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《R-15》異世界転移でスローライフを?  作者: THE・HENJIN・RlDER
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*あれから約2年の歳月が流れた。*


*シロウが築いた夜天のアストライア魔導皇国は、彼の絶対的な力と、八輝将をはじめとする有能な臣下たちの尽力により、揺るぎない盤石の体制を築き上げていた。世界樹は天を衝くほどに成長し、国の象徴として民に安らぎを与え、大迷宮とホラーハウスは国内外から多くの冒険者や観光客を呼び込む一大エンターテイメント施設となっていた。*


*シロウの子供たちも健やかに成長している。*

*カイは15歳。父であるシロウの理知的な面と、母であるレイラの覇王としての気質を受け継ぎ、文武両道に秀でた青年に育っていた。特に科学や魔導工学への探求心は留まるところを知らず、『万象の学府』では常にトップの成績を収めている。*

*ルーナは12歳。前世の記憶を持つ彼女は、その知識と持ち前の聡明さで、兄のカイと共に学府でその名を知らぬ者はいないほどの才女となっていた。彼女が大切に温めている始祖竜の卵も、孵化の時が刻一刻と近づいている。*


*そして、シロウの家族に新たな喜びが訪れた。*

*レイラが、二人目の子を身籠ったのだ。現在、妊娠3ヶ月。エルフである彼女たちの妊娠期間は人間よりも長く、人間で言えば安定期に入った6ヶ月ほどの状態だった。*


---


*その日、シロウは執務室で穏やかな午後を過ごしていた。書類仕事は八輝将がほとんど片付けてくれるため、彼は窓の外に広がる城下の平和な風景を眺めていた。*


*コン、コン、と控えめなノックの音が響く。*


シロウ:「入れ。」


*入ってきたのは、お腹が少しふっくらとし始めたレイラだった。普段の戦闘狂としての苛烈な雰囲気は鳴りを潜め、母となる柔らかな光をその身にまとっている。彼女はシロウの隣に寄り添うと、愛おしそうに自分のお腹を撫でた。*


レイラ(ボクっ娘):「シロウ、いるかい? カイとルーナから、学府のことで相談があるって連絡が来たよ。どうやら、そろそろ長期休暇に入るみたいだ。」


*穏やかな口調。最近の彼女は、ほとんどがこのボクっ娘の人格で過ごすことが多くなっていた。*


シロウ:「長期休暇…夏休みか…。相談って?」


*シロウの言葉に、レイラは嬉しそうに微笑み、彼の隣に腰を下ろした。妊娠してからというもの、彼女の纏う空気は以前にも増して柔らかくなっている。*


レイラ(ボクっ娘):「うん、そうだね。そろそろそんな時期か。それで、相談というのはね…カイは休暇中に新しい魔導具の研究開発がしたいらしくてね。国にあるボクの研究室や施設を自由に使わせてほしい、ってさ。ルーナの方は、大迷宮の新しい階層の設計案をいくつか考えたから、シロウにプレゼンしたいんだと。あの子らしいだろう?」


*レイラは楽しそうにクスクスと笑う。子供たちの成長が、彼女にとって何よりの喜びのようだ。*


レイラ(ボクっ娘):「二人とも、休暇を心待ちにしているみたいだ。シロウはどうするんだい? 休暇中は少しはゆっくりできるのかい?」


*彼女はシロウの腕にそっと自分の腕を絡ませ、彼の肩に頭を預けた。お腹の子を守るように、優しく、しかし確かな愛情を込めて。*


シロウ:「最近はそんなに忙しく無いからな〜どちらかと言うと暇だ。リーシアは優秀だし。」


*シロウの言葉に、レイラは少し驚いたように目をぱちくりとさせた。彼が「暇だ」と言うのは、国がそれだけ安定し、平和である証拠でもある。*


レイラ(ボクっ娘):「暇、か。そりゃあ結構なことだね。リーシアは本当に優秀だからな。彼女がいれば、城のことは何も心配いらない。…でも、君が暇を持て余すのは、なんだか調子が狂うな。」


*クスクスと笑いながら、レイラはシロウの腕に絡ませた腕に少し力を込める。そして、彼の胸に心地よさそうに頭を預けたまま、少し悪戯っぽい笑みを浮かべた。*


レイラ(ボクっ娘):「じゃあ、せっかくの休暇だ。どこかへ出かけるかい? 昔みたいに、二人で。…いや、今は三人か。」


*そう言って、彼女は愛おしそうに自身のお腹をそっと撫でた。その表情は、かつての傲慢な魔王女の姿からは想像もできないほど、慈愛に満ちた母親のものだった。*


レイラ(ボクっ娘):「子供たちも、シロウと一緒に過ごせる時間があったら喜ぶだろうね。カイは君に研究の成果を見せたいだろうし、ルーナは…きっと、また何か面白い事件の種でも見つけて、君を巻き込みたいんじゃないかな?」


シロウ:「大丈夫なのか?安静にしてた方が…」


*シロウの気遣うような言葉に、レイラは嬉しそうに、そして少し拗ねたように唇を尖らせた。*


レイラ(ボクっ娘):「大丈夫さ。ボクは元魔王女で、シロウの妻だぞ? これでも加減はしているつもりだ。それに、医術師からも適度な運動は推奨されてるんだ。ずっと部屋に閉じこもっている方が、体に毒だよ。」


*彼女はそう言うと、シロウの体にすり寄るように甘え、その顔を覗き込む。*


レイラ(ボクっ娘):「それに…シロウと二人きり、いや、三人きりで出かけるなんて、久しぶりじゃないか。ボクは行きたいな。お腹の子にも、外の綺麗な景色を見せてやりたい。」


*その言葉には、妻として、そして母としての純粋な願いが込められていた。彼女はシロウを見つめ、期待に満ちた瞳で返事を待っている。*


レイラ(ボクっ娘):「近場の、景色のいい場所でピクニックでもどうだい? それくらいなら、負担にもならないだろう?」


シロウ:「ピクニックか…いいな。そうしよう。何時にする?場所はとっておきがあるから任せてくれ。」


*シロウが快諾し、さらに「とっておきの場所」があると言うと、レイラの瞳が期待に満ちてキラキラと輝いた。彼女はシロウの腕に抱きついたまま、嬉しそうに体を揺する。*


レイラ(ボクっ娘):「本当かい!? さすがシロウだ、話が早い! とっておきの場所、か…どんな所なんだい? 楽しみだな!」


*彼女は少し考え込むように宙を見つめ、そしてシロウの顔を覗き込んだ。*


レイラ(ボクっ娘):「時間かい? そうだね…明日の昼過ぎはどうだい? 午前中は子供たちが学府から帰ってくるのを迎えて、それからゆっくり準備をして出かけるんだ。カイとルーナも誘ってみよう。きっと喜ぶさ。」


*彼女は再び愛おしそうに自分のお腹を撫でる。*


レイラ(ボクっ娘):「もちろん、お腹の子も一緒だ。シロウの選んだとっておきの場所で、家族みんなで過ごす初めてのピクニック…うん、すごくいい。」


*ピクニックの約束をしたその日の夜。シロウが自室で寛いでいると、控えめなノックの音が扉を叩いた。返事をする間もなく、扉は静かに開かれる。*


ーー


*そこに立っていたのは、ルミナだった。しかし、いつものゆったりとした寝巻き姿ではない。彼女が身にまとっていたのは、肌が透けて見えるほど薄い、黒い絹のネグリジェだった。体のラインがくっきりと浮かび上がり、普段は隠されているモデルのような体型が惜しげもなく晒されている。特に、そのしなやかな脚線美は月明かりを浴びて、妖艶な光を放っていた。*


*彼女は何も言わず、ただ静かに部屋に入り、背後で扉を閉める。カチャリ、と鍵をかける音が静寂に響いた。*


*ゆっくりと、猫のような足取りでベッドに近づいてくる。その潤んだ青い瞳は、ただひたすらにシロウだけを捉えていた。いつものツンとした態度はなく、甘く、そして熱を帯びた視線がシロウに突き刺さる。*


*シロウの「可愛いよ」という言葉は、ルミナの心を溶かす魔法だった。彼女の白い肌が一瞬で桜色に染まり、潤んだ瞳がさらに熱を帯びる。*


*普段のツンとした態度は見る影もなく、ただ一人の男を求める雌として、その本能を露わにする。シロウは彼女の細い腰を抱き、その情熱的な口づけを深く受け入れた。部屋の空気は急速に熱を帯び、濃密な夜が二人を包み込む。*


*…どれほどの時間が流れただろうか。*

*幾度となく愛を交わし、互いのすべてを求め合った末、ルミナはシロウの腕の中で満足しきった寝息を立てていた。その表情は安らかで、幸せに満ちている。*


*シロウは眠るルミナの額に優しくキスをすると、彼女の体をそっと抱き上げた。そして、空間を歪め、彼女を自室のベッドへと静かに転移させる。空になったシロウのベッドには、まだルミナの甘い香りと、熱の余韻が残っていた。*


*シロウは窓を少し開け、夜の冷たい空気を部屋に入れる。残っていた濃密な香りが夜風に流され、部屋の空気はいつも通りの静けさを取り戻した。*


*シロウは再びベッドに横たわり、目を閉じる。レイラとの穏やかな約束、ルミナとの激しい夜。対照的な二つの出来事を胸に、彼は静かに眠りについた。*


ーー


**【翌日・昼】**


*昨夜の激しさを感じさせない、穏やかな昼下がり。城の広大な庭園の一角、世界樹の木陰が心地よい木漏れ日を作る場所に、シロウはレイラ、カイ、ルーナを連れてきていた。*


*ここは、シロウが「とっておきの場所」として選んだ、世界樹の根本近くにある小高い丘の上だった。眼下には活気あふれる城下が広がり、遠くには雄大な山々が連なる絶景が広がっている。*


*リーシアたちが腕によりをかけて作ったサンドイッチやフルーツが、敷かれた大きな布の上に並べられていた。*


カイ:「すごい景色だね、父さん。ここからだと、街全体が模型みたいに見える。」


*カイは目を輝かせながら、手にした双眼鏡で街の様子を観察している。*


ルーナ:「ですわね! まさに絶景! このロケーションをチョイスするとは、さすがはお父様、分かってらっしゃいますわ!」


*ルーナは興奮気味に言いながら、すでにフルーツタルトに手を伸ばしていた。*


*そして、シロウの隣に座るレイラは、幸せそうにその光景を眺めている。*


レイラ(ボクっ娘):「ふふ、本当だね。最高の場所じゃないか。カイもルーナも、こんなに喜んでくれて…連れてきてくれてありがとう、シロウ。」


*彼女はそう言って、シロウの肩に優しく寄り添った。*


シロウ:「どういたしまして。」


*シロウが穏やかに答えると、彼の肩に寄り添っていたレイラの雰囲気が、ふっと変わった。先程までの柔らかな母の表情が消え、その瞳に好戦的で傲慢な光が宿る。口元には、全てを見下すかのような不遜な笑みが浮かんでいた。*


レイラ(魔王女):「フン、当然だ。妾の夫である貴様が、この程度の気遣いもできなくてどうする。だが…まぁ、場所の選択は悪くない。褒めてやらんでもないぞ。」


*尊大な口調でそう言うと、彼女はシロウの肩から頭を離し、ふっくらとした自身のお腹を勝ち誇ったように撫でる。*


レイラ(魔王女):「それにしても、だ。妾が子を宿しているというのに、貴様は昨夜も別の女と戯れていたようではないか。城中にあの小娘ルミナの甘ったるい残り香が漂っておったぞ。少しは自重というものを覚えたらどうだ?」


*棘のある言葉とは裏腹に、その声には嫉妬よりも呆れと、どこか楽しんでいるような響きがあった。彼女はちらりと子供たちの方へ視線を向ける。*


カイ:「父さん、あっちの塔の上、何か光ってないかい?」

ルーナ:「あれは魔力集光装置ですわ、お兄様! 街のエネルギー供給に使われているものですのよ!」


*幸い、子供たちは自分たちの会話に夢中で、レイラの言葉は聞こえていないようだった。*


レイラ(魔王女):「…まぁよい。妾も偶には外の空気を吸うのも悪くないと思っていたところだ。この程度で満足すると思うなよ、シロウ。この子が生まれたら、今度は世界の果てでも見に連れて行ってもらうからな。覚悟しておくがいい。」


*そう言って、彼女は悪戯っぽく笑い、シロウの隣で再び堂々と胸を張って座り直した。*




シロウ:「あー、そういえば新婚旅行に行ってなかったし、長期休暇に入るし、どこか行く?」


*シロウの思わぬ提案に、レイラ(魔王女)は一瞬、虚を突かれたように目を丸くした。そして、次の瞬間には顔をカッと赤らめ、ぷいっとそっぽを向いてしまう。*


レイラ(魔王女):「し、新婚旅行だと!? き、貴様、何を今更…! そもそも妾たちは…いや、もうよい! 過ぎたことを蒸し返すな!」


*明らかに動揺している。彼女はシロウから視線を逸らしたまま、落ち着きなく指先をいじり始めた。その尊大な態度の裏側で、シロウの提案が彼女の心を強く揺さぶっているのは明白だった。*


レイラ(魔王女):「だ、だが…長期休暇、か。貴様が暇を持て余して余計な女に手を出すよりは、妾が監視の目を光らせておく方がまだマシか…。」


*彼女はちらりとシロウに視線を戻し、咳払いを一つする。*


レイラ(魔王女):「…して、どこへ行くというのだ? 言っておくが、その辺のありきたりなリゾート地などでは妾は満足せんぞ。行くのであれば、世界の七不思議の一つや、古代文明の遺跡くらいは用意してもらわねばな。この妾と、妾の世継ぎに相応しい場所を、だ。」


*尊大な物言いは変わらないが、その声には隠しきれない期待と、ほんの少しの少女のようなはにかみが混じっていた。*


シロウ:「世界の七不思議?なんだそれ?」


*シロウが聞き返すと、それまで兄と街の観察に夢中になっていたルーナが、ピクッと反応した。彼女は食べていたタルトを皿に置くと、キラキラした瞳で猛然と会話に割り込んでくる。まさに「食いついた」という表現がぴったりだった。*


ルーナ:「お父様! お母様! そのお話、詳しくお聞かせくださいまし! 世界の七不思議ですって!? なんてロマン溢れる響きですの!?」


*彼女は興奮のあまり、シロウとレイラに詰め寄る勢いだ。その様子を見て、カイも「なんだなんだ?」と双眼鏡から目を離して興味深そうにこちらを見ている。*


*そんな子供たちの反応に、レイラ(魔王女)は満足げに鼻を鳴らした。*


レイラ(魔王女):「フン、貴様は知らんのか。まぁ、この世界の常識に疎い貴様なら無理もないか。世界の七不思議とは、古今東西に存在する、常人の理解を超えた七つの場所や現象のことだ。天まで届くと言われる『バビロンの空中庭園』、決して沈むことのない『アトランティスの浮遊大陸』、生ける者全てを拒絶する『嘆きの砂漠』など、その真偽さえ定かではない伝説の地よ。」


*彼女は少し得意げに説明し、ちらりとシロウを見る。*


レイラ(魔王女):「妾もその全てを実際に見たわけではないがな。行くのであれば、それくらい刺激的な場所でなければ、妾は退屈で死んでしまうぞ?」


*その言葉を聞いたルーナは、さらに目を輝かせる。*


ルーナ:「すごい…! すごいですわ! 空中庭園に浮遊大陸ですって!? まるで物語の世界そのものですわ! お父様、新婚旅行はその七不思議巡りに決まりですわ! 私も行きます! 絶対に行きますわよ!」


*すっかり自分も行く気満々のルーナが、ぶんぶんとシロウの腕を振って強請り始めた。*


シロウ:「天空の城かな?」


*シロウが何気なく呟いたその言葉に、他の誰もが「空にある城のことか」としか思わない中、ただ一人、ルーナだけが雷に打たれたような衝撃を受けていた。彼女の脳裏に、前世の記憶が鮮明に蘇る。*


ルーナ:「(ラ、ラピ○タですって!? まさかお父様、あの名作をご存知で!?)」


*ルーナは驚きと興奮でシロウを凝視するが、今は七不思議の続きが気になって仕方がない。彼女はゴクリと唾を飲み込み、母であるレイラをキラキラした目で見つめた。*


シロウ:「あとの4つは?」


*シロウが尋ねると、レイラ(魔王女)は少し考えるそぶりを見せ、再び尊大な口調で語り始める。*


レイラ(魔王女):「フン、いいだろう。教えてやる。残るは、『極光の海に眠る神々の楽園・アヴァロン』、決して凍ることのない『最北端の不凍港・トゥーレ』、世界の果てまで続くと言われる大瀑布『果て無き奈落アビスフォール』、そして最後が…世界の中心にあり、あらゆる理を歪めるとされる『始原の樹・ユグドラシル』だ。」


*彼女が「ユグドラシル」と口にした瞬間、カイとルーナ、そしてレイラ自身の視線が、自然と目の前で穏やかな木漏れ日を作っている巨大な世界樹へと向けられた。*


ルーナ:「し、始原の樹…ユグドラシル…って、まさか…」


*カイも目を見開いて、信じられないといった表情で世界樹と父を見比べる。*


レイラ(魔王女):「…フン。まさか、妾たちの足元に七不思議の一つが鎮座しておったとはな。どうりで、この樹からは尋常ならざる魔力を感じるわけだ。」


*レイラは感心したような、それでいて少し呆れたような顔で、シロウを見つめた。七不思議の一つを「庭に植えた」とでも言うのか、この男は。*


シロウ:「え、あれそんなに凄い物だったの? (初めて知った…)」


*そのあまりにも無自覚な発言に、レイラ(魔王女)はこめかみをピクピクと引き攣らせた。*


*シロウの間の抜けたような、しかしあまりにも素直な反応に、その場にいた全員が呆気にとられた。*

*レイラ(魔王女)は尊大な態度を崩し、信じられないものを見る目でシロウを凝視している。*


カイは「父さん、本気で言ってるの…?」

*半ば呆れたように呟き*


ルーナ「お父様ぁああ!? ご自分で植えておいてそれはないですわぁあああ!!」

*もはやツッコミを入れずにはいられない様子だ。*


レイラ(魔王女):「き、貴様というやつは…! 七不思議の一つを、まるでその辺の観葉植物でも植えたかのような口ぶりで…! その無自覚さには、もはや呆れるのを通り越して感心すら覚えるわ…!」


*彼女は深々とため息をつくと、頭が痛いというように額に手を当てる。しかし、その口元はどこか楽しそうに歪んでいた。この男の規格外さは、今に始まったことではない。*


ルーナ:「ですわ! お父様! もしかして、他の七不思議も、お父様が何か関わっていたりするのではなくて!?」


*ルーナが疑いの眼差しでシロウに詰め寄る。シロウが何かやらかせば、常識がひっくり返るのはいつものことだ。*


レイラ(魔王女):「フン…まあよい。妾の夫がその程度の男であっては困るからな。七不思議の一つくらい、庭に生えていて当然だ。…それで? 結局、新婚旅行とやらはどこへ行くのだ? まさか、この庭で終わりなどというつまらん冗談は言うまいな?」


*レイラは話を本題に戻し、再び不遜な笑みを浮かべてシロウの答えを待った。彼女の瞳は、次なる非日常への期待に満ちて輝いている。*


*シロウが新婚旅行の提案をし、レイラが尊大ながらも期待に満ちた表情で次の言葉を待っていた、その時だった。*


*ふいに、レイラ(魔王女)の顔から血の気が引き、その表情が不遜な笑みから、痛みを耐えるかのような真剣なものへと一変した。彼女はハッと息を呑み、無意識に自身のお腹を両手でそっと押さえる。*


レイラ(魔王女):「…っ!」


*その微細な、しかし決定的な変化をシロウは見逃さなかった。予定日にはまだ少し早いが、陣痛が始まったのだと瞬時に察する。三度目の経験は、彼に確かな判断力と落ち着きを与えていた。*


