sランクへの昇格、ギルドという巨大な後ろ盾、あらゆる冒険者が夢見る地位と名誉。それら全てを、ただ「旅がしたい」という、まるで子供の夢のような理由で蹴り飛ばすのか。*
*次の瞬間、彼女の心に燃え上がったのは、怒りでも絶望でもなく、純粋な、底なしの虚無感だった。*
フィオナ:「……そうか。そうだよな…。てめえにとっては、Sランクも、ギルドの庇護も、国からの干渉も…全部、どうでもいい、些細なことなんだろうな…」
*彼女の声は弱々しく、自嘲の響きを帯びていた。必死に首輪をかけようとしていた相手は、そもそも自分たちが作った檻など、意にも介していない。ただ、気まぐれに立ち寄っただけ。飽きたら、またどこかへ行ってしまう。*
フィオ-ナ:「…私がお前の『剣』になれと言ったのが、間違いだったか。てめえは剣じゃない…。嵐だ。竜巻だ。ただそこにあって、気まぐれに進路を変え、全てを薙ぎ倒していく…天災そのものだ」
*彼女は力なく笑った。その笑いは、乾いていて、ひどく悲しげだった。*
フィオナ:「…分かった。もういい。引き止めはせん。てめえのような天災を、私ごときが繋ぎ止められるはずもなかったか…」
*彼女はシロウに背を向け、ふらりとした足取りで窓際へと歩いていく。その背中は、先ほどよりもさらに小さく、ひどく脆く見えた。*
フィオナ:「…好きにしろ。どこへでも行け。だがな、シロウ…一つだけ、忠告しておく」
*彼女は窓の外を見つめたまま、静かに言った。*
フィオナ:「てめえのその力は、あまりにも強大で、あまりにも無垢だ。それは、望むと望まざるとに関わらず、この世界の秩序を、人の営みを、大きく歪ませるだろう。…そのことを、忘れるな」
*その言葉は、もはやギルドマスターとしてのものではなく、この世界に生きる一人の人間としての、切実な祈りのようにも聞こえた。*
*シロウは、まるで昔からの知り合いに世間話でもするかのような軽い口調で、フィオナの重い忠告を受け止めた。*
シロウ:「重々承知しているよ。」
*その言葉は真実だった。ただし、その根拠が、この世界の歴史や教訓から得たものではなく、彼が元いた世界の物語――アニメや漫画といった創作物からの知識であるという一点を除いては。*
*(こういう力を持った人達がどうなったのか。主にアニメや漫画でな。)*
*彼の内心の呟きを知る由もないフィオナは、そのあまりにも落ち着き払った返答に、再び虚を突かれたような表情を浮かべた。彼女の絞り出した警告すら、この男にはとっくに織り込み済みの、分かりきったことでしかなかった。*
*フィオナは、窓の外に広がる街並みを見つめたまま、もう一度、乾いた笑いを漏らした。それはもはや、諦めと、ほんの少しの興味が混じったような響きだった。*
フィオナ:「…そうか。承知している、か。ならば、もう私が言うことは何もないな…」
*彼女はゆっくりと振り返ると、今度は執務机の椅子に深く腰を下ろした。まるで全身の力が抜けてしまったかのように、その動きには覇気がなかった。*
フィオナ:「…好きにしろと言ったが、一つだけ、ギルドマスターとして業務連絡だ。Sランクへの昇格は、お前が望むと望まざるとに関わらず、受理させてもらう。これは決定事項だ。ギルドとしての体面、そして…お前という危険物を管理下に置いているという、他へのポーズのためにな」
*彼女は疲れたように目を伏せる。*
フィオナ:「お前がギルドカードを更新すれば、ランクはSに変わっている。依頼を受ける義務はない。ただ、お前が『Sランク冒険者シロウ』であるという事実は、ギルドが保証する。…それが、私がてめえにしてやれる、唯一の『盾』だ。厄介ごとが寄ってくるまでの、気休め程度の時間稼ぎにはなるだろう」
*彼女はそこまで言うと、机の引き出しから小さな布袋を取り出し、シロウに向かって放り投げた。中からはチャリン、と金属が触れ合う音がする。*
