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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*シロウは自室で手早く旅の支度を整えた。と言っても、必要なものは全て異空間収納に入っているため、見た目を変えるだけだ。*

*鏡の前で、彼は慣れた手つきで自身の姿を変えていく。髪は少し伸ばして無造作に束ね、瞳の色を深い黒に変える。顔の輪郭も僅かに変え、以前カードゲーム大会で使った偽りの姿――『ギメイ』へと姿を変えた。*


ギメイ:「変装してっと。よし、完璧。」


*次に、声帯に軽く魔力を通し、声質を調整する。*


ギメイ:「変声魔法で…青年くらいにしておくか。」


*鏡に映る、魔王シロウとは似ても似つかぬ、どこにでもいそうな腕利きの冒険者といった風情の青年の姿に満足げに頷く。*


ギメイ:「こっちの冒険者登録してなかったし、まずは登録からだな。」


*行き先は和国ヤマト。鎖国国家である以上、正面から入国するのは難しいだろう。シロウはヤマトの地図を思い浮かべ、人の少なそうな沿岸部の街に当たりをつけた。*

*ごく短い詠唱と共に、足元に複雑な魔法陣が展開される。光がギメイの体を包み込み、次の瞬間、彼の姿は魔王城から完全に消え失せていた。*


---


**【和国ヤマト 港町『湊月みなつき』】**


*潮の香りと、聞き慣れない活気のある声。シロウ――ギメイが転移してきたのは、木造の建物が立ち並び、多くの人々が行き交う港町だった。道行く人々の服装は、キモノと呼ばれる独特の衣装で、腰には刀を差した者もちらほらと見受けられる。*


ギメイ(シロウ):「(これがヤマトか…噂通り、独特の雰囲気だな)」


*彼は周囲に溶け込むようにゆっくりと歩き出し、目的の場所を探す。やがて、質素ながらも『冒険者組合』と墨で書かれた木の看板を掲げた建物を見つけた。*


ギメイ(シロウ):「さて、と。お手並み拝見といこうか」


*ギメイは不敵な笑みを浮かべ、その建物の引き戸に手をかけた。*


*ギメイが引き戸を開けて中へ入ると、カラン、と軽やかな鈴の音が鳴った。*

*中は想像通り、大陸中央のギルドとは全く異なる空気が流れていた。腰に大小の刀を差した『侍』らしき者たちが厳しい顔つきで酒を酌み交わし、天井の梁や部屋の隅の影には、気配を殺した『忍者』と思しき者たちの存在が感じられる。ちらほらと見慣れた鎧姿の冒険者もいるが、どこか居心地が悪そうにしている。*


*全ての視線が、新しく入ってきた見慣れぬ男――ギメイに一瞬だけ集まり、そして興味を失ったように逸れていく。値踏みするような、排他的な視線だ。*


*ギメイはそんな視線を意にも介さず、まっすぐに受付カウンターへと向かった。*


ギメイ:「すまない、登録したいんだが、いいか?」


*カウンターの向こうには、淡い桜色の着物に身を包んだ、黒髪大和撫子といった風情の女性が座っていた。彼女はギメイの顔と、その腰に差された西洋風の剣をちらりと見比べると、丁寧ながらもどこか事務的な口調で応対する。*


受付嬢:「はい、承ります。新規のご登録ですね。ですが、お見受けしたところ、ヤマトの方ではなさそうですが…どのようなご事情で?」


*その言葉には、明確な警戒の色が滲んでいた。鎖国国家ヤマトにおいて、よそ者が冒険者になるというのは、あまり例のないことなのかもしれない。*


シロウ:「旅の途中でな。この際、登録しておこうと思って。」


*ギメイの言葉に、受付嬢は少しだけ眉をひそめた。旅の途中、という理由だけで、この排他的なヤマトで冒険者になろうとする者は珍しい。彼女は値踏みするようにギメイの全身を改めて見ると、やや突き放すような口調で言った。*


受付嬢:「旅の途中、ですか。物好きな方もいらっしゃいますね。ヤマトの冒険者は、大陸のそれとは少々勝手が違いますが…それでもよろしいので? 場合によっては、『浪人』として扱われ、余計な揉め事に巻き込まれるやもしれませんよ」


*彼女の言葉は脅しというよりは、事実に基づいた忠告のようだった。ヤマトにおける冒険者とは、国に属さない実力者、すなわち『浪人』や『抜け忍』のような、少々厄介な存在として見なされる側面があるらしい。*


*彼女はため息を一つついてから、カウンターの下から一枚の木の板と、墨、そして筆を取り出した。*


受付嬢:「それでも構わないと仰るのであれば、登録は可能です。こちらに御名前を。偽名でも構いませんが、一度登録した名は変更できませんのでご注意を。それと、登録料として銀貨一枚を頂戴します」


*彼女はそう言って、木の板――登録証になるのだろう――をギメイの前に置いた。周囲の侍たちが、面白がるような、あるいは侮るような視線をこちらに向けているのが肌で感じられた。*


*ギメイは受付嬢に言われるがまま、慣れない筆を使って木の板にさらさらと『ギメイ』と名前を書き記した。その達筆ぶりに、受付嬢がわずかに目を見開く。*

*そして、彼は銀貨一枚をカウンターの上に静かに置いた。*


ギメイ:「ろうにん?よく分からんが、多分大丈夫だ」


*ギメイが平然と言い放つと、受付嬢は呆れたように小さなため息をついた。*


受付嬢:「……そうですか。後悔なさいませんように。では、ギルドカードをお作りしますので、そちらの水晶に手をかざしてください。魔力と身体能力を測定し、初期ランクを決定します」


*彼女が指し示したのは、カウンターの端に置かれた、よくあるタイプの魔力測定用の水晶玉だった。しかし、その台座にはヤマト独自の呪印のようなものが刻まれている。*

*ギメイは言われた通りに水晶玉の上に手をかざした。もちろん、魔王としての力は完全に隠蔽し、ごく一般的な熟練冒険者レベルの魔力だけを流し込む。*


*水晶は淡い光を放ち、すぐに光は収まった。*


受付嬢:「…はい、結構です。実力は確かなようですね。これだけの数値があれば、ヤマトでも十分にやっていけるでしょう。初期ランクは『げん』となります」


*彼女は手元の紙に何かを書き込みながら説明する。ヤマトのランク制度は、大陸のアルファベット表記とは異なるようだ。*


受付嬢:「ランクは下から『はく』、『げん』、『しゅ』、『そう』、そして最高位の『こん』となります。貴方は下から二番目からのスタートですね。依頼はそちらの掲示板からご自由に。ただし、自分のランクより上の依頼を受けることはできませんのでご注意を」


*彼女はそう言うと、先程ギメイが名前を書いた木の板に何やら紋様を焼き付け、それを彼に差し出した。これがヤマトの冒険者証らしい。*


受付嬢:「では、ギメイ殿。ヤマトでのご活躍を。…あまり、目立たないことをお勧めしますが」


*最後の言葉は、彼女なりの親切心なのかもしれなかった。*


ギメイ:「目立たない?まあいいか。」


*ギメイは受付嬢の最後の忠告を気にも留めず、肩をすくめた。面倒事はごめんだが、かといってコソコソと過ごすつもりもない。彼は受け取った『玄』の冒険者証を懐にしまうと、さっそく壁にかけられた依頼掲示板へと向かった。*


*掲示板は大陸のものとは異なり、大きな一枚板でできていた。依頼は羊皮紙ではなく、短冊状の木札に墨で書かれ、釘に引っ掛けられている。*


*ギメイは興味深くその木札を眺めていく。*


---

**【依頼一覧】**


**▼ランク:白**

* **依頼内容:** 薬草『月見草』の採集

* **場所:** 湊月近郊の森

* **報酬:** 銅貨五枚


* **依頼内容:** 街の水路掃除

* **場所:** 湊月・東地区

* **報酬:** 銅貨三枚


---

**▼ランク:玄(ギメイが受注可能)**

* **依頼内容:** 荷運びの護衛

* **詳細:** 湊月から隣町『葉隠』までの荷馬車の護衛。道中、『野盗』の目撃情報あり。

* **報酬:** 銀貨三枚


* **依頼内容:** 『河童かっぱ』の討伐

* **詳細:** 近隣の川辺に出没し、農作物や家畜に被害を与えている河童の討伐。頭の皿を持ち帰ることが討伐の証。

* **報酬:** 銀貨五枚


* **依頼内容:** 行方不明者の捜索

* **詳細:** 三日前に山へ山菜採りに入ったまま戻らない村人の捜索。

* **報酬:** 銀貨二枚~(発見時の状況による)


---

**▼ランク:朱**

* **依頼内容:** 妖刀『村雨』の調査

* **詳細:** 所有者を狂わせると噂の妖刀の所在調査。詳細は組合にて。

* **報酬:** 金貨一枚~


---


ギメイ(シロウ):「(河童、か。面白い。どんなモンスターなんだろうな)」


*見慣れない単語に、ギメイの口元が自然と緩む。彼は早速、面白そうな依頼を見つけたようだ。*

*彼は『河童の討伐』と書かれた木札に手を伸ばした。*


*ギメイが『河童の討伐』と書かれた木札を持って受付カウンターに戻ると、先ほどの受付嬢は少し驚いたような顔をした。*


受付嬢:「あら、もう依頼をお決めになったのですか。……河童討伐、ですか。承知いたしました」


*彼女は少し意外そうな表情を浮かべながらも、手際よく手続きを進める。*


ギメイ:「こいつを受けたい。ってか、受け方はこれであってるのか?」


*ギメイが木札をひらひらさせながら尋ねると、受付嬢はこくりと頷いた。*


受付嬢:「はい、間違いございません。依頼札を受付に提出いただくことで受注となります。討伐対象や場所など、詳細はこちらの紙にまとめておきましたのでお持ちください」


*彼女はそう言って、川の地図や河童の目撃情報、特徴などが記された和紙を一枚、ギメイに手渡した。*


受付嬢:「討伐の証は『頭の皿』です。あれがないと報酬はお支払いできませんので、お忘れなく。……それと、河童は見た目に反して力が強く、水中での戦いは非常に不利になります。くれぐれも油断なさらぬよう」


*その口調は相変わらず事務的だったが、その中にわずかながら冒険者への気遣いが感じられた。*


*ギメイは受付嬢から受け取った和紙を片手に、冒険者組合を後にした。*

*外に出ると、先ほどよりも活気が増しているように感じる。魚を売りさばく威勢のいい声、子供たちのはしゃぎ声、そして時折響く鍛冶場らしき場所からの槌の音。建物はほとんどが木造で、瓦屋根が連なっている。道行く人々は皆、着物という独特の衣装を身につけ、ちょんまげを結った男や、美しいかんざしで髪を結い上げた女性が歩いている。*


ギメイ(シロウ):「(あっちでいうゴブリンに似たようなものかな?)」


*ギメイは歩きながら独り言を呟き、改めて周囲の街並みを観察する。その光景は、彼が前世で知る歴史――日本の江戸時代と呼ばれる時代のそれに酷似していた。*


ギメイ(シロウ):「(江戸に近い…か? だとすれば、河童というのも伝承通りの姿をしているのかもしれないな)」


*知的好奇心を刺激されながら、彼は受付嬢にもらった地図を頼りに、街の外れへと続く門を目指して歩き始めた。道中、腰に刀を差した侍とすれ違うたびに、鋭い視線を向けられるが、ギメイは意に介さず、悠然と歩を進めていく。この国では、よそ者であること自体が一種の『異物』として認識されるらしい。*


*ギメイは街の門をくぐり、のどかな田園風景が広がる平原に出た。*

*見渡す限り、青々とした稲が風にそよぐ田んぼ、様々な作物が植えられた畑、そしてそれらを潤すかのように、ゆったりと流れる大きな川が続いている。まさに、前世で見た日本の原風景そのものだった。*


*地図によれば、河童の目撃情報が多いのは、この川の中流域だ。ギメイは川沿いのあぜ道をのんびりと歩きながら、目的の場所へと向かう。*


*しばらく歩くと、川岸で何やらごそごそと動く、小さな人影のようなものを見つけた。*


ギメイ(シロウ):「(あれか…?)」


*彼は気配を殺して、近くの草むらに身を隠し、様子をうかがう。*

*そこにいたのは、緑色の肌をした、子供くらいの背丈の生物だった。背中には亀のような甲羅を背負い、手足には水かきがついている。そして何より特徴的なのは、その頭頂部。髪の毛が無く、まるで皿のように窪んでおり、そこに水が満たされている。*


*その生物――河童は、きょろきょろと辺りを見回すと、近くの畑に忍び込み、うまそうに実った胡瓜を一本引っこ抜いて、おいしそうに齧り始めた。*


ギメイ(シロウ):「ガチもんの河童やんけ…すげぇ…」


*思わず感嘆の声が漏れる。ゴブリンのようなありふれたモンスターとは違う、この世界独自の、しかもヤマトという国ならではの魔物に、ギメイの冒険者としての好奇心が強く刺激された。*

*彼はにやりと笑うと、背中の剣の柄にそっと手をかけた。*


*ギメイは草むらから音もなく立ち上がると、背中の剣を静かに引き抜いた。胡瓜を夢中で貪っている河童は、まだ彼の存在に気づいていない。*


ギメイ(シロウ):「(さて、お手並み拝見といこうか)」


*彼は剣の腹、その平らな部分を指でそっと撫でた。脳内で魔術式を構築し、微量の魔力を流し込む。すると、刀身がバチッ、と微かな音を立てて淡い紫電をまとった。*


**スキル:【属性付与(雷)】**


*次の瞬間、ギメイの姿がその場からかき消える。*


*ガリッ、ボリッ、と胡瓜をかじる音を立てていた河童の動きが、不意に止まった。その首筋に、一筋の赤い線が走る。*

*遅れて、ドシャッという鈍い音。*


*河童の頭部が、胴体から滑り落ち、地面を転がった。その断面は、雷の超高熱によって一瞬で焼き切られており、血の一滴すら流れていない。*

*頭を失った胴体は、数秒間立ったままでいたが、やがてくずおれるようにその場に倒れ込んだ。*


ギメイ(シロウ):「……ふむ。手応えはなし、か。まあ、こんなものか」


*ギメイは刀身にまとわせた雷を霧散させ、鞘に剣を納める。そして、地面に転がった河童の頭部を拾い上げた。*


ギメイ(シロウ):「これが討伐の証、『頭の皿』…ね。確かに、皿だ」


*彼はまじまじと頭頂部の窪みを眺め、感心したように頷くと、それを証拠品として懐のアイテムポーチに無造作に放り込んだ。依頼はこれで完了だ。あまりにもあっけない幕切れだった。*


*一匹を瞬殺したギメイだったが、その物音に気づいたのか、川岸の茂みから新たに数匹の河童が飛び出し、慌てて川の中へと逃げ込んでいくのが見えた。*


ギメイ(シロウ):「やっぱり、そんなに強くないな」


*彼はそう呟くと、逃げていく河童たちを追うでもなく、ゆっくりと川岸に近づいた。そして、ざぶざぶと水が流れる川の中に、無造作に片手を浸す。*


ギメイ(シロウ):「(面倒だ。まとめて終わらせるか)」


*彼は再び脳内で魔術式を構築。今度は範囲と威力を調整した雷撃魔法を発動した。*


*バチチチチッ!*


*ギメイの手を中心に、川の水面が激しく泡立ち、紫電が広範囲にわたってほとばしる。水中に逃げ込んでいた河童たちは、一瞬にして全身を駆け巡る電流に身を硬直させ、白目を剥いて次々と水面に浮かび上がってきた。感電による仮死状態だ。*


*ギメイは川から手を抜くと、ぷかぷかと浮かぶ河童たちの中から、まだ息のあるものを【鑑定】で見分ける。そして、まだ生きている個体だけを水の魔術で手元に引き寄せると、先ほどと同じように、一匹ずつ丁寧に首を刎ねていった。*


ギメイ(シロウ):「これで全部か。依頼は一体の討伐だが、こいつらも放置すればまた被害を出すだろうしな」


*彼は討伐の証として、全ての河童から頭の皿を回収すると、残りの亡骸は浄化魔法で塵へと返し、川を汚さないように後始末をした。*

*あっという間に終わってしまった依頼に、ギメイは少し物足りなさを感じながら、再び組合への帰路につくのだった。*


*ギメイは討伐を終え、再び冒険者組合へと戻ってきた。中に入ると、相変わらずの張り詰めた空気と、侍たちの詮索するような視線が向けられる。それを無視して、彼はまっすぐ受付カウンターへ向かった。*


*ドン、と無造作に置かれたのは、血抜きもされていない生々しい河童の頭が入った、ただの麻袋だった。中から滴った水が、カウンターの木材にじわりと染みを作る。*


ギメイ(シロウ):「終わったぞ、処理してくれ。」


*その無遠慮な態度と、あまりにも早い帰還に、受付嬢は一瞬目を丸くした。周囲の侍や冒険者たちからも、「もう終わったのか?」「手際がいいな…」といった囁き声が聞こえてくる。*


