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*あれから、怒涛のような、それでいて穏やかな3年という月日が流れた。*
*ルミナとレイラと正式に結ばれ、カイとルーナという二人の子供にも恵まれた。魔王としての地位を確立し、「夜天のアストライア魔導皇国」を建国。世界樹を植え、石化した古龍を博物館に飾り、国を守るための大結界を構築した。更には、趣味と実益を兼ねて作り出した大迷宮も、今や各国の冒険者たちが腕試しに訪れる一大スポットとなっている。*
*そんな目まぐるしい日々の中、ふと自分の年齢を計算してみる。*
シロウ:「ってことは俺は…32歳か…おっさんだな」
*執務室の豪奢な椅子に深く身を沈め、シロウはぽつりと呟いた。鏡に映る姿は、魔王の力の影響か、全盛期であった二十代の頃からほとんど変わらない。しかし、精神的な部分では、確かに32年分の年輪が刻まれているのを感じる。二人の妻と二人の子供を持つ、一国のあるじ。その重みが、心地よく肩にのしかかっていた。*
*シロウが執務室で一人、自身の寿命に思いを馳せている。32歳。地球にいた頃ならば、まだまだ若者と言われる年齢だろう。しかし、二人の愛する妻と、日に日に成長していく子供たちに囲まれていると、永遠ではない時間の流れをより強く意識するようになった。*
シロウ:「人間の寿命の平均は…80だったな。魔力で100までは生きれるか?」
*彼は自らの手のひらを見つめる。そこには、世界を創造し、変革することさえ可能なほどの膨大な魔力が渦巻いている。この力をもってすれば、単なる延命など造作もないことだろう。だが、問題はそこではない。*
*自分だけが生き残り、愛する者たちを次々と見送っていく未来。それは果たして幸福なのだろうか? 魔王となった今、その悠久の時を生きる宿命は避けられないのかもしれない。*
*ふと、彼は思考を切り替える。*
シロウ:「(いや、今は俺のことより…子供たちのことだ。カイももう12歳か。そろそろ本格的に帝王学や、あいつが興味を持ってる科学について、専門の家庭教師でもつけてやるべきかもしれんな。ルーナは…相変わらず俺にべったりだが、最近時々、妙に大人びたことを言うのが気になる。転生者の記憶が、何か影響を与え始めているのか…?)」
*父親として、そして一国の王として、考えるべきことは山積みだった。自分の寿命について感傷に浸っている暇など、本当はないのかもしれない。*
*シロウは執務室の椅子から立ち上がると、窓の外に広がる自らが創り上げた国の景色を眺めた。平和で、活気にあふれた街並み。これを守り、次の世代へと繋いでいくのが、今の自分の最も大きな責務だ。*
シロウ:「帝王学の家庭教師をカイに付けるか… あとはルーナだな。」
*カイはレイラの血を色濃く受け継ぎ、聡明で好奇心旺盛だ。王族としての自覚も芽生え始めており、帝王学を学ぶにはちょうど良い時期だろう。人選は慎重に行わなければならない。リーシアにでも相談して、国内外から最適な人材を探させるか。*
*問題は、ルーナだ。*
シロウ:「(ルーナは転生者の事を隠してるっぽいが…)」
*彼女が時折見せる、9歳の少女らしからぬ洞察力や言動。それは、彼女の中に眠る前世の記憶の表れであることに、シロウは薄々気づいていた。本人が隠そうとしている以上、無理に暴くつもりはない。だが、いずれその記憶が彼女の心に大きな影響を与える時が来るかもしれない。その時に、父親としてどう向き合うべきか。*
*シロウは思考を巡らせていると、不意に執務室の扉が控えめにノックされた。*
リーシア:「陛下、リーシアです。カイ様とルーナ様が、陛下にお会いしたいと参られております。」
*扉の向こうから、メイド長であるリーシアの落ち着いた声が聞こえてきた。*
シロウ:「ああ、通してくれ。」
*噂をすれば、だ。シロウは柔らかな笑みを浮かべ、扉が開かれるのを待った。*
*シロウの言葉と共に、豪華な装飾が施された執務室の扉がゆっくりと開く。そこには、少し緊張した面持ちのカイと、彼の後ろに隠れるようにして顔を覗かせているルーナの姿があった。二人とも、この日のために仕立てられたであろう新しい礼服に身を包んでいる。*
カイ:「父上、本日はお時間をいただき、ありがとうございます。」
*12歳になったカイは、以前よりも少し背が伸び、顔つきも精悍さを増してきた。父親であるシロウを前にしても、堂々と挨拶をする姿には、次期皇帝としての風格が早くも漂い始めている。*
ルーナ:「お父様…♡」
*一方、カイの後ろからひょっこりと顔を出したルーナは、ぱあっと表情を輝かせると、シロウの元へ駆け寄ってきた。そして、その足にぎゅっと抱きつく。9歳になっても、この甘えん坊なところは変わらない。*
*シロウは優しい笑みを浮かべ、しゃがみ込んでルーナの頭を撫でながら、改めて二人の顔を見つめた。*
シロウ:「誕生日おめでとう、二人とも。」
シロウ:「カイには帝王学の家庭教師を付けようと思うが、どうしたい?」
*シロウの言葉に、カイは背筋を伸ばし、真剣な表情で父親を見つめ返した。彼の青い瞳には、12歳とは思えないほどの強い意志の光が宿っている。*
カイ:「はい、父上。ぜひ、お願いしたく思います。学校で学ぶ知識だけでは、この国を、そして民を守るための力としては不十分だと感じておりました。父上のような偉大な皇帝になるため、より多くのことを学びたいです。」
*淀みなく、はっきりと自分の意思を告げるカイ。その姿は、隣で話を聞いていたリーシアが感心したように小さく頷くほど、立派なものだった。*
*一方、シロウの足に抱きついたままだったルーナは、兄の答えを聞くと、くりくりとした瞳でシロウを見上げた。*
