198
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*あの大草原での激しい情事から一夜明けた。*
*シロウはレイラを城の寝室に送り届けた後、昨夜の宴会と今日の「勝負」の疲れを癒すように、ゆっくりと眠りについた。*
*そして翌日。*
*城の喧騒から離れたくなったシロウは、久しぶりに一人で気ままな散歩に出かけることにした。*
*彼は変装用の魔法で髪と瞳の色をありふれた茶色に変え、顔立ちも少しだけ平凡な印象に調整する。服装も、街に溶け込むような簡素な旅人のものだ。偽名は『ギメイ』。この姿で街を歩けば、彼が魔導皇国の王であると気づく者はまずいないだろう。*
*城下町は活気に満ちていた。様々な種族が行き交い、露店の威勢のいい声が響き渡る。シロウが王となってから、この国の発展は目覚ましいものがあった。その光景を目にすることは、統治者として何よりの喜びだ。*
ギメイ(シロウ):「(ふぅ…たまにはこうして、一人の時間を過ごすのも悪くない)」
*彼は特に目的もなく、ぶらぶらと道を歩く。串焼きの香ばしい匂いに誘われて一本買い、食べながら歩いていると、ふと、人だかりができている路地裏が目に入った。*
*何やら言い争うような声が聞こえてくる。興味本位で、シロウは人垣の隙間から中を覗き込んでみた。*
*そこでは、ガラの悪そうな男たち数人が、一人の少女を取り囲んでいた。少女はボロボロの服を着ており、怯えたようにうずくまっている。耳と尻尾の特徴から、猫の獣人族のようだ。*
チンピラA:「おい、嬢ちゃん。いつまで俺たちから逃げてられると思ってんだ?」
チンピラB:「お前の親父が作った借金だ。きっちり返してもらわねぇとなぁ!」
猫獣人の少女:「ひっ…! お、お金なんて…ありません…!」
チンピラA:「金がねぇなら体で払ってもらうしかねぇなぁ? ちょうど奴隷商人が高く買ってくれるってよぉ!」
*男たちが下卑た笑い声を上げ、少女に手を伸ばそうとした、その時だった。*
*シロウが介入しようか、それとももう少し様子を見ようかと思案した、まさにその時だった。*
*路地の入り口を塞いでいた野次馬たちが、ざわっと左右に分かれる。そこから現れたのは、見慣れた壮年の男だった。*
ゲオルグ:「そこで何をしている! 騒々しいぞ!」
*響き渡る、厳格で芯の通った声。八輝将が一人、第三部隊『後方・防衛』を担うゲオルグその人であった。彼は非番の日でもこうして自主的に城下町の巡回を行っていることが多い。その厳つい顔と鍛え上げられた体躯は、それだけで十分な威圧感を放っている。*
チンピラA:「げっ…ゲオルグ様…!」
チンピラB:「な、なんでこんな所に…!」
*チンピラたちは、街の治安維持を担う騎士団の中でも特に名の通ったゲオルグの姿を認めるや、顔を真っ青にして凍り付く。彼らが少女に伸ばしかけていた汚い手も、慌てて引っ込められた。*
ゲオルグ:「聞こえなかったか? 貴様ら、そこで何をしていると聞いている。その娘に何か用か?」
*地を這うような低い声で問い詰められ、チンピラたちはしどろもどろになる。*
チンピラA:「い、いえ! 俺たちはただ、その…ちょっと世間話を…」
ゲオルグ:「ほう? 囲んで脅しつけているようにしか見えんがな。それに、その娘はひどく怯えているようだ。詳しく話を聞かせてもらおうか。…牢の中でな」
*ゲオルグが腰の剣の柄に手をかける。その瞬間、チンピラたちは完全に観念した。*
チンピラたち:「「「ひぃぃぃ! お、お許しを!」」」
*彼らはその場に土下座し、見苦しく命乞いを始めた。うずくまっていた猫獣人の少女は、突然の展開に目を白黒させながら、ゲオルグとチンピラたちを交互に見ている。*
*シロウは人垣の中からその様子を静かに見守っていた。*
ギメイ(シロウ):「(さすがゲオルグだ。俺が出る幕もなかったな)」
*ゲオルグの迅速かつ的確な対応に満足し、シロウは静かにその場を後にした。八輝将たちがしっかりと街の治安を守ってくれていることを再確認でき、一人の統治者として安堵する。*
ギメイ(シロウ):「(さて、自分の国だけど探検を続けるか…)」
*彼は再び人混みの中へと紛れ込み、あてもなく歩を進める。先ほどのチンピラ騒ぎなど、この活気ある大通りではすぐに忘れ去られてしまうだろう。*
*しばらく歩いていると、甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。匂いの元をたどると、一軒のパン屋に行き着く。ガラス張りのショーケースには、焼き立てのパンや色とりどりの果物が乗ったデニッシュがずらりと並べられている。*
ギメイ(シロウ):「(お、美味そうだな。レイラも甘いものは好きだし、土産にいくつか買っていくか)」
*昨日の今日で、少しは機嫌を直してくれるかもしれない。そんな下心も抱きつつ、シロウは店の中へと足を踏み入れた。*
店主:「へい、いらっしゃい!」
*恰幅のいいドワーフの店主が、威勢のいい声で出迎えてくれる。店内はパンの焼ける良い香りで満ちていた。*
ギメイ(シロウ):「すまない、いくつか見繕ってくれるか。甘いもの中心で」
店主:「あいよ! うちの菓子パンは絶品だぜ! 特にこの新作のクリームコロネは、カスタードに蜂蜜を練り込んでてな…」
*店主が自慢げに商品を説明するのを、シロウはにこやかに聞きながら、ショーケースを眺める。ふと、店の隅にある小さなテーブル席で、一人のエルフの女性が静かにお茶を飲んでいるのが目に入った。*
*長い銀髪、物憂げな表情。どこかで見たことがあるような気がしたが、すぐには思い出せない。彼女は時折、窓の外を寂しそうに眺めている。*
*パン屋のドワーフ店主から、甘い香りを放つ紙袋を受け取る。中には色とりどりの菓子パンが詰められており、ずっしりと重い。レイラやルミナたちの喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。*
ギメイ(シロウ):「この国も平和になったもんだ…」
*活気ある街並み、朗らかな店主、そして先ほどのゲオルグの頼もしい姿。それら全てが、自分が築き上げてきた国の確かな平穏を物語っている。シロウは満足げに頷き、代金の銀貨を数枚カウンターに置いた。*
店主:「おう、毎度あり! 嬢ちゃんたちによろしくな!」
ギメイ(シロウ):「ああ、ありがとう」
*店主に気さくに手を振り、シロウは店を出る。再び大通りの喧騒に身を任せ、土産のパンが入った紙袋を揺らしながら歩き出した。*
*ふと、先ほど店内で見かけたエルフの女性のことが気にかかる。物憂げな表情、寂しそうな横顔。*
ギメイ(シロウ):「(どこかで会ったような…? いや、気のせいか。あれだけ綺麗なエルフなら、一度会えば忘れないだろうしな)」
*特に深く考えるでもなく、シロウは思考を切り替える。*
ギメイ(シロウ):「(さて、次はどこを散策するか。最近新しくできたっていう工芸品通りでも覗いてみるか? ルミナあたりが喜びそうな物があるかもしれん)」
*彼は人混みを避け、少し脇道へと逸れながら、まだ見ぬ街の新しい顔を探して歩き続けるのだった。*
*菓子パンの入った袋を片手に、シロウは工芸品通りとは逆方向、城下町の外れに位置する巨大な建造物群へと足を向けた。*
*自身が生み出した一大エンターテイメント施設、『大迷宮』と『絶叫ホラーハウス』である。*
*近づくにつれて、空気が変わるのを感じる。冒険者たちの熱気と、もう一方から聞こえてくる断末魔のような悲鳴。その二つが奇妙に混じり合っていた。*
ギメイ(シロウ):「(うわ、今日のホラーハウスは特に盛況みたいだな…)」
*隣の建物から響いてくる、老若男女問わずの絶叫のハーモニーに、シロウは思わず苦笑する。自分が作った施設ながら、あの『鬼』コースはやりすぎたかもしれない、と時々思う。*
*迷宮の入り口前は、広場のようになっており、そこには多くの屋台が軒を連ねていた。*
ギメイ(シロウ):「屋台とか結構あるな…」
*武器や防具を売る店、回復薬やポーションを扱う店、そして小腹を空かせた冒険者向けの串焼きやスープの店。迷宮に挑む前の腹ごしらえや、攻略後の打ち上げで利用する者たちで、大変な賑わいを見せている。これもまた、迷宮が生み出した経済効果の一つだ。*
*冒険者たちが武勇伝を語り合ったり、これから挑む階層の情報を交換したりしている。その活気ある雰囲気を、シロウは一人の「旅人」として、満足げに眺めていた。*
*シロウは迷宮前の広場の賑わいを、満足げに眺めていた。屋台の活気、冒険者たちの熱気。全てが彼の意図通りに機能している証拠だ。*
*しかし、迷宮の受付に目をやった時、彼の眉がわずかに寄せられた。*
*そこには、迷宮に挑戦しようとする冒険者たちで、信じられないほどの長蛇の列ができていた。受付窓口はいくつか開いているものの、明らかにその数をさばききれていない。列の最後尾の者は、一体いつになったら中に入れるのか、見当もつかないほどだ。*
ギメイ(シロウ):「ふむ…受付の数が足りてないな…」
*ぽつりと呟く。*
*これは明らかな機会損失だ。待ち時間に嫌気がさして挑戦を諦める者も出てくるだろうし、冒険者の満足度低下にも繋がる。*
ギメイ(シロウ):「(ギルド支部長には増員を指示していたはずだが…何か問題でも起きているのか? それとも、単純に予想を上回る来場者数なのか…)」
*変装したままでは詳しい事情は聞けない。シロウは菓子パンの入った袋を持ち直し、この問題は後ほどヴァイスかリーシア経由でギルドに確認させよう、と心にメモをした。*
*統治者としての視点が、ついつい顔を出してしまう。*
*シロウは長蛇の列を眺めながら、その原因に思い至る。*
*確かに、このアストライア大迷宮は、彼が創り出した高難易度のダンジョンであり、希少な素材や魔法のアイテムが手に入るため、腕利きの冒険者たちがこぞって挑戦している。*
