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*シロウは、家光の探るような問いかけを受け、内心で『神眼』に判断を委ねることにした。この場で最適な解答、最も家光の心を掴み、かつヤマトとの国交樹立に繋がる言葉。それを、人知を超えた彼の能力が導き出してくれるはずだ。*
*『神眼』が起動する。一瞬の間に、膨大な情報が処理され、最適解が弾き出される。シロウの表情は微動だにせず、ただその瞳の奥で、わずかに光が瞬いた。*
*そして、彼は静かに、しかし自信に満ちた声で語り始めた。その言葉は、『神眼』によって完璧に調整され、家光の心に深く突き刺さるように響く。*
シロウ:「では、将軍殿。まず『ドワーフ』より申し上げましょう」
*シロウはそう前置きすると、ゆっくりと、一つ一つの言葉を噛み締めるように続けた。*
シロウ:「ドワーフは、鍛冶と石工の技に関して、人間の追随を許さぬ種族にございます。彼らが打つ刀剣は、百年を経ても刃こぼれ一つせず、彼らが積む石壁は、千年の風雪にも微動だにいたしませぬ」
*家光の瞳が、わずかに揺れる。ヤマトは、刀剣の国。その刀剣の技術において、人を超える者がいるという事実は、彼の興味を大いに惹いた。*
シロウ:「無論、貴国の名工が打つ刀も、まさに芸術品。しかし、ドワーフの技は『芸術』ではなく『奇跡』に近いもの。彼らが打った刀身は、魔力を通し、使い手の意思に呼応する。斬れぬものなど、この世に存在せぬと申しても過言ではございません」
*シロウの言葉に、広間の武士たちがざわめいた。斬れぬものなど存在しない刀。それは、武士にとって究極の憧れであり、同時に恐怖でもある。*
シロウ:「そして『獣人』。彼らは人の三倍の膂力と、五倍の俊敏性を持ち合わせております。また、種族によっては暗視や嗅覚、聴覚に優れ、人間が決して立ち入れぬ密林や、暗闇の洞窟での活動も可能。警備や偵察において、これ以上ない戦力となりましょう」
*家光は、黙ってシロウの言葉に耳を傾けている。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。だが、その目は、確かにシロウの言葉を逃すまいと、鋭く光っていた。*
シロウ:「『竜人』は、生まれながらにして竜の血を引く者。彼らは空を飛び、炎や雷を自在に操り、その鱗は並の刃では傷一つつけられませぬ。一人で百人の兵に匹敵する、まさに『生きた兵器』にございます」
*シロウがそう言うと、ルーナの腕の中で眠りかけていたユキが、まるで自分のことを褒められたかのように「きゅい♪」と小さく鳴いた。その愛らしい声が、シロウの言葉の真実味を、皮肉にも増幅させる。*
シロウ:「そして最後に『エルフ』。彼らは千年を生きる長命種であり、魔法の扱いにおいて右に出る者はおりませぬ。治癒、結界、探知、そして自然との対話。彼ら一人が居れば、百人の医者と、千人の見張りに匹敵いたしましょう」
*シロウは一呼吸置くと、家光の目を真っ直ぐに見据えた。*
シロウ:「これらの種族は、我が国では当たり前に共存しております。彼らを貴国へ『派遣』することも、技術指導という形で『滞在』させることも可能。無論、それには相応の対価が必要となりますが…貴国が望むのであれば、例えば城の建築、武器の製作、あるいは医療や教育といった分野で、我が国の『人材』が力をお貸しできましょう」
*『神眼』が導き出した完璧な回答。それは、ヤマトが抱える問題―老朽化した城郭、戦乱で失われた技術、そして医療の未発達―を的確に突いたものだった。*
*徳川家光は、シロウの言葉を一言一句逃すまいと、じっと聞き入っていた。そして、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。*
徳川家光:「……なるほど、な。確かに、その様な者どもが実在するのであれば、我がヤマトにとって、これ以上ない助力となろう」
*家光の声には、もはや疑念はなく、ただ純粋な興味と、そして打算が入り混じっていた。*
徳川家光:「では、次に聞こう。その『対価』とは、一体何を指すのだ? まさか、金銀財宝だけで事足りるとは思えぬが」
*家光からの「対価」についての問い。それは、この交渉の核心だった。金銀財宝か、領土か、あるいは人的な隷属か。広間にいる誰もが、この異世界の魔王が何を要求するのか、固唾を飲んで見守っていた。シロウが口にするであろう言葉が、ヤマトの未来を左右するのだから。*
*しかし、シロウの口から紡がれた言葉は、彼らの予想を、そして常識を、根底から覆すものだった。*
*『神眼』は、シロウの脳裏に最適解を提示していた。それは、欲望を剥き出しにすることでも、謙遜しすぎることでもない。ただ一つ、この国の主の心を、最も根源的な部分で揺さぶる一言。*
シロウ:「――盟約を」
*凛とした声が大広間に響き渡る。家光は、その言葉の意味を測りかね、わずかに眉をひそめた。*
シロウ:「貴国と我が国とで、対等なる盟約を結んでいただきたい。某が望む対価は、ただそれのみにございます」
*その言葉に、大広間が再びどよめいた。*
*「対等」*
*その一言が、あまりにも衝撃的だった。聖剣を振るい、神話の種族を従える、人知を超えた力を持つ者が、なぜ自分たちと「対等」であろうとするのか。それは、彼らの理解の範疇を完全に超えていた。もしシロウが望めば、この国を力で蹂躙することすら可能であろうに。*
*老中をはじめとする家臣たちは、何か裏があるのではないかと、猜疑の目をシロウに向ける。だが、家光だけは違った。*
*徳川家光は、シロウの真意を見抜こうとするかのように、その目を真っ直ぐに見据える。その瞳には、もはや畏怖の色はない。あるのは、一人の王として、もう一人の王と向き合う、鋭い光だけだった。*
徳川家光:「……対等、だと…? 魔王よ、その方の力をもってすれば、我がヤマトを屈服させることなど造作もなかろう。にもかかわらず、なぜ『対等』を望む? その真意、聞かせてもらおうか」
*家光の問いは、当然のものだった。圧倒的な強者が、なぜ弱者と手を取り合おうとするのか。その裏にあるシロウの思想、その哲学を知りたかった。金銀よりも、領土よりも、シロウ・ニシキ・アストライアという男の『器』を、彼は測ろうとしていた。*
*(やっべぇ…何も考えてなかった…!)*
*シロウの内心は、冷や汗で滝のようだった。まさか、ここまで深く突っ込まれるとは。とっさに頭に浮かんだのは「争いは何も生まない」などという、陳腐でありきたりな平和主義者のセリフ。だが、それを魔王である自分が口にしたところで、何の説得力もないだろう。*
*思考が停止しかけたその瞬間、再び『神眼』がシロウの脳裏に最適解を叩きつけた。それは、彼の浅い考えを、王としての深遠な哲学へと昇華させる、完璧な言葉だった。*
*シロウは、一瞬の動揺を微塵も感じさせず、ふっと口元に自嘲めいた笑みを浮かべた。その表情は、多くの戦場を駆け抜け、多くのものを失ってきた者だけが持つ、深い哀愁を帯びている。*
シロウ:「……それは」
*一呼吸置き、シロウは静かに、しかし力強く告げる。*
シロウ:「某が、誰よりも『争い』の虚しさを知っているからにございます」
*その言葉は、家光の胸に重く響いた。魔王が語る、争いの虚しさ。これほど矛盾し、そしてこれほど真実味を帯びた言葉もなかった。*
シロウ:「力による支配は、必ずや新たな憎しみを生み、憎しみは次なる争いの火種となる。それは、終わりなき螺旋。幾度となく国を興し、敵を滅ぼし、その果てに何が残ったか…ただ、焦土と、流された血の記憶のみ。もはや、その様な不毛な繰り返しは、飽き飽きしているのでございます」
*シロウの瞳には、かつて彼が歩んできたであろう修羅の道が映し出されているかのようだった。その言葉は、単なる理想論ではない。血と硝煙の中で彼自身が得た、紛れもない『実感』だった。*
シロウ:「対等なる盟約。それは、互いを尊重し、互いの文化を認め、共に未来を築くという誓い。力で縛り付けるのではなく、信頼で結ばれる関係こそが、真に永続するものだと、某は信じております」
*彼は、家光の目を真っ直ぐに見据える。その視線には、一切の偽りも計算もなかった。*
シロウ:「将軍殿。某は貴国を支配したいのではない。貴国と『友』になりたいのでございます。異なる文化、異なる価値観を持つ者同士が手を取り合うことで、これまで誰も見たことのない、新たな可能性が生まれるはず。某が見たいのは、その未来にございます」
*『神眼』が紡いだ言葉は、ありきたりな平和論を、魔王という存在が語るからこその重みと説得力を持つ、至高の王の言葉へと変貌させていた。*
*徳川家光は、シロウの言葉にただ黙って聞き入っていた。そして、長い、長い沈黙の後、彼は手にしていた扇子をパチリと閉じ、これまでで最も真剣な表情で、こう告げた。*
徳川家光:「……魔王シロウ。その方の器、見事なり。この徳川家光、その方の言葉、信じよう」
*それは、事実上の勝利宣言だった。シロウは、武力ではなく、言葉と、そして王としての『器』で、このヤマトの国の頂点を認めさせたのだ。*
*あれから数日。*
*シロウたちがヤマトの将軍、徳川家光と謁見してから、彼らの待遇は一変した。国賓として江戸城の一角を与えられ、何不自由ない生活を送っている。ヤマト側としては、得体の知れない『魔王』とその一行を城下に放つわけにはいかず、かといって無下にもできないという、苦肉の策であったのだろう。*
*しかし、好奇心旺盛な娘にとっては、この巨大な城そのものが格好の冒険の舞台だった。*
ルーナ:「お父様! ちょっと探検してきます! ユキも行きたがってるし!」
*そう言って、シロウの返事を待たずして、ユキを抱えたルーナは元気よく部屋を飛び出していった。甲冑を来た武士たちに物珍しそうに話しかけたり、庭園の池で鯉を眺めたりと、すっかり江戸城を満喫しているようだ。*
*一方、妻のルミナは、この国の食文化に興味を惹かれたらしい。*
ルミナ:「お兄ちゃん、わたしは台所を借りて、こちらの料理を少し学んでくるわ。異文化交流も大事ですもの」
*もっともらしい理由をつけてはいるが、本音はシロウのために新しい料理を覚えたいのだろう。その健気さが愛おしい。*
*こうして、シロウは一人になった。*
***
*彼は、誰に咎められることもなく、江戸城の天守閣、その一番高い屋根の上に立っていた。眼下には、碁盤の目のように整然と広がる江戸の町並み。活気に満ちた人々の声が、風に乗って微かに聞こえてくる。瓦屋根が連なる風景は、シロウの郷愁を静かに刺激した。*
シロウ:「(…対等な盟約、か。口ではああ言ったが、さて、どうしたものかな)」