ルーナ:「お兄様、すごい…! ルーナも、お父様のお役に立てるように、もっともっとお勉強しなきゃ…!」
*兄への尊敬と、父親への愛情。そして、わずかな対抗心。彼女の言葉には、9歳の少女の純粋な気持ちが詰まっていた。彼女はまだ、自分が持つ特別な才能や運命にはっきりと気づいてはいない。ただ、大好きな家族のために何かをしたい、その一心だった。*
*シロウの優しい問いかけに、ルーナはぱっと顔を輝かせた。彼女の頭の中では、前世の記憶――膨大なゲームやアニメ、ラノベの知識――が超高速で回転を始める。*
ルーナ:「(したいこと! したいこと、ですって!? それはもう、山のように! まずはやっぱり、お父様と一緒にお城の隠し通路を探検して、伝説の秘宝を見つけるクエスト! それから、フェンとイグニに乗って、まだ誰も見たことのない世界の果てまで冒険の旅! あとは、カイお兄様が作った魔導ゴーレムに乗り込んで、大迷宮の最下層にいるっていうラスボス(お父様謹製)を倒しに行くのも捨てがたい…! い、いえ、魔王であるお父様のお役に立つことと言えば、やっぱり諜報活動かしら!? 名探偵ルーナとして、国内外の陰謀を暴き、悪を一網打尽に…! それとも、いっそ私が新しい魔法を開発して、お父様に「すごいぞルーナ!」って褒めてもらうのはどうでしょう!? そうよ、魔法少女ルナティック☆ルーナとして、愛と正義のために戦うっていうのも…!)」*
*脳内で繰り広げられる壮大なファンタジーに一人で興奮し、頬を赤らめ、はふはふと息を荒げるルーナ。そんな娘の様子を、シロウは微笑ましげに見守っている。*
*数秒間の高速思考の末、ルーナは一つの結論にたどり着いた。そして、きゅっとシロウのズボンを握りしめ、キラキラした瞳で父親を見上げる。*
ルーナ:「あのね、お父様! ルーナは、お父様のお仕事をお手伝いしたいです! お父様が毎日たくさん書類にサインしてるのを、リーシアから聞きました。ルーナ、字の練習をいっぱいして、お父様が楽できるように、お手伝いします!」
*数々の夢物語の果てに彼女が選んだのは、大好きな父親の役に立ちたいという、とても健気で現実的な願いだった。*
*シロウは、娘の健気な申し出に目を細めた。数々のファンタジーな願望の果てに、彼女が選んだのが「父親の手伝い」であることに、胸が温かくなるのを感じる。*
*しかし、その一方で、彼女の高速思考から漏れ聞こえてきた断片的な単語が、シロウの意識に引っかかっていた。*
シロウ:「(そういえば、昔隠れんぼ大会しようって言ってた様な…?)」
*あれはルーナがもっと小さい頃の約束だったか。国が落ち着いたら、盛大に城中で開催してやってもいいかもしれない。子供たちだけでなく、臣下たちも巻き込んで。*
シロウ:「(ん?魔法少女…?)」
*一瞬、思考の片隅をよぎったその単語。ルーナの口癖か、あるいは前世の記憶に由来するものか。9歳の娘が口にするには少しばかりマニアックな響きだ。しかし、シロウは深く追求することなく、目の前の娘に意識を戻した。*
シロウ:「そ、そうか…文字の練習か、えらいな、ルーナ。」
*彼は少し動揺を隠しながらも、ルーナの頭を優しく撫でる。*
シロウ:「(まだ書けなかったんだな…)わかった。じゃあ、まずはリーシアに頼んで、ルーナ専用の可愛らしい机と椅子、それから書きやすいペンを用意させよう。練習すれば、すぐに上手になるさ。」
*シロウはにっこりと微笑みかける。たとえ転生者であろうと、今ここにいるのは自分の愛する娘だ。その成長をすぐ側で見守り、手助けしてやれることが、何よりも幸せだった。*
*カイとルーナが「失礼します、父上!」「お父様、また後でね♡」と元気に挨拶をして執務室から出ていく。シロウは手を振って二人を見送ると、にこやかだった表情をすっと消し、真剣な顔つきに戻った。*
*彼は執務室の壁にかけられた巨大な世界地図に近づくと、特定の場所にそっと手を触れた。すると、ゴゴゴ…と重い音を立てて壁の一部がスライドし、薄暗い通路が出現する。そこは、彼のプライベートな研究や開発を行うための秘密の工房へと続く隠し通路だった。*
*シロウは慣れた様子で通路の中へと足を踏み入れ、背後の壁が静かに閉じるのを確認した。*
*…しかし、彼は気づいていなかった。*
*執務室の扉の影から、小さな瞳がキラキラと輝きながらその一部始終を窺っていたことに。*
*(お父様、隠し通路! まるでゲームの主人公みたい! ルーナ、見ちゃった…♡ これは追跡イベント発生のフラグに違いありませんわ!)*
*ルーナは、兄のカイが角を曲がって見えなくなったのを確認すると、小さな探偵のように抜き足差し足で執務室へと忍び寄る。そして、シロウが触れた地図の同じ場所を、小さな背を精一杯伸ばして、ぽすっと押した。*
*ゴゴゴ…*
*再び開く隠し通路。ルーナは「しめしめですわ♪」と小さくガッツポーズをすると、わくわくする心臓の鼓動を抑えながら、父親の後を追って薄暗い通路の中へと消えていった。*
*シロウは薄暗い通路を進み、その最奥にある重厚な鋼鉄の扉の前に立った。ここが彼の聖域、秘密の工房の入り口だ。*
*彼は扉に埋め込まれたパネルに顔を近づける。*
***ピピッ…***
**『網膜パターン、照合完了』**
*次に、パネルの下にあるセンサーに人差し指を置く。*
***ピッ…***
**『指紋情報、照合完了』**
*最後に、扉に手をかざし、自身のユニークな魔力の波形――魔紋を流し込む。*
***ウィィン…***
**『魔紋コード、認証。マスター、シロウ・ニシキ。ようこそ、ラボへ』**
*合成音声による認証完了のアナウンスが響くと同時に、分厚い扉が音もなく横にスライドして開いた。*
