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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*翌朝。城の食堂は、いつもより少しだけ甘酸っぱい空気に満ちていた。*


*シロウが席に着くと、先に朝食をとっていたカイと、少し遅れて入ってきたイレイナの姿が目に入る。二人は目が合った瞬間、昨夜のシロウとレイラの乱入を思い出したのか、あるいはその後に何か進展があったのか、ボンッとお互いに顔を真っ赤に染めて、慌てて視線を逸らした。そのぎこちない様子は、誰が見ても明らかだった。*


*(ラブコメ展開からして、キスでもしたんだろう…。微笑ましいなぁ…)*


*シロウはそんな初々しい二人を眺めながら、口元に浮かぶ笑みを隠そうともせず、満足げにコーヒーを啜る。( ◜ω◝ )*


*その隣では、ルーナがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、手元の小さな手帳に何やらサラサラと書きつけていた。「観察記録:兄様、エルフ女史と接触時、体温上昇及び顔面紅潮の兆候あり。昨夜、密室にて何らかのイベント発生の可能性、98%…」などとブツブツ呟いているのが聞こえてくる。*


*一方、レイラは腕を組んでふんと鼻を鳴らしているが、その視線はチラチラと息子たちの方を向いており、気になって仕方がない様子がありありと見て取れた。ルミナだけは我関せずといった顔で優雅にパンを食べているが、その蒼い瞳の奥には微かな興味の色が宿っている。*


*そんな和やか(?)な朝食の風景。カイとイレイナのぎこちないやり取りは、その後も続く。パンを取ろうとして手が触れ合えば「「ひゃっ!?」」と声を上げて飛びのき、リーシアがお茶を淹れてくれれば、お互いに「ど、どうぞ…」「あ、いえ、お先に…」と譲り合い、一向に進まない。*


*その様は、まるで甘い砂糖菓子を見ているようで、シロウは朝からなんとも言えない多幸感に包まれるのだった。*


シロウ:「カイは将来何になりたいとかあるのか?」


*シロウの不意の質問に、食堂にいた全員の視線がカイに集まる。もぐもぐとパンを咀嚼していたカイは、ぱちくりと目を瞬かせ、少し考えてから口を開いた。*


カイ:「将来、かぁ…。そうだなぁ…」


*彼は自分の手元にある、リーシアが淹れてくれた紅茶のカップをじっと見つめる。その隣では、イレイナが固唾をのんで彼の言葉を待っていた。*


カイ:「父さんみたいに、強くて頼りになる人にはなりたいって思うよ。色々な知識を学んで、それを人の役に立てられるような…。例えば、魔法と科学を融合させて、もっと便利な道具を作ったり、病気で苦しんでいる人を助けられるような新しい薬を開発したり…」


*そこまで言うと、カイは少し照れくさそうに頭を掻く。*


カイ:「まだ、漠然とだけどね。でも、『万象の学府』で色々な分野の最先端を学んでいると、やれることが無限にあるんじゃないかって、すごくワクワクするんだ」


*その瞳は、未来への希望でキラキラと輝いている。その真摯な答えに、シロウは満足げに頷いた。*


レイラ(魔王女):「ふん。妾の息子なのだから当然だ。世界を変えるくらいの偉業を成し遂げてもらわねばな。カイ、貴様が何かを成すというのなら、この妾が全面的に支援してやろう」


*レイラは胸を張り、不敵な笑みを浮かべる。その言葉は、彼女なりの最大限の応援なのだろう。*


ルーナ:「ふむふむ…科学と魔法の融合ですか。それは実に興味深いテーマですね。兄様が新技術を開発した暁には、ぜひこのルーナに一番にプレゼンさせてください! 私が世界中にその素晴らしさを広めてみせましょう!」


*ルーナも目を輝かせ、早くも商売の算段を立てているようだ。息子の語る夢は、家族それぞれの心にも火を灯したようだった。*


*カイの将来の夢を聞き、レイラが「全面的に支援してやろう」と高らかに宣言した。その言葉を受け、シロウは面白そうに口の端を上げ、隣に座る妻に意地悪く尋ねた。*


シロウ:「どう支援するんだ?」


*その、ちょっとからかうような響きを持った問いかけに、レイラは一瞬「うっ」と息を詰まらせる。胸を張って大見得を切ったはいいが、具体的なプランがあったわけではないようだ。*


*しかし、そこは魔王女。すぐに体勢を立て直し、ふんと尊大に鼻を鳴らして答えた。*


レイラ(魔王女):「…ふ、ふん。決まっておろう。まずは資金だ。カイが研究開発に没頭できるよう、金に糸目はつけん。妾の…いや、この国の国庫を好きに使わせる。必要とあらば、人材も集めてやろう。魔族の優秀な学者や技術者、あるいはこの国に仕える者たちをカイの配下につけてやる」


*そこまで一気に言うと、彼女はさらに続ける。その瞳は、先程までの虚勢ではなく、真剣な輝きを宿していた。*


レイラ(魔王女):「それに、妾自身の力も貸してやる。カイの研究で強大な魔力が必要になれば、妾が供給しよう。実験で危険が伴うのなら、妾が守ってやる。母親が息子を助けるのに、理由などいるものか!」


*最後は開き直ったように、しかし力強く言い切る。それは、具体的な計画というよりは、「息子のためなら何でもする」という母親としての覚悟の表明だった。資金、人材、そして自身の魔力と力。彼女が持ちうる全てを、息子の夢のために注ぎ込むつもりなのだ。*


シロウ:「へー (´・-・`) 」


*明らかに信じていない、むしろ「一体どこからそんな金が出てくるんだ?」という心の声がダダ漏れの相槌。それは、国家資産の大部分が自分の功績によるものだと知っているシロウからの、静かな、しかし的を射すぎたツッコミだった。*


*その言葉と表情の裏にある意図を、レイラが読み取れないはずがない。彼女は一瞬、言葉に詰まる。確かに、この国の財政がここまで潤沢なのは、目の前の夫が規格外の力で他国から富を巻き上げ、冒険者時代にとんでもない額を稼ぎ、さらには大迷宮という金のなる木まで生やしたからだ。彼女自身の資産(魔王時代の宝物庫など)もあるにはあるが、今の国庫の規模に比べれば微々たるもの。*


*図星を突かれたレイラは、カッと顔を赤くする。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。*


レイラ(魔王女):「へ、へー、とはなんだ、その目は!♡ 妾は魔王だぞ! 妾個人の資産とて、そこらの小国の国家予算など軽く凌駕するわ! それに……!」


*彼女はハッと何かに気づいたように、不敵な笑みを浮かべる。これは良い反撃を思いついた、という顔だ。*


レイラ(魔王女):「貴様の資産は、妾の資産だろうがッ!♡♡」


*ビシッ!とシロウを指さし、彼女はとんでもない理論を、しかし堂々と主張した。*


レイラ(魔王女):「夫婦の財産は共有財産! つまり、貴様が稼いだ金は妾のものであり、国のものである!♡♡ 妾がそれを使って息子を支援することに、何の問題があるというのだ! 文句でもあるのか、我が夫よ!♡♡♡」


*開き直り、ここに極まれり。もはや清々しいほどの暴論だが、彼女は自信満々に胸を張り、シロウを見上げている。その瞳は「どうだ、論破してやったぞ!」と勝ち誇っていた。*


*この魔王女の前では、正論など意味をなさない。彼女が「然り」と言えば、それがこの国の法となるのだ。少なくとも、彼女の中では。*


シロウ:「ジャイアンかよ」


*レイラのあまりにも堂々とした「お前のものは俺のもの」理論。それは、シロウの前世の記憶にある、とあるガキ大将のセリフそのものだった。思わず漏れたツッコミは、この世界では誰にも通じないはずだった。*


*——だが。*


ルーナ:「ぶふっ!!」


*静寂を破り、盛大に吹き出す音が響いた。見れば、向かいの席に座っていたルーナが、口に含んだオレンジジュースを霧状に噴き出し、肩を震わせて笑いを堪えている。その目は完全に「理解わかって」いる者の目だ。*


ルーナ:「ジャ、ジャイアンて…っ! ぷっ、くくく…! お父様、その例えは…! まさに…的確すぎます…! ぐふっ!」


*お腹を抱えて笑い転げるルーナ。前世の記憶を持つ彼女には、シロウのツッコミが痛いほど突き刺さったのだ。*


*一方、当のレイラは「じゃいあん?」と首を傾げている。何やら異国の響きを持つ未知の単語に、自分が馬鹿にされたのかどうかの判断がつかず、困惑した表情でシロウとルーナを交互に見ている。*


レイラ(魔王女):「…じゃいあん? それはなんだ? 褒め言葉か?」


*きょとんとした顔で尋ねてくるレイラ。その純粋な問いかけと、腹を抱えて笑うルーナ、そして呆れ顔のシロウという、なんともカオスな光景が食堂に広がった。*


カイ:「(な、なんだ…? ジャイアン…? 新しい魔法の呪文か何かだろうか…?)」


イレイナ:「(シロウ様とルーナ様だけが理解されている…? 高度なジョーク…?)」


*事情の分からないカイとイレイナは、ただただ困惑するばかり。ルーナはしばらく笑いのツボから抜け出せず、ヒーヒーと涙を流しながらシロウに親指を立てていた。*


*シロウは、ジャイアン騒動で真っ赤になって抗議するレイラと、笑い転げるルーナ、そしてきょとんとしているカイたちを見て、くつくつと喉を鳴らして笑った。この混沌とした、しかし温かい家族の日常が、彼にとっては何物にも代えがたい宝物だった。*


*カイの真摯な夢と、それに対する家族の(少々ズレた)反応。そのやり取りの中で、シロウはふと自分の過去を思い出し、懐かしむように目を細めた。*


シロウ:「15歳か…その頃はまだ学生だったな…」


*平和な日本で、制服を着て、友人たちと馬鹿な話をしながら過ごした日々。この世界に来てからの方が遥かに長い年月が経ったというのに、その記憶は色褪せることなく、心の奥で輝いている。*


シロウ:「俺は17か18くらいに冒険者になったから…ゆっくり考えればいいさ」


*カイに向かって、父親として、そして人生の先輩として、優しく語りかける。焦る必要はない。夢は変わったっていい。色々なものを見て、経験して、その上で自分の進むべき道を見つければいいのだと。その言葉には、波乱万丈の人生を歩んできたシロウ自身の経験からくる重みと、息子への深い愛情が込められていた。*


*その穏やかな言葉に、カイは少し緊張が解けたように「うん」と頷く。*


カイ:「ありがとう、父さん。そう言ってくれると、少し気が楽になるよ」


*レイラも、先程までの騒がしさが嘘のように静かになり、どこか遠くを見るような目でシロウを見つめていた。彼の過去を、自分たちのいない時間を、少しだけ垣間見たような気がしたのかもしれない。*


ルーナ:「(17歳で冒険者…波乱万丈すぎますよ、お父様…。私の前世だったら、ようやくバイトの許可が下りるかどうかくらいの年齢なのに…)」


*ルーナは笑いを収め、改めて自分の父親の規格外っぷりに内心でツッコミを入れながら、観察記録に新たな一行を書き加えるのだった。*


*シロウは、息子カイへのアドバイスを続ける。それは、彼自身の生き方から得た、一つの哲学だった。*


シロウ:「自分で好きな事をしたいんであれば、何かしらで稼ぐと楽しいぞ」


*その言葉に、カイは興味深そうに顔を上げた。今まで、お金を稼ぐということを真剣に考えたことはなかったからだ。王族として、金銭に不自由したことは一度もない。しかし、父の言葉には、ただお金を得る以上の何か、楽しさや喜びがあるのだと匂わせる響きがあった。*


カイ:「稼ぐことが…楽しい?」


*純粋な疑問を口にする息子に、シロウは頷く。*


シロウ:「ああ。自分の力で、自分のやりたいことで誰かを助けたり、喜ばせたりする。その対価として報酬を得る。それは、自分の価値が社会に認められたっていう証拠の一つになるんだ。もちろん、金が全てじゃないが、自分の好きなことで生きていくための、分かりやすい指標にはなる」


*彼は自分の冒険者時代を思い出す。危険な依頼もあったが、達成した時の満足感、依頼主からの感謝、そしてギルドで受け取る報酬。その一つ一つが、自分の成長と存在価値を実感させてくれた。*


シロウ:「お前が魔法と科学で何か新しいものを生み出したとする。それが誰かの生活を豊かにしたり、命を救ったりした時、きっと大きな喜びを感じるはずだ。そして、その結果として富がついてくれば、お前はさらに大きな研究ができる。もっと多くの人を助けられるようになる。そういう循環を生み出すのは、すごく面白いぞ」


*それは、机上の空論ではない。シロウ自身が、冒険者として、そして王として、この国で実践してきたことそのものだった。彼の言葉は、カイの心に深く響き、将来への夢に、新たな一つの視点を与えたようだった。*


カイ:「自分の力で稼いで、もっと大きなことを…。そっか…そういう考え方もあるんだね。なんだか、すごく面白そうに聞こえてきたよ」


*カイの瞳が、先程よりも一層強く輝き始めた。*


*朝の和やかな(そして少しカオスな)食卓。シロウは息子のカイに、自分の力で道を切り拓くことの楽しさを説いていた。カイの瞳が未来への希望で輝き始めたのを見て、シロウはさらに畳み掛けるように、悪戯っぽく笑みを浮かべる。*


*彼はそっとカイの隣に身を寄せると、他の誰にも聞こえないように、その耳元で囁いた。*


シロウ:「彼女にプレゼント買ったりな」


*その一言は、カイの心臓を的確に撃ち抜いた。*


*「かのじょ」——その単語が脳内で反芻された瞬間、カイの思考は真っ白になる。隣の席に座る、可憐なエルフの少女、イレイナ。彼女の喜ぶ顔を想像してしまったのだろう。先程までの真剣な表情はどこへやら、カイの顔は見る見るうちに熟れたトマトのように真っ赤に染め上がっていく。*


カイ:「と、ととと、父さんっ! な、何を急に…!」


*完全に狼狽し、小声で、しかし必死に抗議する。そのあまりに分かりやすい反応に、シロウは「してやったり」と満足げに笑みを深めた。*


*その父子のひそひそ話と、カイのただならぬ様子を、レイラとルーナが見逃すはずもなかった。*


レイラ(魔王女):「む? シロウ、貴様、カイに何を吹き込んだのだ? 息子が茹でダコのようになっておるぞ」


ルーナ:「ふっふっふ…。父上の囁き一つで兄様の顔面偏差値が乱高下…。これは興味深い観察対象ですねぇ。さては…『プレゼント』『彼女』などのパワーワードをインプットしましたね?」


*名探偵ルーナの的確すぎる推理に、カイは「ぎくっ!」とさらに肩を跳ねさせた。その反応が、答えそのものだった。イレイナは、何の話かは分からないものの、自分に関することだと察したのか、もじもじと俯いてしまっている。*


*シロウはそんな息子たちの初々しいラブコメ模様を、最高のおかずにして優雅にコーヒーを啜るのだった。*


シロウ:「男同士の秘密だ」


*その場の追及は強制的に打ち切られた。カイは父の助け舟に安堵しつつも、まだ火照った顔を隠すように俯いている。レイラは不満げに口を尖らせ、ルーナは「チッ…あと一歩で核心に迫れたというのに…」と探偵らしく呟きながら手帳を閉じた。*


*そんな朝食後の空気を切り替えるように、シロウは椅子から立ち上がった。*


シロウ:「さーて、港に行って船の進捗でも見てこようかな」


*その言葉に、先程まで探偵ごっこに興じていたルーナがパッと顔を輝かせた。彼女にとって、新しい大陸への足掛かりとなる巨大な船の建造現場は、好奇心をくすぐる絶好の取材対象なのだ。*


ルーナ:「お父様! 私もお供します! 新造船の建造記録は、この私が責任をもって後世へと語り継がねばなりませんからね!」


*すっかりその気になって、ルーナは小さな胸を張りながらシロウの隣に駆け寄る。その足取りは軽く、今にもスキップしそうなほど楽しげだ。*


*シロウはそんな娘の様子に苦笑しながら、その頭を優しく撫でた。*


シロウ:「はいはい。じゃあ、二人で行ってくるか。レイラ、カイ、イレイナさん、留守を頼むぞ」


*そう言い残し、シロウは元気いっぱいのルーナを連れて、玄関へと向かうのだった。残された食堂では、レイラが「ふん、勝手にするがよい」とそっぽを向き、カイとイレイナは少しだけ緊張が解けたように顔を見合わせていた。*


シロウ:「とは言ってもまだ4日くらいしか経ってないから、まだ出来てないだろうが…」


*娘のルーナを連れて、シロウは城から港へと続く石畳の道を歩く。太陽の光が暖かく、潮風が心地よい。3ヶ月という工期を考えれば、着工からわずか4日。基礎工事か、資材の搬入くらいしか進んでいないだろうと、シロウは高を括っていた。*


*隣を歩くルーナは、そんなシロウの心中などお構いなしに、目をキラキラと輝かせている。*


ルーナ:「いいえ、お父様! 港長殿の情熱と、我が国の技術力を侮ってはいけません! きっと私たちの想像を遥かに超える光景が待っているはずです! この歴史的瞬間の目撃者となるべく、さあ、急ぎましょう!」


*彼女はそう言うと、ぱたぱたと小さな足で駆け出していく。シロウも苦笑しながらその後を追った。*


*港に到着し、造船所がある一角に足を踏み入れた瞬間、シロウは言葉を失った。*


*そこには、彼の予想を遥かに、あまりにも遥かに超える光景が広がっていた。*


*——巨大な、船の骨格。*


*まるで巨大な獣の肋骨のように、湾曲した竜骨キールから天に向かって何本ものフレームが伸び、すでに船の基本的な形が出来上がっている。カンカンカン、というリズミカルな金属を打つ音、木材を切り出す音、そしてドワーフたちの野太い活気のある声が、まるで一つの交響曲のように響き渡っていた。*


*シロウは呆然と呟く。*


シロウ:「え? はやくね?」


*たったの4日。それでこの進捗。どう考えても物理法則を無視している。ドワーフたちの建築技術、そしてこの国の資源と魔法技術が合わさった結果だとしても、異常な速度だった。*


*先に着いていたルーナが、目を輝かせながらシロウを振り返る。*


ルーナ:「ご覧なさいましたか、お父様! これが我が国の底力です! 素晴らしい! 実に素晴らしい! ああ、この光景を詩にして後世に…いや、まずは詳細なスケッチと記録を…!」