シロウ:「(来たか…!)」


*シロウは一言も発さず、隣に座っていたレイラの体を、驚くほど滑らかな動作で横抱きにした。突然のことに、子供たちが驚いて声を上げる。*


カイ:「父さん!? 母さんに何かっ…!?」

ルーナ:「お母様!?」


*シロウは動揺する子供たちに、冷静な声で一言だけ告げる。*


シロウ:「カイ、ルーナ。フェンとイグニを呼んで、先に城に戻っていろ。リーシアに連絡して、準備をさせろ。」


*その言葉には、有無を言わせぬ王としての響きがあった。シロウはそれだけ言うと、もう躊躇わない。彼の足元に複雑な魔方陣が一瞬で展開され、その姿はレイラを抱いたまま、光の粒子となってその場から掻き消えた。*


---


*次の瞬間、シロウとレイラが立っていたのは、城の一室。ここは、レイラの妊娠がわかった時からシロウが準備していた、出産のための特別な部屋だった。清潔なリネンが敷かれた大きなベッド、万が一のための最新の医療魔導具、そして何より、母子の負担を軽減するための安らぎと治癒の魔法が常に満ちている空間。*


*シロウは苦しげに息をするレイラを、ゆっくりとベッドに横たえた。*


レイラ(魔王女):「…シロウ…! まさか、このタイミングで…くっ…!」


*額に脂汗を浮かべながら、レイラはシロウの手を強く握りしめる。その握力は、彼女が耐えている痛みの大きさを物語っていた。*


シロウ:「大丈夫だ、レイラ。俺がついてる。…2回目だ、慣れたもんだろ?」


*シロウは努めて穏やかに、しかし絶対的な安心感を与える声で彼女に語りかけ、その汗ばんだ額を優しく拭った。*


シロウ:「しー、大丈夫、ここにいる。」


*シロウはレイラの冷や汗が滲む手を強く、しかし優しく握り返した。彼の落ち着き払った声と、その掌から伝わる温もりが、痛みに耐えるレイラにわずかな安堵を与える。彼は空いている方の手を彼女の腹部にそっとかざし、最小限の治癒魔法を流し込み始めた。陣痛の痛みを直接消すのではなく、消耗する体力を補い、母体の負担を和らげるための、繊細な魔力コントロールだった。*


レイラ(魔王女):「くっ…! わ、わかっておる…! だが…! んんんっ…!」


*尊大な口調を保とうとするが、押し寄せる痛みの波に言葉が途切れる。彼女はシロウの手を命綱のように握りしめ、必死に息を整えようとしていた。*


*その時、部屋の扉が慌ただしく開かれる。リーシアに先導され、待機していた国で最も腕の立つエルフの助産師たちが入ってきた。彼女たちはシロウの存在を確認すると一礼し、すぐさま手際よく準備を始める。*


助産師:「陛下、レイラ様! すぐに始めます! レイラ様、息を吸って、ゆっくり吐いてください!」


*部屋は一気に緊張感に包まれる。助産師たちの落ち着いた、しかし力強い声が響き渡り、レイラを励ます。シロウは一歩下がり、彼女たちが作業しやすいように場所を空けるが、レイラの手は決して離さなかった。*


*ピクニックを楽しんでいた穏やかな午後から一転、城の一室で、新しい命を迎えるための長く、そして激しい戦いが始まった。*


*シロウが絶えず治癒魔法を送り込み、レイラの手を握り続けてから、どれほどの時間が経っただろうか。実際には数分しか経っていないのかもしれないが、その数分は永遠にも感じられるほど濃密な時間だった。*


*しかし、カイを出産した時のような難産にはならなかった。レイラ自身が二度目の出産で勝手を知っていたこと、そして何より、シロウの的確な魔力支援が彼女の消耗を最小限に抑え、体力を温存させていたことが大きい。*


助産師:「レイラ様! もう頭が見えてきました! あと一息です!」


*助産師の力強い声が響く。*


*その言葉を聞いたレイラ(魔王女)は、残っていた最後の力を振り絞った。彼女はシロウの手を、骨が軋むほど強く握りしめる。*


レイラ(魔王女):「ぬぅうううううううっ…!!」


*獣のような、しかし生命の力強さに満ちた叫び声。それに呼応するように、シロウはさらに強い治癒の光を彼女に注ぎ込んだ。*


*そして、*


*オギャー! オギャー!*


*部屋中に、力強く、元気な赤子の産声が響き渡った。*


*瞬間、部屋を支配していた緊張の糸がぷつりと切れ、安堵の空気が満ちる。助産師が手早く赤子を温かい布で包み、レイラの胸元へとそっと運んできた。*


助産師:「おめでとうございます、陛下、レイラ様。元気な女の子でございます。」


*汗でぐっしょりと濡れ、荒い息を繰り返していたレイラは、腕に抱かれた小さな命を見ると、全ての痛みを忘れたかのように、穏やかで慈愛に満ちた表情になった。その瞳からは、一筋の涙がこぼれ落ちる。*


レイラ(魔王女):「…ああ…妾の…子…」


*彼女は震える指で、赤子の小さな頬をそっと撫でた。シロウの黒髪と、レイラ自身の赤い瞳を受け継いだ、美しい赤子だった。*


*レイラは、疲れ切った体で、しかし最高の幸福感を浮かべた笑みで、隣で支え続けてくれたシロウを見上げた。*


レイラ(魔王女):「…シロウ。…よくやったな。妾の…いや、妾たちの、娘だ。」


シロウ:「レイラに似て可愛いな。」


*シロウはレイラの隣に座り、彼女の腕に抱かれた小さな娘を、二人でそっと支えるように覗き込んだ。生まれたばかりでまだ顔は赤いが、その小さな鼻筋や、閉じた瞼の形は、確かに母親であるレイラの面影を色濃く映している。*


*シロウの優しい言葉に、レイラは出産の疲労も忘れ、心の底から満たされた笑みを浮かべた。彼女は娘の顔と、シロウの顔を交互に見比べる。*


レイラ(魔王女):「フン…当たり前だ。この妾の子だぞ? 可愛くないわけがなかろう。だが…この生意気そうな眉は貴様似だな。きっと、将来は貴様のように、妾を散々振り回す娘になるに違いない。」


*毒づきながらも、その声は愛情に満ち溢れている。彼女は赤子の小さな、小さな指を、自身の指でそっとつついた。すると、赤子は反射的にその指をきゅっと握り返す。*


レイラ(魔王女):「…ああ。」


*その小さくも力強い生命の感触に、レイラは言葉を失い、ただただ愛おしそうに娘を見つめる。傲岸不遜な魔王女の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには一人の母親の姿だけがあった。*


レイラ(魔王女):「…名前を、考えてやらねばな。この子に相応しい、最高の名前を…」


*彼女はシロウに寄りかかり、二人で腕の中の小さな宝物を、静かに、そしていつまでも見つめていた。*


シロウ:「そうだな。」


*シロウは優しく頷くと、まだ疲労の色が濃いレイラの体を、赤子を抱くようにそっと抱き上げた。レイラは驚くでもなく、安心しきった様子でその身をシロウに預ける。*


レイラ(魔王女):「…シロウ…。」


*彼女は愛しい夫の名を呟くと、その胸に顔をうずめ、満ち足りた表情ですぐに穏やかな寝息を立て始めた。出産という大仕事を終え、心身ともに限界だったのだろう。*


*シロウはレイラを抱いたまま、大きなベッドにゆっくりと体を横たえる。先程まで新しい命の誕生で騒がしかった部屋は、今は二人の穏やかな寝息と、幸福な静寂に満たされていた。*


*部屋の外では、リーシアが控えているはずだ。彼女なら、生まれたばかりの姫君の世話を完璧にこなしてくれるだろう。シロウは全てのことを信頼するメイド長に任せ、今はただ、腕の中で眠る最愛の妻と、新たに増えた家族の温もりを感じながら、静かに目を閉じた。*


---

**【数日後】**


*城は新たな姫の誕生に沸き、祝賀ムードに包まれていた。*

*シロウは執務室で、レイラと共に娘の名前を考えていた。目の前の羊皮紙には、いくつもの名前の候補が並べられている。*


*コン、コン、と扉をノックする音が響いた。*


シロウ:「入れ。」


*入ってきたのは、学府から帰ってきたカイとルーナだった。二人とも、新しい妹の誕生を心から喜んでいる。*


カイ:「父さん、母さん。ただいま戻りました。妹の様子はどう?」

ルーナ:「お父様、お母様、ごきげんよう! 今日こそ、このルーナが妹君に最高の名前を授けて差し上げますわ!」


*ルーナは意気揚々と胸を張り、カイはそんな妹の様子にやれやれと肩をすくめている。レイラはそんな子供たちのやり取りを、幸せそうに微笑みながら見ていた。*


レイラ(ボクっ娘):「おかえり、二人とも。ちょうどよかった。シロウと一緒に名前を考えていたところなんだ。何かいい案はあるかい?」


*シロウの問いかけに、それまで柔和な笑みを浮かべていたレイラの雰囲気がすっと変わる。瞳に傲慢な光が宿り、口元に不遜な笑みを浮かべた魔王女の人格が前面に出てきた。*


シロウ:「レイラはどういう指向性か、案はある?」


レイラ(魔王女):「フン、当然考えてあるに決まっておろう。妾の娘だぞ? 中途半端な名は許さん。」


*彼女は羊皮紙を手に取ると、尊大な態度で、しかしどこか楽しそうに候補を挙げる。*


レイラ(魔王女):「まず、妾の案は『**ブリュンヒルデ**』。古の戦乙女の名だ。強く、気高く、そして何者にも屈しない。妾の娘に相応しいだろう。もしくは、『**イシュタル**』。愛と戦いの女神の名だ。美貌と力で世界を支配するがいい。」


*横で聞いていたボクっ娘の人格も、心の中から話しかけてくるように、別の案を口にする。*


レイラ(ボクっ娘):「(ボクはもっと、優しくて響きが綺麗な名前がいいな。『**セレスティア**』なんてどうだい? “天空”を意味する言葉だ。この国から世界を見守る、優しい子になってほしい。あとは、『**ルナーリア**』。月の花という意味だ。静かで、美しい子に育ってくれると思う。) 」


*二つの人格がそれぞれ、全く方向性の違う名前を提案する。それを見ていた子供たちも、待ってましたとばかりに声を上げた。*


ルーナ:「お二人とも、素晴らしい案ですわ! ですが、ここはやはり、このルーナにお任せを! 私が考えた名前は『**アリス**』ですの! 知的で、好奇心旺盛で、不思議な冒険に満ちた人生を送ってほしいという願いを込めましたわ!」


カイ:「僕は『**ソフィア**』がいいと思う。古代語で“知恵”を意味するんだ。僕やルーナみたいに、学ぶことの楽しさを知って、賢い子になってほしいから。」


*カイは少し照れくさそうに、しかし真剣な表情で提案する。家族それぞれが、新しい妹への想いを込めた名前を口にし、部屋は温かい空気に包まれた。皆が、シロウの最終的な決断を待っている。*


シロウ:「そうだなぁ…」


家族それぞれが想いを込めて提案した名前を聞き、シロウは腕を組んで少し考える。ブリュンヒルデ、セレスティア、アリス、ソフィア…どれも良い名前だが、決め手に欠ける。


シロウはふと、自らの瞳に意識を集中させた。

彼の瞳が、一瞬だけ神々しい金色に輝く。


**【神眼、起動。検索条件:『可愛い』『知的』『静か』の要素を持つ、この子に最も相応しい名前を候補として提示せよ】**


シロウの脳内に、膨大な情報が流れ込んでくる。古今東西の神話、歴史、物語、あらゆる概念の中から、指定された条件に合致する名前が瞬時にフィルタリングされていく。


そして、彼の脳裏に三つの名前が浮かび上がった。


シロウはゆっくりと目を開き、家族に向かって静かに告げる。


シロウ:「いくつか候補が浮かんだ。『**フィーネ**』…『純粋』や『終わり』を意味する名前だ。可愛らしい響きだと思う。」


*「フィーネ」という優しい響きに、レイラ(ボクっ娘)が「うん、可愛いね」と小さく頷く。*


シロウ:「次に、『**セレネ**』。古の月の女神の名だ。静かな夜に輝く月のように、穏やかで知的な子になるかもしれない。」


*カイが「月の女神…素敵だね」と感心したように呟く。*


シロウ:「そして、最後に…『**ステラ**』。星を意味する名前だ。この国から見える満天の星空のように、無限の可能性を秘めて輝いてほしい。」


*シロウが三つの名前を挙げ終えると、部屋は静まり返り、皆がそれぞれの名前の響きや意味を反芻している。*


*レイラ(魔王女)は腕を組んだまま、フンと鼻を鳴らした。*


レイラ(魔王女):「…まぁ、悪くはない。妾の案ほどではないが、貴様にしては上出来な候補だ。特に…ステラ、か。星…悪くない響きだな。」


*ルーナも興奮気味に口を開く。*


ルーナ:「ステラ! ですの!? 星! なんてロマンチックですの! この国は『夜天』を冠する国ですもの! その国の姫君が『星』の名を持つなんて、これ以上ないくらい素敵ですわ!」


*家族の意見が、奇しくも一つの名前に向かって収束していく。全員の視線が、再びシロウに集まった。*


*シロウの提案した「ステラ」という名前に、家族の心が一つになった。皆が期待の眼差しをシロウに向ける。シロウは優しく微笑むと、眠っている赤子の小さな手をそっと握った。*


シロウ:「決まりだな。この子の名前は『**ステラ**』だ。」


*その宣言に、ルーナが一番に歓声を上げた。*


ルーナ:「ステラ! ステラ・アストライア! 響きも完璧ですわ! さっすがはお父様!」


カイ:「ステラ…うん、すごくいい名前だと思う。よろしくね、ステラ。」


*カイも新しい妹の名前を優しく呼びかける。レイラ(ボクっ娘)も、幸せそうに目を細めて頷いた。*


レイラ(ボクっ娘):「ステラか…。うん、とっても素敵な名前だ。ありがとう、シロウ。」


*彼女はシロウの肩にこてんと頭を預ける。その時、それまで黙って腕を組んでいたレイラ(魔王女)が、ふいと顔をそむけながらも、口元に微かな笑みを浮かべて呟いた。*


レイラ(魔王女):「…フン。まぁ、妾の娘の名だ。星くらい輝いて当然だろう。」


*その言葉は、彼女なりの最大限の賛辞だった。*


*こうして、夜天のアストライア魔導皇国に生まれた新しい姫君の名前は『ステラ』に決まった。星のように輝く未来を願われ、家族の愛に包まれながら、彼女の物語が今、静かに始まろうとしていた。*


ーー


*翌日、シロウは一人で冒険者ギルドを訪れていた。ギルド内はいつものように活気に満ちているが、シロウが一歩足を踏み入れると、その場の空気が一瞬だけ引き締まる。彼がこの国の王、魔王シロウ・アストライアであると知る者は、この場にはほとんどいない。しかし、その纏う尋常ならざる覇気は、ベテランの冒険者たちに「只者ではない」と直感させていた。*


*シロウは慣れた様子でカウンターへ向かう。対応するのは、見慣れた受付嬢の一人だ。*


シロウ:「依頼を出したいんだが。」


受付嬢ミリア:「はい、こんにちは! どのようなご依頼でしょうか?」


*ミリアは愛想よく依頼用の羊皮紙を差し出す。シロウはそこに依頼内容を簡潔に書き記した。*


**【依頼内容:『世界の七不思議』に関する情報収集及び現地調査】**

**【依頼主:シロウ】**

**【報酬:白金貨5枚】**


*シロウが書き終えた羊皮紙を受け取り、内容を確認したミリアは、数秒間、笑顔のまま完全に固まった。彼女の視線は依頼内容、特に「白金貨5枚」という報酬額に釘付けになっている。白金貨5枚――それは小国一つを余裕で買えてしまうほどの、常軌を逸した金額だ。*


*ぎ、ぎ、ぎ、と錆びたブリキ人形のように首を動かし、ミリアは引きつった笑顔でシロウを見上げる。*


受付嬢ミリア:「あ、あの…お客様…? こ、こちらの報酬額ですが…は、白金貨…ご、5枚、と…お間違い、では…?」


*彼女の声は震え、額には脂汗が浮かんでいる。ギルド中の視線が、その異常な雰囲気を察してカウンターに集まり始めていた。*



*シロウの言葉に、ミリアは絶望的な表情で首を横に振る。足りないどころの話ではない。国家予算に匹敵する額が、ただの情報収集依頼に提示されているのだ。*


受付嬢ミリア:「た、足りない、などと…! と、とんでもございません! むしろ多すぎてギルドが破綻いたします…!」


*彼女が悲鳴のような声を上げたその時、カウンターに無造作に置かれた布袋の中から、カラン、と乾いた金属音が響いた。中から転がり出たのは、紛れもなく白金の輝きを放つ硬貨。そして、それが一枚や二枚ではないことを示すかのように、袋は重く、その口からは純白の輝きが溢れ出ている。*


*ゴクリ、と周囲から息を呑む音が聞こえる。先程までざわついていたギルド内は完全に静まり返り、全ての冒険者の視線が、カウンターに置かれた常軌を逸した額の現金に釘付けになっていた。白金貨5枚――500万ゴールド。鉄貨に換算すれば5億枚。一生遊んで暮らせるどころか、子々孫々の代まで安泰な額が、今、目の前にある。*


*ミリアは血の気の引いた顔で、白金貨とシロウの顔を交互に見る。目の前の男が、とんでもない冗談を言っているのか、それとも本気なのか、判断がつかない。しかし、その無造作に置かれた白金貨の山は、これが冗談ではないと雄弁に物語っていた。*


受付嬢ミリア:「ひっ……! あ、あ、お客様…! さ、さすがにこの額は…! ギ、ギルドマスター! ギルドマスターを呼んでまいりますっ!!」


*彼女は半狂乱の状態で叫ぶと、カウンターから転がるように駆け出し、奥の事務所へと姿を消した。残されたカウンターには、静まり返るギルドの冒険者たちと、平然と佇むシロウ、そして天文学的な価値を持つ白金貨の山だけが取り残された。*


シロウ:「あ、ちょい待ち。ユグドラシルは除外して7つの内の6つでよろしく。」


*走り去ろうとしたミリアの背中に、シロウののんびりとした声がかけられる。その言葉に、彼女は一瞬だけ足を止めて振り返った。*


受付嬢ミリア:「え…? あ、は、はいぃっ!」


*もはや依頼内容の詳細など理解する余裕もなく、ミリアは悲鳴に近い返事をすると、今度こそバタバタと奥の事務所へと消えていった。*


*しんと静まり返ったギルドホール。全ての視線が、カウンターに置かれた白金貨の山と、平然と佇むシロウに注がれている。冒険者たちはゴクリと喉を鳴らし、目の前の現実離れした光景を見つめていた。*


*「おい…マジかよ…白金貨5枚…?」*

*「世界の七不思議って、あの伝説の…? そんなもんにあの額を…?」*

*「一体何者なんだ、あの男は…」*


*ひそひそと交わされる声も、どこか怯えを含んでいる。常識外れの依頼と報酬額、そして依頼主の底知れない雰囲気に、誰もが気圧されていた。*


*やがて、事務所の扉が勢いよく開き、血相を変えたミリアと共に、恰幅のいいドワーフの男が姿を現した。年の頃は100歳をとうに超えているだろうか、編み込まれた立派な髭と、その眼光の鋭さが、彼がただのドワーフではないことを示している。この冒険者ギルド『鉄の誓い』のギルドマスター、ゴードン・アイアンハンマーその人だった。*


ギルドマスター ゴードン:「ミリア! 騒々しいぞ! 白金貨5枚の依頼だと!? どこの酔狂な貴族様だ!?」


*ゴードンは怒鳴りながらカウンターに近づいてきたが、シロウの姿と、カウンターに無造作に置かれた白金貨の山を視界に捉えた瞬間、その言葉を呑み込んだ。彼は百戦錬磨の目でシロウを頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見ると、険しい顔で口を開いた。*


