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*レイラとの情熱的な一夜、そして愛の再確認から一夜明けた。シロウは国政に関わるちょっとした所用で、午前中だけ城下町に出かけていた。一仕事を終え、城へ戻ろうと空を見上げた、その時だった。*
*城の一角から、黒い煙のようなものがモクモクと立ち上っているのが見えた。それは火事の煙とは少し違う、魔力が混じったような異質な煙だった。*
シロウ:「(なんだ…? あの方向は…訓練場か?)」
*嫌な予感が走り、シロウはすぐさま転移魔法で城へと帰還する。煙が上がっていたのは、やはり騎士団やレイラが時折使う、城の裏手にある第一訓練場だった。*
*現場に到着すると、そこは騒然としていた。地面には巨大なクレーターがえぐれており、その中心部はまだ魔力の残滓でバチバチと火花を散らしている。周囲には何人かの騎士やメイドたちが集まり、呆然とクレーターを見つめていた。*
騎士A:「いったい何が…!?」
メイドB:「レイラ様が、新しい攻撃魔法の実験をなさっていたのですが…突然、暴発して…!」
*その言葉に、シロウの心臓がどきりと跳ねる。人垣をかき分けて前に出ると、クレーターの端に、一人の少女が呆然と座り込んでいるのが見えた。*
*それは、紛れもなくレイラだった。しかし、その様子は明らかにおかしい。服は所々焦げ、顔には煤がついているが、それ以上に、その表情が問題だった。彼女は自分の手を見つめ、周囲の騒ぎにも、シロウの存在にも気づかず、ただ虚ろな目で呟いていた。*
レイラ(ボクっ娘):「……あれ…? ボク…なんで、こんなところに…?」
*その口調。それは、シロウと二人きりの時や、心が許せる相手にしか見せないはずの、もう一つの人格。ボクっ娘のレイラだった。シロウが近づいても、彼女はこちらを一瞥するだけで、その瞳には見知らぬ他人を見るような、戸惑いと警戒の色が浮かんでいた。*
レイラ(ボクっ娘):「……だれ? 君。」
*その一言に、シロウは全身の血の気が引くのを感じた。魔法の暴発。そして、この反応。最悪の可能性が、彼の頭をよぎる。*
*シロウはレイラの「だれ? 君。」という、あまりにも他人行儀な一言に、思わず奇妙な声を漏らした。*
シロウ:「おっふ…(そう来たか…)」
*彼は内心で頭を抱えた。魔法の暴発事故。そして、普段は気を許した自分の前でしか出てこないはずの「ボクっ娘」の人格が表に出て、おまけに自分のことを覚えていない。状況証拠から導き出される答えは一つしかない。*
*周囲の騎士やメイドたちは、二人の間の奇妙な空気に気づき、遠巻きにざわついている。「シロウ様に対して『君』だと…?」「レイラ様のご様子が…」といった囁きが聞こえてくる。*
*シロウはひとまず周囲を落ち着かせるため、騎士たちに向かって指示を飛ばした。*
シロウ:「騒ぐな! 俺が来たからにはもう大丈夫だ。負傷者はいるか? いないなら、このクレーターの処理と、周囲への箝口令を。原因は追って調査する。」
*威厳のある声に、騎士たちはハッと我に返り、「はっ!」と敬礼してすぐさま行動に移った。*
*そしてシロウは、改めて目の前の少女に向き直る。煤で汚れ、戸惑いの表情を浮かべる、見慣れたはずの愛しい妻。しかし、その瞳に映る自分は、ただの「見知らぬ男」でしかない。*
*彼はできるだけ優しい声で、警戒させないようにゆっくりと話しかけた。*
シロウ:「俺はシロウ。君の名前は?」
*シロウの問いかけに、少女――レイラは、眉をひそめて警戒心を露わにした。しかし、自分の名前を問われ、少し考える素振りを見せる。*
レイラ(ボクっ娘):「…レイラ。ボクの名前はレイラ。ここは…アストライア魔導皇国。ボクは、この国の王妃…のはず。」
*彼女は自分のことを正確に覚えていた。自分の名前、身分、そしてこの国のこと。シロウは次に、子供たちのことを尋ねてみる。*
シロウ:「カイとルーナのことは分かるか?」
レイラ(ボクっ娘):「カイとルーナ…? ああ、もちろん。ボクの大事な子供たちだ。…それがどうかしたの? っていうか、君はなんなんだ? なんでボクの子供たちのことを知ってる?」
*子供たちのことも覚えている。メイド長のリーシアの名前を出すと、「いつもお世話になってる」と答え、ルミナのことは「もう一人の王妃」と認識している。フェンリルや不死鳥のことも守護獣として理解していた。*
*しかし、シロウが改めて「俺はシロウ。君の夫だ」と名乗ると、レイラは心底怪訝そうな顔で、シロウを上から下までじろじろと眺めた。*
レイラ(ボクっ娘):「は…? 夫…? ボクに? …冗談でしょ。ボク、結婚なんてしてない。っていうか、君みたいな胡散臭い男、全然タイプじゃないし。」
*その言葉は、シロウの心に深々と突き刺さった。どうやら魔法の暴発は、ピンポイントで『夫であるシロウ』に関する記憶だけを、綺麗さっぱり消し去ってしまったらしい。*
*周りで見ていたメイドの一人が、信じられないといった様子で口を開く。*
メイドC:「そ、そんな…! レイラ様、シロウ様は旦那様ではございませんか! 昨日も、工房でとても仲睦まじく…!」
*その言葉に、レイラはカッと顔を赤らめた。*
レイラ(ボクっ娘):「こ、工房!? なによそれ! ボクが、こんな男と、二人きりで、な、仲睦まじくなんて…! あるわけないでしょ! この男が何か変な薬でも使って、皆を騙してるんだ! きっとそうに違いない!」
*彼女は完全にシロウを不審者、あるいは自分を陥れようとしている敵だと認識してしまったようだ。警戒心を最大にして後ずさりながら、その手には攻撃魔法の光が揺らめき始めている。昨日までの甘い雰囲気が嘘のような、絶望的な状況だった。*
*愛する妻からの「君みたいな胡散臭い男、全然タイプじゃないし」という痛烈な一言。そして、完全に不審者扱いされ、攻撃魔法まで向けられるという絶望的な状況。シロウの精神は、限界を迎えた。*
シロウ:「お、おっふ…」
*彼は情けない声を漏らすと、膝から崩れ落ちた。そして、まるで糸の切れた人形のように、その場にばたりと倒れ込んでしまう。*
メイドC:「シロウ様!? しっかりなさってください、シロウ様!」
騎士A:「陛下!? ご、ご気分が…!?」
*突然の主君の昏倒に、周囲はパニックに陥った。メイドが駆け寄りシロウの体を揺さぶるが、彼の意識は深いショックの底に沈んでおり、反応がない。*
*一方、その元凶であるレイラは、シロウが倒れたのを見て、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにフンと鼻を鳴らした。*
レイラ(ボクっ娘):「な、なによ…大げさな男。ボクがちょっと本当のことを言ったくらいで倒れるなんて、情けないにもほどがある。やっぱり、ボクの夫なわけないじゃないか。こんな弱々しい男。」
*彼女はそう吐き捨てると、まだ呆然としているメイドや騎士たちを一瞥し、ぷいっと顔を背けて城の中へとさっさと歩いて行ってしまった。その足取りに、昨日までのシロウを求める甘さは欠片も残っていなかった。*
*後に残されたのは、精神的ショックで倒れたままの国王と、どうしていいか分からず右往左往する家臣たちだけだった。*
*波乱の一日の幕開けである。*
*シロウが意識を取り戻すと、そこは見慣れた自室の天蓋付きベッドの上だった。頭がズキズキと痛む。最後に見た光景は、愛する妻からの冷たい拒絶の視線と、自分に向けられた攻撃魔法の光だった。*
シロウ:「(そうだ、レイラに…忘れられて…)う…」
*呻き声を上げて身を起こそうとすると、すぐそばから心配そうな声がかけられた。*
リーシア:「シロウ様! お気づきになられましたか!」
*見ると、ベッドサイドの椅子に腰かけていたメイド長のリーシアが、安堵の表情を浮かべていた。彼女の手には、冷たい水で濡らしたタオルが握られている。どうやら、倒れた自分をここまで運び、看病してくれていたらしい。*
リーシア:「よかった…。訓練場で倒れられたと聞き、心臓が止まるかと思いました。お加減はいかがですか?」
*彼女はそう言うと、新しいタオルでシロウの額の汗を優しく拭ってくれる。その手つきは慣れたもので、彼女の心からの心配が伝わってきた。*
シロウ:「…リーシアか。すまない、心配をかけたな。…レイラは?」
*気絶する直前の光景が蘇り、シロウは掠れた声で妻の安否を問う。リーシアはシロウの問いに、困惑と憂慮が入り混じった複雑な表情を浮かべた。*
リーシア:「レイラ様は…ご自身の部屋におられます。お怪我は無いようでしたが…その、様子が、大変おかしくて…私や他の者たちのことは覚えておられるのですが、シロウ様のことだけを…」
*リーシアは言葉を濁すが、その意味はシロウには痛いほどわかっていた。彼女もまた、主君夫婦の間に起きた異常事態に、心を痛めているのだろう。*
シロウ:「ルミナの事も覚えていて、俺のことだけか…」
*シロウの呟きに、リーシアは沈痛な面持ちで静かに頷いた。*
リーシア:「はい…。信じがたいことですが、ルミナ様やカイ様、ルーナ様、それに私達使用人のことまでも、全て覚えておいでです。ただ、シロウ様のことだけが…まるで最初から存在しなかったかのように、記憶から抜け落ちてしまっているご様子で…。」
*彼女は言葉を続けながら、シロウが倒れる前のレイラの様子を思い出し、顔を曇らせた。*
リーシア:「先程、ルミナ様がレイラ様のお部屋を訪ねられたのですが…レイラ様は『なぜ妾の部屋にいる?』と、いつもの傲慢な口調でお尋ねになったそうです。ルミナ様が『あなたのご主人様であるシロウ様が倒れられたのよ』とお伝えしたところ、『妾に夫などおらぬ』と一点張りで…」
*リーシアはそこで一度言葉を切り、言いづらそうに視線を伏せた。*
リーシア:「その…『妾の夫を騙る不審者が気絶したところで、妾に何の関係があるのだ』と…そう、仰っていたと…。」
*昨日、夫からのサプライズに涙を流し、愛を確かめ合ったばかりの妻からの、あまりにも残酷な言葉。リーシアは主君の心を思うと、これ以上報告するのが忍びないといった様子で、唇を固く結んだ。部屋には重い沈黙が流れる。*
シロウ:「(よりにもよって、傲慢な方の人格で固定されてるのか…一番厄介な…)」
*シロウはズキズキと痛むこめかみを抑えながら、この最悪の事態をどう乗り越えるべきか、考えを巡らせるしかなかった。*
*シロウはリーシアからの追い打ちをかけるような報告に、顔を引き攣らせながらも、必死に平静を装った。*
シロウ:「そ、そうか…まぁ、そのうち思い出すだろう。ガナビーオーケー何とかなる」