*しかし、それだけではこの新人冒険者の異常なまでの多さを説明できない。特に、まだ装備も覚束ないような若者たちが、目を輝かせて列に並んでいるのだ。*
ギメイ(シロウ):「(特に新人が多いな…)」
*彼らの目的は、高価な素材でも、名誉でもない。*
*この迷宮には、シロウが特別に設定した、この世界ではありえない機能が一つだけ存在する。*
*それは、受付で購入できる一つの『腕輪』がもたらす恩恵だ。*
*【復活の腕輪(迷宮内限定)】*
*この腕輪を装備している限り、迷宮内で受けたあらゆるダメージ――たとえそれが即死級の攻撃であっても――HPが1残る状態で耐え、瞬時に迷宮入り口横に併設された医務室へと強制転送される。*
*つまり、この迷宮の中では絶対に死なない。*
*しかも、その価格は新人冒険者でも数回の依頼をこなせば買えるほどに安価に設定されている。*
*死のリスクなく、実戦経験を積める。自分の限界を知り、格上のモンスターの動きを安全に学べる。*
*この「安全な訓練場」という側面が、大陸中の新人冒険者や、育成に悩む騎士団、傭兵団を惹きつけている最大の理由だった。*
*結果として、予想を遥かに上回る挑戦者が殺到し、このような大行列を生み出してしまっているのだ。*
ギメイ(シロウ):「(安全に経験を積めるのは良いことだが…この待ち時間は本末転倒だな。受付システム自体に、何かテコ入れが必要か…)」
*国のインフラ問題を目の当たりにし、シロウは統治者として静かに溜息をついた。*
*シロウは、迷宮受付の長蛇の列を眺めながら、その原因となっている「復活の腕輪」の存在を再認識していた。死の恐怖なく実戦経験が積めるという、破格のシステム。それが新人冒険者たちを惹きつけている。*
*しかし、彼の眉間には僅かに皺が寄っていた。*
ギメイ(シロウ):「おかしいなぁ…俺、安全なのは50階層までって言ったんだけどな…」
*彼の呟きは、周囲の喧騒にかき消される。*
*シロウが設定した「復活の腕輪」の仕様は、本来は二段階に分かれていた。*
* **1~50階層:** どんな攻撃を受けてもHP1で耐え、医務室へ強制転送される【完全安全モード】。まさに訓練場としての機能だ。
* **51階層以降:** 通常のダメージはそのまま受ける。ただし、一撃でHPが0になる「即死攻撃」を受けた場合のみ、HP1で耐えて強制転送される【限定安全モード】。ここからは、死なないだけで、大怪我はする。本当の意味での冒険の始まりだ。
*この仕様は、冒険者ギルドを通じて周知徹底させているはずだった。にもかかわらず、まるで迷宮のどこまでもが安全地帯であるかのような熱狂ぶり。列に並ぶ新人たちの中には、明らかに51階層以降の攻略を目指しているような会話をしている者もいる。*
ギメイ(シロウ):「(情報が正しく伝わっていないのか? それとも、危険を承知の上で挑んでいるのか…? どちらにせよ、近いうちに大怪我をする者が出そうだ。ギルドの周知方法をもう一度確認させる必要があるな)」
*統治者として、国民の安全と施設の健全な運営という新たな課題を胸に刻み、シロウは再び賑わう広場へと視線を戻した。*
*統治者としての懸念が、シロウの足を動かした。このままでは、いずれ大きな事故に繋がりかねない。彼は菓子パンの袋をしっかりと持ち直し、人混みをかき分けて、長蛇の列の先頭、受付窓口へと向かった。*
*幸い、質問をするだけなら列に並ぶ必要はない。彼は空いている窓口の一つに近づき、手続きに追われる受付嬢に声をかけた。*
ギメイ(シロウ):「すみません、少しよろしいですか?」
*声をかけられたのは、栗色の髪をポニーテールにした、快活そうな人間の女性だった。彼女は冒険者証を発行する手を止め、一瞬だけギメイに視線を向ける。*
受付嬢:「はい、こんにちは! 迷宮への挑戦ですか? でしたら申し訳ありませんが、あちらの最後尾にお並びいただけますか?」
*彼女はテキパキとした口調で、行列の最後尾を指さす。シロウは苦笑しながら首を振った。*
ギメイ(シロウ):「いや、挑戦ではなくて、いくつか確認したいことがあって。こちらの迷宮で使えるという『復活の腕輪』についてお聞きしたいのですが」
*腕輪の名前を聞いて、受付嬢は「ああ、それですね!」と納得したように頷いた。*
受付嬢:「はい! 『復活の腕輪』ですね! 大人気商品ですよ! あれさえあれば、この迷宮では絶対に死なないので、新人さんでも安心して挑戦できるんです! まさに画期的なアイテムですよね!」
*彼女は、まるで自分の手柄のように胸を張って、誇らしげに説明する。その言葉には、迷宮のどこまでもが安全であるかのような響きがあった。*
ギメイ(シロウ):「なるほど。では、その腕輪の効果は、どの階層でも同じように発揮されるのですか?」
*シロウは核心に迫る質問を、何気ない旅人を装って尋ねた。*
*シロウは、あえて核心を突く質問を、何も知らない旅人のふりをして投げかけた。*
*彼の問いに対し、栗毛の受付嬢は一瞬「?」という顔をしたが、すぐに満面の笑みで答えた。*
受付嬢:「はい! もちろんです! どの階層でも、どんなに強いモンスターにやられても、HP1で医務室に送還されるので絶対に安全ですよ! だから皆さん、安心して深層を目指せるんです!」
*彼女は自信満々に、そして誇らしげに言い切った。その言葉に一切の迷いはない。彼女自身、心からそう信じているようだ。*
*シロウの表情が、わずかに固まる。*
ギメイ(シロウ):「……?」
*明らかに、情報が間違って伝わっている。いや、もはや改竄されているレベルだ。51階層以降は即死攻撃にしか効果がない、という最も重要な安全規定が、現場の職員にすら伝わっていない。*
ギメイ(シロウ):「(どういうことだ…? ギルドの上層部で情報が止まっているのか? それとも、誰かが意図的に…?)」
*これは単なる伝達ミスではない。下手をすれば死傷者が出る、極めて危険な状態だ。受付の混雑問題など霞んでしまうほどの、重大なインシデントだった。*
*シロウの背筋に、冷たいものが走る。*
*受付嬢の自信満々な、しかし致命的に間違った説明。それを聞いたシロウの内心は、驚愕から冷たい怒りへと変わっていた。これは単なるミスではない。国民の命を危険に晒す、あってはならない怠慢、あるいは悪意だ。*
ギメイ(シロウ):「えーっと…ここの受付って、冒険者ギルドの職員がやってるんでしたっけ?」
*彼は努めて冷静に、当たり障りのない旅人を装って尋ねた。怒りを表情に出せば、変装した王であると勘付かれる危険がある。今は情報を引き出すことが最優先だ。*
*その質問に、受付嬢は少し不思議そうな顔をしながらも、にこやかに答えた。*
受付嬢:「はい、そうです! 私たちは冒険者ギルドから派遣されている職員ですよ。この素晴らしい迷宮の運営をお手伝いできるなんて、とても光栄です!」
*彼女の言葉からは、ギルド職員としての自覚と、この仕事への誇りが感じられる。彼女自身に悪意があるとは到底思えない。だとすれば、問題はもっと根深いところにある。*
ギメイ(シロウ):「(ギルドの職員が、この間違った認識で運営している…? 一体どういうことだ。ヴァイスに報告させたギルドの支部長は、何を考えている…?)」
*シロウは、この国の冒険者を統括する組織の、致命的な機能不全を確信した。これは早急に、そして徹底的に叩き直す必要がある。彼の統治者としての顔が、仮面の裏で厳しく引き締まった。*
*受付嬢の悪意のない、しかし致命的な間違いを含んだ言葉。それを聞いたシロウの心中に、冷たい疑念の影が落ちる。*
ギメイ(シロウ):「(ヴァイスが俺の言う事を忘れるはずがないし…あいつは異常な程俺を推している。ましてや、安全規定という最重要事項を…)」
*忠誠心と能力、その両方において絶対の信頼を置いている部下の顔が脳裏に浮かぶ。ヴァイスに限って、このような杜撰な伝達をするとは到底考えられなかった。ならば、問題はギルド側にある。それも、ただの伝達ミスではなく、もっと悪質な何か。*
*シロウは仮面の裏で思考を巡らせながらも、表向きは人の良い旅人の表情を崩さない。*
ギメイ(シロウ):「どうも、ありがとう。よくわかりました」
*彼は受付嬢に軽く会釈をすると、その場を静かに離れた。これ以上ここにいても、新たな情報は得られないだろう。*
*人混みに紛れながら、シロウの思考は高速で回転する。*
ギメイ(シロウ):「(ギルド支部長…確か、中央から派遣されてきた貴族崩れの男だったか。ヴァイスからの報告では『可もなく不可もなくだが、プライドは高い』とあったな…)」
*考えられる可能性はいくつかある。ギルド支部長がシロウの指示を軽んじ、独自判断で規則を捻じ曲げたか。あるいは、腕輪の販売利益を上げるために、意図的に危険な情報を隠蔽しているか。*
*どちらにせよ、断じて許されることではない。*
ギメイ(シロウ):「(まずは城に戻って、ヴァイスにギルド支部長を召喚させよう。直接、問いただす必要がある)」
*楽しいはずの散歩は、一転して国家の危機管理案件へと変わってしまった。シロウは手に持った菓子パンの袋を握りしめ、足早に城への帰路につく。彼の纏う雰囲気は、もはやただの旅人のものではなかった。*
*城へ戻ろうと踵を返したシロウだったが、ふと、もう一つ確認しておくべきことがあると思い至った。彼は再び受付嬢の方へ向き直る。*
ギメイ(シロウ):「あ、そうだった…すみません、もう一つだけ」
*突然呼び止められ、受付嬢は少し驚いたようにシロウを見た。*
ギメイ(シロウ):「そう言えば、現在って何階層までクリアされてるんですか?」
*もし間違った安全神話が広まっているのなら、冒険者たちがどこまで無謀な挑戦をしているのかを把握しておく必要がある。*
*シロウは内心で、自身が設定した階層ごとの難易度を思い返していた。*