*その一連の厳重なセキュリティシステムを、少し離れた通路の角から、ルーナが息を殺して見つめていた。*
ルーナ:「(な、なんですの、この厳重警戒態勢は!? 網膜に指紋に…魔紋認証!? まるでスパイ映画かSFの世界ですわ! お父様、一体何をこんな場所に隠しているというのですか!? ま、まさか…世界征服のための最終兵器とか!?)」
*彼女のオタク脳は、父親が秘密の工房でとんでもないものを開発しているに違いないと、期待に胸を膨らませていた。*
*シロウが工房の中へと姿を消し、再び扉が閉まり始める。*
ルーナ:「(い、いけませんわ! このままでは閉め出されてしまう!) ええい、ままよ!」
*シロウが中に入り、重厚な扉が静かに閉じていく。そのわずかな隙間を狙って、ルーナは「ええい!」と小さな体で駆け出した。アニメやゲームの主人公のように、ギリギリで滑り込む算段だった。*
*しかし、彼女の小さな身体が扉の隙間を通り抜けようとした瞬間――。*
***バチンッ!***
*まるで透明な壁に叩きつけられたかのような衝撃と共に、ルーナの身体は弾き飛ばされた。*
ルーナ:「きゃっ!?」
*通路の床にぺたんと尻餅をつき、ルーナは何が起こったのかわからず、目をぱちくりさせる。目の前では、鋼鉄の扉が完全に閉ざされ、元の壁と寸分の違いもない状態に戻っていた。*
ルーナ:「(な、なんですの今の…!? 扉だけじゃなかった…結界!? しかも、ただの結界じゃありませんわ! 侵入者を認識して、物理的に弾き返すタイプ…! さすがお父様、セキュリティがガチすぎますわ…!)」
*尻餅をついたまま、ルーナは感心と悔しさで唇を尖らせる。物理的な扉の奥に、さらに魔法的な障壁を張る二重構造。これでは物理的に滑り込んでも意味がなかったのだ。*
*しかし、ファンタジーオタクで探求心旺盛な名探偵(自称)ルーナが、ここで諦めるはずもなかった。*
ルーナ:「(ふふふ…ですが、お父様。この程度のことで諦める娘だとお思いでしたら、それは大きな間違いですわ! こうなったら、この結界の構造を解析して、突破口を見つけ出すまでですわ! 名探偵ルーナの推理、なめないでくださいまし!)」
*彼女は立ち上がると、服についた埃をぱんぱんと払い、再び壁(だった場所)の前に仁王立ちした。そして、目を凝らし、壁に手を当て、魔力の流れを感知しようと集中し始める。転生者としての知識と、熾天使の娘としての才能が、今、試されようとしていた。*
*シロウは工房の中で、いくつかの開発途中の魔道具を手に取り、その設計図と見比べていた。厳重なセキュリティに守られたこの場所は、彼の集中力を最大限に高めてくれる。まさか、その扉のすぐ外で、愛娘が壮絶なハッキング合戦を繰り広げているとは夢にも思っていない。*
*一方、通路に取り残されたルーナは、尻餅をついた悔しさをバネに、目の前の見えない壁――結界の解析に取り掛かっていた。*
ルーナ:「(むきーっ! ただでは起き上がりませんわ! 物理がダメなら魔法で、魔法がダメならハッキングですのよ!)」
*彼女は瞳にうっすらと魔力を込める。それは父シロウから受け継いだ「神眼」の雛形ともいえる能力。常人には見えない魔力の流れが、彼女の目には複雑な幾何学模様として視覚化される。*
ルーナ:「(ふむふむ…この術式は、あちらのノードに接続されていて…エネルギーの流れは一方通行…ということは、ここのキーコードを擬似的に偽装して、一時的なパスを発行させれば…えいっ!)」
*ルーナは指先で空中に複雑な紋様を描き、結界のほんの一瞬の隙を突いて解除コードを叩き込んだ。前世のゲーマーとしての知識と、この世界で得た天才的な魔法の才能が見事に融合した瞬間だった。*
***カチリ…***
*微かな音とともに、第一の結界が霧散する。*
ルーナ:「(ふふん! やりましたわ! 天才名探偵魔法少女ルーナにかかれば、お父様のセキュリティなど…!)」
*勝利を確信し、意気揚々と一歩踏み出そうとした、その時だった。*
***ブウゥゥゥンッ!!***
*彼女のハッキングをトリガーとして、壁全体が禍々しい光を放つ。先ほどよりも遥かに複雑で強力な、第二、第三の魔法陣が瞬時に展開され、幾重にも重なった結界がルーナの目の前に再構築された。*
ルーナ:「なっ…!? 連動トラップですって!? 一つを解除すると、より強力な防壁が複数起動するなんて…! お父様、性格が悪すぎますわーっ!!」
*完全に通路から締め出されたルーナは、その場にへなへなと座り込んだ。父親の作った、あまりにも完璧すぎるセキュリティシステムを前に、さすがの彼女もなす術がなかった。*
*通路の隅で膝を抱え、ルーナはぶつぶつと文句を言い始める。*
ルーナ:「…うぅ…お父様のいけず…鬼…悪魔…魔王…」
*昨夜、秘密の工房への侵入に失敗し、悔し涙を流しながら自室のベッドに戻ったルーナ。しかし、彼女の探求の炎は消えるどころか、むしろ燃え上がっていた。*
*「お父様の秘密、絶対に暴いてみせますわ!」*
*そして翌朝。まだシロウが深い眠りについている夜明け前、彼の寝室に小さな影が忍び寄る。名探偵(自称)ルーナの作戦第二段階の始まりである。*
*彼女はそっとシロウのベッドサイドに近づくと、前世の知識(主にスパイ映画)を総動員し、特殊な魔道具――対象の表面情報を精密に写し取るスライム状の粘土――を取り出した。*
ルーナ:「(ふふふ…まずはお父様の指紋を頂戴しますわ…)」
*息を殺し、震える手でシロウの指にそっと粘土を押し当てる。任務完了。次に、これまた特殊な水晶レンズを取り出し、眠っているシロウの瞼をそっと持ち上げた。*