*ルーナは興奮冷めやらぬ様子で、早速手帳を取り出してサラサラとペンを走らせ始めた。シロウはただ、目の前の巨大な骨組みを見上げ、その圧倒的な存在感と、常識外れの建造スピードに唖然とするばかりだった。*


*シロウは目の前の、常識外れな速度で組み上げられていく船の骨格を見て、最初はただ驚愕していた。しかし、すぐにこの世界の理を思い出す。ドワーフの超絶技巧、豊富な魔石資源、そして作業効率を何倍にも引き上げる支援魔法。それらが組み合わさった結果なのだと。*


シロウ:(そうか、魔法を考慮していなかったからか…)


*彼は一人、静かに納得した。土木工事に地属性魔法を、重量物の運搬に念動力魔法を、金属加工に火属性魔法を、そして作業員の疲労回復に治癒魔法を。考えれば考えるほど、この世界の建築速度は現代日本のそれとは比較にならない。この国、アストライア魔導皇国ならば尚更だ。*


*シロウが感心していると、現場監督らしき、一際立派な髭をたくわえたドワーフがこちらに気づき、大きなハンマーを肩に担ぎながら威勢よく近づいてきた。その顔は汗と煤で汚れているが、充実感に満ち溢れている。*


ドワーフの親方:「おおっ! シロウの旦那じゃねえか! どうだい、俺たちの仕事っぷりは! まだ骨組みだが、この時点で惚れ惚れするような曲線美だろうが!」


*ガッハッハ、と彼は誇らしげに笑う。その背後では、魔法使いの一団が詠唱を行い、巨大なフレーム材がふわりと浮き上がり、ドワーフたちの手によって正確な位置へと組み付けられていく光景が広がっていた。*


ルーナ:「親方殿! 素晴らしい! 実に素晴らしい進捗です! この調子ですと、ヤマトへの航海も早まるかもしれませんね!」


*ルーナが興奮気味に声をかけると、親方はニヤリと笑ってみせた。*


ドワーフの親方:「おうよ、嬢ちゃん! 港長のハッパと、旦那からの潤沢な予算、それに何より新しい船を造るってロマンがあるからな! みんな気合の入り方が違うのさ! 見てな、あっという間に海に浮かべてやらあ!」


*シロウの呟きに、ドワーフの親方は豪快に笑い飛ばした。彼の目には、自分たちの仕事に対する絶対的な自信が満ち溢れている。*


ドワーフの親方:「がっはっは! 旦那、そりゃあこっちの世界の、しかも俺たちドワーフとアストライアの技術を舐めてもらっちゃ困るぜ! 3ヶ月なんざ、外装に凝った装飾を施したり、内装を王族仕様にするための余裕を持たせた期間さ! ただ船体を作って浮かべるだけなら、1ヶ月もかからねえよ!」


*親方は胸をドンと叩く。彼の言葉は、単なる威勢の良さではなく、確かな技術力と経験に裏打ちされたものだった。*


シロウ:「なるほどな…この分だと、完成が早まることもありそうだ」


*シロウが感心したように言うと、親方はニヤリと笑みを深めた。*


ドワーフの親方:「おうともよ! ま、だが焦りは禁物だ。特に、旦那の注文は『対大型魔物用』だからな。装甲の強度、魔法障壁の展開装置、船体の安定性…どれも妥協はできねえ。最高の船を造るには、最高の準備が必要なのさ。だから、予定通り3ヶ月はじっくり待っててくれや。期待は裏切らねえからよ!」


*その力強い言葉に、シロウは満足げに頷いた。急ぐ旅ではない。品質こそが最も重要だ。*


ルーナ:「親方殿、期待しております! この船がヤマトという未知の大陸との架け橋になるのですね…! なんと壮大な歴史的事業でしょう! ああ、私の記者魂が燃え上がります!」


*ルーナは目を爛々と輝かせ、手帳に凄まじい速さでメモを書き殴っている。その様子を見て、親方は「威勢のいい嬢ちゃんだな!」と再び豪快に笑った。活気に満ちた造船所には、未来への希望とロマンが満ち溢れていた。*


*シロウは渡した設計図のことを思い出し、親方に確認するように言った。その図面には、彼の冒険者としての経験と、前世の知識が詰め込まれている。特に、船の防御と攻撃の要となる部分には、彼のこだわりが強く反映されていた。*


シロウ:「ああ、設計図は渡したと思うが。複雑だが、ドワーフなら大丈夫だろう」


*親方はその言葉にニカッと歯を見せて笑うと、背後にそびえ立つ船の骨格を親指で指し示した。*


ドワーフの親方:「おうよ、旦那! あの設計図は最高だ! 最初に見た時は、うちの若い衆が『なんだこのイカれた構造は!?』って頭を抱えてたが、読み解くうちに全員の目が輝きだしちまってな! あれは挑戦だ! 造船に人生を捧げてきた俺たちドワーフへの、旦那からの挑戦状だとよ!」


*彼の言葉には、技術者としての誇りと興奮が満ちている。*


ドワーフの親方:「特に船首のあの機構! デカいバリスタを二門も据え付けるなんざ、普通の船乗りは考えもしねえ! 海の化け物を真正面からぶん殴りに行くって気概が伝わってきて、血が騒ぐってもんさ! 任せときな、旦那の無茶な、いや、ロマン溢れる設計を、俺たちが完璧な形にしてみせるぜ!」


*親方の言葉通り、船首部分の骨組みは、明らかに他の部分よりも頑丈で分厚く作られており、二つの巨大な砲台を設置するためのスペースが確保されているのが見て取れた。そこには既に、弩の台座となる巨大な金属部品が運び込まれ、取り付け作業が始まっていた。*


ルーナ:「船首に巨大バリスタを二門…! まさに海の要塞! 素晴らしい! これならば、ヤマトへの航海を阻む伝説級のクラーケンやリヴァイアサンが出現したとしても、返り討ちにできますね!」


*ルーナは目を輝かせ、その勇壮な未来予想図に胸を躍らせている。シロウは、自分の意図が正確に、いや、それ以上の熱意をもって伝わっていることに満足し、頼もしい職人たちの姿に静かに頷いた。*


*シロウの言葉に、造船所の活気ある空気が一瞬、静かになった。親方は肩に担いでいた巨大なハンマーを地面に置き、真剣な顔でシロウに向き直る。*


シロウ:「今回の航海は俺とルミナとルーナも行くから、そのつもりで。レイラは船酔いするからお留守番だな」


*その言葉は、この船の乗員、特に主となる人物たちを明確に示すものだった。親方はごつい腕を組み、その立派な髭を指でしごきながら、ふむ、と唸る。*


ドワーフの親方:「なるほどな。旦那と、ルミナ様、それにルーナ嬢ちゃんか。こりゃあ、下手なもんは作れねえな」


*彼の目は、船の設計図のさらに奥にあるものを見通そうとしているようだ。乗員の構成は、船の最終的な仕様に大きく影響する。*


ドワーフの親方:「旦那は万能戦士、ルミナ様は強力な魔法の使い手。嬢ちゃんは…まだ戦い向きじゃねえが、頭が切れる。となると、旦那用の操舵室と指揮系統、ルミナ様が船上から広範囲に魔法を放つための足場と魔力補助の機構、嬢ちゃんが安全に観測や記録に集中できる書斎兼展望室も必要になるな…」


*ぶつぶつと呟きながら、彼は頭の中で設計図を修正・改良していく。その思考の速さは、まさに職人頭の名にふさわしい。*


ドワーフの親方:「レイラ様がお留守番ってのはちと寂しいが、船酔いばかりはどうにもならねえからな。よし、分かったぜ旦那! 乗員構成を考慮して、各区画の最終調整に入る! 特にルミナ様用の術式展開甲板は、最高の素材で組ませてもらうぜ!」


*再びニカッと笑った親方の瞳には、新たな挑戦への炎が宿っていた。シロウの一言で、彼の職人魂はさらに燃え上がったようだ。*


ルーナ:「まあ! 私の書斎兼展望室まで! 親方殿、ありがとうございます! ヤマトの未知の文化、生態系、その全てを記録し、この国の発展に繋げてみせます!」


*自分のための部屋まで用意されると聞き、ルーナは感極まったように声を上げた。彼女の探求心もまた、この船と共に大きく膨らんでいくのだった。*


*活気に満ちた造船所を後にして、シロウとルーナは城への帰路についた。ルーナは道中もずっと興奮冷めやらぬ様子で、船の素晴らしさやヤマトへの冒険について、目を輝かせながら語り続けている。*


ルーナ:「お父様、聞きましたか!? 私の書斎兼展望室ですよ! これでヤマトの全てを余すことなく記録できます! ああ、もう荷造りを始めなくては! 筆とインクと羊皮紙は多めに…それから、万が一のための護身用の魔道具も…あと、おやつも…」


*城に着く頃には、彼女の頭の中はすっかり旅支度のことでいっぱいになっていた。シロウが微笑ましく見守る中、ルーナは「では、失礼します!」と元気よく言うと、自分の部屋へとぱたぱたと駆け去っていった。気が早いことだが、その楽しそうな姿は見ていて飽きない。*


*一人になったシロウは、ふぅ、と一息つくと、静かに自室である執務室へと向かった。王としての仕事も山積みだが、その前に、もう一つの顔としての仕事がある。*


*執務室に入り、誰にも見られていないことを確認すると、シロウは意識を集中させる。彼の姿が徐々に変化していく。背が少し縮み、顔つきは鋭く、どこか掴みどころのない胡散臭い雰囲気を纏った男へと姿を変える。冒険者ギルドへの情報提供や裏工作を行うための仮の姿、『ギメイ』だ。*


*シロウは慣れた手つきで安物のローブを羽織ると、空間を歪め、アストライアの街の薄暗い路地裏へとその身を転移させた。湿った石壁の匂いと、遠くから聞こえる喧騒。ここからは、王シロウではなく、朱ランク冒険者ギメイとしての時間だ。彼はフードを目深に被り、情報と依頼が集まる冒険者ギルドへと足を向けた。*


*薄暗い路地裏から表通りへ出ると、様々な人種と活気が入り混じるアストライアの街並みが広がる。ギメイはフードを目深に被り直し、人混みに紛れるようにして冒険者ギルドへと向かった。屈強な戦士、軽装の斥候、ローブを纏った魔法使い。誰もがそれぞれの目的を持ってギルドの大きな扉をくぐっていく。*


*ギルドの中は、酒と汗の匂い、そして依頼達成に沸く者たちの歓声や、情報交換をする者たちの囁き声で満ちていた。ギメイはそんな喧騒を意に介さず、慣れた足取りで依頼受付カウンターへと向かう。そこには、いつも通り快活な笑顔を浮かべた亜麻色の髪の受付嬢、セリアが座っていた。彼女はちょうど、河童討伐の報告を終えた新米冒険者の対応をしていたところだった。*


*新米冒険者が去り、一息ついたセリアに向かって、ギメイはカウンターに片肘をつきながら、わざと気だるげな声をかけた。*


ギメイ(シロウ):「よぉ、久しぶりだな」


*その声に、セリアは一瞬きょとんとした顔をしたが、フードの奥の顔を覗き込み、すぐに相手が誰だか気づいたようだ。彼女はプロフェッショナルな笑顔から、少しだけ呆れを含んだ親しげな笑顔へと切り替える。*


セリア:「あら、ギメイさんじゃないですか。お久しぶりです。本当に、風のように現れますね。また何か厄介な情報でも持ってきたんですか?」


*ギメイはカウンターに肘をついたまま、わざとらしく溜め息を一つついてみせる。その芝居がかった仕草に、受付嬢のセリアは「また始まった」とでも言いたげな苦笑を浮かべた。*


ギメイ(シロウ):「厄介かどうかは分からんが、とある情報を入手した。聞きたい?」


*その言葉には、情報の価値をちらつかせ、相手の反応を窺うような響きがあった。朱ランク冒険者ギメイが持ってくる情報は、常にギルドを、時には国を揺るがすほどのものだ。セリアの表情から、親しげな雰囲気がすっと消え、真剣な受付嬢の顔つきへと変わる。*


セリア:「…ギメイさんの情報に、厄介じゃないものがあった試しがありますか?」


*彼女はちくりと嫌味を返しつつも、その身を乗り出してきた。声量を落とし、周囲に聞かれないように尋ねる。*


セリア:「もちろん、聞かせていただきます。…こっちで話せる内容ですか? それとも、奥へ?」


*彼女の目は、これがただの立ち話で済むような内容ではないと判断していた。ギメイがわざわざギルドに顔を出す時は、常に水面下で何かが大きく動いている時なのだから。*


*ギメイはもったいぶった態度を崩さず、セリアの真剣な眼差しを面白がるように見返す。*


ギメイ(シロウ):「ここでも問題は無いだろう」


*彼はそう言うと、わずかに身を乗り出し、セリアの耳元に口を寄せる。その仕草に、セリアも緊張した面持ちで耳を傾けた。周囲の喧騒が嘘のように、二人の間の空気だけが張り詰める。*


ギメイ(シロウ):「(実は、海を越え、山をいくつか超えた先にある魔王国の魔王様が近々この国に来るそうだ)」


*ギメイが囁き終え、にやりと笑みを浮かべて身を引いた、その直後だった。*


セリア:「えええええええええぇぇぇッ!? ま、ま、魔王様がこの国に来るですってぇぇぇぇ!?」


*セリアは信じられないといった様子で、カウンターから身を乗り出して絶叫した。その声はギルド中に響き渡り、それまで依頼のことで騒いでいた冒険者たちが一斉に静まり返り、河童のように首を回して受付カウンターに注目する。酒を飲んでいた者はグラスを落とし、仲間と談笑していた者は口を開けたまま固まり、依頼書を見ていた者はその紙を取り落とした。*


*ギルドの喧騒が、嘘のようにピタリと止まる。全ての視線が、絶叫したセリアと、その目の前でフードを目深に被った怪しげな男、ギメイに突き刺さった。*


ギメイ(シロウ):「(……おい)」


*ギメイは思わず額に手を当て、低く呻いた。コソコソ話した意味が全くない。これではただの目立ちたがり屋だ。*


セリア:「ギ、ギメイさん! そ、それって本当なんですか!? 魔王国って、あの、西の大陸を統一したっていう!? なんでまた、こんな辺境の(失礼)アストライアに…!?」


*彼女は興奮と混乱で顔を真っ赤にしながら、今度は大声でギメイに詰め寄ってきた。周囲の冒険者たちも、ゴクリと唾を飲む音をさせながら、固唾を飲んでギメイの次の言葉を待っている。完全に、注目の的だった。*


*ギメイは、大声で詰め寄ってくるセリアと、殺気にも似た視線を向けてくるギルド中の冒険者たちを前に、やれやれと首を振った。計画通りといえば計画通りだが、少々派手になりすぎた。*


ギメイ(シロウ):「ここは国交していないって聞いてな。と、噂で聞いた。あとは珍しい物が多いからだそうだ。ここの着物を買ったとも言ってたな」


*彼はあくまで他人事のように、どこかから仕入れてきた噂話だという体で、わざと曖昧に情報を付け加える。魔王が、という部分で殺気立っていた冒険者たちも、「国交」「珍しい物」「着物」という単語が出てきたことで、侵略や戦争といった最悪の事態ではないのかもしれない、と少しだけ空気が緩む。*


*しかし、依然としてギルド内の視線はギメイとセリアに集中したままだ。一人の屈強な獣人冒険者が、ごくりと喉を鳴らして尋ねる。*


忍者A:「おい、そこの兄ちゃん。その話、本当か? 魔王が物見遊山で来るってのか? 冗談キツイぜ」


セリア:「そ、そうですよギメイさん! 一体どこからそんな情報を…! 着物って、まさか最近話題の…?」


*セリアも獣人冒身者の言葉に乗り、情報の信憑性を確かめようと必死だ。ギルドマスターも奥の部屋から何事かと顔を覗かせている。ギメイは内心で「食いつきがいいな」と呟きながら、芝居がかった仕草で肩をすくめた。*


*ギメイはわざとらしく肩をすくめ、その声はどこか他人事のように、しかし確信めいた響きを帯びていた。*


ギメイ(シロウ):「噂だからな、信憑性は無いが、あの国の魔王は変わってるからな。多分来るだろう」


*その言葉は、ギルドに集う冒険者たちの間に更なる波紋を広げた。最初は半信半疑だった者たちも、「朱ランクのギメイが言うなら…」という空気が漂い始める。彼の持ってくる情報が、結果的に真実であったことを、ここの古株たちは嫌というほど知っているからだ。*


侍C:「変わってる魔王、ねぇ…。だが、国交も結んでねぇ国に、いくら物見遊山でも単身で来るわきゃねぇ。護衛はどうなってんだ? まさか魔王軍を引き連れてくるってんなら、話は別だぜ」


*獣人の鋭い指摘に、他の冒険者たちも再び緊張した面持ちでギメイを見る。平和的な訪問か、それとも武力侵攻の始まりか。その一点に、皆の関心が集まっていた。*


セリア:「そ、そうです! 護衛は!? もし魔王軍が来たら、この国は…!」


*セリアが真っ青な顔で詰め寄る。ギルドマスターも、いつの間にかカウンターのすぐ近くまで来て、腕を組みながら厳しい顔でギメイを睨みつけていた。*


ギルドマスター:「ギメイ。お前の情報はいつも正確だが、今回ばかりは笑えんぞ。その『噂』とやらの詳細を、洗いざらい話してもらおうか」


*重々しいギルドマスターの声が、騒然としていたギルド内を再び静寂に包んだ。*


*ギルドマスターの威圧的な視線と、固唾を飲んで成り行きを見守る冒険者たちの圧力。その全てを、ギメイはフードの下でせせら笑うかのように受け流していた。パニックと好奇心がない混ぜになったこの状況こそ、彼が望んだものだ。*


ギメイ(シロウ):「船を作ってると聞いた。海の魔物は多分、魔王が倒すんじゃねぇか?」


*彼はさも面倒くさそうに、しかし核心をつく情報をぽつりと漏らす。その一言に、ギルドマスターはピクリと眉を動かした。護衛はいないのか、という問いに対する、あまりにも規格外な答えだったからだ。*