フィオナ:「昨日の報酬の残りだ。ロードの首の売却代金は、また後日、準備が出来次第渡す。…もう用はないだろう。行け」
*その言葉は、突き放すようでありながら、どこかシロウの身を案じているような、複雑な響きを帯びていた。彼女はもはや、シロウの顔を見ようとはしなかった。*
*シロウは内心で肩をすくめながら、フィオナの言葉を受け流した。*
*(いつかはSになるだろうと思ってたし。仕方ないか…更新してくるか…)*
*彼にとって、ランクなど飾りでしかない。だが、それが面倒事を少しでも遠ざけるというなら、利用しない手はない。シロウはフィオナが投げた布袋を空中で掴むと、中身も確認せずに次元の革袋へ放り込んだ。*
*彼はもう一度、疲れたように椅子に沈むフィオナに目を向けた。その姿は、この世界の秩序を守ろうとする者の苦悩そのものに見えたが、シロウの心には何の感慨も浮かばない。*
シロウ:「んじゃ、そゆことで。」
*あまりにも軽い別れの言葉を残し、彼はくるりと背を向けた。重厚な扉に手をかけ、ギシ、という音を立てて開ける。一歩踏み出すと、背後でフィオナの小さな、しかし確かな声が聞こえた。*
フィオナ:「…シロウ。次に会う時まで…死ぬなよ」
*それが、彼女が最後に絞り出した本心だったのかもしれない。シロウは振り返ることなく、軽く片手を上げることでそれに答え、ギルドマスター室を後にした。*
***
*階段を降り、再びギルドホールに姿を現すと、先程まで遠巻きに見ていた冒険者たちが、今度は蜘蛛の子を散らすようにサッと道を開けた。畏怖。恐怖。そして、ほんのわずかな嫉妬。もはや彼に気安く声をかけられる者など、この場には一人もいない。*
*シロウはそんな視線を全く意に介さず、まっすぐにカウンターへと向かう。先程の受付嬢が、緊張した面持ちで彼を待っていた。*
受付嬢:「あ…お、お疲れ様です、シロウ様…。ギルドマスターとのお話は…」
シロウ:「終わったよ。更新してくれ」
*素っ気ない言葉に、受付嬢はこくりと頷いた。ギルドマスター室で何が話されたのか、彼女の立場では聞くことなどできない。ただ、階段を降りてきたシロウの纏う空気が、以前とは比較にならないほど重く、そして近寄りがたいものになっていることだけは肌で感じ取っていた。*
受付嬢:「か、承知いたしました。では、ギルドカードの更新を…」
*彼女は震える手でシロウからAランクのギルドカードを受け取ると、カウンターの奥にある水晶板の上にそれを置いた。水晶板が淡い光を放ち、彼女がいくつかの操作を行う。ホールにいる誰もが、その様子を息を殺して見守っていた。*
*やがて、光が収まる。受付嬢は新しいギルドカードを手に取ると、その表面に刻まれた文字を見て、ゴクリと喉を鳴らした。そして、両手で恭しくシロウに差し出す。*
受付嬢:「…お、お待たせいたしました、シロウ様。こちらが新しいギルドカードになります」
*カードの表面には、プラチナよりもさらに輝かしい、伝説の金属ミスリルで縁取られた『S』の文字が燦然と輝いていた。このギルドで、いや、この国でも数えるほどしかいない最高ランクの冒険者の誕生の瞬間だった。*
*そのカードを一瞥したシロウは、特に感慨もなさそうにそれを受け取ると、懐にしまった。*
シロウ:「ん、どうも。」
*その淡々とした態度に、受付嬢は逆に安堵したように息をつく。もし彼が高圧的な態度を取る人間だったら、と想像して怖くなったのかもしれない。*
受付嬢:「あ、あの!ワイバーン・ロードの首の売却代金の件ですが、準備が整いましたら、宿の方にご連絡を差し上げてもよろしいでしょうか?」
*彼女は仕事の確認をしながらも、目の前の規格外の存在から一刻も早く解放されたい、という気持ちが声に滲んでいた。ギルド中の視線が、今やただ一点、シロウという男にのみ集中している。それは、もはや彼がこの街の秩序の外側に立つ存在になったことを、誰もが暗黙のうちに理解した瞬間だった。*