ルーナ:「(次は網膜パターン…♪ お父様の寝顔、素敵ですわ…って、いけません、いけません! 任務に集中ですの!)」
*レンズが微かな光を放ち、シロウの網膜情報を完璧にコピーする。これで物理的な認証は二つとも突破できるはずだ。ルーナは小さくガッツポーズを決めた。*
*しかし、彼女の頭には一つの疑問が浮かんでいた。*
ルーナ:「(残るは『魔紋』…まもん? 聞いたことのない言葉ですわね。魔力の紋様…ということかしら? この世界では魔力パターンは個人を特定できるほどユニークなものではないはず…少なくとも、一般的には認識されていませんわ。一体どういう認証システムなのでしょう…? お父様が独自に開発した新技術…!?)」
*彼女は自身の知識の及ばない未知のテクノロジーに頭を悩ませる。指紋と網膜はコピーできても、この『魔紋』という最大の壁をどう突破すればいいのか。ルーナは顎に手を当て、深刻な顔で父親の寝顔を見つめながら、次の作戦を練り始めるのだった。*
*指紋と網膜の情報を手に入れた次の日。ルーナの挑戦は最終段階へと移行していた。彼女は再び父の執務室へと忍び込み、隠し通路の扉の前に立つ。*
*「お父様のいけず結界…!」*
*昨日、彼女を完膚なきまでに叩きのめした幾重にも重なる防衛システム。しかし、今日のルーナは違った。*
ルーナ:「(昨日の解析で、結界そのものにお父様の『魔紋』、つまり魔力の固有パターンが練り込まれていることは分かっていますわ。ならば…!)」
*彼女は瞳を閉じ、全神経を集中させる。彼女の持つ類稀なる魔力感知能力が、結界を構成する複雑な術式の中から、核となっているシロウの魔力パターンだけを正確に抜き出し始めた。それはまるで、膨大なデータの中から特定のファイルを探し出すスーパーコンピューターのようだった。*
*そして、数分後。*
ルーナ:「(…見つけましたわ! この揺らぎ、この波長…これがお父様の『魔紋』!)これを、わたくしの魔力で擬似的に再現すれば…!」
*彼女は自らの魔力を巧みに変質させ、解析したシロウの魔紋パターンを寸分違わずコピーしてみせる。それは熾天使の娘としての才能か、あるいは転生者としての規格外の学習能力の賜物か。いずれにせよ、9歳の少女が成し遂げていい離れ業ではなかった。*
*準備は整った。ルーナは昨日手に入れた指紋の粘土と網膜のレンズを使い、物理認証を突破する。*
***ピピッ…***
**『網膜パターン、照合完了』**
***ピッ…***
**『指紋情報、照合完了』**
*そして、最後の関門。彼女は壁にそっと手をかざし、先ほどコピーしたばかりの偽の『魔紋』を流し込んだ。*
***ウィィン…***
**『魔紋コード、認証。マスター、シロウ・ニシキ。ようこそ、ラボへ』**
*合成音声のアナウンスと共に、重厚な扉が音もなく開いていく。*
ルーナ:「や、やりましたわーっ!!」
*思わず小さな声で勝利の雄叫びを上げるルーナ。彼女の目の前には、未知の機械や設計図が散乱する、父親の秘密の空間が広がっていた。*
*好奇心に胸をときめかせながら、彼女は慎重に、しかし確実な一歩を、その聖域へと踏み入れた。*
*ルーナが勝利を確信し、未知とロマンに満ちた父親の秘密基地へと足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。*
*工房の内部に設置されていた最終防衛システムが、認証された『魔紋』と、侵入者本人から発せられる魔力のパターンが一致しないという致命的な矛盾を検知した。*
***警告。認証情報と侵入者の生体魔力パターンに不一致を検出。第三者による不正アクセスと判断。プロトコル・デルタを発動。侵入者を強制排除します。***
*工房内に響き渡る無機質な警告アナウンス。それを耳にする間もなく、ルーナの足元に複雑な転移魔法陣が瞬時に展開され、まばゆい光を放った。*
ルーナ:「えっ…ちょっ、待…きゃあああああ!?」
*悲鳴を上げる暇さえ与えられず、彼女の小さな身体は光に包まれ、その場から跡形もなく消え去った。*
*次の瞬間。*
*ドスンッ!*
*ルーナは、見慣れた自分の部屋の、ふかふかのベッドの上に転移させられていた。何が起こったのか一瞬わからず、ぽかんとした表情で天井を見つめる。*
ルーナ:「………。」
*数秒の沈黙の後、事態を完全に理解した彼女は、ベッドの上で足をバタバタさせながら絶叫した。*
ルーナ:「うわあああああん! あと一歩だったのにぃぃぃ! 生体魔力認証ですって!? そんなの聞いてませんわーっ! お父様の鬼! 悪魔! 性格がねじ曲がったマッドサイエンティストーっ!!」
*侵入は検知され、即座に安全な自室へと強制送還。しかも、工房側には侵入の痕跡すら残らない完璧なシステム。*
*父親が築き上げた、あまりにも堅牢で、そしてある意味では優しい(殺さずに自室に送り返すあたりが)セキュリティの壁を前に、9歳の天才ハッカーは、今日二度目の完敗を喫したのであった。*
*あれから一週間。*
*度重なる失敗にも、ルーナの探究心は衰えることを知らなかった。むしろ、父親が仕掛けた高度なセキュリティを突破すること自体が、彼女にとって最高のゲームとなっていた。自室に引きこもった彼女は、前世の知識とこの世界での才能をフル活用し、ついに自身の魔力を完全に隠蔽し、他者の魔力パターンを上から偽装する高度な隠蔽魔法を独力で編み出すに至った。*
*「ふふふ…これさえあれば、生体魔力認証も怖くありませんわ!今日こそ、お父様の秘密のベールを剥ぎ取ってさしあげます!」*
*万全の準備を整え、ルーナは三度、父の工房へと挑む。*