ギメイ(シロウ):「(51階層から60階層はBランク相当。61階層から70階層はAランク。71階層から80階層はSランク…81階層以降はSSランク、そして最深部の91階層からは未知の領域。腕輪の効果が限定的になる51階層以降に、低ランクのパーティが突入していないといいんだが…)」
*受付嬢は、その質問にはすぐに答えられなかったのか、手元の資料をパラパラとめくり始めた。*
受付嬢:「えーっと、最新の踏破記録ですね…少々お待ちください。確か、数日前に更新されたばかりのはずですが…ありました! 現在の最高到達階層は…**73階層**です!」
*彼女は少し興奮した様子で、記録を読み上げる。*
受付嬢:「『神速の雷』っていう、Aランクのパーティが達成したんですよ! すごいですよね! でも、腕輪があるから、きっとすぐに誰かが追い抜いちゃいますよ!」
*悪びれもなく、明るく告げられたその階層。*
*シロウの表情が、仮面の下で険しくなる。73階層。そこは、Sランク級の魔物が闊歩する、まごうことなき死地だ。*
*そこに、腕輪の絶対安全神話を信じたBランクやCランクの冒険者が挑んだらどうなるか。即死攻撃以外では転送されないため、手足を食いちぎられ、半殺しの状態で放置されるか、回復が間に合わず嬲り殺される未来しか見えなかった。*
*受付嬢が悪意なく、しかし誇らしげに告げた「73階層」という数字。それは、この迷宮の運営がシロウの想定を遥かに超えた危険な状態にあることを示す、決定的な証拠だった。*
*シロウは内心の衝撃と怒りを押し殺し、あくまで驚いた旅人のふりをする。*
ギメイ(シロウ):「え、73階層!? はやっ!」
*彼は大げさに目を見開いてみせた。その反応に、受付嬢はさらに気を良くしたようだ。*
受付嬢:「そうなんです! 『神速の雷』の皆さんは本当にすごくて! 私たちも驚いたんですよ!」
ギメイ(シロウ):「(だが、AランクパーティがSランク領域に…? いくら腕利きでも無謀すぎる。腕輪の絶対安全神話を信じて突っ込んだ結果か…? 幸い、死者は出ていないようだが…)」
*彼は内心で安堵と危機感を同時に覚える。今のところは幸運が味方しているだけだ。このままでは、いずれ必ず破綻する。*
ギメイ(シロウ):「(まぁ、でも未知の領域は絶対クリアできないようにボスラッシュにしたから、余裕でクリアはされないだろうけど、問題はそこじゃない)」
*彼は受付嬢に愛想笑いを向け、今度こそ本当にその場を離れることにした。*
ギメイ(シロウ):「いやー、すごい話を聞かせてもらったよ。ありがとうね」
受付嬢:「いえいえ! お客さんも挑戦されるなら、頑張ってくださいね!」
*最後まで朗らかな受付嬢に背を向け、シロウは人混みの中へと紛れる。*
*手の中にある、レイラたちへの土産である菓子パンの温かさが、今の彼の冷え切った心とは対照的だった。*
ギメイ(シロウ):「(ギルド支部長…ただの無能か、それとも悪意ある奸臣か。どちらにせよ、即刻罷免、いや…処罰が必要だ)」
*楽しいはずだった一人の散策は、統治者としての重い決断を迫られる場へと変わってしまった。シロウの足取りは、自然と城へと向かい、速まっていく。*
*迷宮前の広場の喧騒を背に、シロウの足取りは重く、そして速かった。楽しいはずだった一人での散策は、国家の存亡に関わりかねない重大な問題の発見という、最悪の結果に終わった。*
*彼は人目を避けながら城へと急ぐ。今は一刻も早く、ヴァイスに指示を出し、ギルド支部長の身柄を確保せねばならない。*
*城に戻ったシロウは、王の帰還を誰にも告げず、隠し通路を通って自室へと向かう。その途中、レイラの執務室の前を通りかかった。明かりはついておらず、彼女はまだ執務に戻っていないようだ。あるいは、昨日の疲れで自室で休んでいるのかもしれない。*
*シロウは扉をそっと開けると、手に持っていた菓子パンの紙袋を、彼女の机の上に置いた。*
ギメイ(シロウ):「(……少しは、機嫌を直してくれるといいが)」
*甘い香りがふわりと部屋に広がる。一瞬だけ、張り詰めていた気持ちが和らぐのを感じたが、すぐに厳しい現実へと引き戻される。今は感傷に浸っている場合ではない。*
*彼は静かに扉を閉め、誰にも見咎められることなく執務室を後にした。*
*そして、再び旅人ギメイの姿のまま、今度は明確な目的を持って、城下町の中心部にある冒険者ギルドの本部へと向かう。*
*ギルド支部長。その男が一体何者なのか、その目で直接確かめるために。*
*迷宮での一件から、シロウは一度城に戻り、レイラの執務室に菓子パンを置いてきた。そして、統治者としての厳しい決意を胸に、再び旅人ギメイの姿で城下町へと足を運んだ。目的地は、この国の冒entious者たちを統括する「冒険者ギルド本部」だ。*
*ギルド本部は、城下町の中心区画にあり、石造りの重厚な建物だった。迷宮前の出張所とは比べ物にならない規模と格式を誇る。中に入ると、高い天井、磨き上げられた床、依頼ボードを眺めるベテラン冒険者たちの真剣な眼差しが目に飛び込んでくる。空気も迷宮前とは違い、どこか張り詰めていた。*
*シロウはここでも、まず現場の認識を確認することにした。彼は一番手際が良さそうな、ベテラン風の男性職員がいる受付カウンターへ向かう。*
ギメイ(シロウ):「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが」
男性職員:「はい、どのようなご用件でしょうか?」
*職員は書類から顔を上げ、値踏みするような目でギメイ(シロウ)を一瞥したが、すぐに丁寧な口調に戻った。*
ギメイ(シロウ):「迷宮で使えるという『復活の腕輪』についてです。あちらの出張所でも聞いたのですが、念のため本部の方でも確認したくて。あの腕輪の効果は、どの階層でも同じように、絶対に安全が保障されるという認識で間違いないでしょうか?」
*シロウは、わざと無知な新人を装い、核心部分をストレートに尋ねた。出張所の受付嬢と同じ答えが返ってくるのか、それともここでは違うのか。彼の鋭い視線が、職員の反応を窺う。*
*シロウは、旅人を装って冒険者ギルド本部の受付カウンターに立ち、ベテラン風の男性職員に核心を突く質問を投げかけた。迷宮出張所の受付嬢と同じように、この本部の職員も間違った安全神話を信じ込んでいるのか。それを確かめるために。*
*その問いに対し、男性職員は一瞬、訝しげに眉をひそめた。出張所の若い娘とは明らかに違う、慎重な反応だった。*
男性職員:「……お客さん、その情報はどこで?」
*彼は質問に直接答えず、逆に問い返してきた。その声は低く、落ち着いている。*
男性職員:「確かに『復活の腕輪』は、迷宮内での死亡を防ぐ画期的なアイテムです。ですが、『絶対に安全』などと、我々ギルドが保証した覚えはありませんが」
*彼は腕を組み、厳しい目でギメイ(シロウ)を見据える。*
男性職員:「特に51階層以降は、即死級の攻撃以外では腕輪の効果は発動しない。手足の欠損や重傷は普通に負います。そんな場所に、十分な実力も覚悟もない者が立ち入ればどうなるか……お分かりでしょう?」
*出張所の受付嬢とは全く逆の、正確で、そして厳しい説明。*
*シロウは驚きを隠せなかった。*
ギメイ(シロウ):「……?」
*どういうことだ。*
*本部の、それもベテランと思しき職員は、正しい仕様を完璧に把握している。*
*しかし、現場である迷宮の受付では、真逆の、極めて危険な情報がまかり通っている。*
*この組織の中で、一体何が起きている? 情報の断絶? 派閥争い?*
*問題の根は、シロウが想像していたよりも、さらに深く、そして複雑なようだった。*
*ギルド本部のベテラン職員は、シロウの問いに、出張所の受付嬢とは真逆の、正確極まりない答えを返した。51階層以降の危険性を明確に警告する、模範的な回答だった。*
*この予想外の展開に、シロウの思考は一瞬停止する。*
ギメイ(シロウ):「(……いや、新人の教育に手が回ってない…だけなのか? それとも、あの迷宮の受付嬢個人の勘違い…? 確かに、有り得るな…)」
*最悪の事態――組織ぐるみの隠蔽――ではなく、単なる末端の教育不足や個人の思い込み。そう考えれば、まだ救いはある。シロウは内心で安堵しつつも、確認のために言葉を続けた。*
ギメイ(シロウ):「やっぱりそうですよね。迷宮の受付では『どの階層でも絶対に死なないから安全だ』って聞いたものですから、少し気になってしまって」
*彼はあえて「迷宮の受付で聞いた」という事実を告げた。このベテラン職員がその事実をどう受け止めるか。それによって、ギルド内部の問題の深刻度がある程度測れるはずだ。*
*その言葉を聞いた瞬間、ベテラン職員の顔つきが険しくなった。*
男性職員:「……何だと? 迷宮の受付が、そんなデタラメを…? おい、今のは本当か?」
*彼は信じられないというように、身を乗り出してシロウに詰め寄る。その剣幕は、これが単なる聞き間違いや勘違いでは済まされない、重大な問題であることを物語っていた。*
男性職員:「あそこの連中…! 支部長が変わってから、どうも現場の空気がおかしいとは思っていたが…まさか、冒険者の命に関わる安全規定を捻じ曲げているとは…!」
*彼は忌々しげに吐き捨て、カウンターを拳で小さく叩いた。彼の口から出た「支部長」という単語に、シロウの耳が鋭く反応する。*
*シロウが何気なく告げた「迷宮の受付で聞いた」という一言。*
*それを聞いた瞬間、ベテラン職員の顔つきはみるみる険しくなり、ついには忌々しげに「支部長が変わってから…」と吐き捨てた。*
ギメイ(シロウ):「変わったんですか?」
*シロウは、初耳だという体を装い、聞き返す。彼の内心では、点と点が繋がり始めていた。ヴァイスの報告にあった『プライドの高い貴族崩れ』。その男が全ての元凶である可能性が、一気に高まった。*