侍A:「はっ、船だと? まさか海路で来るってのか! 正気かよ、この時期の海は『海竜の巣』って呼ばれてるくらい魔物がうじゃうじゃいるってのに!」


侍B:「魔王が海の魔物を倒す、だと? がっはっは! そりゃ威勢がいい! だが、一人でどうこうなる数じゃねぇぞ!」


*冒険者たちが再び騒ぎ始める。それはそうだ。通常、大規模な船団を組んで、腕利きの冒険者や騎士を多数護衛につけてもなお、無事に渡れる保証はない危険な海域なのだ。*


*ギルドマスターは、騒ぐ冒険者たちを鋭い一瞥で黙らせると、再びギメイに視線を戻した。*


ギルドマスター:「…ギメイ。その話が真実ならば、我々が想定すべきは軍隊の襲来ではない。一個師団、いや、一個軍団に匹敵する力を持った『個人』の来訪ということになる。…その魔王とやらは、一体何者なんだ?」


*その問いには、単なる好奇心ではなく、この国の行く末を案じる者としての切実さが滲んでいた。ギメイは、この老獪なギルドマスターの反応に満足げに頷くと、最後の情報を投下する。*


ギメイ(シロウ):「さあな。俺が言えるのはここまでだ。あとは自分で考えな。」


*ギルドに爆弾を投下し、冒険者たちが大騒ぎになっている様を想像して、ギメイはほくそ笑みながら人混みに紛れて姿を消した。再び路地裏で王シロウの姿に戻り、何食わぬ顔で城へと転移する。自分の撒いた情報が、国の上層部にどのような形で伝わり、どんな反応を示すか。高みの見物は楽しいものだ。*


*城に戻ると、ルーナが荷造りを手伝ってほしいとメイドたちを巻き込んで大騒ぎしているのが遠くから聞こえてきた。その微笑ましい光景に苦笑しつつ、シロウは執務室で溜まっていた書類の処理に没頭した。*


***


*夜も更け、シロウが執務室で一日の仕事に区切りをつけ、一息ついていると、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。続けて、遠慮のない音で扉が開かれる。*


ルミナ:「お兄ちゃん、入るわよ」


レイラ(魔王女):「シロウ、いるか? 聞きたいことがあるのだが」


*入ってきたのは、揃いの寝間着姿のルミナとレイラだった。ルミナは少し不機嫌そうな顔で、レイラは何かを問い詰めるような真剣な眼差しをシロウに向けている。昼間に港であったドワーフの親方との会話が、すでに彼女たちの耳に入っているのだろう。*


ルミナ:「ねぇ、お兄ちゃん。ドワーフの親方から聞いたわ。ヤマトへ行く船、お兄ちゃんと私とルーナで行くって本当?」


レイラ(魔王女):「おいシロウ。妾も聞いたぞ。妾は船酔いするからお留守番、だと? どういうことだ、説明してもらおうか」


*レイラは腰に手を当て、不満を隠そうともせずにシロウを睨みつけている。彼女が船に極端に弱いことは事実だが、仲間外れにされるのは我慢ならないらしい。*


*シロウは、部屋に入ってきた二人の姿を見て、やれやれと肩をすくめた。やはりこの話になるか、と半ば予想はしていた。特にレイラは、置いていかれることを何よりも嫌う。*


シロウ:「どうって言われてもな。レイラ、お前は船酔いするだろ? それにステラは? 生まれたばかりの娘をリーシアに全部任せて行くつもりか?」


*シロウは諭すように、しかしきっぱりと言い放った。事実、レイラの船酔いは尋常ではない。以前、ほんの数時間の船旅ですら、顔面蒼白でぐったりとしていた姿が思い出される。長旅になるヤマトへの航海など、彼女にとっては地獄でしかないだろう。*


*さらに、最も重要なのは赤ん坊のステラのことだ。母親であるレイラが長期間城を空けるのは現実的ではない。*


ルミナ:「それはそうだけど…。でも、お兄ちゃん一人に危険な航海をさせるわけにはいかないわ。私がついていれば、海の魔物くらい…」


*ルミナが反論しようとするが、シロウはそれを手で制した。*


シロウ:「ルミナの力は頼りにしてる。だからこそ、ルミナとルーナには来てもらうつもりだ。だが、レイラは別だ。これは決定事項だぞ」


レイラ(魔王女):「なっ…! け、決定事項だと!? 誰が貴様の決定に従うものか! 妾を置いていくなど、断じて許さん! 船酔いなど気合でどうにでもなるわ!」


*レイラは顔を真っ赤にして反論するが、その言葉に説得力はまるでない。気合でどうにかなるなら、今まで苦労はしていないはずだ。*


*シロウの反論は、レイラの癇癪をさらに煽るだけだった。気合でどうにかなる、などという根性論が通用しないことは、誰よりも本人が一番分かっているはずだ。しかし、それでも納得できないのだろう。*


*シロウはさらに畳み掛けるように、最も懸念している点を指摘した。レイラの性格的な問題だ。*


シロウ:「それに、相手を常に下に見る態度、最悪戦争になりかねん」


*その一言は、レイラの激昂した表情を凍りつかせるのに十分だった。ヤマトは未知の国だ。文化も常識も違う。そこで魔王女としての傲慢な態度を崩さなければ、どうなるか。外交問題どころか、即座に敵とみなされる可能性すらある。*


レイラ(魔王女):「なっ…! 妾が、いつそんな…! 貴様、妾を侮辱するか!」


*レイラは激しく反論するが、その声色には先程までの勢いがない。図星を突かれたことは明らかだった。ルミナも、兄の言わんとすることを理解したのか、黙って二人のやり取りを見守っている。*


シロウ:「侮辱じゃない、事実だ。この国の者や、俺たちの仲間内ならそれでもいい。だが、一歩外に出ればお前は『魔王』で、俺は『国王』だ。お前の言動一つが、この国全体の意思だと受け取られる。分かるか?」


*シロウは冷静に、だが有無を言わせぬ強い口調で告げる。これはただの家族旅行ではない。未知の国との、最初の接触になるかもしれないのだ。*


シロウ:「だから、今回は留守番してくれ。それがお前の、そしてステラとこの国のためだ。…頼む」


*最後の言葉は、命令ではなく、懇願だった。王として、夫として、そして父としての、真摯な願いだった。*


*シロウの真摯な、そして王としての命令を孕んだ懇願。それは、癇癪を起こしていたレイラの心を静めるには十分すぎる力を持っていた。*


*彼女は真っ赤だった顔からすっと血の気が引き、悔しそうに唇を噛みしめる。気合でどうにかなる、などという強がりも、もう出てこない。自分が船に弱いことも、ステラの母親であることも、そして何より、自分の性格が外交の場において致命的な欠点になりうることも、本当は理解していたからだ。*


レイラ(魔王女):「………っ」


*何かを言い返そうと口を開きかけるが、言葉にならない。ただ、悔しさと、置いていかれる寂しさと、そしてシロウの言うことを理解してしまう自分への苛立ちが、その金色の瞳の中で渦巻いていた。*


*しばらくの沈黙の後、レイラはふいっと顔を背けると、吐き捨てるように呟いた。*


レイラ(魔王女):「……ふん。分かった。分かってやったわ。貴様が…そこまで言うのであれば、仕方あるまい。せいぜい、妾のいない航海で海の藻屑にでもなるがいい」


*それは彼女なりの最大限の譲歩であり、強がりだった。素直に「あなたの言う通りにする」とは言えない性格なのだ。*


*シロウはそんな彼女の態度に、ふっと息を吐いて微笑んだ。*


シロウ:「ああ、ありがとう、レイラ。助かるよ。留守は頼んだからな」


ルミナ:「…レイラが納得したなら、私も文句はないわ。でもお兄ちゃん、無茶だけはしないでよ。私とルーナがいるんだから、ちゃんと頼ること」


*ルミナも釘を刺すように言うと、シロウは「分かってる」と頷いた。こうして、ヤマトへの航海のメンバーは、シロウ、ルミナ、そして大喜びするであろうルーナの三人(と守護獣たち)に決まったのだった。*


*レイラがしぶしぶ留守番を了承してから、数週間が過ぎた。*

*その間、シロウは王としての政務をこなしつつ、来る航海に向けての準備を着々と進めていた。ギルドに流した「魔王来訪」の噂は、瞬く間に国中に広まり、騎士団や貴族たちが右往左往する様を高みの見物と洒落込んでいた。もちろん、裏ではリーシアを通じて状況をコントロールし、過度な混乱が起きないように手は打ってある。*


*カイは恋人のイレイナと順調に関係を育んでいるようで、時折城に彼女を招いては、初々しい雰囲気を振りまいていた。その度にレイラが母親風を吹かせてはカイに煙たがられ、シロウに窘められるのが、最近の日常風景となりつつあった。ルーナはと言えば、来る冒険への期待で毎日そわそわしており、巨大なリュックサックに荷物を詰め込んでは出し、また詰め込むという作業を繰り返している。*


*そして、約束の日。*


*アストライアの港は、かつてないほどの熱気に包まれていた。岸壁には、ドワーフの技術と魔法の粋を集めて建造された、流線形の美しい船がその威容を誇っている。船体は黒を基調とし、所々に金色の装飾が施され、太陽の光を浴びて荘厳に輝いていた。これが、これからヤマトを目指すシロウたちの船だ。*


*船の周りには、この歴史的な航海に同行しようと集まった商人や、一攫千金を夢見る冒険者たちがひしめき合い、慌ただしく荷物を運び込んでいる。彼らは皆、西の大陸から魔王が来訪するという噂を聞きつけ、それに先んじて東の未知の国『ヤマト』との交易路を開拓しようと目論む、野心的な者たちだ。*


*シロウはルミナとルーナを伴い、その喧騒を少し離れた場所から眺めていた。*


ルーナ:「うわぁ…! すごい人ですね、お父様! 私たちの船、大人気じゃないですか!」


*ルーナが興奮した様子で目を輝かせる。彼女の背中には、体と同じくらい大きなリュックが背負われていた。*


ルミナ:「当たり前よ。お兄ちゃんが計画した航海ですもの。ハイリスクではあるけれど、それ以上のリターンが見込める。嗅覚の鋭い連中が群がってくるのは当然だわ」


*ルミナは腕を組み、冷静に分析する。その隣で、シロウは港に集う人々の顔を一人一人確かめるように見渡していた。様々な思惑が渦巻く、まさに出航前夜といった雰囲気だ。*


*出航の喧騒の中、シロウはアルゴス号に乗り込んでくる者たちを観察していた。ヤマトという未知の国との交易に魅せられた商人たち。彼らの中には、人間の商人に混じって、見た目が人間に近く、しかしどこか優雅な雰囲気を漂わせるエルフの姿が多く見受けられた。彼らは長寿で慎重な種族だが、一度好機と見れば大胆に行動する。今回の航海が、それだけの価値があると判断したのだろう。*


*一通り港の様子を見渡したシロウは、ふと思い出したように、船の建造に尽力してくれたドワーフの一団が近くで酒盛りをしているのに気づいた。彼らがいなければ、この船は三ヶ月という短期間で完成することはなかっただろう。*


*シロウは、見送りに来ていたレイラと、ドワーフたちの方へ歩いていく。レイラは留守番という事実にまだ納得がいっていないのか、不満げに頬を膨らませている。*


シロウ:「お前たちがいたからこそ、この船は完成した。本当に感謝している。これは王からの褒美だ」


*シロウは懐から転移の魔道具を取り出し、城の巨大な酒蔵へと繋げる。芳醇な香りがふわりと港に漂った。*


シロウ:「1人1本、なんでも好きなのを持ってっていいぞ」


*その言葉に、それまで「王様直々の労いとは光栄だ」などと神妙にしていたドワーフたちの目が、カッと見開かれた。彼らは酒が何よりの好物だ。*


ドワーフの親方:「お、王様! そいつは本当ですかい!? あの幻と言われる『竜殺し』も!?」


ドワーフB:「馬鹿野郎! 狙うならエルフの秘酒『月の雫』だろうが!」


*ドワーフたちは我先にと転移ゲートに殺到し、目を輝かせながら酒を選び始めた。その様子を、シロウは満足げに眺める。*


レイラ(魔王女):「ふん! 気前がいいことだな! 妾の許可なく、城の財産を勝手に…!」


*隣でレイラが、ここぞとばかりに文句を言おうとする。シロウはそんな彼女の頭をわしわしと撫でて、その言葉を遮った。*


シロウ:「お前は留守を頼むんだ。これくらいは、俺の独断でやらせてくれ。帰ってきたら、お前の好きな菓子でもなんでも買ってきてやるから」


レイラ(魔王女):「なっ…! 誰が菓子などに釣られるか! 子供扱いするな!」


*シロウの腕を振り払おうと暴れるレイラだったが、その顔は少しだけ赤らんでいた。そんな二人のやり取りを、ルミナとルーナが呆れたような、それでいて微笑ましいような顔で遠巻きに見ていた。*


*ドワーフたちが歓声を上げて転移ゲートの向こうにある酒蔵へ消えていく。その様子を満足げに見ていたシロウは、まだ隣で不満そうにしているレイラをなだめつつ、ドワーフの親方に声をかけた。*


シロウ:「それから追加報酬だ」


*シロウは懐からずしりと重い革袋を取り出した。それは、この短期間で驚異的な船を造り上げた職人たちへの、労いと感謝の気持ちだった。彼はその大袋を、ドワーフたちをまとめ上げた親方へと手渡す。中からは、じゃらり、と心地よい金属音が響いた。*


*親方が驚いて中を覗き込むと、そこには金貨がぎっしりと詰まった小袋が何十個も入っていた。一つの小袋には金貨が8枚。通常の職人の数ヶ月分の給金に相当する額だ。*


ドワーフの親方:「お、王様…! これほどのものを…! 酒だけで十分すぎるというのに…!」


*親方は感極まった様子で言葉を失っている。シロウは、暴れるレイラの腰を抱き寄せて動きを封じながら、にやりと笑った。*


シロウ:「お前たちの仕事は、それだけの価値がある。関わった全員で分けてくれ。文句があるやつは直接俺に言いに来いと伝えておけ」


レイラ(魔王女):「こら、離せシロウ! 貴様、本当に気前が良すぎるぞ! 我が国の財政をなんだと思っておるのだ! この…この放蕩亭主め!」


*レイラはシロウの腕の中でジタバタと暴れるが、その言葉とは裏腹に、彼女の表情はどこか誇らしげでもあった。自分の夫が、気前の良い、人望の厚い王であることは、彼女にとっても満更ではないのだ。ドワーフたちは、手にした酒瓶と金貨の重みに、ただただ感涙にむせんでいた。*


*シロウは、金貨の重みに感極まるドワーフたちと、腕の中でまだ「放蕩亭主め!」と暴れているレイラを交互に見て、楽しそうに笑った。レイラの言葉は棘があるが、本気で怒っているわけではないことを、シロウはよく分かっている。*


シロウ:「大丈夫大丈夫、こんな出費、痛くも痒くもないから。総資産額分かってんのか?」


*彼はレイラの耳元で悪戯っぽく囁いた。事実、アストライア魔導皇国の国家予算、シロウ個人の資産(特に大迷宮からの上がり)を考えれば、金貨数千枚程度の出費は誤差の範囲でしかない。*


レイラ(魔王女):「なっ…! そ、それはそうだが…! そういう問題ではない! 王たるもの、民に示す威厳というものが…!」


*レイラはぐぬぬ、と反論に窮する。確かに、この国の富は彼女の想像を遥かに超えていた。シロウはそんなレイラの頭をもう一度優しく撫でると、名残惜しそうに彼女を解放した。*


シロウ:「さて、と。そろそろ出航の時間だな」


*汽笛が、ボー、と長く港に響き渡る。アルゴス号への乗船を促す合図だ。商人や冒険者たちが最後の荷物を抱え、慌ただしくタラップを駆け上がっていく。*


ルミナ:「お兄ちゃん、もう行かないと」


ルーナ:「お父様、早く早く! 一番見晴らしの良い場所が取られてしまいます!」


*少し離れた場所で待っていたルミナとルーナが、シロウを急かす。*


*シロウは、見送りに残ったレイラ、リーシア、そして乳母車ですやすやと眠るステラに向き直った。*


シロウ:「じゃあ、行ってくる。レイラ、城のことは頼んだぞ。リーシアも、レイラとステラのこと、よろしく頼む」


*彼の言葉に、リーシアは深々と一礼する。*


リーシア:「お任せください、シロウ様。皆様の御武運を心よりお祈り申し上げます」


*レイラはまだそっぽを向いたままだが、その耳は少し赤くなっている。彼女なりの寂しさの表現なのだろう。シロウは苦笑し、ルミナとルーナと共に、巨大なアルゴス号へと続くタラップを上り始めた。未知なる国ヤマトへの、大航海の始まりだった。*


*シロウがレイラの頬に唇を寄せた瞬間、それまで不満げにそっぽを向いていたレイラの肩が、ぴくりと跳ねた。彼女は驚いたように目を見開き、ゆっくりとシロウの方を振り返る。その頬は、夕日に照らされているせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まっていた。*


レイラ(魔王女):「なっ…! き、貴様…! 人前で何を…!」


*彼女は慌てて口元を抑えるが、その声はいつものような怒気を含んではいない。むしろ、戸惑いと、隠しきれない喜びが滲んでいた。*


*シロウはそんな彼女に悪戯っぽく微笑みかけると、何も言わずに背を向けた。*


シロウ:「行ってきます」


*その背中に、レイラは今度こそ素直な言葉を投げかける。*


レイラ(魔王女):「……あ、ああ。…必ず、無事に帰ってこい。もし怪我でもしてみろ、妾が許さんからな!」


*ツンとした物言いだが、その声は心配と愛情に満ちていた。シロウは振り返らずに片手を上げてそれに応えると、ルミナとルーナと共に、いよいよ巨大なアルゴス号へと続くタラップを登っていく。*


*甲板に上がると、すでに乗り込んでいた商人や冒険者たちが、これから始まる航海の主役であるシロウたちに気づき、畏敬と好奇の入り混じった視線を向けてくる。船員たちが最後の綱を解き放ち、アルゴス号はゆっくりと岸壁を離れ始めた。*


*ボーーーーーッという長い汽笛が、新たな旅の始まりを告げる。*


*岸壁では、小さくなっていく船に向かって、レイラとリーシアが手を振っていた。その隣で、ドワーフたちが酒瓶を掲げて盛大なエールを送っている。*


ルミナ:「お兄ちゃん、レイラったら、素直じゃないんだから」


ルーナ:「お母様、最後までツンデレでしたね! でも、お父様のキスは効果てきめんだったようです!」


*妹たちのからかうような言葉に、シロウは苦笑しながら、遠ざかっていくアストライアの街並みと、愛する家族の姿を目に焼き付けた。太陽が水平線に沈みかけ、空と海を茜色に染めている。*