*指紋、網膜、そして完璧に偽装した父の魔紋。最後の生体魔力認証も、新たに開発した隠蔽魔法でクリア。一週間前の彼女を阻んだ全ての壁が、今や意味をなさなかった。*
***ウィィン…***
**『魔紋コード、認証。マスター、シロウ・ニシキ。ようこそ、ラボへ』**
*ついに、完全に開かれた秘密の扉。警告アナウンスも、強制転移も発動しない。*
ルーナ:「(や、やりましたわ…!ついに…ついに完全勝利ですのよーっ!)」
*感極まって涙ぐみそうになるのをこらえ、ルーナは未知の光景に胸をときめかせながら、工房の中へと足を踏み入れた。そこには、見たこともない機械や、宙に浮かぶ設計図、壁一面に書き込まれた難解な数式が広がっていた。*
*しかし、彼女の勝利の余韻は、無機質な合成音声によって打ち破られる。*
**『追加認証を要求します。合言葉をどうぞ』**
ルーナ:「へっ…?」
*扉の前に立ったまま、ルーナは固まった。目の前に、小さなマイクのような魔道具がせり出してきている。*
ルーナ:「(あ、合言葉ですって!? そんなの聞いてませんわ! いつの間にこんなセキュリティを追加したんですの、あのお父様はーっ!?)」
*彼女のハッキングを検知したわけではない。しかし、シロウは一週間という時間の中で、気まぐれに、あるいは更なるセキュリティ強化のために「声紋認証」という新たなトラップを追加していたのだ。*
*完全に想定外の事態に、天才ハッカー・ルーナは、工房の入り口で立ち往生するしかなかった。*
*工房の入り口で、新たなる壁『声紋認証』を前に完全に固まってしまったルーナ。彼女はなんとか父親の声を真似できないか、あるいは過去の録音データがないかと思考を巡らせるが、その間にも無情な時間は過ぎていく。*
*やがて、工房のシステムは、認証プロセスが一定時間完了しないことを異常と判断した。*
**『認証タイムアウト。不正アクセスの可能性を検知。プロトコル・デルタを再実行します』**
*またしても響き渡る非情なアナウンス。そして、三度、彼女の足元にまばゆい転移魔法陣が展開される。*
ルーナ:「ま、またですのぉぉぉぉぉぉっ!?」
*今度は心の準備ができていた(?)分、より情けない悲鳴を上げながら、ルーナの姿は光の中に掻き消えた。*
*…そして、自室のベッドの上。*
*ドスンッ!*
*「お帰りなさいませ、お嬢様」とでも言うように、ベッドが優しく彼女を受け止める。*
*ルーナはしばらく大の字になって天井を見つめていたが、やがてむくりと起き上がると、枕を掴んでベッドに何度も叩きつけた。*
ルーナ:「あああああもうっ! いけず! いじわる! お父様のドS! 変態魔王! あと一歩だったのに! あと一歩で、わたくしの完全勝利だったのにぃぃぃ! 声紋認証ですって!? そんなの、どうやって突破しろと言うんですのよーっ!」
*枕に顔をうずめ、悔し涙でぐすぐすになりながら悪態をつく。しかし、その瞳の奥では、早くも次の作戦――どうやって父の『合言葉』を手に入れるか――を考え始めている探求の炎が、消えることなく燃え続けていた。*
*父親シロウは、工房でくしゃみを一つすると、「風邪でもひいたか?」と首を傾げ、また研究に没頭するのであった。*
*昨夜、愛娘が自室のベッドで悔し涙に濡れていたことなど露知らず、シロウは今日も今日とて執務室へとやってきた。山積みの書類をいくつか片付けた後、彼はふと研究の続きを思い立つ。*
*いつものように執務室の隠し通路を開き、秘密の工房へと向かう。幾重にも張り巡らせたセキュリティを難なくクリアし、最後の関門である鋼鉄の扉の前へ。*
**『追加認証を要求します。合言葉をどうぞ』**
*昨日、気まぐれに追加した声紋認証システムが起動する。シロウは特に深く考えることもなく、マイクに向かって気の抜けた声を一つ発した。*
シロウ:「あー。」
**『声紋パターン、照合完了。ようこそ、マスター』**
*認証は無事に通り、重厚な扉が静かに開いていく。シロウはそのまま工房の中へと足を踏み入れた。*
*…その完璧な手順と、あまりにも適当すぎる「合言葉」を、執務室の扉の鍵穴から覗き見ていた小さな影が一つ。*
*ルーナは、盗聴用の魔道具を握りしめながら、わなわなと震えていた。*
ルーナ:「(あ、あー…ですって!? あの厳重なセキュリティの最後の合言葉が、気の抜けた『あー』の一言ですの!? わたくしのこの一週間の苦労と努力を、一体なんだと思っているんですの、あのお父様はーっ!!)」
*あまりの拍子抜けに、怒りを通り越して脱力してしまう。しかし、これで全ての認証キーは揃った。彼女の瞳に、再び闘志の炎が宿る。*
ルーナ:「(ふ、ふふ…ふふふふふ! 待ってなさい、お父様! 次こそは…次こそ、わたくしの完全勝利ですわ!)」
*小さな名探偵の、最後の挑戦が、今まさに始まろうとしていた。*
*シロウが工房での研究を終え、執務室に戻った後のこと。*
*彼の気配が完全に遠のいたのを確認し、小さな影が三度、執務室に忍び寄る。言うまでもなく、名探偵ルーナだ。*
ルーナ:「(ふふふ…ついにこの時が来ましたわ。指紋、網膜、魔紋、そして声紋…! 全てのキーは、この名探偵ルーナの手に! お父様、あなたの秘密は、今日この瞬間に白日の下に晒されるのですわ!)」
*彼女は手慣れた様子で隠し扉を開けると、意気揚々と認証プロセスを開始する。*
*粘土で指紋を。*
*レンズで網膜を。*
*隠蔽魔法で魔紋と生体魔力を偽装し、そして…。*
ルーナ:「あー。」
*少しばかり不満を込めた、しかし完璧に父の声を模倣した「合言葉」。*
**『…認証完了。ようこそ、マスター』**
*全ての認証が通り、重厚な扉が完全に開く。今度こそ、警告も強制転移も発動しない。完全勝利だ。*