*家光との交渉は、ひとまず成功と言っていいだろう。だが、国と国との関係は、トップ同士の合意だけで成り立つものではない。文化も、常識も、力の基準すら全く異なる二つの世界。その間に橋を架けることは、想像以上に困難な道のりになるはずだ。*
*シロウは、広大な城下を眺めながら、アストライア魔導皇国の未来と、このヤマトという国の行く末に思いを馳せていた。これから起こるであろう様々な出来事を予感し、その唇には、楽しむような、あるいは憂うような、複雑な笑みが浮かんでいた。*
シロウ:「こっちに来てどれくらい経ったっけ?」
*江戸の城下を見下ろすシロウの脳裏に、彼が求める情報が瞬時に浮かび上がる。『神眼』が、彼の意識に呼応して正確な時間を算出したのだ。*
*『神眼』による情報:*
*【この世界『ヤマト』への転移ゲート通過より、20日と14時間が経過】*
シロウ:「(…もう20日か。案外、あっという間だな)」
*故郷の日本と似ているようで全く異なるこの国。瓦屋根の連なり、行き交う人々の活気。その風景は、シロウの心の奥底にある郷愁を静かにくすぐる。*
*だが、感傷に浸ってばかりもいられない。*
*対等な盟約、と口では言った。家光もそれを受け入れた。しかし、それはあくまで口約束に過ぎない。これから、外交官の派遣、通商路の確保、文化交流の具体的な計画、そして何より、互いの『常識』のすり合わせという、途方もなく地道な作業が待っている。*
シロウ:「(アストライアの方は、レイラたちに任せておけば問題ないだろうが…こっちはこっちで、一筋縄ではいかないだろうな)」
*ふと、城の一角から聞こえてくる賑やかな声に、シロウは意識を向けた。*
武士A:「おお!ルーナ様、そちらは危険でござる!」
武士B:「ユキ様!池の鯉を食べてはなりませぬぞ!」
ルーナ:「だ、大丈夫ですって!ユキはちゃんとお利口さんだから!ねー、ユキ!」
ユキ:「きゅい!」
*どうやら、ルーナとユキが元気いっぱいに城内を探検し、生真面目な武士たちを振り回しているようだ。その微笑ましい光景に、シロウの口元が自然と緩む。*
*一方、別の方向からは、香ばしい醤油の匂いと、楽しげな声が風に乗って運ばれてきた。*
ルミナ:「…なるほど。この『出汁』という概念が、ヤマトの料理の基本なのね。興味深いわ」
料理人:「はい、ルミナ様!もしよろしければ、今度は『味噌』の使い方などいかがでしょう?」
*ルミナもまた、この国での生活にすっかり馴染んでいる様子だった。*
シロウ:「(…みんな、楽しそうで何よりだ)」
*家族が笑顔でいられる場所。それこそが、シロウが守りたいものであり、国を築き、盟約を結ぼうとする原動力だった。*
*江戸城の天守閣、そのてっぺんで一人、心地よい風に吹かれながらシロウは独りごちる。*
シロウ:「………そういえば、何しに来たんだっけ?」
*眼下に広がる異世界の江戸の町並み。将軍との謁見。聖剣の披露。ドワーフやエルフの話。そして、対等な盟約の約束。目まぐるしく過ぎ去った日々を思い返す。*
シロウ:「盟約を結んで、米食って…あれ?」
*頭の中で、ヤマトへ来る前の出来事を遡る。きっかけは、ルーナだったはずだ。彼女が、このヤマトという国に強い興味を示していた。確か、前世の記憶がどうとか…*
シロウ:「(そうだ…ルーナの『修学旅行』みたいなもんだったか。それと、俺の個人的な観光と…家族サービス。それが一番の目的だったはずなんだが…)」
*いつの間にか、話が国と国との外交という、とんでもなく大事になっていた。自分でも、そのスケールの変化に少しだけ呆れてしまう。*
シロウ:「(まあ、結果的に国交が開けるなら、それはそれで儲けものか。アストライアにも新しい文化や技術が入ってくるだろうしな)」
*そんなことを考えていると、ふと、懐から取り出した通信機に意識が向く。アストライアに残してきた、もう一人の妻と、生まれたばかりの娘の顔が脳裏に浮かんだ。*
シロウ:「(…レイラ、怒ってるだろうなぁ。ステラも、もうちょっと大きくなってる頃か…?)」
*本来の目的を思い出したことで、シロウの意識は目の前の外交問題から、少しだけ家族へとシフトする。ヤマトでやるべきことはまだあるが、あまり長居するのも問題だろう。そんなことを考えながら、彼は再び広大な城下町へと視線を戻した。*
シロウ:「行きは船だったけど、帰りは転移すればいいし…もう少しくらいはゆっくりするか…」
*そんな独り言が、江戸の空に溶けていく。目的が何であれ、家族が楽しんでいるのなら、それでいい。アストライアのことは信頼できる部下たちに任せてある。たまにはこうして、羽根を伸ばすのも悪くないだろう。*
*シロウがそんな風に感傷と安堵に浸っていた、その時だった。*
*背後から、衣擦れの音と共に、凛とした声がかけられた。*
佐々木小十郎:「――魔王殿。そのような場所におられては、お風邪を召されますぞ」
*振り返ると、そこに立っていたのは、先日木刀で手合わせをした奉行所の男、佐々木小十郎だった。彼は、いつもの厳格な武士の出で立ちではなく、少し着崩した浴衣のような姿で、片手には徳利と二つの杯を持っている。その表情は、以前のような警戒心に満ちたものではなく、どこか穏やかだった。*
*彼はシロウの隣までやってくると、遠慮がちに会釈する。*
佐々木小十郎:「上様より、魔王殿の接待を任じられましてな。しかし、貴殿ほどの御方に、我らができるもてなしなど、たかが知れております。…せめて、この国の酒でもいかがかと」
*そう言うと、小十郎はシロウの隣に腰を下ろし、慣れた手つきで杯に透き通った液体を注いだ。ふわりと、米の芳醇な香りが風に乗って漂う。*
佐々木小十郎:「これは『月詠』と申しましてな。ヤマトで最も名高い銘酒にございます。貴殿の国の酒と、どちらが美味か…飲み比べてみるのも一興かと存じますが、いかがですかな?」
*彼の目は、手合わせを求めた時と同じ、純粋な好奇心と挑戦の色を帯びていた。ただし、今回は剣ではなく、酒での勝負を挑んでいるようだ。眼下に広がる百万都市の夜景を肴に、異世界の武士が、異世界の魔王に杯を差し出していた。*
シロウ:「ああ、うん、ありがと」
*シロウは佐々木小十郎の申し出を素直に受け入れた。眼下に広がる夜景を肴に、この国の武士と酒を酌み交わすのも一興だろう。そう思い、小十郎が差し出す杯に手を伸ばしかけた、その時だった。*
*「失礼いたします」*
*凛とした、しかしどこか甘さの残る声と共に、天守閣の暗がりからすっと現れた人影があった。それは、美しい花の刺繍が施された艶やかな着物を纏った、若い女だった。年の頃は十六、七だろうか。うなじは白く、長い黒髪を雅な簪で結い上げている。その手には、小十郎が持っていたものとは別の、より豪奢な盆と酒器一式が乗せられていた。*
*女はシロウと小十郎の前に進み出ると、畳に指先をつけ、深々と頭を下げた。その所作は、寸分の隙もなく洗練されている。*
佐々木小十郎:「なっ…お、お前は…!なぜここに!」
*小十郎が驚愕の声を上げる。どうやら彼のあずかり知らぬことらしい。女は小十郎の言葉には答えず、顔を上げると、潤んだ瞳でシロウを見つめ、はにかむように微笑んだ。*
女:「魔王様。上様より、今宵のお相手を仰せつかりました、菊と申します。ささ、どうぞ。ヤマトの夜を、存分にお楽しみくださいませ…♡」
*そう言うと、菊と名乗る女はシロウのすぐ隣に膝を進め、慣れた手つきで杯に酒を注ぎ始める。ふわりと、甘く上品な白粉の香りがシロウの鼻腔をくすぐった。その身のこなし、視線の送り方、声の調子。それは、明らかに夜の伽に慣れた者のそれだった。*
*(…夜這い、か。いや、これはもっと直接的だな。いわゆる『接待』か。…これはルミナが知ったら、城が一つ二つ吹き飛びかねないぞ…)*
*シロウは内心で頭を抱えた。家光からの、ある種の『誠意』の示し方なのだろう。だが、それはアストライアの魔王にとっては、極めて厄介な『爆弾』でしかなかった。隣では、佐々木小十郎が顔を真っ青にして狼狽えている。*
佐々木小十郎:「き、菊!よさぬか!魔王殿は、そのような…!」
菊:「あら、小十郎様。これは上様直々のご命令。あなた様が口を挟むことではございませんわ。…ねえ、魔王様?♡」
*菊は小十郎をぴしゃりと制すると、再びシロウに熱のこもった視線を送る。差し出された杯からは、芳醇な酒の香りが立ち上っていた。受け取るか、断るか。シロウの判断が試される、新たな『交渉』が始まろうとしていた。*
*菊と名乗る女の登場は、シロウにとって青天の霹靂だった。彼女の艶やかな姿、甘い声、そしてシロウの隣に当たり前のように座り、酒を注ごうとするその仕草。全てが、徳川家光からのあからさまな『夜の接待』の申し出であることを物語っていた。*
*(玉の輿…?いや、それだけじゃないな。家光からの、ある種の忠誠の証、あるいは俺という男を試すための罠か…?どちらにせよ、迂闊に乗るわけにはいかない)*
*シロウは内心で冷静に状況を分析しながらも、表情には一切出さない。ただ穏やかに、しかし毅然とした態度で、菊が差し出す杯を手でそっと制した。*
シロウ:「気持ちだけもらっておくよ」
*その声は冷たくも突き放すわけでもなく、ただ静かに、だが決して覆らない拒絶の意思を含んでいた。*
*菊は、シロウのその態度に一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。まさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。彼女のような女を、しかも将軍からの下賜として断る男など、このヤマトには存在しないからだ。*
菊:「ま、魔王様…? なぜ…? わたくしでは、お気に召しませぬか…?」
*彼女の声が不安に震える。もしここで魔王の機嫌を損ねれば、自分の命はおろか、一族にまで累が及ぶかもしれない。その恐怖が、彼女の顔を青ざめさせた。*
*隣で狼狽えていた佐々木小十郎が、ここぞとばかりに口を挟む。*
佐々木小十郎:「き、菊! だから申したであろう! 魔王殿は、そのようなお方ではないと! 早くお下がりしろ!」
*小十郎が厳しい声で叱責するが、シロウはそれを手で制した。ここで彼女を追い返せば、彼女の立場がなくなるだろう。それはシロウの本意ではなかった。*
シロウ:「いや、下がらせるには及ばない。小十郎殿、君もそういきり立つな」
*シロウは菊に向き直ると、困惑する彼女に穏やかな笑みを向けた。*
シロウ:「君が気に入らないわけじゃない。むしろ、君のような美しい女性にもてなされれば、喜ばぬ男はいないだろう。…ただ、俺には国に、愛する妻たちが待っている。彼女たちを裏切るような真似はできない。それだけのことさ」
*シロウの言葉は、この場にいる誰をも傷つけない、完璧な解答だった。菊に対する配慮、妻への貞節、そして王としての品格。その全てを、短い言葉の中に込める。*