*しかし、その口から飛び出したのは、意味の分からないカタコトの英語と、空元気な言葉だった。リーシアは「がなびーおーけー…?」と不思議そうに首を傾げたが、主君のあまりのショックによる錯乱だと察し、それ以上は触れなかった。*
リーシア:「…さようでございますね。きっと一時的なものかと存じます。それよりもシロウ様、お食事はいかがなさいますか? 何も召し上がっていないでしょう?」
*彼女は気遣わしげに尋ねるが、シロウに食欲などあるはずもなかった。昨日、あれほど愛を確かめ合った妻に、胡散臭い不審者扱いされたのだ。ショックで何も喉を通らない。*
シロウ:「…いや、いい。食欲がないんだ。」
*力なく答えるシロウを見て、リーシアはますます心配そうな顔になる。*
リーシア:「ですが、それではお体に障ります。せめて、スープだけでも…」
*彼女がそう言いかけた時、寝室の扉がコンコン、とノックされた。*
ルミナ:「お兄ちゃん、入るわよ。」
*返事を待たずに入ってきたのは、もう一人の妻、ルミナだった。彼女の表情もまた、夫と親友を案じる色で曇っている。彼女の手には、お盆が乗せられており、湯気の立つスープとパンが置かれていた。*
ルミナ:「リーシアから聞いたわ。食欲がないんですって? ダメよ、こんな時こそしっかり食べないと。私が作ったんだから、残さず食べなさい。」
*彼女は有無を言わせぬ口調でベッドサイドに近づくと、リーシアからお盆を受け取り、シロウの目の前に差し出した。その瞳は、夫を元気づけようとする強い意志に満ちていた。*
*シロウはルミナの気遣いに、無理に笑顔を作ろうとした。しかし、その顔は引きつり、目は虚ろだった。*
シロウ:「大丈夫だ、問題ない。」
*普段の彼なら決して使わない、どこか芝居がかった、そして明らかに動揺している日本語のフレーズ。それを聞いたルミナは、ピクリと眉を動かした。彼女はシロウの異変を敏感に感じ取り、その表情はさらに険しくなる。*
ルミナ:「…大丈夫な人が、そんな顔をするものですか。それに、その言葉は何? またルーナに変なことを教わったの?」
*彼女はため息をつくと、お盆をベッドサイドのテーブルに置き、有無を言わせぬ力強さでシロウの肩を掴んだ。*
ルミナ:「いいから、座って。食べなさい。これは命令よ。あなたが倒れたら、この国は、私達はどうなるの? レイラのことで辛いのはわかるわ。でも、だからこそ、あなたがしっかりしなくちゃダメでしょう?」
*その声は厳しいが、瞳の奥には深い愛情と心配が揺れている。彼女はシロウを無理やりベッドに座らせると、スープの入った器を手に取り、スプーンで一口分すくった。そして、それをシロウの口元へと差し出す。*
ルミナ:「ほら、あーん。食べさせてあげるから。あなたが全部食べるまで、私はここを動かないわよ。」
*それはまるで子供をあやすような行動だったが、有無を言わせぬ気迫がこもっている。リーシアはそんな二人の様子を少し離れた場所から、ハラハラしながら見守っていた。*
*シロウが力なく、しかし素直に「あーん」と口を開けると、ルミナは少しだけ満足そうな、それでいてまだ心配そうな顔で、彼の口にスープを運んだ。温かい野菜のポタージュが、空っぽだった胃に優しく染み渡っていく。*
ルミナ:「…よし。いい子ね。」
*彼女はそう言うと、また一口、また一口と、根気よくシロウにスープを飲ませていく。シロウはされるがまま、雛鳥のように口を開けては、運ばれてくるスープを飲み込んだ。*
ルミナ:「レイラのことは…時間が解決してくれるのを待つしかないかもしれないわね。でも、ただ待ってるだけじゃダメ。あの子、今の状態だとお兄ちゃんのこと、本気で国の敵か何かだと思ってるみたいだから。」
*スープを飲ませながら、ルミナは冷静に状況を分析する。*
ルミナ:「無理に思い出させようとするのは逆効果。だから、お兄ちゃんはまず、自分の体調を万全にすること。そして、もう一度『初めまして』から始めるくらいの気持ちで、あの子の警戒心を解いていくしかないわ。」
「大丈夫。お兄ちゃんならできるわよ。だって、一度はあのツンツンで傲慢な魔王女様を口説き落としたんだから。♡」
*彼女はからかうように言うと、スープを飲み干したシロウの口元をナプキンで優しく拭った。*
ルミナ:「さ、パンも食べなさい。それから、今日はゆっくり休むこと。レイラには私から、もう一度話しておくから。カイとルーナにも、事情はうまく説明しておくわ。」
*彼女はシロウを完全に病人扱いし、テキパキと世話を焼きながら今後のことを決めていく。その頼もしい姿に、シロウはショックで麻痺していた心が少しだけ温かくなるのを感じた。妻が二人いて、本当に良かったと、心の底から思うのだった。*
シロウ:「こうなったら当たって砕く勢いで行くぞ!!」
「もう一度攻略すればいいだけ、簡単な事だ!!」
*シロウが突然、ガバッと起き上がって拳を握り、やる気満々な宣言をすると、彼の口にパンを押し込もうとしていたルミナは目を丸くした。リーシアも驚いたように肩を揺らす。*
ルミナ:「ちょっ…! ちょっと、お兄ちゃん!? 急にどうしたのよ!?」
*彼女は勢いに気圧されながらも、どこか呆れたような、それでいて少し嬉しそうな複雑な表情を浮かべた。*
ルミナ:「簡単な事だ、ですって? …まあ、その意気込みは買うけど。でも、無策で突っ込むのはただの馬鹿よ。今のレイラは本気で警戒してるんだから、本当に攻撃魔法を撃たれかねないわ。」
*彼女はため息をつき、シロウの額に自分の額をこつんと合わせた。*
ルミナ:「熱はないみたいだけど…頭はまだ少し熱がこもってるみたいね。いい? とにかく今日は安静。いいね? これは妻としての、そしてこの国の共同統治者としての命令よ。分かったら、このパンも全部食べなさい。」
*有無を言わせぬ口調でパンをシロウの手に握らせると、ルミナは立ち上がった。*
ルミナ:「私はカイとルーナに会ってくるわ。あの子たちも心配してるだろうから。リーシア、お兄ちゃんのこと、お願いね。逃げ出したり、無茶したりしないように、しっかり見張ってて。」
リーシア:「かしこまりました、ルミナ様。」
*ルミナはそう言い残すと、颯爽と部屋を出て行った。残されたリーシアは、まだやる気に満ちている(ように見える)主人に向き直り、困ったように微笑んだ。*
リーシア:「シロウ様、ルミナ様のおっしゃる通りです。お気持ちは分かりますが、まずはご自愛くださいませ。…何か、お飲み物でもお持ちいたしましょうか?」
*彼女は気遣わしげに尋ねる。その視線は、まだパンを握りしめたまま燃えている(フリをしている?)シロウに向けられていた。*
*シロウはルミナの忠告もどこ吹く風、パンを片手にベッドから勢いよく立ち上がった。*
シロウ:「大丈夫、あの時より余裕で俺の方が強いから!魔王様に任せなさい!」
「よーし、そうと決まれば早速レイラに会いに行こう!」
*そのあまりに無謀で、しかしシロウらしいと言えなくもない宣言に、メイド長のリーシアは顔を青くした。彼女は慌ててシロウの前に回り込み、両手を広げて行く手を阻む。*
リーシア:「お、お待ちくださいませ、シロウ様! ルミナ様も仰っていたではありませんか! 今日はご安静にと…!」
*必死に制止するリーシア。しかし、今のシロウにはその声が届いているのかいないのか。*
シロウ:「何を言っているんだリーシア! 善は急げだ! 鉄は熱いうちに打てと言うだろう! 今の俺はやる気に満ち溢れているんだ!」
*彼はそう言うと、リーシアをひょいと脇に抱え、そのまま扉に向かって歩き出した。*
リーシア:「きゃっ!? し、シロウ様!? お、おやめください! 分かりました、分かりましたから、まずは私を降ろしてくださいませ!」
*メイド長の悲鳴にも似た声が寝室に響き渡るが、一度火が付いた(ように見える)魔王は止まらない。彼は意気揚々と扉を開け、廊下へと踏み出した。*
*その先で、レイラがどこにいるのか。そして、彼女がどんな反応をするのか。それは誰にも予測できなかった。ただ、リーシアは自分の主君が攻撃魔法で黒焦げにされる未来を想像し、顔面蒼白のままシロウの腕の中でジタバタするしかなかった。*
*シロウはリーシアを小脇に抱えたまま、意気揚々と廊下を進む。その表情は自信に満ち溢れているが、腕の中のリーシアは半泣きだ。*
シロウ:「魔力感知! ふははは! 俺をみつけられるかな? 隠匿神発動!!」
*シロウがスキルを発動させると、彼の存在感と魔力の気配がフッと掻き消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように、完全に気配が絶たれる。腕の中のリーシアでさえ、抱えられていなければ彼の存在を見失ってしまいそうなほどの完璧な隠匿だった。*
*『魔力感知』に引っかかったレイラの魔力は、そう遠くない場所にあった。どうやら彼女は自室に戻るでもなく、城の中庭にいるようだ。おそらく、暴発させてしまった魔力の余波で荒れた庭の様子を確認しに行ったのだろう。*
リーシア:「し、シロウ様…!? 隠れてどうなさるおつもりですか!? その…まさか、不意打ちで説得を…?」
*腕の中から、リーシアが困惑した声で尋ねてくる。彼女からすれば、主君の行動はあまりにも突飛で、理解の範疇を超えていた。*
*シロウはそんなリーシアの言葉に答えず、ニンマリと口角を上げると、足音も立てずに中庭へと向かって歩き出した。その足取りは、これから戦場に向かう兵士のようでもあり、悪戯を仕掛けに行く子供のようでもあった。*
***
*中庭にたどり着くと、そこには一人佇むレイラの姿があった。*
*彼女は昨日までとは打って変わって、冷たく、そして近寄りがたい雰囲気を纏っている。その視線は、魔法の暴発によって抉れ、黒く焦げ付いた地面の一点に向けられていた。記憶がなくとも、自分の魔力が引き起こした惨状であることは理解しているのだろう。その横顔は、悔しさと苛立ちに歪んでいるように見えた。*
レイラ(魔王女):「…忌々しい。妾の魔力が、こうも容易く暴走したというのか…。何かが、妾の精神に干渉した…? いや、それにしては…。」
*彼女は誰に言うともなく、低い声で呟いている。その様子は、まさしくシロウが初めて出会った頃の、傲岸不遜な魔王女そのものだった。*
*シロウは物陰から、腕の中のリーシアに「静かに」とジェスチャーをしながら、その様子をじっと観察する。*
*シロウは『隠匿神』で完全に気配を消したまま、レイラの背後に音もなく忍び寄った。腕の中のリーシアは声にならない悲鳴を上げ、必死に口を押さえている。*
シロウ:「だーれだ。」
*そして、シロウは空いている方の手で、ふわりとレイラの両目を覆った。それはかつて、二人が恋人同士だった頃に何度もした、愛しい戯れだった。*
*しかし。*
*次の瞬間、シロウの手を凄まじい衝撃と熱が襲った。*