*受付嬢はすぐに気を取り直すと、麻袋の中をちらりと覗き込み、眉をひそめながらも冷静に言った。*


受付嬢:「……は、はい。確認いたします。討伐の証は『頭の皿』……確かに。ですが、これは…一つではないようですが?」


*袋の中には、明らかに複数枚の皿が入っている。依頼は一体の討伐のはずだった。彼女は訝しげな表情でギメイを見上げた。*


ギメイ(シロウ):「近くにいたからついでに狩ってきた」


*ギメイは何でもないことのように、あっさりとそう言い放った。その言葉と態度に、受付嬢は一瞬、言葉を失う。*

*「ついでに狩る」というには、数が多すぎる。しかも、依頼を受けてから戻ってくるまでの時間が異常に早い。*


*周囲で聞き耳を立てていた侍や冒険者たちが、ざわつき始める。*

*「おい、ついでだってよ…」*

*「あの川の河童を一人で全部か…? 冗談だろ…」*

*「あいつ、ただのよそ者じゃねえぞ…」*


*受付嬢は、ギメイという男を改めて見直した。最初に登録に来た時の印象――「物好きな旅人」から、「底の知れない実力者」へと完全に変わっていた。*


受付嬢:「……は、はぁ。承知いたしました。ですが、依頼は一体の討伐ですので、追加の報酬はお支払いできませんが、よろしいですね?」


*彼女は努めて冷静に、事務的な口調を保とうとしながら確認する。*


ギメイ:(シロウ)「ああ、構わん。そいつらは処分してくれ。川が汚れるのは好かん」


*彼はそう言うと、受付嬢が差し出す報酬の銀貨五枚を無造作に受け取った。その態度は、まるで道端の石ころでも拾ったかのように無頓着だった。*


受付嬢:「……承知いたしました。ギメイ殿。見事な腕前でございます」


*彼女は深々と頭を下げた。それはもはや、ただの受付嬢の対応ではなく、一個の実力者に対する敬意の表れだった。ギメイは、意図せずして、このヤマトの冒険者組合で早くも「目立って」しまっていた。*


*ギメイは依頼の報酬を受け取ると、特に他の依頼に興味を示すでもなく、そのまま組合を後にした。日はすでに西の山に傾き始め、湊月の街は家路につく人々や、これから開店するであろう飲み屋の準備をする者たちで、昼間とはまた違った賑わいを見せ始めている。*


ギメイ(シロウ):「今日は帰るか…」


*ぽつりと呟く。今日のところは、このヤマトという国の雰囲気と、その一端に触れられただけで十分な収穫だった。長居して面倒事に巻き込まれる前に、一度拠点に戻るのが賢明だろう。*


*彼は人通りの少ない路地裏へと入り、周囲に誰もいないことを確認する。そして、懐から一枚の特殊な魔石を取り出した。これは、彼が予め魔王城に設置しておいた転移マーカーと対になる、帰還用の魔道具だ。*


ギメイ(シロウ):「(さて、明日は何をしようか。もう少しこの国を探索してみるのも悪くない)」


*そんなことを考えながら、彼はごくわずかな魔力を魔石に注ぎ込む。彼の体を淡い光が包み込み、次の瞬間、その姿は湊月の路地裏から跡形もなく消え去っていた。*


---


**【夜天のアストライア魔導皇国・魔王城・シロウの執務室】**


*ふわりと、シロウの姿が元の執務室に現れる。ギメイとしての変装を解き、いつもの魔王の姿に戻ると、彼は大きく伸びをした。*


シロウ:「ふぅ…。たまにはああいうのも悪くないな」


*窓の外は、こちらでも夕暮れ時を迎えている。妻たちは夕食の準備をしている頃だろうか。それとも、子供たちの世話をしているだろうか。*

*シロウは穏やかな気持ちで、自室を出て家族のいるであろうリビングへと向かうのだった。*


シロウ:「明日はどうなるかな…」


*夜天のアストライア魔導皇国での穏やかな夜が明け、シロウはいつも通り家族を送り出した。カイとルーナは修学旅行で不在だが、レイラは政務に、ルミナはステラの世話と研究に、リーシアは城の采配に、それぞれが自分の役割を精力的にこなしている。そして、シロウにはまた、静かで…退屈な時間が訪れた。*


*彼は誰に言うでもなく執務室を出ると、人目につかない一室で再び『ギメイ』の姿へと変装を施す。*

*昨日と同じ、使い古した外套と普通の鋼の剣、そして狼の形をした目元仮面。声も青年風に変え、準備は完璧だ。*


*ギメイは懐から帰還用の魔石を取り出し、座標をヤマトの湊月、昨日使った路地裏に設定する。微かな光と共に、彼の姿は魔王城から消え去った。*


---


**【和国ヤマト 港町『湊月』・路地裏】**


*昨日と変わらぬ潮の香りと、ヤマト特有の活気がギメイを迎える。転移は成功したようだ。*

*彼は路地裏から大通りへと出ると、さて今日は何をしようか、と思案を巡らせた。昨日の一件で、組合では少し顔が割れてしまったかもしれない。あまり派手な依頼は避けたいところだ。*


ギメイ(シロウ):「(組合に行くか、それともこの街をぶらついてみるか…)」


*とりあえず、まずは情報収集かと、彼は多くの人々が行き交う市場の方へと足を向けた。様々な露店が並び、威勢のいい声が飛び交っている。魚、野菜、見慣れない道具を売る店…。その光景は、ただ見ているだけでも飽きなかった。*


*市場を軽く一回りした後、結局ギメイは昨日と同じ冒険者組合へと足を向けた。他にめぼしい情報源もなく、手っ取り早くこの国の「仕事」を知るには、ここが一番だと判断したからだ。*


*カラン、と昨日と同じ鈴の音を鳴らして中に入る。*

*すると、昨日よりも明らかに多くの視線がギメイに突き刺さった。昨日、彼が河童の群れを一人で、しかも短時間で殲滅したという噂は、この狭い組合の中ではすでに広まっているらしかった。値踏みするような視線に、わずかな警戒と興味が混じっている。*


*ギメイはそんな視線を意にも介さず、受付へと向かう。カウンターには昨日と同じ受付嬢がいた。彼女はギメイに気づくと、軽く会釈をする。昨日とは違い、その対応によそ者への警戒心は薄れていた。*


受付嬢:「ギメイ殿。本日もご足労様です。何かご用件でしょうか?」


*ギメイは軽く頷きを返すと、彼女の横にある依頼掲示板を指さした。*


ギメイ:「ああ。今日も何か面白そうな仕事はないかと思ってな」


*そう言って、彼は昨日と同じように依頼が書かれた木札を眺め始めた。*


---

**【依頼一覧】**


**▼ランク:玄**

* **依頼内容:** 荷運びの護衛

* **詳細:** 湊月から隣町『葉隠』までの荷馬車の護衛。道中、『野盗』の目撃情報あり。

* **報酬:** 銀貨三枚


* **依頼内容:** 廃寺の『付喪神つくもがみ』調査

* **詳細:** 街外れの廃寺にて、夜な夜な器物が動き出すという噂の調査。原因の特定と、可能であれば鎮静化を望む。

* **報酬:** 銀貨六枚


* **依頼内容:** 『天狗てんぐ』への献上品配達

* **詳細:** 山に住まう天狗へ、街からの献上品(酒や米)を届ける。道中は険しく、獣も多い。

* **報酬:** 銀貨四枚


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**▼ランク:朱**

* **依頼内容:** 『鬼』の討伐

* **詳細:** 隣国との境にある『鬼ヶ島』に棲む鬼の討伐。腕に覚えのある者、求む。パーティ推奨。

* **報酬:** 金貨五枚~


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ギメイ(シロウ):「(付喪神に天狗、鬼か…。どれもこれも、興味深いな)」


*大陸では決して見ることのない、ヤマト独自の依頼内容に、ギメイの口元が再び緩んだ。退屈しのぎの旅先としては、この上ない場所だった。*


*面白そうな依頼の数々に目移りしながらも、ギメイは一つの依頼に心を決めた。*


ギメイ(シロウ):「(天狗、か。どんな奴らなのか、この目で見てみるのも一興だな)」


*彼は『天狗への献上品配達』と書かれた木札に手を伸ばし、それをひょいと抜き取ると、再び受付カウンターへと向かった。*

*昨日と同じように、無言で木札をカウンターの上に置く。その行動が、依頼受注の意思表示であることを、受付嬢はすでに理解していた。*


*彼女は木札を一瞥すると、昨日よりも幾分か柔らかな表情で、しかし仕事はきっちりとこなす口調で言った。*


受付嬢:「天狗への献上品配達…ですね。承知いたしました。昨日の今日で、また厄介な依頼を選ばれますね、ギメイ殿は」


*彼女は少し呆れたように、しかしどこか面白がるような響きも込めて言った。このよそ者の実力は昨日で把握済みだ。普通の冒険者なら尻込みするような依頼を平然と受ける彼に、興味が湧いているのかもしれない。*


受付嬢:「献上品はこちらになります。割れ物も含まれておりますので、お気をつけて。それと、こちらが天狗の住まう山への地図です。道中は険しいですが…貴方なら、問題ないでしょう」


*彼女はカウンターの下から、丁寧に風呂敷で包まれた木箱と、巻物にされた地図を差し出した。その対応は、昨日よりも明らかに信頼が込められていた。*


*ギメイは受付嬢から風呂敷包みと地図を受け取ると、さっそくその巻物状の地図を広げた。*

*そこに描かれていたのは、手書きの、しかも全てが墨の濃淡だけで表現された非常に味のある…しかし、よそ者にとっては非常に分かりづらい地図だった。山の稜線、川の流れ、目印となるであろう大岩や特徴的な木などが、独特の筆致で描かれている。*


ギメイ:「なんで全部墨なんだ…読みにくい…」


*思わず愚痴がこぼれる。大陸で使われる、色分けされ縮尺も正確な地図に慣れていると、この芸術的ともいえる地図は解読が困難だ。*

*しかし、シロウにはその必要もなかった。*


ギメイ(シロウ):「(神眼)」


*彼は心の中で静かに唱える。その瞳に神の力が宿り、一瞬だけ不可視の光を放った。*

*墨で描かれただけの地図の情報が、瞬時に彼の脳内へと流れ込む。地形の起伏、距離、方角、目印となる特徴物が、寸分の狂いもない三次元の立体地図として完璧に再構築されていく。*


ギメイ(シロウ):「(…なるほど。最短ルートはこっちか)」


*脳内マップで目的地までの最適解を導き出すと、彼は何事もなかったかのように地図を巻き、懐にしまった。*


受付嬢:「もし道に迷われましたら、太陽の位置と川の流れを参考に…。って、もう覚えられたのですか?」


*感心したような、呆れたような声を上げる受付嬢に、ギメイは肩をすくめてみせる。*


ギメイ(シロウ):「ああ、大体はな。じゃあ、行ってくる」


*彼はそう言うと、献上品である風呂敷包みを片手に、今度こそ本当に迷うことなく、天狗が住まうという山を目指して組合を後にした。*


*湊月の街を出て、天狗が住むという山への道を進みながら、ギメイは片手で持っていた献上品を眺めた。*


ギメイ(シロウ):「献上品は異空間収納に入れとくか…」


*木箱はそれなりに重さがあり、中身が割れ物となれば、このまま険しい山道を進むのは非効率的だ。万が一、道中で獣に襲われたり足を滑らせたりして壊してしまえば、依頼失敗にもなりかねない。*


*彼は周囲に人がいないことを確認すると、風呂敷包みに軽く触れる。*

*次の瞬間、手の中にあったはずの献上品は、何の前触れもなく、まるで最初からそこになかったかのように忽然と姿を消した。シロウの広大な異空間収納へと安全に保管されたのだ。*


ギメイ(シロウ):「よし、これで身軽になった。さて…」


*彼は改めて、脳内に構築した立体地図を確認する。目的地は、この先に見える、ひときわ高く険しい山の頂上付近にあるようだ。*


ギメイ(シロウ):「天狗ねぇ…」


*未知の存在との遭遇に期待を膨らませながら、ギメイは常人では考えられないほどの速さで、険しい山道をまるで平地のように駆け上がり始めた。*


*ギメイは険しい山道を、まるで平地を散歩するかのように軽々と登っていく。息一つ切らさず、時折鼻歌まで聞こえてきそうだ。その秘密は、足元にかかる微弱な魔力にあった。*


ギメイ(シロウ):「険しい山道の楽な登り方? 簡単さ」


*彼は独り言を呟きながら、自身の体にかかる重力を魔法で精密に操作していた。*


ギメイ(シロウ):「重力魔法で解決! これで子どもでも平坦な道を歩くような感覚で登れます! なんてな」


*まるでテレビショッピングの宣伝文句のような軽口を叩く。魔王たる彼にとって、この程度の山登りはウォーミングアップにもならない。むしろ、ピクニック気分で楽しんでいた。*


*脳内に構築された地図と【神眼】による索敵を併用し、獣や魔物の気配を事前に察知しては巧みに回避する。依頼はあくまで「献上品を届ける」ことであり、無用な戦闘は避けるのがスマートだ。*


*そうして山を登ること、およそ一時間。*

*森林限界が近づき、木々の背が低くなってきた辺りで、彼はふと足を止めた。*


*道の先、古びた鳥居が立つその奥に、古めかしいやしろが見える。そして、その社の屋根の上に、何者かが座っているのが見えた。*


*赤い顔、長い鼻、山伏のような装束を身にまとい、手には大きな羽の団扇を持っている。*

*その姿は、まさしくシロウが前世の知識で知る、『天狗』そのものだった。*


*屋根の上の天狗は、こちらをじっと見下ろしている。その視線は鋭く、侵入者を試すような威圧感を放っていた。*


*険しい山道をものともせず登り切ったギメイの目に、古びた社の屋根に座る異形の存在が映る。赤い顔、長い鼻、山伏の装束。それはまさしく、彼の知識にある『天狗』そのものだった。*


ギメイ(シロウ):「わーお、ガチもんの天狗だ…( ゜д゜)す、すげぇ…」


*思わず素の驚きが口から漏れる。威圧感を放ち、侵入者を試すように見下ろしてくる天狗に対し、ギメイは畏怖するどころか、珍しいものを見つけた子供のように目を輝かせていた。*

*彼はハッと我に返ると、本来の目的を思い出す。*


ギメイ(シロウ):「あ、これ献上品です。」


*そう言うと、彼は何もない空間に手を差し入れ、先ほど異空間収納にしまったばかりの風呂敷包みをすっと取り出して見せた。その常識外れの現象に、屋根の上の天狗の眉がピクリと動く。*


*屋根の上の天狗は、ギメイの奇妙な術と、その不遜とも言える態度をじっと観察していたが、やがて重々しい声で口を開いた。その声は、風の音と共に周囲の木々を震わせるようだ。*


天狗:「……ほう。面白い術を使う人間よ。その荷が、里の者からの献上品で間違いないか?」


*天狗はギメイを値踏みするように見下ろしながら、手にした羽団扇はうちわでゆっくりと自身をあおいだ。*


ギメイ:「ギルド…じゃなくて組合か…」


*ギメイは一瞬、大陸での言い方が口をついて出そうになり、慌ててヤマトでの呼び方に訂正する。*


ギメイ:「そこからの依頼で来ました。」


*彼はそう言って、懐から昨日受け取った『玄』ランクの冒険者証を取り出して、天狗に見えるように軽く掲げた。*


*屋根の上の天狗は、ギメイの言葉と冒険者証を一瞥すると、ふん、と長い鼻を鳴らした。その尊大な態度は、人間を下に見ていることの現れだろうか。*


天狗:「組合の使いか。ご苦労なことだ。して、その程度の魔力で、よくぞここまで辿り着けたものよ。道中の獣はどうした? 運良く出会わなかったか?」


*天狗は侮るような、しかし同時に純粋な疑問として尋ねてきた。ギメイが隠蔽している魔力は、熟練の冒険者程度。天狗のような上位存在から見れば、赤子も同然の力にしか見えていないはずだ。その力で、この険しい山を無傷で登ってきたことが、彼には不可解に思えたのだろう。*


ギメイ:「運はいい方なので。」


*ギメイは飄々とした態度でそう答え、肩をすくめてみせた。自分の本当の実力を隠すには、「運が良かった」というのは便利な言い訳だ。*


*その答えを聞いた天狗は、長い鼻をふんと鳴らし、疑わしげな目をギメイに向ける。*


天狗:「運、だと? この山をただの運で登りきれると思うてか。小僧、我を愚弄するか?」


*天狗の声には明らかな不快感が含まれ、威圧感が増す。屋根の上から放たれる霊力が、周囲の空気をピリピリと震わせた。*


天狗:「まあよい。どちらにせよ、献上品を持ってきたことには違いあるまい。そこの社の前に置いていけ。確認が済めば、それで貴様の仕事は終わりだ」


*天狗は羽団扇で社の前の小さな賽銭箱のような箱を指し示した。どうやら、手渡しするわけではないらしい。彼はギメイの「異空間収納」の術も、その「運」とやらも、これ以上追及する気はないようだったが、その態度は依然として人間を見下す尊大なものだった。*


ギメイ:「へーい。」


*ギメイは気の抜けた返事をすると、社の前まで歩み寄り、天狗が示した賽銭箱の上に、持っていた風呂敷包みを丁寧に置いた。*


ギメイ(シロウ):「(ついでにお参りしとくか。)」


*任務はこれで完了だが、せっかく神聖な雰囲気の社に来たのだ。ギメイは自然と手を合わせたくなった。彼は賽銭箱の前に立ち、この世界に来る前の知識を思い出す。確か、古い参拝作法があったはずだ。*