*菊は、シロウのその真っ直ぐな瞳と、偽りのない言葉に、ただ呆然と見つめ返すことしかできなかった。力で全てを支配できるはずの『魔王』が、遠い国にいる妻のために、目の前の快楽を拒む。その事実が、彼女の価値観を激しく揺さぶっていた。*
*シロウが菊に対して、妻への貞節を理由に穏やかに、しかしきっぱりと拒絶の言葉を口にした、まさにその瞬間だった。天守閣へと続く階段から、静かな足音が響いてくる。*
ルミナ:「お兄ちゃん、お夜食に『おにぎり』というものを作ってみたのだけど…あら?」
*現れたのは、ヤマトの着物を完璧に着こなし、手には木製の盆を乗せたルミナだった。盆の上には、彼女が厨房で教わって作ったのであろう、少し不格好だが愛情のこもったおにぎりが二つ、ちょこんと乗っている。*
*ルミナは、シロウの隣にいる美しい女――菊の姿を認めると、その場にすっと立ち止まった。*
*にこり。*
*彼女は、いつものように愛らしい笑顔をシロウに向けた。その笑顔は、シロウが世界で一番愛する、天使のように可憐な微笑み。*
*だが。*
*その蒼い瞳は、全く笑っていなかった。*
*ルミナの視線は、シロウを一瞥した後、ゆっくりと隣の菊へとスライドする。その瞳は、まるで絶対零度の氷。値踏みするように、菊の頭の先から爪先までを舐めるように見つめる。着物の柄、髪結いの形、そしてシロウとの距離。その全てを瞬時に分析し、状況を完璧に把握したようだ。*
ルミナ:「……あらあら。お兄ちゃん。わたくしがいない間に、随分と可愛らしい『虫』がついたみたいね?」
*その声は、鈴が鳴るように可憐だった。しかし、その言葉に含まれた殺気は、天守閣の空気を一瞬で凍りつかせる。先ほどまでの穏やかな酒宴の雰囲気は完全に消え去り、代わりに絶対的な支配者の威圧が場を制圧した。*
*菊は、ルミナから放たれる尋常ではないプレッシャーに、蛇に睨まれた蛙のように硬直する。息が詰まり、体が震え、声も出ない。本能が、目の前の銀髪の少女が、自分とは全く次元の違う、触れてはならない存在であることを告げていた。*
*佐々木小十郎もまた、顔を真っ青にして冷や汗を流している。彼は、シロウの妻がただの美しい少女ではないことを、肌で感じ取っていた。*
*ルミナは、そんな周囲の反応など意にも介さず、優雅な足取りでシロウの元へ歩み寄る。そして、菊の存在など最初からなかったかのように、彼女の目の前でシロウの腕に自分の腕を絡め、豊かとは言えないが柔らかい胸をぎゅっと押し付けた。*
ルミナ:「お兄ちゃんは、わたくしの『おにぎり』と、そこの『なにか』、どちらがお好みかしら?♡」
*笑顔で、しかし有無を言わさぬ迫力で、ルミナはシロウに究極の選択を迫る。その蒼い瞳の奥では、嫉妬の炎がメラメラと燃え盛っていた。*
*ルミナの登場で、天守閣の空気は完全に氷点下へと叩き落された。その愛らしい笑顔とは裏腹に、蒼い瞳は絶対零度の光を宿し、隣に座る菊を射殺さんばかりに睨みつけている。*
*「お兄ちゃんは、わたくしの『おにぎり』と、そこの『なにか』、どちらがお好みかしら?♡」*
*それは、選択を迫る言葉の形をした、最後通牒だった。菊は恐怖で完全に硬直し、佐々木小十郎は生きた心地がしないだろう。この状況を打開できるのは、シロウしかいない。*
*シロウは、内心の冷や汗を悟られぬよう、あくまで自然に、そして穏やかに口を開いた。彼の視線は、嫉妬に燃える妻の、その美しい姿に注がれる。*
シロウ:「ルミナ、着物似合ってるよ」
*その一言は、魔法だった。*
*シロウの真っ直ぐな称賛の言葉に、ルミナの凍てついた殺気が、ほんのわずかに揺らぐ。彼女の頬が、ほんのりと朱に染まったのが夜目にもわかった。*
ルミナ:「…へ? あ、え、と…そ、そう?♡ お兄ちゃんが魔法で出してくれた生地だもの…似合って、当然、よね…?」
*先程までの威圧感はどこへやら、急に声が上ずり、しどろもどろになるルミナ。シロウの腕に絡めていた手に、きゅっと力が入る。単純だが、効果は絶大だった。*
*シロウはさらに畳み掛けるように、優しく彼女の頭を撫でた。*
シロウ:「ああ、すごく綺麗だ。それに、この『おにぎり』、俺のために作ってきてくれたんだろう?嬉しいな。ありがとう」
*彼はそう言うと、ルミナが持ってきた盆から、少し不格好なおにぎりを一つ手に取る。そして、隣で震えている菊や、固まっている小十郎には目もくれず、ぱくりと一口頬張った。*
シロウ:「ん、美味い。やっぱり、ルミナの作ってくれたものが一番だな」
*その言葉と行動。それは、ルミナが聞きたかった全ての答えだった。*
*ルミナの蒼い瞳から、すうっと殺気が引いていく。代わりに、蕩けるように甘い光が満ちていき、彼女は恍惚とした表情でシロウを見上げた。*
ルミナ:「お兄ちゃん…♡♡♡ うんっ! もっとたくさん作ったから、いっぱい食べてね!♡」
*完全に機嫌を直したルミナは、もはや菊のことなど眼中にないかのように、シロウにぴったりと寄り添う。*
*天守閣に、ようやく生気が戻った。佐々木小十郎は安堵のため息を漏らし、菊は助かったという事実と、目の前で見せつけられた夫婦の絆に、ただただ圧倒されるばかりだった。*
*シロウの完璧な対応によって、ルミナの嫉妬の嵐は過ぎ去った。彼女はシロウの腕に絡みつき、手作りのおにぎりを「あーん」してあげようかという勢いで、すっかりご機嫌になっている。天守閣の空気は、甘ったるいものへと変化した。*
*この状況で、いつまでも菊をこの場に留めておくのは酷だろう。シロウは、自然に話題を転換することで、この気まずい場を収めることにした。*
シロウ:「そういえば、ルーナは?探検するって聞いたんだが…?」
*その言葉に、ルミナは「あ、そうだったわ」というように顔を上げた。*
ルミナ:「ルーナなら、さっきお庭で武士の人たちと『鬼ごっこ』をして遊んでたわよ。ユキも一緒にはしゃいでたわ。あの子、本当に元気よね…」
*ルミナが呆れたように、しかし愛情のこもった口調で言う。その言葉を聞いていた佐々木小十郎が、ハッとしたように口を開いた。*
佐々木小十郎:「さ、左様!ルーナ様は庭園にて、非番の者らとお戯れになっておりましたな! そろそろお休みの時間かと存じますので、某が様子を見て参りましょう!」
*小十郎は、この場から逃れる絶好の口実を得たとばかりに、勢いよく立ち上がった。そして、まだ恐怖で震えている菊に向かって、低い声で告げる。*
佐々木小十郎:「菊!貴様もだ!魔王殿と奥方様の大切なお時間をこれ以上邪魔立てするでない!とっとと下がれ!」
菊:「は、はいっ…!も、申し訳ございませんでした…!」
*菊は、転がるようにして深々と頭を下げると、小十郎に促されるまま、逃げるように天守閣を後にしていく。その背中は、心なしか小さく見えた。*
*こうして、嵐の原因は去り、天守閣には再びシロウとルミナの二人だけが残された。ルミナは、邪魔者がいなくなったことで、さらに甘えるようにシロウの体にすり寄る。*
ルミナ:「…もう、お兄ちゃんたら。あんな綺麗なおべべ着た虫けらに、簡単に心を許しちゃダメなんだからね?お兄ちゃんの隣にいていいのは、わたくしたち家族だけなんだから…♡」
*そう言って、ルミナはシロウの頬に、ちゅっと可愛らしいキスをした。眼下には江戸の夜景が広がり、穏やかな時間が流れ始める。*
*江戸城での一夜が明けた。*
*昨夜は、天守閣での一悶着の後、部屋に戻ると探検を終えて満足げなルーナが待っていた。結局、シロウを真ん中にして、右にルミナ、左にルーナという形で川の字になって眠りについた。両側から愛する家族の寝息を聞きながら眠るのは、魔王という立場を忘れさせてくれる、何より安らげる時間だった。*
ーー
*翌朝。*
*城内に用意された広大な道場で、シロウは一人、木刀を振っていた。ヤマトに来てからというもの、交渉や家族サービスが主で、純粋に体を動かす機会がなかったからだ。ブン、と空気を切り裂く鋭い音だけが、静かな道場に響き渡る。*
*『神眼』によって最適化された剣筋は、無駄がなく、美しささえ感じさせる。だが、シロウ自身はどこか物足りなさを感じていた。*
シロウ:「(…やはり、実戦とは違うな。少し、なまってきたか…?)」
*そんなことを考えながら、素振りを続けていると、道場の入り口から声がかかった。*
佐々木小十郎:「魔王殿。朝餉の用意ができておりますぞ。…朝から、随分と熱心ですな」
*そこに立っていたのは、昨夜と同じく佐々木小十郎だった。彼は道場の隅に正座すると、感心したような、あるいは興味深そうな目でシロウの素振りを見つめている。その目には、昨夜の狼狽ぶりは微塵もなく、一人の武人としての純粋な好奇心が宿っていた。*
佐々木小十郎:「その太刀筋…我らの知るどの流派とも異なる。それでいて、一切の無駄がない。」
*この国の武士は、やはり根っからの剣術好きらしい。*
シロウ:「そうか?習ったりしてないから完全に素人だけどな。」
*静かな道場に、シロウの謙遜を含んだ言葉が響く。だが、その言葉を聞いた佐々木小十郎は、呆れたように、しかしどこか楽しそうに首を横に振った。*
佐々木小十郎:「はっはっは、魔王殿、ご冗談を。それが素人の太刀筋ならば、このヤマトにいる武士は皆、赤子同然でございましょう」
*彼はその場に正座したまま、真剣な眼差しでシロウを見つめる。*
佐々木小十郎:「貴殿の剣は、理そのもの。一振りに一切の無駄がなく、始動と終点が一体となっている。それは、何万、何千万と振るい続けた者のみが辿り着ける境地。…あるいは、生まれながらにして剣の神に愛された才のなせる技か」
*(強いて言えばゲームの技を真似しているくらいだ。)*
*シロウは内心で苦笑する。実際には『神眼』による身体能力の最適化と、前世のゲーム知識の合わせ技なのだが、この世界の武士にそれを説明しても理解されるはずもなかった。*
佐々木小十郎:「もしよろしければ、この小十郎めにもご教授願えませぬか? 昨日の木刀での手合わせ、あまりにも一瞬の出来事で、何が起きたのかすら分かりませなんだ。あの神速の抜刀術、一体どの様な理合になっておるのか…」
*小十郎は、まるで子供が玩具をねだるかのように、目をキラキラと輝かせている。彼にとって、シロウの剣は恐怖の対象ではなく、探求すべき武の極致として映っているようだ。*
*その時、道場の入り口からひょこっと顔が覗いた。*
ルーナ:「あ、お父様! こんなところにいたんだー! 小十郎さんもおはよー!」
*元気いっぱいのルーナが、ユキを抱えて入ってきた。どうやら朝の散歩の途中のようだ。*
ユキ:「きゅい!」
*ユキも元気よく挨拶をする。道場の張り詰めた空気が、一気に和やかなものへと変わった。*
シロウ:「ルーナは相変わらず元気だなぁ… 朝飯は食べたのか?」
*シロウが父親の顔で尋ねると、ルーナは「ううん、まだ!」と元気よく首を振った。*