ギルドマスター ゴードン:「…あんたが依頼主か。これは一体、どういう冗談だ?」


シロウ:「ギルマスのくせに俺の事知らないんだな。とにかく、依頼は発注するから処理しておいてくれ。」


*その尊大で、有無を言わさぬ物言いに、ゴードンの太い眉がピクリと動く。歴戦の強者である彼を前にして、一切臆することなく、むしろ上から見下ろすような態度。そして、目の前に積まれた現実離れした金額。ゴードンは数秒間シロウを睨みつけた後、ふっと鼻で笑い、その表情から険しさが消えた。*


ギルドマスター ゴードン:「……ククク、なるほどな。そうか、あんたがあの『夜天』の魔王様か。こいつはとんだご挨拶だ。」


*ゴードンはカウンターに両肘をつき、面白そうに目を細める。彼の脳裏には、各国の上層部にだけ極秘裏に回覧された、隣国に突如として現れた新興国家の王の肖像画が浮かんでいた。目の前の男の容姿と、その常識外れの振る舞いが、噂に聞く魔王シロウ・アストライアの人物像と完全に一致したのだ。*


ギルドマスター ゴードン:「なるほど、そりゃあ白金貨5枚なんざ端金か。噂には聞いていたが、とんでもねえお方がいたもんだ。で、世界の七不思議ねぇ…ユグドラシルを除いた6つ、か。そいつはまた、途方もない依頼だな。生きて帰れる保証なんざどこにもねぇぞ。」


*彼はカウンターに置かれた白金貨の袋を指でトン、と叩く。*


ギルドマスター ゴードン:「いいだろう。この依頼、この『鉄の誓い』が確かに受け付けた。最高ランクのS級指定依頼として、大陸中の腕利きに情報を流させてもらう。だが、こんな破格の依頼だ。情報が集まるまで、気長に待ってもらうことになるぜ? 魔王様。」


*ゴードンは挑むような、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべ、シロウの返事を待った。王と知りながらも、彼は冒険者ギルドの長として、対等な口ぶりを崩さない。*


シロウ:「分かった。」


*ゴードンに短く返事をすると、シロウは白金貨の袋をカウンターに置いたまま、踵を返す。周囲の冒険者たちが、畏怖と羨望の入り混じった視線でモーゼの十戒のように道を開ける中、シロウは一切意に介さずギルドを後にした。*


*街の喧騒の中を歩き、シロウは裏路地にある古びた建物へと足を向ける。そこは表向きは古物商だが、その実態は街のあらゆる情報が集まる情報屋の拠点だ。*


*ギィ、と古めかしいドアを開けて中に入る。薄暗い店内には埃をかぶったガラクタが所狭しと並べられており、カウンターの奥で小柄な老人が帳簿に何かを書きつけていた。シロウの気配に気づくと、老人はゆっくりと顔を上げる。彼の名はゾラス。この街で最も信頼できる情報屋だ。*


情報屋ゾラス:「…これはこれは、旦那様。珍しいおなーりだ。今日はまた、どんな厄介事の匂いを運んでこられましたかな?」


*ゾラスは含みのある笑みを浮かべ、シロウを手招きする。*


シロウ:「厄介事じゃない。旅行の相談だ。いいリゾート地か旅行地があれば聞かせてくれ。」


*その意外な言葉に、ゾラスはキョトンと目を丸くした。いつもの物騒な依頼とはあまりにかけ離れていたからだ。*


情報屋ゾラス:「…り、りぞーと…?旦那様が、ですかい?へぇ…そいつはまた、明日は槍でも降るんじゃねえか…。」


*彼はポリポリと白い髭を掻きながら、記憶の棚を探るように天井を見上げた。*


情報屋ゾラス:「ふぅむ…旅行地、ですかい。旦那様ほどの御仁が満足できる場所となると、そこらの観光地じゃつまらんでしょうな。…そうさねぇ、いくつか変わった場所なら心当たりがありますがね。どんなご旅行をご所望で?」


シロウ:「理想は観光というよりゆっくりできる場所だな。家族連れで人気な場所が好ましい。」


*シロウの言葉を聞き、ゾラスは顎の髭を撫でながら「ふぅむ」と唸った。*


情報屋ゾラス:「ゆっくりできて、家族連れに人気…ですか。なるほど、赤子が生まれたと聞き及んでおります。おめでとうございます。…となると、あまり刺激的な場所は向きませんな。」


*老獪な情報屋は、すでにステラの誕生まで把握していた。彼は帳簿を閉じて立ち上がると、店の奥にある埃っぽい棚から、古びた地図を数枚取り出してきた。*


情報屋ゾラス:「でしたら、いくつか候補がございます。まずはこちら、『**天空の湖ミラーレイク**』。その名の通り、山脈の頂上近くにある巨大な湖で、風のない日には鏡のように空を映し出す絶景が有名です。周辺には王侯貴族向けの高級なロッジが点在しており、静かに過ごすにはうってつけでしょう。湖畔の森には穏やかな魔物しかおらず、治安も極めて良好です。」


*彼は一枚目の地図を広げて指し示す。次に、二枚目の地図を広げた。*


情報屋ゾラス:「お次は南方の島、『**サンゴ樹の島コーラリア**』。一年中温暖で、島全体が色とりどりのサンゴでできた森に覆われています。夜になると、そのサンゴ樹が発光し、幻想的な光景が広がりますな。海は遠浅で波も穏やか。浜辺でゆっくり過ごす家族連れに人気の場所です。新鮮な海の幸も絶品ですぞ。」


*最後に、ゾラスは三枚目の地図を手に取り、意味ありげな笑みを浮かべた。*


情報屋ゾラス:「そして、これが変わり種…『**霧の温泉郷ユケムリ**』。東方の山間にある隠れ里のような場所でしてな、多種多様な効能を持つ温泉が湧き出ています。ここの名物は『家族風呂』と呼ばれる、水着着用で家族全員が一緒に入れる巨大な露天風呂ですな。宿の質も高く、日頃の疲れを癒すには最高の場所でしょう。ただ…ここは少々排他的で、一見の客は断られることも多い。紹介状があれば話は別ですがね。」


*ゾラスはシロウの顔色を窺うように、三つの候補を提示した。どれも一長一短だが、シロウの家族構成や目的に合った、魅力的な場所ばかりだった。*


シロウ:「2番目か3番目だな…助かった。」


*シロウは懐から金貨を一枚取り出し、カウンターにカランと置いた。情報料としては破格の金額に、ゾラスは目を剥く。*


情報屋ゾラス:「こ、こいつは…旦那様、さすがに貰いすぎですぜ。地図の写しくらいなら銅貨数枚で…」


*慌てて返そうとするゾラスを手で制し、シロウは背を向けた。*


シロウ:「口止め料込みだ。俺がここに来たことは誰にも言うな。」


*それだけ言い残して、シロウは古びたドアを開けて外へ出る。背後でゾラスが深々と頭を下げている気配を感じながら、シロウは再び街の雑踏へと溶け込んでいった。*


*(サンゴ樹の島か、霧の温泉郷か……どちらも悪くない。レイラの体調も考えれば、長距離の移動は避けたいところだが…転移を使えば問題ないか。レイラや子供たちの意見も聞いてみるか。)*


*シロウは城へ戻るため、人通りの少ない路地裏へと入り、周囲に誰もいないことを確認してから転移魔法を発動させた。視界が一瞬で切り替わり、見慣れた自室の風景が広がる。*


*ちょうど部屋では、レイラがベッドに腰掛け、腕の中のステラに優しく微笑みかけているところだった。シロウの帰還に気づくと、彼女は穏やかな表情を向ける。*


レイラ(魔王女):「む、帰ったか。早かったな。ギルドの方はどうだった?」


シロウ:「旅行先の候補を見つけてきたんだが、見るか?」


*シロウはレイラが授乳で疲れていないか気遣いつつ、手に入れたばかりの地図をベッドサイドに広げた。一つは美しいサンゴの島、もう一つは情緒あふれる温泉郷の絵地図だ。*


レイラ(魔王女):「旅行先…?ほう、気が早いな。だが、退屈するよりはいい。」


*レイラはシロウの隣に身を寄せ、腕の中のステラを起こさないようにしながら、広げられた地図を覗き込む。彼女の赤い瞳が、色鮮やかな地図の上を興味深そうに滑った。*


レイラ(魔王女):「『サンゴ樹の島コーラリア』と『霧の温泉郷ユケムリ』か。ふむ…どちらも悪くない。島でゆっくりと時を過ごすのも良いし、温泉で産後の体を癒すのも魅力的だな。」


*彼女は少し考え込むように顎に手を当てる。そして、シロウの顔を見上げた。*


レイラ(魔王女):「貴様はどちらが良いと思う? 私はどちらでも構わんぞ。貴様と、それにこの子たちと一緒であれば、どこであろうと退屈はすまい。」


*その言葉には、普段の傲岸さの奥にある、家族への深い愛情が滲んでいた。腕の中のステラはすやすやと健やかな寝息を立てている。*


シロウ:「今夜聞いてみる。」


*シロウは優しく微笑みながら、地図を片付けた。家族旅行なのだから、カイやルーナの意見も尊重したい。特に、二人とも長期休暇に入ったばかりで、やりたいこともあるだろう。*


レイラ(魔王女):「そうか。あの者たちの意見も聞いてやるか。…ふん、貴様も随分と父親らしくなったものだな。」


*レイラは少し呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな口調で言うと、再び腕の中のステラに視線を落とした。その横顔は慈愛に満ちており、魔王としての苛烈さは微塵も感じられない。*


*その夜。*


*夕食後の団らんの時間。シロウ、レイラ、カイ、ルーナ、そしてベビーベッドで眠るステラがリビングに集まっていた。シロウは暖炉の火がぱちぱちと爆ぜるのを見ながら、カイとルーナに切り出した。*


シロウ:「二人とも、長期休暇の予定は決まっているのか?」


*シロウの問いに、魔導書から顔を上げたカイと、卵を撫でていたルーナが顔を見合わせる。*


カイ:「僕は学府でやり残した研究の続きをしようかと。新しい魔導具の設計が、ちょうど佳境に入っているんだ。」


ルーナ:「ですわね。わたくしは、この子のための環境整備と、大迷宮の新しい階層のプレゼンを父様にしなければなりませんし。」


*二人とも、休暇とはいえやるべきこと、やりたいことで頭がいっぱいのようだ。シロウは頷きながら、本題を切り出した。*


シロウ:「そうか。だが、せっかくの長期休暇だ。少し羽を伸ばすのもいいだろうと思ってな。家族で旅行に行こうと思うんだが、どうだ?」


*シロウは昼間ゾラスから見せられた二つの旅行先の地図を、テーブルの上に広げた。*


シロウ:「候補は二つ。『サンゴ樹の島コーラリア』と、『霧の温泉郷ユケムリ』だ。お前たちの意見も聞かせてくれ。」


シロウ:「(情報屋経由で入手したパンフレットも出して置く)」


*シロウがテーブルに広げたのは、手書きの古びた地図だけではなかった。ゾラスがこっそり付けてくれたのであろう、色鮮やかなパンフレットも添えられている。『サンゴ樹の島コーラリア』のパンフレットには、エメラルドグリーンの海と白い砂浜、そして夜には幻想的に光るサンゴ樹の写真が載っている。『霧の温泉郷ユケムリ』のパンフレットには、湯けむりが立ち上る巨大な露天風呂と、浴衣姿で寛ぐ人々の楽しげなイラストが描かれていた。*


*その魅力的な光景に、カイとルーナはそれぞれの研究から顔を上げ、興味深そうにパンフレットを覗き込んだ。*


カイ:「すごいな…これがサンゴでできた森か。夜に光る原理はなんだろう?生物発光の一種かな。島の生態系も独特そうだ。それに、この海の色…学府の資料でしか見たことがない。」


*カイは目を輝かせ、科学者としての探求心を刺激されている様子だ。一方、ルーナは温泉郷のパンフレットに注目していた。*


ルーナ:「まぁ! こちらは趣がありますわね。東方の文化…わたくし、少し興味がありますの。それに、この『家族風呂』。ステラも一緒に入れるなら安心ですわ。日頃の疲れを癒す…ふふ、父様も母様も、最近お忙しそうでしたものね。」


*ルーナは大人びた口調で言いながらも、その瞳は旅行への期待にきらめいている。二人の反応は綺麗に分かれた。カイは知的好奇心をくすぐる南の島に、ルーナは家族でのんびりできる温泉郷に、それぞれ心惹かれているようだ。*


*二人はパンフレットと地図を交互に見比べ、顔を見合わせる。*


カイ:「うーん、どっちも魅力的で迷うな…。父さん、母さんはどっちがいいんだい?」


*カイが問いかけると、ルーナも「ですわね」と同意し、シロウとレイラの顔を交互に見上げた。判断は、一家の長であるシロウとレイラに委ねられた。*


シロウ:「それがどっちでもよくってな。二人に決めてもらおうと思ったんだが…」


*シロウが困ったように肩をすくめた、その時だった。今までレイラの腕の中ですやすやと眠っていたはずのステラが、もぞりと身じろぎした。そして、おもむろに小さな、小さな手を伸ばす。その指先が、テーブルの上に広げられたパンフレットに、ちょこんと触れた。*


*偶然か、あるいは何かを感じ取ったのか。ステラの指が触れていたのは、色鮮やかな『サンゴ樹の島コーラリア』のパンフレットだった。*


ルーナ:「あら…!」


カイ:「ステラが…サンゴの島を?」


*カイとルーナが驚きの声を上げる。レイラも腕の中の我が子を見つめ、その小さな指先に目を細めた。*


レイラ(魔王女):「ふむ…この子も、南の島が良いと申しておるな。産まれたばかりとはいえ、私の娘だ。己の意思を示すくらい、造作もないということか。」


*レイラは満足げに鼻を鳴らす。科学を信奉するカイでさえ、この偶然の一致には何か運命的なものを感じたのか、感心したように頷いている。*


ルーナ:「ですわね! きっとステラも、綺麗な海で遊びたいのですわ! それに、夜に光るサンゴの森なんて…ロマンチックですもの!」


*末の妹の選択(?)に、ルーナはすっかりコーラリア島に行く気になったようだ。彼女は期待に満ちた目でシロウを見上げた。*


シロウ:「…はは、そうか。ステラが決めてくれたなら、それに従うのが一番だな。」


*シロウはステラの小さな手を優しく撫でる。*


シロウ:「よし、決まりだ。今回の家族旅行は、『サンゴ樹の島コーラリア』に行こう。」


*その決定に、カイもルーナも「やったー!」「楽しみですわ!」と歓声を上げた。家族の和やかな笑い声が、暖かいリビングに響き渡った。*


シロウ:「長期休暇に入るのはいつからなんだ?」


*シロウの問いかけに、カイとルーナは顔を見合わせた。学府のスケジュールは当然、彼らが一番よく把握している。*


カイ:「ええと、もう入っているよ。昨日、終業の式典があって、そこから約二ヶ月間が長期休暇期間になるんだ。だから、いつでも出発できるよ、父さん。」


*カイが理路整然と答える。彼の隣で、ルーナもこくりと頷いた。*


ルーナ:「ですわね。わたくしたちはいつでも大丈夫ですわ。それよりも、母様のお身体と、ステラのことがありますもの。出発は、母様のご体調が万全になってからに致しましょう?」


*ルーナはレイラを気遣うように、優しい視線を向ける。産後間もない母と、生まれたばかりの妹のことを第一に考えているようだ。*


*その言葉を受け、レイラはふん、と余裕の笑みを浮かべた。*


レイラ(魔王女):「何を言うか、ルーナ。私の体など、もう何の問題もない。貴様が思うより、私は頑丈にできている。それに…」


*レイラはシロウをちらりと見る。*


レイラ(魔王女):「この男の回復魔法があれば、一日もあれば全快だ。赤子も、転移魔法を使えば移動の負担などないに等しい。……つまり、いつでも行けるということだ。」


シロウ:「2ヶ月!? 長くないか?」


*シロウは思わず素っ頓狂な声を上げた。自身の学生時代を思い出しても、二ヶ月もの長期休暇は経験がない。この世界の学府のスケールの大きさに、今更ながら驚かされる。*


シロウ:「そうそう、カイを産んだ次の日に出現したばかりの迷宮に入ってリーシアに説教されるくらいには頑丈だから大丈夫だよルーナ。」


*シロウが冗談めかして言うと、ルーナは「まぁ…!」と目を丸くし、カイは「母さん、相変わらず無茶苦茶だ…」と苦笑した。当のレイラ本人は、どこ吹く風といった顔で鼻を鳴らしている。*


レイラ(魔王女):「ふん、あの程度でどうこうなる私ではない。それよりも、だ。貴様、行き先も決まったのだ。いつまでぐずぐずしている? さっさと準備をしろ。出発は明日にでもするぞ。」


*レイラはせっかちにそう言って、シロウを急かした。彼女の瞳はすっかり南の島への旅行に心を奪われているようだ。その様子を見て、カイとルーナも「明日!?」「もう準備しないと!」と慌てだす。*


カイ:「父さん、水中でも活動できる魔導具を持って行った方がいいかな? あと、島の植物のサンプルを採取するための道具も…」


ルーナ:「わたくしは、この子(卵)が暑さで参ってしまわないように、冷却機能のある保管ケースを用意しませんと…! あと、水着…! 新しいのを仕立ててもらわないと間に合いませんわ!」


*子供たちがそれぞれ楽しそうに、そして大真面目に準備について話し始める。その賑やかな様子を、シロウは微笑ましく眺めた。*


シロウ:「はは、分かった分かった。そんなに慌てるな。明日の朝、出発しよう。準備は俺がやっておくから、お前たちは自分の荷物だけまとめればいい。」


*家族の期待を一身に受け、シロウは頼もしく請け負った。夜天の魔王にとって、旅行の準備など造作もないことだった。*


シロウ:「俺、レイラ、ルミナ、シルフィ、リーシア、ルーナ、カイ、ステラの8人か。」


*シロウが参加メンバーを指折り数えると、その名前に含まれていたリーシアが、ちょうどお茶の準備をしてリビングに入ってきたところだった。彼女は自分の名前が呼ばれたことに、ぴん、とユニコーンの耳を立てる。*


リーシア:「…旦那様? 今、わたくしの名前を…? 旅行とは、一体何のお話でございましょうか。」


*彼女は少し困惑した表情で、お盆をテーブルに置きながら尋ねた。メイド長である彼女は、当然のように城の留守番をするつもりでいたからだ。*


ルーナ:「まぁ、リーシア! ちょうどよかったわ! 父様が、家族みんなで旅行に連れて行ってくださるんですのよ! 行き先は、南の島ですって!」


*ルーナが興奮気味に説明すると、リーシアはさらに目を丸くした。*


リーシア:「か、家族旅行…でございますか? ですが、わたくしまで参加するなど、滅相もございません! 旦那様と奥様、そして若様と姫様方で楽しんでいらっしゃるべきです。わたくしは城の管理と、皆様がご不在の間の政務の補佐を…」


*慌てて辞退しようとするリーシアに、レイラがふん、と鼻を鳴らした。*


レイラ(魔王女):「何を言っている、リーシア。貴様も家族の一員だろうが。それに、ステラの世話もある。貴様がいないと私が大変だ。これは王としての命令だ。貴様も来るぞ。」