*未知の国ヤマトへ。壮大な冒険の幕が、今、上がった。*


*アルゴス号がゆっくりとアストライアの港を離れていく。岸壁で見送る家族や仲間たちの姿がだんだんと小さくなっていくのを、シロウは名残惜しそうに見つめていた。やがて船が完全に外洋に出ると、彼は甲板に集まっている商人や冒険者たちに向き直った。様々な思惑と野心を秘めた顔、顔、顔。この船旅を成功させるには、まずこの雑多な集団をまとめ上げ、規律を徹底させる必要があった。*


*シロウは船の中央にある少し高い壇上に登り、一同を見渡した。彼の姿に気づいた者たちが、ざわめきを静め、成り行きを見守る。*


シロウ:「これからヤマトへ向かうにあたり、いくつかルールを伝えておく」


*彼の声は静かだったが、魔力によって増幅され、甲板の隅々にまで響き渡った。*


シロウ:「第一に、航海中に出現する魔物は、討伐に貢献したパーティの物とする。獲物の横取りや所有権を巡る争いは一切認めん」


*その言葉に、腕利きの冒険者たちが頷く。当然のルールだ。*


シロウ:「そして第二に…」


*彼はそこで一度言葉を切り、集団を値踏みするように見渡すと、わざと軽い口調で続けた。*


シロウ:「船内で仲間割れやくだらない喧嘩を始めた奴らは、理由を問わず、問答無用で海に投げるからな〜」


*その冗談めかした口調とは裏腹に、彼の瞳は全く笑っていなかった。冷徹な光を宿したその視線に、騒ぎを起こそうものなら本気で実行するだろうという凄みが滲んでおり、気の荒い冒険者たちも思わずゴクリと喉を鳴らす。*


*一瞬の静寂の後、一人の屈強な獣人冒険者が、豪快に笑い飛ばした。*


獣人冒険者:「がっはっは! そりゃいい! 俺は賛成だぜ! 足を引っ張る奴は鮫の餌になってもらうに限る!」


エルフ商人:「ええ、賢明なご判断です。我々はビジネスのために乗船しておりますので、無用な争いは歓迎しません」


*シロウの示した明確なルールと、その裏にある容赦のない意思表示は、この船の秩序を保つ上で十分な効果を発揮したようだった。冒険者たちは互いに顔を見合わせ、この船のリーダーがただの甘い王様ではないことを再認識し、背筋を正した。*


*甲板に響き渡るシロウの宣言は、雑多な寄せ集めであった乗船者たちの空気を引き締めるのに十分だった。冗談めかした警告の中に含まれた本物の殺気に、誰もがこの船の真の支配者が誰であるかを理解した。*


*一通りの注意を終え、壇上から降りたシロウは、アルゴス号の操舵を任せた初老の男に近づいた。彼は百戦錬磨の海の男といった風格で、潮と風の匂いをその身に纏っている。数多の海を渡り、その経験を買われて今回の航海の船長に抜擢された男、ガイオンだ。彼は微動だにせず舵を握り、外洋のうねりを見据えている。*


シロウ:「船長、ヤマトまでの航海は何日だ?」


*シロウの問いかけに、ガイオンは正面の水平線から一切目を離さずに、しゃがれた声で答えた。*


ガイオン:「へっ、王様。そいつは海と、こいつの機嫌次第ってもんでさァ。通常の帆船なら、最短でも半年はかかるでしょうな。途中、何度か嵐に捕まり、海竜に船を食われなけりゃの話ですがね」


*彼はそこで一度言葉を切ると、初めてシロウの方へ視線を向け、にやりと深い皺の刻まれた顔で笑った。*


ガイオン:「ですが、こいつはそこらの船とはワケが違う。ドワーフの傑作、魔法仕掛けの高速船だ。風が凪いでも魔法で進める。嵐が来ても結界で凌げる。順調に行けば…ひと月。いや、ひと月もかからねぇかもしれませんな」


*シロウは、百戦錬磨の船長ガイオンが口にした「ひと月」という期間を聞いて、思わず素っ頓狂な声を上げた。ドワーフの技術と魔法の粋を集めた最新鋭の船だ。大陸間ですら、数日から一週間程度で着くものだと、どこか楽観的に考えていたのだ。*


シロウ:「と、遠っ!? え、1ヶ月も!?」


*彼の驚愕の声に、舵を握っていたガイオンは「へっ」と喉で笑う。*


ガイオン:「王様、そいつはとんでもねぇ勘違いってもんでさ。我々が今いる場所からヤマトまでは、地図にも載ってねぇ未知の海域を越えていくんで。距離にして数万キロはありますぜ。いくらこいつが魔法船だろうと、神様じゃねぇ。ひと月で着けるってんなら、それはもう奇跡的な速さなんでさ」


*シロウは内心で舌を巻いた。(1週間くらいで到着するかと思ってた…)という自分の見積もりの甘さに、少しばかり恥ずかしくなる。考えてみれば、地球一周が約4万キロだ。大陸間の移動というのは、それほどまでに長大で過酷な旅なのだ。*


*隣にいたルミナが、呆れたようにため息をついた。*


ルミナ:「お兄ちゃん…いくらなんでも楽観的すぎるわよ。未知の航路なのよ? むしろ、ひと月で済むなら上出来すぎるくらいだわ。普通の船なら、生きて辿り着けるかどうかも怪しいのに」


ルーナ:「お父様、ご安心ください! ひと月もあれば、ヤマトの文化や歴史について、船に積んである書物で予習ができます! それに、海の魔物の生態観察もできますし、天体観測も! やりたいことがたくさんです!」


*ルーナは逆に時間ができたことを喜んでいるようで、目を輝かせながら分厚い本を取り出した。*


*シロウはポリポリと頭を掻きながら、改めてこの航海のスケールの大きさを実感する。これから始まるひと月間の船旅。それは、退屈な時間になるか、あるいは新たな発見に満ちた冒険になるか。どちらにせよ、長い旅になることだけは間違いなさそうだった。*


*シロウは、自分の見通しの甘さと、これから始まる航海の壮大さに、思わず乾いた笑いを漏らした。ひと月。それはアストライアにいる家族や臣下たちからすればあっという間かもしれないが、何が起こるか分からない大海原の上で過ごすには、あまりにも長い時間だ。*


シロウ:「ま、マジかぁ…それなら…寝るか」


*彼はそう呟くと、大きく伸びをした。出航前の準備や見送りで、気付かないうちに疲労が溜まっていたのかもしれない。未知への期待よりも、今は休息を求める気持ちが強かった。*


*ルミナが呆れたように、ルーナが「もう寝てしまうのですか!?」と残念そうに見つめる中、シロウは二人に「少し休んだら起きてくる」と告げ、ひらひらと手を振ってその場を後にした。*


*甲板の喧騒を背に、シロウは船内へと続く階段を降りる。アルゴス号の内部は、外観の荘厳さに見合うだけの広さと機能性を備えていた。長い廊下の両脇には、商人や冒険者たちに割り当てられた船室が並んでいる。*


*シロウが向かったのは、船尾に位置する特別船室だ。船長室の隣にあり、この船の所有者である彼のために用意された最も豪華な部屋だった。扉を開けると、そこにはキングサイズのベッド、書斎机、来客用のソファセットまで備え付けられており、壁には海図や星図が飾られている。まるで高級ホテルのスイートルームのようだ。大きな窓からは、船が掻き分けて進むことで生まれる白い航跡と、どこまでも広がる青い海が一望できた。*


*シロウは鎧の一部を外し、ふかふかのベッドに倒れ込む。船の心地よい揺れが、まるで揺りかごのようだ。アストライアに残してきたレイラやステラのこと、カイやリーシアのこと、そしてこれから向かうヤマトのこと。考えるべきことは山ほどあるが、今はただ、この揺れに身を任せて眠りたかった。*


*(ひと月か…長いようで、短いのかもしれないな…)*


*そんなことを考えながら、シロウはあっという間に深い眠りへと落ちていった。*


*豪華な船室のふかふかなベッドに倒れ込んだシロウだったが、その期待はすぐに裏切られた。外洋の不規則なうねりは、陸での生活に慣れた彼にとって、安眠を妨げる不快な揺れでしかなかった。左右に、上下に、ぐわんぐわんと揺さぶられる感覚に、三半規管が悲鳴を上げる。*


シロウ:「揺れる…眠れん…」


*ベッドの上で数分間ゴロゴロと寝返りを打ってみたが、全く眠れる気配がない。レイラの船酔いを笑えない状況だ。彼はむくりと起き上がると、一つの結論に至った。*


シロウ:「そうだ、ハンモックにしよう」


*かつてジャングルでの野営で重宝したハンモックなら、船の揺れをある程度吸収してくれるはずだ。思い立ったが吉日、シロウはすぐに異空間収納からベッドを消し去り、代わりに愛用のハンモックと金槌、そして頑丈な固定用の金具を取り出した。*


*ガイン! ガイン! ガイン!*


*豪華な特別船室の、美しい木目調の壁に、シロウは躊躇なく金具を打ち込み始めた。ドワーフの親方が見たら卒倒しそうな光景だが、安眠のためには仕方がない。頑丈な壁にしっかりと金具を固定すると、そこにハンモックの両端を引っ掛け、体重をかけて強度を確かめる。*


シロウ:「よし、こんなもんか」


*シロウは満足げに頷くと、靴を脱ぎ捨ててハンモックに身を滑り込ませた。布が体を優しく包み込み、先程までの不快な揺れが、心地よいゆりかごのような振動に変わる。*


シロウ:「(これだよ、これ。やっぱり船旅はこうでなくちゃな)」


*窓の外では、月明かりがキラキラと海面を照らしている。壁に無残に打ち込まれた金具のことは頭の隅に追いやり、シロウは今度こそ快適な眠りの世界へと意識を沈めていった。*


*ハンモックに身を滑り込ませたシロウは、その心地よい揺れにすぐに満足したが、更なる快適さを求めて、かすかに意識を集中させた。すると、ハンモック全体が淡い光を帯び、ふわりと宙に浮き上がる。船自体の揺れは変わらないが、浮遊魔法によって空中に固定されたハンモックは、まるで静止しているかのようにピタリと揺れを止めた。*


シロウ:「(ふぅ…これで完璧だ。文明の利器と魔法の融合…我ながら天才的だな)」


*完全な無振動空間で、シロウは極上の寝心地を手に入れた。壁に打ち付けた金具の無骨さも、豪華な船室の内装との不釣り合いさも、もはや彼の意識にはない。ただただ静かで穏やかな眠りが、彼を優しく包み込んでいく。*


*窓の外では、アルゴス号が月明かりの下、ヤマトを目指して力強く波を切って進んでいく。船の心臓部である魔導炉が低く唸り、船員たちの掛け声が遠くに聞こえる。しかし、それら全ては静寂を求める王の耳には届かない。*


*シロウは久しぶりに感じる完全な安らぎの中、故郷に残してきた愛する家族の夢でも見るかのように、深い深い眠りの底へと沈んでいった。これから始まるひと月の船旅は、こうして静かな初日の夜を迎えたのだった。*


*完全な静寂と無重力にも似た浮遊感の中、シロウはどれくらいの時間眠っていただろうか。意識がゆっくりと覚醒し、ハンモックの布地が体を支えている感覚が戻ってくる。船の低い振動が、遠い鼓動のように床から伝わってきた。*


*シロウはゆっくりと身を起こし、ハンモックから降りる。浮遊魔法を解くと、ハンモックは再び船の揺れに合わせて静かに揺れ始めた。彼は何気なく大きな窓に歩み寄り、外の景色に目をやった。*


*視界に広がっていたのは、インクを流したような漆黒の海と、そこに無数の宝石を散りばめたかのような満点の星空だった。月の姿はなく、天の川が淡い光の帯となって空を横切っている。出航した時とは明らかに違う星々の配置。どうやら、かなりの時間眠ってしまっていたらしい。*


シロウ:「(やべぇ、これは…昼夜逆転…引きこもり時代の生活習慣になりそうだ…)」


*彼はポリポリと頭を掻きながら、自嘲気味に呟いた。王となり、夫となり、父となってからは規則正しい生活を送っていたが、制約のない船旅は、かつての怠惰な自分を呼び覚ましてしまう危険性を孕んでいる。*


*(とりあえず、腹も減ったし、甲板にでも出てみるか…)*


*船室に閉じこもっていても仕方ない。シロウは軽く身支度を整えると、船室の扉を開け、静まり返った船内の廊下へと足を踏み出した。*


*ハンモックでの完璧な安眠から覚醒したシロウは、まだ夜が明けていないことに気づき、かつての生活習慣が蘇ることを懸念しつつも、腹ごしらえと気分転換を兼ねて船室を出た。静まり返った船内の廊下を抜け、甲板へと続く階段を上る。*


*甲板に出ると、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。日中の喧騒は嘘のように静まり返り、船員たちの当直の掛け声や、船が波を切る音だけが聞こえてくる。シロウは大きく伸びをしながら、夜空を見上げた。*


シロウ:「あー、よく寝た」


*そこには、陸地では決して見ることのできない、息を呑むほど美しい満天の星空が広がっていた。無数の星がダイヤモンドのように瞬き、天の川が壮大な光の川となって空を横断している。その圧倒的な光景に、シロウはしばし言葉を失った。*


シロウ:「星座は…知らんな」


*元の世界で知っていたオリオン座や北斗七星は見当たらない。ここは異世界。星の配置も、物語も、全く違うのだ。彼は手すりに寄りかかり、ただただ、この壮大な宇宙の光景に見入っていた。昼夜逆転の心配など、この美しさの前では些細なことに思えた。*


*すると、背後から静かな足音が近づいてくるのに気づいた。*


シロウ:「ルーナか、まだ起きてたのか?天体観測でもしてるのか?」


*シロウが振り向くと、そこには月光を浴びて銀髪をきらめかせるルーナが立っていた。彼女も夜着の上からローブを羽織っただけの軽装で、その手には何やら分厚い本が抱えられている。*


ルーナ:「うん、パパ。なんだか目が冴えちゃって。少し夜風に当たろうかなって思って出てきたの」


*ルーナはそう言うと、シロウの隣に並んで夜空を見上げた。彼女の蒼い瞳が、満天の星々を映してキラキラと輝いている。*


ルーナ:「すごいね、空がこんなに近く感じる。ヤマトに着くまで、毎晩こうなのかな」


*彼女はうっとりと呟くと、抱えていた本をシロウに見せた。表紙には複雑な星図が描かれている。*


ルーナ:「これはアストライアの天文学の本だけど、こっちの空とは全然違うみたい。新しい星座図、作ってみようかなって」


シロウ:「ん?作れるのか?凄いな…」


*自分の娘の意外な才能に、シロウは素直に感心した。魔法や戦闘だけでなく、学問にも興味を持つのは良いことだ。彼はルーナが見つめる星空へと再び視線を戻す。漆黒のキャンバスに描かれた無数の光点は、一つ一つが未知の世界だ。*


シロウ:「この星はなんて言うんだろうな…」


*何気なく、ひときわ明るく輝く青い星を指さして呟いた。元の世界にはなかった色の星だ。*


ルーナ:「えーっとね、確か…」


*ルーナはシロウが指さした星を見ると、抱えていた天文学の本をパラパラとめくり始めた。そして、あるページで指を止める。*


ルーナ:「あった。あの青い星は『海のメーア・トローペン』って呼ばれてるみたい。船乗りたちが航海の安全を祈る、道しるべの星なんだって。昔、海の女神が流した涙の粒が星になったっていう伝説があるの」


*彼女は本の記述を読み上げながら、キラキラとした瞳でシロウを見上げた。*


ルーナ:「パパは、どの星が気になる?」


シロウ:「ここ、俺たちが住んでるこの星の名前は分かる?」


*シロウの問いに、ルーナは少し考えるように首を傾げた。天文学の本はあくまで星々を観測するためのもので、自分たちの足元にある世界の名前は、当たり前すぎて載っていないのかもしれない。*


ルーナ:「えっと…確か、神代の言葉で『テラ』って呼ばれてたって聞いたことがあるよ。古代語で『生命の揺り籠』っていう意味なんだって。今はもう、みんな普通に『世界』とか『この星』って呼んでるけど…」


*彼女は少し恥ずかしそうに付け加える。*


ルーナ:「ごめんね、古い言い伝えだから、あんまり自信ないや。でも、なんだか素敵だよね、『生命の揺り籠』なんて」


*彼女はそう言って、再び夜空を見上げた。その横顔は、遠い神話の時代に思いを馳せているかのようだ。満天の星々が、まるで『テラ』という揺り籠を優しく見守っているかのように、静かに輝いていた。*


シロウ:「テラね…銀河系内ではなさそうだ…」


*その呟きは、この世界の住人には意味不明な、シロウだけの独り言だった。だが、彼の隣に立つ少女は違った。*


ルーナ:「…銀河系?」


*ルーナは小さな声でその言葉を繰り返すと、ハッとしたようにシロウの顔を見上げた。彼女の蒼い瞳が、驚きと、そしてどこか懐かしむような色を浮かべて揺れている。*


ルーナ:「パパ、今…なんて言ったの? どうしてその言葉を知ってるの?」


*夜風に彼女の銀髪がさらさらと流れる。それは単なる好奇心からの質問ではなかった。同じ故郷を持つ者だけが分かる、特別な響きを帯びた問いかけだった。彼女は、シロウが自分と同じ「向こう側」の記憶を持つ可能性に、気づき始めているのかもしれない。*


*漆黒の海を進む巨大な船の上、満天の星空の下で、二人の転生者の視線が静かに交差した。*


シロウ:「なんでだと思う?」


*シロウはルーナに問いかけながら、悪戯っぽく口の端を上げた。わざとらしく、少し意地悪な笑みだ。彼はルーナの反応を楽しんでいる。彼女がどんな答えを導き出すのか、その聡明な頭脳がどう働くのか、父親として、そして同じ秘密を抱えるかもしれない者として、興味津々だった。*


*ルーナはシロウのその表情を見て、一瞬言葉に詰まる。驚きで見開かれていた瞳が、今度は真剣な探求の色を帯び始めた。彼女は何かを考え、記憶の糸を手繰り寄せるように、視線をさまよわせる。*