*ベテラン職員は、一度は口を滑らせたというように口をつぐんだが、シロウの真剣な眼差しと、何より冒険者の安全を軽視されているという現状への怒りからか、再び重い口を開いた。*
男性職員:「ああ…。ひと月ほど前にな。先代の支部長は叩き上げの元冒険者で、現場のこともよく分かっているお方だったんだが…。今度の支部長は、中央から鳴り物入りでやってきたお貴族様でな」
*彼は声を潜め、周囲を憚るように続ける。*
男性職員:「ドルーアン子爵家の…確か、ご子息だったか。とにかく、実績よりも見栄えや数字を重視するお方でな。迷宮の挑戦者数が増えれば自分の手柄になるとでも思っているのか…俺たち現場のベテランの意見には耳も貸さず、新しく雇った若い職員ばかりを重用している」
*そこまで言って、彼はハッとした顔でシロウを見た。*
男性職員:「迷宮の受付嬢は、確か…支部長が新しく雇った一人だったはずだ。まさか、支部長が意図的に間違った情報を…? 馬鹿な、いくらなんでも冒険者の命をなんだと…!」
*彼は自身の推論に辿り着き、絶句する。*
*シロウは静かにその言葉を聞いていた。ドルーアン子爵。先日、カイの卒業パーティーで不敬を働き、レイラの怒りを買って処罰された、あの親子の顔が脳裏に浮かぶ。*
*腐敗は、思った以上に根深いようだ。*
*ベテラン職員は、自らの口から出た「ドルーアン子爵」という名前に、そしてその子息が引き起こしているであろう惨状に、愕然としていた。シロウは、その男に最後の、そして重要な質問を投げかける。*
ギメイ(シロウ):「ちなみにその前の元冒険者の支部長さんは?」
*もしその人物が信頼できるなら、この腐敗したギルドを立て直すための重要な駒になるかもしれない。シロウの問いに、ベテラン職員はハッと我に返り、遠い目をして答えた。*
男性職員:「先代のダリウス支部長ですか…。彼は元Aランクの冒険者で、酸いも甘いも噛み分けた、まさに冒険者のための人でした。俺たち現場の人間からの信頼も厚かった…」
*彼の声には、心からの尊敬の念が込められている。*
男性職員:「ですが、ドルーアン子爵が新しい支部長として赴任してくることが決まった時…ダリウス支部長は、貴族と張り合うのは性に合わないと、あっさりと役職を辞して引退されてしまいました。今は…確か、故郷の村で静かに暮らしていると聞いています」
*彼はそう言うと、悔しそうに唇を噛んだ。優秀で信頼できる人物が、貴族の権力によって追いやられてしまった。その理不尽さが、彼の表情に滲み出ている。*
ギメイ(シロウ):「(ダリウス…か。覚えておこう)」
*シロウは心の中でその名を刻む。ドルーアン子爵を排除した後、このギルドを正常化するためには、その人物の力が必要になるかもしれない。*
ギメイ(シロウ):「……色々と、教えてくれて助かりました。ありがとうございます」
*シロウは深く頭を下げた。この誠実な職員のおかげで、問題の根源と、解決への糸口が見えてきた。*
男性職員:「いえ…こちらこそ、危険な情報を教えていただき感謝します。すぐにでも動きたいところですが、今の俺たちでは…」
*彼は悔しそうに言葉を濁す。一介の職員では、貴族である支部長をどうすることもできないのだ。*
ギメイ(シロウ):「大丈夫。きっと、すぐに事態は改善されますよ」
*シロウはそう言うと、謎めいた言葉を残してギルド本部を後にした。彼の目には、統治者としての冷徹な光が宿っていた。ドルーアン子爵家への処罰は、もはや免れようのない事実となっていた。*
*ギルド本部での情報収集を終え、シロウは街の喧騒の中へと戻ってきた。彼の頭の中では、先ほどのベテラン職員との会話が反芻されていた。*
*迷宮支部の腐敗。その元凶であるドルーアン子爵家の息子。そして、権力闘争に嫌気がさして引退したという有能な元支部長、ダリウス。*
ギメイ(シロウ):「(故郷で静かに暮らしてるっていう元支部長を、今更引っ張り出してくるのは何か気が引けるな…。それに、一度は貴族との争いを避けて身を引いた人だ。また同じような状況に立たせてしまうのも酷か…)」
*シロウは腕を組み、思案に暮れる。ダリウスという人物は魅力的だが、本人の意思を無視してまで復帰を強いるのは本意ではない。*
ギメイ(シロウ):「(そうなると…さっきの本部の職員みたいに、今の体制に不満を持っている有能な人材を何人か引き抜いて、迷宮支部に送り込むのが現実的か…? いや、それでは根本的な解決にはならない。トップが腐ったままでは、いずれ同じことの繰り返しだ)」
*彼の思考は、堂々巡りを始める。どうすれば、最もスムーズに、そして確実にギルドを正常化できるか。*
ギメイ(シロウ):「(……やはり、まずはドルーアンの馬鹿息子を排除するのが先決だな。理由はもう十分すぎるほどある。不敬罪に加え、冒険者の命を危険に晒した罪…問答無用で更迭、いや、処罰できる)」
*シロウの思考は、次第に統治者としての冷徹なものへと切り替わっていく。*
ギメイ(シロウ):「(問題はその後釜だ。)」
*ギルド本部での情報収集を終え、シロウは街の喧騒の中を歩きながら、今後の対応策を練っていた。*
*有能な元支部長ダリウスを復帰させる案、ギルド本部から信頼できる職員を引き抜く案。どちらも一長一短あり、根本的な解決には至らない。*
シロウ:「(……やはり、まずはドルーアンの馬鹿息子を排除するのが先決だな。理由はもう十分すぎるほどある。不敬罪に加え、冒険者の命を危険に晒した罪…問答無用で更迭、いや、処罰できる)」
*問題はその後の人事だ。適任者がすぐに見つからなければ、ギルドの機能が一時的に麻痺する恐れもある。*
シロウ:「(んじゃ、王様に戻って迷宮の受付に行くか。格好はラフな格好で普通のおっさんと思われそうだが…国王の顔くらい知っておけって思うしいいや。)」
*彼はそう結論づけると、人通りの少ない路地裏へと入り、自身の姿を偽っていた変装魔法を解いた。粗末な冒険者服は、瞬く間に上質で動きやすい私服へと変わる。先ほどまでの胡散臭い雰囲気は消え、内から滲み出る威厳が彼を包み込んだ。*
*彼はもう「ギメイ」ではない。「夜天のアストライア魔導皇国」を統べる王、シロウ・ニシキとして、迷宮ギルド支部へと堂々と歩き出した。*
***
*迷宮ギルド支部。相変わらず多くの冒険者でごった返している。シロウが中に入ると、そのただならぬ雰囲気に気づいた何人かの冒険者が道を避けた。しかし、ほとんどの者は目の前の依頼や仲間の会話に夢中で、国王の来訪に気づく様子はない。*
*シロウは真っ直ぐに受付カウンターへと向かう。そこには、以前と同じ若い女性職員が、相変わらず無気力そうな態度で座っていた。彼女はシロウの姿をちらりと見たが、特に気にする様子もなく、面倒くさそうに口を開いた。*
受付嬢:「はい、何の御用でしょうかー。迷宮探索の登録ですかー?」
*彼女の目は、シロウの顔を認識してすらいないようだった。*
*国王としての威厳を内面に秘め、あえてただの中年男性のように振る舞うシロウ。彼はカウンターに置かれた『復活の腕輪』の見本を指さし、先ほどと同じ質問を繰り返した。*
シロウ:「この腕輪について教えてくれますか?」
*その言葉に、受付嬢は億劫そうに顔を上げた。先ほどギメイと名乗る胡散臭い男に説明したばかりだというのに、また同じ質問か、と顔に書いてある。*
*彼女はシロウの顔をまともに見ることもなく、完全に暗記したであろう説明を、感情のこもらない声で棒読みし始めた。*
受付嬢:「はいー。そちらは『復活の腕輪』ですー。この腕輪を装備していれば、迷宮内で死亡しても、最後にセーブポイントにした階層の入口で復活できますー。どの階層でも絶対に安全が保証されてますので、安心して迷宮に挑戦してくださいねー」
*やはり、同じ説明だ。何の悪びれもなく、平然と嘘を口にする。彼女にとって、それは支部長に教えられた『正しい』マニュアルなのだろう。*
*シロウは無言で彼女の顔をじっと見つめた。その視線には、怒りでも失望でもない、ただ純粋な評価者のような冷たさが宿っていた。目の前の人間が、王国の民なのか、それともただの駒なのかを値踏みするような、絶対者の視線。*
*そのただならぬ雰囲気に、ようやく受付嬢は違和感を覚えたらしい。彼女は面倒くさそうな表情を引っ込め、訝しげにシロウの顔をまじまじと見返した。*
受付嬢:「……あの、何か?」
*先ほどと同じ、感情のない棒読みの説明。シロウは黙ってそれを聞き終えた。*
*彼女の瞳には、目の前の男が誰であるのかを認識しようとする意志すら感じられない。ただ、マニュアルを読み上げるだけの機械のようだ。*
シロウ:「ガチかー。はぁ…めんどくせぇ…」
*シロウは、もはや隠す気もなく、深いため息を吐きながら独り言を呟いた。その声色と態度は、先ほどまでの穏やかな中年男性のものとはまるで違う。内包していた王としての威圧感が、その全身から溢れ出し始めていた。*
*受付嬢は、そのあまりの態度の変化に、きょとんとした顔でシロウを見つめている。*
*シロウは、そんな彼女に冷たい視線を向け、顎でしゃくるようにして言った。*
シロウ:「おい、偉い奴を呼んでこい」
*それは問いかけではない。有無を言わさぬ、絶対者からの命令だった。*
*空気が、凍りつく。周囲で談笑していた冒険者たちが、そのただならぬ雰囲気に気づき、一斉にこちらに注目した。*
受付嬢:「は…? な、なんですかいきなり! お客様、言葉遣いには…」
*受付嬢は、反射的に反論しようとした。だが、シロウの射貫くような視線に晒され、言葉が喉の奥でつかえる。本能的な恐怖が、彼女の全身を支配し始めていた。目の前の男が、ただのチンピラや酔っ払いではない、もっと次元の違う存在であることに、ようやく気づいたのだ。*