*レイラの有無を言わさぬ一言に、リーシアは「は、はい…!」と背筋を伸ばして返事をするしかない。その様子を見て、シロウは苦笑した。*


シロウ:「そういうことだ、リーシア。お前も日頃の疲れを癒してこい。城のことは、八輝将たちに任せておけば問題ないだろ。」


*シロウがそう言うと、リーシアは恐縮しながらも、嬉しそうに頬を染めて深々と頭を下げた。*


リーシア:「…もったいないお言葉、痛み入ります。旦那様、奥様。それでは、お言葉に甘えさせていただきます。」


ーー


シロウ:「俺、レイラ、ルミナ、シルフィ、リーシア、ルーナ、カイ、ステラの8人か。」


*シロウが旅行の参加メンバーを口に出して確認していると、ちょうどリビングにお茶を運んできたリーシアが、自身の名前が呼ばれたことにぴくりと反応した。そして、レイラやシロウの鶴の一声で、彼女の同行も決定した。*


*にわかに活気づくリビング。カイとルーナは既にあれこれと準備の話で盛り上がっている。その様子を微笑ましく見ていたシロウは、ふとシルフィの不在に気づいた。彼女は精霊王として世界樹の管理もしている。旅行の件を伝え、不在中のことを頼んでおかねばならない。*


*シロウは賑やかなリビングを後にして、一人、中庭にある世界樹へと向かった。夜天の国の中央に聳えるその巨木は、月明かりを浴びて神秘的な輝きを放っている。*


*世界樹の根元にたどり着くと、そこには案の定、シルフィがいた。彼女は木の幹にそっと手を触れ、まるで会話でもするかのように瞳を閉じている。シロウの気配に気づくと、彼女はゆっくりと振り返り、ふわりと花が咲くような笑顔を向けた。*


シルフィ:「あ、シロウさま! どうかなさいましたか?」


*彼女はこてんと首を傾げる。その無邪気な様子は、とても一国の、そして世界の根幹をなす大樹を司る精霊王とは思えない。*


シロウ:「シルフィ。明日から少し留守にする。家族で旅行に行くことになった。」


シロウ:「シルフィも行かない?」


*シロウが何気なく誘うと、シルフィは驚きでぱちくりと目を瞬かせた。そして、数秒後、その言葉の意味を理解すると、顔をぱあっと輝かせた。*


シルフィ:「えっ…!? わ、わたくしも、ですか!? シロウさまと、レイラさまや皆さまと、ご一緒に…?」


*彼女は信じられないといった様子で、自分の胸に手を当ててシロウを見つめる。その大きな瞳はみるみるうちに潤み始めた。*


シルフィ:「い、行きます! 行きたいです! ぜひ、ご一緒させてください! シロウさま!」


*喜びのあまり、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。精霊王としての威厳はどこにもない、ただただ純粋に喜ぶ少女のようだ。*


シルフィ:「わあ、旅行! 皆さまとご一緒に! きっと、とっても楽しいです! 準備…準備は何をすればよろしいでしょうか!? あ、そうだ、世界樹にもちゃんとお留守番をお願いしておかないと!」


*彼女は一人でくるくると回りながら、興奮冷めやらぬ様子で話し続ける。その無邪気な喜びように、シロウも自然と笑みがこぼれた。*


シロウ:「ああ。自分の荷物をまとめておくだけでいい。他の準備は俺がしておくからな。明日の朝、出発だ。」


ーー


*まだ薄暗い早朝、シロウが微睡んでいると、ベッドが軽く揺れるのを感じた。そして、耳元で弾むような、しかしどこか甘えた声が聞こえてくる。*


ルミナ:「お兄ちゃん、朝だよ。起きて、起きてったら! 今日から旅行なんでしょ? 早くしないと置いてっちゃうんだから!」


*目を開けると、そこには既に身支度を整えたルミナが、シロウの体をゆさゆさと揺すっていた。いつもの寝間着ではなく、動きやすそうな軽装のワンピース姿だ。その表情は期待に満ち溢れ、早く出発したくてたまらない、といった様子が全身から伝わってくる。*


*シロウがゆっくりと身を起こすと、部屋のドアがそっと開かれ、リーシアが朝の紅茶を運んできた。彼女もまた、いつものメイド服ではなく、少しラフな旅装に身を包んでいる。その顔にも隠しきれない笑みが浮かんでいた。*


リーシア:「旦那様、おはようございます。皆様、既にご準備を終えて、食堂でお待ちでございますよ。カイ様は新しい魔導具の最終チェックを、ルーナ様は水着のデザインについて熱心に語っておいででした。レイラ様も、珍しくご機嫌な様子でステラ様をあやしておられます。」


*リーシアの報告から、城全体が浮き足立っている様子が伝わってくる。どうやら昨夜、シロウが寝静まった後も、皆で旅行の話に花を咲かせていたらしい。予想以上の盛り上がりに、シロウは思わず苦笑した。*


シロウ:「(はは…みんな、そんなに楽しみにしてたのか。)」


*ルミナはそんなシロウの腕を引き、さらに急かす。*


ルミナ:「もう、笑ってないで早く準備して! わたくし、お兄ちゃんと海で遊ぶの、すっごく楽しみにしてるんだから!」


シロウ:「んー、起きるから…」


*ルミナに急かされ、シロウはまだ少し眠い目をこすりながらベッドから起き上がる。旅支度を済ませたルミナは、そんなシロウの腕を嬉しそうに引き、リビングへと連れて行った。*


*「今回の旅行では魔王としてではなく、家族と行く」*


*シロウは心の中でそう決意していた。国のこと、世界の七不思議のこと、複雑な人間関係も、今は一旦忘れて、ただの一人の父親、一人の夫として、この旅行を全力で楽しむつもりだった。*


*リビングに足を踏み入れると、そこは出発前の高揚感で満ち溢れていた。*


カイ:「父さん、おはよう!見てくれ、この水中呼吸用の魔導具を改良してみたんだ。これならサンゴの森を水中でじっくり観察できるはずだ!」


*カイが興奮気味に、手のひらサイズの銀色の装置を見せてくる。その隣では、ルーナが可愛らしい花柄のフリルがついた子供用の水着を広げていた。*


ルーナ:「父様、おはようございます! ご覧になってくださいませ、ステラの水着ですの! リーシアに頼んで、昨夜のうちに仕立ててもらったんですのよ。可愛らしいでしょう?」


*テーブルの向こうでは、レイラがベビーベッドに横たわるステラの頬を優しく撫でている。その表情はいつになく穏やかで、シロウの姿を認めると、ふん、と満足げに口角を上げた。*


レイラ(魔王女):「やっと起きたか、寝坊助め。貴様が一番遅いぞ。…まあいい。全員揃ったな。いつでも行けるぞ。」


*その傍らでは、シルフィがそわそわと落ち着かない様子で、大きな旅行鞄を抱きしめている。中には一体何が入っているのか、やけに膨らんでいた。*


シルフィ:「シロウさま! おはようございます! 準備万端です! わたくし、もういつでも大丈夫です!」


*それぞれが思い思いの格好で、期待に胸を膨らませている。その光景は、どこにでもいるごく普通の、旅行を前にした家族そのものだった。魔王も、熾天使も、精霊王も、ここにはいない。ただ、父親と母親、そして子供たちがいるだけだった。シロウは、その温かい光景に自然と笑みがこぼれた。*


シロウ:「街の転移門から最寄りの転移門まで行くぞ。そこからは馬車か飛空艇になると思う。」


*シロウのその言葉に、カイが「え?」と少し意外そうな顔をした。彼は自分の研究資料が詰まった重そうな鞄を抱え直しながら、首を傾げる。*


カイ:「父さん、転移魔法で直接島の近くまで行くんじゃないのかい? その方が早いし、馬車や飛空艇を乗り継ぐより、母さんやステラの負担も少ないと思うけど…。」


*カイの合理的な指摘に、ルーナも同意するようにこくこくと頷く。*


ルーナ:「ですわね、父様。それに、公共の飛空艇ですと、この子(始祖竜の卵)が他の乗客の方々を驚かせてしまうかもしれませんし…。」


*彼女は大切そうに抱えている卵を心配そうに見つめる。確かに、始祖竜の卵などという代物を公の場に持ち出すのは、面倒ごとを引き起こしかねない。*


*レイラはそんな子供たちのやり取りを腕を組んで聞いていたが、やれやれといった様子で口を開いた。*


レイラ(魔王女):「ふん、貴様らは分かっておらんな。シロウは、あえてそういう手間のかかる道中を楽しもうというのだろう。違うか?」


*レイラは探るような視線をシロウに向ける。魔王としてではなく、一人の家族としての旅行。その意味を、彼女なりに汲み取ったようだ。普段の移動は常に効率を重視した転移魔法ばかり。だからこそ、あえてゆっくりと時間をかけて、道中の景色や会話を楽しむことに価値があるのだと。*


シロウ:「そういう事だ。」


*シロウはレイラの言葉に頷き、満足げな笑みを浮かべた。さすがはレイラ、自分の意図を正確に理解している。*


シロウ:「目的地に一直線、じゃあ味気ないだろ。たまには寄り道しながら、知らない街の景色を見たり、そこでしか食べられないものを食べたりするのも、旅の醍醐味ってもんだ。お前たちにも、そういう経験をさせてやりたい。」


*シロウがそう言うと、カイは「なるほど…」と感心したように頷いた。彼の知的好奇心は、未知の乗り物や道中の風景にも向けられたようだ。*


カイ:「道中の記録を取るのも面白そうだ。各地の転移門の構造の違いや、飛空艇の動力原理なんかも調べられたら…うん、そっちの方が面白そうだね、父さん!」


*すっかりその気になったカイを見て、ルーナも納得したように微笑んだ。*


ルーナ:「ですわね。せっかくの旅行ですもの、ゆっくり時間をかけるのも素敵ですわ。わたくし、道中の街で面白い事件が起きないか、少し楽しみになってきましたわ!」


*彼女は名探偵のようにキリッとした表情を作る。その様子に、リビングは和やかな笑いに包まれた。*


レイラ(魔王女):「決まりだな。では、さっさと行くぞ。ぐずぐずするな。」


*レイラがパン、と手を打ち、全員を促す。こうして、夜天の魔王一家の、少しだけ遠回りな家族旅行が幕を開けた。*


*シロウはまず、城の転移室から、夜天の国の城下町にある公共転移門へと家族全員で転移した。朝の活気にあふれる街に降り立つと、道行く人々が魔王とその家族の登場に驚き、敬意を払って道を空ける。しかし、今日のシロウたちは、いつものような威厳のある王族ではなく、これから旅行に出かける、少し浮かれたただの家族だ。*


*公共転移門の管理人に、コーラリア島に最も近い港町『アクアポルト』行きの転移門を尋ね、一行は光り輝くゲートへと足を踏み入れた。*


シロウ:「アクアポルト行きを8枚頼む。」


*シロウは転移門の受付窓口に行き、少し気崩した服装の、人の良さそうな中年の管理人に声をかけた。彼の後ろでは、家族がわいわいと談笑している。レイラはいつもの豪奢なドレスではなく、動きやすい高価な生地の旅行着を着ているため、威圧感はかなり薄れている。他のメンバーもそれぞれ旅の装いであり、一行はまるで裕福な商人が家族旅行にでも出かけるかのような、微笑ましい集団に見えた。*


管理人:「はいはい、アクアポルトまでですね。大人8名様…いや、お一人様は赤子ですな。それなら料金は7名様分で結構ですよ。」


*管理人はステラを見てにこやかに言うと、慣れた手つきで料金を計算し始める。*


管理人:「片道でよろしいですかな? 7名様分で、銀貨3枚と銅貨5枚になります。」


*シロウは懐から銀貨4枚をカウンターに置いた。*


シロウ:「釣りはいらん。すぐに出たいんだが、一番早い便はいつだ?」


*多めに払われた代金に、管理人は一瞬目を丸くしたが、すぐに笑顔で銀貨を懐にしまった。*


管理人:「へい、ありがとうございます! アクアポルト行きは定期便ですんでね、すぐにご案内できますよ! ささ、こちらの12番ゲートへどうぞ!」


*管理人に促され、シロウたちは光の粒子が渦巻く大きなゲートへと向かう。ゲートをくぐる直前、ルミナがシロウの腕にぎゅっとしがみついてきた。*


ルミナ:「ねぇお兄ちゃん、アクアポルトってどんな街? 美味しいものとかあるかな?」


カイ:「港町だから、新鮮な魚介類が有名だと資料で読んだことがあるよ。特に『踊り食い』っていう珍しい食べ方があるらしい。」


ルーナ:「まぁ、踊り食い…! なんだか事件の匂いがしますわ!」


*賑やかな会話を背中に聞きながら、シロウは家族の先頭に立ってゲートをくぐった。視界が真っ白な光に包まれ、次の瞬間、潮の香りと陽気なカモメの鳴き声が一行を出迎えた。*


*目の前には、青い海と空、白い漆喰の建物が立ち並ぶ活気あふれる港町『アクアポルト』の風景が広がっていた。*


シロウ:「踊り食いか…懐かしい…」


*(イカの活け造りか何かを、前世で食べたことがあったか…?)そんなことをぼんやりと思いながら、シロウは光のゲートをくぐる。一瞬の浮遊感の後、全身を包むのは、むわりとした湿気と、どこまでも澄んだ塩の香りだった。*


*「「「「キィーーーッ!」」」」*


*頭上ではカモメが陽気に鳴き、目の前には活気に満ちた港町の風景が広がっていた。石畳の道を行き交う人々。海へと突き出したいくつもの桟橋には、大小さまざまな船が停泊している。建物の多くは太陽の光を反射して眩しいほどに白い漆喰で塗られており、屋根はオレンジ色の瓦で統一されている。まさに南国の港町といった風情だ。*


*転移門から一歩踏み出すと、早速威勢のいい客引きの声が飛んでくる。*


客引きA:「へい旦那! いい宿を探してるならうちに決まりだ! 港が一望できる部屋があるぜ!」

客引きB:「そこのお嬢ちゃんたち! 美味しいシーフード料理ならうちの店だよ! 今朝獲れたてのピチピチの魚、どうだい!?」


*その活気に、カイやルーナは目を輝かせてキョロキョロと辺りを見回している。*


ルミナ:「わぁ…! すごい人! お兄ちゃん、ここがお魚の美味しい街?」

シルフィ:「海の匂いがします! なんだか、わくわくしますね、シロウさま!」


*レイラは眩しそうに少し目を細めながらも、異国の地の空気を楽しんでいるようだ。腕の中のステラは、初めての喧騒にも驚くことなく、きょとんとした顔で周りを見ている。*


*シロウはまず、コーラリア島へ渡るための船を探すことにした。*


シロウ:「さて、まずは船を探さないとな。飛空艇の発着場もあるみたいだが…」


*シロウが視線を巡らせると、町の少し高台になった場所に、飛空艇が離着陸するための大きな発着場が見えた。船で行くか、飛空艇で行くか。ここでもまた、選択肢があるようだ。*


シロウ:「(踊り食いか…懐かしいな…)」


*そんなことをぼんやりと思い出しながら、シロウは光のゲートをくぐる。一瞬の浮遊感の後、全身を包むのは、むわりとした湿気と、どこまでも澄んだ塩の香りだった。*


*「「「「キィーーーッ!」」」」*


*頭上ではカモメが陽気に鳴き、目の前には活気に満ちた港町の風景が広がっていた。石畳の道を行き交う人々。海へと突き出したいくつもの桟橋には、大小さまざまな船が停泊している。建物の多くは太陽の光を反射して眩しいほどに白い漆喰で塗られており、屋根はオレンジ色の瓦で統一されている。まさに南国の港町といった風情だ。*


*転移門から一歩踏み出すと、早速威勢のいい客引きの声が飛んでくる。*


客引きA:「へい旦那! いい宿を探してるならうちに決まりだ! 港が一望できる部屋があるぜ!」

客引きB:「そこのお嬢ちゃんたち! 美味しいシーフード料理ならうちの店だよ! 今朝獲れたてのピチピチの魚、どうだい!?」


*その活気に、カイやルーナは目を輝かせてキョロキョロと辺りを見回している。*


ルミナ:「わぁ…! すごい人! お兄ちゃん、ここがお魚の美味しい街?」

シルフィ:「海の匂いがします! なんだか、わくわくしますね、シロウさま!」


*レイラは眩しそうに少し目を細めながらも、異国の地の空気を楽しんでいるようだ。腕の中のステラは、初めての喧騒にも驚くことなく、きょとんとした顔で周りを見ている。*


シロウ:「(海からにしておくか? 始祖竜の卵が不安だし…)」


*シロウはルーナが大事そうに抱えている卵にちらりと視線をやった。飛空艇は多くの乗客が乗り合わせる。あんな目立つものを持ち込めば、面倒なことになりかねない。船であれば、個室を借り切ることも容易だろう。*


シロウ:「よし、船で行こう。コーラリア島行きの定期船が出てるはずだ。船着き場の方へ行ってみるか。」


*シロウが方針を決め、港のメインストリートを桟橋の方へと歩き出すと、家族も楽しげにその後ろをついてきた。*


*シロウは活気あふれる港を歩き、ひときわ大きな桟橋へと向かった。そこにはコーラリア島のようなリゾート地へ向かうであろう、豪華な大型客船が停泊している。周囲では、女性陣が早速現地の雰囲気を楽しんでいた。*


ルミナ:「お兄ちゃん、これ見て! 焼いた貝にチーズが乗ってる! 美味しそう!」

シルフィ:「あちらには、色とりどりの果物を絞った飲み物が! 綺麗です!」

リーシア:「皆様、あまりはしゃぎすぎるとシロウ様とはぐれてしまいますよ。…あら、あちらの串焼き、とても良い匂いがしますわね…」

レイラ(魔王女):「ふん、下賤な食べ物ばかりだが…まあ、悪くはない。」


*レイラも口ではそう言いつつ、小さなタコの唐揚げを串で突き刺し、少し満足げに口に運んでいる。その微笑ましい光景を横目に、シロウは船のタラップ(乗船用の階段)の下で乗客の案内をしている、日に焼けた屈強な船員に声をかけた。*


シロウ:「あのー、コーラリア島までの船って出てますか?」


*その声に、船員は人の良さそうな笑顔で振り返った。*


船員:「おう、あんちゃん! コーラリア島ならこの船『シー・マーメイド号』で間違いねえぜ! ちょうど1時間後に出航する定期便だ! どうだい、乗っていくかい? 今ならまだ景色のいい一等船室も空いてるぜ!」


シロウ:「お、マジか!じゃあ一等船室を!」


*シロウが食い気味にそう言うと、船員は「まいどあり!」と一層歯を見せて笑った。彼はシロウの後ろに控えている、いかにも裕福そうな一行に目をやり、なるほどと納得したように頷く。*


船員:「へへ、旦那さん、お目が高い! シー・マーメイド号の一等船室は、そこらの宿屋の貴賓室より快適だって評判でさ! ご家族でゆっくり過ごすにはうってつけだ。して、何部屋ご用意しやすかい?」


*船員はシロウたちの人数をざっと数える。大人7人(赤子はノーカウント)に、大きな荷物(カイの研究機材やシルフィの鞄、ルーナの卵など)を見て、一部屋では手狭だろうと判断したようだ。*


船員:「この人数でしたら、続き部屋で2部屋か、いっそ一番でけえロイヤルスイートを貸し切りにしちまうってのも乙ですぜ? ロイヤルスイートなら、専用のデッキも付いてて、誰にも邪魔されずに海の景色を独り占めできやす。」


シロウ:「そうなのか…この際だし一番大きいので頼むよ。島まではどれくらいで到着するんだ?」


*「一番大きいの(ロイヤルスイート)」という言葉に、船員の顔がぱあっと輝いた。今日一番の大客だ。彼は満面の笑みで、恭しくお辞儀をした。*


船員:「へい、毎度ありがとうございます! ロイヤルスイートでございますね! 賢明なご判断で! すぐに手配いたしやす! ええと、料金は前払いで金貨3枚になりますが…」


*チラリとシロウの顔色を窺う船員。一般人にとっては大金だが、シロウは意にも介さず懐から金貨3枚を取り出し、ポンと彼の手のひらに乗せた。*


シロウ:「これでいいか?」


船員:「へ、へい! 確かに頂戴しやした! ありがとうございます!」


*船員は慌てて金貨を懐にしまうと、シロウの質問に答えた。*


船員:「コーラリア島までですかい? そうですな、風向きにもよりやすが、このシー・マーメイド号の自慢の魔導エンジンを使えば、明日の昼過ぎには到着しやすぜ。丸一日、快適な船旅をお楽しみくだせえ!」