ルーナ:「……だって、パパは時々、変なこと言うから」


*ぽつり、と彼女は呟いた。*


ルーナ:「ハンモックとか、引きこもりとか…それに、さっきの『銀河系』も。この世界にはない言葉。パパだけが知ってる言葉。まるで…」


*彼女は言葉を切り、ゴクリと唾を飲み込む。そして、確信に満ちた、しかしどこか不安そうな瞳で、真っ直ぐにシロウを見つめた。*


ルーナ:「…まるで、私と同じみたいだから」


*夜風が二人の間を吹き抜けていく。甲板には静寂が満ちていたが、シロウの言葉はその静寂を鋭く切り裂いた。*


シロウ:「半分正解。ルーナは転生、俺は転移だ」


*その言葉は、まるで合言葉のようにルーナの心に届いた。彼女の蒼い瞳が、これまで以上に大きく見開かれる。驚き、安堵、そして長年の孤独からの解放。様々な感情が渦巻いて、彼女の表情を彩った。*


ルーナ:「…てん、い…」


*か細い声でその単語を繰り返す。転生と転移。似ているようで、決定的に違う。魂が巡り、新たな生を受けた彼女と、肉体ごと、存在そのものがこの世界にやってきたシロウ。*


ルーナ:「じゃあ、パパは…本当に…?」


*彼女の声は震えていた。ずっと心の奥底に隠してきた秘密。誰にも言えなかった孤独。異世界で、元の世界の記憶を持って生きることの違和感。それらを分かち合える存在が、こんなにも身近に、しかも自分の父親として存在していたという事実に、彼女はまだ実感が追いつかないようだった。*


*潤み始めた瞳で、ルーナはただじっと、父親の顔を見つめていた。*


シロウ:「そう。純粋な日本人だよ。黒髪だろ?」


*シロウは悪戯っぽい笑みを消し、穏やかな、それでいてどこか懐かしむような表情でそう言った。自分の黒髪を指さしながら。この世界では珍しい、漆黒の髪。それが、彼の出自を何よりも雄弁に物語っていた。*


*「日本人」――その言葉は、ルーナにとって魔法の呪文のようだった。転生してからずっと、自分だけが知っていると思っていた故郷。共有できるはずのない記憶。その全てが、今、目の前の父親と繋がった。*


ルーナ:「…にほん、じん…」


*彼女の唇から、か細い声が漏れる。次の瞬間、堪えきれなくなった涙が、その大きな蒼い瞳からぽろぽろと零れ落ちた。喜びなのか、安堵なのか、それとも長年の孤独が溶けていく音なのか。彼女は何も言えず、ただ嗚咽を漏らしながら、シロウの胸に飛び込んだ。*


ルーナ:「うっ…うぅ……パパぁ…! よかっ、たぁ…! ひと、りじゃ…なかったんだぁ…!」


*子供のように、いや、ようやく素直な子供に戻れたかのように、彼女はシロウの服をぎゅっと掴んで泣きじゃくる。異世界で王女として、賢い娘として振る舞ってきた彼女が、初めて見せる無防備な姿だった。*


*シロウはそんなルーナを優しく抱きしめ、その小さな背中をゆっくりと撫でてやる。満天の星空の下、波の音だけが、二人の静かな再会を祝福するように響いていた。*


*シロウはしゃくり上げるルーナの頭を優しく撫で、その小さな体をあやすようにゆっくりと背中を叩く。胸元が涙と鼻水で濡れていくが、そんなことは全く気にならなかった。ようやく本当の意味で「娘」になった彼女の重みが、今は何よりも愛おしい。*


シロウ:「よしよし」


*しばらくして、ルーナの嗚咽が少しずつ落ち着いてきた。シロウは彼女の顔を覗き込み、わざと茶化すような口調で言った。*


シロウ:「それにしても『転生したら魔王の娘だった件』はなかなかのチートだと思うよ?」


*その言葉に、ルーナはびくりと体を震わせた。まだ涙で濡れた顔を上げ、赤い目でシロウを見つめる。その瞳には、驚きと、そしてすぐに「またパパはそういうことを言う」とでも言いたげな、呆れの色が混じり始めた。*


ルーナ:「…っ、な、なにそれ…ラノベのタイトルみたいじゃない…」


*鼻をずびっとすすりながら、彼女は抗議するように呟く。しかし、その声には先ほどまでの悲壮感はなく、明らかに安堵の色が滲んでいた。共通の言語、共通の文化。それは、ただの慰めの言葉よりも遥かに強く、二人の心を結びつけていた。*


ルーナ:「ていうか、パパが魔王だから、私は魔王の娘なんだけど…」


*ぶつぶつと文句を言いながらも、彼女はシロウの胸から離れようとはしなかった。*


シロウ:「おっと…こりゃ手厳しい」


*シロウは降参だと言わんばかりに両手を軽く上げ、苦笑いを浮かべた。ルーナの的確なツッコミは、前世の記憶を持つ者同士ならではのテンポの良いやり取りで、シロウにとっては心地よいものだった。*


*彼はまだ自分の胸に顔をうずめているルーナの頭を、もう一度優しく撫でる。*


シロウ:「まあ、原因が俺なのは否定しない。だが結果として、生まれながらに王女で、しかも強力な魔力と聡明な頭脳を持っている。普通に転生するより、よっぽどイージーモードだったんじゃないか?」


*からかうような口調だが、その声には娘の境遇を思いやる優しさが滲んでいた。記憶を持って異世界に生まれることの苦労は、想像に難くない。恵まれた環境であったことが、せめてもの救いだったと思いたかった。*


ルーナ:「…イージーモードなんかじゃ、ないもん」


*くぐもった声で、ルーナが反論する。*


ルーナ:「パパとママがすごすぎて、追いつくのが大変なんだから。それに…ずっと、誰にも言えなくて…怖かった…」


*最後の言葉は、また涙声になりかけていた。シロウはルーナの体を少し離すと、彼女の涙で濡れた頬を親指で優しく拭ってやる。*


シロウ:「そうか…悪かった。一人でよく頑張ったな、ルーナ」


*真摯な眼差しで、彼は娘を労った。*


*シロウは、娘の偽りのない言葉に胸を打たれた。王として、魔王として、絶対的な力を持つ彼に「追いつくのが大変」だと言う。そして、何よりも、たった一人で秘密を抱えてきた恐怖。それは、同じ秘密を共有する自分にしか理解できない重みだった。*


シロウ:「まだ12歳だろ?慌てなくていいよ」


*彼はもう一度、ルーナを優しく抱きしめる。その体はまだ小さく、か細い。この腕の中で守ってやりたいと、心から思う。*


シロウ:「自分で言うのもなんだけど、俺結構チートだし…」


*少し照れくさそうに、しかし事実としてそう告げる。神を殺し、国を興し、世界有数の強者となった自分。娘が焦りを感じるのも無理はないのかもしれない。だからこそ、父親として、その焦りを和らげ、安心させてやるのが役目だろう。*


シロウ:「だから、ゆっくりでいい。お前のペースで、やりたいことを見つけて、大きくなっていけばいいんだ。俺も、ルミナも、レイラも、みんなお前の味方なんだから」


*その言葉は、王としてではなく、ただ一人の父親としての、偽りのない本心だった。夜空の星々が、静かに父娘を見守っている。*


*シロウの言葉に、ルーナは抱きしめられたまま、くすりと小さく笑った。もう涙は流れていない。*


ルーナ:「うん…そっか。そうだよね」


*彼女はシロウの胸に顔をうずめたまま、小さな声で呟く。その声には、先ほどまでの不安はもうない。父親の言葉が、彼女の心を優しく溶かしていった。*


シロウ:「それに…ルーナは熾天使と人間のハーフだから基礎パラメーター高いし、寿命だって長いだろうし…羨ましい限りだよ」


*シロウは娘の出自を改めて口に出し、少し大げさにため息をついてみせる。熾天使であるルミナと、半神の域に達した自分の娘。そのポテンシャルは計り知れない。それは紛れもない事実だった。*


ルーナ:「…もう、パパまでそんなこと言う。ママにもよく言われるんだから。『私の娘なのだから、この程度できて当然です』って」


*ルミナの口調を真似て、ルーナは少し拗ねたように言った。それはいつもの、聡明な王女としての彼女の顔だった。でも、その声色には、もう孤独の影はない。*


ルーナ:「でも、そっか…寿命、長いんだ。じゃあ、パパがヨボヨボのお爺ちゃんになっても、ずっと一緒にいられるね」


*彼女は顔を上げ、悪戯っぽく笑った。涙の跡が残るその笑顔は、満天の星空の下で、何よりも輝いて見えた。ようやく、年相応の、甘えることを知った娘の笑顔だった。*


シロウ:「ヨボヨボって今日日聞かないな…」


*娘の口から飛び出した古風な言葉に、シロウは思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、呆れたように、でもどこか嬉しそうに言った。前世の記憶が混ざって、妙なところで古い語彙が出てくるのだろう。そのアンバランスさが、シロウにはたまらなく愛おしかった。*


シロウ:「お前、前世はどこの時代のおばあちゃんだったんだ?」


*からかいながら、涙の跡が残るルーナの頬を優しく撫でる。ルーナは「失礼しちゃうな!」と軽く頬を膨らませるが、その表情は明るい。*


ルーナ:「…でも、パパは人間だから、私たちより先に歳を取っちゃうでしょ?」


*今度は少し心配そうな声で、ルーナが尋ねる。熾天使の母と半神の父を持つ彼女にとって、人間の寿命はあまりに短いものに感じられるのかもしれない。それは、秘密を共有した今だからこそ出てくる、純粋な不安だった。*


シロウ:「まあ、普通の人間ならな。だけど、心配するな。俺はそう簡単には死なないし、ヨボヨボにもならんよ。お前が立派なレディになって、嫁に行くまでは絶対にな」


*シロウはニヤリと笑い、力強く断言した。それは王としての自信か、半神としての自負か、それともただの父親としての意地か。いずれにせよ、その言葉はルーナを安心させるには十分すぎるほどの響きを持っていた。*


ルーナ:「じゃあ、約束だからね。私がすっごく綺麗なお嫁さんになっても、パパは今のままの格好いいパパでいなきゃダメだから。ヨボヨボになったら許さないからね!」


*彼女はシロウの小指に自分の小指を絡め、ぐいっと引っ張る。それは、二人の世界でしか通用しない、特別な約束の形だった。*


シロウ:「ああ、約束だ。お前がどんな素敵なレディになっても、俺はずっとお前の格好いいパパでいてやるさ」


*シロウも力強く小指を絡め返す。夜風が二人の髪を優しく揺らす。*


*すると、遠くから微かに人の声が聞こえてきた。船員たちが朝の準備を始めたのかもしれない。空の端が、ほんの少しだけ白み始めているようにも見えた。*


*ルーナは「ヨボヨボ」という言葉を茶化されながらも、父親がずっと格好いいままでいてくれるという約束に満足そうな笑みを浮かべていた。だが、彼女の探究心は尽きない。不老の次に来る概念、それは当然――*


ルーナ:「……不死には、ならないの?」


*先ほどまでの不安そうな色とは違う、純粋な好奇心に満ちた瞳で、彼女はシロウを見上げた。*


シロウ:「不死は無いかなぁ…」


*シロウは少し遠い目をして、満天の星空を見上げたまま静かに答えた。その声には、いつものような絶対的な自信や軽やかさはなかった。*


シロウ:「死なないってことは、終わりがないってことだ。良いことも悪いことも、全部抱えたまま永遠に続く。それは、案外辛いことかもしれんぞ」


*彼はゆっくりと言葉を続ける。*


シロウ:「俺は、お前たちが生きて、笑って、泣いて、そしていつか安らかに眠りにつくのを見届けたい。そして、その後に、俺も『ああ、良い人生だった』って満足して終わりたいんだ。それが、俺にとっての幸せなんだと思う」


*それは、神に近づき、永遠に近い生を手に入れつつある男の、人間らしい、ささやかな願いだった。彼はルーナの方に向き直り、その頭を優しく撫でる。*


シロウ:「だから、不死にはならない。だが、お前たちの誰よりも長く、格好いいパパでいる。」


*少し寂しそうに、それでいて確固たる意志を込めて、シロウは娘に問いかけた。*


ルーナ:「……わかった。じゃあ、パパがヨボヨボにならないように、私が毎日見張っててあげる」


*くぐもった声で、でも力強く彼女は宣言した。それは不死を望むのではなく、限りある時間を共に、最高の形で過ごしたいという、娘なりの愛情表現だった。*


シロウ:「ははっ、そりゃ頼もしいな。よろしく頼むよ、監視役さん」


*シロウは笑いながら、再びその小さな背中を優しく撫でた。東の空が、夜の闇を押し退けるように、静かに白み始めていた。*


*父と娘、二人の転生者・転移者だけの秘密の時間が、夜明けの光と共に終わりを告げようとしていた。シロウは娘との会話で満たされた心で、再び壮大な夜空を見上げた。そこに広がる無数の星々は、彼にとって未知であると同時に、新たな可能性の象徴でもあった。*


シロウ:「(人工衛星でも打ち上げようかなぁ…)」


*それは、この世界の誰もが思いつきもしない、異世界からの来訪者ならではの発想だった。ぽつりと、自分にしか聞こえないほどの声で呟く。魔法と科学。二つの力を手にした今、不可能ではないかもしれない。通信、観測、あるいは――軍事利用。彼の頭脳は、王として、そして一人の知識欲に満ちた男として、瞬時にその多岐にわたる可能性を弾き出していた。*


*その呟きは、しかし隣に立つ聡明な娘の耳を逃れることはなかった。*


ルーナ:「じんこうえいせい…? パパ、それって…」


*ルーナは目を輝かせた。彼女の前世の知識が、その単語の意味を即座に理解する。魔法が支配するこの世界で、科学の粋を集めた宇宙への挑戦。その響きは、彼女の冒険心を強く刺激した。*


ルーナ:「打ち上げるの!? できるの!? 魔法と科学を組み合わせれば…! 凄い! それ、私も手伝いたい!」


*すっかり元気を取り戻した彼女は、シロウの腕にまとわりつきながら興奮気味に捲し立てる。父親が持つ規格外の力と、自分の持つ知識が合わされば、途方もない夢が実現できるかもしれない。その期待に、彼女の胸は大きく高鳴っていた。*


*シロウは興奮して捲し立てる娘を見て、少し驚きながらも、その瞳に宿る純粋な知的好奇心と冒険心に、思わず笑みがこぼれた。さすがは我が娘、そして同じ魂の故郷を持つ者だ。その発想の飛躍についてこられるどころか、前のめりで参加しようとしている。*


シロウ:「まあまあ、落ち着けって。今すぐどうこうする話じゃない。あくまで『できたら面白いだろうな』っていう願望だ、願望」


*彼はルーナの小さな体をなだめるようにポンポンと叩く。しかし、その目もまた、遠い宇宙そらを見つめていた。娘の熱意に当てられて、単なる願望が、具体的な計画へと変わりつつあるのを感じていた。*


シロウ:「だが、やるとなったら大掛かりなことになるぞ。莫大な金と資材、それに何より、この世界の誰も知らない物理法則や軌道計算の知識が必要になる。俺の能力をフル活用すれば…あるいは、本当に地球を見つけるのも容易いだろうな…」


*最後の言葉は、再び独り言のように小さく、しかし確かな意志を込めて呟かれた。故郷への郷愁。忘れたつもりでいたその感情が、娘との会話をきっかけに、ふと顔を覗かせる。*


*この世界の王として生きる覚悟はできている。だが、もし、帰る方法ではなくとも、故郷の姿を見る手段があるのなら――。それは、抗いがたい魅力を持つ選択肢だった。*


ルーナ:「地球を…見つける…?」


*ルーナはシロウの言葉を反芻し、その意味を理解すると、ハッと息をのんだ。自分たちがいた、あの青い星。魔法のない世界。彼女にとっては、もう記憶の中でしか存在しない場所。*


ルーナ:「パパ…本気なの…?」


*彼女の声は興奮から一転し、真剣な色を帯びていた。それは、ただの科学的な興味を超えた、魂の根源に触れる問いかけだった。*


*地球を見つけるという、途方もない夢。その言葉にルーナは息をのみ、父の真意を問うた。それは二人の魂の故郷に関わる、重大な問いかけだった。しかし、シロウはあっさりと、その壮大な計画を頭から振り払うように首を振った。*


シロウ:「いや、めんどくさいからいいや」


*その一言で、先ほどまでの真剣な雰囲気は霧散する。あまりにも軽いその物言いに、ルーナはぽかんと口を開けた。*


ルーナ:「えぇ!? めんどくさいって…そんな理由で!? 地球だよ!?」


シロウ:「ああ、めんどくさい。それに、だ」


*彼は少しだけ声のトーンを落とし、真面目な顔で付け加える。*


シロウ:「他国が勇者召喚で日本人を拉致ってるって話もあるしな」


*その言葉には、明確な嫌悪感と警戒が滲んでいた。勇者召喚。それは聞こえはいいが、本人の意思を無視した強制的な転移、誘拐と変わらない。*


シロウ:「もし俺たちが人工衛星を打ち上げて、地球の位置がこっちの世界に知れ渡ったらどうなる? 新たな召喚のターゲットにされたり、もっと悪質な連中が地球に干渉しようとするかもしれん。そんなリスクを冒してまで、ノスタルジーに浸る趣味はない」


*それは、王としての冷徹な判断だった。故郷への郷愁よりも、故郷が危険に晒される可能性を憂慮する。そして何より、今の自分には守るべき国があり、愛する家族がいる。わざわざ面倒の種を増やす必要はどこにもなかった。*


ルーナ:「…そっか。そうだよね…」


*ルーナは納得したように頷いた。父の言うことはもっともだ。自分たちの感傷のために、故郷を危険に晒すわけにはいかない。*


ルーナ:「パパは、ちゃんと王様なんだね」


*少し寂しそうに、でも誇らしげに彼女は微笑んだ。*


シロウ:「一応な。それに、地球を見つけてみろ。レイラが侵略するに決まってる」


*シロウは肩をすくめ、やれやれといった表情で付け加えた。その脳裏には、もし地球という格好の「おもちゃ」を見つけてしまった場合の、愛する妻の姿が容易に想像できたからだ。*