*ギメイは軽く三度頭を下げ、柏手を三度打ち、最後に再び軽く一礼した。異世界ヤマトの社の作法など知る由もないが、彼の心からの敬意がこもった所作だった。*


*その一連の流れるような、そして古式に則った所作を、屋根の上の天狗は黙って見つめていた。彼の表情は相変わらず読めないが、その赤い瞳がわずかに見開かれたように見えた。*


天狗:「……ほう。貴様、ヤマトの者ではないと聞いたが、随分と古風な拝礼を知っているのだな」


*先ほどまでの侮るような響きがいくらか薄れ、純粋な興味を含んだ声で天狗が問いかける。明らかに、ギメイに対する評価が少し変わったようだった。*


天狗:「その拝礼は、もはや人の子らの間では廃れて久しいものだぞ。どこで覚えた?」


ギメイ:「故郷で。」


*彼は懐かしむような、それでいてどこか寂しげな響きを声に乗せる。そして、少しだけ挑発的な笑みを浮かべた。*


ギメイ:「戦後から二礼二拍手一礼に変わったんですけど、そのやり方は嫌いなので。」


*その言葉は、天狗にとっては意味不明なものだろう。そもそも「戦後」がどの戦を指すのか、何が変わったのか、知る由もないはずだ。ギメイは敢えて、自身の出自に関わる謎めいた情報を小出しにする。*


*案の定、天狗は怪訝な顔で眉をひそめた。*


天狗:「せんご…? 変わった…? 人の子の戯言はよく分からぬな。だが、貴様の故郷とやらは、古きを重んじる気風があるようだ。……ふむ」


*天狗は顎に手を当て、何かを思案するように目を細める。先ほどまでの尊大な態度は鳴りを潜め、ギメイという存在そのものへの興味が勝っているように見える。*


天狗:「気に入った。小僧、名はなんという」


*屋根の上から、試すような視線がまっすぐにギメイを射抜く。ただの使い走りの冒険者に対する態度ではなく、一個の存在として認め、対話しようという意思がその問いには含まれていた。*


ギメイ(シロウ):「ギメイと言います。天狗様のお名前は?」


*ギメイが名を名乗り、逆に問い返したことで、天狗はわずかに驚いたように目を見開いたが、すぐに面白そうに口の端を吊り上げた。人間ごときから名を問われるなど、久しくなかったことなのだろう。*


天狗:「ギメイ、か。……我に名を問うか、面白い小僧よ。我は、この山を治める『鞍馬くらま』という。以後、我の前ではその名を名乗ることを許そう」


*鞍馬と名乗った天狗は、尊大な態度を崩さずも、ギメイという存在を明確に認めた口調で言った。それは、単なる使い走りの人間ではなく、対話に値する相手としての許可だった。*


鞍馬:「して、ギメイよ。貴様のその古風な拝礼、そして『せんご』とやら……。貴様の言う故郷とは、一体いかなる場所なのだ? 我の知る限り、このヤマト、いや、この世界のどこにも、そのような話をする土地はないはずだが」


*鞍馬は興味津々といった様子で、身を乗り出すようにしてギメイに問いかける。彼の長い年月の中でも、ギメイのような不可解な存在は初めてだったのかもしれない。その赤い瞳が、真実を見透かそうとするかのように鋭く光った。*


*鞍馬からの鋭い問いかけに対し、ギメイは悪戯っぽく笑みを浮かべて人差し指を口の前に立てた。*


ギメイ(シロウ):「あー、それは秘密なので。」


*彼はあっさりと、しかしきっぱりと鞍馬の探究心をはねのける。その態度は、まるで子供が大人の追及をかわすかのようだ。だが、その瞳の奥には、計り知れない深淵が広がっている。*

*秘密と言われたことで、鞍馬の好奇心は削がれるどころか、むしろ燃え上がったようだった。彼は面白くて仕方がないというように、長い鼻をふんと鳴らし、豪快に笑った。*


鞍馬:「くっくっく……秘密、か! 面白い、面白いぞ、ギメイ! 小僧のくせに、我を焦らすとはな!」


*彼は屋根の上で立ち上がると、その大きな翼を一度、ばさりと広げた。巻き起こった風がギメイの外套を激しく揺らす。*


鞍馬:「よかろう。貴様の秘密、いつか我に見せてみたくなったわ。……礼だ。献上品を運んだ手間賃とは別に、我個人からの礼を取らせよう」


*鞍馬はそう言うと、懐から何かを取り出し、ギメイに向かってひらりと投げた。それは一枚の黒い羽根だった。漆黒でありながら、光の加減で虹色に輝く、美しい羽根だ。それは風に乗って、ゆっくりとギメイの足元に舞い落ちる。*


鞍馬:「その羽根を持っていれば、この山の獣は貴様を襲うことはあるまい。そして、次に我に会いたくなった時、それを持ってこの社を訪れるがよい。我は貴様を客として迎えよう」


ギメイ(シロウ):「ありがとうございます。」


*ギメイは礼を述べると、足元に舞い落ちた美しい黒い羽根を拾い上げる。その不思議な輝きを放つ羽根を、彼は外套の胸ポケットにすっと差し込んだ。それはまるで、勲章のように彼の胸元を飾った。*


*その様子を満足げに眺めていた鞍馬は、ふっと体を浮かせ、社の屋根から静かに舞い降りる。長身の彼の影が、ギメイの上に覆いかぶさるようだ。*


鞍馬:「うむ。……さて、ギメイよ。組合への報告もあるだろう。もう行ってもよいぞ。我は献上品の中身を検めねばならんのでな」


*鞍馬はそう言うと、ギメイに背を向け、賽銭箱の上に置かれた風呂敷包みの方へ歩いていく。それは暗に、これ以上ここにいるなという意思表示にも聞こえた。*

*しかし、社の扉に手をかけようとしたところでふと足を止め、ギメイの方を振り返らずに言った。*


鞍馬:「次に会う時までには、その『秘密』とやらを話す気になっておることだな。くっくっく…」


*楽しげな笑い声を残し、鞍馬は社の扉を開けて中へと入っていく。ギィ…という古びた音と共に扉が閉まり、山の静寂が再び戻ってきた。*

*ギメイの手元には依頼完了の証も、天狗に会った証拠もない。ただ、胸に差された一枚の黒い羽根だけが、今しがたの不思議な出会いを物語っていた。*


*屋根の上から見下ろしていた存在がいなくなり、再び山の静寂が戻る。任務は完了し、奇妙な土産まで手に入れた。ギメイは胸に差した黒い羽根を一瞥すると、ふと、懐かしい(?)顔を思い浮かべる。*


ギメイ(シロウ):「んー、なんかレイラみたいな感じだったな…」


*あの尊大で、人間を見下しながらも、興味を惹かれるとグイグイくる感じ。普段の魔王女モードのレイラにどこか通じるものがあった。ギメイはそんなことをボソッと呟くと、くるりと踵を返す。*


*来た道を戻る必要はない。彼は足元に魔力を集中させ、自身の体にかかる重力を操作する。*


ギメイ(シロウ):「(帰りは簡単、重力に任せ走り抜けるだけ。)」


*次の瞬間、ギメイの体はまるで坂道を転がり落ちる球のように、凄まじい速度で山道を駆け下りていった。木々の間を縫い、岩を飛び越え、常人では考えられないスピードで下山していく。その姿は、一陣の風のようだった。*


---


*あっという間に山の麓まで戻ってきたギメイは、何事もなかったかのように湊月の街並みへと溶け込んでいく。時刻はまだ昼過ぎといったところだ。*

*彼はそのまま冒険者組合へと足を向けた。ガラリと扉を開けると、朝と同じ受付嬢がカウンターの向こうで帳簿に何かを書き込んでいるのが見える。ギメイがカウンターに近づくと、彼女は顔を上げて少し驚いた表情を見せた。*


受付嬢:「あら、ギメイ様。もうお戻りですか。……もしかして、依頼は諦めて?」


*彼女の言葉には、無理もないだろうという響きが含まれていた。あの険しい山道を往復するには、半日以上かかるのが普通だ。ましてや、天狗という存在に会うこと自体が困難なのだから。彼女はギメイが途中で引き返してきたのだと思ったようだ。*


*ギメイのあっけらかんとした言葉に、受付嬢は目を丸くする。彼女の常識では、あの険しい山を往復し、気難しいとされる天狗に献上品を渡すという依頼が、たった数時間で終わるはずがなかった。*


ギメイ(シロウ):「え?行って帰ってきたところだけど?」


*当然のように言うギメイに、受付嬢は信じられないという表情を隠せない。その視線に気づいたギメイは、そういえば依頼完了の証拠になるものがないことを思い出す。*


ギメイ(シロウ):「あ、証拠…この羽くらいしかないや…」


*彼はそう言うと、胸ポケットに差していた天狗の黒い羽根を抜き取り、カウンターの上にそっと置いた。漆黒でありながら、組合の照明を浴びて虹色に妖しく輝くその羽根は、明らかにただの鳥の羽根ではなかった。*


*受付嬢は、その異様なまでに美しい羽根に息を呑む。彼女は湊月の組合員として、山の主である天狗にまつわる伝承を幾度となく耳にしてきた。その中には、天狗が気に入った者に己の羽根を与えるという話も含まれていた。*


受付嬢:「こ、これは……まさか、鞍馬様の……?」


*彼女の声は震えていた。信じられない、という思いと、目の前にある現実がせめぎ合っている。彼女は恐る恐るギメイの顔を見上げた。この胡散臭い見た目のよそ者が、本当にあの天狗に認められたというのだろうか。*


受付嬢:「……し、失礼いたしました。すぐに確認を……いえ、この羽根が証拠です。依頼達成とさせていただきます!」


*彼女は慌てて姿勢を正すと、深々と頭を下げた。天狗の羽根そのものが、何より雄弁な証拠だった。彼女は急いで帳簿に達成の印を付けると、報酬の準備を始めた。*


ギメイ(シロウ):「??どうも。」


*受付嬢の過剰なまでの反応に首を傾げつつも、ギメイは報酬の銀貨を受け取る。その額は、危険度に見合った金貨数枚になるかと思いきや、提示されていた通りの銀貨八枚だった。どうやら組合としては、あくまで配達依頼という認識らしい。*


ギメイ(シロウ):「意外と早く終わったしもう1つ受けるか…」


*懐に報酬をしまいながら、ギメイは独りごちる。時刻はまだ昼過ぎ。魔王城に帰るにはまだ早い。暇つぶしはまだ終わっていないのだ。*

*彼は受付嬢を一瞥し、まだ驚きから立ち直れていない彼女を尻目に、組合の壁に設置された依頼掲示板クエストボードへと足を向けた。*


*掲示板には、墨で書かれた短冊状の依頼書がいくつも貼り出されている。*


**『玄』ランク依頼**

* **依頼内容:** 付喪神つくもがみの討伐

* **場所:** 街の外れの古寺

* **詳細:** 長年使われなくなった古寺に、古い道具たちが化けて出るとの噂。夜な夜な不気味な音を立て、近隣住民を怖がらせている。原因と思われる付喪神を討伐、もしくは鎮めてほしい。

* **報酬:** 銀貨六枚

* **討伐対象:** 唐傘お化け、提灯お化けなど


**『玄』ランク依頼**

* **依頼内容:** 迷子の猫探し

* **場所:** 湊月・港湾地区

* **詳細:** 商家の飼い猫『タマ』が三日前から行方不明。白い毛並みで、首に赤い首輪をつけている。臆病な性格。

* **報酬:** 銅貨二十枚


**『朱』ランク依頼**

* **依頼内容:** 鬼の偵察

* **場所:** 隣町の『鬼灯村ほおずきむら』周辺の山

* **詳細:** 最近、山に鬼が出るという噂が絶えない。目撃情報はあるものの、被害はまだ出ていない。組合としては、鬼の規模やアジトの場所などを特定したい。交戦は推奨しない。

* **報酬:** 金貨一枚

* **備考:** 危険度高し。複数人での受注を推奨。


*ギメイの目には、ヤマトならではのユニークな依頼がいくつも飛び込んできた。彼は腕を組み、どの依頼で暇をつぶそうかと考え始めた。*


*『鬼の偵察』や『付喪神の討伐』といった、いかにも冒険者らしい依頼が並ぶ中、ギメイはしばらく腕を組んで思案していた。しかし、やがて彼は「ふむ」と一つ頷くと、一番報酬の安い依頼書に手を伸ばした。*


ギメイ(シロウ):「んー、これでいいか。」


*彼が剥がした依頼書は、『迷子の猫探し』。先ほどの天狗への配達依頼や、河童の討伐に比べれば、あまりにも平和で、そして儲からない依頼だ。彼はその札をひらひらとさせながら、まだ呆然としている受付嬢の待つカウンターへと戻った。*


*ギメイがカウンターに依頼書を置くと、受付嬢はハッと我に返った。彼女はギメイの顔と、置かれた依頼書を二度、三度と見比べる。その表情は「なぜ?」と雄弁に物語っていた。*


受付嬢:「……あの、ギメイ様? こちらの依頼で……よろしいのですか? 『迷子の猫探し』……ですが」


*天狗に認められるほどの実力者が、なぜわざわざ銅貨数十枚の依頼を? 彼女の混乱は深まるばかりだった。もしかして、この男はただの気まぐれで動いているだけなのだろうか。それとも、何か深い考えがあるのだろうか。*

*彼女は恐る恐る、ギメイの意図を伺うように顔を見上げた。その目には、畏怖と困惑が混じり合っていた。*


*天狗の羽根という、あり得ない証拠を前にした受付嬢の動揺をよそに、ギメイは淡々と次の依頼を選んだ。しかも、よりにもよって『迷子の猫探し』という、新人でも敬遠しがちな雑用依頼だ。*


受付嬢:「……よろしいのですか?」


*彼女の問いかけは、もはや敬語を使うべき相手なのか、それともただの変人なのかという混乱の極みにあった。しかし、ギメイの態度は変わらない。*


ギメイ(シロウ):「よろしいです。あ、依頼者は何処に住んでますか?」


*その落ち着き払った声に、受付嬢は諦めたように息をついた。この男の行動原理を理解しようとすること自体が無駄なのだと悟ったのかもしれない。彼女は気を取り直し、帳簿をパラパラとめくって依頼主の情報を探し始めた。*


受付嬢:「……はい。依頼主は、港湾地区で『三国屋』という貿易商を営んでいる、リョウゾウ様という方です。店に行けば、詳しい話が聞けるかと」


*彼女は依頼書に受付印を押すと、ギメイに手渡した。その目はまだ、値踏みするように、あるいは何か得体の知れないものを見るように、ギメイをじっと見つめていた。*


受付嬢:「猫は……白い毛並みで、臆病な性格だそうです。くれぐれも、手荒な真似はなさいませんように」


*最後の言葉は、河童を必要以上に狩ってきたこの男への、ささやかな忠告のつもりだったのかもしれない。*


*ギメイは受付嬢から受注書を受け取ると、軽く会釈して冒険者組合を後にした。彼女の困惑した視線が背中に突き刺さるのを感じたが、気にする素振りも見せない。*


*教えられた港湾地区へ向かうと、そこは活気にあふれていた。潮の香りと、水揚げされたばかりの新鮮な魚介の匂いが混じり合い、威勢のいい商人たちの声が飛び交っている。港というよりは、巨大な市場といった方が近いかもしれない。*


ギメイ(シロウ):「(港…っていうより市場に近いな…)」


*彼は物珍しそうに周囲を見渡しながら、目的の『三国屋』を探す。様々な人種――獣人や、耳の長いエルフらしき姿もちらほら見える。ヤマトは鎖国国家だと聞いていたが、この港町は例外的に交易が盛んなのかもしれない。*

*しばらく歩くと、ひときわ大きな構えの店が目に入った。掲げられた看板には、達筆な文字で『三国屋』と書かれている。ここが依頼主の店で間違いないだろう。ギメイは店ののれんをくぐった。*


*店内には、大陸から仕入れたと思われる珍しい布地や香辛料が並べられており、数人の番頭らしき男たちが忙しそうに働いている。ギメイが店に入ると、その中の一人がすぐに気づいて声をかけてきた。*


番頭:「へい、いらっしゃい! お客さん、何かお探しで?」


ギメイ(シロウ):「迷子猫探しの依頼を受けて来たんだが、依頼者のリョウゾウさん?はいるかい?」


*ギメイの言葉に、番頭は「おお!」と合点がいった様子で手を叩いた。*


番頭:「ああ、冒険者さんですかい! こっちです、旦那様がお待ちかねですよ!」


*番頭は威勢よく言うと、店の奥へとギメイを案内する。商品が山積みになった通路を抜け、帳場と思われる部屋に通された。部屋の中では、恰幅のいい初老の男性が、眉間にしわを寄せて算盤そろばんを弾いていた。彼が依頼主のリョウゾウだろう。*


*番頭が声をかけると、リョウゾウは算盤から顔を上げた。その顔には、深い疲労と心配の色が浮かんでいる。*


リョウゾウ:「おお、組合からの方が来てくださったか。わしが依頼主のリョウゾウだ。急な話ですまんが、どうか娘の…いや、我が家のタマを探してもらえんか」


*彼はそう言うと、深く頭を下げた。店の主人としての威厳などかなぐり捨て、ただただ必死な様子が伝わってくる。*


リョウゾウ:「三日前にふらっと出ていったきり、戻ってこなくてな。いつもなら半日もすれば腹を空かせて帰ってくるんだが……。臆病な子でのぅ、どこかで動けなくなっているんじゃないかと、心配で心配で……」