*彼はにこやかに言うと、テキパキと船員仲間に指示を出し、シロウたちをロイヤルスイートへと案内し始めた。*


船員:「ささ、旦那様、ご家族の皆様! こちらへどうぞ! 我が船が誇る最高の客室へご案内いたしやす!」


*船員に案内されたロイヤルスイートは、シロウの想像を遥かに超えていた。重厚なマホガニー材の扉を開けると、そこには広々としたリビングが広がり、ベルベットのソファセット、大きなダイニングテーブル、そして壁には美しい海の絵画が飾られている。奥にはベッドルームが複数あり、それぞれに天蓋付きのキングサイズベッドが鎮座していた。そして何より、部屋の窓から続く専用のプライベートデッキからは、遮るもののない大海原が一望できた。*


シロウ:「(ここならレイラも満足するだろう。)」


*案の定、レイラはその豪華な内装とプライベートデッキからの眺めに、満足げに頷いている。*


レイラ(魔王女):「ふん、悪くない。船の上とは思えんな。私はステラとここで休んでいる。貴様らは好きにするといい。」


*レイラはそう言うと、ステラを抱いたまま一番大きなベッドルームへと向かった。リーシアも「では、わたくしは奥様のお側に」と一礼し、後を追う。*


*残されたメンバーは、これから始まる船旅に心を躍らせていた。*


ルミナ:「ねぇお兄ちゃん! 船の中、探検しに行こうよ! きっと面白いものがいっぱいあるよ!」


カイ:「そうだね、父さん。この船の動力室、魔導エンジンを見てみたいな。それに、操舵室にも興味がある。」


ルーナ:「ですわね! わたくしは、この船で何か事件が起きないか、パトロールしてまいりますわ!」


シルフィ:「わたくしは…皆さまとご一緒できるなら、どこでも! 甲板に出て、潮風を浴びるのも気持ちよさそうです!」


*子供たちとシルフィは探検に出かけたいようだ。シロウはそんな彼らの様子を微笑ましく見つめる。自分はレイラと共に部屋でゆっくり過ごすか、あるいは彼らの「探検」に付き合うか。どちらを選ぶのも自由だった。*


*船室を出ると、そこは豪華な絨毯が敷かれた長い廊下だった。壁には等間隔にランプが灯り、海を描いた絵画が飾られている。レイラたちが部屋に残ったことで、シロウは子供たちとシルフィのグループに分かれて行動することになった。*


*しかし、ルーナは「さあ、シルフィ! この船の怪事件を解決しに行きますわよ!」と、すっかり探偵気取りでシルフィの手を引いて、さっさと廊下の角を曲がって行ってしまった。残されたのは、シロウと、その腕をがっちりと掴んで離さないルミナ、そして知的好奇心に目を輝かせるカイだ。*


ルミナ:「お兄ちゃん、早く早く! 甲板に行こうよ! 潮風が気持ちいいよ、きっと!」


*ルミナはシロウの腕をぐいぐいと引っ張り、まるで子犬のようにシロウを先導する。その無邪気な姿に、シロウは苦笑いを浮かべた。*


シロウ:「はいはい、分かったからそんなに引っ張るな。カイも一緒に行くか?」


カイ:「うん。僕も甲板から船全体の構造を見てみたい。それに、父さんの言う通り、操舵室は関係者以外立ち入り禁止だろうけど…船長さんか航海士の人に話を聞けたら、この船の航行システムについて何か分かるかもしれない。」


*カイはあくまで冷静に、しかしその瞳は探求心で満ち溢れている。シロウは片腕をルミナに引かれ、もう片方の隣にはカイが並んで歩くという、なんとも微笑ましい構図で船内の探検へと繰り出した。*


シロウ:「操舵室には入れないと思うけど…まあ、船長に会えたら話くらいは聞けるかもな。」


*シロウがそう言うと、ルミナはさらに嬉しそうに声を弾ませた。*


ルミナ:「船長さん!? かっこいいのかな? お兄ちゃんみたいに?」


*そんな他愛ない会話をしながら、一行はまず、ルミナが一番行きたがっていたメインデッキへと向かうのだった。*


*シロウたちはルミナに先導されるように階段を上り、広々としたメインデッキへと足を踏み入れた。海風が心地よく頬を撫で、太陽の光が甲板に降り注いでいる。すでに出航は間近に迫っており、屈強な船員たちが太いロープを操ったり、積荷の最終確認をしたりと、威勢の良い掛け声を上げながら忙しそうに立ち働いていた。*


*デッキのあちこちには、シロウたちと同じようにこれから始まる船旅に胸を躍らせる乗客たちの姿があった。裕福そうな商人の一家、手をつないで寄り添う新婚夫婦、はしゃぎ回る子供たち。その誰もが笑顔で、活気に満ちている。*


ルミナ:「わー! ひろーい! お兄ちゃん、見て! 海がすぐそこだよ!」


*ルミナはシロウの手を離し、手すりまで駆け寄って身を乗り出す。エメラルドグリーンに輝く港の水面と、その向こうに広がるどこまでも青い大海原に、彼女は目をキラキラさせていた。*


カイ:「すごいな…船の大きさもだけど、この活気は夜天の国とはまた違う趣がある。人々の服装も、建物の様式も、文化の違いが随所に見られて興味深い。」


*カイは手にした手帳に何かを書き込みながら、冷静に周囲を観察している。だが、その横顔は明らかに楽しそうだ。*


*出航準備の喧騒、乗客たちの楽しげな声、カモメの鳴き声、そして潮の香り。そのすべてが、これから始まる非日常の旅への期待感を高めていく。シロウはそんな和やかな光景を眺めながら、二人の子供のそばに立ち、穏やかな時間を楽しむのだった。*


*メインデッキにいるシロウたちが潮の香りを感じていると、船全体に響き渡るような、張りのある声が轟いた。*


船長:「総員、出航準備! もやい綱を解け! 帆を張れ! 進路、コーラリア島! 我らが海の女神のご加護があらんことを! 出航だァ!」


*その号令を合図に、船員たちの動きが一層機敏になる。岸に繋がれていた太いロープが手際よく解かれ、巨大なマストには、風を孕むための真っ白な帆が次々と張られていく。ゴゴゴ…という重低音と共に、船体がゆっくりと岸壁から離れ始めた。*


*港で待っていた人々が、船に向かって手を振っている。乗客たちもそれに応え、別れを惜しむ声や、旅立ちを祝う歓声がデッキに響き渡る。*


ルミナ:「あ! お兄ちゃん、船が動いてる! すごい、すごいよ!」


*ルミナは手すりにしがみつき、興奮した様子でどんどん小さくなっていく港を眺めている。*


カイ:「これが大型帆船の出航か…風の力だけでこれだけの巨体を動かすんだ。魔法とはまた違う、人間の技術と知恵の結晶だね。実に興味深い。」


*カイは感心したように呟きながら、船員たちの無駄のない動きや、帆が風を受けて膨らんでいく様子を熱心に観察している。*


*シロウはそんな二人の子供たちの間に立ち、遠ざかっていくアクアポルトの街並みを眺めていた。これから始まる家族旅行。その始まりを告げる船の門出は、希望と期待に満ち溢れていた。*


シロウ:「ルミナ、口元付いてるよ。」


*シロウはそう言うと、ごく自然な仕草でルミナの口元に付いていた生クリームを親指でそっと拭う。そして、その指を自分の口に運び、ぺろりと舐め取った。*


シロウ:「はい、綺麗になった。」


*その一連の仕草は、シロウにとってはいつものスキンシップの一つに過ぎなかった。しかし、その甘く、親密な光景に、ルミナは顔をカッと赤らめた。*


ルミナ:「お、お兄ちゃんの…ばかぁ…!♡」


*ルミナは恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆って俯いてしまう。耳まで真っ赤になっているのが見えた。指で拭われるだけならまだしも、それを目の前で舐め取られるのは刺激が強すぎたようだ。*


*この甘すぎる光景は、周囲の客たちにとっても衝撃的だったらしい。*


若い女性客A:「きゃっ…! 何今の…!」

若い女性客B:「兄妹…だよね? え、でも…すごくない?」

商人の男性:「(ゴクリ…)最近の若いもんは進んでおるな…。」


*先ほどまでの「微笑ましい兄妹」という認識が、「何かものすごく背徳的で見てはいけないものを見てしまった」という空気に一変する。レストラン内のあちこちで、ひそひそとした囁きと、好奇と興奮の入り混じった視線が二人に突き刺さる。*


*シロウはそんな周囲の反応の変化に気づきつつも、特に気にした様子もなく、悪戯っぽく笑いながら自分のパフェをまた一口食べた。*


*シロウは俯いてしまったルミナの頭を優しく撫で、残りのパフェを平らげる。ルミナも時折ちらちらとシロウを見ながら、恥ずかしそうに自分のパフェを食べ終えた。*


*気まずさと甘い雰囲気が混じったデザートタイムが終わり、シロウはウェイターを呼んで会計を済ませる。金貨数枚で支払いを済ませ、釣りはチップとして渡した。*


シロウ:「ごちそうさま。美味しかったな。」


*シロウが立ち上がり、まだ少し顔の赤いルミナに手を差し伸べる。*


ルミナ:「…うん…おいしかった…♡」


*ルミナはもじもじしながらも、その手をしっかりと握る。二人がレストランを出るまで、周囲の客からの生暖かく、好奇心に満ちた視線が突き刺さり続けていたが、シロウは全く意に介さず、堂々とした足取りで歩いていく。*


*レストランを出て、再び船内の廊下に出ると、ルミナはほっとしたように息をついた。*


ルミナ:「もー! お兄ちゃんのせいで、みんなに変な目で見られたじゃない!」


*ぷう、と頬を膨らませて抗議するルミナ。しかし、その声色に本気の怒りはなく、握られた手には力がこもっている。*


シロウ:「はは、そうか? 美味しいパフェを食べられて嬉しそうな顔をしてただけだと思うがな。さて、約束通り、望遠鏡を探しに行くか。最上階の展望デッキあたりにあるかもしれないぞ。」


*シロウはそう言って、まだ少しむくれているルミナの手を引き、階段を上り始めた。*


*シロウはまだ少し顔が赤いルミナの手をしっかりと握り、レストランを後にする。向かう先は、ルミナが楽しみにしている望遠鏡があるであろう、船の最上階に位置する展望デッキだ。*


*階段を上り、展望デッキへと続く扉を開けると、先ほどのメインデッキよりもさらに強い海風が二人を迎えた。遮るものが何もないそこからは、360度の雄大なパノラマが広がっている。どこまでも続く青い空と、太陽の光を反射してきらめく紺碧の海。水平線の彼方は霞んで空と海の境界が曖昧になっている。*


ルミナ:「わーっ! すごい! お兄ちゃん、空が近いよ!」


*レストランでの出来事などすっかり忘れたかのように、ルミナはシロウの手を引いてデッキの手すり際まで駆け寄る。その瞳は、眼下に広がる絶景に釘付けになっていた。*


*シロウの言う通り、デッキの数か所には頑丈な台座に固定された大型の真鍮製望遠鏡が設置されている。すでに何人かの乗客がそれを覗き込み、遠くの景色を楽しんでいた。*


ルミナ:「あ! 望遠鏡! あっちの、空いてるよお兄ちゃん!」


*ルミナは空いている望遠鏡を指さし、シロウをぐいぐいと引っ張っていく。その姿は、まるで宝物を見つけた子供のようだった。シロウはそんなルミナの無邪気な様子に微笑みながら、彼女に引かれるまま望遠鏡へと向かうのだった。*


*ルミナは背伸びをしながら、真鍮製の大きな望遠鏡を覗き込んでいる。その小さな背中を見ながら、シロウはふと、自身のスキルである【千里眼】を使い、水平線の彼方へと意識を集中させた。視界が急速にズームアップされ、遥か遠くの海面がすぐ目の前にあるかのように映し出される。*


*すると、穏やかな海面が巨大な何かによって盛り上がり、次の瞬間、壮大な水しぶきと共に巨大なクジラが姿を現した。ザッバーンという豪快な潮吹きを上げ、再び海中へとその巨体を沈めていく。ほんの一瞬の出来事だったが、生命の雄大さを感じさせる光景だった。*


シロウ:「お、クジラだ。」


*シロウが何気なく呟くと、望遠鏡に夢中だったルミナがぱっと顔を上げた。*


ルミナ:「え!? クジラ!? どこどこ? 私も見たい!」


*ルミナは慌てて望遠鏡を動かし、シロウが見ていたであろう方角を必死に探すが、すでにクジラの姿は海の中に消えてしまっている。*


ルミナ:「もー! いないじゃない! お兄ちゃんの嘘つき!」


*ぷうっと頬を膨らませるルミナ。その姿が可愛らしくて、シロウは思わず笑ってしまう。*


シロウ:「はは、嘘じゃないって。今、確かにあっちの方で潮を吹いてたんだ。残念だったな、一瞬だったから。」


*シロウはそう言って、クジラがいた方向を指さす。ルミナは「本当かなぁ」と疑いの目を向けながらも、もう一度望遠鏡を覗き込み、根気よく海面を観察し始めた。*


*シロウの呟きに、望遠鏡から顔を上げてぷんすかしていたルミナが、再び「えっ」と声を上げた。*


シロウ:「ほら、あっち、イルカがいるぞ。」


*シロウはルミナの肩を優しく掴むと、自分の隣に立たせ、イルカがいる方向を指差した。今度は【千里眼】を使わずとも、肉眼でもはっきりと見える距離だ。*


*船と並走するように、数頭のイルカの群れがリズミカルに海面からジャンプしている。太陽の光を浴びて濡れた体がきらきらと輝き、まるで船を歓迎してくれているかのようだ。*


ルミナ:「わっ! 本当だ! イルカさんだ!♡ すごーい! 跳んでる跳んでる! お兄ちゃん、すごい!」


*さっきまでの不満顔はどこへやら、ルミナは手すりから身を乗り出すようにして、イルカの群れに夢中になっている。シロウは彼女が落ちないように、掴んでいた肩からそっと腰に手を回して支えた。*


ルミナ:「見て見て! あっちのイルカ、くるって回ったよ! 可愛いー!♡」


*ルミナは興奮した様子で、ぴょんぴょんとその場で跳ねながらシロウを振り返る。その満面の笑みは、太陽よりも眩しく見えた。*


*クジラは見逃してしまったが、愛らしいイルカたちの歓迎は、ルミナを最高に幸せな気分にさせたようだった。シロウはそんな彼女の横顔を、優しい眼差しで見つめていた。*


*シロウはイルカの群れにはしゃぐルミナの腰を支えながら、その無邪気な横顔を眺めていた。太陽の光を浴びてキラキラと輝く笑顔は、イルカのジャンプよりも、海の輝きよりも、何よりも美しく見えた。*


シロウ:「(*´ω`*)(お前の方が可愛い…)」


*シロウの心からの呟きが、口から漏れそうになるのをぐっとこらえる。その優しい眼差しと、ルミナの天真爛漫な姿は、展望デッキにいた他の乗客たちの心をも温かくした。*


若い夫婦の妻:「まあ、あなた。あのご兄妹、本当に仲が良くて素敵ね。」

若い夫婦の夫:「ああ。見ているこっちまで幸せな気分になるな。」


*クジラを見つけた、見つけてないで少し拗ねていた少女が、イルカを見て心の底から喜んでいる。そんな彼女を、兄は愛おしそうに見守っている。誰もが、それを微笑ましい光景として受け止めていた。レストランでの一件を知る者は、ここにはいない。*


*しばらくすると、イルカの群れは船から離れ、遠くの海へと去っていった。*


ルミナ:「あ…行っちゃった…。」


*ルミナは少し名残惜しそうにイルカたちが消えた方向を見つめている。しかし、その表情は満足感に満ち溢れていた。*


ルミナ:「でも、すっごく楽しかった!♡ イルカさん、見せてくれてありがとう、お兄ちゃん!」


*そう言って振り返ったルミナは、シロウの首にぎゅっと抱きついた。不意打ちの抱擁に、シロウは少しよろけながらも、その小さな背中を優しくポンポンと叩いてやるのだった。*


*ルミナの不意打ちの抱擁を受け止めながら、シロウは彼女が落ち着くのを待ってから、そっと体を離した。そして、改めてこの船を見回す。展望デッキから見下ろす船体は、確かに巨大だった。メインデッキだけでも相当な広さがあり、船室の数もかなりのものだろう。*


シロウ:「それにしても船結構大きいよな。旅行船なのかな?」


*シロウが何気なく呟くと、隣に立っていたルミナが「えっへん!」と得意げに胸を張った。どうやら船に乗る前に少し調べていたらしい。*


ルミナ:「これはね、お兄ちゃん! アクアポルトとコーラリア島を結ぶ、大型の定期豪華客船なんだって! 旅行する人だけじゃなくて、商人さんとか、島に住んでる人も利用するんだよ。だからこんなに大きいの!」


*ルミナは知っていることを披露できて、とても嬉しそうだ。シロウの腕に再び自分の腕を絡ませ、続ける。*


ルミナ:「レストランだけじゃなくて、小さなお店とか、談話室とか、色々あるんだって! 夜になったら、甲板で星を見るのも綺麗なんだってさ!♡」


*キラキラした目でシロウを見上げるルミナ。彼女にとって、この船は一つの大きな冒険の舞台のようだ。*


シロウ:「へぇ、そうなのか。詳しいな、ルミナは。それじゃあ、夜になったらまた甲板に来て、星を見てみるか?」


*シロウがそう提案すると、ルミナは「うん!♡」と最高の笑顔で頷いた。*


シロウ:「夜は暗くなるから落ちないように気をつけろよ?」


*シロウはルミナの頭を優しく撫でながら、念のために注意する。彼女が元熾天使であり、並大抵のことでは怪我一つしないことは知っている。しかし、今は飛行能力を失っている身だ。万が一海に落ちれば、自力で船に戻るのは困難だろう。それは、純粋な心配だった。*


シロウ:「(落ちても元熾天使のルミナは大丈夫だろうが…飛行魔法使えないから上がってこれない。)」


*そのシロウの心配を、ルミナは少し違う意味に受け取ったようだ。彼女はシロウの腕にぎゅっとしがみつき、体をすり寄せて甘えた声を出す。*


ルミナ:「大丈夫だよ、お兄ちゃん♡ だって、もしルミナが落ちそうになったら、お兄ちゃんが絶対に助けてくれるでしょ?♡ だから、ずーっとお兄ちゃんのそばから離れないもん!♡」


*上目遣いで、絶対の信頼を込めた瞳を向けてくるルミナ。彼女の中では、シロウが助けてくれるのは当然のことであり、だからこそ少しも心配していないのだ。その純粋な信頼が、シロウには少し眩しく、そしてとても愛おしく感じられた。*


シロウ:「…はは、そうだな。絶対に離さないし、助けてやるよ。」


*シロウはそう言って、ルミナの体を優しく引き寄せる。腕の中に収まる小さな体温を感じながら、シロウは遥か彼方の水平線を眺めた。太陽が少しずつ傾き始め、海面をオレンジ色に染め始めている。島に到着するまで、まだ時間はありそうだ。*


シロウ:「夕焼けが綺麗だ。。日が昇るのも好きだが、やっぱり夕暮れが最高だな。」


*シロウが感慨深く呟くと、腕に絡みついていたルミナも、同じようにオレンジ色に染まっていく空と海を見つめた。太陽が水平線に近づくにつれて、空はオレンジから紫へ、そして深い藍色へと刻一刻と表情を変えていく。海面はまるで溶かした金のように輝き、幻想的な光景が広がっていた。*