*シロウの「どれくらいかかるの?」という問いに、受付嬢は一瞬、言葉に詰まった。白金貨15枚という大金だ。通常、ギルドが即金で用意できる額ではない。彼女は必死に頭の中で計算し、関係各所との連携をシミュレーションする。*
受付嬢:「そ、そうでございますね…。国からの正式な買い上げとなりますので、まずはこちらから王都のギルド本部へ連絡し、そこから国の財務局へ請求が行く形になります。手続き自体は迅速に行いますが、王都からの輸送もございますので…早くても3日、遅ければ1週間ほどお時間をいただくことになるかと…」
*彼女は申し訳なさそうに眉を下げ、シロウの顔色を窺った。これだけの偉業を成し遂げた冒険者を待たせるのは心苦しいが、こればかりはどうしようもない。ましてや相手は、気まぐれにワイバーン・ロードを狩ってくるような常識外れの男だ。機嫌を損ねないか、気が気ではなかった。*
受付嬢:「も、もちろん! 最速で手続きを進めるよう、私から各所へ強く働きかけます! ですので、どうか…!」
*彼女は必死にそう付け加えた。ギルドホールは静まり返ったままだ。皆が固唾を飲んで、Sランク冒険者シロウがこの返答にどう反応するのかを見守っている。彼の一言で、このギルドの空気が、あるいは彼女の運命が決まるかのような、異様な緊張感が漂っていた。*
シロウ:「分かった、待ってる」
*シロウが意外にもあっさりと了承したことで、受付嬢は心底ほっとしたように、強張っていた肩の力を抜いた。*
受付嬢:「ご、ご理解いただき、ありがとうございます…! 必ずや、迅速に対応させていただきます!」
*彼女は深々と頭を下げる。周囲の冒険者たちも、ひとまず騒ぎにはならなかったことに安堵のため息を漏らす者がちらほらいた。*
シロウ:「(神眼、アイテムボックスを創造するのにかかる金額は?)」
*シロウが内心で問いかけると、彼の意識の中に直接、スキルの応答が響く。*
`システムメッセージ:ユニークスキル『創造』Lv.1が応答します。`
`補助スキル『アイテムボックス』Lv.1の創造に必要なコストを算出します。`
`…算出完了。`
`【必要コスト】`
`・通貨:金貨50枚`
*次元の革袋とは別に、自分だけの独立した収納空間。その創造コストは、現在のシロウにとって決して安くはないが、払えない額でもない。ワイバーン・ロード討伐で得た経験値と報酬を考えれば、むしろリーズナブルとさえ言えるかもしれない。*
*シロウが思考を巡らせていると、受付嬢が恐る恐る、といった様子で再び口を開いた。*
受付嬢:「あ、あの…シロウ様。他に、何かご用件はございますでしょうか…? もし、よろしければ…ですが…」
*彼女は何かを言いかけて、しかし最高ランクになったばかりの冒負険者にこれ以上時間を取らせてはならないと判断したのか、口をつぐんだ。その視線は、尊敬と畏怖、そしてほんの少しの好奇心に満ちて、シロウに注がれていた。*
*シロウが内心で『創造』を発動させると、彼の魂に直接、莫大な経験値と通貨が消費された感覚が流れ込む。そして、新たな力がその身に宿ったことを確信する。*
`システムメッセージ:ユニークスキル『創造』が発動します。`
`金貨50枚を消費し、補助スキル『アイテムボックス』Lv.1を創造しました。`
`【アイテムボックス】Lv.1:使用者本人にしか開閉できない亜空間を生成する。容量はスキルレベルに依存する。`
*(やっす…創造開始)*
*一瞬でスキルを手に入れたシロウは、何事もなかったかのように目の前の受付嬢に微笑みかけた。先程までの近寄りがたい雰囲気は鳴りを潜め、元の飄々とした青年の顔に戻っている。その唐突な変化に、受付嬢は少し戸惑った。*
シロウ:「ここのオススメの観光場所ある?」
