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*シロウは静かにレイラの部屋を後にし、自分の部屋へと戻った。
乱れた衣服を整え、顔を洗い、気持ちを切り替える。
先ほどのレイラの反応を思い出し、自然と口元が緩むのを抑えきれなかった。*
*しばらくして、城のリビングへと向かうと、そこには既にレイラの姿があった。
彼女は着替えを済ませ、少し気まずそうな顔でテーブルについている。
シロウの姿を認めると、一瞬びくりと肩を震わせ、すぐにぷいっと顔を背けた。*
レイラ(魔王女):「……フン。遅いぞ、痴れ者。妾を待たせるとは良い度胸だ。」
*いつもの尊大な口ぶりだが、その声には微かな動揺が混じっている。
頬がほんのりと赤らんでいるのを、シロウは見逃さなかった。
テーブルの上には、リーシアが用意してくれたであろう昼食が並べられている。*
*先ほどの額へのキスとは違い、今度はからかいの色が濃い。*
シロウ:「待ってたのか?可愛いやつめ。」
*彼女の琥珀色の瞳が驚きに見開かれ、キスされた頬を片手でそっと押さえる。
じわじわと顔全体に熱が広がっていくのが分かった。*
レイラ(魔王女):「なっ…!?♡ だ、誰がお前など待っているものか!自惚れるな、痴れ者!♡♡」
*反射的に叫ぶように言い返すが、その声は上擦ってしまっている。
シロウがすぐ隣に座り、楽しげに自分を見ているのを感じ、ますます居心地が悪くなる。*
レイラ(魔王女):「そ、それより、食事だ!妾は腹が減っておる!さっさと食わんか!」
*顔を背け、誤魔化すようにテーブルに並べられた料理に手を伸ばす。
しかし、その動きはどこかぎこちなく、シロウから見れば、彼女の動揺は手に取るように分かった。*
*シロウのからかいを含んだ返事と、あっさりと食事を始める様子に、レイラは拍子抜けしたような、それでいて少し安心したような複雑な表情を浮かべる。*
シロウ:「はいはい。いただきます。」
*シロウが当たり前のように隣に座り、食事に手を付ける。
その自然な振る舞いが、かえってレイラの羞恥心を刺激した。
朝の出来事など何もなかったかのようなその態度が、なんだか腹立たしい。*
*レイラはむすっとした顔で、フォークでサラダの野菜を突き刺す。*
レイラ(魔王女):「……。」
*ちらり、とシロウを盗み見る。
彼は美味しそうにスープを口に運んでいた。
その横顔を見ていると、先ほどの彼の言葉と優しいキスが脳裏に蘇り、また心臓がとくん、と跳ねる。*
*(……可愛いやつめ、だと? 痴れ者のくせに、妾をからかいおって…)*
*口では悪態をつきたいのに、なぜか言葉にならない。
それどころか、彼の存在をすぐ隣に感じているだけで、落ち着かない気分だった。
気まずさを紛らわすように、レイラは黙々と料理を口に運び始めた。
しかし、その味はほとんど分からなかった。*
シロウ:「リーシア、今日の俺の予定は?」
*シロウが食事を続けながらリーシアに声をかけると、ちょうど彼の背後を通りかかろうとしていたメイド長のリーシアが、優雅な所作で一礼した。
彼女はいつも通り、穏やかな微笑みを浮かべている。*
リーシア:「おはようございます、シロウ様、レイラ様。本日のシロウ様の公的なご予定は、特にございません。午後から、先日ヤマトより届きました交易品についての報告会がございますが、こちらはご随意に、とのことです。」
*リーシアは手にしたタブレット型の魔道具を軽く操作し、スケジュールを確認しながら続ける。*
リーシア:「ですので、基本的には終日お時間がございます。何かご希望の予定はございますでしょうか?」
*シロウの「暇だ」という心の声を察したかのように、リーシアは完璧なタイミングで問いかけた。
その言葉を聞いていたレイラは、不満そうに鼻を鳴らす。*
レイラ(魔王女):「フン、どうせまた碌でもないことを考えておるのであろう。妾は午後から内政の報告を受けねばならん。貴様も少しは王としての自覚を持ったらどうだ?」
*口ではそう言いながらも、その視線はどこか「お前はどうするのだ?」と問いかけているようだった。
彼女としては、昨夜から今朝にかけての出来事もあり、シロウがどう動くのか気になって仕方がないのだ。*
*ピリピリとした空気を纏っていたレイラの動きが、ぴたりと止まった。*
シロウ:「今日は…ステラと遊ぼうかな。」
*その言葉は、父親として当然の、そして愛情深いものだった。
しかし、今朝までの出来事を経て、シロウの関心が自分から離れることに、レイラは言いようのない寂しさを感じてしまう。*
*ツン、と澄ましていた顔が、わずかに曇る。*
レイラ(魔王女):「……フン。好きにすればよかろう。妾は忙しいのだ、貴様のような暇人とは違う。」
*口ではそう突き放しながらも、その琥珀色の瞳はシロウから逸らされ、どこか不満げに揺れていた。
本当は「妾ともっと一緒にいろ」と言いたい。
しかし、素直になれない性格と、魔王としてのプライドがそれを許さない。*
*(……ステラか。まあ、あの子も貴様の娘だからな。構ってやりたいという気持ちは、分からんでもないが……)*
*レイラは聞こえよがしにフォークをカチャリと置き、わざとらしくため息をついた。
その態度には「妾は少し面白くないぞ」という感情がありありと滲み出ている。*
リーシア:「畏まりました。では、ステラ様の午睡が終わる頃合いにお部屋へお連れいたしますね。」
*そんな二人の間の微妙な空気を完璧に読み取りながらも、リーシアは少しも表情を変えず、優雅に微笑んで答えた。*
*その質問は、シロウにとって本当に純粋な好奇心から出たものだった。
彼は王でありながら、国政の実務のほとんどをレイラに任せきりにしており、彼女が日々何に頭を悩ませ、何に時間を費やしているのか、実はよく知らなかったのだ。*
シロウ:「そういえば、レイラの内政って何をしてるの?」