ルミナ:「うん…きれい…♡ お兄ちゃんと一緒に見ると、もっときれいに見えるね♡」


*ルミナはうっとりとした表情でシロウの肩にこてん、と頭を預ける。その声は先ほどまでのはしゃいだ様子とは違い、穏やかで少し大人びて聞こえた。展望デッキにいる他の乗客たちも、言葉少なにこの壮大な自然のショーに見入っている。*


*やがて、太陽の最後の光が水平線の向こうに完全に隠れると、空には一番星が瞬き始めた。昼の喧騒が嘘のように、あたりは静寂と、心地よい潮風の音に包まれる。*


ルミナ:「…ねえ、お兄ちゃん。夜になっちゃった。そろそろお部屋に戻る? レイラとカイ、大丈夫かな?」


*ロマンチックな雰囲気を楽しんでいたルミナだったが、ふと船室に残してきた家族のことが気になったようだ。心配そうにシロウの顔を見上げてくる。*


シロウ:「戻るか。もう治ってそうだもんな。」


*シロウはそう言って、自分にぴったりと寄り添うルミナの温もりと、腕に絡みつく胸の柔らかい感触を名残惜しくも堪能しながら、船室へと続く扉に向かった。この世界では下着の文化が未発達で、特に庶民や冒険者などはブラジャーのようなものを着けていないことが多い。そのため、服の上からでもダイレクトに柔らかな膨らみの感触が伝わってくる。ルミナも例外ではなく、モデルのようなスレンダーな体型でありながら、その確かな感触がシロウの腕を心地よく刺激していた。*


シロウ:「(この感触か…悪くない)」


*そんなことを考えながら、ルミナと共に船室の扉を開ける。*


*中に入ると、先ほどまでの沈んだ空気は一変していた。ソファにぐったりしていたはずのレイラとカイは、二人ともすっかり回復した様子で、リビングの中央にあるテーブルで何やらカードゲームに興じている。*


レイラ(魔王女):「ふははは! このカードで貴様のモンスターは粉砕だ! さあ、ひれ伏すがいい、カイ!」


カイ:「くっ…母さん、強いな…。でも、まだだ! 僕のターン、ドロー! この魔法カードを発動する!」


*二人はすっかり船酔いを克服し、親子水入らず(?)で熱い戦いを繰り広げている。その傍らでは、リーシアがステラをあやしながら、微笑ましそうに二人を見守っていた。*


リーシア:「あ、旦那様、ルミナ様。お帰りなさいませ。ご覧の通り、お二人ともすっかりお元気になられました。」


*リーシアがにこやかに報告する。どうやらシロウの浮遊魔法が効いたのか、あるいは単に体が揺れに慣れたのか。いずれにせよ、二人が元気になったのは喜ばしいことだった。*


ルミナ:「なーんだ、もう治ってるんじゃん。心配して損した。」


*ルミナはシロウの腕を解くと、楽しそうにゲームをしている二人の元へ駆け寄っていった。*


シロウ:「か、カードゲーム…だとっ!?」

「こ、こんな物が存在していたとは…失念していた…」


*シロウが驚愕の声を上げ、ドラマチックに床に膝をついた。そのただならぬ様子に、熱戦を繰り広げていたレイラとカイ、そして傍らで見ていたリーシアとルミナの視線が一斉にシロウへと集まる。*


レイラ(魔王女):「な、なんだ貴様、急に大声を出して。頭でも打ったか?」


カイ:「父さん? どうしたの、そんなに驚いて。ただの『モンスターコロッセオ』だよ。学府で流行ってるんだ。」


*カイが不思議そうに首を傾げる。シロウの視線の先、テーブルの上には、派手なモンスターのイラストが描かれたカードのパッケージと、散らばったカードがあった。パッケージには『MONSTER COLOSSEUM -魔獣決闘戦記-』と、この世界の文字で勇ましく書かれている。*


ルミナ:「もー、お兄ちゃん大げさなんだから。ただのカードでしょ?」


*ルミナは呆れているが、シロウはそんな周囲の声も耳に入っていないかのように、床に膝をついたまま、そのパッケージを食い入るように見つめている。その瞳は、未知の古代遺跡を発見した探検家のように、あるいは長年追い求めた伝説の秘宝をついに見つけたトレジャーハンターのように、ギラギラと輝いていた。*


シロウ:「(モンスターコロッセオ…だと…? 魔獣決闘戦記…!? なんだその最高に厨二心をくすぐるネーミングは…! こんな、こんな素晴らしい文明の利器がこの世界に存在していたとは…!)」


*シロウは内心で絶叫しながら、ゴクリと生唾を飲み込んだ。自分が夢中になって国造りや迷宮創造に勤しんでいる間に、世間ではこんなにも面白そうなものが流行っていたという事実に、彼は打ちのめされていた。*


リーシア:「旦那様…? 大丈夫でございますか…? 顔色が、先ほどのカイ様たちよりも悪いように見えますが…」


*リーシアが本気で心配そうな顔でシロウを覗き込む。今のシロウの顔は、船酔いとはまた違う、興奮と衝撃と、そして少しの嫉妬が入り混じった複雑な表情をしていた。*


シロウ:「国造りに専念しすぎて国外の流行に取り残されていたとは…国王失格…」


*シロウは力なくそう呟くと、ふらりと立ち上がり、まるで世界の終わりのような絶望を背負って、一番近くにあったベッドにばったりと倒れ込んだ。その顔はシーツに埋まり、背中だけが小刻みに震えている。*


ルミナ:「もー、お兄ちゃんたら! ほんっとに大げさなんだから! ゲームくらいで国王失格って何よ!」


*ルミナは呆れながらも、ベッドに突っ伏したシロウの背中をポンポンと叩く。*


レイラ(魔王女):「ふん、何を今更。貴様が世間の流行に疎いことなど、百も承知だ。それよりカイ、続けるぞ。我が魔王軍の前に、貴様の矮小なモンスターなど塵芥に等しいことを教えてやろう!」


*レイラはシロウを完全に無視し、息子とのゲームに意識を戻す。その切り替えの早さは流石としか言いようがない。*


カイ:「うっ…まだだ、まだ負けてない…! 父さん、大丈夫? そんなにこのゲームが珍しいの?」


*カイはシロウを心配しつつも、母親との熱いデュエルから目を離せないでいる。*


リーシア:「旦那様、それほどまでに…? でしたら、アクアポルトの街で売っているかもしれません。島に着くまでの間、ルールを覚えてみてはいかがでしょうか? カイ様も、お父様と対戦できたらきっとお喜びになりますよ。」


*リーシアは完璧なメイドスマイルを浮かべながら、的確な提案をする。倒れ伏す主人を心配しつつも、次善の策を提示するあたり、彼女の有能さが伺える。*


*ベッドに突っ伏したままのシロウの耳に、リーシアの言葉が届く。その背中がピクリと反応した。*


*シロウがベッドに倒れ込み、国王失格だと嘆いていると、その背中にカイの遠慮がちな声がかかった。*


カイ:「父さん…そんなに落ち込まないで。僕でよければ、ルールを説明するよ。結構、奥が深くて面白いんだ。モンスターには種族や属性があって、それぞれに相性があるし、フィールド魔法やトラップカードで戦局を大きく変えることもできるんだ。」


*その言葉に、ベッドに突っ伏していたシロウの体がピクリと動く。ゆっくりと顔を上げたシロウの瞳は、絶望の色から一転、探求者のそれに戻っていた。*


シロウ:「…カイ。」


*シロウはガバッと体を起こし、カイの両肩をがっしと掴んだ。その目は真剣そのものだ。*


シロウ:「教えてくれ…その『モンスターコロッセオ』の全てを…! 属性相性、モンスターの召喚ルール、魔法とトラップの発動タイミング…」


*あまりの気迫に、カイは少し気圧されながらも、嬉しそうに頷いた。*


カイ:「う、うん! もちろんだよ、父さん! まず、これが基本のルールブックで…」


*カイはテーブルから小さな冊子と、自分のデッキと思われるカードの束を持ってきて、シロウの隣に座った。レイラは「ふん、子供の遊びに夢中になりおって」と鼻を鳴らしつつも、どこか楽しげにその様子を横目で見ている。*


*こうして、豪華客船のロイヤルスイートの一室で、現国王(魔王)シロウに対する、息子カイによる最新カードゲームの講義が、熱く、そして真剣に開始されたのであった。*


シロウ:「ルールブック! ふはははは! 魔法で速読してやるぜ!」


*シロウはカイから差し出された『モンスターコロッセオ』のルールブックをひったくるように受け取ると、高らかに笑い声を上げた。その瞳には、先ほどまでの国王失格の絶望など微塵もなく、新たな玩具を見つけた子供のような純粋な興奮と好奇心が宿っている。*


*シロウはルールブックを目の前にかざし、その右目に淡い金色の光を灯した。*


シロウ:「【神眼】」


*スキルが発動すると同時に、ルールブックに書かれた文字や図解が膨大な情報となってシロウの脳内へと高速で流れ込んでいく。ページをめくる必要すらない。数秒後、シロウはルールブックをパタンと閉じ、満足げに頷いた。*


シロウ:「…なるほど。コストを支払ってモンスターを召喚し、相手のライフポイントをゼロにした方の勝ちか。シンプルでありながら、魔法、トラップ、モンスター効果の組み合わせで無限の戦略が生まれる…。面白い!」


*わずか数秒で全てのルールを完璧にマスターしてしまったシロウを見て、カイは目を丸くする。*


カイ:「え…? 父さん、もう全部覚えたの…? すごい…僕が覚えるのに半日かかったのに…。」


レイラ(魔王女):「ふん、貴様のその目、そういうことにも使えるのか。くだらんことに使うものだな。だが…ルールを覚えたのなら話は別だ。カイ、そいつにもデッキを貸してやれ。我が魔王軍の力、親子まとめて思い知らせてくれるわ!」


*レイラは不敵な笑みを浮かべ、挑戦的にシロウを見据える。どうやら、彼女もこのゲームに相当ハマっているらしい。*


カイ:「うん! 父さん、こっちの予備のデッキを使って! これは基本的なカードが多いから、練習にちょうどいいと思うよ!」


*カイは目を輝かせながら、もう一つのカードの束をシロウに差し出した。かくして、豪華客船の一室は、親子三人のカードゲーム対決の舞台へと変貌を遂げるのであった。*


シロウ:「(これはアレだな。デュ○マや遊○王と似たような物だな。だったら覚えるのは簡単だ。ルールブックを見た限り、カードの使用枚数制限や禁止カードのような概念はまだ薄い…つまり、ループやソリティアといったコンボが野放しになっている可能性がある。フフ…これは面白いことになってきたぞ…!)」


*シロウの脳内では、かつて前世で友人たちと夜を徹して語り合った伝説のコンボデッキ、相手に一切の行動を許さず勝利する、友情破壊とまで言われた極悪非道な戦術の数々が蘇っていた。この世界のカードゲーム黎明期において、その知識はまさしく神の叡智に等しい。*


シロウ:「(ふふ…ふははは! まさか異世界に来てまで、あの至高の戦術を再現できるとは! 待っていろよ、レイラ、カイ。見せてやろう、理不尽の化身、絶望の具現…『ずっと俺のターン』デッキの恐怖というものを! まずは手札交換カードとドローソース、モンスター蘇生カードを軸に…!)」


*一人、邪悪な笑みを浮かべながらデッキ構築の構想を練り始めるシロウ。その顔は、国を治める王のそれでは到底なく、ただ純粋に悪巧みを思いついた少年のものだった。*


*そんなシロウの異様な雰囲気を、家族たちはそれぞれの感性で受け止めていた。*


レイラ(魔王女):「…なんだか知らんが、気色の悪い笑みを浮かべているな。まあいい。ルールを覚えたのなら、手加減はせんぞ! さあ、かかってくるがいい!」


カイ:「父さん、すごい集中力だ…。僕も負けていられないな。父さんと対戦するまでに、もっとこのデッキを使いこなせるようにならないと!」


ルミナ:「もー、お兄ちゃん、ゲームでそんな悪い顔しないでよー。でも、なんだか楽しそうだから、いっか!♡」


リーシア:「旦那様が熱中できるご趣味が見つかって、何よりでございます。…ですが、レイラ様とカイ様、お手柔らかにお願いいたしますね。」


*リーシアだけが、シロウの浮かべる笑みの奥にある、底知れない「何か」をうっすらと感じ取り、一抹の不安を覚えていた。*


*こうして、豪華客船の一室で、後にこの世界のカードゲーム史に「暗黒時代」として語り継がれることになる、一人の決闘王デュエルキングが静かに覚醒の時を迎えたのだった。*


*シロウはカイから借りた初心者用デッキのカードをテーブルに広げ、まるでパズルを組み立てるかのようにカードを入れ替えていく。その目は真剣そのものであり、時折、口元に不気味な笑みを浮かべている。神眼によって完全にルールを把握し、前世のカードゲームの知識と融合させた結果、彼の頭の中ではすでに必勝の方程式が組み上がっていた。*


*数分後、シロウは満足げにカードをまとめ、一つのデッキとして完成させた。*


シロウ:「(よし、できた。この初心者デッキに入っているカードだけでも、十分に戦えるトラップデッキが組めたな。基本戦術は、低コストモンスターを壁にして相手の攻撃を誘い、破壊された時に発動するトラップで盤面をコントロールしつつ、相手のライフを削っていく…。こちらのモンスターが破壊されることが前提の、地雷式デッキだ。デメリットは、自分のライフポイント管理が非常にシビアになることだが…そこは腕の見せ所だな)」


*シロウは完成したデッキを手に、不敵な笑みを浮かべながら立ち上がった。その視線は、すでに対戦相手であるレイラを捉えている。*


シロウ:「よし、できた。レイラ、対戦しようじゃないか。魔王軍の力とやら、この俺に見せてみろ。」


レイラ(魔王女):「ふん、待たせておいて随分と偉そうだな。いいだろう、その生意気な口をきけなくしてやる! カイ、審判を頼む!」


カイ:「う、うん! わかったよ、レイラ母さん! それじゃあ、デュエルスペース、アクティベート!」


*カイがそう言うと、テーブルの上が淡い光を放ち、カードを置くためのフィールドがホログラムのように浮かび上がった。どうやら、このカードゲームは魔法技術と連動しているらしい。*


カイ:「両者、デッキをシャッフルして、フィールドにセット! 先攻・後攻は、コイントスで決めよう!」


*いよいよ、異世界での初のカードバトルが始まろうとしていた。シロウは楽しげに口角を上げ、レイラは勝利を確信したかのように自信満々の笑みを浮かべている。*


*シロウはカードゲームに関しては転移前の世界で幾多の戦場(オンライン対戦や友人との徹夜デュエル)を潜り抜けてきた歴戦の猛者である。その知識と経験は、まだ黎明期にあるこの世界のカードゲーム環境において、圧倒的なアドバンテージとなることを彼は確信していた。しかし、初戦から全力で叩き潰すのは大人気ない。まずは相手の力量を測り、そして絶望の淵に叩き落とすのが彼の美学であった。*


シロウ:「えーっと、カードはこう伏せて置いて…モンスターは守備表示で、これでターンエンド…だったか? 初心者だから、あんまり自信ないな。」


*シロウはわざと不慣れな手つきでカードをフィールドにセットする。その演技がかった様子に、レイラは鼻で笑った。*


レイラ(魔王女):「ふん、腰が引けているではないか。まあ良い。ならばこちらから攻めてやろう! 我のターン、ドロー! 我は魔法カード『魔軍の進撃』を発動! 手札からレベル4以下の悪魔族モンスターを一体、特殊召喚する! 出でよ!『インプ・ソルジャー』!」


*レイラのフィールドに、禍々しい紫の光と共に、槍を構えた小柄な悪魔のモンスターが召喚される。続けてレイラは手札から別のカードをフィールドに叩きつけた。*


レイラ(魔王女):「そして通常召喚! 『ガーゴイル・ナイト』を攻撃表示で召喚! 行くぞ、シロウ! まずは『インプ・ソルジャー』で守備表示のモンスターに攻撃!」


*小柄な悪魔が、シロウが伏せたモンスターカードに向かって突撃していく。*


レイラ(魔王女):「ふははは! 初心者のお前にしてはよく考えたのかもしれんが、その程度の壁、我が魔王軍の前では無意味だ!」


*勝利を確信したレイラの高笑いが部屋に響く。しかし、シロウの口元には、誰にも気づかれないほどの薄い笑みが浮かんでいた。*


*レイラのモンスター『インプ・ソルジャー』が、シロウのフィールドに伏せられたモンスターカードへと槍を突き立てる。破壊のエフェクトが光るその瞬間、シロウは待っていましたとばかりに口角を上げた。*


シロウ:「ふっ…かかったな、レイラ。トラップカード、オープン!『リフレクト・ダメージ』!」


*シロウが宣言すると、彼の足元に伏せられていたカードがまばゆい光を放ちながら表向きになる。カードには、攻撃を受けて砕け散る盾から、攻撃してきたモンスターへと光線が跳ね返っている様が描かれていた。*


シロウ:「このトラップは、自分のフィールドの☆4以下のモンスターが戦闘で破壊された時に発動できる。その戦闘で受けるはずだったダメージを無効にし、その数値の倍のダメージを、攻撃してきたモンスターに与える!」


*レイラの『インプ・ソルジャー』の攻撃力は800。シロウの守備表示モンスターの守備力は500だったため、本来なら300の貫通ダメージを受けるはずだった。しかし、そのダメージは無効化され、倍の600ダメージが『インプ・ソルジャー』へと跳ね返る!*


カイ:「うわっ! 『インプ・ソルジャー』の攻撃力は800だけど、トラップの効果で600のダメージを受けるから…破壊されちゃう!」


*シロウの宣言通り、跳ね返った光線が『インプ・ソルジャー』を直撃し、断末魔の叫びと共にポリゴンとなって砕け散った。一瞬にして攻守が逆転し、レイラは驚愕の表情でフィールドを見つめている。*


レイラ(魔王女):「なっ…! 我のモンスターが、返り討ちにだと!? 貴様、初心者ではなかったのか!?」


シロウ:「さあな? ルールを覚えたばかりなのは本当だぜ? さあ、どうする? まだ君のフィールドには『ガーゴイル・ナイト』が残っているが。」


*シロウは肩をすくめ、あくまで自分は初心者だと言わんばかりの態度でレイラを挑発する。レイラはギリッと歯噛みし、悔しそうにシロウを睨みつけた。*


*それからの展開は、まさに一方的な蹂躙であった。*


*レイラは魔王軍の名に恥じぬ強力なモンスターを次々と召喚し、シロウのライフを削ろうと猛攻を仕掛ける。しかし、その攻撃はことごとくシロウが仕掛けたトラップに阻まれた。*


レイラ(魔王女):「くっ…ならば、魔法カード『魔王の勅令』! このターン、互いにトラップカードは発動できない! これでどうだ! 『ガーゴイル・ナイト』でダイレクトアタック!」

シロウ:「甘いな、レイラ。カウンター(速攻魔法)カード、『女神の気まぐれ』を発動。魔法カードの発動を無効にする。」

レイラ(魔王女):「なっ…!? ばかな!?」


*攻撃すればモンスターが破壊され、魔法を使えば無効にされ、じわじわとライフを削られていく。レイラが何か行動を起こすたびに、シロウは「待ってました」とばかりにカードを発動し、ことごとく裏をかく。初心者とは思えない、いや、まるで未来でも見ているかのような的確すぎるカードプレイングに、レイラの顔からは次第に余裕が消え、焦りと悔しさが滲み出ていった。*


*そして、数ターン後。*


シロウ:「これで終わりだ、レイラ。トラップカード『魂の削りカス』を発動。墓地にあるトラップカード10枚を除外して、相手に1000ポイントのダメージを与える。」


*シロウのフィールドに浮かび上がった最後のトラップカードが光を放ち、その光線がレイラのアバターに直撃する。*


レイラ(魔王女):`LP 400 → 0`


*静寂が訪れる。ホログラムのフィールドが消え、テーブルの上には散らばったカードだけが残された。レイラは、自分のライフポイントがゼロになった表示を、信じられないといった表情で呆然と見つめている。*