ルーナ:「お父様を起こしてから、みんなで一緒に食べようと思って! ルミナ母様も、もう食堂で待ってるよ! おにぎりだけじゃなくて、ヤマトのお味噌汁?っていうのも作ったんだって!」
*嬉しそうに報告するルーナの腕の中で、ユキが「きゅいきゅい!」と同意するように鳴く。どうやら朝食を楽しみにしているようだ。*
*その親子の微笑ましいやり取りを見ていた佐々木小十郎が、改めて居住まいを正して口を開いた。*
佐々木小十郎:「魔王殿、御家族水入らずのところ、無粋な話を持ち出してしまい申し訳ございませんでした。ささ、朝餉が冷めてしまいます。食堂へご案内いたしますぞ」
*彼はそう言うと、すっと立ち上がり、シロウたちを先導しようとする。その背中からは、まだシロウの剣技への興味が滲み出ているが、今は家族の時間を優先すべきだと判断したようだ。*
ルミナ:「お父様、早く行こー! わたし、お腹すいちゃった!」
*ルーナがシロウの袖をくいっと引っ張る。その元気な姿に、シロウは自然と笑みがこぼれた。*
シロウ:「(剣の稽古もいいが、まずは腹ごしらえが先か)」
*道場を後にして、一行は城の廊下を歩き出す。日の光が差し込む長い廊下を、ルーナはユキを抱えたまま、楽しそうに小走りで進んでいく。その様子は、まるで初めての場所に訪れた子供そのものだった。*
*シロウの心に浮かんだ感慨は、誰に聞かせるでもなく、朝の穏やかな空気の中に溶けていった。*
*(こうして家族で旅行に行くのも良いな…)*
*(ルミナはどんどん色んな料理を覚えてくな…)*
*ヤマトの調理法は、焼く、煮る、蒸すが基本であり、アストライアの多彩な調理法に比べれば、確かにシンプルかもしれない。しかし、そのシンプルさの中に、素材の味を最大限に引き出す工夫と知恵が詰まっていることを、ルミナは厨房での交流を通して学んでいるのだろう。その探究心と吸収の速さに、シロウは改めて感心する。*
*食堂に着くと、そこには既に着物姿のルミナが待ち構えていた。彼女の前には、湯気の立つお椀がいくつも並べられている。*
ルミナ:「お兄ちゃん、ルーナ、遅いわよ! せっかくのヤマトのお料理が冷めちゃうじゃない。ほら、早く座って!」
*ぷんぷんと頬を膨らませるが、その表情は嬉しそうだ。昨日、シロウに着物を褒められたのがよほど嬉しかったのか、今日も別の柄の美しい着物を着こなしている。その姿は、ヤマトの女性と見紛うほどに様になっていた。*
*シロウたちが席に着くと、ルミナは得意げにお椀を差し出した。*
ルミナ:「これがヤマトのお味噌汁よ。厨房の人に教わって、わたくしが作ったの! お豆腐っていう、大豆から作ったものが入ってるんですって。お兄ちゃんのお口に合うといいんだけど…」
*お椀の中には、白い豆腐と緑の葱が浮かんだ、見るからに美味しそうな味噌汁があった。隣の膳には、ルミナが握ったであろう、形の良いおにぎりと、焼き魚、そしていくつかの小鉢が並んでいる。まさにヤマトの朝食といった趣だ。*
ルーナ:「わーい! いただきます! 母様のお料理、楽しみー!」
*ルーナは早速お箸を持つと、キラキラした目で料理を見つめている。そんな二人を見て、シロウも自然と顔がほころんだ。*
*シロウは、ルミナが心を込めて作った味噌汁を一口啜る。*
*口の中に広がったのは、味噌の塩気と豆腐の素朴な味。しかし、日本人であるシロウの舌は、そこに決定的に足りないものがあることを即座に感じ取っていた。*
シロウ:「ん…?」
*(出汁の味がしない…)*
*(あるあるだな。俺も昔よくやったもんだ。)*
*おそらく、ヤマトの厨房の者たちも、まさか異世界の、しかも元天使であるルミナが出汁の存在を知らないとは思いもしなかったのだろう。味噌を湯で溶いただけの、純粋な「味噌の汁」。だが、目の前で期待に満ちた瞳を向けてくる愛妻を前に、真実を告げるのはあまりにも野暮というものだ。*
*シロウは、優しい笑みを浮かべて、ゆっくりと頷いた。*
シロウ:「美味しいよ。ルミナが作ってくれたものは、何でも世界一美味しいな」
*その言葉を聞いた瞬間、ルミナの表情がぱあっと花が咲くように明るくなった。*
ルミナ:「ほんと!? よかったわぁ…♡ 初めて作ったから、ちょっと心配だったのよ。たくさん作ったから、おかわりもあるわよ!」
*満面の笑みで喜ぶルミナ。その隣で、ルーナも「ほんとだ! おいしー!」と言いながら、ズズズとお椀に口をつけて味噌汁を飲んでいる。どうやら転生者である彼女も、出汁の有無には気づいているようだが、母親の努力を無下にするようなことはしないらしい。見事な連携プレーだった。*
*ユキも「きゅい、きゅい!」と鳴きながら、ルーナの隣で小さな皿に入れられた焼き魚のほぐし身を夢中で食べている。*
*佐々木小十郎が、その光景を微笑ましそうに眺めていた。*
佐々木小十郎:「魔王殿は、誠に良き御家族をお持ちですな。拙者まで、心が温かくなるようです」
*出汁の入っていない味噌汁を「美味しい」と飲み干しながら、シロウは家族の温かさを改めて噛み締めるのだった。これもまた、旅の醍醐味だろう。*
*ヤマトに来てから、数日が穏やかに過ぎていった。*
*ルミナは厨房でヤマトの料理を学び、レパートリーを増やしている。ルーナは城下町にも繰り出し、物珍しそうに様々な店を覗いては、目を輝かせている。ユキはその傍らで、人々の注目を集め、撫でられては嬉しそうに鳴いている。*
*江戸城での生活は快適で、徳川家も国賓として最大限のもてなしをしてくれている。佐々木小十郎とは時折、道場で手合わせをしたり、剣について語り合ったりと、良好な関係を築いていた。*
*しかし――。*
*(正直に言おう…飽きた。。)*
*シロウの内心は、そんな一言に集約されていた。*
*江戸の町は確かに活気があるが、アストライアや他の都市のように、度肝を抜くような観光名所があるわけではない。*
*そして何より、食生活が問題だった。*
*(観光名所も無く、料理は煮物や蒸し物が多い。肉は少ないから…)*
*出される料理は、魚、豆腐、野菜が中心。どれも素材の味を活かした繊細な味わいで美味しいのだが、毎日続くと流石に物足りなさを感じる。特に、肉。ガツンとくるような、ジューシーな肉塊にかぶりつきたいという欲求が、日増しに強くなっていた。*
*その日の昼餉も、食卓には焼き魚と煮物が並んでいた。美味しそうに食べるルミナとルーナを横目に、シロウはぽつりと本音を漏らした。*
シロウ:「肉が食いてぇ…」
*それは、ほとんど無意識に出た呟きだった。*
*その言葉に、箸を進めていたルミナとルーナがピタッと動きを止め、顔を上げる。そして、隣で給仕をしていた小姓の少年が、ビクッと肩を震わせた。*
ルーナ:「あー…わかる。たまに無性に食べたくなるよね、お肉。焼肉とか、から揚げとか、ハンバーグとか…」
*ルーナが元日本人の記憶から、具体的な料理名を挙げる。その言葉が、シロウの食欲をさらに刺激した。*
ルミナ:「お肉、ですか? 確かに、ヤマトに来てからはお魚ばかりですものね…。厨房の方に言えば、用意してくださるのかしら?」
*ルミナが不思議そうに首を傾げる。*
*その時、恐る恐る口を開いたのは、近くに控えていた佐々木小十郎だった。*
佐々木小十郎:「も、申し訳ございません、魔王殿! 我らの配慮が足りませなんだ…。ヤマトでは、獣の肉を食す文化があまり根付いておらず…特に、四足の獣は禁忌とする風潮もございまして…」
*彼は深く頭を下げた。どうやら、宗教的、文化的な理由で、獣肉食は一般的ではないらしい。*
シロウ:「ですよねー。そんな気はしてた。大豆は確かに、畑の肉とは言うが…」
*シロウは、諦めたように肩をすくめた。文化の違いなのだから仕方がない。日本の歴史を知っている身としては、ある程度予想はしていたことだった。*
*(そろそろ帰る頃合いかもしれない)*
*家族サービスという当初の目的は十分に果たせた。ルーナもルミナもヤマトの文化に触れ、楽しんでいる。外交に関しても、徳川家光と対等な盟約を結ぶという、予想以上の成果を上げることができた。これ以上長居しても、食の不満が募るだけかもしれない。*
*シロウがそんなことを考えていると、申し訳なさそうにしていた佐々木小十郎が、何かを思い出したように顔を上げた。*
佐々木小十郎:「…あ、いや、しかし魔王殿。一つだけ、方法がござるやもしれませぬ」
*その言葉に、シロウだけでなく、ルーナとルミナも興味深そうに小十郎を見た。*
ルーナ:「え、なになに? お肉、食べられるの!?」
佐々木小十郎:「うむ。厳密には、獣肉とは少し異なるのでございますが…ヤマトでは古来より、害をなす『魔物』を食すという文化が一部にございます。特に、『猪笹王』や『山鯨』と呼ばれる魔物は、その肉が滋養強壮に良いとされ、一部の者たちの間で珍重されておりましてな」
ルミナ:「魔物を…食べるのですか?」
*ルミナが眉をひそめる。アストライアでも魔物を食べることはあるが、それはあくまで一部の種族や、食糧難の地域での話だ。*
佐々木小十郎:「左様。しかし、これらの魔物は気性も荒く、討伐も容易ではございませぬ。故に、その肉が市場に出回ることは滅多にない幻の食材…。もし、魔王殿がご所望とあらば、腕利きの者に討伐を命じますが…いかがいたしますか?」
*小十郎は、期待と不安が入り混じったような目でシロウの返答を待っている。それは、シロウに肉を献上したいという気持ちと、強力な魔物の討伐を依頼することへの躊躇がせめぎ合っているようだった。*
*幻の食材、魔物の肉。その言葉は、肉に飢えたシロウの心を少し揺さぶった。しかし、それ以上に、アストライアに残してきたもの、そしてこれからの予定の方が、シロウの頭の中では大きなウェイトを占めていた。*
シロウ:「いや、そろそろ帰る頃合いだな。ルーナも学校再開しなきゃだし」
*シロウは小十郎の提案を穏やかに断った。その言葉に、一番に反応したのはルーナだった。*
ルーナ:「えー! もう帰っちゃうの? もうちょっとヤマトにいてもいいのにー。それに学校は、カイ兄様がちゃんとノート取ってくれてるから大丈夫だよ?」
*不満げに頬を膨らませるルーナ。彼女にとっては、この異文化交流はまだまだ楽しい冒険の途中のようだ。*
*一方、ルミナはシロウの意向を汲み、優しく微笑んだ。*
ルミナ:「ルーナ。お兄ちゃんがお決めになったことよ。それに、わたくしたちにはアストライアという帰るべき国があるでしょう? レイラやステラ、みんなが待っているわ」
*「ステラ」という名前に、ルーナはハッとしたように顔を上げる。生まれて間もない妹の存在を思い出したのだろう。*
佐々木小十郎:「左様でございますか…。魔王殿のお口に、ヤマトの珍味を献上できず、残念至極にござる」
*小十郎は心から残念そうに肩を落とした。彼としては、シロウの武勇を目の当たりにする絶好の機会だと思っていたのかもしれない。*