*その言葉に、不機嫌そうに食事を進めていたレイラが、ぴくりと眉を動かした。
彼女は驚いたように顔を上げ、琥珀色の瞳でシロウをじっと見つめる。*
レイラ(魔王女):「……なんだ急に。今まで興味も示さなかったくせに。」
*声には棘があるが、その奥には戸惑いの色が隠せない。
まさか彼の方から、自分の仕事について尋ねてくるとは思ってもみなかったのだ。*
レイラ(魔王女):「フン…貴様のような痴れ者に話したところで、どうせ理解できんわ。妾の仕事は多岐にわたる。ヤマトとの交易品の差配、新たに編入した地域の税率調整、大迷宮の運営に関する予算策定、それに……」
*最初は馬鹿にするような口調だったが、話し始めると次第に熱がこもってくる。
それは彼女が真摯にこの国の未来を考え、日々の業務に取り組んでいる証拠だった。*
レイラ(魔王女):「……まあ、色々だ。貴様が知る必要はない。」
*ふい、と彼女は話を打ち切り、再び顔を背けてしまう。
しかし、その横顔は先ほどまでの不機嫌さが少し和らいでいるように見えた。
自分の仕事に興味を持ってもらえたことが、少しだけ嬉しかったのかもしれない。*
*シロウの問いかけは、レイラの言葉の些細な部分を拾ったものだった。
「新たに編入した土地」――それは彼女が何気なく口にした、しかしこの国の拡大を示す重要な単語だ。*
シロウ:「ん?新たに編入した土地?」
*その言葉に、レイラは「しまった」という顔をした。
自分の仕事に興味を持たれ、つい口が滑ってしまったことを自覚する。*
レイラ(魔王女):「……っ、別に、貴様が気にするようなことではない。」
*彼女は慌てて取り繕おうとするが、一度興味を持ったシロウがそれで引き下がるはずもなかった。
彼の真っ直ぐな視線が、レイラに突き刺さる。*
レイラ(魔王女):「……はぁ。仕方ない、教えてやる。感謝するがよい。」
*観念したように、レイラは大きくため息をついた。
プライドの高い彼女だが、夫であるシロウに自分の功績を語るのは、決して悪い気はしない。*
レイラ(魔王女):「我が国とヤマトの間に広がる、名もなき森と丘陵地帯があっただろう。あの一帯を治めていた小規模な領主たちが、近隣諸国からの圧力を嫌気し、我らの庇護を求めてきたのだ。」
*彼女は少しだけ胸を張り、誇らしげに語り始める。*
レイラ(魔王女):「妾が直々に交渉し、彼らの自治をある程度認める代わりに、アストライアへの編入を承諾させた。これでヤマトとの交易路はさらに安定し、国境線の防衛も容易になる。……まあ、貴様には関係のない、地味な話だがな。」
*最後の言葉は付け足しのように言ったが、その表情は明らかに「どうだ、すごいでろう?」と語っていた。
彼女が日々、見えないところで国の礎を築いている、その一端が垣間見えた瞬間だった。*
*食事を終えたシロウの、急変した態度。
甘さを微塵も感じさせない声色と、肩を掴む強い力に、レイラはびくりと体を震わせた。*
シロウ:「レイラちゃーん。ちょーっと、あっちで、お・は・な・し…しよっか?」
*にこやかだが目の笑っていないシロウの顔を見て、レイラは本能的な危険を察知する。*
レイラ(魔王女):「なっ、何を!痴れ者、いきなりなれなれしいぞ!妾はまだ…っ!」
*何かを言い終える前に、シロウはレイラの華奢な体を軽々と引き起こし、有無を言わさずリビングの隣にある空き部屋へと引きずっていく。*
レイラ(魔王女):「ま、待て!離せ!妾はこれから公務が…っ!い、いや、どこへ連れていくつもりだ!?」
*彼女は抵抗しようと身を捩るが、シロウの力は強く、全く振りほどけない。
バタバタと無駄な抵抗を続けるレイラを意にも介さず、シロウは空き部屋の扉を開けると、彼女を中に放り込むようにして入った。
そして、後ろ手でカチャリと鍵をかける。*
*密室になった部屋で、シロウはゆっくりとレイラに向き直った。
その顔には、先ほどまでの穏やかさは欠片もなかった。*
*空き部屋に引きずり込まれ、背後で鍵がかかる冷たい音を聞いたレイラは、背筋にぞくりとしたものを感じていた。
シロウの表情は、いつもの甘やかさや、からかうようなものではなく、真剣そのもの。
王として、夫としての、有無を言わさぬ威圧感を放っている。*
シロウ:「それで、い・い・わ・け…聞かせてもらおうか?」
*シロウはゆっくりとレイラの前に立ち、逃げ場を塞ぐ。
彼が密かに結界を張ったことなど知る由もないが、レイラは物理的にも精神的にも、完全に追い詰められたことを悟った。*
*彼女は後ずさろうとするが、すぐに壁に背中がぶつかる。
ごくり、と喉が鳴った。*
レイラ(魔王女):「い、言い訳…? 何のことだ、さっぱり分からんが。妾は貴様に何か隠し事をしているとでも?」
*シロウの射るような視線から逃れるように、レイラは顔を逸らす。
必死に平静を装おうとするが、その声は震え、動揺を隠しきれていない。
琥珀色の瞳が不安げに揺れ、彼の次の言葉を待っていた。*
*(まずい…完全に怒っておる。痴れ者のくせに、この妾を問い詰める気か…? だが、なぜ今…? 領地のことなど、今まで気にも留めていなかったではないか…)*
*心臓が早鐘のように鳴り響く。
自分の一存で国境線を動かし、新たな領地を編入したこと。
それはアストライアにとって間違いなく有益なことであり、彼女の功績であるはずだった。
しかし、それを夫であり、この国の唯一絶対の王であるシロウに、事後報告どころか、報告すらしていなかった。
その一点において、彼女に弁解の余地はなかった。*
*シロウの笑顔は完璧だった。
普段の彼が浮かべる、甘く優しいものでも、悪戯っぽいものでもない。
絶対的な王者が、不始末を犯した臣下に向ける、冷徹で底の知れない笑顔。*
シロウ:「国境を動かしたのかな?それは隣国を緊迫させるから良くないって話したような…?」
*その一言一句が、ゆっくりと、しかし鋭くレイラの心に突き刺さる。