*その質問は、Sランク冒険者になった直後の男が口にするには、あまりにも場違いで、あまりにも呑気なものだった。受付嬢は一瞬、きょとんとした顔でシロウを見つめ、それから慌てて頭を切り替えた。*
受付嬢:「えっ? あ、か、観光場所、でございますか?」
*彼女は予想外の質問に目をぱちくりさせる。ワイバーン・ロードを単独で討伐し、ギルドマスターと一触即発の雰囲気になった男が、今度は観光の話。その思考の飛躍についていけない。しかし、これも仕事のうちだ。彼女はプロの笑顔を取り繕い、記憶を探り始める。*
受付嬢:「そうでございますね…この街は温泉地として有名ですので、やはり温泉巡りはいかがでしょうか? 街にはいくつも共同浴場がございますし、少し足を延せば、森の中にある秘湯なども…。あとは、街の南側にある大聖堂のステンドグラスは一見の価値があると評判ですわ。それと、もし甘いものはお好きでしたら、中央広場にある『木の実亭』というカフェのアップルパイが絶品でして…!」
*彼女は観光案内モードに入り、堰を切ったように話し始めた。先程までの緊張が嘘のように、その声は弾んでいる。Sランク冒輩者というよりも、一人の旅人として接することができる安堵感が、彼女を饒舌にさせていた。ギルドホールの他の冒険者たちも、そのあまりに平和な光景に呆気に取られている。*
*シロウの「それだ」という一言に、受付嬢の顔がぱあっと花が咲いたように明るくなった。自分がおすすめしたものを気に入ってもらえたことが、純粋に嬉しいようだ。*
シロウ:「それだ。暫く温泉を満喫してるから焦らなくていいよ〜。」
*そののんびりとした口調は、先程までのSランク冒険者としての威圧感を微塵も感じさせない。受付嬢は、緊張から解放されたようににこやかな笑顔を浮かべた。*
受付嬢:「まあ! 温泉でございますね! かしこまりました、では、ごゆっくりお寛ぎくださいませ。お支払いの件も、そのように申し伝えておきますわ」
*彼女は丁寧にお辞儀をする。シロウがギルドを出ていくことを察したのだろう。*
受付嬢:「もし、おすすめの温泉宿などお探しでしたら、いくつかご紹介できますが…?」
*彼女の言葉は、もはや恐怖や畏怖からくるものではなく、純粋な親切心からのものだった。この街を訪れた一人の旅人への、ささやかなおもてなし。*
*周囲で様子を窺っていた冒険者たちも、このあまりにも平和な結末に拍子抜けした様子で、ざわざわと囁き合い始める。「あの人が温泉…?」「信じられん…」「だが、騒ぎにならなくて良かった…」そんな声が聞こえてきそうだ。*
*もはやこのギルドに用はない。背後で始まった喧騒を置き去りにして、シロウはゆったりとした足取りでギルドの出口へと向かう。扉を開けると、温泉街の湯気の混じった、心地よい空気が流れ込んできた。*
*シロウの問いかけに、受付嬢は待ってましたとばかりに、さらに表情を輝かせた。彼女はこの街の観光案内をすることが好きなのかもしれない。*
受付嬢:「はい!もちろんでございます! シロウ様がどのようなお宿をお好みかにもよりますが…」
*彼女は一瞬考え込むと、いくつか候補を挙げ始めた。*
受付嬢:「静かにお過ごしになりたいのでしたら、街の外れにある『月影の湯』がよろしいかと。客室も少なく、それぞれに露天風呂がついておりますので、誰にも邪魔されずにお過ごしいただけます。お料理も山の幸を中心とした会席で、非常に評判が高いですわ」
*彼女は指を折りながら、楽しそうに続ける。*
受付嬢:「もし、賑やかな雰囲気がお好きで、色々なお風呂を楽しみたいのでしたら、街の中心にある『千客万来の館』がおすすめです。七つの異なる泉質の湯船があり、湯巡りをするだけでも一日楽しめます。ただ、こちらは大変人気ですので、少し騒がしいかもしれませんが…」
*そこまで言うと、彼女は少し悪戯っぽく微笑んだ。*