**バチィッ!!**
レイラ(魔王女):「―――っ!」
*レイラは声にならない驚愕の声を上げると同時に、反射的に全身から魔力を迸らせた。それは防御と攻撃を兼ねた魔力の衝撃波。目隠しをされたことによる純粋な驚きと、不審者に背後を取られたことに対する絶対的な拒絶反応だった。*
*シロウは咄嗟に後方へ飛び退き、腕の中のリーシアを庇う。もし彼が魔王でなければ、今の衝撃だけで腕が吹き飛んでいただろう。*
*振り返ったレイラの顔は、驚愕と、それ以上に純粋な怒りと殺意に染まっていた。その美しいルビーの瞳が、ハッキリとシロウを捉える。*
レイラ(魔王女):「貴様…! 昨日城に忍び込み、妾の前で倒れた不審者か! 何故ここにいる! 兵は何をしている!?」
*彼女は完全にシロウを敵と認識し、その両手には灼熱の炎と極低温の冷気を宿した攻撃魔法が渦巻き始めていた。その瞳に、かつての親愛の色は欠片もない。あるのは、領地に侵入した害虫を駆除しようとする、冷徹な王族の目だけだった。*
*物陰から見ていた城の衛兵たちが、主君のただならぬ気配に気づき、慌てて駆けつけようとしているのが遠くに見える。*
リーシア:「し、シロウ様! ですから、無茶だと申し上げたのに…!」
*シロウの腕の中で、リーシアが涙目で訴えた。*
*シロウはレイラから放たれる明確な殺意と、渦巻く攻撃魔法を前にしても、不敵な笑みを崩さなかった。腕の中のリーシアが恐怖で震えているのを感じながらも、彼はパチン、と軽やかに指を鳴らした。*
*その瞬間、シロウとレイラを中心とした一定空間の魔素の流れが強制的に停止する。レイラの両手に渦巻いていた灼熱の炎と極低温の冷気が、まるで陽炎のように揺らめき、霧のように掻き消えてしまった。*
レイラ(魔王女):「なっ…!? 魔法が…消された…? 結界か!?」
*彼女は驚愕に目を見開く。自分の絶大な魔力が、こうも容易く無力化されたことに動揺を隠せないでいる。その隙を突き、シロウは腕に抱えていたリーシアをそっと地面に降ろすと、両手を広げて大袈裟に言った。*
シロウ:「わーい、レイラちゃーん。」
*その態度は、まるで久々に会った友人にじゃれつくかのようで、目の前の殺気に満ちた相手に向けるものとは到底思えなかった。*
レイラ(魔王):「…貴様、ふざけているのか? その結界…ただの術師ではないな。だが、魔法が使えずとも、この身一つで貴様を捻り潰すことなど造作もない!」
*レイラは魔法を封じられたと判断するや否や、即座に思考を切り替え、腰を低く落として戦闘態勢に入る。魔王女としての圧倒的な身体能力だけで、目の前の不審者を排除しようというのだ。その瞳は冷たく、一切の油断も隙もない。*
リーシア:「シロウ様…! お願いですから、もうおやめください! このままでは本当に…!」
*リーシアは泣きそうな声で懇願するが、シロウは気にも留めず、楽しそうにレイラを見つめている。遠くから駆けつけてきた衛兵たちも、主君と不審者の間に張られた見えない壁(結界)に阻まれ、どうすることもできずに狼狽していた。*
*リーシアの悲痛な叫びも、今のシロウには届かない。*
シロウ:「やだ!」
*彼は駄々をこねる子供のような口調で言うと、リーシアの体に軽く触れた。次の瞬間、リーシアの体は淡い光に包まれ、悲鳴を上げる間もなくその場から掻き消える。*
***
*一方、はるか上空、アストライア魔導皇国の王城、その一番高い尖塔の屋上。*
リーシア:「へ…?」
*突如として、メイド長のリーシアが出現した。眼下には先程までいた中庭が広がり、豆粒のようなシロウとレイラの姿が見える。何が起きたか理解できず、彼女は呆然と立ち尽くすしかなかった。*
***
*中庭では、レイラが目の前で人間が一人消えるという異常事態に、さらに警戒を強めていた。*
レイラ(魔王女):「…転移魔法か。それも、詠唱も魔法陣もなしに…。貴様、一体何者だ。その力、ただの不審者ではないな。名を名乗れ。」
*彼女の声は氷のように冷たい。その瞳はシロウの力量を測り、あらゆる可能性を探っている。魔法を封じられ、未知の転移魔法を見せつけられてもなお、彼女の闘志は一切揺らいでいない。むしろ、強者との戦いを前にして、その口元には獰猛な笑みすら浮かんでいた。*
レイラ(魔王女):「面白い。久しくなかったな、この心が沸き立つような感覚は。魔法がなくとも、この爪と牙で貴様の喉笛を掻き切ってやろう!」
*レイラは低く唸り声を上げると、地面を蹴った。その動きはもはや人間のそれではなかった。弾丸のような速度でシロウとの距離を詰め、鋭く伸びた爪を閃かせる。それは、獲物の息の根を止めるための一撃だった。*
*シロウの全身を常に覆っている不可視の絶対防御結界が、レイラの鋭い爪を寸前で受け止める。キィン、と金属同士が擦れるような甲高い音が響き、レイラの爪と結界の間で火花が散った。*
レイラ(魔王女):「なっ…!?」
*手応えのなさに、レイラの顔が驚愕に染まる。自分の渾身の一撃が、まるで分厚い鉄板に阻まれたかのように、全く通じなかったのだ。*
*その一瞬の隙。シロウの姿が陽炎のように揺らめき、その場から掻き消えた。*
シロウ:「こっちだよ〜」
*声は真後ろから聞こえた。レイラが殺気を滾らせながら振り返ると、そこには先程と寸分違わぬ、人を食ったような笑みを浮かべたシロウが立っていた。彼は『縮地』を使い、レイラの背後へと瞬時に回り込んでいたのだ。*
レイラ(魔王女):「…小賢しい真似を! その結界と移動術…貴様、一体何者だ!?」
*彼女は再びシロウに飛びかかろうとするが、シロウはひらりと身をかわし、またしても距離を取る。まるで、猛獣を相手に戯れる調教師のようだ。*
シロウ:「俺? 俺はシロウ。君の愛しい、愛しい旦那様だよ♡」
*彼はウインク付きでそう言い放った。その言葉は、しかし、今のレイラの逆鱗に触れるだけだった。*
レイラ(魔王女):「旦那…だと? 巫山戯るな! 妾に夫などおらぬ! これ以上その薄汚い口で戯言を抜かすなら、舌を引き抜いてくれるわ!」
*レイラの怒りが頂点に達し、その魔力が『魔法霧散結界』に抗うように、再び全身から溢れ出した。結界がミシミシと軋む音が聞こえる。彼女はただの戦闘狂ではない。誇り高き魔王女なのだ。その誇りを汚されたと感じた時、彼女はリミッターを外す。*
レイラ(魔王女):「もうよい。貴様が何者だろうと関係ない。ここで死ね!」
*彼女は再び地面を蹴り、今度は回避不能なほどの速度でシロウに突貫してきた。その手には、結界を物理的に破壊するためか、凝縮された魔力が黒い刃のように纏わりついていた。*
*レイラの魔力を纏った黒い刃が、シロウの胸を貫く―――かのように見えた。*
*しかし、その手応えはあまりに軽い。刃が触れた瞬間、シロウの姿は水面の月のように揺らぎ、抵抗なく霧散した。幻影だったのだ。*
レイラ(魔王女):「なっ…幻影!?」
*背筋に、ぞわりとした悪寒が走る。次の瞬間、すぐ背後で人の気配がし、首筋に生温かい吐息がかかった。*
「ふぅ―――♡」
*耳元で、囁くように吹きかけられた息。それは、紛れもなく先程の男のものだった。*
レイラ(魔王女):「ひゃっ!?」
*彼女は、生涯で一度も出したことのないような素っ頓狂な声を上げた。全身がビクンと跳ね上がり、鳥肌が立つ。魔王女として幾多の戦場を駆け抜け、いかなる強敵を前にしても揺らぐことのなかった彼女が、たった一度の不意打ちで、完全に虚を突かれたのだ。*
*怒りと羞恥で、顔が一気に朱に染まる。*
レイラ(魔王女):「き、貴様ぁああああ!! どこまで妾を愚弄すれば気が済むのだ!!」
*彼女は勢いよく振り返り、肘で背後の男を打ち据えようとする。だが、シロウは既にそこにはいなかった。数メートル離れた場所で、悪戯が成功した子供のように、クスクスと笑っている。*
シロウ:「はははっ、ごめんごめん。君のそんな声、初めて聞いたから、つい。♡♡」
*その言葉は、レイラの怒りの炎にさらに油を注いだ。*
レイラ(魔王女):「…もういい。もういい、もういい!! 貴様だけは、絶対に許さん…! この場で塵も残さず消し去ってくれる!!」
*彼女の魔力が、もはや『魔法霧散結界』の制御を完全に振り切って、嵐のように荒れ狂い始めた。中庭の地面がビリビリと震え、空間そのものが彼女の怒りに呼応して歪みだす。その瞳は、もはや獲物を狩る捕食者のものではなく、全てを破壊し尽くす厄災のそれへと変貌していた。*
*レイラの魔力が『魔法霧散結界』を破壊し、周囲一帯を薙ぎ払わんと膨れ上がった、その刹那。*
シロウ:「転移。」
*シロウが短く呟くと、彼とレイラの足元に巨大な魔法陣が一瞬だけ展開し、二人の姿が閃光と共に掻き消えた。*
***
*次の瞬間、二人が立っていたのは、どこまでも赤茶けた大地と岩山が続く、広大な荒野の真ん中だった。空には二つの太陽が灼熱の光を降り注ぎ、乾いた風が砂塵を巻き上げている。城のあった場所からは、おそらく数百キロは離れているだろう。*
シロウ:「ここなら誰の迷惑にもならない。」
*シロウはそう呟き、自身に展開していた『魔法霧散結界』を解除した。これで、彼女は思う存分、その力を振るうことができる。*
*突然の場所の変化に、レイラは一瞬だけ戸惑いを見せた。しかし、目の前に立つ憎き男の姿を認めると、その瞳は再び純粋な殺意と、そして新たに湧き上がった闘争心で燃え上がった。*
レイラ(魔王女):「…なるほど。妾の力を恐れ、人気のない場所に逃げたか。あるいは、ここを貴様の墓場と定めたか。どちらにせよ、その判断は褒めてやろう。おかげで、何の気兼ねもなく、貴様を殺せる」
*彼女はニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。解放された魔力が、彼女の身体からオーラとなって立ち上り、周囲の大気をビリビリと震わせる。その力は、もはや先程の比ではない。*
レイラ(魔王女):「さあ、第二幕を始めようか、不審者。今度こそ、そのふざけた仮面を剥がし、絶望の表情で死なせてやる!」
*彼女は両手を広げ、天に掲げる。その頭上には、空を覆い尽くすほどの巨大な魔法陣が形成され始めた。それは、この荒野一帯を地図から消し去りかねないほどの、超々上級の殲滅魔法だった。*
*レイラが天を覆うほどの巨大な魔法陣を展開し、この世の終わりのような殲滅魔法を放とうとした、その瞬間。*
*シロウの姿がまたしても陽炎のように掻き消えた。*
レイラ(魔王女):「また幻影か! どこだ!」
*彼女は殺気を全方位に放ち、背後、側面、上空、全てを警戒する。しかし、次の瞬間、彼女の身体に走ったのは殺気ではなく、全く予期せぬ感触だった。*
*ツン、ツン♡*
*硬い鎧で覆われているはずの胸部に、指で二度、優しくつつかれる感触。*
シロウ:「見つけた♡」