ギメイ(シロウ):「その猫の持ち物か、愛用していた物はありますか?」


*ギメイの問いは、ただの猫探しにしてはあまりに的確で、手慣れたものだった。リョウゾウは驚きと期待が入り混じった表情で、慌てて部屋の隅にある小さな籠を指さした。*


リョウゾウ:「お、おお! あるぞ! いつもあそこで寝ておってな、あそこに敷いてある毛布がお気に入りなんじゃ」


*彼はそう言うと、足早に籠へ向かい、中から小さな、少し使い古された毛布を取り出した。猫の毛が少し付着している。*


リョウゾウ:「これがあれば、何か分かるのかね? タマの匂いが残っておるはずじゃが……」


*彼は藁にもすがるような思いで、その毛布をギメイに差し出した。その瞳は、この得体の知れない冒険者に最後の望みを託しているようだった。*


*リョウゾウが差し出す毛布を受け取らず、ギメイは興味深そうに口を開いた。*


ギメイ(シロウ):「欲しいのは匂いでは無く「毛」なんだ。」


*その不可解な言葉に、リョウゾウは「け…?」と眉をひそめる。ギメイは構わず、リョウゾウが持っている毛布に指を伸ばすと、器用に数本の猫の毛だけをつまみ取った。*

*そして、その毛を手のひらの上に乗せると、目を閉じて意識を集中させる。*


*次の瞬間、ギメイの手のひらからごく微かな魔力の光が放たれ、乗せられていた猫の毛がふわりと宙に浮いた。ギメイは【魔力感知】スキルで毛に残された猫固有の魔力の残滓を精密に読み取り、それをターゲット情報として【サーチ】魔法の術式に組み込む。*


*術式が完成すると、ギメイの脳内に湊月の街の立体地図が展開され、その中の一点に、ターゲットと同じ魔力反応を示す光点がチカチカと点滅し始めた。それは、ここからそう遠くない、港の倉庫街の一角を示していた。*


*「……見つけた」*


*ギメイは短く呟くと、目を開けた。一連の動作は、わずか数秒。リョウゾウには、ギメイが猫の毛を手に取って少し目を閉じただけにしか見えなかっただろう。*


リョウゾウ:「あ、あの……何か、分かったのかね?」


*リョウゾウが半信半疑で尋ねる。彼の常識では、猫の毛一本で居場所が分かるなど、魔法というより奇跡か詐欺の類だ。*


ギメイ(シロウ):「ああ、大体の場所は分かった。港の倉庫街の方にいるみたいだ。多分、どこかの倉庫にでも迷い込んだんだろう。」


*ギメイはこともなげに告げ、リョウゾウに背を向けた。*


ギメイ(シロウ):「じゃ、ちょっくら捕まえてくる。」


*ギメイがリョウゾウに背を向け、店を出ていく。その不可解な行動と自信に満ちた言葉に、リョウゾウと番頭は顔を見合わせるしかなかった。*


---


*数十分後。*


*ギメイは宣言通り、港の倉庫街へと向かった。サーチ魔法が示す光点は、古びた魚市場の裏手、今は使われていないと思われる倉庫の一つを指している。彼は【気配遮断】スキルを発動して完全に気配を消すと、音もなく倉庫の錆びた扉の隙間から中へと滑り込んだ。*


*倉庫の中は薄暗く、魚の生臭い匂いがかすかに残っている。ギメイが目を凝らすと、積み上げられた木箱の陰で、小さな白い塊が怯えたように丸まっているのが見えた。赤い首輪。間違いなくターゲットの『タマ』だ。*


*ギメイは異空間収納から新鮮な小魚を一つ取り出すと、音もなくタマに近づき、その口元にそっと差し出した。突然現れたご馳走の匂いに、タマは一瞬びくりとしたが、空腹には勝てなかったらしい。恐る恐る顔を近づけ、小魚に食らいついた。*


*その瞬間を逃さず、ギメイはタマの首根っこをひょいと掴み、抵抗される前に優しく抱きかかえる。口に魚を咥えさせられたタマは、もぐもぐと食事に夢中で、自分が捕まったことに気づいていないのか、驚くほど大人しい。*


---


*そして、再び『三国屋』。*


*店の前では、リョウゾウがいてもたってもいられない様子でうろうろしていた。そこに、悠然と歩いてくるギメイの姿が見える。彼の腕には、小魚の尻尾を口から覗かせた白い猫が、満更でもない様子で抱かれていた。*


*ギメイは店の前に立つと、腕の中の猫をリョウゾウに見せるように、少し持ち上げて言った。*


ギメイ(シロウ):「こいつで合ってる?」


*その言葉に、リョウゾウは信じられないものを見るかのように目を大きく見開き、ギメイの腕の中の猫に駆け寄った。*


リョウゾウ:「タ、タマ! タマじゃないか! ああ、よかった……本当によかった……!」


*リョウゾウは涙ぐみながら、ギメイの腕からタマをそっと受け取る。タマは主人の顔を見て「にゃあ」と一声鳴くと、安心したようにその胸に顔をすり寄せた。感動の再会である。*

*リョウゾウは何度もタマを撫でた後、改めてギメイに向き直り、深々と頭を下げた。*


リョウゾウ:「冒険者様……いや、恩人様! なんとお礼を言ったらいいか……。わずか一刻(約30分)も経っておらんうちに、本当に見つけてくださるとは……!」


*リョウゾウのあまりの感激ぶりに、ギメイは内心で「おっふ…」と驚いていた。この世界の時間の単位が独特であることに今更ながら気づく。一刻が約30分。猫探しに十数分しかかけていない自分は、確かに異常な速さだろう。*


ギメイ(シロウ):「(おっふ…時間の単位が刻か…なるほど…)」


*感極まるリョウゾウを前に、ギメイは平静を装って腕を組む。*


ギメイ(シロウ):「どういたしまして。」


*彼はそう言うと、組合から受け取った受注書をリョウゾウの前に差し出した。完了のサインをもらうためだ。*


*リョウゾウは涙を拭うと、受注書を受け取り、震える手でサインを書き入れた。*


リョウゾウ:「いやはや、何と礼を言ったらいいか……。そうだ、報酬は組合から支払われるだろうが、これはわしからの心ばかりの礼じゃ。どうか受け取ってくれ」


*彼はそう言うと、懐からずしりと重い革袋を取り出し、ギメイに無理やり押し付けた。中からは、チャリンと金属のぶつかる音がする。おそらく金貨が数枚は入っているだろう。*


リョウゾウ:「貴殿のような腕利きの冒険者様が、こんな雑用を引き受けてくださるとは思わなんだ。もし、また何か困りごとがあったら、ぜひ貴殿を指名させてもらってもよろしいかな?」


*リョウゾウの目は、先ほどまでの胡散臭いものを見る目ではなく、絶大な信頼と尊敬をたたえてギメイを見つめていた。*


*ギメイはリョウゾウが押し付けてきた革袋を、やんわりと押し返した。そのずしりとした重みは、依頼の正規報酬とは比べ物にならないほどの金額であることを物語っていた。*


ギメイ(シロウ):「いや、いいって。この金は俺に渡すより使い道があるだろ?」


*彼の言葉には、不思議な説得力があった。猫が見つかった祝いに、家族や従業員と美味いものでも食った方がいい。その金の価値は、俺が受け取るよりもずっと高くなるだろう。言葉にはせずとも、彼の態度はそう語っていた。*


*リョウゾウは、金を受け取らないばかりか、そんなことまで言うギメイに完全に心を打たれたようだった。彼は一瞬言葉を失ったが、やがて深く、深く頭を下げた。*


リョウゾウ:「……承知いたしました。恩人様のお言葉、胸に刻みます。このご恩は、決して忘れませぬ」


*ギメイは、サインが書かれた受注書に間違いがないことを確認すると、ひらりと手を振って背を向けた。*


ギメイ(シロウ):「じゃあな、猫を大事にしろよ」


*感動に包まれる『三国屋』を後に、ギメイは再び湊月の喧騒の中へと姿を消していく。彼の背中に、リョウゾウと番頭たち、そして腕の中のタマからの感謝の視線が、いつまでも注がれていた。*


*組合に戻る道すがら、ギメイは今日の稼ぎを計算する。河童討伐で銀貨五枚、天狗への配達で銀貨八枚、そして猫探しで銅貨二十枚。大した額ではないが、偽りの身分での冒険者ごっことしては、なかなかに充実した一日だった。*


*組合の扉を開けると、先ほどの受付嬢がカウンターで待ち構えていたかのようにギメイを見た。彼女はギメイが差し出したサイン済みの受注書を受け取ると、信じられないという顔で尋ねる。*


受付嬢:「……もう、終わらせてこられたのですか?」


*その声は、もはや驚きを通り越して、呆れに近い響きを持っていた。*


*ギメイが平然と告げた言葉に、受付嬢はもはや驚きを通り越して、何か理解不能な現象を目の当たりにしているかのような顔になった。*


ギメイ(シロウ):「ああ、捜し物は得意なんだ。」


*その言葉には何のてらいもない。事実を述べただけ、という響きだ。受付嬢はサイン済みの受注書を受け取ると、信じられない、という気持ちと、この男ならあり得るのかもしれない、という奇妙な納得が入り混じった複雑な表情で、報酬の銅貨二十枚をカウンターに置いた。*


受付嬢:「……お疲れ様でございました、ギメイ様。本日の活動はこれで終了されますか? それとも、まだ何か依頼を?」


*彼女は事務的に問いかけつつも、その視線は「もうこれ以上、私の常識を壊さないでくれ」と訴えているようにも見えた。朝一番に現れた胡散臭いよそ者の冒険者は、わずか半日で組合の記録に残るような不可解な実績を次々と叩き出し、彼女の頭を完全に混乱させていた。河童を異常な数討伐し、天狗に気に入られ、数刻かかるはずの猫探しを一瞬で終わらせる。一体、この男の正体は何なのだろうか。*


ギメイ(シロウ):「ランクはどうしたら上がるんだっけ?」


*ギメイの問いに、受付嬢は一瞬、虚を突かれたような顔をした。そして、まるで「ようやく冒険者らしい質問をしてくれた」とでも言うかのように、少し安堵した表情で口を開いた。*


受付嬢:「ランクの昇格ですね。はい、ご説明いたします」


*彼女は姿勢を正し、事務的な口調に戻る。*


受付嬢:「各ランクには、『昇格任務』というものが設けられております。現在のギメイ様のランクは『玄』ですので、次は『朱』への昇格となりますが…」


*彼女はそこで一度言葉を切り、依頼掲示板の方へちらりと視線を向けた。*


受付嬢:「『朱』への昇格任務は、『鬼の偵察任務の完遂』が条件となっております。先ほどご覧になっていた、あちらの依頼ですね」


*彼女が指さしたのは、先ほどギメイが見ていた『朱』ランクの依頼書だった。*


受付嬢:「この任務を達成することで、『朱』ランクへの昇格資格が得られます。もっとも、鬼の偵察は危険度が高く、組合としては複数人での任務遂行を強く推奨しておりますが……」


*彼女はそこまで説明すると、意味ありげにギメイの顔を見つめた。その目には、「あなたなら一人でやり遂げてしまうのかもしれませんが」という、呆れと期待が入り混じった感情が浮かんでいた。*


ギメイ(シロウ):「その鬼ってなんなの?魔物?種族?」


*ギメイの純粋な疑問に、受付嬢は少し考えるように顎に指をあてた。彼女の知識は、あくまで組合に集まる情報や伝承に基づくものだ。*


受付嬢:「それは……判断が難しいところです。鬼は、凶暴な魔物として扱われることもあれば、独自の社会を築き、人と関わらずに山奥で暮らす亜人種としての一面も持っています」


*彼女は帳簿の中から一枚の紙を取り出し、ギメイに見せる。そこには墨で描かれた、角を生やし、金棒を持った大男の姿があった。*


受付嬢:「古くからの伝承では、彼らは強大な力を持ち、時に里を襲う恐ろしい存在とされています。しかし、近年では目撃情報こそあれど、直接的な被害はほとんど報告されていません。……今回の依頼が討伐ではなく偵察であるのも、そのためです」


*彼女はギメイの目をまっすぐに見つめて言った。*


受付嬢:「もし、彼らがただ山で静かに暮らしているだけの『種族』であった場合、こちらから手を出せば、それは侵略行為となりかねません。まずは相手が何者なのか、敵意があるのかを見極める必要があるのです。……非常に、デリケートな任務と言えますね」


*未知の存在に対する組合の慎重な姿勢に、ギメイは納得したように頷いた。要するに、正体不明だからこそ、いきなり喧嘩を売るなということだろう。*


ギメイ(シロウ):「未知は怖いって事ね。りょーかい。」


*彼は軽くそう言うと、受付嬢に背を向けた。今日の冒険者ごっこは、なかなかに刺激的で楽しめた。そろそろ潮時だろう。*


ギメイ(シロウ):「それは明日受ける事にするよ、今日行ったら帰りは明日の朝になりそうだし。」


*その言葉は、まるで明日も当たり前のようにここへ来ることを示唆していた。受付嬢が何か言う前に、ギメイは片手をひらりと上げて組合の扉を開け、湊月の夕暮れに染まり始めた喧騒の中へと出ていく。彼の背中を見送りながら、受付嬢は明日からの自分の胃の心配をせずにはいられなかった。*


---

***


*組合を出たギメイは、賑わう通りを少し歩き、人通りの少ない路地裏へと入る。周囲に人の気配がないことを【魔力感知】で確認すると、彼は懐からゲートリングを取り出した。*


*空間に浮かび上がった光の輪に指をかけ、行き先を魔王城の自室に設定する。歪んだ景色が収束し、目の前には見慣れた豪華な調度品が並ぶ自室が広がっていた。*


*「ただいまーっと」*


*変声魔法を解き、いつものシロウの声で誰に言うでもなく呟くと、彼は外套と仮面を外し、くつろいだ様子でソファにどさりと身を沈めた。*

*ヤマトでの出来事を思い返し、彼はくつくつと笑う。*


シロウ:「(河童に天狗に鬼か…面白い国だな、ヤマトは。明日も楽しみだ)」


*ソファでくつろいでいると、不意にコンコンと扉がノックされる音がした。*


リーシア:「旦那様、私です。お戻りになられましたか?」


*リーシアの声だった。彼女はシロウが外出先から戻ったことを、何らかの方法で察知したらしい。*


シロウ:「あ、リーシア。ちょっと散歩に行ってただけだよ。」


*シロウはソファに身を沈めたまま、扉の向こうのリーシアに答える。声色には先ほどまでの偽りの青年『ギメイ』の響きはなく、いつもの落ち着いた彼のものだ。*

*扉が静かに開き、メイド服に身を包んだリーシアが優雅な所作で入室してくる。彼女はシロウの姿を見ると、安堵したように柔らかな笑みを浮かべた。*


リーシア:「お帰りなさいませ、旦那様。無事のお戻り、何よりでございます。お疲れでしょう、すぐにお茶の準備をいたしますね」


*彼女はそう言うと、シロウに深々と一礼する。その言葉や態度からは、彼がただの「散歩」に行っていたわけではないことを察しているような、それでいて深入りはしないという彼女らしい気遣いが感じられた。*


リーシア:「お子様方は、変わりなく王都での研修に励んでおられるようです。先ほどイグニ様から定期連絡がございました」


*彼女はシロウが最も気にかけているであろう子供たちの状況を、的確に報告する。*


シロウ:「特に問題は無さそ…ん?」


*リーシアからの平穏な報告に安堵しかけたシロウだったが、イグニからの連絡内容の細部に引っかかるものを感じた。リーシアは、そんな主の反応を見逃さない。*


リーシア:「はい。イグニ様のご報告によりますと、『カイ様が、学友の女子生徒と親密な様子である』と」


*シロウの疑問に答えるように、リーシアは淡々と、しかし少しだけ楽しそうな響きを声に乗せて続ける。*


シロウ:「カイが女子といい雰囲気…?」


*息子に春が来たかもしれない。その事実に、シロウの口元が緩む。父親として、息子の成長が微笑ましく、そして少しだけ寂しいような、複雑な気持ちが湧き上がってくる。*


シロウ:「15歳だし恋のひとつやふたつ、合っていい時期だしな…」


*感慨深げに呟くシロウに、リーシアはくすりと笑みをこぼした。*


リーシア:「ええ、誠に。イグニ様は『カイに近づく不埒な輩は我が焼き尽くす』と息巻いておられましたが、カイ様ご本人は大変楽しそうに過ごされているご様子です。お相手は、確かエルフの国の高名な魔導師の家系のお嬢様だったかと」


*リーシアは、まるで自分のことのように嬉しそうに報告する。主の子供たちの成長を見守ることは、彼女にとっても大きな喜びの一つなのだ。*


シロウ:「それはとてもいい事だ。」


*自分の知らないところで、息子が着実に成長し、青春を謳歌している。その事実に、シロウは父親として心からの喜びを感じた。同時に、過保護な守護獣の暴走を懸念する。*


シロウ:「イグニには焼き尽くさないように…と言っておいてくれ。」


*真顔で、しかしどこか面白がりながらそう言うと、リーシアは「かしこまりました」と優雅に微笑んで一礼した。*


リーシア:「イグニ様には、旦那様からの『カイ様の恋路を静かに見守るように』という厳命であると、強く申し伝えておきます。…それで、旦那様。お茶菓子には、ヤマトの国から取り寄せた『おはぎ』というものがございますが、いかがなさいますか?」