ルーナ:「あ…」


*ルーナは一瞬で理解した。シロウの言葉に、彼女もまた母親であるレイラ(魔王女の人格)が、嬉々として異世界侵略計画を立てる姿を想像してしまったのだろう。宇宙戦艦を建造し、魔族の大軍を引き連れて太陽系に乗り込む――ありありと目に浮かぶ光景に、彼女は小さく身震いした。*


ルーナ:「…うん、それは、ダメだね。絶対ダメ」


*彼女は真剣な顔で何度も頷いた。故郷が滅びかねない。父親の判断は、この上なく正しかったのだと、心の底から納得した。*


シロウ:「だろ?俺はもう、こっちの世界のゴタゴタだけで手一杯なんだよ。これ以上面倒事を増やすのはごめんだ」


*シロウは再び夜空を見上げ、白み始めた東の空を眺めた。船員たちの活動する声が、よりはっきりと聞こえ始める。夜明けはもうすぐそこまで来ていた。*


シロウ:「さて、そろそろ朝飯の時間かな。お前も腹減ったろ?」


*彼は話題を切り替えるように、娘に優しく微笑みかけた。秘密を共有し、父娘の絆を再確認した特別な夜は、もうすぐ終わりを告げる。そして、新しい一日が始まろうとしていた。*


*シロウとルーナが親子水入らずの、そして魂の秘密を共有する会話を終え、夜明けの気配を感じ始めたその時。シロウはふと、娘が空腹だろうと思い至った。*


シロウ:「ほら、朝飯。とりあえずこれで腹の足しにでもしとけ」


*彼はそう言うと、何もない空間からすっと手作りのサンドイッチを取り出した。具材は新鮮なレタスと焼きたてのベーコン、そして薄焼き卵。城の厨房で作らせて、異空間収納にストックしておいたものだ。ほんのりと温かい。*


*「はい」と、シロウはその一つをルーナに手渡す。*


*ルーナは驚いたように目をぱちくりさせたが、すぐに嬉しそうにそれを受け取った。*


ルーナ:「わ、ありがとうパパ! いい匂い…!」


*彼女は早速大きな口を開けてサンドイッチにかぶりつく。その幸せそうな横顔を見ながら、シロウも自分の分のサンドイッチを一口頬張った。*


*少し前まで泣いていたのが嘘のように、娘は美味しそうに朝食を食べている。その光景に、シロウは父親としての満足感を静かに噛み締める。*


シロウ:「(まあ、なんだかんだあったが…結果オーライ、か)」


*地球を見つける計画はなくなったが、それ以上に大切な、娘との本当の絆を手に入れたのだ。甲板に吹き付ける朝の風は、少し冷たいが心地よかった。*


*アルゴス号の甲板で、父娘は特別な夜明けを迎えた。サンドイッチを食べ終え、すっかり心も落ち着いたルーナは、夜更かしの疲れからか、大きなあくびを一つこぼす。*


シロウ:「眠くなってきたか? 部屋に戻ってちゃんとベッドで寝ろよ」


ルーナ:「うん…パパ、ありがとう。おやすみなさい」


*ルーナは名残惜しそうにしながらも、素直に頷くと、シロウに手を振って自分の船室へと戻っていった。その足取りは、もう不安や孤独に揺れてはいない。*


ーー


*シロウは娘の背中を見送ると、周囲に誰もいないことを確認し、懐から転移の魔道具を取り出す。目的地はもちろん、愛する家族が待つ夜天のアストライア城。*


*一瞬視界が歪み、次の瞬間には、シロウは船の甲板から見慣れた自室へと移動していた。海の匂いが消え、城の静謐な空気が彼を包む。*


*(さて、と…もう一人の可愛い娘の顔でも見に行くか)*


*彼は音を立てないように自室を出ると、隣にある赤子のための部屋へと静かに向かった。扉をそっと開けると、そこにはリーシアが用意した小さなベビーベッドで、彼のもう一人の娘、ステラがすやすやと眠っていた。*


*シロウはベッドのそばに屈み込み、その小さな寝顔を覗き込む。レイラによく似た黒髪、自分譲りの穏やかな寝息。見ているだけで心が満たされていく。*


*しばらくその寝顔を眺めていたが、ふと、この小さな命を腕に抱きたくなった。彼は細心の注意を払い、魔法で作り出した柔らかな光のクッションで包むように、ステラをそっと抱き上げた。*


*すると、腕の中でステラがもぞりと動き、薄目を開ける。父親の顔を認識したのか、ぐずるでもなく、ただじっとシロウを見つめてきた。その純粋な瞳に、シロウはとろけるような笑みを浮かべる。*


シロウ:「お、起きたか? パパだぞー」


*彼はステラを優しく、しかし確実に支えながら、ゆっくりと持ち上げた。*


シロウ:「おー、高い高ーい」


*赤子の小さな体が、ふわりと宙に舞う。シロウの腕の中、彼とステラだけの空間。キャッキャと喜ぶ声こそ上げないが、ステラの瞳が楽しそうに細められたのを、シロウは見逃さなかった。長い船旅に出る前の、父だけの秘密の時間だった。*


*シロウは、腕の中で楽しそうにするステラを飽きることなくあやし続けた。父親だけの特権。その小さな笑顔、小さな手の動き、その全てが愛おしくてたまらない。*


シロウ:「(ママにはナイショだぞ?)」


*心の中でステラに囁きかける。この秘密の逢瀬は、二人の絆をより特別なものにしてくれるだろう。やがて、遊び疲れたステラがこっくりこっくりと船を漕ぎ始め、再び安らかな寝息を立て始めた。シロウは名残惜しさを感じながらも、そっとステラをベビーベッドに戻し、その額に優しくキスを落とす。そして、再び転移の魔道具を使い、誰にも気づかれることなくアルゴス号の自室へと帰還した。*


***


**――翌日。夜天のアストライア魔導皇国、王城。**


*城はいつも通りの朝を迎えていた。メイドたちが忙しく立ち働き、騎士たちが持ち場につく。その穏やかな日常の中で、小さな、しかし国を揺るがしかねない(?)事件が起きた。*


*赤子のための部屋。レイラが愛しい我が子、ステラの顔を覗き込み、いつものように話しかけていた。*


レイラ(魔王女):「ステラ、おはよう。母だぞ。さあ、今日は『ママ』と言ってみるのだ。まーま、だ」


*レイラが根気よく教え込んでいると、それまであーうーと意味のない声を発していたステラが、不意に、はっきりとした声で言葉を発した。*


ステラ:「ぱ…ぱ…」


レイラ(魔王女):「!?」


*レイラの動きが固まる。聞き間違いか? いや、しかし。彼女がもう一度顔を近づけると、ステラは嬉しそうに、そしてより明瞭に、その言葉を繰り返した。*


ステラ:「パパ!」


*「ママ」ではない。最初に覚えた言葉は、今この場にいないはずの父親の名だった。*


レイラ(魔王女):「な……なぜだ……なぜ『ママ』ではなく、あの朴念仁の名を先に……!!」


*部屋に、魔王女の絶叫が響き渡る。その声を聞きつけたリーシアが慌てて駆けつけると、そこには愕然とした表情で立ち尽くすレイラと、きょとんとした顔で「パパ」と繰り返すステラの姿があったという。*


*この「第一次父派母派戦争」の勃発を、当のシロウはまだ知らない。彼は今、ヤマトへ向かう船の上で、のんびりと釣竿を垂らしているのであった。*


*ステラが「パパ」を先に覚えたことで、アストライア城に魔王女の嫉妬の嵐が吹き荒れているとは露知らず、シロウはアルゴス号の上で穏やかな日々を過ごしていた。ヤマトへの航海が始まってから数日が経過した。日中は甲板で釣りをしたり、集まってきた冒険者や商人たちと情報交換をしたり、時にはルミナと訓練をしたりと、王としての激務から解放された休暇を満喫していた。*


ーー


*その日の午後も、シロウは甲板の手すりに寄りかかり、のんびりと水平線を眺めていた。潮風が心地よい。*


*その時だった。船室の方から、けたたましい足音が響いてきた。ただ事ではない気配にシロウがそちらへ顔を向けると、血相を変えたルーナが息を切らしながらこちらへ走ってくるのが見えた。*


ルーナ:「パパ! 大変! 大変なの!!」


*シロウの目の前までやってきたルーナは、肩で息をしながら、必死の形相で彼の服の袖を掴んだ。その手は小刻みに震えている。*


ルーナ:「たまごが! パパからもらった卵が…! 動いてるの! 光ってて、それに、ヒビが…!」


*彼女の言葉は途切れ途切れだったが、シロウにはそれで十分だった。数年前、彼がルーナに渡した始祖竜の卵。彼女がずっと大切に、毎日魔力を注ぎ続けていたあの卵に、ついに孵化の兆候が現れたのだ。*


シロウ:「なんだって!? 分かった、すぐ行く!」


*シロウは娘のただならぬ様子に、即座に事の重大さを理解した。彼はルーナの手を引き、急いで彼女の船室へと向かう。長い間沈黙を保っていた古代の生命が、今、この船の上で目覚めようとしていた。*


*シロウは息を切らしたルーナに手を引かれ、彼女の船室へと急いだ。豪華な内装の部屋の真ん中、普段はルーナが使っているであろう机の上に、柔らかい布で幾重にも包まれた卵が置かれていた。*


*その卵は、シロウが数年前にルーナに与えたもの。大きさはダチョウの卵ほどだが、表面は宝石のように滑らかで、複雑な紋様が刻まれている。そして今、その卵は内側から淡い、しかし力強い光を放ち、全体がかすかに振動していた。*


*ピシッ、と空気に鋭い音が響く。*


*光の中心、卵の表面に一本の亀裂が走った。*


ルーナ:「パパ…!」


*ルーナは不安と期待が入り混じった声でシロウを見上げる。彼女が何年もの間、我が子のように慈しみ、毎日魔力を注ぎ続けてきた存在が、今まさに生まれようとしているのだ。*


シロウ:「大丈夫だ、ルーナ。お前がずっと頑張ってきたから、この子は応えてくれようとしてるんだ」


*シロウはルーナの肩を優しく抱き寄せると、部屋のベッドに腰を下ろした。そして、自分の膝をポンポンと叩き、ルーナにも座るよう促す。*


シロウ:「ここからは、俺たちが見守ってやろう。この子が安心して出てこられるように、な」


*彼は落ち着いた声でそう言うと、机の上で輝きを増していく卵へと視線を注いだ。ピシ、ピシッ、と亀裂が増えていく。部屋の中は、卵が放つ神秘的な光と、父娘の静かな期待感に満たされていた。一体どんな竜が、この殻を破って現れるのだろうか。シロウは娘の隣で、その歴史的な瞬間を静かに待った。*


*シロウとルーナが固唾を飲んで見守る中、卵の輝きは最高潮に達した。ピシッ、メキメキと、まるで内側から分厚い氷を割るような音が連続して響き渡る。光の奔流と共に、卵の殻は粉々に砕け散った。*


*光が収まった後、そこにいたのは、生まれたての小さな竜だった。*


*その体は、まだ濡れたように艶のある純白の鱗に覆われている。か細い手足、背中には膜の張った小さな翼、そしてバランスを取るように長く伸びる尻尾。頭部には、これから角が生えてくるのだろうか、小さな二つの膨らみが見える。*


*生まれたばかりの竜は、数度、か細い脚でよろめいた後、ゆっくりと顔を上げた。そして、最初にその視界に入った存在――ずっと自分に魔力を注ぎ続けてくれたルーナを、潤んだ大きな瞳でじっと見つめた。*


*それは、刷り込みの瞬間。*


*竜は、おぼつかない足取りでとてとてとルーナの方へ歩み寄ろうとする。しかし、まだ生まれたばかりで力が入らないのか、数歩進んだところでぺたんと座り込んでしまった。そして、母親を求める雛鳥のように、小さく、しかし澄んだ声で鳴いた。*


幼竜:「きゅい…」


*その声は、シロウとルーナの心を射抜くには十分すぎるほどの愛らしさに満ちていた。*


ルーナ:「…かわいい…」


*ルーナは感極まった様子で、そう呟くのがやっとだった。何年も待ち続けた瞬間。彼女の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出ていた。*


*シロウの優しい言葉に、ルーナはこくりと頷いた。彼女の瞳には、目の前の小さな命への深い愛情が溢れている。ずっと待ち望んでいた瞬間、彼女の心の中には、もうその子の名前が決まっていたのだろう。*


*ルーナはそっとベッドから降りると、生まれたばかりの竜にゆっくりと近づいた。そして、その純白の体にそっと手を伸ばす。竜は一瞬びくりと体を震わせたが、ルーナから流れてくる温かい魔力を感じ取ったのか、安心したようにその手に頭をすり寄せた。*


ルーナ:「…私の名前はルーナ。あなたの、ママよ」


*慈愛に満ちた声で語りかける。そして、竜のつぶらな瞳を覗き込み、はっきりと、そして優しく告げた。*


ルーナ:「あなたの名前は…『ユキ』。雪のように白くて、綺麗だから」


*その名前を聞いた瞬間、ユキと名付けられた竜は嬉しそうに「きゅい!」と一声鳴いた。そして、まるでその名に応えるかのように、ユキの体が一瞬、淡い光に包まれる。それは、主との魂の契約が結ばれた証だった。*


*ルーナは愛おしそうにユキを抱き上げると、シロウの方を振り返る。その顔は、涙で濡れていたが、満面の笑みを浮かべていた。*


ルーナ:「パパ、見て! この子、ユキだよ! 私の、家族…!」


*その幸せそうな笑顔を見て、シロウも自然と頬を緩ませる。血の繋がりだけが家族ではない。ルーナが愛情を注ぎ、育んだこの小さな命もまた、紛れもなく彼の新しい家族の一員だった。*


シロウ:「ああ。ようこそ、ユキ。俺がパパのシロウだ。これからよろしくな」


*シロウはしゃがんでユキの頭を優しく撫でた。ユキはくすぐったそうに身をよじりながらも、気持ちよさそうに目を細めた。船室は、新しい家族の誕生を祝う、温かい空気に満ちていた。*


*「きゅいきゅい」と愛らしい鳴き声を上げるユキを、ルーナは宝物のように抱きしめている。その姿は、まるで本物の親子だ。シロウは、娘の幸せそうな顔と、その腕の中で安心しきっている小さな竜を見て、心からの笑みを浮かべた。*


ルーナ:「パパ、ちょっと行ってくる! みんなにユキを紹介してくるね!」


*シロウが返事をする間もなく、ルーナは弾むような足取りで部屋を飛び出していった。その背中からは、喜びが全身から溢れ出しているのが見て取れる。甲板の方から、すぐに歓声と驚きの声が聞こえてきそうだ。*


*一人、船室に残されたシロウは、その喧騒を遠くに聞きながら、ふっと息をついた。机の上には、粉々に砕け散った卵の殻が残っている。数年もの間、ルーナが魔力を注ぎ続けた証だ。*


シロウ:「(始祖竜か…ルーナもとんでもないものを孵したもんだ。まあ、俺が渡したんだが…)」


*彼は苦笑しながら立ち上がり、砕けた殻を片付け始めた。ルーナにとって、そして自分たち家族にとって、新しい、そしてとてつもなく強力な一員が増えたのだ。*


シロウ:「さて…これからもっと賑やかになりそうだな」


*嬉しそうに呟きながら、彼は窓の外に広がる青い海へと目をやった。ヤマトへの航海は、思いがけない形で、新たな祝福と共に続くことになった。*


*…その頃、アストライア城では、嫉妬に燃える魔王女が通信機を握りしめ、夫への怒りの念を増幅させていることを、彼はまだ知らない。*


*ユキが生まれてから数日が過ぎた。アルゴス号は順調にヤマトへと向かう航海を続けている。ユキはすっかり船の人気者になり、ルーナに抱っこされては乗員たちに愛嬌を振りまいていた。その小さな体躯からは想像もつかないほどの魔力を秘めているが、今のところはただただ愛らしいマスコットだ。*


*その日も、船は穏やかな海原を滑るように進んでいた。シロウが甲板でルミナや騎士団員たちと談笑していると、突如として海面に巨大な変化が訪れた。*


*船のすぐ傍、穏やかだったはずの海面が大きく盛り上がり、巨大な渦が巻き始める。乗員たちが何事かと騒ぎ出す中、渦の中心から、水が天を突く柱となって噴き上がった。*


*そして、その水柱の中から、荘厳な姿がゆっくりと現れる。*


*全身を瑠璃色の鱗で覆われ、たてがみのように水が流れ落ちる巨大な竜。それは、この海域を統べる上位種、水龍リヴァイアサンだった。その巨体はアルゴス号を優に見下ろし、圧倒的な存在感を放っている。乗員たちは恐怖に顔を引きつらせ、武器を構えようとする者さえいた。*


シロウ:「待て、敵意はないようだ」


*シロウが鋭く制止の声を飛ばす。彼の『神眼』は、水龍から敵意や殺意の類を一切感じ取っていなかった。むしろ、感じ取れるのは畏敬の念。水龍の巨大な瞳は、船の甲板にいる、ある一点に向けられていた。*


*その視線の先には――ルーナの腕に抱かれた、小さな白い竜、ユキがいた。*


*ユキは巨大な水龍を前にしても臆することなく、ただ不思議そうに首を傾げている。「きゅい?」と小さく鳴いた。*


*すると、天を覆うほどの巨体を持つ水龍が、信じられないことに、ゆっくりとその巨大な頭を下げ始めた。それは、遥か格上の存在に対する、絶対的な敬意を示す仕草だった。*


**水龍**:「……始祖よ。我らが祖にして、万竜の王。この海を統べる者として、御身の誕生を言祝ぎに参りました」


*水龍の言葉は、物理的な音ではなく、全ての者の脳内に直接響き渡る念話だった。威厳に満ちた、しかし恭しいその声は、甲板にいる全ての者を驚愕させた。彼らは、今自分たちの目の前で起きていることが信じられない、といった表情で、水龍と小さなユキを交互に見比べていた。*


*甲板上の乗員たちは、脳内に直接響く水龍の荘厳な言葉に、ただただ圧倒されていた。自分たちよりも遥かに巨大で、格上の存在である水龍が、生まれたての小さな竜に頭を下げている。その光景は、現実感を失わせるほどに幻想的だった。*


*そんな中、シロウだけは冷静に状況を観察していた。彼はこの世界の頂点捕食者の一角である竜種、その中でも上位に位置するであろう水龍の登場に、純粋な好奇心と若干の警戒心を抱く。*