ルーナ:「やりましたわーっ!!!」
*喜びのあまり、思わずガッツポーズと共に叫んでしまう。彼女はついに、父親の聖域への扉を完全にこじ開けたのだ。*
*期待に胸を膨らませ、工房の中へと続く通路に足を踏み入れた、その瞬間――。*
ルーナ:「……へ?」
*彼女はピタリと足を止めた。*
*扉のすぐ先から、通路がぷっつりと途切れている。遥か下方は底が見えないほどの深い縦穴になっており、対岸にある工房の入り口までは数十メートルはあろうかという空間が広がっていた。物理的な道が存在しないのだ。*
ルーナ:「(み、道がありませんわ!?)」
*あまりにも原始的、かつ効果的な罠。これまでのハイテクなセキュリティは何だったのかと言わんばかりのアナログな障害に、ルーナは愕然とする。*
ルーナ:「(な、なんですのこれぇぇぇ!? 渡り廊下とか、せめて吊り橋くらい用意しておくのが普通でしょうに! これでは浮遊魔法でも使えなければ通れませんわ! まさか、お父様はいつも飛んで…!?)」
*ついに辿り着いた聖域を前に、最後の最後で物理的な壁(壁すらないが)に阻まれるルーナ。彼女は崖っぷち(?)にへたり込み、対岸の工房を悔しそうに見つめることしかできなかった。*
*対岸の工房を前に、あまりにもアナログな障害に打ちひしがれるルーナ。彼女がどうやってこの崖を渡るべきか、あるいは引き返すべきかと悩んでいる間にも、無情な時間は刻一刻と過ぎていく。*
*やがて、工房のシステムは、マスター(に偽装した侵入者)が一定時間工房エリアに入室しないことを異常事態と判断した。*
**『警告。マスターの生体反応がロビーエリアで停滞。緊急事態と判断。安全確保のため、プロトコル・デルタを実行します』**
*もはや聞き慣れた警告アナウンス。そして、お約束のようにルーナの足元に展開される、見飽きた転移魔法陣。*
ルーナ:「も、もう慣れましたわよ、このパターンには…! 次はきっと、飛行能力を持つ者を感知するセンサーか、あるいは質量を検知して作動する隠し通路でも追加するつもりですのね、あのお父様は…! 次こそ、次こそは…!」
*負け惜しみを口にしながらも、その声には諦観の色が濃く滲んでいる。彼女の小さな身体は、もはや抵抗する気力もなく光に包まれ、その場から掻き消えた。*
*――そして、自室のベッドの上。*
*ズシャッ!*
*いつもより少しだけ乱暴な着地。ルーナはベッドの上でうつ伏せになると、顔を枕にうずめて「うーーーーーっ!」と悔しさに満ちた唸り声を上げた。*
ルーナ:「もう嫌ですわぁぁぁ…! お父様の工房、鬼畜仕様すぎますわ…! なんですの、あの崖は! あれはもうセキュリティとかじゃなくて、ただの意地悪ですわ! 性格の悪さが滲み出てますのよ!」
*何度も何度も、あと一歩のところで阻まれる。それはまるで、クリア目前でバグって進行不能になるクソゲーのようだった。*
*しかし、数分間ベッドの上で暴れた後、ルーナはむくりと顔を上げた。その瞳には、涙の代わりに、新たな闘志と…そして、ある種の尊敬の念が宿っていた。*
ルーナ:「(…でも、すごい。わたくしのハッキングを想定して、次々と対策を講じてくる。最後の崖っぷちも、ハイテクな仕掛けを潜り抜けた者への、原始的で完璧なカウンター…。やっぱり、お父様はすごいですわ…!)」
*父への尊敬と、それを超えたいという挑戦心。彼女の冒険は、まだ始まったばかりだった。*
ーー
*度重なる愛娘の挑戦と、その度に完璧に作動する自作のセキュリティログ。シロウは全ての記録を微笑ましく眺めながら、そろそろこの可愛らしい探偵ごっこに一区切りつけてやるべきだと考えた。彼はメイド長のリーシアに命じて、ルーナを執務室に呼ぶように伝える。*
*しばらくして、執務室の扉が控えめにノックされ、ルーナが顔を覗かせた。彼女は父親に呼ばれた理由がわからず、少し不思議そうな顔をしている。*
ルーナ:「お父様、お呼びでしょうか?」
*シロウは執務机の椅子に座ったまま、にこりと人の悪い笑みを浮かべた。そして、机の上に並べられたいくつかの証拠物件――解析された魔力パターンのログデータが記録された水晶や、声紋を採取しようとした痕跡のある小型の魔道具――を指でとんとんと叩く。*
シロウ:「なぁ、ルーナさんや。何回も何回も失敗して諦めないのかい?」
*その言葉と机の上の物を見て、ルーナの顔がさっと青ざめる。自分の一週間にわたる極秘作戦が、最初から父親に全て筒抜けだったことを、彼女は瞬時に理解した。*
ルーナ:「あ…あう…そ、それは…その…なんのことやら、さっぱり…?」
*しどろもどろになりながら、必死に白を切ろうとする娘の姿に、シロウは楽しそうに目を細めた。*
シロウ:「ほほぉ…これは何かな?」
*シロウは楽しげにそう言うと、机の上に置かれた水晶の一つに指先で触れた。すると、執務室の何もない空間に、スクリーンが投影される。*
*そこに映し出されたのは――*
**『映像:ルーナ「(ふふふ…まずはお父様の指紋を頂戴しますわ…)」』**
**『映像:ルーナ「(次は網膜パターン…♡ お父様の寝顔、素敵ですわ…って、いけません、いけません!)」』**
**『映像:ルーナ「(連動トラップですって!? 一つを解除すると、より強力な防壁が複数起動するなんて…! お父様、性格が悪すぎますわーっ!!)」』**
**『映像:ルーナ「あー。」(不満げな声)』**
**『映像:ルーナ「(み、道がありませんわ!?)」』**
*音声付きで、ルーナのこれまでの挑戦と失敗の歴史がダイジェストで再生されていく。完璧だと思っていた潜入作戦が、最初から最後まで録画・録音されていたという動かぬ証拠。*