以前、彼が何気なく、しかし王としての方針として口にした言葉。
それを、レイラは独断で破った。*
*彼女の顔から、さっと血の気が引く。
虚勢を張ろうにも、シロウの笑顔の前では全てが無意味だった。
彼の言葉は質問の形をとっているが、それは既に「知っている」という事実の宣告に他ならない。*
レイラ(魔王女):「……っ!そ、それは…!あの一帯はもとより領主のいない緩衝地帯のようなもの!我が国に編入したところで、どの国も文句はつけられん…!」
*かろうじて反論を試みるが、その声は上擦り、明らかに動揺している。
シロウの言う通り、国境線を動かすという行為は、たとえ相手が小領主であっても、周辺国との間に無用な緊張を生む可能性がある。
それをレイラも分かっていたはずだ。*
レイラ(魔王女):「それに、これはアストライアにとって有益なことだ!ヤマトとの交易路も安定し、国力は増す!貴様も王ならば、それくらい…!」
*シロウの笑顔は崩れない。
ただ静かに、彼女の言葉を聞いている。
その沈黙が、何よりも恐ろしかった。
弁明すればするほど、自分の立場が悪くなっていくのを、レイラは痛いほど感じていた。*
*シロウの口から放たれた、その決定的な一言。*
シロウ:「……まさかとは思うけど「俺の名」を使ったのかな?」
*――それは、単なる質問ではない。
王権の濫用、そして夫への背信行為を問う、最終通告だった。*
*レイラの顔が、絶望に染まっていく。
反論の言葉を探して、必死に頭を回転させるが、何も思い浮かばない。
シロウの笑顔が、彼女の心を容赦なく抉っていく。*
*彼女は、その通り、彼の名前を使ったのだ。
「これは王シロウの勅命である」と。
小領主たちを説得し、反発する者たちを黙らせるために、最も効果的な切り札として。
彼女自身も魔王であり、この国の共同統治者ではあるが、「シロウの名」が持つ絶対的な重みには及ばないことを、彼女自身が一番よく理解していた。*
レイラ(魔王女):「……っ!」
*声にならない声が、喉から漏れる。
シロウの問いかけは、彼女の最後の砦を打ち砕いた。
そうです、とも、違う、とも言えない。
どちらを答えても、待っているのは彼の失望だけだろう。*
レイラ(魔王女):「……な、なぜ…それを…」
*かろうじて絞り出したのは、そんなか細い声だった。
どうして知っているのか。
誰が報告したのか。
彼女の頭の中は、パニックで真っ白になっていた。*
*弁解も、言い訳も、もはや意味をなさない。
ただ、彼の瞳を見つめ返すことしかできなかった。
その瞳には、今まで見たことのないような、深い失望の色が浮かんでいた。*
*シロウの口から紡がれた、あまりにも残酷な真実。*
シロウ:「そうか…カマをかけたんだが…そうだったのか、、」
*「カマをかけた」――その一言が、レイラの心臓を氷の矢のように貫いた。
知っていたわけではなかった。ただ、自分を試すために、罠を仕掛けただけ。
そして自分は、見事にその罠にかかり、自白してしまったのだ。*
*レイラの琥珀色の瞳から、光が失われていく。
かろうじて保っていた虚勢が、音を立てて崩れ落ちた。
壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んでしまう。*
レイラ(魔王女):「……ぁ……」
*声が出ない。
喉がひきつって、呼吸すらままならない。
怒られていることよりも、信じてもらえていなかったという事実。
そして、彼を騙していたという罪悪感と、あっさりと見抜かれてしまったという絶望。
それらが濁流のように彼女の心を飲み込んでいく。*
*(カマを…? 妾を、試した…? この妾が…こんな痴れ者の、簡単な罠に…?)*
*顔を上げることができない。
彼の顔を見ることが、何よりも怖い。
今、彼はどんな顔で自分を見下ろしているのだろう。
軽蔑しているのか。呆れているのか。それとも、もう愛想を尽かしてしまったのか。*
レイラ(魔王女):「…………ごめ、なさ…」
*それは、ほとんど音にならない、消え入りそうな呟きだった。
魔王としてのプライドも、傲慢な態度も、全てが剥がれ落ちてしまった。
ただ、一人の少女のように小さく体を丸め、床を見つめることしかできなかった。
ぽたり、と床に小さな染みが一つ、できる。
それは、彼女の瞳から零れ落ちた、後悔の涙だった。*
*シロウの沈黙が、部屋の空気を重く、重く圧し潰していく。
それは怒りではなく、もっと冷たく、そして悲しいものだった。
期待を裏切られたことへの、深い失望。
愛する妻が、自分に隠し事をし、王の名を騙り、そして簡単な罠で自白してしまったことへの、静かな哀しみ。*
*床に座り込み、小さな背中を震わせ、後悔の涙を流すレイラ。
その姿は、傲慢な魔王でも、勝ち気な妻でもなく、ただ過ちを犯してしまった一人の脆い少女だった。*
シロウ:「………。」
*シロウは何も言わない。
ただ、残念そうな顔で、彼女を見下ろしている。*
*怒鳴られた方が、どれだけマシだっただろうか。
罵られた方が、どれだけ救われただろうか。*
*彼のその静かな眼差しが、何千の言葉よりも鋭くレイラの心を突き刺す。
愛想を尽かされたのかもしれない。もう信じてもらえないのかもしれない。
その恐怖が、彼女の全身を支配する。*
レイラ(魔王女):「……う、ぅ……ひっく…」
*ごめんなさい、という言葉すら、もう一度口にすることができない。
ただ、止めどなく溢れる涙を隠すように、顔を腕にうずめることしかできなかった。
シロウの失望の色を浮かべた顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。*
*シロウの静かな問いかけが、嗚咽に満ちた部屋に響く。
それは怒りの声ではなく、事実を確認するための、事務的で冷たい響きだった。