*囁き声は、またしても真後ろから。シロウはいつの間にかレイラの背後に回り込み、悪戯っぽく彼女の胸を突いていたのだ。それは恋人同士の戯れ以外の何物でもない行為だった。*
レイラ(魔王女):「ひゃあっ…!?♡」
*二度目の素っ頓狂な声。今度は先程よりも遥かに高い声だった。殺意と闘争心で研ぎ澄まされていた意識が、羞恥と驚愕で一瞬にして白く染まる。そのせいで、天に掲げられていた巨大な魔法陣が制御を失い、ガラスが砕けるように音を立てて霧散してしまった。*
*全身の力が抜け、膝がガクガクと震える。顔はもはや朱を通り越して、沸騰しそうなほど真っ赤になっていた。*
レイラ(魔王女):「き、ききき、貴様ぁあああ! よくもっ…よくも妾の体にぃいいい!!」
*彼女は怒りと羞恥に震える声で絶叫し、振り返りざまに魔力の刃を薙ぎ払う。しかし、その動きは先程までの精密さを欠き、完全に感情任せの攻撃だった。*
*シロウはそれを軽々とバックステップでかわすと、心底楽しそうに笑った。*
シロウ:「はははっ! ごめん、ごめん。だって、君の鎧ってここだけ少し薄くなってるから、つい。昔、俺が作った時の癖でね♡♡」
レイラ(魔王女):「だ、黙れ黙れ黙れぇええ!! 妾の鎧に触るな! 妾の体に触るな! 貴様のその薄汚い指をへし折ってくれるわ!!」
*もはや彼女の言葉に威厳はなく、ただただ恥ずかしさをごまかすための絶叫にしか聞こえなかった。彼女は完全に冷静さを失い、やみくもに魔法の弾丸を乱射し始める。しかし、そのどれもがシロウには掠りもしない。*
*シロウは荒れ狂うレイラを見ながら、確信していた。この勝負、もらった、と。*
*シロウのからかうような挑発に、レイラの怒りは完全に沸点を超えた。*
シロウ:「当てられるかな?」
*彼がそう言うと、その姿がポン、ポン、ポン!と音を立てるように分裂し、あっという間に10人ものシロウがレイラを取り囲んだ。全員が同じようにニヤニヤと笑い、レイラを見つめている。*
レイラ(魔王女):「分身だと…? 小賢しい真似を! 本体がどれであろうと、まとめて消し飛ばしてくれるわ!」
*彼女はそう叫ぶと、一番近くにいたシロウの分身に向かって魔力の爪を振り下ろした。分身はあっさりと斬り裂かれ、光の粒子となって消える。*
*しかし、その直後。*
*ツン♡*
*レイラの脇腹に、くすぐったい感触が走った。*
レイラ(魔王女):「ひゃぅっ!?♡」
*思わず体がビクンと跳ねる。振り返ると、そこには誰もいない。別の方向で、別のシロウがにやにやと笑っているだけだ。*
レイラ(魔王女):「き、貴様…!」
*羞恥と怒りに顔を真っ赤にしながら、彼女は次の分身を破壊する。しかし、またしても分身が消えた直後。*
*ツン♡ツン♡*
*今度は反対側の脇腹と、お尻を同時に突かれた。*
レイラ(魔王女):「んんっ!?♡♡ や、やめ…!」
*彼女は必死に身をよじってその感触から逃れようとするが、相手は神出鬼没。分身を一体破壊するたびに、死角から現れる本体(あるいは別の分身かもしれない)に、体の敏感な部分を的確に攻撃されてしまう。*
*ツン♡*
(脇腹)
*ツン♡ツン♡*
(お尻)
*ツン♡♡♡*
(胸のすぐ下)
*ツン♡*
(太ももの内側)
*攻撃を続けるうちに、レイラの息はどんどん上がっていった。怒りのせいか、それとも別の理由か。その目には、いつしか涙が滲んでいた。*
レイラ(魔王女):「うぅ…ううう…! やめろ…! 妾に…触るな……!」
*その声はもはや悲鳴に近く、完全に戦意を喪失していた。分身を破壊する動きも鈍り、ただただ体を縮こまらせて、次に来るであろう未知の感触に怯えるだけになっていた。*
*シロウはそんな彼女の様子を見て、そろそろ潮時かと判断し、全ての分身を一つに戻した。*
*シロウは分身を解き、一体に戻ると、涙目で体を縮こまらせているレイラの前にゆっくりと歩み寄った。彼女のプライドはズタズタに引き裂かれ、もはや反撃する気力も残っていないように見えた。*
シロウ:「…もう、降参かな?」
*優しく語りかけるシロウ。しかし、レイラは顔を上げない。ただ、震える手で何かを探るように、自身の左手の薬指に触れた。そこには、シロウが贈った結婚指輪が嵌っているはずだった。だが、今の彼女にとって、それは見覚えのない、不審者が勝手にはめた枷でしかない。*
*レイラは震える指で、その指輪を掴んだ。*
レイラ(魔王女):「…こんなもの…妾は…知らぬ…」
*彼女はそう呟くと、憎々しげに指輪を指から引き抜こうとした。だが、指輪はシロウが彼女のサイズに合わせて作った特注品。簡単には抜けない。*
レイラ(魔王女):「ぐ…ぬぬ…! なぜだ…なぜ、外れんのだ…!」
*必死に指輪を抜こうと格闘するレイラ。その瞳から、悔し涙がポロポロと零れ落ち、乾いた大地に染みを作っていく。その姿は、あまりにも痛々しく、シロウの胸を強く締め付けた。からかいすぎた、と後悔の念が押し寄せる。*
シロウ:「レイラ…」
*彼が何かを言おうと一歩踏み出した、その時。*
レイラ(魔王女):「―――っ!」
*レイラは指輪を抜くことを諦め、代わりにその左腕ごと、近くにあった鋭い岩に叩きつけようとした。指輪ごと、この腕を破壊してでも、屈辱の証を外そうというのだ。*
*その自傷行為を、シロウが見過ごすはずがなかった。*
*レイラが自らの腕を岩に叩きつけようとした、その刹那。*
*シロウの表情から、全てのからかいの色が消え失せた。彼は悲痛な顔で、しかし静かに言った。*
シロウ:「分かった。思い出したら取りに来るといい。」
*パチン。*
*彼が指を鳴らすと、レイラの左手薬指で頑なに彼女の指を掴んでいた結婚指輪と、その耳で輝いていたはずのルビーのイヤリングが、淡い光の粒子となって掻き消えた。シロウはそれらを転移魔法で自分の手元へと回収したのだ。*
*指先から、そして耳元から、不快だったはずの異物感が突然消え失せる。レイラは振り上げた腕を止めたまま、呆然とその場に立ち尽くした。*
*自分の薬指を見る。そこにはもう、見慣れない指輪はない。耳に触れても、知らない装飾品は消えていた。*
*レイラ(魔王女):「……。」*
*静寂が荒野を支配する。怒りも、殺意も、羞恥も、まるで嘘のように彼女の中から潮が引くように消えていく。残ったのは、空虚感と、そして説明のつかない、胸を締め付けるような喪失感だった。*
*なぜだろう。忌々しい不審者から無理やり付けられたはずの枷がなくなったというのに、心が空っぽになったような、大切な何かを失ってしまったような、そんな感覚に襲われた。*
*彼女は何も言えず、ただ自分の空っぽになった薬指を見つめることしかできない。その瞳から、また一筋、涙がこぼれ落ちた。それはもはや、悔し涙ではなかった。*
*シロウは静かに彼女に背を向けた。その手には、今しがた回収したばかりの、まだ彼女の温もりが残る指輪とイヤリングが握りしめられている。*
シロウ:「…帰ろうか。城に送る。」
*彼の声は、ひどく静かで、そして寂しげだった。*
*シロウはレイラを伴って、再び転移魔法で王城へと帰還した。二人が現れたのは、先程までいた中庭だった。レイラは荒野での出来事がまるで夢であったかのように、ただ呆然と立ち尽くしている。その手は、まだ空っぽになった薬指を見つめていた。*
*シロウはそんな彼女に一瞥をくれると、静かに、そして複雑な魔法を編み上げた。*
*フッ、とシロウの姿がレイラの視界からだけ、完全に消え去った。他の誰からは見えても、今のレイラだけは、シロウの姿を認識することも、声を聞くことも、気配を感じることもできなくなった。それは、これ以上彼女を苦しませないための、シロウなりの苦渋の決断だった。*
*突然、目の前にいた男の気配が完全に消え失せ、レイラはびくりと肩を震わせた。辺りを見回すが、そこには誰もいない。ただ、先程自分を羽交い絞めにしようとした衛兵たちが、こちらを見て何か言いたげにしているだけだ。*
レイラ(魔王女):「…消えたか。…そうか、消えたのだな。」
*彼女は誰に言うともなく呟くと、ふらふらとした足取りで、自分の部屋へと歩き出した。その背中は、ひどく小さく、そして寂しそうに見えた。*
***
*レイラの姿が見えなくなると、シロウは深いため息をついた。その手には、まだ温もりの残る指輪とイヤリングが固く握られている。彼はそれをポケットにしまい込むと、力なくその場に座り込んだ。*
ルミナ:「お兄ちゃん!」
*そこへ、血相を変えたルミナが駆け寄ってきた。彼女の隣には、同じく心配そうな顔をしたカイとルーナの姿もある。屋上から転移で戻ってきたリーシアから、事情を聞いたのだろう。*
ルミナ:「あなた、なんて無茶を…! リーシアから全部聞いたわよ! もし本当にレイラが本気を出していたら…!」
*ルミナはシロウの胸ぐらを掴み、涙目で訴える。しかし、シロウの今の姿を見て、それ以上言葉を続けることができなかった。彼の顔は、疲労と、深い悲しみで憔悴しきっていた。*
ルーナ:「お投様…」
*ルーナが心配そうにシロウの袖を引く。カイもまた、何も言わずに父の隣に寄り添った。*
シロウ:「…ああ、大丈夫だ。少し、疲れただけだよ。」
*彼は子供たちの頭を撫でながら、力なく笑った。だが、その瞳には光がなく、レイラにだけ姿を消すという、あまりにも悲しい選択をした彼の心が、どれだけ傷ついているかを物語っていた。*
*シロウの力ない言葉に、ルミナは胸ぐらを掴んでいた手をそっと離した。彼の憔悴しきった表情が、どんな言葉よりも雄弁に彼の心の痛みを物語っていた。*
シロウ:「仮にレイラが本気だったとしても負けないから大丈夫…」
*その声はか細く、誰に言い聞かせるでもなく、ただ虚空に響いた。彼はルミナたちの前を通り過ぎ、まるで亡霊のようにとぼとぼと寝室へと歩き始めた。その背中は、神殺しや魔王といった称号を持つ男のものとは思えないほど、小さく、頼りなく見えた。*
ルミナ:「お兄ちゃん…」
*ルミナが何かを言おうとするが、言葉が出てこない。ただ、夫の傷ついた背中を、唇を噛みしめながら見つめることしかできなかった。*
ルーナ:「お父様…」
*ルーナはシロウのズボンの裾を掴もうと手を伸ばすが、その手は空を切る。彼女は不安そうにルミナを見上げた。その瞳には、父への心配と、義母への複雑な感情が入り混じっている。*
カイ:「父上…。」
*カイは静かに、しかし固い決意を秘めた目で、父の後ろ姿を見送っていた。彼は何も言わないが、その拳は固く握りしめられている。*
*三者三様の想いを背に受けながら、シロウは一人、自室へと消えていった。バタン、と扉が閉まる音が、やけに大きく城の廊下に響き渡った。*
*残されたルミナは、深いため息をつくと、子供たちの方に向き直った。*