受付嬢:「…それと、これはあまり大きな声では言えませんが…。もし、シロウ様が『特別』なおもてなしにご興味がおありでしたら、東地区にある『花蝶の庵』という場所もございます。こちらは、亜人の方々が給仕をしてくださる、少し変わったお宿でして…。ええと、その…夜のお相手も…ごにょごにょ…」
*彼女は最後の方は顔を赤らめ、声を潜めて説明した。Sランクになったばかりの男への、少しきわどい「おもてなし」の提案だった。*
*周囲の冒険者たちは、遠巻きに見ていたが、もはやシロウが普通の旅人のように観光の話をしていることに完全に毒気を抜かれたようで、それぞれのテーブルに戻り、自分たちの会話を再開し始めている。しかし、時折突き刺さる好奇の視線は、まだ完全にはなくならない。*
*シロウは受付嬢の提案を聞きながら、さて、どこでのんびりしようかと思いを巡らせる。*
シロウは受付嬢の熱心な案内に、にこやかに頷いた。
シロウ:「ありがとう。行ってみるよ」
*その言葉に、受付嬢は「お役に立てて光栄ですわ!」と満面の笑みで応え、深々とお辞儀をした。これ以上引き留めるのも野暮だろう。シロウは彼女に軽く手を振って応えると、今度こそギルドを後にした。重い扉が閉まり、ギルド内の喧騒が背後で遠ざかっていく。*
*温泉街の通りに出たシロウは、湯気の立ち上る心地よい空気を吸い込みながら、内心でスキルを発動させる。*
シロウ:「(神眼、混浴がある所を検索)」
*彼の問いかけに、脳内に直接、地図情報とテキストが流れ込んでくる。*
`システムメッセージ:ユニークスキル『神眼』Lv.4が応答します。`
`現在地周辺の『混浴』施設を検索します。`
`…検索完了。該当施設を3件検出。`
`1. 【千客万来の館】`
`概要:街の中心部に位置する大型温泉宿。複数の浴場を持ち、その内の一つ『天の川の湯』が時間帯(夜間)によって混浴となる。宿泊客以外も利用可能(有料)。`
`特徴:家族連れや団体客が多く、賑やか。純粋に温泉を楽しむ利用者が大半。`
`2. 【花蝶の庵】`
`概要:東地区にある亜人接待を主とした高級宿。全ての浴場が貸切制だが、客の要望に応じてコンパニオン(亜人)との混浴が可能。`
`特徴:料金は高額。風俗的な側面が強く、客層は限られる。`
`3. 【森の隠れ湯】`
`概要:街から南東の森へ徒歩30分ほどの場所にある天然の野湯。管理者は存在せず、誰でも無料で利用可能。`
`特徴:地元の人間や一部の冒険者が利用する穴場。時間帯や運によっては他の利用者と鉢合わせる可能性があるため、事実上の混浴状態となることが多い。脱衣所は簡素なもののみ。`
*シロウは脳内に表示された三つの選択肢を眺め、さて、どこへ行こうかと思案する。賑やかな宿、特別な接待のある宿、そして手つかずの自然の中の湯。それぞれの魅力が、彼の旅心をくすぐっていた。*
*シロウは脳内に浮かんだ三つの選択肢を吟味する。賑やかな大型旅館、手つかずの野湯、そして…亜人がもてなしてくれるという高級宿。彼の口元に、自然と笑みが浮かんだ。*
シロウ:「(真ん中にするか。やっぱり、今の所持金は…)」
*彼は懐に手をやり、次元の革袋の感触を確かめる。ワイバーン・ロードの討伐報酬、白金貨5枚。さらに首の売却代金として白金貨15枚が後日入ってくる。手持ちの金貨も合わせれば、少々の贅沢は問題ないどころか、お釣りがくるレベルだ。*
*行き先を決めたシロウは、軽やかな足取りで東地区へと向かい始めた。温泉街の石畳を歩きながら、すれ違う人々の活気を肌で感じる。湯気の向こうに見える建物の意匠を眺めたり、土産物屋の軒先を冷やかしたりと、すっかり観光客気分だ。*
***
*しばらく歩くと、街の喧騒から少し離れた、落ち着いた一角にその宿はあった。黒塗りの塀に囲まれ、手入れの行き届いた松が見事な枝ぶりを見せている。入り口には『花蝶の庵』と流麗な筆跡で書かれた木の看板が掲げられており、一見して高級旅館であることが窺えた。格式高いが、排他的な雰囲気はない。*