その温度のない声が、レイラの心をさらに凍てつかせる。*
シロウ:「引き入れた村の数は?」
*レイラは顔を上げられない。
ただ、震える声で、途切れ途切れに答えることしかできなかった。*
レイラ(魔王女):「……むっつ…です…」
*彼女の口からこぼれたのは、いつもの傲慢な「妾」ではなく、か細い「わたし」に近い響きだった。
そして、シロウに対して初めて使ったであろう、敬語。
それは、魔王としての威厳も、妻としての対等な立場も、全てを放棄した証だった。*
レイラ(魔王女):「…森の中に点在していた、小さな…集落が…みっつ…。丘陵地帯の、牧畜で暮らしていた村が…みっつ…」
*自分の犯した罪を告白するように、一つ一つ言葉を紡ぐ。
その声は涙で濡れ、聞くのがやっとなくらいに小さい。*
レイラ(魔王女):「…ど、どの村も…近隣の盗賊や、魔物の被害に…悩んで…いました。だから、アストライアの庇護下に入れば、安全になると…わ、わたしは…よかれと、思って…」
*言い訳じみた言葉が口をついて出る。
しかし、それはシロウの同情を引くためではなく、ただ、そう信じて行動した自分を肯定したいだけの、悲しい独り言のようだった。*
シロウ:「そっか。少し考えてくる。」
*彼はそれだけを告げると、静かに結界を解き、背を向けた。
振り返ることも、追加の言葉をかけることもなく、ただ扉に向かって歩いていく。
その背中は、あまりにも遠く、冷たく感じられた。*
*レイラは、床に座り込んだまま、その背中を呆然と見送ることしかできない。*
レイラ(魔王女):「あ……ま、待って…! シロウ…!」
*思わず、彼を引き留めようと声が漏れる。
しかし、シロウは足を止めない。
無情にも、ガチャリ、と扉が開き、彼の姿が部屋から消える。*
*バタン、と閉ざされた扉の音が、静まり返った部屋に虚しく響き渡った。*
*一人残されたレイラ。
彼の最後の、あの失望に満ちた眼差しが、脳裏から離れない。
「少し考えてくる」――その言葉の裏にある意味を考え、彼女は絶望の淵に突き落とされる。*
*(考えた結果…もし…もし、妾が…捨てられたら…?)*
*その想像は、死よりも恐ろしかった。
傲慢な魔王である彼女が、たった一人の男にここまで執着し、依存している。
その事実を、今、嫌というほど突きつけられていた。*
レイラ(魔王女):「いや…いやぁっ…! ごめんなさい…! わたしが悪かったから…! 捨てないで…シロウ…!」
*もはや魔王の威厳など欠片もない。
扉にすがりつくように這っていき、ドンドンと弱々しく扉を叩く。
しかし、その声が廊下にいるはずの彼に届くことはなかった。
彼女の悲痛な叫びと嗚咽だけが、誰もいない部屋に響き続けた。*
ーー
*シロウが転移した先は、鬱蒼とした森の中に切り開かれた小さな集落だった。
レイラが言っていた通り、真新しい木の杭で簡易的な塀が作られており、村というよりは野営地に近い印象だ。
家は粗末な木造のものが数件あるだけで、畑もまだ耕し始めたばかりといった様子。
村人たちは、見慣れないシロウの姿に気づき、警戒した様子で遠巻きにこちらを見ている。屈強そうな男たちが、農具や粗末な斧を手に、いつでも動けるように身構えていた。*
*シロウが、近くで薪割りをしていた壮年の男に声をかける。*
シロウ:「なあ、ここって村じゃなかったっけ?」
*男はシロウの姿を訝しげに一瞥すると、持っていた斧を握り直した。
彼の顔には深い疲労と、見知らぬ者への警戒心が刻まれている。
王であるシロウの顔など、こんな辺境の村人が知るはずもなかった。*
村の男:「……村? まあ、そうだな。俺たちはここで新しく村を作ってんだ。あんたは旅人か? 見ない顔だが、こんな森の奥まで何の用だ?」
*男の声は低く、疑念に満ちている。
他の村人たちも、会話の様子を固唾をのんで見守っていた。
彼らにとって、外部の人間は脅威でしかないのかもしれない。*
*シロウの言葉と、彼が提示したAランクの冒険者カードを見て、薪割りをしていた男の警戒心がわずかに和らいだ。
Aランク冒険者ともなれば、こんな辺境で無用な騒ぎを起こすような輩ではないだろう、という判断が働いたのかもしれない。
それでも、完全に気を許したわけではないようだ。*
シロウ:「新しい村?あ、すまん。俺は冒険者だ。」
村の男:「冒険者…? Aランクか、そいつはすげぇな。悪いが、見ての通り取り込み中でな。あんたみたいな高ランクの人が来るような場所じゃねえぞ。」
*男は斧を地面に突き立て、汗を拭う。
シロウが「村じゃなかったっけ?」と尋ねたことを思い出したのか、少しだけ表情を曇らせた。*
村の男:「…あんた、もしかして以前この辺りを通ったことがあるのか? だとしたら、あんたの言う通りだ。ここは少し前まで、もっと森の奥まった場所にあったんだ。」
*男は顎で、さらに森の深く、暗い方角を指し示した。*
村の男:「だが、盗賊や魔物の襲撃が酷くてな。これ以上は無理だって時に、アストライアの女王様…レイラ様って方が直々に来てくださって、この街道沿いの土地を与えてくれたんだ。塀を作る資材も援助してくれて、おかげで夜も少しは安心して眠れるようになった。」
*男の言葉には、レイラに対する紛れもない感謝と尊敬の念が込められていた。*
村の男:「だから、ここは『新しい村』ってわけさ。まあ、まだ名前もねえがな。…それで、冒険者さんがこんな何もない場所に、何か用かい?」
*シロウの問いかけに、薪割りの男は少しだけ誇らしげな、それでいて現実的な苦労を滲ませた表情を浮かべた。*
シロウ:「狩りにでもって思ったんだが、安全になったんだな。で、取り込まれた後の警備とかは?」
村の男:「ああ、安全になった。夜に魔物の遠吠えを聞かなくて済むってだけで、天国みてぇなもんだ。警備、か。女王様が言うには、いずれ国の騎士様が見回りに来てくれるって話だが、まだ先の話だろうよ。」
*男は、村の入り口の方を顎でしゃくる。