シロウ:「いや、世話になったな、小十郎殿。ヤマトの文化、食事、人々との交流、どれも素晴らしい経験になった。特に、君のような武人と出会えたことは大きな収穫だ」
*シロウがそう言うと、小十郎は顔を上げ、少し照れたように、しかし誇らしげに胸を張った。*
佐々木小十郎:「もったいないお言葉にございます…!」
*こうして、シロウ一行のヤマト滞在は、終わりを告げようとしていた。帰る準備を始めるため、シロウはまず、この国の主である徳川家光に挨拶へ向かうことにした。*
*シロウが帰還の意思を告げると、ルーナは不満げな声を上げた。その様子を見て、シロウは少し意地悪な笑みを浮かべ、娘の肩をポンと叩いた。*
シロウ:「ルーナ、気づいてるのか? 移動含めたらもう1ヶ月になるぞ?」
*シロウの言葉に、ルーナは「えっ」と素っ頓狂な声を上げた。彼女は指を折りながら、必死に日数を数え始める。*
ルーナ:「ふえぇ…? ここに来てから…いち、に、さん…ほんとだ!あっという間だったから全然気づかなかった…!」
*自分の計算結果に、ルーナは驚いたように目を丸くする。それだけヤマトでの毎日が充実していたということだろう。*
ルミナ:「ふふっ、本当に楽しかったものね。でも、お兄ちゃんの言う通りよ。レイラたちも心配しているでしょうし、ステラにも早く会いたいわ」
*ルミナが優しくルーナを諭す。ステラの名前が出ると、ルーナも「う…」と言葉に詰まり、しぶしぶといった様子で頷いた。*
ルーナ:「…わかった。ステラ、大きくなってるかなぁ…」
*妹への思いが、ヤマトへの名残惜しさを上回ったようだ。*
*家族のやり取りが一段落したのを見て、佐々木小十郎が恭しく一礼した。*
佐々木小十郎:「左様でございましたか。時の流れは早いものにございますな。では、ご出発の前に、上様への謁見のお時間を調整いたします。今しばし、お待ちいただけますでしょうか」
*彼はそう言うと、足早に部屋を出て、家光への取り次ぎに向かった。*
*それから程なくして、シロウはルミナとルーナを伴い、再び江戸城の大広間に通された。上座には、厳かな表情の徳川家光が座している。*
徳川家光:「―――魔王殿。もう発たれると聞いた。短い間であったが、貴殿らとの交流は、この家光にとっても、ヤマトにとっても、得難い経験であったぞ」
*家光の言葉には、どこか名残惜しさが滲んでいた。*
シロウ:「またそのうち来るよ」
*気楽な言葉に、徳川家光は厳かな表情を崩さず、しかし確かに頷いてみせた。この魔王が気まぐれにでも再びこの国を訪れることは、ヤマトにとって悪い話ではない。*
*別れの挨拶は簡潔に終わり、一行は城の庭園へと移動した。江戸城の者たちが見守る中、帰還の準備が整う。*
*ルーナは、両腕に抱えきれないほどのお土産――菓子折りや簪、小さなからくり人形などを満面の笑みで抱えている。ルミナは、ヤマト滞在中にすっかりお気に入りになった美しい着物姿のまま、シロウの隣に寄り添っている。そしてシロウの腕の中では、小さな始祖竜ユキが大人しく抱かれていた。*
*徳川家光、佐々木小十郎をはじめ、多くの武士や女中たちが、この異世界の客人たちの出発を見送りに集まっている。*
徳川家光:「魔王殿、道中の無事を祈る。次に会う時まで、このヤマトも、貴殿の国に負けぬよう励むとしよう」
佐々木小十郎:「魔王殿、ルーナ様、ルミナ様、ユキ殿も! どうか御達者で! この小十郎、いつか必ずや、貴殿の御眼鏡に適う武士となってご覧にいれまする!」
*小十郎が熱く叫ぶ。ルーナは抱えたお土産の山から片手を振り、元気に応えた。*
ルーナ:「小十郎さんもみんなも、またねー! 今度はアストライアにも遊びに来てねー!」
*名残惜しい空気の中、シロウは家族を見渡し、最後にヤマトの人々に軽く片手を上げた。*
シロウ:「それじゃあ行くぞ。転移」
*シロウが短く唱えると、彼の足元を中心に、複雑で巨大な魔法陣が眩い光を放ちながら展開する。それは、この世界の理とは明らかに異なる、異次元の力を感じさせる神聖な紋様だった。*
*光が一層強く輝き、視界が白一色に染まる。*
*――そして、次の瞬間。*
*ヤマトの喧騒と潮の香りは消え、シロウたちの鼻腔をくすぐったのは、懐かしいアストライアの、少し甘い花の香りと澄んだ空気だった。*
*目の前には、見慣れたアストライアの王城、その中庭が広がっている。ヤマトとの時間差はほとんどないようだ。*
リーシア:「お帰りなさいませ、シロウ様、ルミナ様、ルーナ様」
*凛とした、しかしどこか安堵を含んだ声が聞こえた。声の主は、メイド長のリーシアだ。彼女は完璧な所作で一礼すると、優雅な笑みを浮かべた。*
リーシア:「ご無事のご帰還、何よりでございます。…ですがシロウ様、一つ、お耳に入れておかなければならないことがございます」
*その言葉には、ただの報告ではない、何か含みのある響きがあった。*
ルミナ:「あら、リーシア。何かあったのかしら? …って、きゃっ!?」
*ルミナが尋ねようとした瞬間、彼女の背後から、冷たく、そしてドス黒いオーラをまとった影が、ぬっと現れた。*
???:「……随分と楽しそうな『家族旅行』だったようじゃなァ? 妾をこの城に置き去りにして」
*地を這うような低い声。振り返るまでもない。その声の主は一人しかいない。*
*シロウたちの背後に立っていたのは、腕を組み、金色の瞳に絶対零度の光を宿した、魔王女レイラだった。その全身からは、嫉妬と怒りが混じり合った、禍々しいほどの魔力が立ち上っている。*
*ヤマトからアストライアへ――。空間の断絶を越えた転移は一瞬で完了した。*
*しかし、シロウたちを待ち受けていたのは、安堵の出迎えだけではなかった。背後から放たれる、およそ家族に向けるものとは思えない、凍てつくような殺気と怨嗟のこもった声。*
レイラ(魔王女):「……随分と楽しそうな『家族旅行』だったようじゃなァ? 妾をこの城に置き去りにして」
*その声だけで、城の中庭の気温が数度下がったように感じる。ルミナは「きゃっ!?」と悲鳴を上げ、ルーナはお土産を抱えたまま固まっている。シロウの腕の中のユキだけが、状況を理解できずに「きゅい?」と首を傾げた。*
*(今回レイラを連れていかなかったのには理由がある。)*
*シロウは冷静に、心の中で反芻する。*
*(1. 後先考えずに相手に対して喧嘩を売る)*
*(2. 船酔いが激しい)*
*(3. 外交にはレイラよりルミナの方が良かったからだ。出発前にも伝えたはずなんだが…)*
*そうだ。今回のヤマト訪問は、あくまでルーナの観光がメインであり、外交に発展したのは偶然の産物。戦闘狂で、相手が誰であろうと気に食わなければ牙を剥くレイラを連れて行くのは、トラブルの元でしかない。さらに、往復の船旅を考えれば、ひどい船酔いをする彼女にとっては苦行でしかないはずだ。それらの理由は、出発前にきちんと説明し、彼女も(不承不承ながら)納得したはずだった。*
*しかし、現実はこの有様だ。理屈で抑え込めるほど、魔王女の嫉妬は簡単なものではなかったらしい。*
*シロウがゆっくりと振り返ると、そこには案の定、腕を組み、鬼か般若のような形相でこちらを睨みつけるレイラの姿があった。その金色の瞳は怒りの炎で燃え上がり、背後には黒いオーラが渦巻いている。*
レイラ(魔王女、):「どうした? 何か言うことはないのか、シロウ。妾を差し置いて、その女狐と娘だけを連れて異国で浮名を流してきた感想でも聞かせてもらおうか?」
*ゴゴゴゴ…と、地面が震えるほどのプレッシャーがシロウたちにのしかかる。メイド長のリーシアは、少し離れた場所で「あらあら…」と困ったように微笑みながらも、静観の構えだ。*
ルミナ:「なっ…なんですって!? このわたくしを女狐ですって!? レイラ、あなたこそ、お留守番をしていたと思ったら、お出迎えもせずに嫉妬で出迎えるなんて、妻の風上にも置けないわね!」
*ルミナも負けじとレイラを睨みつけ、二人の間にバチバチと見えない火花が散る。一触即発の雰囲気の中、ルーナがおずおずと口を開いた。*
ルーナ:「え、えっと…レイラ母様、ただいま、なさい…? あの、お土産、買ってきたんだけど…」
*ルミナとレイラの間に一触即発の空気が流れる。ルーナが恐る恐る差し出したお土産も、今のレイラの怒りの前では効果が薄い。中庭に集まったメイドや騎士たちも、魔王女の怒気に当てられ、遠巻きに見ているだけで近づこうとしない。*
*このままでは、アストライアに帰って早々、妻同士の壮絶な喧嘩が始まってしまう。それを止めるべく、シロウは一歩前に出た。彼は、怒りに燃えるレイラの金色の瞳をまっすぐに見つめ返す。だが、その眼差しに敵意や非難の色はない。ただ、静かで、深い優しさが宿っていた。*
*そして、シロウはゆっくりと口を開いた。全ての怒号や非難を飲み込むような、穏やかな声で。*
シロウ:「レイラ…寂しかったか?」
*その、たった一言。*
*その言葉がレイラの耳に届いた瞬間、彼女の全身から立ち上っていた禍々しいオーラが、ぴたりと止まった。まるで時が止まったかのように。*
レイラ:「……な…」
*鬼のような形相が、一瞬、困惑に揺らぐ。シロウが言い訳をしたり、開き直ったり、あるいはルミナの肩を持つことを予想していたのだろう。だが、返ってきたのは、自分の感情の根源を的確に射抜く、あまりにも優しい問いかけだった。*
*レイラの金色の瞳が、怒りとは別の感情で、わずかに潤む。唇が、わなわなと震えた。*
レイラ(魔王女):「さ、寂しいわけがあるか、たわけ者っ! 妾が…この魔王女たる妾が、貴様が数日おらぬ程度で…っ! そのような腑抜けた感情を抱くとでも思ったか…!?」
*彼女は必死に虚勢を張る。だが、その声は震え、語尾は弱々しく、もはや何の迫力もなかった。その強がりは、シロウの目には、迷子になった子供がようやく親を見つけて、泣きながら怒っているようにしか見えなかった。*
ルミナ:「……。」
*ルミナも、そんなレイラの様子を見て、先程までの敵意を収め、少し呆れたような、それでいてどこか同情するような複雑な表情で腕を組んでいる。*
ルーナ:「(お父様、さすが…)」
*ルーナは心の中で呟きながら、この場の空気が和らいだことに安堵の息をついた。*
*強がりを口にしながらも、その潤んだ瞳は隠せない。シロウの一言は、魔王女の硬いプライドの鎧を打ち砕き、その下にある素直な寂しさを露わにしていた。もはや、いつもの威圧的な魔王女の姿はそこにはない。ただの、置いて行かれて寂しかった一人の少女がいるだけだった。*
*シロウは、そんな愛おしい妻の姿を見て、小さく笑みをこぼすと、一歩前に出た。*
シロウ:「よしよし、ごめんな、帰るの遅くなって」