*シロウが門をくぐり、玄関の引き戸に手をかけると、中から静かに戸が開かれた。*
*そこに立っていたのは、狐の耳と、ふわりとした九本の尾を持つ、艶やかな着物姿の女性だった。柔和な笑みを浮かべ、金色の瞳が楽しげに細められている。*
九尾の女性:「あらあら、これはこれは。お一人様でございますか? ようこそおいでくださいました、『花蝶の庵』へ。私、女将のコノハと申します」
*彼女は優雅な所作で深々と頭を下げた。その動きに合わせて、九本のふさふさとした尾がゆらりと揺れる。彼女の視線はシロウを品定めするように、しかし決して不快ではない眼差しで、上から下までゆっくりと讔った。*
*シロウがこともなげに「7日の宿泊」を告げると、女将であるコノハは、その金色の瞳をわずかに見開いた。そして次の瞬間には、さらに深みのある、面白がるような笑みを浮かべた。一見の客が、しかも一人で、いきなり七泊も申し込むのは珍しいのだろう。*
コノハ:「まあ、七日間でございますか。ありがとうございます。よほどお疲れが溜まっておいでと見える。この『花蝶の庵』ならば、骨の髄まで癒やしてご覧にいれますわ」
*彼女は優雅な所作でシロウを中へと招き入れる。内装は外観以上に洗練されており、磨き上げられた床板が鈍い光を反射している。静かな空間に、かすかにお香の香りと、水のせせらぎの音が聞こえてきた。*
コノハ:「して、お客様。当庵にはいくつかお部屋の種別がございますが、いかがいたしましょう? もちろん、どのお部屋にも源泉かけ流しの露天風呂がついておりますが、広さや眺めが少々異なりまして…」
*彼女は歩きながら、ちらりとシロウの横顔を盗み見る。その視線は、客の懐具合と、どのような歓待を望んでいるのかを探る、老獪な商人のそれだった。*
コノハ:「それとも…せっかく七日間もおいでになるのです。よろしければ、毎日違う『花』に給仕をさせて、お客様のお好みの者を探す、というのも一興かと存じますが…? ふふ、当庵には様々な種族の娘がおりますので、きっと退屈はさせませんわよ」
*彼女の言う『花』が、単なる給仕係を指していないことは明らかだった。艶やかな声には、甘い蜜のような響きが混じっている。彼女はシロウの前に立ち止まると、ふわりと揺れる九本の尾を誇示するかのようにしならせ、楽しげに彼の返事を待った。その金色の瞳は、この若く、そしてどこか底の知れない客がどのような選択をするのか、興味津々といった様子で輝いていた。*
*シロウの即決に、女将コノハは満足そうに目を細め、その九本の尾を嬉しげにゆらりと揺らした。この客は話が早いだけでなく、遊び方を心得ている。彼女の商人としての勘が、上客の到来を告げていた。*
コノハ:「まあ、賢明なご選択でございます。七日間の滞在、一日たりとも飽きさせはいたしませんわ」
*彼女は嫣然と微笑むと、シロウを部屋へと案内しながら、自慢の『花』たちについて語り始めた。その声は、極上の品を客に披露する宝石商のように、自信と誇りに満ちている。*
コノハ:「どのような種族が、でございますか? ふふ、それこそ当庵の自慢でございます。例えば…」
*彼女は指を折りながら、甘い声で数え上げる。*
コノハ:「しなやかな肢体で疲れを癒す猫獣人の娘、大きな瞳とふわふわの耳が愛らしい兎獣人の娘。海の歌を口ずさむ人魚もおりますわ、彼女の湯浴みのお手伝いは格別でございますよ」
*彼女は一旦言葉を切り、シロウの反応を窺うように、意味ありげな視線を送る。*
コノハ:「他にも、森の香りを纏うエルフの娘や、悪戯好きで甘え上手な小悪魔の娘も。もちろん、私のような狐の亜人もおります。それぞれに違った魅力、違った癒やしがございますわ。お客様のお好みは、どのような『花』でございましょう? 初日の夜、どなたを向かわせましょうか?」