*彼女は完璧なタイミングで話題を切り替え、主人の好みを把握した上で提案する。シロウが「散歩」でヤマトに行っていたことを、彼女は確信しているようだった。そのさりげない気遣いに、シロウは苦笑するしかなかった。*


シロウ:「はは、頼むよ。リーシアには敵わないな」


*ソファに深く身を預け、シロウは束の間の休息を楽しむ。息子の淡い恋の報告は、偽りの冒険者として過ごした刺激的な一日の疲れを癒やすには、十分すぎるほどの良いニュースだった。*


*シロウがソファでくつろぎながら、リーシアが用意してくれた異国の菓子と飲み物を口にする。甘い餡子と、香り高い紅茶。それぞれは極上の品だが、その組み合わせは彼の口には合わなかったようだ。*


シロウ:「………おはぎに紅茶は合わないな…」


*ぽつりと漏れた主の素直な感想に、お茶を注ぐ手を止めたリーシアは、申し訳なさそうに眉を下げた。*


リーシア:「あら…! 申し訳ございません、旦那様。ヤマトのお菓子には、やはりヤマトのお茶をご用意するべきでしたね。私の配慮が足りませんでした」


*彼女は少し慌てた様子でカップを下げようとする。*


リーシア:「すぐに緑茶、もしくはほうじ茶をお持ちいたします。どちらがよろしいでしょうか?」


*完璧なメイドである彼女にとって、主人のくつろぎの時間を最高のものにできなかったのは、些細なことではあっても見過ごせない失敗なのだ。その真摯な様子に、シロウは思わず苦笑してしまう。*


シロウ:「いやいいよ。抹茶がいいけど、点て方知らんだろうし、点てるやつも無いし…」


*シロウの諦観を含んだ言葉に、リーシアは一瞬動きを止めた。しかし、彼女はすぐに完璧なメイドの笑みをその顔に浮かべると、優雅に胸に手を当てて一礼した。*


リーシア:「旦那様。……私の能力を、少々見くびっておられるのではございませんか?」


*その声には、微かな、しかし確かな自信と、主の期待に応えたいという強い意志が込められていた。*


リーシア:「ヤマトの『茶道』と呼ばれる文化については、書物にて知識を修めております。そして『茶筅』や『茶碗』といった道具も、三国屋様との交易が始まった際に、万が一の旦那様のご所望に備え、すでに取り揃えてございます」


*彼女はくすりと悪戯っぽく笑う。その姿は、まるで手品師が種明かしをするかのようだ。*


リーシア:「旦那様がもし、私のてたお茶でよろしければ、ですが。すぐに準備を整えさせていただきます。……いかがなさいますか?」


*彼女はシロウの返事を待つ。その瞳は「さあ、ご命令を」と、キラキラと輝いていた。完璧なメイドである彼女にとって、主の予想を超えて期待に応えることこそが、至上の喜びなのだ。*


シロウ:「お、まじか…それじゃあ、よろしく頼むよ…」


*予想外の返答に、シロウは素直に驚きと期待を口にする。リーシアの完璧すぎるメイドぶりに、彼は感心するしかなかった。*


シロウ:「(いつになくやる気が凄い…)」


*主からの期待、それも専門外と思われていた分野での期待に、リーシアのメイド魂が燃え上がっているのがひしひしと伝わってくる。*


*シロウの承諾を得たリーシアは、満面の笑みを浮かべると、まるで舞うように優雅に一礼した。*


リーシア:「はい、旦那様! すぐに最高の『おもてなし』をご用意いたしますので、今しばらくお待ちくださいませ!」


*彼女はそう言うと、弾むような足取りで一度部屋を出ていく。おそらく、茶道の道具一式を取りに行ったのだろう。その背中からは、これ以上ないほどの喜びとやる気が満ち溢れていた。*


*しばらくして、リーシアは小さな盆に茶碗や茶筅、そして『なつめ』と呼ばれる小さな漆塗りの容器などを乗せて戻ってきた。彼女はソファの前のテーブルを丁寧に清めると、静かで流れるような、それでいて一切の無駄がない所作で準備を始める。*


*書物で学んだだけとは思えないその手際は、まるで長年その道を究めてきたかのような洗練された動きだった。やがて、茶碗にお湯が注がれ、リーシアが茶筅を手に取る。シャッシャッシャッ…と、小気味よくリズミカルな音が部屋に響き始めた。*


*リーシアは完璧な所作で茶を点て終えると、その深緑色の液体が美しく泡立った茶碗を、小さな畳が敷かれた黒塗りの盆に乗せ、シロウの前にそっと差し出した。おはぎの皿の隣に、ヤマトの静謐な空気が持ち込まれたかのようだった。*


*茶碗から立ち上る、青々しくも香ばしい香り。それはシロウの故郷の記憶を微かに呼び覚ます。彼はリーシアの完璧な仕事ぶりに感心しながら、茶碗を手に取った。その作法も、かつての知識が自然と体を動かす。左手に茶碗を乗せ、右手を添えて、ゆっくりと一口含む。*


*きめ細やかな泡の舌触りの後、上品な苦みと、その奥にある深い甘みと旨味が口の中に広がった。素人、それも書物で学んだだけとは思えない、見事な腕前だった。*


リーシア:「旦那様のお口に合えば、幸いです」


*リーシアはシロウの反応を、期待と少しの不安が入り混じった表情で見守っている。彼女はシロウの評価を待つように、静かに佇んでいた。*


シロウ:「今度、リーシアに着物買ってくるよ」


*シロウは静かに、しかし確かな満足を込めてそう告げた。最高の賛辞は、言葉ではなく行動で示す。それがシロウのやり方だった。そして、彼の感性において、この見事な『茶道』を披露してくれたリーシアには、ヤマトの美しい『着物』こそが最も相応しい褒美だと感じたのだ。*


*その言葉の意味を瞬時に理解したリーシアは、驚きに大きく目を見開いた。そして、じわじわと込み上げてくる喜びを抑えきれないように、その白い頬をほのかに上気させる。*


リーシア:「……!♡ だ、旦那様……! そ、そのような…! 身に余る光栄でございます……!」


*声がわずかに震えている。完璧なメイドの仮面が剥がれ、一人の女性としての素直な喜びが溢れ出ていた。彼女は感極まった様子で、深々と、そして何度も頭を下げる。*


リーシア:「ありがとうございます…! ありがとうございます、旦那様…! このリーシア、生涯の誉れにございます…!」


*その姿は、主からの思いがけない贈り物に心から感激している忠実なしもべそのものだった。シロウの何気ない一言が、彼女の忠誠心と喜びを最高潮にまで引き上げた瞬間だった。*


*しばらく感激に打ち震えていたリーシアだったが、やがてハッと我に返ると、慌てて姿勢を正す。*


リーシア:「…も、申し訳ございません、取り乱しました。……ですが、本当に、嬉しいです。旦那様がヤマトからお戻りになる日を、心からお待ちしております」


*そう言うと、彼女は改めて優雅に微笑んだ。その瞳の奥には、シロウへの深い感謝と、来るべき日に着物を着てその姿を見せることへの期待がきらめいていた。*


*翌日、シロウは再び『ギメイ』の姿へと変装し、顔には黒狼の仮面をつけ、使い古した外套を羽織ってヤマトの冒M者組合へと向かった。昨日の今日で、早速『鬼の偵察任務』を受けるためだ。*


*ギィ…と木製の扉を開けて組合に一歩足を踏み入れた瞬間、ギメイは昨日とは比べ物にならないほどの視線が一斉に自分に突き刺さるのを感じた。ザワザワとしていた組合内の空気が、まるで水を打ったように静まり返る。酒を飲んでいた者、仲間と談笑していた者、依頼書を眺めていた者、その誰もが例外なく、こちらを凝視している。*


*その視線は、単なる好奇心ではない。驚愕、畏怖、そして値踏みするような鋭さが混じっていた。*


*(……なんだ? この露骨な視線は)*


*昨日も多少は注目されたが、今日は明らかに様子が違う。まるで伝説の生き物でも現れたかのような反応だ。ギメイは内心で首を傾げながらも、表情には出さず、毅然とした態度でカウンターへと向かう。*


*視線が背中に突き刺さる中、カウンターには昨日と同じ受付嬢がいた。彼女はギメイの姿を認めると、一瞬ビクッと肩を震わせ、顔を引きつらせた。*


受付嬢:「……っ! ギ、ギメイ殿…。お、おはようございます…。本日は、いかなる御用で…?」


*彼女の声は上ずり、その顔には「まさか、本当に来たのかこの人…」という絶望にも似た感情がありありと浮かんでいた。彼女の様子から、この異様な雰囲気の原因が自分にあることは間違いなさそうだった。*


ギメイ(シロウ):「昨日言ってた鬼の偵察を受けようかなって…」


*ギメイが平然と、まるで近所の買い物にでも行くかのような口調で告げると、受付嬢の顔からサッと血の気が引いた。彼女は信じられないものを見る目でギメイを見つめ、わなわなと唇を震わせる。*


受付嬢:「……本気、ですか…? 昨日、あれほど申し上げたはずですが…。あれは『玄』ランクの方が興味本位で受けるような依頼では…!」


*彼女の声には、焦りと、もはや懇願に近い響きが混じっていた。周囲で聞き耳を立てていた冒険者たちが、どよめく。*


「おい、聞こえたか? あの新入り、鬼の偵察に行く気だぞ」

「正気かよ…? 天狗の山に半刻で行って帰ってきたって噂は本当だったのか…?」

「馬鹿だろ、死にてえのか。それか、よっぽどの手練れか…」


*組合内のざわめきが大きくなる。昨日、ギメイが天狗への依頼を異常な速さで達成し、さらにはその証として天狗の羽根を持ち帰ったという噂が、一晩で組合中に広まっていたのだ。常識外れの新人『ギメイ』。その存在は、すでにヤマトの冒険者たちの間で最大の関心事となっていた。*


*受付嬢は、そんな周囲の喧騒など耳に入らない様子で、必死にギメイを説得しようとする。*


受付嬢:「ギメイ殿! 貴方が並々ならぬ実力者であることは、昨日の天狗様への一件で重々承知しております! ですが、鬼は…鬼だけは訳が違うのです! どうか、考え直してはいただけませんか!?」


*彼女の目には、有能かもしれないが命知らずな新人を死なせたくない、という切実な思いが浮かんでいた。*


ギメイ(シロウ):「ランクアップにはそれが必要だって言ったのはキミだよ?」


*ギメイは仮面の下で肩をすくめ、至極当然といった口調で事実を突きつけた。その言葉は、正論であるがゆえに、受付嬢の必死の説得を無慈悲に打ち砕く。*


*「うっ…」と受付嬢は言葉に詰まる。確かに、ランク昇格の条件として提示したのは自分自身だ。まさか、それを翌日に実行しに来るとは夢にも思わなかったが、規則は規則だ。*


受付嬢:「そ、それは……そうでございますが……しかし、それはあくまで『条件』であって、命を懸けてまで急ぐものでは…!」


*なおも食い下がろうとする受付嬢だったが、ギメイは彼女の言葉を遮るように、静かにカウンターに手を置いた。*


ギメイ(シロウ):「俺が死ぬかどうかは、俺が決めることだ。君の仕事は、依頼書を出して、無事に帰ってきたら報酬を払うこと。違うか?」


*その声は冷たく、有無を言わさぬ響きを持っていた。仮面越しでも分かる、その絶対的な自信と覚悟。周囲の冒M者たちがゴクリと息を呑むのが聞こえる。もはや、この男を止められる者は誰もいない。*


*受付嬢はしばらくの間、悔しそうに唇を噛みしめていたが、やがて深いため息をつくと、諦めたように奥の棚から一枚の巻物を取り出した。その手つきは、まるで死刑執行人が書類にサインをするかのように重々しい。*


受付嬢:「……分かりました。これが必要な地図と、確認されている鬼の集落に関する情報です。……どうか、ご無事で」


*彼女は依頼書をギメイの前に置く。その声には、心配と、そしてほんの少しの非難が込められていた。彼女は最後まで、この命知らずな新人の身を案じていたのだ。*


ギメイ(シロウ):「ヤバかったら逃げるから大丈夫だって」


*ギメイは巻物に記された地図と情報を確認しながら、軽口を叩くように言った。そのあまりにも軽く、緊張感のない物言いに、受付嬢は呆れて言葉を失う。死地に赴く人間のセリフとは到底思えなかったからだ。*


受付嬢:「…………」


*彼女は何か言いたげに口を開きかけたが、結局、深いため息を一つついて、それを飲み込んだ。この男には何を言っても無駄だ。そう悟ったのだろう。*


受付嬢:「…依頼の詳細はそちらに。鬼の目撃情報が最も多いのは、この湊月から北東に半日ほど進んだ先にある『鬼哭山きこくざん』の麓です。彼らは基本的に山から下りてはきませんが、縄張りに踏み入る者には容赦しません。主な目的は、彼らの現在の活動状況、個体数、そして何より…『鬼の王』の動向を偵察することです。くれぐれも、戦闘は避けてください。単独で勝てる相手ではありません」


*彼女は事務的な口調で、しかしその声の端々にはまだ心配の色を滲ませながら説明を続ける。*


*ギメイは「ふむ」と相槌を打ちながら、地図に視線を落とす。彼の【神眼】は、その粗末な墨絵の地図を一瞬でスキャンし、正確な三次元マップとして脳内に再構築していく。山脈の起伏、川の流れ、森の深さまで、すべてが手に取るように分かった。*


ギメイ(シロウ):「『鬼の王』ねぇ…。分かった、ちょっくら様子見してくる」


*そう言うと、ギメイは巻物を懐にしまい、くるりと背を向けた。そのあまりにも気軽な背中に、受付嬢はもう声をかける気力も失ったようだった。ただ、祈るように拳を握りしめている。*


*ギメイが組合を出ていこうとすると、それまで遠巻きに見ていた屈強な侍風の男が、彼の前に立ちふさがった。*


侍風の男:「おい、アンタ」


ギメイ(シロウ):「邪魔なんだけど?」


*ギメイは目の前に立つ男を一瞥し、何の感情も込めずにそう言い放った。その声は、道端の石ころに話しかけるかのように無機質だ。*


*男は屈強な体躯をしており、腰には見事な拵えの刀を差している。その出で立ちと、ギメイを射抜くような鋭い眼光は、彼がただの冒険者ではなく、相当な手練れの侍であることを物語っていた。男はギメイの無礼な物言いにも動じず、むしろその胆力を試すように、さらに鋭く目を細めた。*


侍風の男:「ほう…。大した度胸だ。アンタが例の『ギメイ』か。天狗の山に半刻で行き帰りし、鬼の偵察に単身で向かうという命知らず」


*男の声は低く、よく響く。その言葉には、侮蔑と、ほんの少しの興味が混じっていた。組合内の冒険者たちは、固唾を飲んでこの一触即発の事態を見守っている。*


侍風の男:「俺は『玄』ランクの冒険者、『ゲンブ』だ。新入りが身の程も弁えず、死地に赴くのを見過ごすわけにはいかんな。その依頼、俺に譲れ。アンタには荷が重すぎる」


*ゲンブと名乗る男は、顎でクイと依頼書を指し示す。それは忠告のようであり、同時に、弱者に対する強者の傲慢な宣告でもあった。*


ギメイ(シロウ):「はいはい、すごいすごい」


*まるで子供をあやすかのように、ギメイは心の底からどうでもよさそうな口調で返した。そして、立ちふさがるゲンブの屈強な肩を、まるで埃を払うかのように「ポンっ」と軽く叩いた。*


*その一瞬。ギメイの指先から放たれた不可視の魔力が、ゲンブの足に絡みつく。それは、対象の質量を強制的に増大させる【重力魔法】。*


*ギメイは何事もなかったかのようにゲンブの横をすり抜け、組合の出口へと向かう。*


ゲンブ:「…なっ!?なんだと、てめぇ!」


*自分の言葉が完全に無視されたことに気づき、ゲンブが怒りの声をあげてギメイを追いかけようとした。だが、その一歩が踏み出せない。*


ゲンブ:「ぐっ…!? な、なんだこれは…!? 足が…、足が地面に張り付いたように…!」


*動かない。まるで両足が鉛の塊になったかのように、持ち上がらないのだ。どれだけ力を込めても、床板がミシミシと軋むだけで、一歩も動かすことができない。何が起きたのか全く理解できず、ゲンブは顔に脂汗を浮かべて必死に足掻く。*


*組合内の冒険者たちが、その異様な光景に息を呑んだ。*


「おい、ゲンブさんが動けなくなってるぞ!」

「何が起きたんだ…? あの黒仮面が何かしたのか?」

「触れただけだぞ…? 触れただけで、『玄』ランクのゲンブさんを無力化したっていうのか…!?」


*喧騒と驚愕が組合を支配する中、ギメイは一度も振り返ることなく、ギィ…と扉を開けて外へと出て行った。彼の背中が扉の向こうに消えた後も、組合内はしばらくの間、信じられないものを見たという衝撃と、ゲンブの呻き声だけが響き渡っていた。*