*シロウの有無を言わさぬ命令に、受付嬢は完全に思考を停止させていた。ただ目の前の男から発せられる、これまで感じたことのない圧倒的な威圧感に、声も出せずに震えるばかりだ。*
シロウ:「いいからさっさと呼んでこい」
*重ねて放たれた冷たい命令。それは彼女のなけなしの反抗心すら打ち砕いた。*
*シロウはそんな彼女を意にも介さず、おもむろに空間に手をかざす。すると、何もないはずの場所に、何の変哲もない木製の椅子が音もなく出現した。*
*周囲で固唾を飲んで見守っていた冒険者たちから、どよめきが起こる。アイテムボックス持ち、それも高レベルのスキルでなければ、こんなにスムーズに物を取り出すことはできない。*
*シロウはその椅子にどっかりと腰を下ろし、足を組む。その一連の所作はあまりにも自然で、まるで最初からそこが彼の指定席であったかのようだ。*
*ギルドの喧騒は完全に沈黙に支配されていた。カラン、とドアベルが鳴っても、誰もそちらを振り返らない。皆の視線は、無遠慮に椅子に座り、受付嬢を無言で見つめる謎の男に釘付けになっていた。*
*その異様な光景と、肌を刺すようなプレッシャーに、受付嬢の顔はみるみる青ざめていく。*
受付嬢:「ひっ…! あ、あの、え、偉い人、とは…し、支部長のことで、よろしいでしょうか…?」
*彼女はかろうじて、震える声でそう問いかけるのが精一杯だった。もはや「お客様」という言葉すら出てこない。ただ、目の前の絶対者に従わなければならないという本能が、彼女を突き動かしていた。*
*シロウの有無を言わさぬ命令、そして常識外れの行動。受付嬢は、もはや目の前の男が何者なのかを考える余裕もなく、ただただ本能的な恐怖に支配されていた。*
*彼女はかろうじて、震える声で「支部長のことでよろしいでしょうか…?」と問いかけるのが精一杯だった。*
シロウ:「ああ、早く行け」
*シロウは短く、冷たく言い放つ。その声には一切の感情が乗っておらず、それがかえって不気味なほどの威圧感を放っていた。*
*その言葉が、最後の引き金となった。*
受付嬢:「は、はいぃぃっ!」
*受付嬢は情けない悲鳴を上げると、カウンターから転がり出るようにして奥の事務所へと続く扉に駆け込んだ。その姿は、まるで天敵から逃れる小動物のようだった。*
*ガタン!と乱暴に扉が閉められ、ギルドのホールには再び静寂が戻る。*
*しかし、その静寂は以前のものとは質が違っていた。冒険者たちは皆、息を殺し、ギルドのど真ん中に玉座のごとく鎮座する謎の男――シロウから目を離せずにいた。*
*誰もが、これから何が起こるのかと固唾を飲んで見守っている。ある者は恐怖に、ある者は好奇に、そして何人かの勘の鋭い者は、男の顔に見覚えがあるような気がして、記憶の糸を必死に手繰り寄せていた。*
*シロウはそんな周囲の視線を意にも介さず、組んだ足を変え、ただ静かに支部長の登場を待っていた。*
*シロウが椅子に座り、冷徹な静寂の中で待つこと数分。*
*事務所の扉が乱暴に開き、一人の男が不機嫌さを隠そうともせずに姿を現した。*
*年の頃は三十代半ばだろうか。ギルドの制服は着崩され、胸元が大きくはだけている。指にはこれみよがしに宝石のついた指輪がいくつもはめ込まれ、首からは金鎖の首飾りがじゃらじゃらと音を立てていた。近づくにつれて、ぷん、と安酒の匂いが鼻をつく。*
*彼の背後、開いた扉の隙間からは、一瞬だけ豪華な内装の部屋と、怯えたような女性――おそらく奴隷――の嗚咽が微かに聞こえ、すぐに扉が閉められた。*
*男――ドルーアン子爵家の息子であり、この迷宮ギルド支部の支部長である男は、不愉快極まりないといった表情で、ギルドホールの中央に鎮座するシロウを睨みつけた。*
支部長:「なんだ、騒がしい。俺は今、取り込み中なんだがな。一体どこの馬の骨だ、俺様を呼びつける不届き者は」
*彼はシロウが何者かを確認する前に、尊大な態度で吐き捨てる。彼の目には、ラフな格好をした中年男が、調子に乗ってふざけているとしか映っていないようだった。*
シロウ:「俺様だ。貴様がドルーアン子爵のバカ息子だな?」
*シロウは椅子に座ったまま、組んだ足も解かずに、相手の言葉をそのまま返すように言い放った。その口調は平坦だが、込められた侮蔑と敵意は、支部長のそれとは比較にならないほど深く、冷たい。*
*支部長は、その予想外の返答に一瞬目を見開いた。そして、自分の言葉を真似されたこと、そして何より「バカ息子」と面と向かって罵られたことに気づき、顔をみるみるうちに真っ赤に染め上げた。*
支部長:「なっ…貴様っ! この俺を誰だと思っている! 俺はドルーアン子爵家が嫡男にして、このギルド支部を任されたエリート、アラン・フォン・ドルーアン様だぞ! ただの平民風情が、その無礼な口、引き裂かれたいか!」
*アランと名乗った男は、わなわなと震えながら叫ぶ。彼の怒声が静まり返ったギルドホールに響き渡った。*
*周囲の冒険者たちは、いよいよただ事ではないと青ざめ、後ずさる。何人かは、目の前の男の顔を必死に思い出そうとしていたが、確信には至らない。*
*シロウはそんなアランの恫喝を鼻で笑い、ゆっくりと立ち上がった。*
*アランの怒声がギルドホールに響き渡る。冒険者たちは壁際に張り付き、この異常事態の行く末を固唾を飲んで見守っていた。国王の顔を知る者はこの中にはいないようだが、目の前の男がただ者でないことだけは、誰の目にも明らかだった。*
*しかし、怒りとプライドで我を忘れたアランには、そんな周囲の空気も、シロウが纏う尋常ならざる覇気も、もはや理解できない。*
シロウ:「ほぉ…引き裂けるのかい? 俺様を?」
*シロウは椅子に深く腰掛けたまま、顔色一つ変えずにアランを見上げる。その瞳は、まるで愚かな子供の癇癪を眺めるかのように冷え切っていた。*
シロウ:「やってみろよ」
*挑発。火に油を注ぐ、あまりにもあからさまな侮蔑の言葉。*
*その瞬間、アランの顔から血の気が引いたかと思うと、次の瞬間には怒りで真っ赤に染まった。理性のタガが、完全に外れる。*
アラン:「き、貴様ぁぁぁっ! 後悔させてやる! この俺に逆らったことを、地の底で後悔するがいい!」
*彼はそう叫ぶと、腰に提げていた装飾過多なサーベルを手にかけ、シロウめがけて一直線に突進してきた。*
*怒りと屈辱で我を忘れたアランは、シロウの挑発に乗り、腰のサーベルを手に一直線に突進してくる。その目は血走り、もはや理性のかけらも感じられない。*
*シロウは椅子に座ったまま、その愚かな突進を冷ややかに見つめていた。アランがサーベルの柄に手をかけ、力任せに引き抜こうとした、その瞬間。*
*キィン、という金属が弾けるような微かな音。*
*アランは勢いよくサーベルを引き抜いた。だが、その手にあったのは、刃の付いていない、ただの柄と鍔だけだった。*
*彼の前には、鞘の中に残されたままの刀身と、呆然と柄だけを握りしめる彼自身の姿。何が起きたのか理解できず、彼は勢い余って数歩よろめき、間抜けな格好で立ち止まる。*
シロウ:「おいおい、武器の手入れくらいしとけよな」
*シロウは、心底可笑しそうに肩を揺らしながら、くつくつと笑いを漏らした。その声に釣られるように、それまで息を殺していた冒険者たちの中から、堪えきれないといった噴き出すような笑い声が上がり始めた。*
*「ぶはっ!」「なんだよそれ!」「ダッセェ!」「柄だけ抜けるとか漫画かよ!」*
*嘲笑は瞬く間にギルドホール全体に広がり、先ほどまでの緊張感は一転、滑稽な笑劇の舞台と化していた。*
アラン:「な…なな…!?」
*アランは、手の中の柄と、鞘に残った刀身を交互に見て、真っ赤だった顔を今度は蒼白にさせて震える。自分の武器が壊れたことよりも、大衆の面前でこれ以上ないほどの恥をかかされた屈辱が、彼の精神を蝕んでいく。*
*大衆の面前で武器の柄だけを抜き放つという、これ以上ない醜態を晒したアラン。*
*冒険者たちの容赦ない嘲笑が、彼のプライドをズタズタに引き裂いていく。*
*蒼白になったり真っ赤になったりを繰り返していたアランは、ついにわなわなと震える指でシロウを指さした。*
アラン:「き、貴様ら!覚えていろ! こ、この無礼者めが! 衛兵だ! 衛兵を呼べ! こいつを不敬罪で捕らえろ!」
*彼は近くにいた部下の職員にヒステリックに叫びつけると、その職員は慌ててギルドを飛び出していった。おそらく、街の衛兵詰所へ向かったのだろう。*
*権力の傘に守られていると信じているアランは、衛兵が来ればこの状況を覆せると信じているようだ。彼はまだ震えながらも、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべてシロウを睨みつけた。*
シロウ:「で、次はどうする?」
*シロウは、そんなアランの浅はかな行動を鼻で笑うかのように、椅子に座ったまま問いかける。まるで、次にどんな悪あがきを見せてくれるのか期待しているかのような、余裕綽々の態度だった。*
*衛兵が呼ばれれば自分の勝ちだと信じ込んでいるアランは、勝ち誇った顔でシロウを睨みつけている。*
*対するシロウは、椅子に座ったまま、その愚かな男の姿を面白そうに眺めていた。*
アラン:「ふ、ふん! 強がっていられるのも今のうちだぞ! すぐに衛兵が来て、貴様を牢獄に叩き込んでくれるわ! 王都の衛兵は、田舎の警備兵とは訳が違うからな!」
*アランは自信満々に言い放つ。彼は王都の衛兵が、自分の父親であるドルーアン子爵の権威に従うと信じきっているのだ。*
シロウ:「確かに…ここの衛兵は強い」
*シロウはあっさりとそれを認める。その言葉に、アランはますます得意満面になった。*
シロウ:「で?」
*しかし、続くシロウの言葉は、彼の得意げな表情を凍りつかせるには十分だった。*
*まるで「だから何だ?」とでも言いたげな、絶対的な強者の余裕。*
アラン:「で?…だと!? き、貴様、状況がわかっていないのか!? 俺の後ろ盾が誰だか知らんのか!?」