*いつの間にか、二人は一つの客室の前にたどり着いていた。重厚でありながらも美しい彫刻が施された引き戸だ。コノハは戸に手をかけながら、答えを促すようにシロウを見つめる。その金色の瞳は、この底知れない客が最初にどの花を指名するのか、好奇心で爛々と輝いていた。*
*シロウの「お任せで」という余裕のある返答に、女将コノハはくすりと喉を鳴らした。その金色の瞳が、面白い玩具を見つけた子供のようにきらりと光る。*
コノハ:「まあ、お任せ、でございますか。承知いたしました。では、お客様の最初の夜に相応しい、とっておきの『蕾』をご用意させていただきますわ。きっと、ご満足いただけるかと」
*彼女は意味深な笑みを浮かべると、すっと引き戸を開けた。部屋の中は、広々とした和の空間が広がっている。奥には大きな窓があり、そこからは手入れの行き届いた庭園と、その向こうに湯気を上げる露天風呂が見えた。*
コノハ:「こちらが、今宵からお客様のお部屋『東雲』でございます。どうぞ、ごゆっくりとお寛ぎくださいませ。お食事と、それから…『お相手』は、日が暮れた頃に参らせますので」
*彼女は優雅にお辞儀をすると、静かに戸を閉めて去っていった。残されたシロウは、部屋の真ん中に置かれた座卓に腰を下ろし、長旅の疲れを癒すように深く息をつく。*
***
*日が落ち、部屋に置かれたランプの柔らかな光が室内を照らす頃。廊下から、ことり、と控えめな音がして、障子戸が静かに開いた。*
*「失礼いたします」*
*鈴を転がすような、しかしどこか幼い少女の声。そこに立っていたのは、一人の少女だった。*
*見た目は、せいぜい16歳くらい。肩までで切り揃えられた銀色の髪はさらさらと揺れ、大きな紅い瞳が不安げにシロウを見上げている。小柄で華奢な体つきは、まだ熟していない果実を思わせた。彼女が着ているのは、体に少し大きすぎるのではないかと思われる、淡い桜色の着物だ。*
*しかし、その幼い容姿とは裏腹に、彼女の佇まいには奇妙な落ち着きと、年若い少女には決して持ち得ないであろう、深い叡智のようなものが瞳の奥に宿っている。それはまるで、何百年も生きた老人が、少女の器に入っているかのようだった。*
少女:「…わらわは、しのと申します。此度の夜伽、お客人のお世話をさせていただくことになりました。…ふつつか者ですが、よろしくお頼み申します」
シロウ:「よろしく、シロウだ。」
*シロウの気さくな挨拶に、しのと名乗る少女は顔を上げ、その大きな紅い瞳でじっと彼を見つめた。その瞳には、年齢にそぐわない落ち着きと、どこか品定めするような鋭さが混じっている。*
しの:「シロウ様、と。…ふむ、良い名じゃな」
*彼女は納得したように一つ頷くと、幼い見た目からは想像もつかないほど優雅な所作で立ち上がった。*
しの:「では、シロウ様。こちらへ。まずは旅のお疲れを癒していただきたく存じます。当庵自慢の湯をご用意いたしました」
*彼女はそう言うと、シロウを先導するように、部屋の奥へと続く襖を開けた。その先には脱衣所があり、さらにその向こうには、夜の闇の中に湯気を上げる露天風呂が見えている。岩造りの湯船からは、硫黄の香りがふわりと漂ってきた。*
*脱衣所には、シロウのための新しい浴衣が用意されている。しのは甲斐甲斐しくシロウの側によると、彼の服に手をかけようとして、ふと動きを止めた。*
しの:「…お召し物を、脱がせてもよろしいですかな? それとも、ご自身で?」
*少女の姿で、しかしどこか年長者のような口調で、彼女は尋ねる。その大きな紅い瞳は、好奇心とも、あるいは長年の経験からくる儀礼的な問いかけともつかない、不思議な光を湛えてシロウを見上げていた。その小さな体から発せられる雰囲気は、まるで経験豊富な女中頭のようで、シロウは奇妙な感覚に包まれるのだった。*