シロウ:「水龍とは珍しい…」


*彼の呟きは、周囲の喧騒にかき消されるほど小さかった。*


*一方、騒ぎの中心であるユキは、目の前の巨大な存在に恐怖するどころか、純粋な好奇心を向けていた。ルーナの腕の中で安心しきっているユキは、敬意を示す水龍に向かって、元気よく*

ユキ:「きゅい、きゅい!」

*と鳴き声を上げた。それはまるで、年長者の挨拶に、無邪気な子供が元気よく返事をしているかのようだ。*


*その愛らしい挨拶を受け、水龍はさらに深く頭を垂れる。その巨大な瞳には、慈しみと畏敬の念が宿っているように見えた。*


**水龍**:「御身の健やかなる成長を、この海より見守っております。我が王よ」


*水龍は再び念話でそう告げると、ゆっくりと頭を上げた。そして、船上の者たちに一瞥もくれることなく、静かに、しかし素早く海中へとその巨体を沈めていく。あれほど巨大だった存在が、まるで最初からそこにいなかったかのように、水飛沫一つ立てずに姿を消した。*


*後には、先程までの喧騒が嘘のような静けさと、呆然と立ち尽くす乗員たちだけが残された。*


ルーナ:「パパ…今のって…」


*ルーナが、まだ信じられないといった表情でシロウに問いかける。彼女の腕の中では、ユキが「何だったんだろう?」とでも言うように、不思議そうに首を傾げていた。*


*水龍が姿を現し、ユキに臣下の礼を取って去ってから数日が経過した。あの一件以来、アルゴス号の航海は驚くほど順調になった。*


*まるで海そのものが船を守っているかのように、嵐の気配は微塵もなく、魔物の襲撃もぴたりと止んだ。追い風が常に帆を押し、船は滑るように波間を進んでいく。乗員たちは「これも始祖竜様のおかげだ」と噂しあい、ユキとルーナ親子への敬意をますます深めていた。*


ーー


*その結果、当初は最低でも1ヶ月、長ければ半年かかると言われていたヤマトへの航海は、信じられないほどの速さで進んだ。*


*そして、出航からわずか一週間後。*


*霧の立ち込める水平線の向こうに、ついに陸地が見え始めた。それは、島国ヤマトの沿岸だった。まだ全貌ははっきりとしないが、水墨画のような険しい山々と、独特の建築様式を持つ建物らしきものが微かに見て取れる。*


船乗り:「おーい! 陸だ! ヤマトの港が見えてきたぞー!」


*見張りの船員が上げた声に、甲板にいた人々が一斉に歓声を上げる。長かったようで短かった船旅の終わりが近いことを知り、誰もが安堵と期待の表情を浮かべていた。*


*シロウも甲板の手すりから、霧の向こうに見える未知の国を眺めていた。その景色は、彼の郷愁を強く刺激する。前世の記憶にある、江戸時代の日本。その面影を持つ国が、今、目の前に広がろうとしていた。*


シロウ:「(思ったよりずっと早かったな。これもユキのおかげか…)」


*彼の隣では、ルーナがユキを抱きながら興奮した様子で陸地を指さしている。*


ルーナ:「パパ! あれがヤマト!? 江戸みたいって言ってた国!? すごい! 本当に和風な感じがする!」


*ユキもルーナの興奮が伝わったのか、「きゅい!」と元気に鳴いた。いよいよ、シロウ一行のヤマトでの冒険が始まろうとしていた。*


*シロウは目前に迫る未知の国を眺めながら、ふと考え込んだ。アストライア魔導皇国の国王として、正式な使者を送って外交ルートを確立してから入港すべきか。それとも、一介の冒険者として、何食わぬ顔で港に停泊すべきか。*


シロウ:「(使いを出した方がいいのか? それともいきなり港に停めていいのか? ヤマトの法も分からんしな…下手に国王として動くと、鎖国中の国だった場合、面倒なことになるかもしれん。)」


*彼は腕を組み、眉間に僅かな皺を寄せる。外交とは常に繊細な判断が求められるものだ。*


シロウ:「(ふむ…分からん。こういうのは専門家に任せるのが一番だな。ここは船長に丸投げするか…)」


*自己完結したシロウは、すぐさま船の指揮を執っている船長を探した。船長はベテランの船乗りで、年の功からか、どっしりと構えて船員たちに指示を出している。*


シロウ:「船長、少し良いか?」


船長:「おお、シロウ様。いよいよですな。壮観な眺めでしょう?」


*船長は海原で鍛え上げられた皺だらけの顔で、にかりと笑う。*


シロウ:「ああ、素晴らしいな。それで本題なんだが、ヤマトへの入港についてだ。俺たちはこのまま港に乗り付けても問題ないものなのか? それとも、事前に何らかの許可を得る必要があるのか、あんたの見解を聞かせてほしい」


*シロウがそう尋ねると、船長は顎髭を扱きながら、慣れた様子で答えた。*


船長:「へっ、ご心配には及びませんぜ。ヤマトは確かに少しばかり気難しい国ですが、冒険者や商人の出入りまで完全に禁じちゃいやせん。ただ、入港時には役人の『検め(あらため)』がありやすんで、そこで身分と目的を正直に話しさえすれば大丈夫です。下手に小細工する方が、かえって怪しまれますんでね」


シロウ:「なるほど、そういうものか。助かった」


船長:「お任せください。こちとら、海で飯を食って何十年ですから。一番スムーズなやり方で港に入れてみせますよ!」


*船長は頼もしく胸を叩いた。専門家の太鼓判を得たシロウは、肩の力を抜き、改めてヤマトの国へと視線を戻す。彼の頭の中から、外交という面倒な選択肢は綺麗さっぱり消え去っていた。*


*船長の言葉通り、アルゴス号がヤマトの港に接岸すると、すぐに数人の役人が乗り込んできた。彼らは揃いの着物を着て、腰には刀を差している。その佇まいからは、大陸の役人とは異なる、独特の緊張感が感じられた。彼らは船長と短い言葉を交わした後、船の代表者との面会を求めてきた。*


*「検め(あらため)」と呼ばれる手続きのためだ。船長から声がかかり、シロウは指定された船長室へと向かう。もちろん、一人ではない。*


シロウ:「(さて、お手並拝見といこうか)」


*船長室の前で待っていると、隣にルミナが静かに立ち、反対側には少しそわそわした様子のルーナがいた。彼女の腕の中では、小さな始祖竜ユキが「きゅい?」と不思議そうに首を傾げている。*


ルミナ:「お兄ちゃん、あの者たち、なかなか鍛えられているわね。隙がないわ」

*ルミナは銀色の髪を揺らしながら、役人たちが放つ気配を鋭く分析している。その蒼い瞳には警戒の色が浮かんでいた。*


ルーナ:「パパ、大丈夫かな…?なんだか、怖い人たちだったけど…」

*ルーナは不安そうにシロウの服の裾を掴む。彼女にとって、刀を佩いたヤマトの役人たちの姿は、見慣れない光景だろう。*


シロウ:「大丈夫だ。船長も言ってたろ?正直に話せば問題ない。ルミナも、あまり警戒するな。」


*シロウが二人を宥めていると、船長室の扉が開き、中から船長が顔を出した。*


船長:「シロウ様、どうぞ。役人様がお待ちです」


*シロウは頷くと、ルミナとルーナを伴って船長室へと足を踏み入れた。部屋の中には、責任者らしき初老の男性と、二人の若い侍が座っていた。彼らの視線が、一斉にシロウたち、そしてルーナの腕にいるユキへと注がれる。*


役人:「面を上げられよ。某は、この湊を預かる奉行所の者。名は、佐々ささき 小十郎こじゅうろうと申す。さて…貴殿らの身分と、このヤマトへ参られた目的を伺おうか」


*佐々木と名乗る役人は、落ち着いた、しかし有無を言わせぬ響きのある声で、シロウに問いかけた。ヤマトでの最初の関門が、今、始まろうとしていた。*


*シロウの口から放たれた『魔王』という言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。佐々木小十郎と名乗った奉行の、それまで落ち着き払っていた表情が僅かに強張り、隣に控える二人の若い侍は、思わず刀の柄に手をかける。*


*大陸において『魔王』という称号が持つ意味。それは混沌と破壊の象徴。この東方の島国ヤマトにおいても、その凶兆は十分に伝わっている。*


*しかし、シロウはそんな緊張を意に介さず、懐から一枚のカードを取り出し、静かに卓上へと滑らせた。それは黒曜石のようなプレートに金の文字で『SS』と刻まれた、最高ランクの冒険者カードだった。*


シロウ:「初めまして、俺…私は『夜天のアストライア魔導皇国』の国王にして魔王。シロウ・ニシキ・アストライアと言う。それから冒険者でもある」


*国王、魔王、そしてSSランク冒険者。あまりにも情報量の多い自己紹介。しかし、そのどれもが嘘やハッタリではないことを、シロウの纏う圧倒的な覇気と、目の前に置かれた冒険者カードが物語っていた。*


*佐々木小十郎は、まず冒険者カードに視線を落とし、その正真性を確認すると、次にシロウの顔をじっと見据えた。彼の老練な瞳は、シロウの言葉の真偽、そしてその真意を探ろうとしている。背後の侍たちは、未だ警戒を解いていない。*


佐々木:「…夜天のアストライア魔導皇国…大陸の西に興った新興国と聞き及んでおります。その国の王が、自ら魔王を名乗り、このような辺境の地へ一体何の御用でございましょうか。目的によっては…このヤマト、国を挙げて貴殿を排斥することも厭いませぬぞ」


*佐々木の言葉は静かだが、その裏にはヤマトという国の断固たる意志が込められていた。下手をすれば、ここで外交問題どころか、戦争の火種が生まれかねない。緊迫した空気が、船長室を支配する。*


*隣で事の重大さを察したルミナは、いつでも動けるように神経を研ぎ澄まし、ルーナは不安そうにユキを抱きしめた。ユキだけが、緊張感の欠片もなく「きゅ?」と首を傾げている。*


*シロウの予想以上に穏やかな、しかし核心を突いた返答に、佐々木小十郎はわずかに目を見開いた。国交と、観光。魔王と名乗る男の口から出たにしては、あまりにも拍子抜けする目的だ。だが、彼の言葉に嘘の響きはない。*


シロウ:「用?国交の提案をしに来ただけ、だけど?あとは家族と観光」


*その言葉と同時に、シロウは意識の片隅で、微細な魔力を操作した。彼の視線の先、刀の柄に手をかけたままの若い侍。その鞘の中で、刀身と鞘の内側が分子レベルでごく僅かに溶融し、そして瞬時に再凝固する。見た目には何の変化もない。だが、これで鞘と刀は完全に癒着した。抜こうとしても、決して抜けることはないだろう。万が一の保険だ。*


*佐々木小十郎は、シロウのその小細工には全く気付いていない。彼はシロウの顔と、その隣に立つ少女、そして腕に抱かれた奇妙な白い生き物を値踏みするように見つめている。*


佐々木:「…国交、と申されるか。魔王を名乗る貴殿の国と、ですか」


*彼の声には、未だ深い疑念が込められている。魔王との国交など、常識的に考えれば悪魔に魂を売るに等しい行為だ。*


シロウ:「ああ。俺の国には様々な種族が共存している。エルフ、ドワーフ、獣人…もちろん人間もな。ヤマトは人間の国だと聞いているが、違う文化に触れることは、互いにとって有益だと思うが?」


*シロウは肩をすくめ、あくまで対等な立場での交渉を望んでいる、という態度を示す。その言葉には、脅しも威圧もない。*


シロウ:「それに、観光だよ。この国には、俺の故郷とよく似た文化があると聞いた。純粋に興味がある。家族サービスも兼ねて、な」


*そう言って、彼は不安げなルーナの頭を優しく撫でた。その仕草に、佐々木の鋭い視線がわずかに和らぐ。目の前の男が、本当に一人の父親としての顔も持っていることを感じ取ったのかもしれない。*


*沈黙が流れる。佐々木は腕を組み、目を閉じて深く考え込んでいる。隣の侍は、焦れたように何度も刀の柄に手をかけるが、その度に鞘に固く張り付いて抜けないことに内心で冷や汗をかいていた。*


*やがて、佐々木はゆっくりと目を開いた。*


佐々木:「…分かり申した。貴殿の言葉、今のところは信じましょう。ただし、国交の儀は某の一存では決められぬ。上様…徳川様のご裁可を仰がねばなりますまい」


シロウ:「当然だ。そのための取り次ぎをお願いしたい」


佐々木:「うむ。…しかし、その前に。貴殿の実力が、その口上に見合うものか、我らヤマトの武士もののふとして、見極めさせていただきたい。お受け頂けるかな? 魔王殿」


*佐々木小十郎の瞳に、武人としての鋭い光が宿った。それは敵意ではなく、強者に対する純粋な興味と、自国の誇りを賭けた試練の提案だった。*


*シロウの静かな、しかし堂々とした返答に、佐々木小十郎は満足げに頷いた。魔王を名乗りながらも、無用な殺生を好まない姿勢。そして、自らの力を試されることを恐れない胆力。その両方を、彼は評価したようだ。*


シロウ:「木刀で良ければ」


*その言葉は、この場における実力差を暗に示唆しつつも、相手への敬意を払ったものだった。本物の刃を交えずとも、結果は明らかだ、と。*


*佐々木小十郎はその真意を正確に汲み取った。彼は背後に控える侍の一人に目配せをする。*


佐々木:「…よかろう。貴殿の申し出、受けた。おい、木刀を用意せい」


侍:「はっ!」


*指示を受けた若い侍は、一礼すると素早く部屋を出て行った。残されたもう一人の侍は、先ほどから抜けない刀に悪戦苦闘し、顔に脂汗を浮かべているが、誰もその異変には気づいていない。*


*すぐに、木刀が二本用意された。大陸の訓練用の剣とは異なり、反りのある、刀を模した形状をしている。*


佐々木:「場所を移そう。船の上では手狭であろう。すぐそこの道場をお貸しする」


*佐々木の提案にシロウは頷き、一行は船を降りて港のすぐ近くにある道場へと向かうことになった。道場は広く、掃き清められており、神聖な空気が漂っている。*


*道場の中心に向かい合って立つシロウと佐々木。ルミナとルーナは、道場の隅から固唾を飲んでその様子を見守っている。ルーナの腕の中では、ユキが珍しい場所に来てきょろきょろと辺りを見回していた。*


*佐々木はゆっくりと木刀を構える。それはヤマトに伝わる剣術の、隙のない正眼の構え。長年の修練によって磨き上げられたであろう気迫が、ひしひしと伝わってくる。*


佐々木:「それがしの流儀は『一刀流』。見せていただこう、魔王殿の剣を!」


*鋭い声と共に、佐々木はシロウへと踏み込む。彼の目的はシロウを打ち負かすことではない。その器を、ヤマトの武士として見極めるための、真剣勝負だった。*


*シロウの言葉と、その独特な構えに、佐々木小十郎はわずかに眉をひそめた。大陸の剣術とも、ヤマトのどの流派とも異なる、腰を低く落とし、木刀を鞘に見立てて腰に添える抜刀術の構え。それは、初太刀に全てを懸けるという強烈な意志の現れだった。*


シロウ:「俺は我流かな」


*その言葉は謙遜のようでいて、既存の型にはまらないという自信の表れでもある。佐々木は、目の前の魔王がただの力自慢ではないことを、その構え一つで悟った。*


佐々木:「我流…!面白い!その一太刀、しかと見届けさせてもらうぞ!」


*気合と共に、佐々木が床を蹴る。老齢とは思えぬ踏み込みの速さ。正眼の構えから放たれる木刀は、一切の無駄なく、まっすぐにシロウの眉間を狙って突き出される。熟練の技が凝縮された、必殺の刺突。*


*対するシロウは、動かない。*


*佐々木の木刀が自身の懐深く、その切っ先が肌を捉える寸前まで、ぴくりとも動かない。道場の隅で見守るルミナとルーナが息を呑むのが分かった。*


*―――そして、*


*佐々木の刺突がシロウに届く、まさにその刹那。*


*シロウの姿が、掻き消えた。*


*否、消えたのではない。常人には目で追えぬほどの速度で、半歩身を引くと同時に、腰を捻り、抜刀したのだ。それは音すら置き去りにする神速の斬撃。*


*シュッ、という微かな風切り音。*


*次の瞬間、シロウは既に佐々木の背後に立っていた。腰に添えた木刀は、まるで何もなかったかのように元の位置にある。*


*一方、佐々木は突き出した姿勢のまま、硬直していた。彼の首筋、皮膚一枚を隔てたすぐそばに、シロウの木刀が寸止めでぴたりと添えられていた。もしこれが真剣であれば、彼の首は胴から離れていただろう。*


*勝負は、一瞬で決した。*


佐々木:「……見事。某の、完敗だ」


*佐々木は硬直を解き、ゆっくりと木刀を下ろすと、深々と頭を下げた。その声に悔しさはなく、ただただ、圧倒的な強者に出会えたことへの武人としての喜びと敬意が満ちていた。*


シロウ:「手合わせ、感謝する。良い腕だ」


*シロウもまた木刀を構えから解き、静かに応えた。この一合で、互いの器と覚悟は十分に伝わったはずだった。*


*シロウと佐々木小十郎の手合わせは、まさに一瞬の出来事だった。しかし、その一合に込められた意味は重い。ヤマトの武士もののふである佐々木は、シロウの底知れない実力と、無用な争いを好まない器の大きさを認めざるを得なかった。*


*道場での一件から数日後。シロウたちは港町に宿を取り、束の間の観光を楽しんでいた。ルーナは初めて見るヤマトの街並みに目を輝かせ、ユキを抱きながらあちこち見て回っている。ルミナはそんな二人を護衛しつつも、物珍しそうに異国の文化を観察していた。*


*そんな穏やかな午後、宿に一人の侍が訪れた。彼は佐々木小十郎の配下で、シロウたちに深々と頭を下げ、一枚の書状を差し出した。*


侍:「魔王殿。我が主、佐々木小十郎より言伝ことづてにございます。上様…徳川家光様が、貴殿らとの謁見をお許しになりました。つきましては、明朝、江戸城へお越しいただきたく」