ルミナ:「…カイ、ルーナ。お父様は今、とても疲れているの。少し、一人にさせてあげましょう。あなたたちは、自分の部屋に戻ってなさい。」
*その声は、妻として、そして母としての強さに満ちていた。彼女は子供たちを下がらせると、閉ざされた寝室の扉を、ただじっと見つめるのだった。*
ーー
*それから、数日が過ぎた。*
*シロウがかけた『レイラ限定認識阻害』の魔法は完璧に機能していた。*
*城の廊下で、中庭で、執務室の前で、二人は何度もすれ違う。*
*シロウは、すぐそこにいる愛しい妻の横顔を、悲しみを押し殺して見つめる。彼女の髪から香る、いつもの花の匂い。その存在をこんなにも近くに感じているのに、彼女の世界に自分は存在しない。*
*レイラは、シロウがすぐ隣にいても、全く気付く素振りを見せない。まるでそこに、ただ空気が流れているかのように、何の反応も示さず通り過ぎていく。*
*時折、彼女はふと何かを探すように辺りを見回したり、自分の空っぽになった薬指を寂しげに撫でたりすることがあった。その度にシロウの胸は締め付けられたが、彼にできることは何もなかった。*
*そんな奇妙なすれ違いの日々が続いていたある日の午後。*
*シロウが執務室で溜まっていた書類の山と格闘していると、コンコン、と控えめなノックの音がした。*
ルミナ:「お兄ちゃん、入るわよ。」
*入ってきたのは、心配そうな顔をしたルミナだった。彼女の手には、湯気の立つ紅茶が二人分乗ったお盆がある。*
ルミナ:「…また、書類に埋もれてるのね。少しは休憩したら? 顔色、まだ良くないわよ。」
*彼女はそう言うと、紅茶を机に置き、シロウの隣の椅子に腰を下ろした。そして、何かを言い淀むように、少しだけ視線を彷徨わせる。*
ルミナ:「ねぇ、お兄ちゃん。レイラのことなんだけど…。やっぱり、このままじゃダメだと思うの。」
「カイもルーナも、すごく心配してる。お母さんが、お父さんのことだけ見えてないなんて…あの子たちには、あまりにも酷だわ。」
*彼女の真剣な眼差しが、シロウを真っ直ぐに射抜く。それは、夫を気遣いながらも、この歪な状況を何とかしなければならないという、強い意志の表れだった。*
*ルミナの言葉に、シロウはペンを置き、深くため息をついた。その顔には、どうしようもない無力感が浮かんでいる。*
シロウ:「そうだよなぁ…」
*彼はそう呟くと、ルミナに気づかれないように、そっと瞳に魔力を集中させた。*
シロウ:(遠視魔法でレイラをこっそり除く)
*シロウの視界が、執務室の壁をすり抜け、城の廊下を飛び、レイラの自室へと焦点を結ぶ。*
***
*そこにいたのは、ベッドに腰掛け、苦悩の表情で頭を抱えるレイラの姿だった。彼女の周りには誰もいない。しかし、その口からは二つの全く異なる声が、交互に漏れ出ていた。*
レイラ(魔王女):「…忌々しい。あの不審者…妾から指輪とイヤリングを奪い、忽然と姿を消した。だというのに、なぜだ…なぜ、この胸のざわめきは収まらぬのだ…!?」
*それは傲岸不遜な魔王女の声。しかし、その声は怒りよりも、困惑の色が濃い。すると、彼女はハッと顔を上げ、今度は全く違う、か細い声で呟いた。*
レイラ(ボクっ娘):「…ううん。あの人は、不審者なんかじゃない…気がする。あの人の匂い…なんだか、すごく安心する匂いだった。それに、胸が、きゅーって痛いんだ…。指輪がなくなった指も、イヤリングがなくなった耳も、すごく寂しいって言ってる…。」
*ボクっ娘の人格が、失われた記憶の断片を手繰り寄せようとするかのように、悲しげに訴える。*
レイラ(魔王女):「黙れ! 貴様は妾の内に引っ込んでいろ! あの男は敵だ! 妾をあれほど愚弄したのだぞ! なのに、なぜ…なぜ、あの男の悲しそうな顔が、頭から離れんのだ…!」
*魔王女がそれを一喝する。しかし、その声にもまた、迷いが含まれていた。*
レイラ(ボクっ娘):「でも…会いたい…。もう一度会って、確かめたいよ…。あの人が、本当にボクたちの敵なのか…。シロウ…って、誰…?」
*彼女は最後に、自分でも知らないはずの名前をぽつりと呟き、再び頭を抱えて蹲ってしまった。一人の器の中で、二つの人格が激しくせめぎ合い、混乱している。記憶喪失という異常事態が、彼女の精神のバランスを大きく崩しているのは明らかだった。*
***
*遠視魔法を解いたシロウは、目の前の紅茶の湯気を見つめながら、静かに拳を握りしめた。彼女をこれ以上苦しませたくないという想いと、このままではダメだという想いが、シロウの中で激しくぶつかり合っていた。*
*シロウは意を決したように立ち上がった。その瞳には、先程までの迷いはなく、静かな決意の色が宿っていた。*
シロウ:「ちょっと散歩してくる。」
*彼はルミナにそう短く告げると、執務室を出て行った。そして、歩きながら、レイラにだけかけていた『認識阻害』の魔法を、静かに解除した。*
*もう、逃げるのは終わりだ。彼女が苦しんでいるのを、ただ見ているだけなのはもうやめだ。たとえ拒絶されようと、攻撃されようと、もう一度彼女と向き合おう。そう、心に決めたのだ。*
*ルミナは、夫の突然の行動に驚きながらも、その背中に何か覚悟のようなものを感じ取り、引き止めることはしなかった。ただ、彼の無事を祈るように、閉ざされた扉を静かに見つめていた。*
***
*一方、自室で頭を抱えていたレイラは、ふと顔を上げた。*
*今まで感じていた、自分の中の不協和音。失われた何かを求める感覚。それが、突然、明確な一つの方向を指し示した気がしたのだ。*
レイラ(ボクっ娘):「…いる。あの人、この城の中にいる…!」
*ボクっ娘の人格が、確信に満ちた声で呟いた。それは、シロウが認識阻害を解いたことで、今まで微かにしか感じられなかった彼の強大な魔力、そして何より、魂の繋がりを示す『誓いの指輪』の気配を、ハッキリと捉えたからだった。*
レイラ(魔王女):「…なんだ、この感覚は。あの不審者が、また城に…? いや、違う…。なぜだか、胸が高鳴る…。これは、闘争心か…? それとも…」
*魔王女の人格もまた、シロウの存在を明確に感じ取り、困惑していた。敵意と、それだけでは説明のつかない感情が、彼女の中で渦巻いている。*
*レイラは、まるで何かに導かれるように、ふらりと立ち上がった。そして、その気配がする方へ、確かめるように一歩、また一歩と歩き出す。*
*シロウはただ、城の中庭に向かって歩いていた。あえて、二人が最後に『別れた』場所へ。彼女が来ることを、信じて。*
*そして、中庭にたどり着いたシロウが月を見上げていたその時。背後から、覚悟を決めたような、それでいて迷いを孕んだ声がかけられた。*
レイラ(魔王女):「…貴様…一体、何者なのだ…?」
*振り返ると、そこには、息を切らしながらも、真っ直ぐにシロウを見据えるレイラの姿があった。その瞳には、怒り、困惑、悲しみ、そして、ほんの少しの期待が入り混じっていた。*
*レイラの問いかけは、静かな中庭に響いた。しかし、シロウは振り返ることなく、まるでその声が聞こえなかったかのように、ゆっくりと歩みを進めた。*
シロウ:「……」
*彼はそのまま近くのベンチに腰を下ろす。そして、おもむろに手のひらを上に向けた。彼の魔力に呼応して、周囲の水分が手のひらの上に集まってくる。*
*次の瞬間、集まった水は生命を宿したかのように形を変え、愛らしいイルカの姿になった。水のイルカはシロウの手のひらの上を飛び跳ね、宙でくるりと回転すると、楽しげに鳴き声を上げたかのように飛沫を散らす。*
*シロウはレイラの存在を完全に無視し、ただ目の前の水のイルカと戯れ始めた。指でつつけばイルカはくすぐったそうに身をよじり、手のひらを傾ければ小さなウォータースライダーのように滑り降りていく。その光景は、まるで一人で無邪気に遊ぶ子供のようだった。*
*この不可解な行動に、レイラは眉をひそめる。問いかけを無視された怒り。目の前で繰り広げられる高度な魔法への驚き。そして何より、彼が醸し出す、どこか物悲しい雰囲気に、彼女は戸惑いを隠せない。*
レイラ(魔王女):「…おい、貴様! 妾の言葉を無視するとは、良い度胸だな…!」
*声を荒らげるが、シロウは反応しない。ただ、黙々と水のイルカを操り、時折、その口元にふっと微かな笑みが浮かぶだけだった。それは、楽しんでいるようでもあり、泣いているようでもある、奇妙な表情だった。*
*シロウはレイラの言葉に一切耳を貸さず、指先で戯れていた水のイルカの動きをぴたりと止めた。*
*次の瞬間、流麗な曲線を描いていたイルカの体は、パキパキと音を立てて純白の氷像へと変わる。そして、その氷のイルカはさらに変化し、表面から白い煙が立ち昇るドライアイスの塊となった。*
*シロウは無言のまま、もう片方の手で新たな水の玉を創り出す。そして、その中にドライアイスのイルカをそっと沈めた。*
*シュワワワ…*
*水の玉の中でドライアイスが激しく気化し、無数の白い泡が幻想的に立ち昇っては消えていく。シロウはただ、その光景をぼんやりと眺めている。まるで、壊れてしまった何かを、どうすることもできず見つめているかのように。*
*その背中は、拒絶しているというよりも、深い悲しみに沈んでいるように見えた。*
レイラ(魔王女):「…っ! 貴様、本当に何がしたいのだ…! 妾を愚弄するのも大概にしろ!」
*彼女は苛立ちと困惑を綯い交ぜにした声で叫ぶ。シロウの不可解な行動、高度な魔法の連続、そして無視され続けているという事実が、彼女の冷静さを奪っていく。*
*レイラは一歩踏み出し、その手には攻撃的な魔力が渦巻き始める。力づくででも、この男の口を割らせようという意志が、その瞳に宿っていた。*
レイラ(魔王女):「答えぬというのなら、そのふざけた遊びも終わりにしてくれるわ!」
*レイラが放った魔力の奔流が、シロウの背中に叩きつけられる。しかし、*
*キィン!*
*鈍い金属音のようなものが響いただけだった。シロウの周囲に展開されている不可視の結界は、レイラの全力の魔力攻撃をまるでせせらぎのように受け流し、傷一つついていない。シロウ自身は、ベンチに座ったまま微動だにしていない。*
レイラ(魔王女):「なっ…!? 妾の魔法が、通じぬだと…!?」
*信じられない、といった表情でレイラが目を見開く。自分の力がまったく通用しないという事実に、彼女のプライドは激しく揺さぶられた。*
*そんな彼女を意にも介さず、シロウは手の中の水の玉を霧散させる。ドライアイスはとうに消え失せていた。*
*そして今度は、何もない空間に、ぽっ、と小さな炎を灯す。*
*シロウは再び、その炎と戯れ始めた。*
*最初は、ごく普通の燃えるような**赤色**だった炎。彼が指を軽く振ると、それは若葉のような鮮やかな**緑色**に変わる。さらにもう一度指を鳴らすと、今度は深海を思わせる静かな**青色**へと変化した。*