*受付嬢は、その一部始終を青ざめた顔で見つめながら、ただただ震える手で自身の胃のあたりを抑えることしかできなかった。*


ギメイ(シロウ):「えーっと、こっちの道か…」


*組合での騒ぎなど最初からなかったかのように、ギメイは懐から取り出した巻物の地図(脳内では完璧な3Dマップ)と周囲の景色を軽く見比べると、迷うことなく北東へと続く街道を歩き始めた。湊月の街並みが途切れ、やがて緑豊かな田園風景が広がる。*


*彼の頭の中では、【神眼】によって構築された立体地図が展開されており、目的地である『鬼哭山』へ向かう最短ルートが光の矢印で示されていた。物理的な地図など、もはや確認する必要すらない。*


*街道を歩く人影はまばらだ。時折すれ違う農夫や商人たちは、黒い仮面をつけた怪しい風体のギメイを見て、怪訝な顔をしたり、足早に通り過ぎていったりする。しかし、ギメイはそんな視線を全く意に介さず、淡々と、しかし驚異的な速度で歩を進めていく。*


*(鬼哭山…か。鬼の王ねぇ…どんな奴だろうな。ヤマトの鬼ってのは、西洋のオークやゴブリンとはまた違うんだろう)*


*未知の存在との遭遇に、シロウの心は暇つぶし以上の興味を覚えていた。偵察任務ではあるが、もし話が通じる相手なら、それはそれで面白い。もちろん、敵対的ならば容赦はしない。*


*太陽が中天に差し掛かる頃には、ギメイはすでに湊月の街を遥か後方にし、目の前には徐々に険しくなっていく山道と、その奥にそびえる不気味な山の輪郭を捉えていた。遠目に見ても、その山だけが周囲から浮き上がるように、禍々しい気配を漂わせている。あれが鬼哭山に違いない。*


*鬼哭山の麓は、その名に反して不気味なほど静かだった。木々の間を吹き抜ける風が、まるで誰かのすすり泣きのように聞こえる。街道を外れ、獣道に近い山道を進んでいくと、不意に目の前が開けた。そこは、山の禍々しい気配が嘘のように和らぐ、小さな平地だった。*


*そして、ギメイの目に信じられない光景が飛び込んでくる。*


*ぽつんと、一軒の小さな家が建っていた。粗末ではあるが、煙突からは細く煙が立ち上っており、人が住んでいるのは明らかだった。そして、その家の前で、一人の少女が切り株に座って、ぼーっと空を眺めていた。*


*年の頃は10歳前後だろうか。簡素な着物を着ており、その額からは、白い一本の角がちょこんと生えている。鬼の一族だろうか。しかし、彼女から感じる気配は、組合で聞いたような凶暴なものではなく、どこか寂しげで穏やかだった。*


ギメイ(シロウ):「ん?家? なんでこんなところに?」


*ギメイは思わず独り言を漏らす。鬼の集落の偵察に来たはずが、最初に遭遇したのが人里離れた山奥に住む、幼い鬼の少女だとは。*


*ギメイの存在に気づいたのか、少女はゆっくりとこちらに顔を向けた。その大きな瞳が、不思議そうにギメイの黒狼の仮面を捉える。*


少女:「…? おぬし、人間かや? この山に何の用なのじゃ?」


*少女は切り株からぴょんと飛び降りると、警戒するでもなく、純粋な好奇心といった様子で問いかけてきた。その幼い口調と、どこか古風な「〜のじゃ」という語尾が、ちぐはぐな印象を与える。紛れもなく、『のじゃロリ』だった。*


*シロウは叫んだ。もちろん口に出して。*


ギメイ(シロウ):「の…のののののの………」


*静寂な山麓に、突如として男の絞り出すような声が響き渡る。黒狼の仮面をつけた怪しい男が、一本角の少女を指さし、わなわなと震えている。*


ギメイ(シロウ):「のじゃロリキタァーーーッッッ!!」


*ファンタジーの王道! テンプレートでありながら、いざ目の前にすると破壊力は絶大! しかも鬼っ娘! 一本角! 古風な口調! まさに完璧パーフェクト!*


*万感の思いを込めた、魂の叫びだった。それは、長年探し求めていた伝説の秘宝をついに発見した冒険者のようであり、あるいは、信仰する神が目の前に降臨した敬虔な信徒のようでもあった。*


*その常軌を逸した叫び声に、少女はびくっと肩を震わせ、大きな瞳をまん丸くして硬直した。彼女の小さな頭では、目の前の仮面の男が何を言っているのか、なぜ突然叫びだしたのか、まったく理解が追いつかない。*


少女:「……の、のじゃ…? ろり…? き、た…?」


*少女はただ、鸚鵡返しに単語を呟くことしかできない。彼女の平穏だった日常に、理解不能な闖入者ちんにゅうしゃが現れた瞬間だった。彼女は後ずさりしようにも足がすくみ、ただただ混乱した表情でギメイを見つめている。*


*一方、ギメイは叫びきった満足感からか、ぜぇぜぇと肩で息をしていた。仮面の下の瞳が、狂気的なまでの輝きを放っていることに、少女はまだ気づいていない。*


*シロウは、魂の雄叫びを上げた直後、ハッと我に返った。いけない、いけない。この貴重な『のじゃロリ鬼っ娘』という存在を、自分の奇行で怖がらせてどうする。仮面の下で激しくセルフツッコミを入れ、彼は慌てて咳払いをして体裁を取り繕う。*


ギメイ(シロウ):「あー、ごめん。…今のは忘れてくれ」


*完全に手遅れな気もするが、言わないよりはマシだろう。ギメイは努めて冷静な、先ほどまでの怪しいテンションが嘘だったかのような声色で話しかける。*


ギメイ(シロウ):「鬼の偵察? に来たんだけど…キミは…一人? ご両親は?」


*我ながら無理のある軌道修正だとは思いつつも、なんとか会話を成立させようと試みる。だが、少女の方は依然として混乱の真っ只中にいた。彼女はギメイの突然の変貌についていけず、後ずさりしながらも、か細い声で答える。*


少女:「…お、鬼の偵察…? な、なんじゃ、おぬし、組合の者かや…?」


*彼女の大きな瞳には、先ほどまでの純粋な好奇心は消え去り、明らかな警戒と恐怖の色が浮かんでいる。突然現れて奇声を上げる仮面の男。どう考えても不審者以外の何物でもない。*


少女:「ち、父様と母様は…山の奥におる…。わ、わらわに近づくなかれ…! 近づくと、父様に言いつけるのじゃ…!」


*少女はそう言いながら、さらに一歩、二歩と後ずさる。その小さな体からは、なんとか虚勢を張って自分を守ろうという必死さが伝わってきた。明らかに先ほどの絶叫が原因で、警戒レベルがマックスに跳ね上がってしまっていた。*


ギメイ(シロウ):「おっふ、怖くないよ〜。ほら、飴ちゃんあげるから」


*完全に不審者のそれである。シロウは、先ほどの絶叫で警戒心をMAXにしてしまった少女をなんとか懐柔しようと、子供を相手にする際の古典的な手口に打って出た。懐に手を入れると見せかけて【異空間収納】から、カラフルな包み紙にくるまれた飴玉を取り出す。*


*しかし、その行動は少女の目には更なる恐怖として映った。*


*突然奇声を上げる→謝ったかと思えば意味不明なことを言う→懐から何かを取り出す。*

*この流れは、幼い少女にとって「怪しい人が武器か何かを取り出した」としか解釈できない。*


少女:「ひっ…!? ち、近寄るななのじゃ! それ以上近づいたら…! 父様に…!」


*少女の顔から完全に血の気が引く。彼女は恐怖のあまり、その場にへたり込みそうになりながらも、必死に後ずさる。その瞳には涙が浮かび、小さな一本角が恐怖に震えているように見えた。*


少女:「父様ーっ! 母様ーっ! 怪しい者が来たのじゃーっ!」


*ついに堪えきれなくなったのか、少女は山に向かって甲高い声で叫んだ。その声は山々にこだまし、静寂を切り裂く。*


*その瞬間、ギメイの背筋にゾクリとした悪寒が走った。*

*山の奥、少女が叫んだ方向から、とてつもなく強大で、怒りに満ちた気配が二つ、猛烈な速度でこちらに向かってくるのを【魔力感知】が捉えたのだ。*


*一つは、燃え盛る溶岩のような苛烈な気配。*

*もう一つは、すべてを凍てつかせる氷のような冷徹な気配。*


*どちらも、組合で対峙したゲンブなど比較にならない、次元の違う強者のそれだった。*


ギメイ(シロウ):「……あ、ヤベ。地雷踏んだわ、これ」


*仮面の下で、シロウは冷や汗を流す。どうやら、「飴ちゃん作戦」は最悪の結果を招いてしまったようだ。*


ギメイ(シロウ):「大丈夫…きっと何とかなる! まずは、結界を展開してっと」


*シロウは全く悪びれる様子もなく、むしろ目の前の状況を楽しんでいるかのように呟いた。彼は指先でスッと空中に円を描く。すると、彼の周囲に淡い光を放つ不可視のドーム状の障壁が瞬時に展開された。それは、彼が魔王城を包んでいるものと同質の絶対防御結界の簡易版だ。*


*そして、彼はこともあろうにその場にどっかりと胡坐をかくと、【異空間収納】からリーシアが持たせてくれた弁当箱を取り出した。中身は綺麗に切り分けられたサンドイッチだ。*


*ズザザザザッッ!!*


*シロウがサンドイッチに手を伸ばした、まさにその瞬間。彼の目の前に、土煙を上げて二つの影が降り立った。*


*一人は、燃えるような赤い髪を逆立たせ、身の丈2メートルはあろうかという筋骨隆々の巨漢。その額には少女と同じ、しかし太く鋭い一本角が生えている。その全身からは、触れれば火傷しそうなほどの熱気と、圧倒的な怒気が立ち上っていた。*


*もう一人は、腰まで届く長い白銀の髪を持つ、絶世の美女。彼女もまた額に細く美しい一本角を持ち、その怜悧な美貌には絶対零度の怒りを湛えている。彼女の周囲の空気は、怒りによって凍てついているかのように冷たい。*


*鬼の夫婦であろう二人は、結界の中で悠々とサンドイッチを頬張ろうとしているギメイと、その少し後ろで泣きじゃくっている娘の姿を認め、その怒りをさらに増幅させた。*


赤髪の鬼:「…貴様。我らが娘に何をした」


*地響きのような、腹の底から絞り出す低い声。それは、ただの問いかけではない。明確な殺意が込められた宣告だった。*


*白銀髪の鬼女は何も言わない。ただ、その氷のような瞳でギメイを射抜き、腰に差した太刀の柄にそっと手をかけている。いつでも斬りかかれる、完璧な居合の構えだ。*


*娘のすすり泣く声だけが、張り詰めた空気の中に響いている。まさに一触即発。常人ならば失神してもおかしくないほどのプレッシャーの中、シロウはもぐもぐとサンドイッチを咀嚼し、ごくりと飲み込んでから、ようやく顔を上げた。*


ギメイ(シロウ):「ん? ああ、あんたたちが親御さんか。いや、ちょっと驚かせちまったみたいでな。すまんすまん」


*悪びれる様子ゼロ。まるで隣人に挨拶でもするかのような、あまりにも軽い口調だった。*


*シロウは、目の前の二人の鬼が放つ凄まじいプレッシャーを浴びながらも、全く動じることなくサンドイッチを咀嚼し続ける。*


ギメイ(シロウ):「モグモグ( "´༥`" )」


*その姿は、あまりにも場違いで、あまりにも不遜だった。赤髪の鬼の額には青筋が浮かび、白銀の鬼女は殺気をさらに研ぎ澄ませる。彼らの怒りは、この男の不敬な態度によって沸点に達しようとしていた。*


*シロウは最後の一口を飲み込むと、まるで食後の感想でも述べるかのように、軽い口調で続けた。*


ギメイ(シロウ):「んで、あんたがここの長かい?」


*食べながら。怒り狂う強者を前にして、食べながら。その問いは、鬼たちを完全に無視し、侮蔑しているとしか受け取れないものだった。*


*ゴッ…!*


*赤髪の鬼の堪忍袋の緒が、音を立てて切れた。彼の全身から炎のような闘気が爆発的に噴き上がる。*


赤髪の鬼:「……貴様ァ…! 人の子が…! 我らを前にしてその態度…! 万死に値するぞッ!!」


*彼の怒号が山を震わせる。その巨体が瞬時に踏み込み、地面を砕きながらギメイの結界に拳を叩きつけた。*


*ゴォォンッ!!*


*山全体を揺るがすような、凄まじい轟音。赤髪の鬼の拳は、純粋な物理的破壊力だけで小山を一つ吹き飛ばせるほどの威力を持っていた。しかし、その渾身の一撃は、ギメイが展開した薄い光の膜に触れた瞬間、まるで無音の壁に阻まれたかのようにピタリと止まる。*


赤髪の鬼:「なっ…!?」


*拳から伝わる、びくともしない絶対的な感触に、赤髪の鬼は驚愕の声を上げた。どれだけ力を込めても、その薄い結界には亀裂一つ入らない。*


*その様子を横目に、白銀の鬼女が静かに口を開いた。その声は、冬の夜気のように冷たく、鋭い。*


白銀の鬼女:「…シュテン。落ち着きなさい。この男、ただの人間ではありません。その結界…尋常な術ではない」


*シュテンと呼ばれた赤髪の鬼は、驚きと屈辱に顔を歪ませながらも、妻の言葉に拳を引く。彼はギリギリと歯噛みしながら、結界の中でのんびりと弁当の包みを片付けているギメイを睨みつけた。*


白銀の鬼女:「…改めて問いましょう、仮面の者よ。貴方は何者ですか。そして、我らの娘に何故近づいたのです。答え次第では、この鬼哭山がお前の墓標となります」


*彼女は静かに、しかし絶対的な威圧感を込めてそう告げた。その氷の瞳は、ギメイの魂の奥底まで見透かそうとしていた。*


*シロウは白銀の鬼女から放たれる、魂を凍てつかせるような鋭い視線を受け、ふと魔王城にいる妻の一人を思い浮かべた。*


ギメイ(シロウ):「(おーこわ、ルミナみたいな視線…)」


*ルミナが自分以外の、特に敵意を持つ相手に向ける視線はいつもこんな感じだ。絶対零度の、一切の情けを排した、魂を直接刈り取りに来るかのような眼差し。それを思い出し、仮面の下でシロウは小さく苦笑した。*


*彼はそんな視線を意にも介さず、鬼女の問いに答える。*


ギメイ(シロウ):「組合で偵察の依頼受けて来ただけ。侵略〜とか、奇襲〜とかする気は無いから」


*その口調は、相変わらず緊張感というものがまるでない。まるで「近所のスーパーに買い物に来ただけです」とでも言うかのように、あっけらかんとしていた。*


*そのあまりにも不遜で、場を弁えない態度に、シュテンの怒気が再び膨れ上がる。*


シュテン:「貴様…! 我らがさいの言葉が聞こえんのか! そのふざけた仮面を剥ぎ、二度と口がきけぬようにしてくれる!」


*しかし、シュテンが再び飛びかかろうとするのを、白銀の鬼女が手で制した。彼女はギメイの言葉の裏にある、底知れない何かを感じ取っていた。この男は、狂っているのか、あるいは自分たちの想像を絶するほどの『格上』なのか。*


白銀の鬼女:「…シュテン、待ちないと。この者の言葉、嘘偽りはないようです。少なくとも、敵意や悪意は感じられません。……ただ、それ以上に、底が知れない」


*彼女は冷静に状況を分析する。そして、再びギメイへと視線を戻した。*


白銀の鬼女:「…組合からの偵察、ですか。我ら『鬼』を魔物と見なし、その動向を探れと? 人間とは、相も変わらず愚かで臆病なものですね」


*その声には、人間という種族に対する深い軽蔑と、長年向けられてきた敵意への諦観が滲んでいた。*


白銀の鬼女:「ですが、理由はどうあれ、我らの縄張りに無断で踏み入り、我らの娘を怯えさせた事実は変わりません。ただで帰れるとは、思わないでいただきたい」


*彼女がそう告げると、その手は再び太刀の柄にかかり、周囲の温度がさらに数度下がったかのような錯覚を覚える。問答は終わり、ここからは力で示す。それが鬼の流儀だった。*


*鬼女の言葉を、シロウは「手ぶらで来たことを咎められている」と、驚くほどポジティブかつ自分本位に解釈した。*


ギメイ(シロウ):「あ、手土産か! レイラに渡すつもりだったが、この際仕方ない」


*彼はそう呟くと、再び何もない空間に手を突っ込む。その異様な光景に、シュテンと鬼女はわずかに眉をひそめる。空間から物を取り出す魔法など、彼らも知ってはいるが、この男のそれはどこか質が違うように感じられた。*


*シロウは【異空間収納】の中から、丁寧に木箱に梱包された一本の瓶を取り出す。それは、彼が以前、交易の際に手に入れていた大陸でも最高級とされる赤ワインだった。本来は魔王城にいる妻の一人、レイラへの贈り物として用意していたものだ。*