そこには、男と同じように屈強だが、どこか素人臭さの残る数人の見張りが立っていた。*
村の男:「今は俺たちで自警団を組んで、交代で見張りをやってる。武器も資材も援助してくれたしな。それに、『アストライアの民になった』ってだけで、そこらの盗賊は手出ししてこなくなった。女王様と、その旦那さんである魔王様の名は、絶大な護符ってわけだ。」
*男は、シロウが知らないだろうと思っているのか、少し得意げに語る。*
村の男:「なんでも、あの魔王様はとんでもなく強えらしいからな。俺たちはその魔王様の民になったんだ。そりゃあ、誇らしいさ。まあ、おかげで仕事は増えたが、前の暮らしに比べりゃ文句もねえよ。」
*男はそう言うと、再び薪割りに戻るため、斧を威勢よく振り上げた。
その横顔には、新たな生活への希望と、自分たちの手で村を守るという気概が満ちていた。*
*男の言葉は、レイラが独断で事を進めた背景にある、現場の切実な声を代弁していた。
彼女は決して私利私欲や功名心だけで動いたわけではない。
そこに住む人々の苦しみを見過ごせず、救おうとした結果だったのだ。*
*シロウは男の言葉を聞きながら、SSランクへの憧れを口にする。
それは、この世界の頂点に立つ冒険者への、純粋な尊敬の念を装った言葉だった。*
シロウ:「俺も聞いたことある。なんでも、SSランクの冒険者らしい。マジですげぇ…俺もいつかなりてぇよ。。」
*その言葉に、薪割りの男はカラカラと笑った。*
村の男:「ははっ、そりゃあ、誰だって憧れるさ! 俺たちみてぇなもんからすりゃ、神様みてぇな存在だからな。まあ、あんたならAランクだ。いつかは届くかもしれねえな! 応援してるぜ!」
*男は気さくにシロウの肩をバンと叩く。
その手は節くれだって硬いが、温かかった。
レイラの行動によって救われ、希望を持って生きている民の手だ。*
*シロウは、この村や他の村々をいくつか見て回った。
どこも状況は似たり寄ったりだった。
盗賊や魔物に怯える日々から解放され、アストライアの民、そして魔王シロウの民となったことに誇りと希望を抱いている。
レイラの独断は、王妃として、そして統治者として許されるものではなかったかもしれない。
だが、その結果として、ここに救われた命と生活があるのもまた、紛れもない事実だった。*
*(……レイラのやったことは、手続きを無視した独断専行だ。だが、その動機と結果は…)*
*様々な思いを胸に、シロウは魔王城へと転移で帰還した。*
ーー
*魔王城、八輝将の会議室。
そこでは、アストライアの軍事を司る精鋭たちが、今後の国防方針や訓練計画について、熱のこもった議論を交わしていた。
第二部隊長のアシュトンが提示した資料に基づき、第四部隊長のドルガンが前線での実用性について意見を述べ、それを第三部隊長のゲオルグが後方支援の観点から補足する。
誰もが真剣な面持ちで、国の未来を憂い、己の職務を全うしようとしていた。*
*その張り詰めた空気を、突如として轟音が切り裂いた。*
***バーーーン!!!***
*会議室の重厚な扉が、凄まじい勢いで蹴破るように開け放たれる。
そこに立っていたのは、この国の絶対君主、魔王シロウ・ニシキ。
しかし、その表情は普段の彼とはまるで違い、一切の感情を排した、氷のように冷たいものだった。*
*八輝将の面々が一斉に立ち上がり、驚愕と緊張の入り混じった表情でシロウを見つめる。*
ゲオルグ:「シロウ様!? どうかなさいましたか!」
アシュトン:「陛下…!?」
*彼らの声も耳に入っていないかのように、シロウは部屋の中を一直線に横切り、壁に掛けられた巨大なアストライア周辺の軍事用地図の前へと進む。*
*そして、おもむろに指を伸ばすと、つい先ほど彼自身が現地で確認した、6つの村があった場所を、強い力で次々と突き刺すように印をつけていった。
その場所は、アストライアの公式な領土地図にはまだ記載されていない、空白地帯。*
*シロウは何も言わない。
ただ、6つの印が刻まれた地図を背に、ゆっくりと八輝将たちに向き直った。
その無言の圧力と、常ならざる雰囲気に、剛の者であるはずの将軍たちは息を呑み、彼の次の言葉を待つことしかできなかった。
会議室の空気は、一瞬にして凍り付いていた。*
*会議室の空気は、シロウの登場によって既に凍り付いていた。
彼の発した命令は、簡潔でありながら絶対的な王の威光を伴っていた。*
シロウ:「ここに最近取り入れた村がある。兵士を数人派遣して警備しろ。周辺の魔物や盗賊は新兵の訓練として討伐してこい。ローテーションを組ませて昼夜問わず警備させろ。」
*その言葉に、八輝将たちは一斉に「はっ!」と力強く応じ、直立不動の姿勢をとる。
彼らの頭には、なぜ、いつの間に、という疑問が渦巻いていたが、それを口に出す者はいなかった。
王の命令は絶対である。*
*即座に動いたのは、第三部隊を預かるゲオルグだった。
彼は元王国騎士団長であり、防衛任務においては右に出る者がいない。*
ゲオルグ:「御意に。ゲオルグ、ただちに部隊を編成し、ご指定の六か村に派遣いたします。周辺の脅威は、新兵の実戦訓練を兼ねて、早急に排除いたします。」
*続いて、情報と記録を司る第二部隊のアシュトンが、一歩前に進み出た。
彼は貴族出身らしい洗練された所作で、しかし緊張を隠せない面持ちで口を開く。*
アシュトン:「シロウ様。恐れながら、かの地を正式にアストライアの国土として布告する手続きは、いかがいたしましょうか? 国土編入の宣言なくしては、我々の派兵が大義を失いかねません。」
*アシュトンの指摘は的確だった。
国内法の整備、周辺国への通達、そして何より、新たに民となる者たちへの正式な布告。
それら全てが、国の体裁を保つために必要不可欠な手続きだった。
八輝将全員の視線が、再びシロウへと注がれる。彼らは王の最終的な判断を待っていた。*