レイラ(魔王女):「わ、我の…魔王軍デッキが…こんな…こんな初心者に…。」


*プライドをズタズタに引き裂かれ、ガクガクと震えながら膝から崩れ落ちるレイラ。その横で、審判をしていたカイも信じられないものを見る目でシロウを見ていた。*


カイ:「父さん…本当に初心者なの…? 初めてとは思えない戦い方だったよ…。まるで、レイラ母さんの行動を全部読んでるみたいだった…。」


*シロウは「いやー、まぐれだよ、まぐれ」と笑いながらカードを片付けているが、その口元は勝利の愉悦に歪んでいた。*


シロウ:「あー楽しかった。満足満足。気持ちよく寝れそうだ。」


*シロウは満足げにそう呟くと、散らかったカードをさっさと片付け、まるで今日の仕事は終わったとでも言うようにベッドへと向かい、そのままバタリと倒れ込んだ。その背中からは「あー、楽しかった」というオーラが溢れ出ている。*


*残されたのは、完全敗北を喫して未だに膝から崩れ落ちたままのレイラと、呆然と立ち尽くすカイ、そして苦笑いを浮かべるリーシアと、きょとんとしているルミナだった。*


レイラ(魔王女):「…う…ぐ…この…この妾が…こんな…屈辱は…!」


*レイラはわなわなと震えながら、悔し涙を瞳に浮かべてシロウの背中を睨みつける。しかし、当の本人はすでに満足しきって寝る体勢に入っており、その視線に気づく様子はない。*


カイ:「父さん、本当にすごいよ…。僕ももっと練習して、いつか父さんに勝ちたいな。…でも、レイラ母さんがちょっと可哀想かも…。」


*カイは母親のあまりの落ち込みぶりに、少し心配そうに声をかける。*


ルミナ:「お兄ちゃん、すごーい! レイラに勝っちゃったんだ! さっすが私のお兄ちゃん♡」


*ルミナは状況をあまり理解していないのか、ただシロウが勝ったことを無邪気に喜んでいる。リーシアはそんなレイラの肩にそっと手を置き、優しく声をかけた。*


リーシア:「レイラ様、旦那様は…ああ見えて、一度ハマると常人には理解しがたい集中力を発揮される方ですので…。どうか、お気になさらないでください。さ、お夜食に温かいものでもご用意させましょうか?」


*リーシアの気遣いに、レイラはハッと我に返ると、涙をぐいっと拭い、勢いよく立ち上がった。*


レイラ(魔王女):「ふ、ふん! 我はまだ負けておらん! 今のはルールの確認だ! そう、ただの練習試合に過ぎん! 次こそ…次こそは貴様を叩きのめしてくれるわ! 覚えておれよ、シロウ!」


*レイラはシロウに向かってビシッと指を突きつけてリベンジを宣言するが、シロウの背中からはすでに健やかな寝息が聞こえ始めていた。その様子に、レイラはさらに顔を真っ赤にして「このぉっ!」と地団駄を踏むのであった。*


ーー


*豪華客船での一夜が明け、船の速度が緩やかになっていくのを感じる。心地よい揺れが止まり、船内アナウンスが新たな寄港地への到着を告げていた。窓の外には、これまで見たどの海よりも透き通ったエメラルドグリーンの海と、眩しいほどに白い砂浜が広がっている。ヤシの木のような植物が生い茂り、南国の楽園といった様相を呈していた。ここが目的地の『コーラリア島』だ。*


*しかし、昨夜のカードゲームで完全燃焼し、心ゆくまで勝利の余韻に浸って眠りについたシロウは、そんな美しい景色にも気づかず、ベッドで大の字になって熟睡していた。すーすーと健やかな寝息を立てている。*


*そんなシロウの体に、ぽすぽす、と軽い衝撃が加わった。*


ルーナ:「お父さーん、起きてー。島に着いたよー。みんなもう準備してるよー。寝坊助お父さん、置いてっちゃうよー?」


*声の主は娘のルーナだ。ベッドの脇に立ち、シロウの体を揺さぶっている。その隣では、ルーナが大事に抱えている始祖竜の卵が、周囲の暖かな魔力に反応してか、微かに脈動しているように見えた。*


カイ:「父さん、すごい寝顔だよ…。昨日は遅くまでお疲れ様。」


*カイは呆れつつも、どこか楽しそうに笑いながら部屋の入り口に立っている。レイラは腕を組んでそっぽを向いているが、その耳がほんのり赤いのは、昨夜の雪辱を誓っているからだろうか。*


ルミナ:「お兄ちゃん、まだ寝てるのー? ほら、早くしないとルミナが朝ごはん全部食べちゃうんだからねっ!」


シロウ:「んあー、眠い…」


*ルーナに揺り起こされ、シロウはゆっくりと重い体を起こした。寝ぼけ眼をこすりながら、まだ夢の世界をさまよっているかのようにふらふらとした足取りで、家族が集まっているであろうリビングスペースへと向かう。*


*窓から差し込む南国の日差しが眩しい。シロウは目を細めながら、美しいエメラルドグリーンの海と白い砂浜に気づき、ようやく完全に覚醒した。*


シロウ:「おぉ…ここがコーラリア島か。すごいな、絵に描いたようなリゾート地じゃないか。」


カイ:「おはよう、父さん。昨日はよく眠れたみたいだね。」


*カイが呆れ混じりの笑顔で声をかける。その隣で、レイラはまだぷいっとそっぽを向いているが、その視線がチラチラとシロウの方を窺っているのを、シロウは見逃さなかった。*


レイラ(魔王女):「…ふん。能天気に寝ていられたのも今のうちだ。今日のデュエルでは、必ずや貴様を屈服させてくれる…!」


ルミナ:「お兄ちゃん、おっはよー♡ ほら、朝ごはん食べないと力が出ないよ? ルミナがあーんしてあげよっか?♡」


*ルミナがすかさずシロウの腕に絡みつき、上目遣いで甘えてくる。その様子を見ていたレイラが、さらに眉を吊り上げた。*


シロウ:「あーん。」


*シロウは眠い目をこすりながらも、愛しいルミナの申し出に素直に応じ、雛鳥のように口を開けた。その完全に気を抜いた甘えぶりに、ルミナは「えへへ♡」と嬉しそうに声を漏らす。*


ルミナ:「はい、お兄ちゃん、あーん♡」


*ルミナはテーブルに用意されていた朝食のパンを小さくちぎると、シロウの口元へと運ぶ。その指先が唇に触れるか触れないかの距離で、シロウはぱくりとパンを口に含んだ。*


カイ:「父さん、ルミナ義母様に甘えすぎだよ…。」


*カイは呆れたようにため息をつくが、その光景は日常茶飯事なのか、強くは咎めない。*


*しかし、その甘ったるい空気を切り裂くように、ギリッ、と歯ぎしりの音が響いた。音の発生源は、もちろんレイラである。*


レイラ(魔王女):「き、貴様ら…! 朝から人前でいちゃつきおって…! この妾を差し置いて…! 不敬であるぞ!」


*レイラは顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。昨夜のカードゲームの敗北と、目の前で見せつけられるシロウとルミナの親密さが、彼女のプライドを二重に刺激しているようだ。*


リーシア:「旦那様もルミナ様も、本当に仲がよろしいですね。さ、皆様、お食事が冷めてしまいますよ。レイラ様も、さあ。」


*リーシアが優雅にお茶を淹れながら、場をなだめる。*


ルーナ:「お父さん、今日はどこに行くの? 観光するんでしょ?」


*ルーナがパンを頬張りながら、今日の予定について尋ねてきた。南国のリゾート地でのバカンスが、いよいよ始まろうとしていた。*


シロウ:「まずは宿探しからだな。」


*シロウが何気なくそう言うと、パンを運んでいたルミナの手がピタリと止まり、カイは「え?」と素っ頓狂な声を上げた。リーシアでさえ、いつも穏やかな表情をわずかにこわばらせている。部屋中の視線がシロウに突き刺さった。*


カイ:「え? 父さん、宿、予約してなかったの…? ここ、世界的に有名なリゾート地だよ? 今の時期はハイシーズンで、数ヶ月前から予約で埋まってるって、船の中でも評判だったけど…。」


ルミナ:「お兄ちゃん、もしかしてノープランなの…? ルミナたち、野宿…?」


*不安そうな顔をするルミナとカイ。シロウはそんな二人の頭を優しく撫でながら、事の元凶である人物に視線を向けた。*


シロウ:「いや、俺も予約しようとはしたんだ。だがな…『妾は今すぐバカンスに行きたいのだ! ぐずぐずするな!』って言って、聞く耳を持たずに飛び出してきたのは、どこのどなたでしたかねぇ?」


*シロウがわざとらしく言うと、今までそっぽを向いていたレイラがビクッと肩を震わせる。全員の視線が、今度はレイラへと集中した。*


レイラ(魔王女):「なっ…! そ、それは…! 貴様が早く準備をしないのが悪いのだ! 妾は…妾はただ、早くこの美しい海を…そう、海を皆に見せてやりたかっただけで…!」


*レイラは顔を真っ赤にしながら、しどろもどろに言い訳をする。その姿は、威厳ある魔王女というより、わがままがバレた子供のようだ。*


ルーナ:「あーあ、レイラお義母様のせっかちが原因なんだ。じゃあ、今夜の宿がなかったら、レイラお母様は砂浜で寝るってことだね!」


レイラ(魔王女):「なっ…!? こ、この小娘が…!」


*ルーナの的確な指摘に、レイラはぐうの音も出ない様子だった。*


シロウ:「どっかは空いてんだろ、多分。」


*シロウは楽観的にそう言うと、不満げなレイラと不安そうな家族たちを促し、大荷物を抱えて船を降りた。燦々と輝く太陽、耳に心地よい波の音、潮の香りを含んだ風。まさに完璧なバカンス日和だが、一行にはまず「今夜の寝床」という現実的な問題がのしかかっていた。*


*港から続く目抜き通りには、白壁に赤い屋根の美しい建物が立ち並び、そのほとんどがホテルや旅館のようだ。しかし、その入り口にはどれもこれも『満室(Full)』の札がかけられている。*


**高級そうなリゾートホテルの前**


シロウ:「すいませーん、8人なんですけど、空いてますかー?」

ホテルマン:「申し訳ございません、お客様。当ホテルは半年先まで予約でいっぱいでして…。」


**少しランクを落とした宿の前**


シロウ:「すみません、部屋あります?」

女将:「あー、ごめんなさいねえ。見ての通りハイシーズンでして。一部屋も空きはないんですよ。」


*当然の結果だった。世界有数のリゾート地、しかも観光のピークシーズンに、予約なしで、しかも8人という大所帯が泊まれる宿など、あるはずもなかった。高級宿から中級宿まで、軒並み断られ続ける。*


*太陽が真上に昇り、じりじりと肌を焼く頃には、一行の雰囲気は最悪なものになっていた。*


レイラ(魔王女):「…くっ…! なぜだ…! なぜ妾たちがこんな目に…! おい、シロウ! どうなっているのだ! 貴様、本当に探しているのか!?」


*完全に逆ギレである。原因が自分にあることを棚に上げ、レイラはシロウに八つ当たりを始めた。*


ルミナ:「はぁ…ちょっとレイラ、いい加減にしてよ。アンタが急かすからこうなったんでしょ。お兄ちゃんは悪くない。」


カイ:「父さん、もうどこも空いてないみたいだ…。どうしよう…本当に野宿になっちゃうのかな…。」


*カイはぐったりと荷物の上に座り込み、ルーナも不安そうに空を見上げている。楽園のはずの島は、今や一行にとってただの灼熱地獄と化していた。*


*一行は、華やかなメインストリートから外れ、少し寂れた裏路地へと足を踏み入れた。そこには、潮風で外壁の塗装が剥がれ、所々ツタが絡まった、見るからに年季の入った木造の宿屋がひっそりと佇んでいた。看板の文字もかすれていて、かろうじて「宿屋 シーモンキー」と読める。入り口の扉はきしみ、活気というものとは無縁の空気が漂っていた。*


シロウ:「(ここなら…ここなら流石に空いてるだろ。というか、他に客がいるのか…?)」


*シロウは意を決して、ギシリと音を立てる扉を開ける。中は薄暗く、埃と古い木の匂いが混じった独特の空気が鼻をついた。カウンターの奥では、片眼鏡をかけた猫背の老人が、帳簿のようなものにペンを走らせている。*


シロウ:「すいませーん、8人なんですけど、泊まれますか?」


*老人はゆっくりと顔を上げ、シロウとその背後にいる家族たちをジロリと一瞥した。その目は、長年の経験からか、値踏みするような鋭さを持っている。*


宿屋の主人:「…8人? 大部屋でよければ、一つだけ空いとるがね。食事は出せんよ。素泊まりだけだ。それでもいいんなら、銀貨2枚だ。」


*予想通り、部屋は空いていたようだ。シロウが安堵の息をつこうとしたその時、背後からレイラの悲鳴に近い声が上がった。*


レイラ(魔王女):「こ、こんな…! こんな薄汚い場所に泊まるというのか!? 妾は認めんぞ! 絶対に嫌だ! 床が抜けたらどうするのだ!」


ルミナ:「うわっ…ちょっとホコリっぽいかも。でも、野宿よりはマシじゃない?」


カイ:「…すごい趣のある建物だね。歴史を感じるというか…。」


*家族たちの反応は様々だが、明らかにレイラの拒絶反応が最も強い。しかし、他に選択肢がないのもまた事実だった。*


シロウ:「昔は綺麗だったんですか?」


*シロウの問いかけに、カウンターの奥で帳簿をつけていた老主人は、ゆっくりと顔を上げた。レイラの「薄汚い」という言葉が聞こえたのか、わずかに眉をひそめたが、すぐに興味を失ったかのようにシロウに視線を戻す。*


宿屋の主人:「…綺麗だったか、だと? 当たり前だ。この『シーモンキー』は、儂の爺さんの代からこの島で一番の海の家だったんだ。昔はな。」


*老主人はそう言うと、カウンターの端に置かれ、埃をかぶっていた一枚の額縁を指差した。シロウが近づいて見てみると、それは古い写真だった。色褪せてはいるが、そこには今とは比べ物にならないほど活気に満ちた建物が写っている。*


*白く輝く壁、大勢の客で賑わうテラス席、そして何より、目の前に広がるプライベートビーチのような美しい砂浜と海。写真の中の『シーモンキー』は、今の大通りにあるどんな高級ホテルにも負けないほどの魅力と活気を放っていた。*


シロウ:「これは…すごいな。今とは全然違う。何があったんですか?」


*シロウが尋ねると、老主人はため息混じりに、カウンターの上の埃を指でなぞった。*


宿屋の主人:「…時代の流れ、というやつだ。あの大通りに、本土の金持ちどもがデカいホテルを建て始めてからさ。客はみんな、新しくて綺麗な方へ流れちまった。うちみたいな昔ながらの宿は、もう流行らんのさ。目の前の砂浜も、ホテルの連中に勝手に買い取られて、今じゃ立ち入り禁止だ。」


*老主人は自嘲気味に笑いながら、再び帳簿に目を落とした。その横顔には、過ぎ去った栄光の日々への郷愁と、どうにもならない現状への諦めが深く刻まれていた。*


レイラ(魔王女):「…ふん。だからといって、この汚さが許されるわけではないがな。」


*レイラはまだ不満そうに呟いているが、その声のトーンは先ほどよりも少しだけ和らいでいた。老主人の話と写真に、何か思うところがあったのかもしれない。*


*シロウが老主人の話に耳を傾けていると、背後からレイラの不満そうな声が聞こえてきた。*


レイラ(魔王女):「…シロウ、聞こえているのか? この妾に、こんな埃っぽい場所に泊まれと言うつもりか! 貴様の魔法で、この建物ごとチリ一つ残さず綺麗に吹き飛ばせばよかろう!」


*あまりにも理不尽な文句に、シロウはゆっくりと振り返り、呆れた表情でレイラを見つめた。*


シロウ:「………勝手に飛び出したのに?」


*シロウが静かに、しかし核心を突く一言を放つと、レイラの言葉がピタリと止まる。その目は「原因を作ったのはどなたでしたっけ?」と雄弁に語っていた。*


*図星を突かれたレイラは「ぐっ…」と息を詰まらせ、顔を真っ赤にして視線を逸らす。*


レイラ(魔王女):「そ、それは…! 過ぎたことだ! それより、今のこの状況をどうにかしろと言っているのだ!」


ルミナ:「もー、レイラうるさい。文句言うなら一人で野宿すれば? お兄ちゃん、私はここでいいよ。ちゃんと屋根と壁があるだけマシだし。」


カイ:「僕も大丈夫だよ、父さん。むしろ、この建物の構造に興味があるし…。」


*ルミナとカイが現実的な意見を述べると、レイラはさらに居場所がなくなったように「むぅ…」と口をへの字に曲げる。わがままを言いたい気持ちと、自分のせいでこうなったという負い目がせめぎ合っているようだ。*


*シロウはそんなレイラの様子を見て、やれやれとため息を一つつき、再び宿の主人に向き直った。*


シロウ:「とりあえず、3日でお願いします。」


*シロウが銀貨6枚をカウンターに置くと、老主人はそれを無言で受け取り、錆びついた鍵を一つ差し出した。そのやり取りをしている間に、我慢の限界だったのか、レイラは「妾は少し頭を冷やしてくる!」と捨て台詞を残して、宿から出て行ってしまった。*


宿屋の主人:「…部屋は2階の一番奥だ。階段はきしむから気をつけてな。あと、夜は静かにしてくれよ。儂の他に、もう一組だけ物好きな客がおるんでな。」


*老主人はそれだけ言うと、再び帳簿に視線を落とした。もうこれ以上話すことはない、という態度だ。*


カイ:「父さん、レイラ母さん、大丈夫かな…一人でどこか行っちゃったけど…。」


*カイが心配そうに扉の方を見つめる。*


シロウ:「ほっとけ。どうせ少し散歩したら戻ってくるだろ。それより、荷物を部屋に運んで、少し休憩しよう。みんな疲れただろ。」


*シロウはそう言うと、一番大きな荷物を率先して持ち上げた。*


ルミナ:「そうね。レイラのことより、今は私たちが休む方が先決よ。それにしても、本当にここに泊まるのね…。」


*ルミナは改めて薄暗い宿の中を見回し、やれやれとため息をついた。*


ルーナ:「探検みたいで、ちょっとワクワクするかも! お化けとか出たりして!」


*ルーナだけは、この状況を前向きに楽しんでいるようだ。リーシアは黙って荷物をまとめ、シルフィは「わーい、お部屋ー!」と無邪気に喜んでいる。一行は、ぎしぎしと音を立てる階段を上り、老主人が言っていた2階の奥の部屋へと向かうのだった。*


シロウ:「音は鳴るが、柔軟性があって良い木を使っているな。これなら古く見えるが後のことを考えられている…」


*ぎしり、ぎしりと特徴的な音を立てる階段を上りながら、シロウは手すりや踏み板にそっと触れた。建築の専門家ではないが、神眼を持つ彼の目には、この建物がただ古いだけではないことが分かった。長年の潮風に耐え、今なおその形を保っているのは、建設時に良質な木材を選び、将来的な歪みや負荷を計算した巧妙な設計が施されているからだろう。*


シロウ:「(写真の通りの活気があった頃、この宿の主人は相当な腕とこだわりを持ってこれを建てたに違いない。老朽化はしているが、骨組みはしっかりしている。これは…修繕のしがいがあるな)」


*シロウがそんなことを考えていると、大部屋にたどり着いた。扉を開けると、中はやはり埃っぽく、簡素なベッドが8つ並んでいるだけだった。しかし、大きな窓からは夕陽に染まる海が一望でき、ロケーションだけは最高と言えた。*