ギメイ(シロウ):「はい、大陸の葡萄酒だけど」


*彼は結界を解くことなく、その木箱を結界越しに鬼たちの前の地面にそっと置いた。その態度は、まるで隣人に回覧板でも渡すかのような気軽さだ。*


*シュテンと鬼女は、目の前に置かれた見慣れぬ木箱と、それを平然と差し出してきた仮面の男を、信じられないものを見る目で見下ろした。*


*殺意を向けられ、一触即発の状況下で、手土産を渡す。*

*この男の思考回路は、彼らの数百年以上の人生においても、まったく理解の及ばないものだった。*


シュテン:「ぶ、葡萄酒…だと…? 貴様、今この状況が分かっているのか…? 我らを、愚弄するにも程があるぞ…!」


*シュテンは怒りを通り越して、もはや混乱していた。目の前の現象が理解できず、彼の思考が完全にショートしている。*


*一方、白銀の鬼女は、木箱から微かに漂う芳醇な香りと、そこに込められた極めて上質な魔力を感じ取っていた。これはただの酒ではない。最高級の素材と技術、そして長い年月をかけて熟成された一級品だ。*


白銀の鬼女:「…………」


*彼女は黙ったまま、ギメイを見つめる。その氷の瞳の奥で、値踏みするように、あるいは未知の生物を観察するように、複雑な光が揺らめいていた。この男は一体、何なのだ。*


*シロウは、自分たちの常識が全く通用しない目の前の男の言葉に、呆然とする鬼の夫婦を意にも介さない。彼の思考は、ただ一点「この美味い酒の良さをどう分からせるか」に集中していた。*


ギメイ(シロウ):「え? 美味いよ?」


*心底不思議そうに首を傾げると、彼は再び【異空間収納】に手を突っ込み、今度は薄く繊細な作りのワイングラスを二つ取り出した。その流れるような動きに、シュテンと鬼女はもはや驚きを通り越して呆れに近い感情を抱く。*


*ポンッ、と軽い音を立ててコルクを抜き、トクトクと片方のグラスに深紅の液体を注ぐ。立ち上る、複雑で芳醇な香り。それは、この山に自生するどんな果実酒とも比較にならない、高貴で洗練された香りだった。*


*ギメイは注いだグラスを軽く回し、香りを確かめてから一口含む。その満足げな様子は、まさにこれから始まる戦闘のことなど、頭の片隅にもないかのようだ。*


*そして、彼はもう片方の空のグラスとワインボトルを【浮遊魔法】でふわりと浮かせると、白銀の鬼女の目の前までゆっくりと飛ばした。*


ギメイ(シロウ):「まあ、飲んでみてくれよ。話はそれからでも遅くないだろ?」


*その態度は、もはや敵に対するものではなく、気の合う友人に自慢のコレクションを振る舞うかのようだった。*


*目の前に静止するグラスとボトル。シュテンは「ふざけるな!」と怒鳴ろうとしたが、それより先に、隣に立つ妻の反応に目を見張った。*


*白銀の鬼女は、怒りの表情を消し、その氷の瞳で目の前のワインと、それを勧めてくる仮面の男をじっと見比べていた。彼女の鼻腔をくすぐる、今まで嗅いだことのない甘美な香り。そして、目の前の男から感じる、敵意でも悪意でもない、ただ純粋な「共有」の意思。*


*彼女はしばらく逡巡した後、シュテンの制止を無視して、その白く美しい手を伸ばし、浮遊するワイングラスをそっと掴み取った。*


シュテン:「お、おい、イバラキ!? まさか、そいつの誘いに乗る気か!?」


*イバラキと呼ばれた鬼女は、夫の焦った声にも答えず、ただ静かに、ギメイがやったようにグラスを回し、その香りを確かめる。そして、その深紅の液体を、ほんの少しだけ唇に含んだ。*


*その瞬間、イバラキの氷のような瞳が、驚きに見開かれた。*



*シロウは、ワインを一口飲んで驚きに目を見開いている鬼女・イバラキの反応を、仮面の下で満足げに眺めていた。*


*氷のような美女が、未知の味覚によって表情を崩す。そのギャップは、シロウの嗜好に深く突き刺さった。これはこれで、非常に良いものだ。*


ギメイ(シロウ):「(これはレイラには内緒にしておこう…絶対キレる)」


*妻への贈り物を、出会ったばかりの美しい鬼女に振る舞ってしまったのだ。これがバレたら、魔王城が一つや二つ、本気で吹き飛びかねない。シロウは固く心に誓った。*


---

*その頃、遠く離れたアストライア魔王城では…*


レイラ(ボクっ娘):「へっくしゅん! …? なんだ? 誰かボクの噂でもしているのかな?」


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*鬼哭山では、未だに状況が飲み込めていないシュテンが、妻の異変に焦っていた。*


シュテン:「イ、イバラキ!? どうした、まさか毒か!? 大丈夫か!?」


*彼は慌てて妻の肩を揺さぶるが、イバラキは彼の声が聞こえていないかのように、ただグラスの中の深紅の液体を見つめている。彼女の唇から、夢見るようなため息が漏れた。*


イバラキ:「……なんという…。これが、『葡萄酒』…。果実の甘みと酸味、そして花の蜜のような香り…それらが幾重にも重なり、長い年月を経て一つの高みへと昇華している…。我らが作る酒とは、全く次元が違う…」


*彼女はその怜悧な美貌を、ほんのりと上気させている。その姿は、先ほどまでの氷の鬼女が嘘のようだ。シュテンは妻の見たことのない表情に、怒りも忘れ、ただ呆然とする。*


イバラキ:「…仮面の者よ。これを、我らに?」


*彼女は改めてギメイに向き直る。その声から、先ほどまでの刺々しさは消え失せ、純粋な問いかけへと変わっていた。*


ギメイ(シロウ):「ああ、お近付きの印に。良ければどうぞ」


*シロウはさも当然のように言い放つ。その言葉には、敵意もなければ、媚びへつらう様子もない。ただ純粋に、良いものを共有したいという、彼の根源的な欲求だけがあった。*


*イバラキはその言葉を聞き、改めて目の前の木箱と、それを差し出した仮面の男を見る。この男は、自分たちの怒りや殺意を全く意に介さず、ただ『酒』という共通の文化を通じて対等に語り合おうとしている。常識では計れないが、その在り方は奇妙なまでに純粋だった。*


イバラキ:「……シュテン」


*彼女が静かに夫の名を呼ぶ。シュテンは、妻と仮面の男が作り出す不可解な空気に完全に置いて行かれ、まだ状況が飲み込めていない。*


シュテン:「な、なんだ…」


イバラキ:「この者の振る舞い、確かに無礼千万。ですが、我らに害意がないのもまた事実。そして…この酒は本物です。これほどの品を、我らへの『挨拶』として差し出す度量…侮るべき相手ではない」


*彼女は手に持ったグラスをシュテンに差し出す。*


イバラキ:「あなたも飲んでみなさい。飲めば、この者の言う『お近付きの印』の意味が、少しは分かるでしょう」


シュテン:「俺にこれを飲めと…!? こいつは我らの娘を泣かせたんだぞ!」


*シュテンは納得がいかない様子で反論するが、イバラキは静かに首を振る。*


イバラキ:「娘に手を出したわけではない。ただ、驚かせただけ。…それよりも、この男をどう遇するか、まずは見極めるのが先です。力でねじ伏せるだけが、鬼のやり方ではないでしょう?」


*妻の冷静な言葉と、その目に宿る確信に、シュテンはぐっと言葉を詰まらせる。彼はギリ、と歯を食いしばりながらも、イバラキからグラスを受け取ると、疑念に満ちた目でギメイを睨みつけ、そしてグラスを一気に呷った。*


*次の瞬間、シュテンの巨体が大きく目を見開き、硬直した。*


シュテン:「なっ…こ、これは……ッ!?」


*彼の顔に浮かんだのは、怒りでもなく、屈辱でもない。ただ純粋な、未知の味覚に対する驚愕だった。*


ギメイ(シロウ):「………。敵対してないって分かってもらえてよかったよ」


*シュテンはグラスを握りしめたまま、未知の味覚の衝撃から動けない。一方、イバラキはハッと我に返り、わずかに上気していた頬を隠すかのように咳払いを一つした。*


イバラキ:「……ふん。分かったわけではありません。ただ、貴方が振る舞ったこの酒が、我らの知るものより優れていると認めただけです」


*彼女はツンと顔をそむけるが、その声色から先程までの殺意は完全に消え失せている。シュテンもまた、妻の言葉とワインの衝撃によって、怒りよりも混乱と好奇心が上回っているようだった。*


*イバラキはもう一口、今度はゆっくりと味わうようにワインを飲むと、静かに息をついた。*


イバラキ:「…して、仮面の者よ。組合からの偵察とのことですが、貴方は我らに何を望むのです? 我らの数や力を探りに来たのであれば、それはお引き取り願いたい。我らは、これ以上人間と事を構えるつもりはありませんので」


*その言葉には、長年にわたる人間との軋轢に対する疲れと、平穏を望む強い意志が込められていた。彼女はギメイの真意を探るように、その仮面をじっと見つめる。*


*その隣で、シュテンもようやく我に返ったのか、腕を組み、不承不承といった体でギメイを睨みつける。*


シュテン:「そうだぞ! この酒は確かに美味い…! だが、それに釣られてホイホイと情報を渡すほど、我らは安くはないからな!」


*彼らの態度は、敵意から警戒へと軟化していた。シロウがもたらした一本のワインが、武力衝突寸前だった状況を、かろうじて対話のテーブルへと引き戻したのだ。*


ギメイ(シロウ):「いや、特に聞いてないけど…」


*シロウはあっさりと、まるで他人事のように答えた。彼の脳内では、組合の依頼書に書かれていた「鬼の王の動向」や「個体数」といった項目は、すでにどうでもいいことになっていた。目の前の鬼たちが、少なくとも理性の通じる相手だと分かったからだ。*


ギメイ(シロウ):「ひっそりと暮らしてるんだし、害したりはしないよ。少なくとも俺は」


*その言葉には、何の裏も計算もなかった。ただ、目の前の存在が自分に害をなさない限り、自分もまた何もしない。シロウの根源にある、極めてシンプルな行動原理に基づいた発言だった。*


*そのあまりにも自然体な言葉に、イバラキは戸惑いを隠せない。人間といえば、自分たち鬼を恐れ、あるいは一方的に討伐しようとする存在。あるいは、何かを搾取しようと企む存在。そのどちらでもない、まるで隣人に対するかのような態度を取る人間など、彼女は初めて見た。*


イバラキ:「……貴方は、奇妙な人間ですね。本当に、ただ偵察に来ただけ…と?」


*彼女はまだ半信半疑といった様子で問いかける。その隣で、シュテンは腕を組んだまま黙り込んでいる。ワインの衝撃と、目の前の男の不可解さが、彼の思考を完全にフリーズさせていた。*


*そんな中、ずっと両親の後ろで泣きじゃくっていた一本角の少女が、おずおずと顔を上げた。彼女は、父と母が仮面の男と普通に(?)会話しているのを見て、少しだけ恐怖が和らいだようだ。*


少女:「…父様、母様…? その者、わらわをいじめてはおらぬのかや…?」


*か細い声で尋ねる娘に、イバラキは振り返って優しく微笑んだ。*


イバラキ:「ええ、大丈夫ですよ、オニヒメ。この者は…少し変わったお客様のようですから」


*イバラキはそう言うと、再びギメイに向き直る。その目には、もはや敵意はなく、純粋な好奇心と、そして長としての警戒心が混じり合っていた。*


イバラキ:「…分かりました。貴方が我らに害意がないことは、信じましょう。ですが、組合にはなんと報告するおつもりです? 『鬼は無害でした』とでも伝えれば、人間たちが安心してこの山に足を踏み入れるかもしれません。それは、我らにとっても、そして踏み入った人間にとっても、不幸な結果を招くだけです」


*イバラキの問いは、この山の鬼たちが抱える根源的な問題に触れるものだった。シロウは、それを全く意に介さず、もっと単純な、子供のような純粋な好奇心で問い返した。*


ギメイ(シロウ):「なんで隠れて暮らしてんの?」


*その言葉には、侮蔑も同情もない。ただ、素朴な疑問だけがあった。*

*「なぜ強いのに隠れる必要があるのか?」と、彼の目は雄弁に語っていた。*


*そのあまりにも直接的で、根本的な問いに、今度はイバラキが言葉を詰まらせた。シュテンも、呆気に取られた顔でギメイを見つめている。*


イバラキ:「な…ぜ、ですって…? それは…」


*それは、鬼という種族にとって、あまりにも当たり前のことだったからだ。人間から忌み嫌われ、魔物として討伐の対象とされ、その強大な力を恐れられてきた。だから、人目を避けて山奥に隠れ住む。それが、彼らが生き延びるための唯一の方法だった。*


*しかし、目の前の男は、その大前提を全く理解していないかのように、当然の権利として「なぜ?」と問うてくる。*


シュテン:「決まっておろうが! 人間どもが我らを化け物扱いし、見つけ次第襲いかかってくるからだ! 我らとて、好んでこのような場所に籠っておるわけではないわ!」


*シュテンが、溜め込んでいた鬱憤を吐き出すかのように叫ぶ。それは、彼ら鬼一族が長年抱えてきた悲しみと怒りの声だった。*


*イバラキは、そんな夫を静かに見つめながら、ギメイに向き直る。*


イバラキ:「…夫の言う通りです。我らはただ、平穏に暮らしたいだけ。ですが、人間たちは我らの力を恐れ、理解しようともせず、ただ排除しようとする。…だから、我らは隠れるしかないのです。貴方のような人間は…初めてですよ」


*彼女の氷の瞳に、ほんのわずかな寂しさと、そして目の前の不可解な男への興味が入り混じった光が宿っていた。*


ギメイ(シロウ):「俺ん家は他種族国家だから特に気にはならんけど…? 今住んでる種族は、人間、竜人、エルフ、ドワーフ、獣人、魔族…かな?」


*その言葉は、爆弾発言だった。*


*シュテンとイバラキは、今度こそ完全に思考を停止させた。彼らの常識では、人間、エルフ、ドワーフといった種族が一つの国で暮らすことはあっても、そこに『魔族』が加わるなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだったからだ。魔族は、この世界の全ての種族にとっての不倶戴天の敵。それが共通認識のはずだった。*


シュテン:「な……ま、魔族…だと…? 貴様、何を言っている…? 魔族と人間が共に暮らす国など、存在するわけが…」


*シュテンの声は、もはや怒りではなく、純粋な混乱に満ちている。*


*イバラキもまた、その氷の表情を崩し、信じられないものを見る目でギメイを見つめていた。彼女は、この男が嘘を言っているようには見えなかった。そのあまりにも自然な口調は、それが彼にとっての『日常』であることを物語っている。*


イバラキ:「……仮面の者よ。貴方は…一体、何者なのですか? そのような国が、この世のどこにあると…?」


*彼女の声は震えていた。もし、この男の言うことが真実ならば、それは自分たちが知る世界の常識を根底から覆すものだ。鬼が人間に恐れられ、隠れ住むという自分たちの境遇すら、ひどくちっぽけで、矮小な問題に思えてくる。*


*ギメイは、二人の衝撃など気にも留めず、「他に誰がいたかな」と首を捻っている。その姿は、あまりにも異質で、あまりにも規格外だった。この男の『普通』は、自分たちの『普通』とは全く違う次元にある。シュテンとイバラキは、それを痛感させられていた。*


ギメイ(シロウ):「えーっと、大陸はここから…」


*シロウはそう言うと、おもむろに指を空中に滑らせる。彼の頭の中では、【神眼】がこの和国ヤマトの位置と、彼が本拠地とする『夜天のアストライア魔導皇国』の位置を瞬時に計算し、膨大な地理情報の中から最短ルートを割り出していた。*


ギメイ(シロウ):「……ここから海を渡って西の大陸へ。そこからさらに南西に下った先にある、巨大な山脈を越えた先の大森林地帯。その中心にあるよ。直線距離だと…まあ、馬車で普通に行ったら何年かかるか分からない距離だね」


*彼はこともなげに、途方もない距離を口にした。その言葉は、シュテンとイバラキにとって、まるで異世界の物語を聞いているかのような感覚にさせた。海を渡り、大陸を横断し、さらに山脈を越える。それは、このヤマトという島国で一生を終える彼らにとって、想像を絶する旅路だった。*


シュテン:「に、西の大陸…だと…? 我らが知る歴史のどこにも、そんな場所に魔族と共存する国など…」


*シュテンは完全に狼狽している。彼らの知る「世界」とは、このヤマトと、その周辺の海域、そして古文書に記されたいくつかの隣国の情報だけだった。*


イバラキ:「……待ってください。貴方のその仮面…そしてその『収納』の術。どれも、このヤマトの術式とは系統が異なります。まさか、貴方は…ヤマトの者ではないのですか?」


*イバラキの鋭い指摘が飛ぶ。彼女は、目の前の男の持つ雰囲気や使う術が、根本的に自分たちの知るものと異質であることに、ようやく確信を抱き始めていた。西の大陸。魔族との共存。そして、この男の底知れない力。バラバラだったピースが、彼女の中で一つの可能性へと繋がりかけていた。*