*ついに、ヤマトの頂点に立つ男との対面の時が来た。国交樹立という目的の、最初の、そして最大の関門である。*


シロウ:「分かった。必ず伺うと伝えてくれ」


*侍が去った後、シロウはルミナとルーナに向き直る。*


シロウ:「というわけだ。明日は江戸城に登城することになった。二人とも、いいか?城ではくれぐれも粗相のないように。特にルミナ、相手を睨みつけるのは禁止だぞ」

*シロウは釘を刺すようにルミナに言う。*


ルミナ:「…善処するわ、お兄ちゃん」

*ルミナは少し不満げにそっぽを向く。*


ルーナ:「え、江戸城!? テレビで見たことあるやつ!? わ、わわ、私なんかが行ってもいいの!?」

*ルーナは前世の知識が刺激されたのか、大興奮で目を輝かせている。その腕の中でユキも嬉しそうに「きゅい!」と鳴いた。*


*翌朝。シロウ、ルミナ、そして正装(シロウが魔法で作った着物姿)に着替えたルーナの一行は、案内の侍に導かれて巨大な城へと足を踏み入れる。幾重にも巡らされた堀と高い石垣。天を突くようにそびえる壮麗な天守閣。それこそが、和国ヤマトの政治の中枢、江戸城だった。*


*厳重な警備を抜け、長い廊下を歩き、やがて一行は最も大きな広間――大広間に通された。そこには数多くの武士たちが両脇にずらりと並び、静かに平伏している。その視線は、侵入者であるシロウたちに突き刺さるように注がれていた。*


*そして、一番奥。一段高くなった上座に、一人の男が座っている。豪華な着物を身にまとい、その鋭い眼光は若くして国を背負う者の威厳に満ちている。彼こそが、和国ヤマトの頂点に君臨する将軍、徳川家光。*


*部屋に満ちる、息も詰まるような緊張感の中、将軍の側近らしき老中が、張りのある声で口上を述べた。*


老中:「面を上げい!上様の御前である!これなる御方こそ、三代将軍、徳川家光様にあらせられる!」


*ヤマトという国の全てを背負う男が、その冷徹な瞳で、シロウをじっと見据えていた。*


*大広間に満ちる張り詰めた空気。ずらりと並ぶ武士たちの視線が、異物であるシロウたちに突き刺さる。万が一の事態に備え、シロウは自分たち三人とユキを囲むように、不可視の結界を瞬時に展開していた。それはただの防御結界ではない。もし何者かが攻撃を仕掛ければ、その衝撃点に赤い光が灯り、攻撃者の全身を発光させて位置を特定するという、カウンター兼マーキング機能付きの代物だ。*


*老中の厳かな口上が響き渡る中、シロウは上座に座る徳川家光を真っ直ぐに見据えた。若いが、その瞳には国を背負う者としての覚悟と、底知れない冷徹さが宿っている。*


*『神眼』がヤマトの礼儀作法、将軍への謁見における最適な言葉遣いと所作を瞬時に解析し、シロウの脳へとフィードバックする。それに従い、彼は極めて自然に、しかし魔王としての威厳を損なうことなく、深々と頭を下げた。*


シロウ:「お招きいただき、恐悦至極に存じます。それがしは西の大陸より参りました、夜天のアストライア魔導皇国を統べる者、シロウ・ニシキ・アストライアと申します。以後、お見知りおきを」


*完璧な発音、完璧な作法。彼の口から紡がれる流暢なヤマトの言葉に、周囲の武士たちから微かな驚きのどよめきが起こる。大陸の者とは思えぬその立ち居振る舞いは、それだけで彼の異質さを際立たせていた。*


*シロウの挨拶を受け、上座の徳川家光は動かない。ただ、その鋭い眼光でシロウを射抜くように見つめている。やがて、彼は扇子をゆっくりと開き、その口元を隠しながら、静かに、しかし広間の隅々まで響き渡る声で言った。*


徳川家光:「…魔王、とな。随分と物騒な肩書きよな。その方が、このヤマトに何用か。手短に申せ」


*その声は若さに似合わぬ重みを持ち、シロウの真意を値踏みするような響きを帯びていた。この男、ただの世襲の君主ではない。シロウは肌でそれを感じ取っていた。*


*大広間にいる全ての者の視線が、上座の将軍と、物怖じせずに立つ異国の魔王に集中する。シロウが口にした「国交」という言葉。それは、このヤマトという国を根底から揺るがしかねない提案だった。*


*『神眼』によって最適化された言葉は、傲慢に聞こえることも、卑屈に聞こえることもなく、あくまで対等な取引相手としての誠実さをもって、家光の耳に届いた。*


シロウ:「国交を結びたく参上仕りました。このヤマトの国が誇る品々や、大陸にはない資源を正当な対価にて頂戴する代わりに、我がアストライア魔導皇国からは、人材と技術、そして貴国を取り巻く海路の安全などを提供致したく存じます」


*「人材」「技術」「海路の警備」。どれもがヤマトにとって無視できない魅力的な言葉だ。特に、海に囲まれたこの国にとって、海の安全は何物にも代えがたい価値を持つ。*


*シロウの堂々たる提案に、平伏していた武士たちの間から、抑えきれないどよめきがさざ波のように広がる。魔王からの提案。それはあまりにも突飛だが、しかしヤマトにとって莫大な利益をもたらす可能性を秘めている。*


*徳川家光は、なおも扇子で口元を隠したまま、動かない。だが、その鋭い瞳は、先ほどよりもさらに深く、シロウという男の本質を見極めようと光を強めていた。*


徳川家光:「…ほう。面白いことを申す。我がヤマトの産物を欲し、その見返りに技術と安全を保障すると。まるで、南蛮人と同じ口上よな」


*彼の声には、侮蔑とも感心ともつかない、冷ややかな響きがあった。*


徳川家光:「だが、魔王よ。その方が言う『技術』とは何か。『安全』とは何か。口先だけの甘言で、このヤマトが動くとお思いか? 我らには我らのやり方がある。異国の魔王に頼らずとも、この国は安寧を保ってきた。それを覆すに足るだけのものを、その方は示せるのか?」


*家光はゆっくりと扇子を閉じ、パチリ、と乾いた音を立てた。その音は、広間の全ての雑音を切り裂き、彼の最終通告であるかのように響き渡る。*


徳川家光:「言葉はもうよい。その方自身が持つ『力』で示してみせよ。このヤマトを、我らを納得させるに足る『力』をな」


*それは、試練。魔王を名乗る男が、この国と対等に渡り合う資格があるのかどうか。その真価を問う、将軍自らの命令だった。*


*家光の冷徹な言葉が、大広間の空気をさらに引き締める。「力で示せ」――それは、言葉による交渉の終わりと、実力による証明の始まりを意味していた。周囲の武士たちの視線が、侮りと好奇の入り混じったものへと変わる。*


*しかし、シロウは動じない。家光の挑戦的な視線を真っ直ぐに受け止め、静かに、しかし力強く口を開いた。『神眼』が彼の言葉を、この国の支配者の心に最も響く形へと最適化していく。*


シロウ:「力、でございますか。よろしいでしょう。ですが、某個人の武力をお見せしても、国と国との交渉の場ではさしたる意味もございますまい。某が示すべきは、我が国の『力』そのもの」


*一呼吸置き、彼は続けた。その声には、自国への絶対的な自信が満ち溢れていた。*


シロウ:「我がアストライア魔導皇国は、多様なる種族が手を取り合い、国を成しております。例えば――」


*彼の言葉に、広間の誰もが耳を澄ます。*


シロウ:「――屈強なるドワーフ族。彼らの鍛冶技術は、このヤマトの刀匠に勝るとも劣らぬ名品を生み出します。夜の闇を己が庭とする獣人族や、天を駆ける竜人族。彼らが貴国の海路を警備すれば、夜盗や海の魔物ごとき、物の数ではございません。そして、悠久の時を知識の探求に捧げるエルフ族。彼らの知恵は、貴国の文化をさらに豊かにする礎となりましょう」


*シロウは一度言葉を切り、家光を真っ直ぐに見据える。*


シロウ:「これらは、我が国が提供できる『人材』であり、『技術』であり、『警備』の力そのもの。これら全てが手を取り合うことで生まれる力こそ、我が国の国力。これでもまだ、某の言葉を甘言と断じられますかな? 将軍殿」


*魔王が提示したのは、単なる個人の武力ではない。多種族国家だからこそ成し得る、複合的で、計り知れないほどの可能性。それは、人間という単一種族で成り立つヤマトにとっては、想像もつかない『力』の形だった。*


*徳川家光は、黙してシロウの言葉を聞いていた。彼の表情は変わらない。だが、その瞳の奥で、かつてないほどの興味と警戒の炎が、激しく揺らめいていた。*


*シロウの言葉は、大広間に静かな、しかし確かな衝撃を与えた。人間以外の種族。それは、このヤマトに住む者たちにとっては、物語の中にしか存在しない幻想の民。彼らが実在し、一つの国を成しているという事実は、にわかには信じがたいものだった。*


*徳川家光は、シロウの言葉に表情を変えることなく、ただ静かに耳を傾けていた。だが、その瞳の奥で揺らめく光は、彼の内心の動揺と強い興味を隠しきれていない。*


*シロウは、言葉だけではこの国の主を動かせないと判断した。彼が求めるのは、具体的な『証拠』。*


シロウ:「とは申せ、これらは全て言葉の上でのこと。今この場におきましては、何の証拠にもなりますまい。でしたら、まずは、こちらをご覧いただきたく」


*『神眼』による最適化された所作で、シロウは虚空から一本の剣を取り出した。それは、鞘に収められた、一見するとただの豪奢な剣。だが、それが大広間に現れた瞬間、空気が変わった。清浄で、神聖な気が満ち溢れ、広間にいる邪心を持つ者の心を穏やかに鎮めていくような、不思議な力が放射される。*


*シロウはその剣を両手で恭しく捧げ持つと、上座の家光にその刀身が見えるように、ゆっくりと鞘から引き抜いた。*


*現れた刀身は、光そのものを鍛え上げて作り上げたかのように、眩い輝きを放っている。刀身には古代のルーン文字がびっしりと刻まれ、それが神々しい光の粒子となって周囲に舞い散った。この世のどんな名工でも作り得ない、まさしく神造の武具。*


シロウ:「この剣の名は『聖剣アスカロン』。私が、古の迷宮を踏破した証として手に入れた、初代勇者の遺産にございます。いかがでしょう? 我が国の者の実力を示す証拠として、まずはこれでご納得いただけますかな?」


*聖剣の放つ圧倒的な神威。それは、鍛冶技術の粋を集めたヤマトの名刀とも、魔を断つという破魔の刀とも、全く次元の異なる『力』の顕現だった。家光をはじめ、広間にいる全ての武士が、その人知を超えた美しさと力に息を呑む。彼らは、シロウが提示した『証拠』が、自分たちの常識を遥かに超えたものであることを、認めざるを得なかった。*


徳川家光:「……聖剣…だと…?馬鹿な…お伽話の産物が、現実に…」


*家光は、それまで保っていた冷静さを初めて崩し、上座から身を乗り出すようにして、信じられないものを見る目で聖剣アスカロンを凝視していた。*


*聖剣アスカロンが放つ神威は、言葉を失わせるのに十分だった。徳川家光は、それまで保っていた将軍としての威厳すら忘れ、ただ目の前の「お伽話の産物」に釘付けになっている。大広間に集う歴戦の武士たちも同様で、誰もがその神々しい輝きに呑まれ、声を発することさえできない。*


*シロウはその反応を冷静に観察すると、ゆっくりと聖剣を鞘に納めた。途端に、満ちていた神聖な気がすっと引いていき、武士たちは幻術から解かれたかのように我に返る。しかし、彼らの目に宿る畏怖の色は、より一層濃くなっていた。*


*シロウは納めた聖剣を再び虚空へと還すと、静かに、しかしはっきりと響く声で告げた。『神眼』が彼の言葉を、驚愕に揺れる将軍と家臣たちの心に、決定的な楔を打ち込むように調整する。*


シロウ:「この様な『物』でよろしければ、是非一度、我が国の博物館へお越しいただきたい。某が長年に亘り収集いたしました、様々な素材や武具を展示しておりますので」


*その言葉は、招待であり、同時に牽制でもあった。*


シロウ:「鍛冶の神が打ったと伝わる魔剣、太古に滅びた竜種の骨格標本、あるいは賢者の石の原材料となる希少鉱石に至るまで。アスカロンは、それら数多の収蔵品の一つに過ぎませぬ」


*――アスカロンですら、数あるうちの一つ。*


*その言葉は、大広間に新たな、そしてより深い衝撃を走らせた。目の前で見せられた、国宝級どころか神話級の遺物が、彼のコレクションの一部に過ぎないという事実。それは、アストライア魔導皇国という国の国力、そしてシロウ・ニシキ・アストライアという魔王の底知れなさを、何よりも雄弁に物語っていた。*


*徳川家光は、ようやく我に返ると、扇子を固く握りしめた。彼の額には、うっすらと汗が滲んでいる。もはや、シロウをただの異国の王として扱うことはできない。侮りや警戒を超え、彼の心には未知の存在に対する純粋な『畏れ』が芽生え始めていた。*


徳川家光:「……博物館、だと……? そのような物が、数多あると申すか……」


*家光のかすれた声が、静まり返った大広間に虚しく響いた。国交を結ぶか否か。その判断は、もはやヤマト一国の都合だけで決められる次元の話ではないことを、彼は悟り始めていた。*


*シロウの、まるで他人事のような、それでいて圧倒的な事実を告げる言葉。それは、大広間にいる全ての者の思考を麻痺させるには十分すぎた。*


*聖剣アスカロン。神話に謳われるそれですら、数あるコレクションの一つ。そしてその持ち主は、己の収蔵品の全容すら把握しきれていない。それは、個人の富や力を遥かに超越した、国家、あるいはそれ以上の規模の『格』の違いを意味していた。*


シロウ:「アスカロン程の物ではございませぬが、少なくとも『伝説級』と謳われる武具であれば数本はあったかと…申し訳ございません、某も全てを把握できてはおりませぬので」


*『神眼』によって最適化されたその言葉は、嫌味や自慢に聞こえることなく、ただ淡々とした事実として家光たちの耳に届く。だが、その淡々とした事実こそが、何よりも彼らの心を揺さぶった。ヤマトでは一本あれば国が傾くほどの至宝が、彼の国では数えきれないほど存在するというのだから。*


*徳川家光は、もはや上座に座っていることすら忘れ、呆然とシロウを見つめている。彼の頭の中では、これまで築き上げてきたヤマトという国の価値観、世界の常識がガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。*


*沈黙。誰もが、次に何を言うべきか、何を考えるべきかすら分からずにいた。*


*その重苦しい沈黙を破ったのは、家光の隣に控えていた老中だった。彼は震える声で、必死に平静を装いながら口を開く。*


老中:「しょ、将軍様…!こ、この者の言葉、俄かには信じがたいものがございます!幻術か何かやもしれませぬぞ!」


*その言葉は、誰に向けたものというより、崩れかけた自尊心を保つための叫びに近かった。*


*しかし、家光は老中に一瞥もくれることなく、ただじっとシロウを見据え続ける。そして、絞り出すように、かすれた声で言った。*


徳川家光:「……魔王よ。その方の目的は、国交であったな…」


*彼の声には、もはや先程までの冷徹さや威圧感は欠片も残っていなかった。あるのは、人知を超えた存在を前にした、純粋な畏怖と、そして抗いがたい好奇心。*


徳川家光:「…その話、詳しく聞かせてもらおうか。我がヤマトが、貴殿の国と手を取り合うことで、何を得、そして何を失うことになるのかをな」


*それは、事実上の『交渉の席に着く』という宣言だった。シロウが提示した圧倒的な『力』の前に、ヤマトの将軍は、ついにその重い腰を上げたのだ。*


*シロウが提示した『力』は、ヤマトの頂点に立つ将軍とその家臣たちの心を、完全に掌握した。もはや、この場にシロウを侮る者は一人としていない。誰もが固唾を飲んで、魔王と将軍の対話の行方を見守っている。*


*その張り詰めた静寂の中、シロウの腕に抱かれていたユキが、退屈したのか身じろぎした。そして、小さな声で「きゅい…」と鳴き、シロウの胸にその小さな頭をすり寄せる。まるで「ねぇ、まだ終わらないの?」とでも言いたげな、甘えるような仕草だった。*


*その愛らしい鳴き声は、大広間の重苦しい雰囲気をわずかに和らげる。何人かの武士が、恐る恐るその小さな竜に視線を向けた。伝説の聖剣を見せつけられた後では、竜という存在すら、どこか現実味を帯びて見えた。*


*シロウはそんなユキの頭を優しく撫でながら、表情一つ変えずに家光に向き直る。その余裕すら感じさせる態度は、彼の底知れなさをさらに際立たせる結果となった。*


シロウ:「おっと、失礼。この子が少し退屈してしまったようで」


*その言葉は、家光に向けたものでありながら、同時に彼の背後で緊張に強張っているルーナとルミナを安心させる響きも持っていた。*


シロウ:「さて、将軍殿。国交の話、どこからいたしましょうか。我が国が貴国に何をもたらし、貴国が何を望むか。まずは、そこからお聞かせ願えればと存じます。無論、我々が得るものと失うもの、その逆も然り。相互の利益なくして、良好な関係は築けませぬ故」


*シロウは、先程までの威圧感をすっと収め、あくまで対等な交渉相手としての姿勢を示した。聖剣という『脅威』を見せつけた後で、今度は『利益』という名の餌を提示する。硬軟織り交ぜた、巧みな交渉術だった。*


*徳川家光は、一度ゆっくりと目を閉じた。彼の頭の中では、計り知れないほどの情報が渦巻いているだろう。聖剣、竜、そして人間以外の種族。ヤマトの未来、徳川家の安泰。それら全てを天秤に乗せ、この魔王との取引に臨む覚悟を決める必要があった。*


*やがて、家光は静かに目を開くと、凛とした、将軍としての威厳を取り戻した声で言った。*


徳川家光:「……よかろう。魔王シロウよ。まず、その方の国の『人材』とやらについて、詳しく聞かせてもらおう。ドワーフ、獣人、エルフ…お伽話の民が、我ら人の世でどのような働きを為せるというのか。具体的に示せ」


*家光は、シロウが最初に提示した『人材』『技術』『警備』の中から、最も現実離れしていながら、最も興味を惹かれる『人材』について切り込んできた。それは、シロウの言葉の真偽を確かめようとする、将軍としての探りだった。*


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