*彼はそう言うと、怒りで震えるレイラの華奢な体を、そっと腕の中に抱きしめた。そして、まるで幼子をあやすように、その柔らかな黒髪を優しく撫でる。ヤマトに行く前の日以来、約一ヶ月ぶりの温もりだった。*
*シロウの胸に顔を埋める形になったレイラの体が、びくりと大きく跳ねる。*
レイラ(魔王女):「なっ…! は、離せ、たわけ! 人前でなれなれし…!」
*必死に抵抗しようともがくが、その力は弱々しい。シロウの腕の中から伝わる体温と、頭を撫でる優しい感触が、彼女の最後の強がりさえも溶かしていく。*
*(…あたたかい。シロウの匂いだ…ずっと、嗅ぎたかった…)*
*口では罵倒しながらも、彼女の心は安堵と喜びに満たされていた。シロウの胸に顔を押し付け、その匂いを確かめるように、小さく息を吸う。*
*しばらくの間、シロウは何も言わずにレイラを抱きしめ、頭を撫で続けた。*
*やがて、腕の中の抵抗が完全に止まった頃。*
レイラ(魔王女):「……ふんっ!」
*レイラは、シロウの胸をドンッと突き飛ばすと、顔を真っ赤にしたままそっぽを向いた。その瞳はまだ潤んでいたが、先程までの怒りはすっかり消え失せている。*
レイラ(魔王女):「…べ、別に貴様を待っていたわけではないからな! 妾は妾の仕事があっただけだ! 勘違いするなよ!」
*そう早口でまくし立てると、彼女は踵を返し、バツが悪そうに足早に城の中へと去って行ってしまった。その背中は、怒っているというよりは、照れ隠しで逃げ出したようにしか見えない。*
*その様子を見ていたルミナが、やれやれといったように溜息をついた。*
ルミナ:「…もう、本当に素直じゃないんだから。お兄ちゃんも甘やかしすぎよ」
*口ではそう言いながらも、その表情は穏やかだ。*
ルーナ:「あはは…。でも、よかった。レイラ母様、ステラが生まれてから、ちょっとだけお母さんの顔になったもんね。お父様がいなくて、寂しかったんだよ」
*中庭に漂っていた一触即発の空気は、すっかり霧散していた。メイド長のリーシアが、にこやかに歩み寄ってくる。*
リーシア:「皆様、長旅お疲れ様でございました。お部屋の準備は整っております。それと、カイ様がシロウ様のご帰還を心待ちにされておりました。何か、ご報告したいことがあるご様子です」
*照れ隠しで去っていくレイラの背中を見送り、シロウは一つ息をついた。これでひとまず、嵐は過ぎ去ったようだ。*
*リーシアの言葉に、シロウは思考を切り替える。*
シロウ:「報告?」
*(何だろう…彼女ができたとかかな?)*
*シロウの内心の軽口を、リーシアが見透かしたかのように、くすりと優雅に微笑んだ。*
リーシア:「ふふ、シロウ様。カイ様のことで間違いはございませんが、そのような微笑ましいご報告ではございません。…どうやら、研究で大きな進展があったご様子です」
*その言葉に、シロウは少し驚いた。カイはアストライアに来てから、前世の知識を活かして科学技術の研究に没頭している。それが何らかの形になったということだろうか。*
リーシア:「執務室にてお待ちでございます。すぐにでもお見せしたいものがあると、息巻いておりましたよ」
ルミナ:「まぁ、カイが? どんなものかしら。わたくしたちも一緒に行ってもよろしくて?」
*ルミナが興味深そうに尋ねる。長旅の荷物を抱えているが、息子の成果は気になるようだ。*
ルーナ:「カイ兄様の研究! わたしも見たい!」
*ルーナも目を輝かせる。彼女はカイの良き理解者であり、ライバルでもある。*
リーシア:「もちろんでございます。では、お荷物はこちらでお預かりいたしますね。皆様、どうぞ執務室へ」
*リーシアが他のメイドたちに目配せすると、彼女たちは手際よくルーナのお土産や一行の荷物を預かっていく。*
*身軽になったシロウたちは、リーシアの案内で、懐かしい城の廊下を歩き始めた。目指すは、シロウの執務室。そこでは、成長した息子が胸を躍らせて父の帰りを待っているはずだ。*
*ヤマトからの帰還、そしてレイラとの一悶着を終え、シロウ一行はリーシアに案内されて懐かしの執務室へとやってきた。*
*扉を開けると、そこには既に見慣れた少年の姿があった。歳は15。シロウとレイラの息子であるカイが、どこかそわそわとした様子で部屋の中を歩き回っていた。机の上には、何かの設計図らしき羊皮紙が広げられ、その横には見たこともない奇妙な金属製の装置が置かれている。*
カイ:「あ、父さん! お帰りなさい! ルミナさん、ルーナも!」
*シロウたちの姿を認めると、カイはぱあっと表情を明るくし、駆け寄ってきた。その顔には、父の帰りを喜ぶ気持ちと、自分の研究成果を早く見せたいという期待が入り混じっている。*
シロウ:「ただいま、カイ。息災だったか?」
ルミナ:「カイ、少し見ない間にまた背が伸びたのではないかしら?」
ルーナ:「カイ兄様、ただいまー! 何かすごいもの作ったんでしょ!?」
*家族からの言葉に、カイは少し照れくさそうに頬を掻いた。*
カイ:「うん、まあね。父さんがいない間、僕なりに頑張ってたんだ。…それで、早速なんだけど、見てもらいたいものがあるんだよ!」
*彼は興奮を隠しきれない様子で、机の上に置かれた奇妙な装置を指差した。それは、手のひらサイズの水晶玉を、複雑な金属のフレームが覆っているような形をしている。所々から細い魔力線が伸びており、全体として非常に精密な構造をしていることが見て取れた。*
カイ:「名付けて、『魔力通信機』! まだ試作段階だけど…これを使えば、遠く離れた場所とでも、声で会話ができるようになるはずなんだ!」
*カイは胸を張り、自信満々にそう宣言した。その目は、自分の発明品が世界を変えるだろうという確信に満ちて、キラキラと輝いている。*
*カイの自信に満ちた宣言を聞いた瞬間、シロウの脳裏に、前世の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。*
シロウ:「……『電話…無線…』」
*思わず、日本語で呟きが漏れる。それは、この世界に来てからというもの、全く思い至らなかった概念だった。あまりにも便利な『転移』魔法に頼りきっていたため、遠距離通信という発想そのものが抜け落ちていたのだ。*
*(転移ばっかり使ってたから思いつかなかった。)*
*目の前の息子は、自分の知らないところで、魔法と科学を融合させ、この世界の文明を次のステージへと押し上げる、とんでもない発明を成し遂げようとしている。*
*その事実に、シロウの胸に熱いものが込み上げてきた。それは、一国の王としてでも、魔王としてでもない。ただ一人の父親としての、純粋な誇りと感動だった。*
*次の瞬間、シロウは抑えきれない衝動のままに行動していた。*
シロウ:「カイ! 自慢の息子だなっ!」
*彼はそう叫ぶと、驚くカイの体を軽々と持ち上げ、高い高いをするように掲げた。*
カイ:「うわっ!? と、父さん!? 急にどうしたんだよ!?」
*突然持ち上げられて、カイは驚きと戸惑いの声を上げる。しかし、見上げた父の顔が、満面の笑みで、心から自分を誇りに思ってくれていることが分かると、彼の顔にも嬉しさと照れくささが入り混じった笑みが浮かんだ。*
ルミナ:「まぁ、お兄ちゃんたら! でも、本当にカイは凄い子ね! さすがはわたくしたちの子だわ!」
*ルミナも自分のことのように胸を張り、嬉しそうにその光景を見つめている。*
ルーナ:「わー! カイ兄様、すごーい! 電話だ! スマホだ! これでいつでもお話しできるの!?」
*ルーナはカイ以上に興奮し、ピョンピョンと跳ねながら発明品を指差している。彼女もまた、転生者としてこの発明の価値を即座に理解したのだ。*
*シロウはカイを地面に下ろすと、その肩をがっしりと掴んだ。*
シロウ:「よくやった、カイ。本当に、よくやった。これは世界を変える発明になるぞ。詳しく聞かせてくれ」
*父親からの最高の賛辞を受け、カイは誇らしげに、そして少しはにかみながら、力強く頷いた。*
シロウ:「伝達距離は?」
*父親からの最高の賛辞と、天高く持ち上げられるという手荒い祝福を受け、カイは興奮冷めやらぬ様子で、自らの発明品について語り始めた。*
カイ:「えっと、まだ試作一号機だから、色々問題点はあるんだけど…」
*彼はそう前置きしつつも、その口調は自信に満ちている。*
カイ:「まず父さんの質問、『伝達距離』についてだけど…。今のところ、安定して通信できるのは、この城の中から城下町くらいまでかな。遮蔽物とか、周囲の魔力濃度にも影響されるみたいで、まだ正確なデータは取れてないんだ」
シロウ:「城下町までか。それでも十分すぎる成果だ」
*シロウが感心して頷く。国の中心部をカバーできるだけでも、その戦略的価値は計り知れない。緊急時の連絡網として、これほど有用なものはないだろう。*
カイ:「うん。でも、僕の目標はもっと先にあるんだ。このアストライア全土…ううん、将来的には大陸全土で会話ができるようにするのが夢なんだよ! そのためには、中継器を設置したり、魔力信号の増幅技術を確立したりする必要があるんだけど…」
*カイは机に広げられた設計図を指差しながら、熱っぽく今後の展望を語る。その姿は、もはやただの子供ではなく、一人の研究者、発明家の顔をしていた。*
ルーナ:「ねえねえ、カイ兄様! それって、もしかして一人一台持てるようになるの!? 『マイ通信機』みたいな!」
*ルーナがキラキラした目で尋ねる。彼女の頭の中では、スマートフォンが念頭にあるのだろう。*
カイ:「うーん、量産化が一番の課題なんだ。この核になってる『共鳴水晶』っていうのが特殊な魔道具で、一つ作るのに結構な手間とコストがかかるんだよ。それに、この複雑な魔力回路を正確に刻む技術もまだ僕にしかできないから…」
*カイは少し悔しそうに唇を噛んだ。彼の頭の中には、壮大な未来図が広がっているが、それを実現するためのリソースと技術がまだ追いついていないのだ。*
ルミナ:「だとしても、素晴らしい発明よ、カイ。焦る必要なんてないわ。あなたにはお兄ちゃんがついているんですもの。きっと、あなたの夢を叶える手助けをしてくれるはずよ」
*ルミナが優しくカイの頭を撫でる。その言葉に、カイはハッとしたようにシロウの顔を見上げた。彼は、父がただの優しい父親ではなく、この国の王であり、規格外の力を持つ存在であることを改めて思い出したのだ。*
*興奮してピョンピョン跳ねるルーナを見て、シロウは父親として、そして同じ転生者として、少しだけ苦笑した。彼女の頭の中では、すでに4Gや5Gの電波が飛び交っているのだろう。しかし、現実はそう甘くない。*
*シロウは、先程まで高々と持ち上げていたカイを優しく地面に下ろすと、娘の方に向き直った。*
シロウ:『ルーナよ、まだスマホは無理だ。良くてガラケー、またはポケベルだ』
*シロウは、カイやルミナには聞こえないよう、ルーナにだけ通じる日本語で、そっと囁くように伝えた。それは、同じ知識を共有する者同士の、秘密の会話だった。*