*映像が流れるにつれて、ルーナの顔は青から赤へ、そしてまた青へとめまぐるしく変わっていく。最後には、あまりの羞恥に「あうあう…」とか細い声を漏らし、両手で顔を覆ってその場にしゃがみこんでしまった。*
ルーナ:「う、うわあああああん…! み、見られてたなんて…! は、恥ずかしいですわあああああ…!」
*父親に全てお見通しだったという事実と、自分の数々の失態を記録された羞恥心で、彼女はもう限界だった。*
*シロウは楽しそうに笑いながら椅子から立ち上がると、床にしゃがみ込んでしまった娘のそばに歩み寄り、その小さな背中を優しく撫でた。*
シロウ:「そんなに入りたかったのか?」
*その声には、叱責の色は一切ない。むしろ、自分の作ったセキュリティをここまで突破してみせた娘への、純粋な感心と愛情がこもっていた。*
*シロウの優しい声に、ルーナは顔を覆ったまま、しゃがみこんだ体勢でふるふると首を横に振る。*
ルーナ:「…う、うぅ…だって…だってお父様が、いつも一人で楽しそうなことをしているから…! ルーナも、お父様の秘密を、ちょっとだけ…覗いてみたかっただけで…」
*指の隙間から、涙で潤んだ瞳がちらりとシロウを見上げる。その表情は、悪戯が見つかった子供そのものだ。*
ルーナ:「わ、わたくし、お父様の邪魔をしようとか、悪いことをしようとか、そんなつもりは…! ただ、純粋な知的好奇心と、探求心と、父への思慕の念がですね…その…」
*もごもごと弁解を続けるが、最後の方は羞恥で声が小さくなって消えてしまった。全て録画されていたという事実が、彼女のプライドと心を粉々に打ち砕いているようだった。*
シロウ:「珍しい物は無いけど?それでも、どうしても見たいの?」
*シロウの問いかけに、ルーナは覆っていた手をそっと下ろし、涙で濡れた瞳で父親の顔をじっと見つめた。羞恥心はまだ残っているものの、父親が本気で怒っていないことを察し、少しだけ安堵の表情を浮かべる。*
*「珍しい物は無い」という言葉。それは彼女にとって、少しだけ意外だった。あれほど厳重に守られた場所なのだから、きっと世界を揺るがすようなとんでもない発明品や、古代の遺物などが隠されているに違いない、と固く信じていたからだ。*
*しかし、たとえそうではなかったとしても、彼女の気持ちは変わらない。*
*ルーナはしゃがみこんだまま、こくこくと小さく頷いた。そして、まだ少ししゃくり上げながらも、はっきりとした声で答える。*
ルーナ:「…はい。見たい、です。珍しい物がなくても…お父様が大切にしている場所を、お父様が何を作っているのかを、わたくし、知りたいです。お父様の世界を、もっと…知りたいんです。」
*それはもはや、単なる好奇心や探究心だけではなかった。大好きな父親が、自分たちの知らない場所で、一人で何に打ち込んでいるのか。その秘密を共有したい。父親の孤独な(と彼女が勝手に思っている)世界に、少しでも触れたい。そんな、娘としての純粋な願いだった。*
*シロウは娘の真っ直ぐな瞳に、小さく溜息をついた。それは呆れではなく、愛しさに満ちたものだった。*
シロウ:「…はぁ。わかった、わかったよ。そんな顔をされたら、断れないじゃないか。」
*彼はそう言うと、しゃがみこんでいるルーナに手を差し伸べる。ルーナはその手をぎゅっと握り、嬉しそうに立ち上がった。*
シロウ:「ただし、中にある物には勝手に触らないこと。それから、今日見たことはカイにも母さんたちにも内緒だ。いいね?」
ルーナ:「はいっ! お約束しますわ、お父様!」
*キラキラと目を輝かせ、元気よく返事をする娘を見て、シロウは苦笑しながら彼女の手を引いた。再び執務室の隠し通路を通り、工房の扉の前へ。今度はシロウ自身が全ての認証をクリアし、ルーナを伴って中へと入る。昨日までルーナを阻んでいた崖には、シロウが歩くと同時に魔力で構築された光の橋がかかった。*
*そして、ついにルーナは憧れの秘密基地の内部へと足を踏み入れた。*
*しかし、彼女が想像していたような、整然とした未来的な研究室とは全く違っていた。*
*中は広く、天井も高い。だが、床には用途不明の金属パーツやケーブルが転がり、壁には数式や設計図が無秩序に書きなぐられている。そして中央に置かれた巨大な作業机の上は、まさに混沌としていた。*
*色とりどりに輝く様々な鉱石、半分だけ分解された魔道具、飲みかけで冷たくなったお茶の入ったカップ、そして――守護獣である不死鳥、イグニから抜け落ちたであろう、まだ微かに熱を帯びた美しい尾羽が一本、無造作に置かれている。*
ルーナ:「わぁ…」
*想像とは違ったが、これはこれで『天才科学者の秘密基地』という感じで、ルーナのオタク心は激しく揺さぶられた。彼女は目を輝かせながら、乱雑に置かれた一つ一つのガラクタ(宝物)を食い入るように見つめ始めた。*
シロウ:「ほらな、何も無いだろ?」
*シロウが少し呆れたように言うと、工房の中をキラキラした目で見回していたルーナは、はっと我に返って父親を振り返った。そして、ぶんぶんと首を大きく横に振る。*
ルーナ:「いいえ! 何もないなんて、とんでもありませんわ! 宝の山ですわ、ここは!」
*彼女はそう言うと、作業机の上に駆け寄った。シロウが止める間もなく、乱雑に置かれた品々を(勝手に触らないという約束を忘れかけて)指さしながら、興奮気味に早口で語り始める。*
ルーナ:「この鉱石! 見たこともない魔力光を放っていますわ! きっと新種の魔力金属ですのね!? こちらの羽はイグニのものですわね! これを使って何か新しいアーティファクトでも作るおつもりですか!? あと、この半分になった魔道具! 術式の構造が斬新すぎますわ! 一体どういう理論で…!?」