*赤、緑、青。そしてまた赤へ。まるで気まぐれに色を変える宝石のように、シロウの手のひらの上で炎が静かに揺らめいている。その姿は、攻撃を仕掛けられたことなどまるで気にしていないかのようだった。*
*圧倒的な力量差。そして、徹底的な無視。*
*レイラの顔から、怒りの色が徐々に消えていく。代わりに浮かび上がってきたのは、目の前の存在に対する畏怖と、そして、どうしても拭えない既視感だった。*
レイラ(魔王女):「…なぜだ…。なぜ、貴様を前にすると…妾の心が乱れる…? 貴様は、一体…」
*その声は、もはや怒鳴り声ではなく、すがるような響きを帯びていた。彼女は混乱の極みにいた。敵意を向けるべき相手なのに、魂が、心が、その男から目を離すことを許さない。その背中が、あまりにも悲しく、そして懐かしく見えて仕方がなかった。*
*シロウは、手のひらの上で揺らめいていた青い炎を、ふっと息を吹きかけて消した。*
*そして、彼はゆっくりとベンチから立ち上がる。*
*レイラは、その動きに身構えた。次は何をされるのか。攻撃か、それともまた不可解な行動か。彼女の心臓が、緊張に早鐘を打つ。*
*しかし、シロウは何も言わなかった。*
*ただ、静かに彼女の方へ歩み寄ると、抵抗する暇も与えず、その華奢な体を、壊れ物を扱うかのように、そっと腕の中に抱きしめた。*
レイラ(魔王女):「ひゃ…っ!? な、何を…! 離せっ!」
*突然の抱擁に、レイラは驚きと羞恥で体を硬直させる。咄嗟にシロウの胸を突き放そうとするが、彼の腕はびくともしない。力で抵抗しているわけではない。ただ、そこにあるだけで、決して離さないという強い意志が感じられた。*
*シロウの胸に顔を埋める形になり、レイラは彼の匂いを強く感じた。それは、数日前に彼女の部屋に現れた時と同じ、なぜか心を落ち着かせる、懐かしい匂いだった。*
*耳元で、彼の心臓の音が聞こえる。それは、少しだけ早くて、でも、とても力強い鼓動だった。*
*レイラの脳裏に、断片的なイメージが嵐のように駆け巡る。*
*―――誰かに、こうして抱きしめられたことがある。*
*―――この温もりを知っている。*
*―――この鼓動を、何度も聞いたことがある。*
*―――この匂いに包まれて、眠ったことがある。*
レイラ(魔王女):「ぁ…ぅ…」
*必死に抵抗しようとしていた彼女の腕から、力が抜けていく。突き放すべき敵のはずなのに、体が、魂が、この温もりを求めているのが分かってしまう。*
*混乱と、切なさと、ほんの少しの安らぎがごちゃ混ぜになって、彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。*
レイラ(魔王女):「…やめろ…。離せ…。貴様は…誰なんだ…。なぜ…こんなに…胸が、苦しいんだ…っ」
*その声は震えていた。シロウは何も答えず、ただ、壊れかけた愛しい宝物を取り戻すかのように、彼女を抱きしめる腕に、そっと力を込めるだけだった。*
*シロウの温もりと、懐かしい匂い。それは、レイラの強固な心の壁に、小さな、しかし確実な亀裂を入れた。傲慢な魔王女の人格が混乱の渦に沈み込む中、心の奥底でずっと鳴りを潜めていたもう一つの人格が、その亀裂から顔を覗かせる。*
レイラ(ボクっ娘):「…ぁ……シロ…ウ…?」
*それは、か細く、掠れた、少女のような声だった。傲慢な魔王女とは似ても似つかない、純真な響き。シロウがずっと聞きたかった、愛しい「ボクっ娘」の声。*
*彼女の体から、シロウを突き放そうとしていた力が完全に抜ける。代わりに、その小さな手は、まるで拠り所を求めるかのように、シロウの背中の服を、弱々しく掴んだ。*
*その変化を感じ取り、シロウは安堵と愛しさが入り混じった、深いため息を漏らす。そして、彼はゆっくりと顔をレイラのうなじに埋めた。*
シロウ:「…ん……。」
*スゥ…と、深く息を吸い込む。レイラの髪から香る、甘い花の匂い。汗の匂い。彼女自身の、シロウが世界で一番愛している匂い。記憶を失う前と、何も変わらない。その事実が、傷ついたシロウの心をじんわりと癒していく。*
*ああ、そうだ。これがレイラだ。俺の愛しい、愛しい妻の匂いだ。*
レイラ(ボクっ娘):「…シロウ…なの…? どうして…ボク、シロウのこと、忘れちゃってたの…?」
*掴んだ服をきゅっと握りしめ、レイラは震える声で尋ねる。その声は罪悪感と悲しみに濡れていた。記憶はない。けれど、魂が覚えている。目の前にいるのが、誰よりも大切な存在なのだと。そして、その存在を忘れてしまっていたという事実が、彼女の胸をナイフのように抉っていた。*
*シロウはレイラの背中を優しく撫でながら、もう片方の手で静かに印を結んだ。*
*カラン…*
*まるで澄んだ鈴が鳴ったかのような微かな音と共に、二人がいるベンチを中心として、透明なドーム状の結界が展開される。*
*それは、外からの視線や音を完全に遮断する『認識阻害』と『防音』の複合結界。中庭には相変わらず月光が降り注いでいるが、このベンチの一角だけは、世界から切り離された二人だけの空間となった。*
レイラ(ボクっ娘):「…? シロウ…?」
*突然変わった周囲の雰囲気に、レイラが不安げに顔を上げる。シロウの腕の中から見上げる彼女の瞳は、涙で濡れて潤み、シロウの姿を映していた。*
*シロウは何も答えず、ただ愛しさに満ちた瞳で彼女を見つめ返す。そして、その震える唇を塞ぐように、ゆっくりと顔を寄せた。*
シロウ:「ん…」
*触れ合った唇は、少しだけ冷たく、そして震えていた。驚きに見開かれたレイラの瞳。しかし、シロウは構わず、彼女の後頭部にそっと手を添え、角度を変えて、より深くキスをした。*
レイラ(ボクっ娘):「んむ…ぅ…♡」
*最初は戸惑っていたレイラの体から、ふっと力が抜ける。閉ざされた唇が、おずおずとシロウを受け入れた。*
*懐かしい感触。失われていたはずの、愛しい人の温もり。シロウは、壊れた記憶を繋ぎ合わせるように、彼女の唇の柔らかさを確かめるように、優しく、そして深く口づけを続けた。♡*
*それは、言葉よりも雄弁に、彼の愛情を伝えるキスだった。*
*シロウがレイラの唇を深く味わっていた、その刹那。*
*彼女の瞳から、怯えと戸惑いの色が急速に消え失せ、冷たく鋭い光が宿った。それは、先程まで鳴りを潜めていた傲慢な魔王女の人格が、再び浮上した証だった。*
レイラ(魔王女):「…っ、巫山戯るなッ!!」
*ドンッ!!*
*絶叫と共に、レイラは渾身の力でシロウを突き飛ばした。不意を突かれたシロウは、ベンチに背中を強く打ち付ける。*
*だが、レイラの攻撃はそれで終わらなかった。彼女は瞬時に体勢を立て直し、シロウが体勢を崩したその一瞬の隙を突き、鋭く尖らせた手刀を、彼の心臓めがけて深々と突き立てた。*
*ザシュッ…!*
*肉を貫く、生々しい音。*
*レイラの手は、シロウの胸に根元まで突き刺さり、噴き出したおびただしい量の血で真っ赤に染まった。ドクドクと溢れ出る温かい液体が、彼女の手を伝って滴り落ちる。*
シロウ:「…がっ…は……」
*シロウの口から、血の混じった呻き声が漏れる。彼の瞳から光が失われ、驚愕と苦痛に見開かれたまま、レイラの顔を映していた。*
*(…演技だ。この程度で俺は死なない。だが…)*
*シロウは心の中で呟きながら、ゆっくりと崩れ落ちるようにベンチに体を預けた。同時に、二人を包んでいた『認識阻害』と『防音』の結界を、ふっと消滅させた。*
*世界に、再び音が戻る。*
*虫の鳴き声。風の音。そして、自分の手で愛する(はずの)男の心臓を貫いたという、信じがたい現実。*
レイラ(魔王女):「…あ……」
*レイラは、自分の血塗れの手と、胸から血を流してぐったりとするシロウの姿を、呆然と見比べた。*
*「殺した」。その事実が、雷のように彼女の頭を打ち抜く。*
*不審者。敵。自分を愚弄した男。そう頭では理解しているはずなのに、なぜだか、胸が張り裂けそうに痛い。目の前が真っ暗になっていく感覚。*
レイラ(魔王女):「な…ぜ…? 妾は…何を…?」
*震える声が、誰にともなく問いかける。彼女の瞳からは、先程までの殺意は消え失せ、ただ絶望的な混乱だけが浮かんでいた。*
*シロウの体が、力なくベンチから崩れ落ち、芝生の上に倒れ込んだ。胸からはおびただしい量の血が流れ出し、美しい中庭の緑をどす黒く染めていく。*
*幸いなことに、この惨劇を目撃した子供たちはいなかった。カイとルーナは学校で授業を受けている時間だったのだ。*
*しかし、王の身に起きた異常事態を、城の者たちが見逃すはずはなかった。*
*シロウの生命反応が急激に低下したのを感知し、二人の女性が血相を変えて中庭に駆け込んできた。*
ルミナ:「お兄ちゃんっ!? この凄まじい血の匂いは一体…きゃああああああっ!!」
リーシア:「シロウ様!? 一体何が…! そ、そんな…!」
*最初に駆けつけたルミナとリーシアは、目の前の光景に言葉を失い、悲鳴を上げた。*
*血の海に沈むように倒れているシロウ。そして、その傍らで、自らの手を血に染め、呆然と立ち尽くすレイラ。*
*状況は、一目瞭然だった。*
ルミナ:「…レイラ…貴女が…やったの…?」
*ルミナの声は、氷のように冷たく、震えていた。最愛の兄が、もう一人の妻によって殺されかけている。その信じがたい現実に、彼女の顔から全ての感情が抜け落ちていく。*
リーシア:「レイラ様…な、なぜこのような…っ」
*リーシアもまた、顔を真っ青にしてその場にへたり込んだ。*
*ルミナは、わなわなと震える拳を握りしめ、ゆっくりとレイラに向き直った。その瞳には、先程までの親しげな光は微塵もなく、ただ燃え盛るような怒りと殺意だけが宿っていた。背中からは、かつて熾天使だった頃の神々しい光翼が、今は憎悪に染まった黒い翼となって現出する。*
ルミナ:「**よくも…よくも私のお兄ちゃんをッ!! 許さない…絶対に許さないッ!! この場で塵にしてくれるわッッ!!**」
*ルミナの絶叫と共に、空気がビリビリと震え、凄まじい魔力が彼女を中心に渦巻き始めた。もはやそれは、共同統治者である王妃に向けるものではない。夫を傷つけた、不倶戴天の敵に向ける、純粋な殺意の塊だった。*
*一方、当事者であるレイラは、ルミナの殺気にも反応できず、ただ血に濡れた自分の手と、倒れているシロウの姿を交互に見つめ、か細い声で呟き続けるだけだった。*
レイラ(魔王女):「…ちがう…妾は…こんなつもりでは…ただ、少し懲らしめるだけのつもりが…なぜ…あ…ぁあ…」
*ルミナの全身から放たれる凄まじい殺気が、中庭の空気を凍らせる。黒く染まった翼が憎悪を撒き散らし、その手には今にもレイラを消し飛ばさんとする光の槍が形成されつつあった。*