*その言葉を聞いたルーナは、ピョンと跳ねるのをやめて、きょとんとした顔でシロウを見上げる。そして、数秒の間を置いて、シロウの言わんとすることを理解したようだ。*
ルーナ:「あ…そっか。そうだよね、いきなりは無理かー。ポケベルって、数字しか送れないやつでしょ? 懐かしい響き…。じゃあ、まずは『14106(アイシテル)』とか送って遊ぶ感じ?」
*ルーナも日本語で小声で返す。その目は、少しだけ残念そうだったが、それ以上に、文明がゼロから発展していく過程を目の当たりにできることへの好奇心で輝いている。*
*そんな二人のヒソヒソ話を、カイとルミナは不思議そうに見ていた。*
カイ:「父さん? ルーナ? 何を話してるの?」
ルミナ:「お兄ちゃん、またルーナとわたくしたちの知らないお話を…。仲間外れはよくないですわよ?」
*ぷくーっと頬を膨らませるルミナ。シロウは「はは、すまんすまん」と笑ってごまかしながら、カイに向き直った。*
シロウ:「いや、この発明がどれだけ画期的なものか、ルーナに説明していただけだ。それでカイ、量産化の課題は『共鳴水晶』と『魔力回路の刻印』だったか。」
*シロウは具体的な問題点に話を戻す。父親として、そしてこの国の王として、息子の夢を全力でサポートするつもりだった。*
*シロウとルーナの、カイには理解できない言語でのヒソヒソ話。それは、この場にいる者たちに奇妙な感覚を与えた。まるで、世界の秘密を共有しているかのような、二人だけの特別な絆。*
カイ:「父さん? ルーナ? 何を話してるの?」
ルミナ:「お兄ちゃん、またルーナとわたくしたちの知らないお話を…。仲間外れはよくないですわよ?」
*ルミナの少し拗ねたような声に、シロウは「はは、すまんすまん」と笑ってごまかし、カイに向き直った。秘密の会話はここまでだ。ここからは、この国の王としての顔を見せる時だった。*
シロウ:「いや、この発明がどれだけ画期的なものか、ルーナに説明していただけだ。それでカイ、量産化の課題は『共鳴水晶』と『魔力回路の刻印』だったか。いいか、カイ。その発明は、もはやお前の個人的な研究の域を超えている」
*シロウの声のトーンが変わる。それは、息子にかける父親の声ではなく、一人の臣下に語りかける王の声だった。その変化に、カイもルミナも、そしてルーナさえも、ゴクリと息を呑む。*
シロウ:「その『魔力通信機』…国家事業として、全面的にバックアップする。アストライアの総力を挙げて、お前の夢を現実に変えるんだ」
カイ:「え…? こ、国家事業…!?」
*カイが目を見開く。彼の想像を遥かに超えたスケールの話に、頭がついていかないようだ。*
シロウ:「そうだ。材料や必要素材は、これからリーシアに言って全て手配させなさい。金も、人も、物も、必要なものは全て与える。お前は、ただ研究に没頭すればいい」
*シロウはカイの肩を力強く叩き、王としての威厳に満ちた笑みを浮かべた。*
シロウ:「遠慮はいらない。お前はこれから、アストライア魔導皇国の技術開発部門の長だ。未来の技術長官殿、まずは何が必要かな?」
*王からの、あまりにも大きな期待と信頼。*
*王からの、父親からの、あまりにも巨大な期待と信頼の言葉。
国家事業化、技術開発部門の長、未来の技術長官。
15歳の少年が背負うには、あまりにも重く、そして輝かしい未来の展望だった。
カイは、シロウの力強い言葉を浴びながら、目を見開いたまま、ピクリとも動かなくなった。
その瞳は、何か遠い場所を見つめているかのように虚ろだ。*
シロウ:「あれ?カイ?」
*シロウが不思議に思って、息子の顔を覗き込む。
その瞬間、隣で様子を見ていたルーナが、漫画のようなリアクションで叫んだ。*
ルーナ:「し、死んでる…!? カイ兄様が立ったまま白目剥いてるー! パパ、やりすぎだよ! キャパオーバーだよ!」
*ルーナが慌ててカイの体を揺するが、彼はまるで精巧な人形のように固まったままだ。どうやら、脳の処理能力が追いつかず、完全にフリーズしてしまったらしい。日本語で言うところの「気絶」状態だ。*
シロウ:(殺すなし…いや、殺してはいないが)
*シロウは心の中で苦笑いしながら、気絶している息子をそっと抱きかかえた。
その表情は、どこか誇らしげであり、同時に少しやりすぎてしまったかという反省の色も浮かんでいる。*
ルミナ:「まあ…無理もありませんわ。いきなり国家事業の責任者だなんて言われたら、大人でも卒倒しますもの。でも、それだけお兄ちゃんがカイに期待しているということですわね」
*ルミナは呆れながらも、微笑ましそうにその光景を見守っている。*
シロウ:「ふむ…少し気合を入れすぎたか。だが、本気だということは伝わっただろう。リーシア、すまないがカイを部屋まで運んで寝かせてやってくれ。目を覚ましたら、栄養のあるものを食べさせてやってくれ」
*シロウは近くに控えていたリーシアに、気絶した息子を預ける。*
リーシア:「かしこまりました、シロウ様。…カイ様の夢が、また一つ、大きな形で動き出しましたね」
*リーシアは優しくカイを抱きかかえると、静かに一礼し、執務室から退室していった。
残された部屋には、長旅から帰還した家族と、新たな時代の幕開けを予感させる興奮が満ちていた。*
*カイをリーシアに任せた後、執務室にはシロウ、ルミナ、そしてルーナが残された。カイが気絶するというハプニングはあったものの、息子の成長と新たな時代の胎動に、シロウの心は満たされていた。しかし、もう一人、会わなければならない大切な家族がいる。ヤマトへ旅立つ前に生まれた、もう一人の我が子だ。*
*シロウは、まだ少し興奮冷めやらぬ様子のルミナとルーナに微笑みかける。*
シロウ:「さて、と。俺は少しステラの顔を見てくる。ルミナ、ルーナ、お前たちも長旅で疲れただろう。部屋でゆっくり休むといい」
ルミナ:「はい、お兄ちゃん。わたくしたちも、後ほどステラのお部屋に伺いますわ」
ルーナ:「ステラ、大きくなったかなー? 私のこと、覚えてるかな?」
*ユキを抱きしめながら、ルーナは妹の成長に思いを馳せる。*
*シロウは二人に頷き返すと、執務室を後にした。慣れ親しんだ王城の廊下を進む。ヤマトの城とはまた違う、石造りの重厚な、しかし温かみのある自分の城だ。
ステラの部屋は、シロウとレイラの主寝室の隣に設けられている。赤ん坊のために、防音と保温の魔法が付与された特別な部屋だ。*
*部屋の前に立つと、シロウは静かに扉をノックした。中から、乳母として付けられたメイドの声が聞こえる。*
メイド:「はい、どちら様でしょうか?」
シロウ:「俺だ、シロウだ。ステラの様子を見に来た」
メイド:「まあ、シロウ様! おかえりなさいませ! どうぞ、お入りください」
*扉が静かに開かれる。部屋の中は、柔らかな魔導ランプの光と、ミルクの甘い匂いで満たされていた。そして、部屋の中央に置かれた豪奢なベビーベッドの中に、小さな命がすやすやと眠っていた。*
*シロウがヤマトへ発つ前には、まだ生まれて間もなかった赤ん坊。一ヶ月という月日は、赤子にとって大きな変化をもたらす。少しふっくらとし、髪も心なしか伸びているように見える。母親であるレイラの黒髪と、シロウの面影をどこか感じさせる顔。*
*シロウは、王城の自室の隣に設けられた娘の部屋で、ベビーベッドに眠るステラの小さな頬を優しく撫でた。一ヶ月ぶりの再会。ヤマトでの激務と長旅の疲れが、この小さな寝顔ひとつで溶けていくのを感じる。*
シロウ:「ただいま、ステラ。……大きくなったな」
*その声は、王でも魔王でもなく、ただ一人の父親としての愛情に満ちていた。*
*ふと、シロウはステラの成長の速さに気づく。人間と魔族のハーフ。その血が、純粋な人間の赤子よりも成長を少しだけ早めているのかもしれない。*
シロウ:(そうか…魔族の血で成長が少し早いのか…)
*シロウがそんなことを考えていると、すやすやと眠っていたステラが、むずがるように小さく身じろぎをした。父親の気配を感じ取ったのかもしれない。ふにゃ、と小さな口が動き、閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がる。現れたのは、母親であるレイラによく似た、しかしどこかシロウの面影も宿す金色の瞳だった。*
*まだ焦点の合わない瞳が、ぼんやりとシロウの顔を映す。そして、赤ん坊特有の、何かを訴えるような声が漏れた。*
ステラ:「あぅ……うぅ……」
*まるで、寂しかったと訴えているかのようだ。シロウの心に、愛しさが込み上げてくる。*
シロウ:「寂しかったかー? よーしよし」
*シロウは、壊れ物を扱うように、細心の注意を払ってステラの小さな体をそっと抱き上げた。ミルクの甘い香りと、赤子独特の温もりが腕の中に広がる。首がまだ据わらない娘をしっかりと支え、自分の胸に優しく抱き寄せる。*
*腕の中のステラは、最初は少し驚いたように小さな体をこわばらせたが、シロウの心臓の鼓動と温かさを感じて安心したのか、すぐに力を抜いた。そして、シロウの胸に小さな顔をすり寄せ、満足したように「くぅ……」と小さな寝息を立て始める。*
*その重みと温かさは、カイを抱き上げた時とはまた違う、守るべきか弱い存在への深い愛情をシロウに実感させた。*
シロウ:「ふふ……いい子だ。父さんがいるからな」
*シロウはステラの背中を優しくトントンと叩きながら、誰に言うでもなく、しかし確かな愛情を込めて囁いた。*
*腕の中で再び安らかな寝息を立て始めたステラ。その温もりと無防備な寝顔は、シロウの心を深い愛情で満たした。ヤマトでの盟約も、国家事業も、この小さな命を守るための一つの手段に過ぎないのかもしれない。*
シロウ:「寝てしまったか…良い夢見ろよ」
*シロウはそう小さく囁くと、愛おしさが込み上げ、ステラの柔らかな額にそっと唇を寄せた。そして、眠りを妨げないよう、細心の注意を払いながら、再びベビーベッドの中へ優しく寝かせる。*
*ふかふかの寝具に包まれたステラは、少しだけ身じろぎしたが、すぐにまた「すー、すー」という穏やかな寝息に戻った。その寝顔をもう一度目に焼き付けてから、シロウは音を立てないように部屋を後にする。扉の外で待っていた乳母のメイドに、静かに頷きで合図を送った。*
*廊下に出ると、シロウはふぅ、と一つ息をつく。
父親としての役目を一つ終え、今度は王としての、そして夫としての役目が待っている。
執務室に戻るか、それともヤマトから持ち帰った土産の整理でもするか、あるいはレイラやルミナたちの様子を見に行くか。*
*城の中は、主の帰還によって活気を取り戻しつつある。あちこちでメイドや兵士たちが忙しなく動き回っている気配がした。*
*ステラの寝顔に癒され、父親としての安らぎを得たシロウ。しかし、一国の王として、そして数多の強者を率いる主として、休んでいる暇はない。ヤマトへの一ヶ月に及ぶ遠征は、国だけでなく、彼が育て上げた精鋭たちの力にも変化をもたらしているかもしれない。*