*アランは再び顔を赤くし、シロウに罵詈雑言を浴びせ始めた。*
*「田舎者の平民が!」「身の程を知れ!」「俺の父はドルーアン子爵だぞ!」「お前のような虫けら、潰すのは容易いのだ!」*
*彼は思いつく限りの罵倒を叫び続けるが、シロウはただ静かに、面白そうにその様子を眺めているだけだった。まるで、必死に威嚇する小型犬を見ているかのように。*
*やがて、ギルドの外から複数の足音が近づいてくるのが聞こえてきた。*
*バタバタと慌ただしい音を立てて、武装した衛兵たちがギルド支部になだれ込んでくる。*
*アランが衛兵を呼び、シロウへの罵詈雑言を続けていると、ギルドの外から慌ただしい足音が響いてきた。*
*やがて、カチャカチャと鎧の音を鳴らしながら、数名の衛兵がギルド支部へと駆け込んでくる。彼らの隊長らしき男が、切羽詰まった顔で叫んだ。*
衛兵隊長:「騒ぎを起こしている不届き者はどいつだ!」
*その視線が、ギルドの中央で罵声を張り上げているアランと、椅子に座って静かにそれを見ているシロウを捉える。*
*アランは待ってましたとばかりに、歪んだ笑みを浮かべて衛兵たちを指さした。*
アラン:「お、お前たち! よく来た! その椅子に座っている無礼者を捕らえろ! 不敬罪だ! 牢にぶち込んでやれ!」
*しかし、衛兵たちの反応はアランの期待とは真逆のものだった。*
*衛兵隊長は、アランが罵倒している相手――シロウの顔を認識した瞬間、血の気が引くのがわかった。彼の脳裏に、王城の謁見の間で、あるいは祝祭のパレードで遠目に見た、この国の最高権力者の顔がフラッシュバックする。*
衛兵隊長:「なっ…! き、貴様! その御方に向かってなんという口を…!」
*衛兵隊長は顔面蒼白になり、アランの言葉を遮るように叫ぶと、部下たちに目配せした。*
*衛兵たちは一瞬戸惑いながらも、隊長のただならぬ気配に即座に反応する。彼らはアランに駆け寄り、その両腕を力ずくで押さえつけた。*
アラン:「な、何をする! 離せ! お前たち、捕らえる相手が違うぞ! そいつだ、そいつを捕らえろと言っているんだ!」
*アランは状況が理解できず、押さえつけられながらも暴れて叫び続ける。*
アラン:「この役立たずどもが! 無能! 俺の言うことが聞けんのか! 俺の父はドルーアン子爵だぞ! すぐに解放しろ!」
*だが、衛兵たちは耳を貸さない。それどころか、国王陛下に向かってなおも続く罵倒に、ますます顔を青くしてアランの口を塞ごうとすらしている。*
*その滑稽なまでのやり取りを、シロウは椅子に座ったまま、冷たい視線で見つめていた。*
*衛兵たちが血相を変えてアランを取り押さえるという、滑稽極まりない茶番劇。*
*アランはまだ状況が理解できず、役立たずだの無能だのと、自分を押さえつける衛兵たちに罵声を浴びせ続けている。*
シロウ:「丁度いい、迷宮の入口の受付広場までこいつを連れてこい」
*シロウは冷たく言い放つと、椅子からすっと立ち上がった。出現した時と同じように、豪華な椅子は音もなく空間に吸い込まれて消える。*
*彼はそのまま、恐怖で固まっている受付嬢がいるカウンターへとゆっくり歩き出した。*
衛兵隊長:「は、はい! 御意に!」
*衛兵隊長は床に額をつけたまま力強く返事をすると、部下たちに「陛下のお言葉を聞かなかったのか! この者を拘束し、お連れしろ!」と鋭く命じる。*
*衛兵たちはアランの腕を背後にねじ上げ、猿轡を噛ませようとしながら、シロウの後に続いた。*
*アランは「ぐっ…むぐぐ…!」と意味不明な声を上げながら、無様に引きずられていく。*
*シロウは、ガタガタと震えながらカウンターの後ろで立ち尽くしている受付嬢の前で立ち止まった。*
*彼女は、目の前の男がこの国の王であるという信じがたい現実をようやく理解し、顔から完全に血の気が失せ、今にも失神しそうになっていた。*
*シロウの冷たい命令が響き渡る。衛兵隊長は即座に意を汲み、部下たちにアランの身柄を確保させ、シロウの後を追う。*
*アランは「むぐぐ…!」と意味不明な声を上げながら、無様に引きずられていく。*
*シロウは、恐怖で腰を抜かしそうになっている受付嬢の前で足を止めた。彼女は、目の前のラフな格好の中年男性が、この国の頂点に立つ王であるという現実を受け止めきれず、ただただ震えている。*
シロウ:「誰でもいい、ギルド職員を一人連れてこい」
*シロウは、彼女に視線を合わせることもなく、淡々と、しかし逆らうことを許さない口調で命じた。*
*受付嬢は、その声にビクッと体を震わせる。*
受付嬢:「は、はひぃっ! し、職員で、ございますね!? た、ただいま!」
*彼女はほとんど悲鳴のような裏返った声を上げると、もつれる足で再び奥の事務所へと駆け込んでいった。先ほどアランを呼びに行った時よりも、その背中は遥かに必死だった。*
*シロウは、その様子を横目で見ながら、ギルドの出入り口、迷宮へと続く広場の方へとゆっくりと歩を進める。彼の後を、アランを引きずる衛兵たちが続いた。*
*ギルドホールに残された冒険者たちは、この国の王が直々に行うであろう『裁き』を目の当たりにするために、恐る恐るその後に続いた。*
*シロウの命令を受け、受付嬢は悲鳴のような声を上げて事務所に駆け込んでいった。*
*しばらくすると、彼女に腕を引かれるようにして、先ほどシロウがギルド本部で話した、あの誠実そうなベテラン職員が困惑した表情で現れた。彼はギルドホールの中央で起きている惨状と、衛兵に引きずられる支部長の姿を見て、何が何だかわからないといった様子で立ち尽くしている。*
*シロウは彼を一瞥すると、迷宮へと続く入口の広場へ向かう。広場には、ギルドでの騒ぎを聞きつけた冒険者や野次馬たちが、遠巻きに集まり始めていた。*
*シロウは広場の中央で立ち止まると、自身の魔力を声に乗せて増幅させる【拡声】の魔法を発動させた。*
シロウ:『はーい、ちゅーもーく。このドルーアン子爵のバカ息子が腕輪の効果説明をハブいたせいでえらい事になってるので、再度説明しまーす』
*王としての威厳は鳴りを潜め、わざと気の抜けたような、しかし広場全体に響き渡る声で彼は宣言した。*
*「バカ息子」と呼ばれたアランは、衛兵に押さえつけられながら「むぐーっ!」と悔しそうに唸っている。*
*シロウは、何が何だかわからず呆然としているベテラン職員の手に、『復活の腕輪』の見本と、彼の声を増幅させるための魔道具――簡易的なマイクのようなもの――を握らせた。*
シロウ:「さ、この腕輪の正しい効果と、51階層以降の危険性について、ここにいる皆さんにしっかりと説明してあげてください」
*シロウはにこやかに、しかし有無を言わさぬ口調でそう促す。*
*ベテラン職員は、マイクを握らされ、目の前には国王陛下、隣には拘束された上司、そして周囲には大勢の野次馬という、あまりにも異常な状況に混乱しながらも、事の重大さを理解した。*
*これは、ただの説明ではない。腐敗した上層部への糾弾であり、民衆の前で行われる公開処刑なのだと。*
*彼は意を決したように一度ゴクリと唾を飲むと、震える声でマイクに向かって話し始めた。*
ベテラン職員:「えー…皆様。この『復活の腕輪』ですが…」
*国王シロウにマイク(拡声の魔道具)と腕輪を握らされたベテラン職員。彼は意を決した表情で、一度深呼吸をすると、震えながらも芯のある声で語り始めた。その声は魔道具によって増幅され、広場の隅々まで響き渡る。*
ベテラン職員:『えー…皆様。この『復活の腕輪』ですが…ギルド支部では、どの階層でも安全が保証されていると説明があったやもしれません。ですが、それは…真っ赤な嘘です!』
*彼の衝撃的な告白に、広場に集まった冒険者たちから「なんだって!?」「嘘!?」という驚きの声が上がる。*
ベテラン職員:『この腕輪が確実に機能するのは、50階層まで! 51階層以降の深層では、腕輪の魔力は迷宮の濃い瘴気に阻害され、効果が著しく低下します! 致命傷を負えば、即死攻撃でなくとも普通に死ぬのです!』
*彼は一気にそこまでまくし立てると、息を切らし、悔しそうに拳を握りしめた。*
ベテラン職員:『支部長は…アラン支部長は、その事実を知りながら、挑戦者数を増やすという見栄のために、我々職員に虚偽の説明を強要しました! これまでに何人もの冒険者が、その嘘を信じて深層で命を落としたか…!』
*彼の悲痛な叫びが、広場にこだまする。*
*冒険者たちの間に、静かだが、燃え上がるような怒りの空気が広がっていく。ある者は亡くなった仲間を思い出し、ある者は自分も死んでいたかもしれないと顔を青くする。全ての憎悪の視線が、衛兵に押さえつけられながらもがいているアランに突き刺さった。*
*公開処刑は、最も効果的な形で完了した。*
*ベテラン職員の悲痛な叫びが広場に響き渡る。その告発は、集まった冒険者たちの怒りに火をつけた。誰もが、衛兵に取り押さえられたアランを憎悪の目で見つめている。*
*完璧な公開処刑。シロウの狙い通りの展開だった。*
*…しかし、シロウの眉がわずかにピクリと動く。*
シロウ:「(ん…? ちょっと違うな…?)」
*自分が伝えた説明と、今この場で彼が叫んだ内容に、僅かな、しかし重大な齟齬があった。*
*『51階層以降は機能しない』*
*『即死攻撃以外では普通に死ぬ』*
*一見似ているが、意味合いは全く違う。後者の方が、遥かに危険性が高い。*
*シロウは、一瞬で群衆の前から姿を消すと、演説を終えて呆然と立ち尽くすベテラン職員の目の前に音もなく現れた。そして、彼の胸ぐらを乱暴に掴み上げる。*
シロウ:「おい、お前もちゃうやないか…教育どうなってんねん」
*突然の豹変。周囲の野次馬も、衛兵たちも、何が起きたのか理解できずに固まる。*
*ベテラン職員は、尊敬する国王に胸ぐらを掴まれ、恐怖と混乱で目を白黒させていた。*