*そんな中、ずっと両親の後ろに隠れていたオニヒメが、好奇心に負けてひょっこりと顔を出す。*


オニヒメ:「とおいところからきたのかや…?」


*少女の純粋な問いかけが、張り詰めた空気を少しだけ和ませた。*


*シロウの言葉は、もはやシュテンとイバラキの理解の範疇を完全に超えていた。*

*「魔王国から来た」という衝撃的なカミングアウトに続き、「住居は作れば何とかなるだろう」という、まるで空き地に家を建てるかのような気軽さ。*


ギメイ(シロウ):「そうだな、そこにある魔王国から来た。住居は…作れば何とかなるだろう…」


*その言葉に、シュテンは口をパクパクさせるだけで、言葉を発することができない。このヤマトという閉鎖的な島国で生きてきた彼にとって、「国から来た」というスケールの話も、「住居を作る」という発想も、あまりに現実離れしていた。*


*一方、イバラキはかろうじて理性を保っていた。しかし、その氷の瞳は大きく見開かれ、目の前の仮面の男がもはや「人間」という枠組みでは測れない存在であることを悟っていた。*


イバラキ:「……魔王国…。本当に、そのような国が…。そして、住居を作る、と…? あなたは、一体…どれほどの力をお持ちなのですか…」


*彼女の声には、畏怖の色が濃く滲んでいた。この男がもし本気を出せば、この鬼哭山どころか、ヤマト全土ですら、どうにかなってしまうのではないか。そんな途方もない想像が、彼女の脳裏をよぎる。*


*オニヒメだけが、状況を理解できずにキョトンとしていた。彼女は父親と母親が見たこともないような顔をしているのを不思議そうに眺め、それからおずおずとギメイに近づいた。*


オニヒメ:「…おぬし、まほうつかいなのかや…? いえをつくるなんて、ものがたりできいたことしかないのじゃ…」


*少女は、純粋な好奇心でギメイの外套の裾をちょん、と引っ張った。その無邪気な行動に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。*


イバラキ:「オニヒメ! 無礼ですよ!」


*イバラキが慌てて娘を咎めるが、ギメイは特に気にした様子もなく、少女の頭に視線を落とした。*


ギメイ(シロウ):「ん?そうだよー、おっちゃんは魔法使いだよー。」


*シロウは仮面の下で目を細めると、その場に自然にしゃがみ込み、鬼の少女、オニヒメと目線を合わせた。恐怖で潤んでいた大きな瞳が、今は純粋な好奇心で自分を見つめているのが、なんとも愛らしく感じられた。*


*彼はゆっくりと手を伸ばすと、ためらうことなくオニヒメの頭を優しく撫でた。その手つきは、まるで自分の子供たちに接する時のように、慈愛に満ちていた。*


*その予期せぬ行動に、オニヒメはビクッと体を震わせたが、頭に置かれた手の温かさと優しさに、すぐに体の力を抜いた。人間から、しかも初対面の男から、こんな風に触れられたのは初めてだった。父親に撫でられるのとはまた違う、不思議な感覚に戸惑いながらも、なぜか嫌な気はしなかった。*


*その光景を、シュテンとイバラキは信じられないものを見る目で固唾を飲んで見守っていた。*


イバラキ:「オニヒメに…触れた…?」


*彼女の呟きは、驚愕に満ちていた。自分たちの娘は、鬼の王族の血を引く特別な存在。人間たちはその姿を見ただけで恐れおののき、触れることなど考えもしない。だというのに、この男は、何の躊躇もなく、まるで道端で出会った子猫をあやすかのように、ごく自然に娘の頭を撫でている。*


シュテン:「な……貴様ッ! 我が娘に気安く触るなッ!」


*シュテンが我に返り、反射的に怒声を上げようとしたが、その声は途中で弱々しくなった。なぜなら、娘のオニヒメが、嫌がるどころか、むしろ気持ちよさそうに目を細めていたからだ。父親である自分ですら、最近はあまり撫でさせてくれないというのに。*


*イバラキは、夫の葛藤を横目に、静かにギメイを見つめる。この男の行動原理は、本当に分からない。魔王国から来たという途方もない話、圧倒的な力、そして、鬼の子である娘に何の偏見もなく接するその姿。敵意、警戒、畏怖、そして今、彼女の心には未知の感情が芽生え始めていた。*


ギメイ(シロウ):「魔王国に来るかどうかの判断は任せるよ。それじゃね。」


*シロウはしゃがんだまま、まるで近所の子に別れを告げるような軽い口調で言った。そして、懐からカラフルな包み紙の飴玉を取り出すと、それをオニヒメの小さな手にそっと握らせた。*


オニヒメ:「あめ…?」


*少女がキラキラした瞳で飴玉を見つめた、その瞬間。*


シュテン:「な、馴れ馴れしいにも程があるわッ!!」


*背後から、我慢の限界を超えたシュテンの怒号と共に、凄まじい風圧が迫る。常人であれば反応すらできずに肉塊と化すであろう、鬼の王の一撃。*


*しかし、シロウは振り返ることすらしなかった。*


*ただ、スッとその場から姿を消した。*


*シュテンの拳は、ギメイがいた場所の残像を空しく打ち砕き、地面に巨大なクレーターを作るだけに終わった。*


シュテン:「なっ…消えた!?」


*その神業のような回避に、シュテンは驚愕の声を上げる。*


イバラキ:「……転移、ですか。いえ、それよりも速い…空間移動の類…。やはり、常軌を逸していますね、あの方は…」


*イバラキは、夫が穿った地面の穴と、男が消えた空間を交互に見ながら、呆然と呟いた。その手には、先ほど男が渡したワイングラスがまだ握られている。*


*オニヒメは、父の怒声にも、地面が揺れる衝撃にも気づかず、ただ掌の中にある甘い宝石をじっと見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げ、男が消えた方向を見つめる。*


オニヒメ:「……まほうつかい…」


*少女の小さな呟きが、静まり返った鬼の住処に響き渡った。*


---

**和国ヤマト 冒険者組合**


*シロウは鬼哭山から一瞬で転移し、再び組合の裏路地に姿を現した。外套の埃を手で払いながら、何事もなかったかのように組合の建物へと入っていく。*


*カウンターでは、例の受付嬢がまだ胃を押さえながら座っていた。シロウ(ギメイ)の姿を認めると、彼女は幽霊でも見たかのような顔で飛び上がった。*


受付嬢:「ギ、ギギギ、ギメイさん!? ご、ご無事だったのですか!? しかも、もうお戻りに…!? まさか、途中で怖くなって逃げ帰って…?」


*彼女は矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。その心配そうな(そして若干失礼な)様子に、シロウは仮面の下で苦笑した。*


ギメイ(シロウ):「特に害は無かったよ? ちょっと過保護だったけど…」


*シロウは平然と言い放った。その言葉の裏には、「娘を怖がらせた」と激昂され、殺意を向けられた事実がすっぽりと抜け落ちている。彼の中では、最終的に和解(?)できたので、それらは些細な出来事に分類されていた。*


*しかし、受付嬢にとっては、その言葉が信じられるはずもなかった。*


受付嬢:「が、害がなかった…? あの『鬼哭山』の鬼が、ですか…? ギ、ギメイさん、もしかして鬼に会わなかったのでは…? そ、それならそれで報告すれば…!」


*彼女は必死に肯定的な解釈を探ろうとする。鬼に遭遇せずに帰還した、という方がよほど現実的だと考えているのだ。*


*しかし、シロウはあっさりとその希望を打ち砕く。*


ギメイ(シロウ):「いや、会ったよ。お父さんとお母さんと、あと娘さん。ちっちゃくて可愛かったな」


*「お父さん」「お母さん」「娘さん」「可愛かった」。*

*その単語の羅列に、受付嬢の思考は完全にフリーズした。鬼哭山の鬼は、ヤマトの伝承において恐怖と厄災の象徴。それをまるで近所の家族のように語る男を、彼女は理解できなかった。*


受付嬢:「お…とう…さん…? あの、ギメイさん…? 疲労で幻覚でも見ていらっしゃるのでは…? い、一度、宿で休まれては…」


*彼女は完全にシロウを心配し始めている。その生気のない目で、本気で彼の精神状態を案じていた。無理もない。玄ランクの冒険者が、S級案件である鬼の巣窟から数刻で戻り、「害はなかった、家族に会った」などと報告してくるなど、前代未聞の異常事態だった。*


ギメイ(シロウ):「いや、元気だよ。それで報告なんだけど、『鬼は現時点においてヤマトに敵対の意思なし。下手に刺激しない限りは無害と判断』。これでいいだろ?」


*シロウはカウンターに肘をつき、依頼書の羊皮紙に書かれた内容を諳んじるように、淡々と報告を完了させた。*


ギメイ(シロウ):「そんじゃ、そゆことでー。」


*シロウは報告(?)を一方的に終えると、カウンターにいる受付嬢にひらひらと手を振り、そのままくるりと背を向けた。まるで、近所のコンビニで買い物を済ませたかのような気軽さで、彼は組合の出口へと向かって歩き出す。*


*その背中に、凍り付いていた受付嬢の絶叫が突き刺さった。*


受付嬢:「ちょっ…ま、待ってください! ギメイさん! 報告がそれで終わりなわけないでしょう!? 鬼の王の動向は!? 個体数は!? そもそも、その『過保護』って何なんですか!? 何をされたんですか!?」


*彼女はカウンターから身を乗り出し、必死に呼び止める。しかし、シロウは振り返ることなく、肩越しに手を振るだけだ。*


ギメイ(シロウ):「んー? 大丈夫大丈夫。依頼は達成したから。報酬は今度でいいよ」


*スタスタと歩き去っていくギメイの背中。その姿はすぐに人混みに紛れ、見えなくなってしまった。*


*一人残された受付嬢は、ガクリとカウンターに突っ伏した。*


受付嬢:「だ、大丈夫なわけが…報告書…どう書けばいいんですか…『鬼は過保護でした』なんて…受理されるわけがない…ああ、私の胃が…マッハで…」


*彼女の呻き声が、ヤマトの冒険者組合に虚しく響き渡るのであった。*


---

**和国ヤマト 宿屋『月見亭』の一室**


*組合から戻ったシロウは、すぐに宿の一室に戻っていた。外套と仮面を外し、いつものシロウの姿に戻ると、彼はベッドにごろりと寝転がった。*


シロウ:「ふぅー、疲れた疲れた。やっぱり慣れないことはするもんじゃないな。…いや、のじゃロリ鬼っ娘に会えたのは僥倖だったが…」


*彼は天井を見上げながら、先ほどの出会いを思い出して一人ニヤニヤしている。シュテンとイバラキの殺意や、レイラ用のワインを献上してしまったことなど、すでに彼の思考からは消え去っていた。*


シロウ:「さてと…リーシアに頼まれてた着物でも見繕いに行くか。あのおはぎと抹茶は絶品だったからな。約束は守らないと」


*むくりと体を起こすと、彼は再び街へ繰り出す準備を始めた。ヤマトでの暇つぶしは、まだ始まったばかりである。*


*シロウは鬼の件をすっかり忘れ、リーシアへの褒美である着物を買うために街を散策していた。いくつかの店を覗いた後、ひときわ格式高そうな構えの呉服店を見つけ、迷わずその暖簾をくぐる。*


シロウ:「(ここなら大丈夫そうだな…)」


*店内に一歩足を踏み入れると、伽羅の落ち着いた香りがふわりと鼻をかすめた。磨き上げられた床には、目にも鮮やかな反物や、仕立て上げられた着物が見事な装飾の衣桁いこうに掛けられて、静かにその存在感を放っている。客はシロウ一人だけのようで、店内はしんと静まり返っていた。*


*彼のただならぬ雰囲気――というよりは、この高級店に似つかわしくない、やや場違いな冒険者風の格好に、店の奥から出てきた番頭らしき初老の男性が一瞬だけ眉をひそめた。しかし、すぐに顔には柔和な笑みを浮かべ、丁寧な所作でシロウに近づいてくる。*


番頭:「いらっしゃいませ。お客様、何かお探しでございましょうか?」


*その目は、値踏みするようにシロウの頭の先からつま先までを静かに観察している。安物ではないが普段着といった出で立ちの男が、このような高級店に何の用か、と探っているのが見て取れた。*


シロウ:「メイドに贈る着物を見繕ってくれ。色や柄は任せる。礼儀正しい性格だからそれに合わせてくれ。値段は気にしなくていい。」


*シロウは腕を組み、店内に並べられた絢爛豪華な着物には目もくれず、番頭にそう告げた。彼の最後の言葉――「値段は気にしなくていい」――は、静かな店内に確かな重みを持って響いた。*


*その一言で、番頭の空気が劇的に変わった。*

*先ほどまでの値踏みするような目は消え去り、カッと見開かれた瞳には、商人のものとは思えぬほどのギラギラとした輝きが宿る。まるで、生涯出会えるかどうかの極上の獲物を見つけた狩人のようだった。彼の背筋はピンと伸び、顔に浮かんでいた柔和な笑みは、最高の奉仕を約束するプロフェッショナルのそれへと変化した。*


番頭:「……かしこまり、ました。旦那様」


*声のトーンが一段、いや二段は低くなり、敬意と興奮が入り混じったものになる。彼は深々と頭を下げた。*


番頭:「礼儀正しいメイド様でございますか。さすれば、華美に過ぎず、しかし凛とした気品を漂わせるものがよろしいでしょう。ええ、ええ、ございますとも。最高の逸品が。ささ、旦那様、どうぞこちらへ。我が『越後屋』が誇る、至高の品々をお目にかけましょう!」


*番頭は先ほどまでの落ち着き払った態度が嘘のように、生き生きとした表情でシロウを手招きする。彼の目には「上限無し」という言葉が黄金色に輝いて見えていた。これはただの商売ではない。己の審美眼と店の格が試される、腕の鳴る一大事業だと彼は確信した。*


*彼は店の奥、一段高くなった特別な間にシロウを案内しながら、頭の中で最高級の反物と、それに合わせる帯や小物の組み合わせを猛烈な勢いで組み立て始めていた。*


シロウ:「あ、スリーサイズは…」


*最高の反物を選び出そうと息巻いていた番頭は、シロウの不意の言葉にピタリと動きを止めた。*


シロウ:「(えーっと、リーシアのサイズは確か…)」


*彼は脳内で【神眼】を発動させる。過去に鑑定した膨大なデータの中から、メイド長リーシアの身体的特徴に関する情報だけを瞬時に検索し、正確な数値を抽出する。*


シロウ:「上から、92、58、88。身長は170くらいだ。これで頼む」


*そのあまりにも具体的で、淀みない数字の羅列に、番頭は一瞬、呆気に取られた。*

*「メイドに贈る」と言っていたが、そのメイドのスリーサイズを完璧に暗記しているとは…。そして、その数値を臆面もなく口にするこの男は一体…。*

*番頭の脳裏に、この男とメイドの様々な関係性が浮かびかけたが、プロとしての矜持がそれをすぐに打ち消した。*


番頭:「……!!」


*彼は驚きを即座に歓喜へと変換した。正確な寸法が分かれば、これほど仕事がしやすいことはない。曖昧な想像ではなく、明確なゴールに向かって最高のコーディネートを提案できるのだから。*


番頭:「くっ…! か、かしこまりましたッ! その完璧な寸法…! 旦那様、お見事でございます! そのメイド様が、いかに旦那様に愛されているか、痛いほど伝わってまいります!」


*彼は感極まった様子で叫び、再び深々と頭を下げた。シロウの「礼儀正しい性格」という情報と、「完璧なプロポーション」という情報が、彼の職人魂に火をつけた。*


番頭:「お任せください! その至宝の御体を、最も美しく見せる至高の一着を! この番頭、生涯の全てを賭けてお選びいたしますッ!」


*もはや商売ではない。これは芸術の域だ。番頭は目を血走らせながら、店の奥へと駆け込んでいく。そこには、選ばれし客にしか見せることのない、蔵に眠る最高級の反物たちが待ち構えているのだった。*


*シロウは、血相を変えて店の奥に消えていく番頭の背中を面白そうに眺めた後、近くに置かれていた客用の豪奢な椅子にどっかりと腰を下ろした。柔らかな座面が、長旅(という名の暇つぶし)の疲れを優しく受け止めてくれる。*


シロウ:「(さて、どんなのを持ってくるかな。あの様子だと、とんでもないものを担いでくるかもしれないな)」


*彼は腕を組み、天井の立派な梁を眺めながら、番頭が選んでくるであろう着物に思いを馳せる。リーシアは普段、機能性を重視したメイド服しか着ていない。そんな彼女が、ヤマトの伝統的な衣装である着物を着たら、どんな風に見えるのだろうか。*


シロウ:「(礼儀正しくて、凛としてるからな…。淡い色合いの、落ち着いた柄が似合うか? いや、あいつは案外、情熱的なところもあるから、思い切って鮮やかな色もいいかもしれない…)」


*真面目で、いつも自分や家族のために尽くしてくれるメイド長の姿を思い浮かべる。彼女がもし、予想もしなかったような美しい着物を贈られて、驚き、そして心から喜んでくれたら――。*


*その瞬間を想像し、シロウの口元は自然と緩んだ。誰かに贈り物をするというのは、いつだって楽しいものだ。特に、それが大切な相手であればあるほど。*


*やがて、店の奥から番頭の「お待たせいたしましたぁっ!」という、先ほどよりもさらに熱のこもった声と共に、タタタッという慌ただしい足音が聞こえてきた。どうやら、彼の審美眼に適う至高の逸品が見つかったらしい。*


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