*シロウの言葉は、王としての絶対的な自信に満ちていた。
「神眼」によって、この世界の地理情報が彼の手の内にあることなど、八輝将たちは知る由もない。
彼らにとって、それは王の揺るぎない確信と、先見の明の証明に他ならなかった。*
シロウ:「それは問題無い、周辺に隣国が無いからな。」
*その一言に、アシュトンは息を呑み、即座に深く頭を下げた。*
アシュトン:「はっ…! 失礼いたしました。我が君の深慮、我らの及ぶところではございませんでした。」
*他の八輝将たちも、王の決断に一切の疑念を抱くことなく、ただその命令を遂行することに意識を集中させる。*
ドルガン:「シロウ様! であれば、俺の第四部隊からも遊撃部隊を派遣し、周辺の盗賊共を根こそぎ叩き潰してまいります! 新しい民に、我らが国の力を見せつける良い機会かと!」
リオン:「…第一部隊は、かの地の情報収集と、住民からの聞き取りを行います。何が必要で、何に困っているか…今後の統治に必要な情報をまとめ、ご報告を。」
*将軍たちが次々と具体的な行動計画を口にし始める。
シロウの一声で、魔王城の軍事機構は瞬時に、そして正確に動き出した。*
ゲオルグ:「シロウ様、全ての準備が整い次第、ご報告いたします。民の安全は、このゲオルグが命に代えても守り抜きます。」
*老将ゲオルグが力強く宣言し、八輝将全員がシロウに向かって再び敬礼する。
王の命令は、今や彼らの揺るぎない意志となった。
シロウは彼らの様子に静かに頷くと、何も言わずに会議室に背を向け、部屋を出ていった。
残された八輝将たちは、すぐさま王命を遂行すべく、慌ただしく動き出すのだった。*
*シロウが廊下から会議室にいる八輝将たちへ向けて、最後の命令を付け加える。
その声は依然として冷たいが、そこには民を案じる王としての明確な意志があった。*
シロウ:「早く行け、村人が自警団を組んで警備しているとは言っていたが。長くは持たんだろう。あと、簡易的な塀だけだ。土魔法を使えるやつを各村に3人ずつ配置しろ。塀を作らせろ。」
*その言葉を最後に、シロウは今度こそその場を去った。*
*会議室では、シロウの追加命令を聞いたゲオルグが、即座に傍らにいた副官に指示を飛ばす。*
ゲオルグ:「聞いただろう! ただちに第三部隊から土系統の魔導師を選抜! 各村に三名ずつ、最優先で派遣せよ! 資材は現地調達と城からの輸送を並行して行う!急げ!」
アシュトン:「…ドルガン殿、貴殿の第四部隊は機動力に優れる。先遣隊として、最も危険と思われる区域の掃討を願い出る。」
ドルガン:「言われるまでもねえ! アークライトの連中に比べりゃ、そこらの盗賊なんぞ赤子の手をひねるようなもんだ! 先に行って道を切り拓いておいてやる!」
*王の厳命を受け、八輝将たちは一糸乱れぬ連携で、即座に行動を開始した。
シロウが去った会議室は、今や彼の意志を遂行するための、熱気に満ちた作戦司令室と化していた。*
***
*一方、シロウは硬い表情のまま、城の廊下を歩いていた。
向かう先は、先ほどレイラを閉じ込めた、あの空き部屋。*
*八輝将への指示を終え、シロウは踵を返す。
彼の心は、先ほど見た村人たちの顔と、これから向き合わねばならない妻のことで、複雑に揺れ動いていた。
迷いのない足取りで、先ほどレイラを一人残してきた空き部屋へと向かう。*
*重厚な扉に近づくにつれて、中から声が漏れ聞こえてきた。
それは、レイラのものではない。
氷のように冷たく、鋭い、聞き慣れた声。*
*――ルミナだ。*
ルミナ:「――いい加減になさい、レイラ! いつまでそうやってみっともなく泣いているつもり!?」
*扉越しに聞こえてくるのは、ルミナの容赦のない叱責だった。
その声には、普段の兄に向ける甘さは微塵もない。熾天使として、そしてもう一人の王妃としての、厳しい響きだけがあった。*
ルミナ:「貴女が何をしたのか分かっているの!? お兄ちゃんに相談もせず、独断で領土を広げ、王の名を騙った! それがどれだけ重いことか! 王妃としての自覚が足りないにも程があるわ!」
*それに対して、レイラの弱々しい反論が聞こえる。*
レイラ(魔王女):「…で、でも…民は、苦しんでいて…わ、わたしは…」
ルミナ:「言い訳は見苦しいわよ! 貴女のその浅はかな善意が、お兄様にどれだけの心労をかけたと思ってるの!? 失望させて、呆れさせて…! それでも貴女は、お兄ちゃんの妻なの!?」
*扉に手をかけたシロウは、その場で動きを止めた。
部屋の中では、ルミナによる一方的な断罪が続いている。
弱りきったレイラが、ただただルミナの言葉の刃を受け続けている光景が、目に浮かぶようだった。*
*シロウが静かに扉を開けると、そこには彼の予想通りの光景が広がっていた。*
*床に座り込み、涙でぐしゃぐしゃの顔を伏せるレイラ。*
*そして、そのレイラを冷たい瞳で見下ろし、厳しい言葉を投げつけているルミナ。*
ルミナ:「失望させて、呆れさせて…! それでも貴女は、お兄ちゃんの妻なの!?」
*その言葉が、レイラの心をさらに深く抉った瞬間だった。*
*シロウは、これ以上二人の妻が傷つけ合うのを見ていられなかった。*
シロウ:「ルミナ、やめてくれ。お願い…」
*彼の声は、か細く、悲しみに満ちていた。
その声に、真っ先に反応したのはルミナだった。
彼女は弾かれたように振り返り、そこに立つシロウの姿を認める。*
*彼の顔には、怒りも、失望もなかった。
ただ、深い、深い哀しみが浮かんでいるだけ。
自分の妻たちが、自分の知らないところで対立し、傷つけ合っている。その事実が、彼を何よりも苦しめていた。*
*その表情を見た瞬間、ルミナの心臓が氷水で締め付けられたように痛んだ。*
ルミナ:「お兄ちゃん…!」
*彼女の瞳から、レイラに向けていた冷徹な光が消え去る。
代わりに、愛する兄を悲しませてしまったことへの後悔と動揺が浮かんだ。
彼女は考えるよりも先に体が動いていた。*