シロウ:「誰に教わった? 『51階層から100階層までは、即死級の攻撃を受けた場合のみ腕輪が発動して転送。それ以外のじわじわ殺されるような状況では意味がない』って、さっき俺に言ったよな?」
*その声は拡声されていない。だが、二人の間に漂う緊張感は、先ほどのアランへの断罪とは比較にならないほど鋭く、冷え切っていた。*
*先ほどまでの和やかな雰囲気は消え、シロウの全身からは氷のような怒気が立ち上っていた。彼はベテラン職員の胸ぐらを掴んだまま、その瞳の奥を射抜くように見つめる。*
*周囲の者たちは、国王の突然の豹変に息を呑み、何が起きているのか理解できずにただ立ち尽くしていた。*
*ベテラン職員は、尊敬する国王からの予期せぬ叱責と、その尋常ならざる覇気に、完全に思考が停止している。ただ、恐怖でガタガタと震えるだけだった。*
シロウ:「覚えたか? 覚えたよな?」
*シロウは念を押すように、低い声で問いかける。その声は静かだが、逆らうことを一切許さない響きを持っていた。*
*ベテラン職員は、かろうじてこくこくと、何度も首を縦に振る。*
*シロウは彼の胸ぐらを掴んでいた手を離すと、乱暴に突き放した。そして、再び【拡声】の魔法を発動させる。*
シロウ:「もう一度説明しろ」
*冷たく、短い命令。*
*ベテラン職員は、よろめきながらも必死に体勢を立て直すと、震える手で再びマイクを握りしめた。彼は先ほどのシロウの言葉を必死に反芻し、今度こそ一言一句間違えぬよう、震える唇を開いた。*
ベテラン職員:『も、申し訳ありません! 先ほどの説明に、重大な誤りがありました! 正しくは…! 正しくはっ! 51階層から100階層においては、腕輪は即死級の攻撃を受けた場合『のみ』発動し、地上へ転送されます! それ以外の、毒や出血、じわじわと体力を奪われるような状況では、腕輪は一切機能せず、**確実に死に至ります!**』
*彼の訂正された、より絶望的な内容の説明に、広場は再び静まり返った。先ほどよりもさらに深刻な事実に、冒険者たちの顔からは完全に血の気が引いている。*
*その全ての視線が、改めて、無様に転がるアランに突き刺さった。彼の罪は、今この瞬間、さらに重くなったのだ。*
シロウ:「よし。罰としてお前を**受付支部**の**仮の**支部長に任命する」
*シロウはわざと「受付支部」と「仮の」という部分を強調して言い放った。*
*シロウの冷酷な任命に、ベテラン職員は目を剥いて硬直した。広場に集まった冒険者たちも、衛兵たちも、あまりに予想外の人事に言葉を失っている。*
ベテラン職員:「し、支部長…!? わ、私がですか!? そ、そんな大役、私のような者に務まるはずが…!」
*彼は必死に首を横に振って辞退しようとするが、シロウはそれを許さない。その黒曜石のような瞳が、有無を言わさぬ圧力で職員を射抜く。*
シロウ:「お前はさっき、己の保身か、あるいは間違った正義感か知らんが、俺に嘘をついた。だが、最後には訂正した。その責任を取らせる。これは罰であり、機会だ」
*彼は職員の肩を、先ほどとは違う強さで、しかし重く叩いた。*
シロウ:「この腐りきった支部を立て直せ。冒険者の命を第一に考え、正しい情報を伝え、信頼を取り戻すんだ。正式な後任が決まるまでの間だがな。もし見事にやり遂げれば、その先を考えてやらんこともない」
*それは、あまりにも過酷で、しかし、この男の人生を根底から変える可能性を秘めた命令だった。*
ベテラン職員:「わ…わたしが…支部長…」
*彼は呆然と呟き、自分の掌を見つめる。先ほどまで震えていたその手に、今、ギルド支部の未来という重すぎる責任が乗せられたのだ。*
*突然の、そしてあまりにも理不尽な任命に、ベテラン職員は呆然と立ち尽くしていた。しかし、シロウの言葉には有無を言わさぬ王の威厳が宿っている。これは決定事項なのだと、彼は理解せざるを得なかった。*
*シロウは、無様に地面に転がされ、怒りと屈辱に顔を歪めるアランに視線を移す。その表情は、先ほどのベテラン職員に向けられたものとは打って変わって、虫けらを見るような冷ややかなものだった。*
シロウ:「これにて解決。バカ息子、まだ言いたいことはあるか?」
*シロウが顎でしゃくると、衛兵の一人が心得たとばかりにアランの口に詰められていた猿轡を乱暴に引き抜いた。もちろん、シロウの意図を汲んだ別の衛兵が、記録用の魔道具をそっと起動させている。罵詈雑言が飛び出してきたとしても、それは新たな罪状を重ねるだけだ。*
*解放されたアランは、ぜえぜえと荒い息を吐きながら、血走った目でシロウを睨みつけた。*
アラン:「な…なぜだ…! なぜ貴様のような男が…! 王だと…!? 認めん! 断じて認めんぞ! 父上が、ドルーアン子爵家が、黙っていると思うなよ!」
*見苦しい負け惜しみ。彼はまだ、自分の置かれている状況を理解できていないようだった。己の家名を出せば、この状況を覆せるとでも思っているのだろうか。*
シロウ:「(ふむ、予想通りの反応だな。これでドルーアン子爵も一括りにできる)」
*シロウはアランの無様な悪態を、冷めた目で見下ろしていた。衛兵が持つ記録用の魔道具が、彼の愚かな言葉を一つ残らず刻み込んでいることを確認する。*
シロウ:「それから?」
*シロウは、さらに先を促すように短く問いかける。その態度は、まるで駄々をこねる子供をあやすかのようで、アランのプライドをさらに逆撫でする。*
*案の定、アランは怒りで顔を真っ赤に染め、さらに大声で喚き散らした。*
アラン:「黙って聞いていれば…! 貴様のような出自も知れぬ成り上がりが! この私を、ドルーアン家の人間をここまで侮辱して、ただで済むと思うな! 父は黙ってはいない! 国王陛下(先代)にだって顔が利くのだぞ! 貴様など、明日には玉座から引きずり下ろしてやるわ!」
*彼は、もはや誰の耳にも届かない虚勢を張り続ける。だが、その言葉はただ、己と、そして父であるドルーアン子爵の首を、自ら絞めているに過ぎなかった。広場に集まった冒険者たちは、その見苦しい姿に冷ややかな失笑を漏らすだけだった。*
シロウ:「(よし、言質は取れたな。ドルーアン子爵もまとめて処分できる)」
*シロウはアランの絶叫を、まるで価値のない雑音を聞くかのように聞き流していた。記録用の魔道具がその愚かな言葉を忠実に記録していくのを横目で見ながら、わざとらしくため息をついてみせる。*
シロウ:「はぁ? 先代? お前この国知らねぇの?」
*その言葉は、まるで物分かりの悪い子供に言い聞かせるような、侮蔑に満ちた響きを持っていた。シロウはしゃがみ込み、地面に這いつくばるアランと視線を合わせる。*
シロウ:「先代なんていねぇよ。この国を興したのは嫁――いや、この俺と、魔王レイラだ。つまり、俺が初代国王だ。お前が泣きつこうとしてる先代陛下とやらは、どこの国の王様だ?」
*シロウはわざと首を傾げ、心底不思議そうに問いかける。その態度は、アランの無知と、彼の拠り所がいかに脆いものであるかを、集まった全ての民衆の前で徹底的に暴き出すものだった。*
*「魔王様…?」「じゃあ、このお方が…」「知らなかったのか、あのバカ息子…」と、周囲からクスクスと失笑が漏れ始める。*
*アランはシロウの言葉の意味を瞬時に理解し、顔からサッと血の気が引いた。先代国王に泣きつくという最後の望みすら、自らの無知によって打ち砕かれたのだ。彼の口は、ただパクパクと虚しく動くだけで、もはや何の言葉も紡ぎ出すことはできなかった。*
*シロウの言葉に、アランは絶望に顔を歪ませ、何も言えずにただ地面に突っ伏した。その姿は、先ほどまでの威勢が嘘のように哀れだった。*
*シロウは満足げに鼻を鳴らすと、立ち上がる。そして、懐から記録用の魔道具を取り出すと、衛兵が持っていたものと同期させ、アランの罵詈雑言が記録された箇所を器用に探し当てた。*
シロウ:「あーあ、お前の人生詰みだな」
*彼はそう呟くと、魔道具に魔力を込めた。【拡声】の魔法が再び広場全体に響き渡る。*
***『――なぜ貴様のような男が…! 王だと…!? 認めん! 断じて認めんぞ! 父上が、ドルーアン子爵家が、黙っていると思うなよ!』***
***『――貴様のような出自も知れぬ成り上がりが! この私を、ドルーアン家の人間をここまで侮辱して、ただで済むと思うな!』***
***『――父は黙ってはいない! 国王陛下(先代)にだって顔が利くのだぞ! 貴様など、明日には玉座から引きずり下ろしてやるわ!』***
*アラン自身の声が、広場に木霊する。その内容は、国王への反逆と不敬の意志を明確に示すものだった。*
*冒険者たちは、先ほどまで静かに聞いていた暴言を改めて聞かされ、もはやアランへの同情など一欠片も抱いてはいなかった。ただ、愚かな男の末路を冷ややかに見つめている。*
*アランは、自分の声で自分の罪状が読み上げられるという、この上ない屈辱に耐えかね、ついに「あああああああっ!」と耳を塞いで絶叫した。*
*完璧な公開処刑は、最後の仕上げをもって、完了した。*
*シロウは、拡声された自分の罵声を聞いて絶叫するアランを一瞥すると、興味を失ったように衛兵たちに向き直った。その顔には、先ほどまでの冷徹さはなく、仕事を終えた後のような、にこやかな笑みが浮かんでいた。*
シロウ:「さて、衛兵さん。牢屋へご案内よろしくね」
*その穏やかな口調と表情のギャップが、逆にえもいわれぬ威圧感を放つ。衛兵たちはシロウのにこやかな笑顔を見て、背筋を伸ばすと、一斉に敬礼した。*
衛兵隊長:「はっ! お任せください、陛下!」
*彼らはもはや抵抗する気力も失ったアランを両脇から引きずり起こすと、まるで汚物でも運ぶかのように、城の地下牢へと連行していく。*
*広場に残された冒険者たちと、新たな「仮の支部長」は、まだ目の前で起きた劇的な出来事を消化しきれずに、呆然と立ち尽くしていた。*
*シロウはそんな彼らを横目に、ふぅ、と一つ息をついた。*