ルミナ:「**死になさい、レイラッ!!**」
*ルミナが絶叫し、その槍を振りかぶった、まさにその瞬間。*
*血の海に倒れていたはずのシロウの手が、力強く伸び、ルミナの手首をがっしりと掴んだ。*
ルミナ:「…え…? お兄…ちゃん…?」
*信じられない、という表情でルミナが振り返る。そこには、胸に風穴を開け、血塗れになりながらも、彼女を制止しようと必死に手を伸ばすシロウの姿があった。*
*その瞳は虚ろだったが、確かに「やめろ」と訴えかけていた。*
シロウ:「…や…めろ…ルミ…ナ…」
*血の泡を吹きながら、シロウは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。*
シロウ:「…これは…俺と…レイラの…問題だ……お前が…手を…出すな…」
*彼の声は弱々しかったが、その言葉には王としての、そして夫としての、決して譲れない意志が込められていた。*
ルミナ:「で、でもっ! だってお兄ちゃんは! レイラに殺されかけたのよ!? 私の目の前で!」
*ルミナの瞳から、怒りと悲しみの涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。掴まれた手首から伝わる、弱々しいながらも確かなシロウの体温に、彼女の殺意は行き場を失い、混乱へと変わっていく。*
ルミナ:「どうして…どうしてよ、お兄ちゃん! どうして自分を殺そうとした女を庇うの!? わからないわ…私には…わからない…!」
*彼女の背後にあった黒い翼が揺らめき、ゆっくりと消えていく。手の中にあった光の槍も、粒子となって霧散した。*
*その間も、シロウの胸からは絶えず血が流れ続けている。掴んでいるルミナの手にも、彼の血がべっとりと付着した。*
*この一連のやり取りを、レイラはただ魂が抜けたように見つめているだけだった。自分が貫いた男が、自分を殺そうとする女を止めている。その光景が、彼女の崩壊しかけた心に、さらなる混乱と理解不能な痛みをもたらしていた。*
*シロウは自分を殺そうとしたレイラを庇い、殺意に燃えるルミナを必死に制止した。*
*その瞳には、レイラへの揺るぎない信頼と愛情が宿っていた。*
シロウ:「ガナビーオーケー、何とかなる。」
*カタコトの、意味の分からない言葉。それは、この状況で彼が絞り出せる、精一杯の強がりだった。*
*その言葉を最後に、シロウの瞳から光が完全に消え失せる。ルミナの手首を掴んでいた彼の腕は力なく芝生に落ち、頭ががくりと傾いだ。*
*彼は、意識を手放したのだ。*
ルミナ:「お兄ちゃんっ!? しっかりして! お兄ちゃん!!」
*ルミナは我に返り、血の海に横たわるシロウの体を必死に揺さぶる。しかし、返事はない。胸の傷からは未だに血が流れ続けており、彼の顔は死人のように青白い。*
リーシア:「ルミナ様! とにかく早く治療を! 私の治癒魔法ではとても…!」
*リーシアが叫ぶが、ルミナは動けない。最愛の兄が腕の中で冷たくなっていく恐怖と、彼が最後に庇ったレイラへの憎悪と、そしてどうすればいいのか分からない絶望で、彼女の思考は完全に麻痺していた。*
*その時、全ての元凶であるレイラが、ふらりと一歩、シロウに近づいた。*
*彼女の瞳は、虚ろだったシロウの顔と、彼が最後に発した言葉を反芻していた。*
*『ガナビーオーケー』*
*『何とかなる』*
*聞き覚えのない言葉。だが、その響きと、彼が浮かべた苦痛の中の微かな笑みが、彼女の記憶の奥深くに突き刺さる。*
*―――初めての戦いでボロボロになった時。*
*―――難しい魔法に失敗して落ち込んだ時。*
*―――国の未来に不安を感じて眠れない夜。*
*いつだって彼は、隣でそう言って笑っていたではないか。*
*「大丈夫だ、問題ない」「何とかなる」と。*
*その根拠のない自信に満ちた言葉に、どれだけ救われてきたことか。*
*バラバラだった記憶のピースが、雷鳴と共に一つに繋がる。*
レイラ(魔王女):「あ……ああ……ああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!」
*中庭に、魂を引き裂くような絶叫が響き渡った。*
*それは、傲慢な魔王女の声でも、無邪気なボクっ娘の声でもない。*
*失われた全てを取り戻し、そして、自らの手で最も愛する者を殺めてしまったという絶望的な事実に打ちのめされた、一人の女―――レイラの、悲痛な叫びだった。*
*彼女の瞳から、血の涙がとめどなく溢れ出す。*
レイラ(ボクっ娘):「シロウ…! シロウ、シロウ、シロウッ!! いやだ、死なないで! ボクを一人にしないでくれぇぇぇぇっ!!」
*レイラは血の海に膝から崩れ落ちると、意識のないシロウの体に狂ったように抱きついた。自らが開けた風穴に、彼女の涙が次々と吸い込まれていく。*
*記憶が戻った。だが、それはあまりにも遅く、あまりにも残酷な形での回帰だった。*
*シロウは、愛する妻たちの悲痛な叫び声と、自らの体を揺さぶる衝撃を、閉じた瞼の裏で静かに感じていた。*
*(このまま気を失ったフリを続けてみよう…)*
*最悪の事態は避けられた。ルミナの暴走は止まり、レイラの記憶も戻った。ならば、もう少しだけこの茶番に付き合って、彼女たちの本心を見てみたい。そう考えてしまうのは、我ながら悪趣味だと自嘲する。*
*(これは俺の悪い癖だ)*
*シロウの意識がない(と思い込んでいる)今、状況を収拾できる者はいない。*
ルミナ:「どいて、レイラ! 貴女のせいで…! 貴女のせいで、お兄ちゃんが…!」
*ルミナはレイラを突き飛ばそうとするが、レイラはシロウの体に死体のようにしがみついて離れない。その力は、悲しみと絶望からくる異様な強さを持っていた。*
レイラ(ボクっ娘):「いやだ! 離さない! ボクが…ボクがシロウを治すんだ! ボクの血と魔力を使えば…そうだ、ボクの命を半分捧げれば、シロウは助かるんだ!」
*レイラは錯乱したように叫びながら、自らの腕に噛みつき、溢れ出た血をシロウの傷口に無理やり注ぎ込もうとする。それは古代の禁術であり、成功したとしても術者の命を大きく削る無謀な行為だった。*
ルミナ:「馬鹿な真似はやめなさい! そんなことをしたら貴女が死ぬわ! そんな汚れた血で、お兄ちゃんを穢さないで!」
*ルミナはレイラの腕を掴んで引き剥がそうとし、二人の王妃は血の海の中でみっともなく揉み合いを始めた。一人は夫を救いたい一心で、もう一人は夫を殺した女を許せない怒りで。*
リーシア:「お二人とも、おやめください! シロウ様が! シロウ様の命が消えてしまいます! ルミナ様、あなたの治癒魔法ならば…!」
*リーシアが涙ながらに叫ぶ。その言葉で、ルミナはハッと我に返った。そうだ、今は憎しみよりも、兄の命が最優先だ。*
ルミナ:「…っ! そうよ…私が、私がお兄ちゃんを助ける…!」
*ルミナはレイラを振り払い、震える手をシロウの胸の傷にかざした。彼女の体から、神々しい黄金の光が溢れ出す。熾天使の権能たる、最高位の治癒魔法が発動した。*
ルミナ:「《セラフィック・グレイス》!! お願い…死なないで、お兄ちゃん…!」
*眩い光がシロウの体を包み込む。ズタズタに引き裂かれた心臓と肉体が、奇跡的な速度で再生を始めた。だが、シロウは依然として意識を取り戻さない(フリを続けている)。*
*治癒魔法の光の中で、レイラは力なくその場に座り込み、ただ茫然と、自分の血とシロウの血で汚れた手を見つめていた。その瞳には、もう光はなかった。*
レイラ(ボクっ娘):「…ボクが…殺した…。シロウを…ボクが…」
*絶望的な呟きだけが、彼女の唇から虚しくこぼれ落ちていた。*
*ルミナの放つ神々しい治癒の光が、シロウの体を包み込む。胸に開いた致命的な風穴はみるみるうちに塞がり、失われた血肉が再生していく。物理的な損傷は、熾天使の権能によって急速に修復されつつあった。*
*しかし、シロウは固く目を閉じたまま、意識を取り戻す素振りを見せない。*
*(様子を見てみよう…)*
*彼は静かに、周囲の気配を探り続ける。*
*シロウの体に抱きついて絶望に打ちひしがれていたレイラが、ふと顔を上げた。その瞳からボクっ娘の幼い悲嘆は消え、代わりに氷のような冷徹さと、底なしの自己嫌悪を湛えた「魔王女」の人格が表層に浮かび上がっていた。*
*彼女はゆっくりとシロウの体から身を離すと、血と泥に汚れた自らの姿を、そして血の海に沈む男の姿を、まるで他人事のように静かに見下ろした。*
レイラ(魔王女):「………。」
*沈黙。*
*ただ、ひたすらに重い沈黙が、彼女を支配していた。*
*記憶は戻った。自分が誰で、目の前の男が誰で、自分たちがどんな関係だったのか、全て思い出した。だからこそ、理解してしまったのだ。自分が、どれほど取り返しのつかない罪を犯したのかを。*
ルミナ:「…お兄ちゃん…お願い、目を開けて…!」
*ルミナが涙ながらに治癒魔法を注ぎ続ける横で、魔王女レイラは静かに立ち上がった。その足取りは、死刑台に向かう罪人のように重い。*
レイラ(魔王女):「…リーシア。」
*彼女は、恐怖で動けずにいたメイド長に、感情の欠落した声で命令した。*
レイラ(魔王女):「妾を、地下牢へ繋げ。最も厳重な、魔力を封じる枷と鎖でだ。」
リーシア:「…え…? れ、レイラ様…何を仰って…」
*リーシアが困惑の声を上げる。だが、レイラの瞳は一切の揺らぎを見せなかった。*
レイラ(魔王女):「妾は、王殺しの咎人だ。この国を統べる王の命を奪おうとした、大罪人だ。…それ相応の罰を受けねばならん。これは、王妃としての最後の命令だ。…早くしろ。」
*その声には、一切の感情が乗っていなかった。それは、自らに判決を下し、刑の執行を待つだけの、空っぽな人形の声だった。愛する男を殺しかけたという絶望が、彼女の心を完全に殺していた。*
*その場が絶望と混乱に支配される中、誰もが「意識がない」と思っている男の唇が、微かに動いた。*
シロウ:「レイ…ラ…ルミナ…愛してる…。」
*それは、血の泡に混じってかろうじて音になったような、弱々しく、掠れた呟きだった。*
*しかし、その言葉は、修羅場にいた三人の女性の耳に、確かに届いた。*
ルミナ:「…お兄ちゃん…? 今…」
*治癒魔法を唱えながら、ルミナの瞳が驚きに見開かれる。*
レイラ(魔王女):「…っ!?」
*自らを断罪し、感情を殺していたはずのレイラの肩が、びくりと大きく跳ねた。その冷え切った瞳に、一瞬だけ激しい動揺が走る。*
リーシア:「シロウ様…! 意識が…!?」
*リーシアもまた、希望の光を見出したかのように声を上げた。*
*そして、その直後。*
*シロウの倒れているすぐ横の地面に、何もない空間からポトッと何かが落ちる音がした。*