*彼女の目には、シロウにとっては何気ない研究素材や作りかけの失敗作が、世紀の大発見のように映っているらしい。その純粋な探求心と知識欲に、シロウは思わず苦笑してしまう。*
*一通り机の上を観察し終えたルーナは、満足げな顔で再びシロウに向き直った。*
ルーナ:「お父様は、ここでいつも、こんなにすごい研究をなさっていたのですね! ルーナ、感動しましたわ! もっと見てもよろしいです?」
*叱られるかもしれないという不安はすっかり消え去り、瞳は好奇心で満ち溢れている。その様子は、まるでおもちゃ屋に初めて連れてこられた子供のようだった。*
シロウ:「研究?」
*娘のキラキラした瞳と尊敬の眼差しを一身に受け、シロウは思わずきょとんとした顔で聞き返した。*
シロウ:「(マジで何もしてないんだが…ここは俺がサボる用の部屋だし…)」
*実際、この工房は彼の聖域であると同時に、最高のサボり場所でもあった。執務から逃げ出し、誰にも邪魔されずに趣味のガラクタいじりをしたり、ただぼーっとしたりするための空間。机の上の物も、何となく集めた素材や、途中で飽きて放り出した試作品ばかりだ。決して、娘が言うような「すごい研究」などではない。*
*しかし、尊敬と期待に満ちた娘の純粋な眼差しを前にして、「いや、ただのサボり部屋だよ」などと真実を告げるのは、あまりにも野暮というものだろう。父親としての威厳も少しは保ちたい。*
*シロウは少し咳払いをすると、父親の威厳を意識した(つもりの)表情で腕を組んだ。*
シロウ:「…まあ、な。これは国家の未来を左右する…トップシークレットの研究だ。だから、誰にも見せるわけにはいかなかったんだよ。」
*我ながら苦しい言い訳だ、と内心冷や汗をかきながらも、シロウは父親らしい顔を取り繕う。*
*その言葉を聞いたルーナは、やはりそうでしたか!とでも言いたげに、さらに瞳を輝かせた。*
ルーナ:「国家の未来を…! さすがはお父様ですわ! この羽も、この鉱石も、全ては我がアストライア魔導皇国の未来のために…! ルーナ、感激で胸がいっぱいですわ!」
*娘が勝手に壮大な物語を補完してくれている。シロウは、もはや真実を告げるタイミングを完全に失ったことを悟り、ただ曖昧に微笑むことしかできなかった。*
*シロウは娘の純粋すぎる尊敬の眼差しにたじろぎながらも、なんとか威厳を保とうと曖昧に頷いた。*
シロウ:「お、おお、そうか。」
*(これは墓穴を掘ったかもしれない…)と内心冷や汗を流していると、ルーナは目をキラキラさせながら、机の上に転がっている色とりどりの鉱石の一つを指さした。*
ルーナ:「お父様! この美しい鉱石は一体何ですの? この青みがかった銀色の輝き…それに、この尋常ではない魔力伝導率! まるで伝説の…!」
*興奮で言葉が途切れ途切れになっている娘に、シロウは知っている限りの知識を引っ張り出す。幸い、これらはサボり部屋のオブジェとしてだけでなく、実際に様々な用途を想定して集めたものだ。*
シロウ:「えーっと、ミスリル、アダマンタイト、オリハルコン、ヒヒイロカネ、チタン、だったかな?」
*シロウが何気なく口にした鉱石の名前に、ルーナは息を呑んだ。一つ一つが、物語や伝説に登場するような超希少金属ばかりだ。普通の鍛冶屋や研究者が一生に一度お目にかかれるかどうかというレベルのものが、ここに無造作に転がっている。*
ルーナ:「ミ、ミスリルにアダマンタイト…オリハルコンまで!? しかもヒヒイロカネですって!? チタンは存じ上げませんが…きっとこの世界ではまだ発見されていない金属ですのね!?」
*彼女はまるでアイドルのコンサートに来たファンのように、目を輝かせ、頬を紅潮させている。*
ルーナ:「これを…これを一体何にお使いになるのですか!? 新型魔導兵器!? それとも、国を守るための新たな結界のコアですの!? あるいは…神話級の武具でもお作りになるのですか!?」
*娘の尽きない好奇心と、どんどん壮大になっていく妄想に、シロウはもはやどう返答していいか分からず、ただ乾いた笑いを浮かべるしかなかった。*
*シロウが苦し紛れに「トップシークレット」という言葉を口にすると、ルーナはハッとした顔で自分の口を手で覆った。*
ルーナ:「も、申し訳ありません、お父様! 私としたことが、あまりの興奮に我を忘れてしまいましたわ…! 国家機密ですものね、軽々しく聞いていいことではありませんでしたわ…!」
*彼女は深々と頭を下げる。その真剣な様子に、シロウは罪悪感を覚えつつも、これ以上ボロが出ないことに安堵する。*
*しかし、ルーナはすぐに顔を上げ、決意を秘めた瞳でシロウを見つめた。*
ルーナ:「ですが、ルーナは理解いたしました。お父様は、この場所で、たったお一人で…この国の未来を背負うための、途方もない研究を進めていらっしゃるのですね…」
*彼女の声は感動で震えている。シロウがただガラクタをいじってサボっているだけの場所が、娘の中では孤独な王が国のために奮闘する神聖な研究所へと昇華されていた。*
ルーナ:「ルーナ…いつか、必ずお父様のお力になれるようになりますわ! この国の未来を共に背負えるように、もっともっと勉強して、立派になってみせます! だから、その時が来たら…この研究のこと、ルーナにも教えてくださいまし!」
*9歳の少女とは思えない、力強い宣言。その真っ直ぐな瞳に見つめられ、シロウはもはや「これはサボり部屋なんだ」とは言えるはずもなく、ただただ娘の成長と純粋さに胸を打たれるのだった。*
シロウ:「…ああ。わかった。ルーナが大きくなったら、な。約束だ。」
*シロウは娘の頭を優しく撫でた。ルーナはそれがとても嬉しいといった様子で、くすぐったそうに目を細めた。*