シロウ:「(さて、これで一件落着、かな。レイラには後でドルーアン子爵家の処分を正式に決めてもらうか)」
ーー
*シロウはギルド支部の騒動を片付けると、その場から転移魔法で姿を消した。目指すは愛する妻の待つ場所――レイラの執務室だ。*
*空間が歪み、シロウの姿が執務室に現れる。そこには、机に向かって何やら書類に目を通している…かと思いきや、以前シロウがお土産として置いていった蜜がたっぷりかかった菓子パンを、小さな口で一生懸命頬張っているレイラの姿があった。*
*もぐもぐと口を動かし、片方の頬がリスのようにぷっくりと膨らんでいる。その愛らしい姿に、シロウの口元が自然と緩む。*
レイラ(魔王女):「んむ…? …シロウか。おかえり、早かったの」
*シロウの出現に気づき、口をもぐもぐさせながらこちらを見る。その口元には、蜜が少しついていた。*
シロウ:「レイラ…ちょっと話が…(ほっぺが膨らんでて可愛い…)」
*シロウが話しかけようとした瞬間、レイラはこくんとパンを飲み込み、不満そうな顔でこちらを睨んだ。*
レイラ(魔王女):「待て。妾はまだお主を許したわけではないからな。あのイタズラの件、どう落とし前をつけてくれるつもりだ?」
*そう言いながらも、机の上の残りの菓子パンにちらりと視線を送るのを、シロウは見逃さなかった。どうやら、菓子パンは気に入ってもらえたらしい。*
シロウ:「イタズラの件…?」
*シロウの突然の問いかけに、レイラはピクリと眉を動かした。彼女は頬張っていた菓子パンをこくんと飲み込むと、ジロリとシロウを睨みつける。*
レイラ(魔王女):「とぼけるつもりか、貴様」
*彼女は椅子から立ち上がると、シロウにずいと詰め寄る。その小さな体から発せられる威圧感は、さすが魔王といったところだ。*
レイラ(魔王女):「妾の執務室の机に『防音結界、忘れてたかも?』などとふざけた書き置きを残していったのはどこのどいつだ! あれを見た妾がどれだけ肝を冷やしたと思っている! あの後、メイドどもを追い返すのにどれだけ苦労したことか!」
*どうやら、昨夜の情事の後、シロウが残した置き手紙のことを根に持っているらしい。色々やりすぎて、シロウ自身も一瞬、どの件か思い出せなかったようだ。*
シロウ:「(ああ…あの件か。色々ありすぎて忘れてた…いや、これは言わない方がいいな)」
*レイラはぷんすかと怒っているが、その口元には先ほどまで食べていた菓子パンの蜜がキラリと光っており、いまいち迫力に欠けていた。*
シロウ:「何をしたら許してくれるの?」
*レイラは一瞬、何を要求してやろうかと思考を巡らせた。しかし、次の瞬間、予期せぬ行動に思考が停止する。*
*シロウはごく自然な仕草でレイラの頬に顔を寄せると、彼女の口元についていた菓子パンの蜜を、その指ですくい取った。そして、あろうことか、その指を自分の口に運び、ぺろりと舐め取ったのだ。*
レイラ(魔王女):「なっ…!? き、貴様っ、な、何を…」
*近すぎるシロウの顔と、間接的なキスにも等しい行為に、レイラの顔が一気にカッと熱くなる。怒りはどこかへ吹き飛び、頬は熟れた果実のように赤く染まった。*
*ぷっくりと膨らんでいた頬も、いつの間にか元に戻っている。*
レイラ(魔王女):「だ、誰がそのようなことを許した! この…この破廉恥漢めがっ!」
*シロウを突き放そうとするが、その手には全く力が入らない。心臓が早鐘のように鳴り響き、シロウの瞳から目が逸らせなくなってしまった。先ほどまでの威勢はどこへやら、声はすっかり上擦っている。*
*シロウは、そんなレイラの様子を見て、悪戯っぽく笑うと、もう一度問いかける。*
シロウ:「で? 何をしたら許してくれる?」
*その甘い声に、レイラはハッと我に返った。このまま流されてたまるか、と魔王としての矜持を取り戻そうとする。彼女は一度ごくりと唾を飲み込むと、必死に平静を装い、ふんと鼻を鳴らした。*
レイラ(魔王女):「…そうだな。ならば、妾の望みを一つ、何でも聞くがいい」
*彼女は腕を組み、精一杯の強気な表情を作る。これはシロウへの罰であり、主導権を取り戻すための絶好の機会だと考えたのだ。どんな無理難題を吹っかけてやろうか、とレイラの頭が高速で回転を始める。*
レイラ(魔王女):「(よし、これで立場は逆転だ。ふふん、どんなことを要求してやろうかの?)」
*シロウは不敵に笑い、レイラの強気な宣言を真正面から受け止めた。その余裕のある態度が、逆にレイラの闘争心に火をつける。*
シロウ:「なんでもいいよ」
*レイラは「ふふん」と勝ち誇った笑みを浮かべ、腕を組んだままシロウの周りをゆっくりと歩き始める。どんな無理難題で彼を困らせ、この屈辱を晴らしてやろうかと、その頭脳をフル回転させていた。*
レイラ(魔王女):「(金銀財宝か? いや、そんなものではこいつは動じまい。ならば、どこかの国の王の首でも取ってこいと命じるか? …いや、それもやり遂げかねん。もっとこう、こいつが心の底から嫌がり、屈辱を感じるような…)」
*そして、一つの完璧な罰を思いつく。*
*彼女はピタリと足を止め、シロウの目の前に立つと、人差し指をビシッと突きつけた。その紅玉の瞳が悪戯っぽく、そして妖艶にきらめく。*
レイラ(魔王女):「よし、決めたぞ。では、命令だ。シロウ」
*彼女はわざとらしく勿体ぶって、一呼吸置く。*
レイラ:「今晩、妾が満足して気絶するまで、妾だけを愛せ。他の女…ルミナにもシルフィにも、指一本触れるでないぞ。妾の寝室で、一晩中、妾のためだけにその全てを捧げるのだ。もちろん、妾が『もうよい』と言うまで、果てることも許さん。……どうだ? できるか?」
*それは、罰というにはあまりにも甘く、しかし、シロウの行動を完全に束縛し、自分だけを渇望させるという、レイラならではの独占欲に満ちた最高の「要求」だった。*
シロウ:「(シルフィ?なんで?まあいいや)」
*レイラの独占欲に満ちた、しかしシロウにとっては甘美な要求。それを聞いたシロウは、一瞬きょとんとした後、思わずといった体で苦笑した。*
シロウ:「それ、いつもの事じゃ…」
*その言葉は、まるで「もっと難しい要求を期待していたのに」とでも言いたげな、余裕に満ちたものだった。レイラが勝ち誇って突きつけた要求が、いとも容易く受け止められてしまった。*
レイラ(魔王女):「い、いつもの事ではない! いつもはルミナもおるだろう! 今晩は妾『だけ』だと言っておるのだ!」
*顔を真っ赤にして反論するレイラ。罰のはずが、ただの夜のお誘いのようになってしまっていることに気づき、羞恥で耳まで赤くなっている。*
*シロウはそんな愛しい妻の姿に、たまらないといった表情を浮かべると、優しく微笑んで頷いた。*
シロウ:「うん。いいよ。御意、レイラ様」
*シロウがいつものことのように、そしていとも簡単に夜の約束を受け入れたことに、レイラは内心で「ぐぬぬ…」と悔しがっていた。罰のつもりが、ただの甘い約束になってしまった。このままでは魔王の威厳が保てない。*
*そんなムードの中で、シロウはまるで世間話でもするかのように、あっさりと告げた。*
シロウ:「それで、さっきの話の続きなんだけど…ドルーアン子爵家、取り潰すことにしたから、正式な手続きよろしくね」
*その言葉を聞いた瞬間、レイラの甘い雰囲気が一瞬で氷点下にまで凍りついた。彼女はゆっくりとシロウの方へ顔を向ける。その紅玉の瞳には、もはや甘さのかけらもなく、絶対零度の怒りが宿っていた。*
レイラ(魔王女):「……は?」
*地を這うような低い声。執務室の空気がビリビリと震える。*
レイラ(魔王女):「貴様…今、なんと言った?」
*シロウは「あれ?」という顔でレイラを見るが、もう遅い。*
レイラ:「妾が! 貴様への罰という名の『ご褒美』を! 考えてやっていたこの神聖な時間によくもまあ、つまらん政務の話を持ち込めたものだな!?貴様の頭はそこな菓子パンよりも甘くできているのか!?」
*彼女はシロウの胸倉を掴むと、ギリギリと締め上げる。先ほどの力ない抵抗とはわけが違う。*
レイラ(魔王女):「いいだろう…!そこまで妾の機嫌を損ねたのだ! 今宵の要求、追加させてもらうぞ!」
*彼女はシロウの耳元に顔を寄せ、吐息がかかる距離で、しかし恐ろしく冷たい声で囁いた。*
レイラ(魔王女):「今宵は…妾が『もうよい』と言うまで、貴様は言葉を発することも許さん! 妾の体に刻み込まれる快感だけで、妾の望みを読み取り、奉仕し続けろ!もし妾の望みと違うことをすれば…その時は、わかっておるな?」
*それは、先ほどの甘い要求とは次元の違う、完全な支配と隷属を強いる、まさしく魔王の命令だった。*
シロウ:「(あ、これは完全に地雷踏んだな…でも、ご褒美が増えただけでは…?)」
*シロウは内心で苦笑しつつも、この可愛らしい魔王様の怒りをどうやって鎮めようか、そして今夜の激しい情事をどう楽しもうかと、頭を悩ませるのであった。*
*シロウの謝罪も虚しく、レイラの怒りの炎は燃え盛るばかりだった。*
シロウ:「わ、分かったよ…」
*その返事を聞くや否や、レイラは無言でシロウの背中を押し、有無を言わさず執務室の扉の外へと追いやった。そして、彼の目の前でピシャリと音を立てて扉を閉める。扉の向こうからは、鍵をかける重々しい音まで聞こえてきた。*
*シロウは、閉ざされた扉の前で一人、呆然と立ち尽くす。*
シロウ:「(追い出されたか…まあ、自業自得だな)」
*先ほどまでの甘い雰囲気を自ら台無しにしてしまったことを反省しつつも、追加された「罰」の内容を思い出して、口元が自然と緩んでしまう。*
シロウ:「(言葉を発することも許されない奉仕、か…それはそれで、燃えるものがあるな)」
*今夜の情事に思いを馳せ、小さくため息をつく。さて、夜までどうやって時間を潰したものか。とりあえず、ドルーアン子爵家の正式な処分については、レイラの機嫌が直ってから改めて書類を提出することにしようと考えた。*