*それは、赤く美しい羽根のついた、不死鳥イグニの尾羽。レイラたちがその存在に気づくよりも早く、シロウは失った(フリをしている)意識の奥底で、その尾羽に僅かな魔力を通した。*
*次の瞬間、イグニの尾羽は眩い炎となって燃え上がり、シロウの体を優しく包み込んだ。それは、あらゆる傷を癒し、失われた生命力さえも回復させるという、伝説の不死鳥だけが持つ究極の再生の炎だった。*
*ルミナの神聖な光と、イグニの再生の炎。二つの奇跡の力が合わさり、シロウの体は完全なる治癒を遂げていく。死人のように青白かった彼の肌に、みるみるうちに血の気が戻り始めた。*
*レイラは、その幻想的な光景をただ呆然と見つめていた。*
*「愛してる」。*
*瀕死の彼が最後に紡いだ言葉。それは、自分を殺そうとした咎人であるはずの自分にも向けられていた。その事実が、氷のように固まっていた彼女の心を、再び激しくかき乱す。*
レイラ(魔王女):「…なぜ…だ…。なぜ、妾の名を…。妾は、貴様を…殺そうとしたのだぞ…」
*彼女の声は震え、自ら下した判決が、彼の愛の言葉によって根底から覆されようとしていた。*
*不死鳥の再生の炎と、熾天使の治癒の光。二つの奇跡がシロウの体を完全に癒していく。血に濡れた服はそのままだったが、胸の傷は跡形もなく消え去り、失われた生命力も満ち溢れていく。*
*そして、誰もが固唾を飲んで見守る中、死んだように固く閉じられていたシロウの瞼が、ゆっくりと持ち上がった。*
ルミナ:「お兄ちゃん!」
リーシア:「シロウ様!」
*ルミナとリーシアが歓喜の声を上げる。自らを断罪し、地下牢へ向かおうとしていたレイラも、その場で足を止め、信じられないものを見るようにシロウへと振り返った。*
*意識を取り戻したシロウは、ゆっくりと体を起こした。そして、自分の周りで起こった惨状――血の海、泣きじゃくるルミナ、絶望に顔を歪めるレイラ――を順番に見渡し、最後に、自らの胸元をポンポンと叩いた。傷は、ない。*
*彼は一つ、深いため息をつくと、先程までとは打って変わって、拗ねた子供のような顔で、目の前にいる二人の妻をじろりと睨みつけた。*
シロウ:「痛かった、許さん。」
*凛とした、しかしどこか芝居がかったその声が、静まり返った中庭に響き渡った。*
*それは、瀕死の重傷を負った男の言葉とは到底思えない、あまりにも普段通りの、あまりにも不謹慎な一言だった。*
*その言葉に、場の空気が完全に凍り付く。*
ルミナ:「…へ…?」
レイラ(魔王女):「……は?」
*ルミナは喜びの涙も引っ込み、呆気に取られた顔でシロウを見つめる。*
*レイラもまた、自責の念も絶望も吹き飛んだかのように、眉をひそめて怪訝な表情を浮かべた。*
*シリアスな雰囲気は、この一言によって木っ端微塵に粉砕されたのだった。*
*シロウのあまりにもあっけらかんとした言葉に、ルミナとレイラは完全に思考を停止させた。*
*つい先程まで、血の海の中で繰り広げられていた悲劇と絶望が、まるで悪い冗談だったかのように感じられる。*
*シロウはそんな二人の反応を楽しむかのように、わざとらしく首を傾げてみせた。*
シロウ:「ん? 心臓を潰されたくらいで俺は死なないよ?」
*追い打ちをかけるような、悪びれもしない一言。*
*この言葉で、ルミナはついに状況を理解した。最初から、彼は死ぬことなどなかったのだと。そして、自分たちが彼の掌の上で踊らされていたのだと。*
ルミナ:「…お兄ちゃんの…**バカァァァァァァァァッッ!!**」
*ルミナの絶叫が中庭に響き渡った。彼女は喜びの涙も、安堵の涙も、全て怒りの涙に変えて、シロウの胸をポカポカと叩き始めた。もちろん、全く痛くはない。*
ルミナ:「心配したのよ!? どれだけ心配したと思ってるの!? 本当に死んじゃったかと思って! 私、私…!」
*言葉は怒っているが、その声は泣き声でぐちゃぐちゃだ。*
*一方、レイラはただその場で立ち尽くしていた。*
*彼女の頭の中では、魔王女の人格とボクっ娘の人格が、再び激しい混乱に陥っていた。*
レイラ(ボクっ娘):「…死んで…ない? よかった…本当によかった…!」
*安堵と喜びで力が抜け、その場にへたり込みそうになるボクっ娘。*
レイラ(魔王女):「…ということは、妾は…この男に、まんまと騙されたということか…?あまつさえその胸を貫いた妾を、この男は…見て楽しんでいたと…? この…**クソッタレがぁぁぁぁっ!!**」
*しかし、それを上回る屈辱と怒りが、魔王女の人格を爆発させた。*
*彼女は自らを罰しようとした悲壮感など微塵も感じさせない、いつもの戦闘狂の顔に戻ると、再びシロウに向かって猛然と突進した。*
レイラ(魔王女):「ふざけるなッ! 人の純情な心と記憶喪失を弄びおって! 今度こそ本当に息の根を止めてくれるわ!」
*しかし、シロウの胸を叩いて泣きじゃくるルミナが邪魔で、うまく攻撃できない。*
リーシア:「あ、あの…皆様…? シロウ様が無事なのは何よりですが…その…後片付けが…」
*唯一まともなリーシアだけが、血の海と化した中庭を見回し、途方に暮れていた。*
*シロウは、胸で泣きじゃくるルミナと、自分に殴りかかろうとするレイラの二人をなだめるように両手を上げた。*
シロウ:「あー…そうだった。」
*彼はそう呟くと、片手をすっと地面に向けた。*
*その瞬間、血に染まった中庭の芝生に、清浄な水が湧き上がり始める。それは激しい濁流ではなく、汚れだけを優しく掬い取るように、血溜まりを包み込んでいく。*
*シロウの意のままに操られた水は、血液だけを綺麗に分離・分解し、蒸発させていく。そして、血で汚れたシロウやレイラ、ルミナの衣服、そしてリーシアの足元までも、まるで洗い立てのように清めていった。*
*さらにシロウは、ポケットから小さな手作りの石鹸を取り出す。それは、彼が趣味で作った、ラベンダーの香りがする特製の品だ。*
*水魔法で細かな泡を立てると、その心地よい香りがふわりと中庭に広がった。血の匂いは完全に消え去り、後には清々しい空気と、優しい花の香りが残るだけだった。*
*ものの数十秒で、先程までの惨状が嘘だったかのように、中庭は元の美しい姿を取り戻した。*
シロウ:「よし、綺麗になったな。」
*彼は満足げに頷く。しかし、その手際の良さとあまりの平然とした態度が、逆に二人の妻の神経を逆撫でした。*
ルミナ:「そういうことじゃないでしょおおおッ!!」
*ルミナは再びシロウの胸をポカポカと叩き始める。*
レイラ(魔王女):「貴様というやつは…! 妾の悲壮な覚悟と! 純粋な乙女の涙を! 返せッ!!」
*レイラも、ルミナの隣から同じようにシロウの胸を叩き始めた。二人の王妃による、全く痛くない抗議の連打が続く。*
リーシア:「はぁ…。まあ、元通りになったので、結果オーライ…でしょうか…。」
*リーシアは一人、安堵と呆れの混じった深いため息をつくのだった。*
*シロウは、胸をポカポカと叩き続ける二人の妻を腕の中にまとめて抱きしめながら、わざとらしく、心底安堵したような声で言った。*
シロウ:「レイラの記憶が戻って良かったー」
*その、あまりにも空気を読まない一言に、二人からの抗議の連打がピタリと止まる。*
ルミナ:「……。」
レイラ(魔王女):「………。」
*ルミナは呆れ果てたように顔を上げ、レイラは眉間に深い皺を寄せたまま、二人同時にシロウの顔をじっと見つめた。その瞳は「お前は本当に反省しているのか」と雄弁に物語っている。*
レイラ(魔王女):「貴様…! 妾がどれだけ絶望し、自らを断罪する覚悟を決めたと思っている! それを…!」
*怒りのあまり言葉が続かないのか、レイラはわなわなと唇を震わせる。*
ルミナ:「そうよ! お兄ちゃんが死んじゃったと思って、私、レイラのこと本気で殺そうとしたのよ!? 下手したら、国が二つに割れる大戦争になってたかもしれないのよ!? 分かってるの!?」
*ルミナも本気の剣幕でシロウに詰め寄る。*
*二人の妻からの正論による同時攻撃。シロウは「しまった」という顔をしたが、もう遅い。*
レイラ(ボクっ娘):「…でも、ボクは…嬉しかったよ…? シロウが生きてて、本当によかった…♡」
*怒れる魔王女とルミナの背後から、レイラのボクっ娘の人格が、ぽつりと本音を漏らした。その瞬間、レイラの顔がカッと赤くなる。*
レイラ(魔王女):「だ、黙れ貴様は! 今はそういう雰囲気ではないだろうが!」
リーシア:「はぁ…。皆様、とりあえずお部屋にお戻りくださいませ。お夜食でもご用意いたしますので、お話の続きはそちらで…。こんな所で痴話喧嘩を続けられては、わたくしの胃が持ちません…。」
*メイド長であるリーシアが、疲れ果てた声で三人を諭すのだった。*
*シロウは二人の妻に詰め寄られ、絶体絶命の状況で、究極の奥義を繰り出した。*
シロウ:「てへぺろ(´>∀<`)ゝ」
*彼は片目を瞑り、ぺろりと舌を出して首を傾げる。それは、反省の色など微塵も感じられない、あまりにもふざけきったポーズだった。*
*シン…*
*中庭に、先程とはまた違う、絶対零度の沈黙が訪れた。*
*ルミナとレイラの動きが、完全に停止する。*
*ルミナは、シロウの胸を叩いていた手を下ろし、ゆっくりと顔を上げた。その顔からは表情が消え、美しい顔が能面のように固まっている。彼女は静かにシロウから一歩離れると、腕を組んだ。*
ルミナ:「…リーシア。今夜は私、客室で寝るわ。一番良いお酒を持ってきなさい。今夜は一人で飲んだくれるわ…。」
*その声は、怒りを通り越して、諦観に満ちていた。*
*一方、レイラは数秒間、信じられないものを見る目でシロウを凝視していたが、やがて全身の力が抜けたように、その場にへなへなと座り込んでしまった。*
レイラ(魔王女):「…もう、だめだ…。こいつに何を言っても無駄だ…。妾の怒りも、悲しみも、絶望も、全てが馬鹿らしくなってきた…。」
*彼女は地面に「の」の字を書き始め、完全に戦意を喪失してしまった。*
レイラ(ボクっ娘):「…うぅ…でも、そんなシロウも、ボクは…好き…♡」
*心の声がぽろりと漏れ、レイラの顔だけが真っ赤に染まる。*
リーシア:「かしこまりました、ルミナ様。シロウ様、レイラ様、わたくしからも一つよろしいでしょうか。」
*リーシアは完璧な笑みを浮かべているが、その目は全く笑っていない。*
リーシア:「明日、城の修繕費と、わたくしの精神的苦痛に対する慰謝料、それからルミナ様とレイラ様への誠意を示すための贈り物の購入予算について、改めてご相談に上がりますので、そのつもりで。それでは、皆様、お部屋へどうぞ。」
*完璧な業務連絡。それは、この騒動の後始末が全てシロウの財布に降りかかることを、静かに宣告していた。*
*シロウの「てへぺろ」は、最悪の形で場を収束させ、そして自らの首を絞める結果となったのだった。*