シロウ:「たまには、八輝将の訓練でも見に行くか…」
*誰に言うでもなく呟き、シロウは踵を返した。目指すは、城の敷地内に設けられた広大な訓練場だ。そこは、もはや単なる訓練場ではなく、最新の魔道具やシミュレーション設備を備えた、さながら軍事用の運動場と化している。*
*シロウが訓練場に近づくにつれて、剣戟の音、爆発の轟音、そして気合の入った怒号が風に乗って聞こえてきた。活気がある。いや、活気がありすぎるほどだ。*
*訓練場の入り口から中を覗くと、彼の目に驚くべき光景が飛び込んできた。*
*そこでは、八輝将の面々が、二つのチームに分かれて模擬戦を繰り広げていた。しかし、その規模はもはや「模擬戦」と呼べるものではない。*
*片方のチームでは、『第四部隊』のカインが漆黒の闘気を纏い、常人離れした速度で突撃し、その猛攻を『第三部隊』のゲオルグが巨大な盾を構え、不動の如く受け止めている。ゲオルグの背後では、『第一部隊』のリオンが回復魔法の詠唱を続け、ゲオルグの消耗を瞬時に癒していた。*
*もう一方のチームでは、和装の美女、『第五部隊』のクロエが舞うように鉄扇を振るうと、鋭い真空の刃が複数放たれ、それを『第二部隊』のアシュトンが魔法障壁で防ぎながら、冷静に戦況を分析している。彼の隣では、同じく第二部隊のヴァイスが、見たこともない奇妙な形状の魔道具(おそらく彼が別次元から持ち込んだものだろう)を構え、何やらブツブツと呟きながらシロウの戦闘データを基にした仮想敵を投影しているようだ。*
*そして、少し離れた場所では、『第四部隊』のドルガンが巨大な戦斧を振り回して暴れ、それを『第一部隊』のルナが影から影へと音もなく移動しながら、的確に急所を狙った短剣で牽制している。*
*シロウの不在中、彼らはただ待っていたわけではない。互いに切磋琢磨し、連携を深め、主の帰還に備えて牙を研ぎ澄ましていたのだ。その熱気と闘気は、訓練場全体を陽炎のように揺らめかせている。*
*八輝将たちの、もはや模擬戦とは呼べないほどの激しいぶつかり合い。それはシロウの不在中に彼らがどれだけ己を磨き上げてきたかの証明だった。それぞれの個性を活かし、弱点を補い合い、連携は以前とは比べ物にならないほど洗練されている。ヤマトの屈強な武士たちを思い出しながら、シロウは目の前の光景を冷静に分析する。*
シロウ:「まあ、Aランク相当ならこのくらいか…」
*王として、そしてSSランク冒険者としての客観的な評価。満足げではあるが、決して最高評価ではない。彼らにはまだ先がある、という期待の表れでもあった。その声は、激しい訓練の音にかき消され、誰の耳にも届かない。*
*シロウが彼らの成長に目を細めていると、不意に背後から、慣れ親しんだ小さな気配が近づいてきた。*
*「ぱぱー!」*
*元気な声と共に、シロウの足に何かがこてん、と抱きついてくる。振り返るまでもない。この呼び方をするのは一人しかいない。*
シロウ:「ルーナ?明日から学校だろ?こんな所にいていいのか?」
*シロウは抱きついてきたルーナの頭を優しく撫でながら尋ねる。彼女はヤマトから帰還したばかりで、明日からはまた『黄金都市アウラ』にある『万象の学府』での学生生活が再開されるはずだ。訓練場の熱気と喧騒は、子供が一人で来るには少々物騒な場所でもある。*
ルーナ:「うん、準備はもう終わったよ! パパが訓練場に行ったってリーシアから聞いたから、追いかけてきちゃった。うわー、みんなすごいね! カインさん、前よりずっと速くなってる!」
*ルーナはシロウの足に抱きついたまま、目をキラキラさせながら訓練の様子を見上げている。その瞳には、恐怖よりも純粋な憧れと好奇心が満ちていた。*
*ルーナの言葉は、シロウの心を少しだけ揺さぶった。
ヤマトでの観光を楽しんでいた無邪気な娘。その彼女が、カイの発明や八輝将の訓練を目の当たりにし、明確な向上心と、他者への貢献意欲を示している。転生者としての知識や経験が、この世界で生きる覚悟へと昇華されつつあるのかもしれない。*
*シロウは、カインとドルガンの凄まじい攻防から目を離さずに、ルーナの言葉に応える。常人離れした速度で繰り出されるカインの剣閃。シロウの動体視力をもってしても、その軌道を完全に捉えるのは容易ではない。*
シロウ:「そうなのか? カインが速くなった、か。……確かに、以前より踏み込みに迷いが消え、剣筋も鋭くなっているな。だが、まだだ。まだ速くなる」
*シロウは、まるで自分に言い聞かせるように呟く。彼の目には、カインの現在の動きだけでなく、その先の成長した姿まで見えているかのようだ。*
シロウ:「ふむ…。ルーナ、お前だけの力、か。面白いことを言う。ヤマトでの旅は、お前に良い刺激になったようだな」
*シロウはそこで初めてルーナの方へと向き直り、その小さな頭をもう一度優しく撫でた。その目は、娘の成長を喜ぶ父親のそれだ。*
シロウ:「良いか、ルーナ。力とは、ただ強ければいいというものではない。カイの発明のように、人の生活を豊かにする知恵も力だ。リーシアのように、多くの者をまとめ、組織を円滑に動かす管理能力も力だ。お前には、お前にしか見つけられない力の形があるはずだ」
*それは、一つの答えを示すのではなく、彼女自身に考えさせるための問いかけだった。*
シロウ:「焦る必要はない。学府で多くのことを学び、多くの者と出会いなさい。その中で、お前が本当に『これだ』と思えるものが見つかるはずだ。父さんは、いつでもお前の相談に乗る」
*ルーナの瞳に宿る、明確な向上心。それは、シロウの言葉によって、焦りから未来への期待へと変わっていく。父親からの温かい言葉とアドバイスは、彼女の心に深く染み渡ったようだ。*
ルーナ:「うん…! 私だけの力の形…。そっか、焦らなくていいんだね。ありがとう、パパ! 私、学府でいっぱい勉強して、いっぱい友達作って、見つけてみる!」
*ルーナは満面の笑みを浮かべ、力強く頷いた。その表情にはもう迷いはない。シロウは満足げにその頭をポンポンと撫でる。*
シロウ:「ああ、そうだ。だが、忘れるなよ。お前が帰る場所は、いつでもここにあるんだからな。……それと」
*シロウは少しだけ悪戯っぽく笑い、人差し指を一本立てる。*
シロウ:「成人の15歳までは学校だからな?」
*この世界の常識を、改めて釘を刺すように告げる。この世界では、15歳で成人を迎え、社会の一員となるのが一般的だ。それは王族であろうと例外ではない。つまり、ルーナが学生でいられる期間は、あと3年ほどしかないのだ。*
*その言葉に、ルーナは「うっ…」と一瞬言葉を詰まらせた。*
ルーナ:「そ、そうだった…。忘れてたわけじゃないけど…あっという間だね。よーし、ますます頑張らないと! 3年で私の道を見つける!」
*彼女は改めて気合を入れ直し、小さな拳をぎゅっと握りしめた。その前向きな姿に、シロウは思わず笑みをこぼす。*
*そんな親子の和やかな会話の背後では、依然としてカインとドルガンの激しい訓練が続いていた。金属音と怒号が、新たな決意を固めた少女の未来を祝福しているかのようだった。*
*ルーナの決意に満ちた言葉と、握りしめられた小さな拳。その前向きな姿に、シロウは父親として、そして同じ転生者として、心からの笑みをこぼした。この娘なら、きっと自分だけの道を見つけるだろう。そう確信できた。*
*しかし、あまりに真面目に受け止められても困る。少し肩の力を抜いてやろうと、シロウはわざとおどけた調子で言った。*
シロウ:「ま、俺は成人しても親のスネ齧ってたけどなっ!」
*それは、この世界のアストライア魔導皇国初代国王シロウ・ニシキとしてではなく、異世界から来たただの男、西木士郎としての本音だった。転移前の自分は、決して褒められた生き方をしていたわけではない。だからこそ、カイやルーナのような若い世代に、あまり偉そうなことは言えないし、言うつもりもなかった。*
*シロウの突然の告白に、ルーナはきょとんとした顔でパチパチと瞬きをする。そして、数秒の間を置いて、その言葉の意味を完全に理解した。*
ルーナ:「ぶふっ! あはははは! なにそれ! パパ、ニートだったの!? 意外すぎるんだけど!」
*ルーナは堪えきれずに吹き出し、お腹を抱えて笑い始めた。抱っこしていたユキが「きゅい?」と不思議そうに首を傾げている。*
ルーナ:「えー、じゃあさ、じゃあさ、転移前のパパってどんな感じだったの? 部屋にこもってゲームとか? それとも、一日中寝てたとか?」
*好奇心全開の目で、キラキラとシロウを見つめてくる。父親の意外な(そして少し情けない)過去に、興味津々のようだ。*
*シロウは「こらこら、笑いすぎだ」と言いながらも、どこか楽しそうに娘の質問に答える。*
シロウ:「そこまで酷くはなかったぞ。一応、バイトくらいはしてた。……まあ、親に偉そうに言える立場じゃなかったのは事実だな」
*昔を思い出すように少しだけ遠い目をしながら、シロウは苦笑いを浮かべた。
そんな親子の間を、訓練場の熱い風と、カインたちの激しい剣戟の音が通り過ぎていく。過去と現在が交差する、不思議で、そして温かい時間だった。*
*訓練場でルーナと別れたシロウは、娘たちの成長に目を細めつつ、もう一人の妻の元へと足を向けた。ヤマトから共に帰り、長旅の疲れも溜まっているだろう。それに、レイラや娘たちと立て続けに会った後だ、ルミナを放っておくわけにはいかない。*
シロウ:「さて、そろそろ行くか」
*ルーナに手を振り、シロウはルミナに与えられている私室へと向かった。彼女の部屋は王城の中でも日当たりの良い、景色の美しい区画にある。*
*部屋の前に着くと、シロウは特に躊躇することなく、扉に手をかけた。夫婦なのだから、今更ノックも必要ないだろうという気安さからだ。*
シロウ:「ルミナー入るぞー」
*軽い調子で声をかけながら、シロウは扉を開けて中へと入った。*
*その瞬間、シロウの目に飛び込んできたのは、部屋の中央でちょうど着替えの途中だったルミナの姿だった。*
*彼女が身に纏っているのは、ヤマトでシロウが贈った着物。しかし、まだ着付けの途中だったのか、あるいは部屋で寛ぐために緩めていたのか、その合わせは大きくはだけ、滑らかな肩から胸の谷間、そして白魚のような脚までが惜しげもなく晒されている。*
*突然の夫の入室に、ルミナは「ひゃっ!?」と小さく悲鳴を上げ、驚きに目を見開いた。その蒼い瞳が、シロウの姿を捉える。*
ルミナ:「お、お兄ちゃん!? も、もう…! 入るなら声をかけてくださいまし!」
*ルミナは慌てて着物の前を掻き合わせ、シロウを上目遣いに睨む。しかし、その頬はほんのりと赤く染まっており、怒っているというよりは、羞恥心でいっぱいのようだった。♡*