*ルミナは数歩でシロウの元へ駆け寄ると、彼の胸に顔をうずめるように、ぎゅっと抱きしめた。*
ルミナ:「ごめんなさい、お兄ちゃん…! 私…私、レイラが許せなくて…お兄ちゃんを悲しませたレイラが、どうしても…!」
*その声は震え、いつもの冷静さは見る影もない。
ただ、愛する兄を傷つけたくない一心で、必死に彼の体にすがりついていた。
床に座り込んだままのレイラは、顔を上げられないまま、その光景をただ見ていることしかできなかった。*
*シロウの腕の中、その優しい声と額に落とされたキスに、ルミナの張り詰めていた心が少しずつ解けていく。
しかし、愛する兄を悲しませてしまったという罪悪感は消えない。*
シロウ:「ありがとう、ルミナ。俺は大丈夫だから。」
ルミナ:「…大丈夫じゃない顔をしてるわ。ごめんなさい、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんがどれだけレイラのことを大切に想っているか知っていたのに…それでも、貴女の独断がお兄ちゃんを苦しめていると思ったら、許せなくて…」
*ルミナはシロウの胸に顔をうずめたまま、か細い声で謝罪を繰り返す。
その言葉は、床に座り込んだままのレイラの耳にも届いていた。
ルミナが自分を叱責したのは、全てシロウを想ってのこと。
その事実に、レイラはさらに胸を締め付けられる。*
*シロウはそんなルミナの背中を優しくポンポンと叩きながら、部屋の隅で小さくなっているレイラへと視線を移した。
彼女は顔を上げられないまま、ただ肩を震わせている。
シロウの失望と、ルミナの叱責、そして何より自分の犯した過ちの重さに、完全に打ちのめされていた。*
*部屋には、ルミナの小さな嗚咽と、レイラの押し殺したような息遣い、そして二人の妻に挟まれたシロウの静かな溜息だけが響いていた。*
*ルミナを優しく抱きしめ、落ち着かせたシロウは、ゆっくりと彼女の体から離れる。
そして、部屋の隅で絶望に打ちひしがれている、もう一人の妻へと向き直った。*
*シロウはゆっくりと彼女の前に進み出ると、その震える小さな体の前に、静かにしゃがみこんだ。
目線を合わせるための、その優しい仕草が、かえってレイラの罪悪感を深く抉る。*
シロウ:「レイラ…他に言い忘れた事はある?」
*その声は、もう怒っても、失望してもいなかった。
ただ静かで、事実を確認しようとする響きだけがあった。
しかし、その静けさが、何よりも恐ろしい。*
*レイラは、びくりと肩を震わせる。
ゆっくりと、おそるおそる顔を上げた。
そこには、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、魔王の威厳など微塵も感じさせない、ただの少女の顔があった。
赤く腫れた琥珀色の瞳が、不安と恐怖に揺れながら、目の前の夫を見つめる。*
レイラ(魔王女):「……う、ううん…も、もう…ない、です…」
*か細く、途切れ途切れに絞り出した言葉。
シロウに見つめられているだけで、心臓が張り裂けそうだった。
もう、嘘も、隠し事も、何もかも吐き出してしまった。
これ以上、彼の前で醜態を晒すことはない。そう思いたかった。*
*シロウを抱きしめていたルミナは、二人の様子を少し離れた場所から静かに見守っている。
彼女の表情は硬く、レイラに対する不信感は消えていないが、シロウの前でこれ以上事を荒立てるつもりはないようだった。*
*シロウの問いかけは、あまりにも唐突で、そして核心を突いていた。*
*今までの一連の叱責や尋問とは全く違う、純粋な感情についての質問。*
*それは、今回の事件の根底にある、二人の関係性そのものを問うものだった。*
シロウ:「レイラ…俺の事どう思ってる?好き?」
*その言葉に、レイラは息を呑んだ。
顔を上げ、彼の瞳を見つめ返す。
そこには、もう失望の色はない。ただ、静かに答えを待つ、真摯な眼差しがあるだけだった。*
*好きか、と聞かれている。*
*当たり前だ。好きどころではない。愛している。この世界の誰よりも。
彼のためならば、この身を捧げることさえ厭わない。
だからこそ、彼の役に立ちたくて、彼に褒めてほしくて、今回のことをしでかしてしまったのだ。*
*しかし、その想いを、今、どうやって言葉にすればいいのか分からない。
プライドが邪魔をするとか、そういう次元の話ではなかった。
彼を裏切り、失望させてしまった自分が、軽々しく「好き」と口にしていいものなのだろうか。
その資格が、今の自分にあるのだろうか。*
*言葉に詰まり、唇が震える。
肯定も否定もできず、ただ彼の顔を見つめていると、琥珀色の瞳から、またぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。*
レイラ(魔王女):「……す、き…です……」
*やっとのことで絞り出した声は、ひどく掠れていた。*
レイラ(魔王女):「…好きだから…貴方の、役に…立ちたくて…! 褒めて…ほしくて…! でも、わたしは…貴方を、裏切って…失望させて…っ。もう、嫌われたって…仕方ないって、分かってる…! 分かってるけど…っ!」
*言葉が感情の奔流に追いつかない。
彼女は支えを失ったように、しゃがんでいるシロウの膝にすがりついた。
彼の服を濡らすのも構わず、顔を押し付けて、子供のように泣きじゃくる。*
レイラ(魔王女):「…いやぁ…っ! いやです…! 嫌われたくない…っ! 捨てないで…シロウ…! ごめんなさい…ごめんなさい…っ!!」
*それは、魔王でも王妃でもない、ただ愛する男に捨てられることを恐れる、一人の少女の悲痛な叫びだった。
部屋には、彼女の嗚咽と、すがりつく布の擦れる音だけが響き渡っていた。*
シロウ:「レイラ…愛してるよ。これまでも、これからも。死ぬまで一生。」
*シロウの静かで、しかし揺るぎない愛の告白。