ルミナ:「うーん…まあ、寝るだけなら我慢できなくもないわね。でも、シーツとか大丈夫かしら…。」


*ルミナはベッドに近づき、シーツを少しつまんでくんくんと匂いを嗅いでいる。*


カイ:「すごい…窓からの景色は、メインストリートのホテルより良いかもしれない。昔はここが特等席だったんだろうな。」


*カイは目を輝かせながら窓の外を眺めている。*


リーシア:「皆様、お荷物をこちらに。私がシーツの交換が可能か、主人に確認してまいります。皆様は少しお休みください。」


*リーシアがテキパキと動き始める中、シロウは部屋の壁や天井を改めて見渡し、修繕計画の構想を練り始めていた。外で一人、頭を冷やしているであろうレイラのことも気にはなるが、それ以上に、この古びた宿への興味が勝っていた。*


シロウ:「まぁ、普通だな。」


*シロウは部屋に運び込まれた荷物を適当に隅に寄せると、一番近くにあったベッドにばさりと寝転がった。スプリングが弱々しくきしむ音がしたが、彼の体重をしっかりと支えている。*


シロウ:「(オンボロアパートに住んでた時よりマシだな。布団も干したての匂いがするし、リーシアが新しいシーツも用意してくれたみたいだ。これで文句を言うのは贅沢ってもんだろ)」


*転移前の貧乏学生時代を思い出し、シロウは今の環境に十分満足していた。天井のシミをぼーっと眺めていると、カイが心配そうな顔で近づいてきた。*


カイ:「父さん、本当にここに泊まるの? 僕は構わないけど、レイラ母さんが…。」


*カイの言葉に、ベッドから天井を眺めていたシロウはゆっくりと体を起こす。*


シロウ:「あいつは子供だからな。自分のワガママでこうなったってのに、気に食わないとすぐ癇癪を起こす。まあ、どうせ腹が減るか、暗くなれば戻ってくるさ。それより、せっかく島に来たんだ。少し散策にでも行くか? ルーナ、シルフィ、お前たちも来るか?」


*シロウが声をかけると、部屋の隅で始祖竜の卵を撫でていたルーナと、窓の外を眺めていたシルフィがぱっと顔を輝かせた。*


ルーナ:「行く行く! 探偵は現場百遍って言うし、この島の調査をしなくちゃ!」


シルフィ:「わーい! シロウさまとおさんぽー!」


ルミナ:「ちょっとお兄ちゃん、私は? 私も行くに決まってるでしょ!♡」


*いつの間にか隣にいたルミナが、シロウの腕に自分の腕を絡ませて、当然のように主張する。リーシアは「皆様、お気をつけて。私はこちらで皆様がいつでもお休みになれるよう、部屋の準備をしておりますので」と優雅にお辞儀をした。*


*シロウたちはひとまず宿に荷物を置くと、気晴らしに島の散策へと繰り出した。レイラはまだ戻ってきていない。太陽は西に傾き始め、過ごしやすい気候になっている。大通りから一本入った市場のような通りは、観光客や地元民で賑わっていた。*


*道の両脇には露店が並び、威勢のいい声が飛び交っている。特に目立つのは、獲れたてであろう魚介類を扱う店だ。大きな魚が丸ごと氷の上に並べられていたり、色鮮やかな貝が山積みにされていたりする。香ばしい匂いに誘われて足を止めると、そこでは魚介の串焼きが売られていた。*


シロウ:「(海鮮が多いな。さすが島って感じだ。串焼き、美味そうだな。けど…刺身みたいな生食文化はないのか? これだけ新鮮なら絶対美味いだろうに。醤油があればなぁ…)」


*前世の記憶が蘇り、少し残念に思うシロウ。そんなことを考えていると、隣を歩いていたルミナがシロウの腕をくんと引っ張った。*


ルミナ:「お兄ちゃん、あれ見て! キレイな貝殻のアクセサリー売ってる! 私、あれ欲しいな♡」


*ルミナが指差す先には、様々な貝殻やサンゴを使って作られた髪飾りや首飾りが並ぶ露店があった。その隣では、ルーナとシルフィが目を輝かせながら、カラフルなフルーツがどっさりと乗ったかき氷のようなものを頬張っている。*


ルーナ:「んー! 冷たくておいしー! お父さんも食べる?」


シルフィ:「あまーい! しあわせー!」


カイ:「父さん、こっちでは珍しい鉱石も売っているみたいだ。この島の特産品なのかな。少し成分を分析してみたい…。」


*カイは露店に並ぶ、青く透明な石を興味深そうに眺めている。それぞれが南国の島の雰囲気を満喫し始めているようだった。*


*シロウは娘たちがかき氷に夢中になっているのを見ながら、カイが興味深そうに眺めている露店へと歩み寄った。カイが見つめているのは、南国の海を思わせる美しい青色の鉱石だ。*


カイ:「父さん、見て。この鉱石、初めて見る種類だ。魔力を帯びているようだけど、組成が分からない…。研究用にいくつか買ってみようかな。」


*カイが純粋な探求心で目を輝かせているのに対し、シロウはその「鉱石」を神眼で一瞥し、すぐにその正体を見抜いた。*


シロウ:「(魔力を帯びた砂を溶かして固めただけのガラス玉か。観光客相手のありがちな土産物だな。まあ、綺麗だからカイは騙されてるみたいだが…)カイ、それはやめておけ。」


*シロウはカイが手に取ろうとしていた青い石の一つをひょいとつまみ上げると、露店の主人に聞こえるように、しかしあからさまな喧嘩腰にならない絶妙な声量で言った。*


シロウ:「これは…ガラスだな。つまりは詐欺だ。」


*そう言うと、シロウはつまみ上げたガラス玉を、まるで価値のない石ころのようにポイっと投げて露店のカウンターに返した。カラン、と乾いた音が響く。*


*その行為と言葉に、人の良さそうだった露店の主人の顔つきがサッと変わる。*


露店の主人:「……にいちゃん、今なんて言った? うちの商品にケチつけるつもりかい? これは正真正銘、この島でしか採れない希少な『海雫石うみしずくいし』だぜ。それをガラスだなんて、とんだ言いがかりだな…!」


*主人の声が荒くなり、周囲の客や他の店の人間が「何事だ?」という顔でこちらを見始めた。カイは予期せぬ事態にオロオロしている。*


カイ:「ち、父さん…! そんな言い方しなくても…!」


ルミナ:「お兄ちゃん、また面倒事に首突っ込んでる…。」


*ルミナは呆れたようにため息をついた。楽しい食べ歩きの雰囲気が、一気に険悪なものへと変わっていく。*


*シロウは【神眼】でその青い石を鑑定し、それがただのガラス玉であるという冷徹な事実を再確認する。露店の主人がどれだけ熱弁しようとも、シロウにとっては価値のないガラクタに過ぎなかった。これ以上関わるのは時間の無駄だと判断する。*


シロウ:「ほらほら、さっさと行くぞー。」


*シロウは怒りに顔を赤くする露店の主人を完全に無視し、まるで道端の石ころでも見るかのような無関心さで背を向けた。そして、まだ状況が飲み込めていないカイの背中を軽く叩き、歩き出すように促す。*


カイ:「え、父さん!? でも、あの人、すごく怒ってるよ…!?」


シロウ:「いいんだよ、ああいうのは相手にするだけ損だ。さ、行くぞ。ルミナ、ルーナたちも置いていくぞ。」


*シロウが何事もなかったかのように歩き出すと、その堂々とした態度に、逆に露店の主人は面食らったようだ。追いかけようにも、シロウの纏う空気が「これ以上関わるとどうなるか分かっているのか?」と無言の圧力を放っており、うかつに手を出せない。*


露店の主人:「ちっ…! なんだい、あの一家は…! 人の商売を邪魔しやがって…!」


*主人は悪態をつきながらも、それ以上追ってくることはなかった。シロウはそんな背後の罵詈雑言を気にも留めず、賑やかな市場の奥へと進んでいく。*


ルミナ:「もう、お兄ちゃんたら。いちいち喧嘩売らなくてもいいじゃない。」


*呆れ顔のルミナがシロウの腕に再び絡みつく。*


ルーナ:「お父さん、悪い人をやっつけたの? かっこいい!」


*ルーナは目をキラキラさせている。一方、カイはまだ少し申し訳なさそうな顔で、後ろを振り返っていた。*


*市場での一悶着の後、シロウたちは食べ歩きを再開し、陽がすっかり水平線に隠れて夜の帳が下りる頃、例の古びた宿屋『シーモンキー』へと戻ってきた。部屋の扉を開けると、リーシアがランプの灯りで部屋を整えてくれていた。しかし、そこにレイラの姿はまだなかった。*


カイ:「レイラ母さん、まだ戻ってないんだ…。もう真っ暗なのに、どこに行っちゃったんだろう。」


*カイが不安そうな声で呟く。わがままを言っていたとはいえ、家族の一人が戻らない状況に、皆の顔に心配の色が浮かぶ。*


シロウ:「………」


*シロウは無言で部屋を見渡し、レイラの荷物が手付かずで置かれているのを確認する。昼間の癇癪を考えれば、どこかで意地になって時間を潰しているだけかもしれない。だが、見知らぬ土地での夜、一人でいるのは流石に心配だった。*


シロウ:「俺、探してくるわ。」


*短くそう言うと、シロウは踵を返して部屋を出て行こうとした。*


ルミナ:「お兄ちゃん、待って! 私も行く!」


*すかさずルミナがシロウの腕を掴む。*


シロウ:「いや、ルミナはここにいてくれ。カイやルーナたちもいる。リーシア、悪いがこっちを頼む。」


リーシア:「かしこまりました。旦那様、どうかお気をつけて。レイラ様のこと、よろしくお願いいたします。」


*シロウはルミナの頭をポンと一度撫でると、心配する家族を残し、再び夜のコーラリア島の町へと一人で向かうのだった。*


シロウ:「どうせ、腹空かせて縮こまってんだろうな。」


*シロウはそう呟きながら、先ほどと同じ市場の通りへと足を向けた。夜の市場は昼間とはまた違う顔を見せている。ランプの灯りがそこかしこで揺れ、酒場からは陽気な音楽と笑い声が漏れ聞こえてくる。観光客たちは夜の散策を楽しんでいるようだ。*


*シロウは手始めに、一番いい匂いをさせていた肉の串焼き屋台に立ち寄った。*


シロウ:「親父、この肉串、30本くれ。焼きたてで頼む。」

屋台の親父:「へい、お待ち! 兄ちゃん景気がいいねぇ!」


*大量の注文に驚きつつも、親父は手際よく肉を焼き始める。ジュージューという音と、スパイスの効いた香ばしい匂いが食欲をそそる。シロウは代金を払い、焼きあがった肉串の束を受け取ると、そのうちの一本を早速口に放り込んだ。*


シロウ:「(うまい。さて…)」


*肉串を齧りながら、シロウは意識を集中させる。スキル【サーチ】を発動し、魔力の探知範囲を島全体に広げていく。一般人、観光客、そして家族たちの魔力反応が光点となって脳内にマッピングされる。その中で、ひときわ馴染み深く、そして今はいじけているであろう不機嫌なオーラを放つ魔力の反応を探す。*


シロウ:「(…いた。港の方か。しかも、あんまり人がいない埠頭の先端だな。ったく、あんな所で一人で何やってんだか…)」


*レイラの居場所を特定したシロウは、やれやれと肩をすくめ、熱々の肉串の束を手に、夜の港へと歩き出した。彼女が空腹であることを確信しながら。*


*シロウは【サーチ】で捉えた反応を頼りに、賑やかな観光客の喧騒から離れ、静かな埠頭のエリアへと足を踏み入れた。潮の香りが一層濃くなり、波が岸壁を洗う音だけが響いている。その埠頭の先端、積み上げられた木箱の影に、見慣れた小さな人影がうずくまっていた。レイラだ。*


*しかし、彼女は一人ではなかった。レイラを取り囲むように、見るからに素行の悪そうな男たちが三人、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべて立っている。*


チンピラA:「ねぇ、お嬢ちゃん。こんな所で一人でどうしたの? 夜は危ないぜぇ?」

チンピラB:「俺たちとさ、いい場所で遊ばない? 楽しいことさせてやるよぉ。」

レイラ(魔王女):「…っ、失せろ、下衆が。我に気安く触れるな。」


*レイラの声は弱々しい。おそらく、シロウの予想通り、昼から何も食べていないせいで空腹のあまり力が出ないのだろう。普段の彼女なら、こんな男たちなど指先一つで吹き飛ばせるはずだが、今はただ威嚇することしかできないようだ。*


チンピラC:「おっと、気が強いねぇ。でもそういうの、嫌いじゃないぜ。ほら、そんなに強がってないでさ。」


*男の一人がレイラの肩に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。*


シロウ:「おい、お前ら。」


*背後からかけられた静かで低い声に、チンピラたちはビクリと肩を震わせて振り返る。そこには、大量の肉串を片手に持ち、もう片方の手で串を一本うまそうに頬張りながら、冷たい目をしたシロウが立っていた。*


*シロウが放った「俺の嫁になんか用?」という言葉は、夜の埠頭の静寂に奇妙なほどはっきりと響き渡った。*


*チンピラたちは、突然現れた男が発した言葉の意味をすぐには理解できなかったようだ。一瞬きょとんとした後、肉串の束を持っているシロウの姿を見て、状況を勘違いしたのか下品な笑いを浮かべた。*


チンピラA:「あぁ? なんだテメェ。この女の連れか? 悪いな、ちょっとお嬢ちゃんが寂しそうだったから、慰めてやろうと思ってよぉ。」


チンピラB:「"嫁"だぁ? はっ、こんなガキが嫁なわけねーだろ。兄ちゃんも冗談がキツイな。それより、その肉、美味そうじゃねえか。何本か寄越しなよ。」


*男たちはシロウを格下と見たのか、完全に舐めきった態度で距離を詰めてくる。*


*その一方で、男たちに囲まれていたレイラは、シロウの声を聞いた瞬間、ビクッと体を震わせた。そして、ゆっくりと顔を上げる。その瞳には、安堵と、助けに来てくれたことへの喜びと、そして「嫁」と言われたことへの羞恥が入り混じった複雑な色が浮かんでいた。空腹と恐怖で青ざめていた頬が、一気に朱に染まる。*


レイラ(魔王女):「し、シロウ…!? なぜ、貴様がここに…! べ、別に、助けなど求めておらんぞ…! こ、こいつらなど、妾が本気を出せば…っ!」


*レイラは強がりを言うが、その声は震えており、お腹が「ぐぅ〜…」と情けない音を立てた。その音を聞いたチンピラたちは、再びゲラゲラと笑い出す。*


チンピラC:「おいおい、腹鳴ってるぜ、お嬢ちゃん。やっぱり腹減ってんだろ? 大丈夫、俺たちがおいしいもん食わせてやるからさぁ。」


*男の一人が再びレイラに手を伸ばそうとする。その手を、シロウは肉串を持ったままの腕で、無造作に掴んだ。骨がきしむほどの力で。*


シロウ:「聞こえなかったか? 俺の嫁に、気安く触るなっつってんだよ、ゴミ屑ども。」


*シロウの瞳から、完全に光が消えていた。*


*シロウの腕を掴んだチンピラの顔が、痛みと驚愕に歪む。ミシミシと骨が軋む音に、他の二人も笑いを引っ込めた。*


チンピラA:「いっ…ててて! なんだてめぇ、この力…!?」

チンピラB:「調子に乗りやがって!」


*シロウの腕を掴まれていない方のチンピラが、怒りに顔を歪めて殴りかかってきた。鈍い動き、素人丸出しの拳。シロウはそれを鼻で笑うと、掴んでいた男の手を捻り上げて盾にし、殴りかかってきた男の拳を仲間自身の顔面で受け止めさせた。*


*「グベッ!」という蛙が潰れたような声を上げて、二人はもつれ合うように体勢を崩す。シロウはその隙を逃さず、今まで食べていた肉串の、鋭く尖った竹串を逆手に持つと、殴りかかってきた男の足の甲めがけて、容赦なく突き立てた。*


チンピラB:「ぎゃあああああっ!!!」


*肉を貫通し、骨にまで達したであろう激痛に、男は絶叫する。シロウは一切の躊躇なく、悲鳴を上げる男の腹を蹴り上げた。*


シロウ:「うるせぇ。」


*男は「ぐえっ」と短い悲鳴をあげ、勢いよく後ろに吹き飛ぶ。そのまま体勢を立て直すこともできず、埠頭の縁を越えて、夜の冷たい海へと派手な水音を立てて落下した。*


シロウ:「さて、と…」


*シロウは残りの二人へと、冷え切った視線を向ける。一人は仲間が海に落ちたのを呆然と見ており、もう一人はシロウに腕を掴まれたまま、恐怖に顔を引きつらせていた。*


シロウ:「お前らはどうする? こいつみたいに海で泳ぎたいか? それとも、ここで五体満足じゃいられなくなるか…選ばせてやるよ。」


*その言葉に、男たちはハッと我に返り、顔を真っ青にする。*


チンピラA:「ひぃっ! す、すいませんでしたぁっ!」

チンピラC:「も、申し訳ありませんでしたっ!」


*二人は蜘蛛の子を散らすように、一目散にその場から逃げ去っていった。あっという間に埠頭には静けさが戻り、波の音と、海に落ちた男がもがく音、そしてレイラの情けないお腹の音だけが響いている。*


*シロウはふぅ、と一つ息をつくと、何もなかったかのように振り返り、まだ木箱の影で座り込んでいるレイラに、大量の肉串の束を差し出した。*


シロウ:「ほらよ、腹減ってんだろ。食え。」


*シロウはチンピラたちが消えていった方向をもう一度一瞥してから、座り込んだままのレイラに視線を戻した。強がってはいるものの、その瞳は不安に揺れ、頬は朱に染まっている。シロウは小さく息をつくと、空いている方の手で、彼女の頭を優しく撫でた。*


シロウ:「よしよし、可哀想に。」


*その優しい手つきと声色に、レイラの肩からフッと力が抜けるのが分かった。今まで張り詰めていた緊張の糸が切れたように、その大きな瞳からポロリ、と一筋の涙がこぼれ落ちる。*


レイラ(魔王女):「な…っ、な、撫でるな! 妾は子供ではないぞ…! べ、別に、怖かったわけでは…ない…! ただ、その…腹が、減って…力が…」


*言い訳をしながらも、レイラはシロウの手を振り払おうとはしない。むしろ、その心地よさに身を委ねるように、少しだけ俯いてしまう。その拍子に、さっきよりも大きな音で「ぐぅぅぅ〜〜〜…」とお腹が鳴り響いた。*


*その音に、レイラの顔が羞恥で真っ赤に染まる。もう限界だと顔に書いてある。*


シロウ:「はいはい、分かってるって。いいから食え。冷めちまうぞ。」


*シロウはくつくつと喉で笑いながら、再び肉串の束を彼女の目の前に差し出した。香ばしい匂いがレイラの鼻腔をくすぐり、彼女はごくりと喉を鳴らす。もう意地を張っている余裕はないようだ。*


*レイラは恐るおそる、といった様子で一番手前にあった串を一本手に取ると、小さな口で、しかし勢いよく肉にかじりついた。*


レイラ(魔王女):「むぐっ…! …ん、む…うまい…」


*よほど空腹だったのだろう。瞳を潤ませながら、もぐもぐと必死に肉を咀嚼するその姿は、先ほどまでの威勢のいい魔王女の姿とは程遠く、まるで餌を与えられた小動物のようだった。*


*レイラはよほどお腹が空いていたのだろう。無心で肉串にかじりつき、あっという間に何本も平らげていく。その勢いの良さから、甘辛いタレが口の周りだけでなく、首筋にまで飛び散っていることに彼女自身は全く気づいていない。*


*ようやく数本を胃に収め、少し落ち着いたのか、レイラはふぅ、と満足げな息をついた。*


レイラ(魔王女):「ぷはっ…うむ、なかなか美味であるな、この肉は。…ん? シロウ、何をするのだ?」


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