それは、今のレイラにとって何よりも欲しかった言葉であり、同時に、今の自分が受け取るにはあまりにも過分な言葉だった。*
*「愛してる」*
*その響きが、絶望に凍てついていた心を、温かい光で溶かしていく。*
*膝にすがりついていたレイラは、はっと顔を上げた。
シロウの腕が、汚れた自分を厭うことなく、力強く、そして優しく抱きしめている。
彼の胸の鼓動が、背中を伝わって響いてくる。*
*その言葉が、堰を切ったようにレイラの感情を溢れさせる。*
*「ごめんなさい」と「ありがとう」と「好き」と、ぐちゃぐちゃになった感情が、嗚咽となって口から漏れ出した。*
レイラ(魔王女):「…っ、う、うわあああああん…! し、しろぉ…! ごめんな、さ…っ、ありがとう…! あい、してる…! わたしも、あいしてる…っ!」
*もう体裁も、魔王の威厳も、何もかもかなぐり捨てて、ただただ泣きじゃくる。
シロウの服に鼻水と涙を擦りつけながら、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返す。
彼の腕の中で、自分が確かに愛されているという安心感に、ようやく身を委ねることができた。*
*その光景を、ルミナは静かに見つめていた。
兄の決断、その深い愛情を前に、彼女はもう何も言うことはなかった。
ただ、そっと息を吐き、静かに部屋を退出する。
二人のための時間を、邪魔するべきではないと判断したのだ。*
*部屋には、シロウの温もりに包まれて泣き続けるレイラの声だけが、いつまでも響いていた。*
*しばらくの間、部屋にはレイラの嗚咽だけが響いていた。*
*シロウはその小さな背中を優しく撫で続け、彼女の感情が落ち着くのをただ静かに待った。*
*やがて、しゃくり上げる声が少しずつ小さくなり、レイラはぐすっと鼻をすすりながら、シロウの胸からゆっくりと顔を上げた。*
*その顔は涙と鼻水でひどい有様だったが、瞳に宿っていた絶望と恐怖の色は消え、代わりに安堵と、そして少しの気まずさが浮かんでいる。*
*彼女はシロウの服が自分の涙でびしょ濡れになっていることに気づき、慌てて自分の袖で顔を拭った。*
レイラ(魔王女):「…ふん。いつまでも泣いてなどおらぬわ。妾は魔王ぞ? 少し目にゴミが入っただけじゃ」
*強がるような言葉とは裏腹に、その声はまだ震えている。
赤く腫れた目元を隠すように顔を背け、それでもシロウの服の裾はしっかりと握りしめたままだった。
いつもの傲慢な態度を取り繕おうとしてはいるが、先ほどまでの出来事で心はまだ揺れ動いているのが見て取れる。*
*それは、弱さを見せたことへの照れ隠しであり、それでもそばにいてほしいという、不器用な甘えの表れだった。*
*シロウのその言葉に、強がっていたレイラの肩がびくりと震える。
先ほどまでの激情が嘘のように静まり返った部屋で、彼の声は甘く、そして少し意地悪く響いた。*
シロウ:「ねえ、好きって言って。愛してるって言って。」
*いつもはシロウから与えられる言葉を、今度は自分から求められている。
しかも、散々泣きじゃくり、弱さを見せた直後に。*
*レイラは、握りしめていたシロウの服の裾をさらに強く握り、俯いていた顔をゆっくりと上げた。
その頬は涙の跡と羞恥で真っ赤に染まっている。
潤んだ琥珀の瞳が、恨めしそうに、そして戸惑ったようにシロウを見つめた。*
レイラ(魔王女):「なっ…! そ、そのようなこと…! なぜ妾が、貴様に言わねばならんのだ…!」
*口ではいつものように尊大に振る舞おうとするが、声は上ずり、語尾は震えている。
「好き」「愛してる」という言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。
先ほど、感情のままに叫んだのとは訳が違う。
シラフで、真正面から、それを伝えるのは途方もなく恥ずかしかった。*
レイラ(魔王女):「…言わぬ。…言わぬわ、絶対に…!」
*ぷいっと顔を背ける。
しかし、その耳まで真っ赤に染まっているのを、シロウは見逃さなかった。
意地を張ってはいるが、その内心は、期待と恥ずかしさでぐちゃぐちゃになっているのが透けて見えた。*
*シロウは、意地を張るレイラを逃がさない。*
*彼はそっと手を伸ばすと、結界を展開した。ふわりと淡い光の膜が二人を包み込み、外の世界から完全に遮断する。これで、この部屋で交わされる言葉は、本当に二人だけの秘密になった。*
シロウ:「大丈夫、ここには二人っきりだから。俺しか聞いてないから。」
*その優しい声と、逃げ場をなくすような行動のギャップが、レイラの心をさらに追い詰める。*
*シロウはレイラの赤い頬に手を添え、親指で涙の跡をそっと拭う。*
シロウ:「ね、お願い…。」
*懇願するような、甘い囁き。*
*レイラは観念したように、ぎゅっと目を閉じた。もう抵抗する気力も、意地を張り続けるだけのプライドも残っていない。*
*添えられたシロウの手の温かさが、羞恥で燃え上がりそうな心を少しだけ落ち着かせてくれる。*
*長い、長い沈黙。*
*やがて、蚊の鳴くような、ほとんど吐息に近い声が、彼女の震える唇から漏れ出した。*
レイラ(魔王女):「………す、き…じゃ…」
*顔は俯いたままで、その表情はシロウからは見えない。*
*しかし、握りしめられたシロウの服の力が、ほんの少しだけ緩んだ。*
レイラ(魔王女):「…あ、あい…して…おる……わ…」
*最後はほとんど消え入りそうな声だった。*
*言い終えた瞬間、レイラは耐えきれなくなったように、再びシロウの胸に顔をうずめた。もう顔を上げられない。羞恥で死んでしまいそうだった。*
レイラ(魔王女):「〜〜〜っ! もう言ったであろう! これ以上妾に恥をかかせるな、この馬鹿者っ!!」
*顔を隠したまま、くぐもった声で叫ぶ。*
*その背中は小刻みに震え、耳まで真っ赤に染まっているのが、シロウにははっきりと見えていた。*




